X[. アンドロジヌスの気紛れに
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Case.5  常緑のリベルテ



深緑の重厚な装丁の本は、さっきからずっと僕の手の中に収まっていて、ほんのり温かくなっていた。カヲル君は今日からまた仕事でいない。朝はかなり早く出るから君は寝ていて、と言われて僕らは夜のうちに、また明後日ね、と言い合い情熱的な別れのキスを済ませていた。そしていつもの時間に目を覚ますとやっぱり僕の隣はもぬけの殻だった。部屋を昨日よりも広く感じて寂しく思って枕を抱き締めたら、固い物が指に当たる。見てみるとそこには一冊の綺麗な本と、一枚の小さな手紙。

『この本は僕の気持ちだ。読み終わったら、君の言葉が欲しい。』

ドイツ育ちが嘘のような達筆に舌を巻いたが、そういえば君は遠い昔から達筆だった。

放課後、僕は図書室に向かった。誰も居ない部屋はカヲル君を想って寂しくなりそうだから、最終下校の時間までカヲル君から借りた本を読もうと思った。ぺらっと本の中身を確認したら詩集だったから、カヲル君が帰ってくるまでに感想を語れるまでみっちり読んで、僕がカヲル君へ貸す本も決めて渡したいと思っていた。僕はあまり詩集は読まないけど、詩には詩で答えたい気がして色々頭を悩ませていた。なんせカヲル君は読書家なのに、もうカヲル君が読んだ物は貸せないと思うとすごい難題だった。

「碇先輩!」

僕は聞き慣れない声に振り向いた。もうすぐ図書室に繋がる廊下には下級生の女の子がひとり、僕に向かってはにかんでいる。

ー誰だろう?

「この前は手伝ってもらってありがとうございました!」

「ああ、あの時の…!」

ひと月前くらいに図書室に遅くまで残っていたら、図書委員の女の子が返却用の本の数本の柱を倒してしまって、無数に散らばった本に半べそをかいていたから一緒に拾ってあげたのだ。今日はついてない、好きな人にフラれた、と初対面の僕に構わずに愚痴っていた面白い子だった。いかにもクラスの人気者みたいな明るい雰囲気で気さくでいて笑顔の似合う感じは僕のクラスにもいてほしかったな、と思った。目の前で揺れる肩上の黒髪はその時は長めのポニーテールだった。

「ずっと先輩に会いたかったんですよ〜。えへへ。全然図書室に来てくれなくなっちゃって。渚先輩のせいですね!」

「え…!」

図星だった。僕はカヲル君が転校して来るまではずっと、静かで密かな雰囲気が好きでよく図書室に出入りしていた。

「この前先輩を見に先輩の教室まで行ったら、渚先輩に恋人宣言されて抱き締められてていや〜んな感じで驚きましたよ。私の周りじゃベストカップル賞の呼び名が高いですよ!」

「べ、ベストカップル賞って…!」

僕は親しみやすさを超えた勇者のような対人スキルにたじたじになってしまう。

「ふふ。まあ、そんなことはこの私がさせませんよ〜だ。」

そうおちゃらけながら、彼女はポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。

「先輩のせいでしわしわになっちゃったじゃないですか。どうしてくれるんですか〜。もう。」

「し、知らないよ、そんなの!」

「ふふ、先輩はやっぱりかわいいですね!」

僕は男なのになんでいつもこう女性向けの形容をされてしまうんだろう…

「ハイ、コレ!受け取ってください。」

両手で差し出されたその薄い水色の紙は封筒で、女の子らしい紫のミルキータイプのカラーペンで、碇先輩へ、とかわいい丸字で書かれていた。

「…ありがとう。」

「きゃ〜!渡しちゃった〜!どうしよう!あ、先輩明日土曜日ですね?土日ですね?あの、そこに明日って書いちゃったんですけど、月曜の間違いなんで訂正お願いします!月曜に待ってますね!それまでごきげんよう!」

嵐のように捲し立ててそのままのテンションで、彼女は駆け足でどっかへ行ってしまった。僕はそれが半分は緊張から来るものとわかっていた。読まなくてもわかる。僕はラブレターをもらってしまったようだ。

僕は図書室の隅を陣取って、シールを破けないように剥がしてから数枚の手紙を読んだ。内容は、出会ったあの日から遠巻きに僕を見ていたらいつの間にか僕を好きになってしまったけれど、アスカと付き合ってると思って諦めかけていた、だけどこの前の恋人宣言の騒動でそうじゃないと知って思いきって想いを伝えようと思った、というものだった。P.S.の後に、渚先輩派が多いけど自分は断然碇先輩派だ、とも書かれていた。

ー渚先輩派と碇先輩派って、何?

僕はその自分の周りにない若々しい感覚に何だか自分が急に歳をとった気分になった。一応十四歳なのに。


ひとつ溜め息を吐いてからカヲル君の貸してくれた本を開くと、本の独特の香りがふわっと広がる。ページの角を撫でると何度もめくったような触り心地に彼が読書に耽る姿を想像して胸がきゅんとなった。僕の頭の中ではカヲル君は、ドイツの古めかしいゴシック調の部屋の窓辺の際に座り、立て膝をついて俯き加減で本のページを捲りながら銀髪を爽やかな風に靡かせていた。

ポール・エリュアールの瑞々しい愛と自由の詩が、まるで君が囁いて読み聞かせてくれているように優しく胸に染み込んで、気がついたら君の瞳のような茜色の夕陽が傾いた最終下校の時間だった。




ーーーーー…

「そこにいたのか…!シンジ君!」

月曜日の放課後のラブレターが記したある裏びれた木陰に、僕が告白を受けている真っ最中に、その台詞が響き渡った。体育館裏の木立に囲まれた秘密めいたこの場所は定番の告白スポットだった。

「君がちゃんと場所を教えてくれないから…」

彼には珍しく汗をかいて頬を桜色に染めていて、ずっと長い間全速力で駆けて来たんだとわかった。

「カ、カヲル君!何してるのさ!」

「何って君を探してたんだ!」

カヲル君は不機嫌な声だった。

「ちょっと渚先輩、邪魔しないでくださいよお…」

勇気を出してした告白を途中で折られてしまい、困惑した彼女が半べそをかいて弱々しく言った。

「こういう時は僕だって言う権利があるだろう?」

カヲル君は彼女を鮮やかに無視して僕だけを見て語気を強めた。

「だって、これは僕と彼女のやり取りじゃないか!」

僕も事態に焦ってつい大声を上げてしまう。

「それは僕にも関わりのある事だ!」

「なんでそうなるんだよ!」

「僕が君の恋人だからだ!」

僕はその発言にガラスが割れるようにして感情の抑止が切れた。怒りでわなわな震えてしまう。

「君はどうしていつもそうなのさ!言わない約束なのにそうやってすぐに言いふらして!」

「何故君は一方的にふたりの事を内緒にしたいと押し付けて、僕の気持ちをないがしろにするんだ!」

「君の気持ちって何だよ!」

「僕は君と堂々と恋人として過ごしたい!嘘偽りなく人目を憚らずに堂々と君を愛したいんだ!」

強烈な科白に僕の頭はショートして、返す言葉が見つからなかった。君はとても辛そうに顔を歪めている。

「どうして悪い事をしている訳じゃないのに、こうもひた隠しにしなくてはならないんだ!今だって僕達が堂々としていれば、こんな悲劇は防げた筈だ!君は人を傷付けている。君に好意を寄せている人達を傷付けている…」

カヲル君は萎れるように声を落とした。再会してからの君は、僕に嫌われることにひどく怯えているみたいだった。そして最近の君はとても抑圧されていて哀しみが溢れそうになりながら、苦しみに張り詰めている。僕へも他者へも吐き出せない想いに君はとても苦しんでいる。


そうだ。君はかつて自由意志を司る天使だった。その翼は、未だに自由を求めて宙を掻く。僕はその真っ白な羽根を折るようにして君を抱き締めているんだ。


場は静まり返っていた。三人とも途方に暮れていた。彼女はきっと混乱している。彼女にとってカヲル君と僕という組み合わせは論外だっただろうから。

「あの…」

僕は彼女に声を掛けた。そして、からからになった喉を唾をひと呑みしてどうにか潤して、浮いたような体をどうにか踏ん張って、掌を強く握り締める。

「僕は…僕は、冗談じゃなくて…本当にカヲル君と付き合ってるんだ。カヲル君が好きなんだ。だから、君の気持ちには答えられない。ごめんなさい…」

「……そう、だったんですか…」

彼女は眉を下げた泣きそうな顔をどうにか引っ張って笑みを浮かべた。

「私報われない恋ばかり。碇先輩と出会った日も、好きな人に彼女が居たんです。しかも、私の友達だった。」

彼女は冗談めかしく、えへ、と舌を出した。

「私、ふたりの事を聞いて、ジョークだと思ってました。でも、それってとても失礼でしたよね。ごめんなさい。」

「そ、そんな、仕方ないよ…」

「碇先輩みたいな優しい彼氏がほしかった。渚先輩がうらやましい。」

「君の言う通りシンジ君は最高の彼氏だから、君には譲れない…すまないね。」

「…はい。わかりました。おふたりとも、お幸せに…」

そう言って彼女は去った。背中が小さく泣いていた。

僕は言ってしまった。ついに、言ってしまった。僕は明日からのことを考えると気が遠くなってきたけれど、とりあえず修羅場を脱して力が抜けたように深い溜め息を吐いた。

「シンジ君…」

肩越しに声がして、振り返るとそこにはさっきと打って変わって満たされた柔らかい笑みを浮かべた君がいた。

「ありがとう。」

あんまり綺麗に笑ってそう言われると、僕は参ってしまう。

「僕の方こそ…ごめん。君の気持ちを考えなかった。」

「それはお互い様さ。僕も我慢出来ずに此処まで来てしまったからね。」

「どうしてここがわかったの?」

「探し回ってる僕にセカンドが、定番、を教えたのさ。利害が一致したからね。」

思い返したように君がふふっと笑った。

「彼女、泣いてたね…」

「なかなか見る目のある子だった。器量もいいし、話を聞く分だとすぐにでも次の人が見つかるだろう。」

「もう、カヲル君は…それじゃ僕にも失礼じゃないか。」

「そんなことはないさ。それよりも、ねえ、シンジ君…」

君が擦り寄るように近づいてきたから、僕は思わず重心を後ろに傾け、ふたりの間を取るために君の胸に手を添えた。

「さっきはとても、格好良かったよ。」

「か、かっこいい?」

「そう、格好良かった…」

君に初めて男性向けの形容をされて、僕は体中がのぼせてたじたじになった。じりじり距離を詰める君にもつい甘くなってしまう。

「だ、だめだよ…誰かに見られちゃう…」

「僕は今すぐ君の唇にキスがしたい。でも君は学校ではそれは嫌。だから、ふたりの間を取って、こうしよう。」

君の顔がキスするみたいに近づいてきたから僕はぎゅっと瞳を閉じた。すると緊張した唇には何も触れずに代わりに僕の鼻を何かがくすぐる。薄目を開けて確かめると、君の鼻が僕のそれに触れていて、互いの鼻梁を左右に擦り合わせていた。僕が驚いて瞳を開けると、ずっと僕を見ていたらしい君の赤とかち合った。

甘くてくすぐったい動物のようなキスが終わりを告げると、目の前には動物のような本能を包み隠さずに、瞳を煌々と揺らす僕の恋人が、意味ありげに微笑んでいた。僕に深緑の美しい本を贈った人とは別人だ、絶対に。


「物足りなかったかい?」



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