僕は雨が好きだ。
周りの人は、何故、と言う。
晴れの方が気持ちいいじゃないかって。
僕は違う。むしろ逆だ。
朝目覚めて雨音がすると安心する。
僕は休んでいいんだって。
揺りかごのように優しい鈍色の世界。
晴れの日が僕の背中を無理やりに押して、
ぼろぼろになってしまった小さな心を
雨の日はそれでもいいんだと、
囁くように包み込んでくれる。
だから、僕は雨が好きだ。
この話をすると彼は笑ってくれたんだ。君の感性が好きだって。そんな人は初めてだった。僕はその科白にどれだけ救われただろう。その言葉を思い出すと僕の胸には一輪の花が咲く。慎ましい銀色の花弁。あの日綻んだ紅い瞳はリキュールに漬けたさくらんぼみたいに、僕には特別で、愛おしかった。
僕はあれからずっと君を待っている。君の好きなベリーのタルトを作りながら。
ユートピアに降る雨
「ユートピアって本当にあるのかな。どんな所をそう呼ぶんだろう。」
「それは皮肉かい?ユートピアなんて無いのだから。」
「皮肉を言ったのは君だろう。僕は無いなんて言ってないじゃないか。」
ユートピアはね、何処にも無い場所という意味なんだよ
彼はそう言ってちょっと困ったように笑った。
「聞かなきゃ良かった。寂しい気持ちになったじゃないか。」
「ごめんよ。雨の好きな君だから、何処にも無い場所に憧れているのかと思ったのさ。」
「どういう意味?」
「無いから願う、在って欲しいと。けれど無いからこそ、それはいつまでも理想郷でいられる。現実に汚される事が無いのだから。現実に於いては全てが夢のなり損ないだからね。」
「僕はそんな哲学は持っていないよ。無いから願うんじゃない、在って欲しいから願うんだ。だからユートピアが実在していても僕は嬉しい。そしてそこで暮らしたいと思う。」
「何故だい?」
「だって僕はまだこの世界にしっくりきていないんだ。醒めない夢を見つけたい。その夢にこの世界の全てを壊してほしいんだ。僕も一緒に。」
「君はとんだ夢追い人だね。このタルトの隠し味がわかったよ。」
「君こそとんだ耽美派だね、全く。」
僕らは今日も小さなカフェで言葉遊びに興じていた。小さなカフェ、それは僕の造った秘密の箱庭だ。
廃れた路地裏の一角の蔦で覆われたレンガ塀の中にそこはあった。一見廃墟のような外観を通り抜ければ案外小ざっぱりと陽だまりを集めたテラスと、硝子戸を挟んで繋がった築何十年かも怪しい建物がある。世界を捨てたようなアンニュイな佇まいは僕の嗜好。退廃の美学とでも言っておこう。
僕は世捨て人ではないけれど、優しいとはとても言えないこの世界が嫌いだった。この世界では様々な悲哀が暗躍している。だから僕みたいに斜めから世界を見据える事を覚えないと、誰だって心を壊す。そう、僕の幼馴染みのアスカみたいに。
アスカは僕と同類で繊細だったけれど、僕よりもずっと不器用だったんだ。僕は雨を見つける事が出来た。彼女はそれを見つけられなかった。人生が止め処なく混沌としたレトリックだったとして、雨は句読点なんだ。句読点が文章に無いと意味が分からなくなってしまう。
僕にはもうひとつ晴れの日に通う避難場所があった。物静かなカフェだ。カフェは雨が留守の時の僕の句読点だった。
だから僕はアスカが入院した日からぼんやりとカフェをやろうと心に決めた。僕が誰かの句読点になれるように。晴れの日でも雨を降らせられるように。
そこにひょろりと現れたのが、後にユートピアの意味を教えてくれたカヲル君だ。カヲル君は物書きらしい。物書きは鼻が効くのか。よくこんな隠れ家を人伝なしに嗅ぎ分けてやって来れたもんだと、初めてその姿を見た日には痛く感心してしまった。
「よく此処がわかりましたね。」
「いつの間にか君に誘い込まれていたのさ。君は天の邪鬼だね。こんな素敵な箱庭を造りながら、それを日常に紛れて隠してしまうなんて。」
僕はこのやり取りで、魂の片割れがやってきたような奇妙な眩暈に襲われた。僕の胸にしまわれた台本を彼が手にとって読んでいるかのようだったから。
「此処のオススメは何かな?」
「僕はベリーのタルトが君に似合っていると思う。」
じゃあそれと紅茶を、と彼は言ったので僕はそれを用意した。僕がトレイでそれらを運ぶ頃にはくたりと白い手に馴染んだ一冊の本が広げられていた。
「美味しそうだ。君が作っているのかい?」
「はい。茶葉も一応ブレンドしてます。」
「この可愛らしいタルトの何処らへんが僕に似合っているんだい?」
「タルトのベリーが君の瞳の色、クリームが君の肌の色だから。」
「驚いた。至極単純だ。君は素敵な感受性の持ち主だね。」
「…君もとても不思議な人だよね。宙に浮いてるみたいにこの世界の出来事らしくない。」
「僕はカヲルだよ。君の名は?」
「…シンジ、です。」
「シンジ君…いただきます。」
そう言うと、彼は器用にフォークでタルトを一切れ三角に切り取り、口に運んだ。
「…美味しい。」
彼があんまり幸せそうに食してくれるから、僕はいつまでもその姿を見つめていた。それは恋人がそうするかのように自然で、僕はまるでずっと昔からそうしていたような気がしていた。その間も僕らは言葉をぽろぽろと零して紡いでゆく。それはまるで神様のつけるネックレスみたいに長く長く、決して途切れなかった。
「僕は今日、久々に息をする事が出来たよ。ありがとう。」
「今まで息をしていなかったの?」
「ああ、そんなところさ。」
「そういえば幽霊みたいに真っ白じゃないか。」
「怖いかい?」
「幽霊よりも人間の方が僕は怖いから、むしろ親近感が湧くよ。」
「本当に面白い人だ、シンジ君は。」
そう言って僕の頬を撫でた指先は冷たかった。一瞬本当に幽霊なんじゃないかと思って僕は笑った。
「君、本当は幽霊なんじゃないの?」
「まさか。僕は末端冷え症のしがない物書きさ。」
「ふふ。物書きって本を書く作家さん?」
「その端くれさ。さっきまでは違ったけれど。」
「どういうこと?」
「もう辞めようと思っていたのさ。君に巡り合うまでは。」
「じゃあ、僕は役に立ったんだね。」
「そう。君と居ると僕の頭の中に言葉の雨が降ってくるよ。とても心地が良い。」
雨、僕はこの言葉を聞いた時、ちょっとした運命を感じた。物語が始まるのが今なんだと、そう予感がした。
「それでは、ご馳走様。美味しかったよ。また来るね。」
「はい、また来てくださいね。待ってます。」
「言葉を書き留めたらきっとすぐに君に会いに来るよ。文章には句読点が必要だからね。」
「え?」
「言葉の雨が降るのなら、点や丸で中休みをしなければ。君のベリーのタルトの事だよ。それでは、またね。」
そう言って、彼は重い扉を押して立ち去った。僕はその後ろ姿を立ち尽くすままに見送った。君の云う美辞麗句は僕の胸に如雨露で水を差したのだ。僕の永年温めていた種がたった今、ずっと聞いてみたかった言霊をもらってとくんとくんの芽吹くのを、僕は感じていたのだった。
彼は僕の秘めた願い通りに次の日にもやって来た。そして次の日も、また次の日も。休みを持たないこのカフェに毎日足繁く通ってくれたのだった。
僕はこのカフェの二階に住んでいた。此処は友人の加持さんに貰い受けた場所だった。それまでは彼の秘密の隠れ家だったこの家は、あまり手を加えずとも、あのだらしのない無精髭宜しく親しみのある快い空間だった。僕はこの、時を忘れたまま取り残されたような佇まいを一目で気に入り今に至る。ここに移り住んだのは一年前の秋のことだった。
「君は素敵な拾い物をしたんだね。羨ましいよ。」
「加持さんって欲のない人なんだ。吟遊詩人みたいに颯爽と旅に出ちゃってね。」
「旅か。行き先は知ってるのかい?」
「ううん。気ままな人だから、特に目的地はないらしい。まだ知らない世界を見に行ったんだ。安住の地を探すらしいよ。」
「安住の地…」
「そう。きっと何処かに自分の居場所があるはずだってこの前届いた絵葉書に書いてあったんだ。まだまだ旅の途中みたい。」
「君は安住の地なんてあると思うかい?」
カヲル君は急に真摯な瞳で僕を見据えたから、僕は胸の中にある想いの断片を丁寧に掬ってみなければならなかった。
「…僕は、安住の地はあると思う。でもそこはただの場所じゃなくて、もっと広い意味で、そう思うんだ。」
「例えば?」
「例えば、過去の記憶とか、誰かに抱かれる腕の中とか、物語の世界だとか、そんな手の届かなかったり自分の物にはならないものでもいいと思うんだ。」
カヲル君はぱちりと長い睫毛を瞬かせて僕を眺めていた。その瞳は僕の中に広がる心象風景の先まで見ようとしているようだった。
「…例えば、僕の安住の地が、君の中にあるかもしれない、と云うわけだ。」
僕はその科白の曖昧な響きをどう噛み砕けばいいかわからずに、息も忘れてただその血潮の瞳を見つめていた。
「…少し言葉が過ぎたようだ。僕はこの辺で失礼するよ…ご馳走様。」
彼は何時もの決まった枚数の硬貨をテーブルに置き、逃げるように箱庭の外へと行ってしまった。僕はその後ずっと考えた。あの瞳は紅玉だったか、石榴石だったか。あの瞳は何から出来ていたのだろうか。
それから数日の後に彼は現れたのだ。元々線の細い身体は、更にやつれて心許なく広い襟口に鎖骨を浮き彫りにさせてしまっていた。
「具合が悪かったんですか?」
「…まあ、そんなところさ。ところでシンジ君…」
「はい?」
「僕らは知り合って三ヶ月は経つだろう。そろそろ敬語はやめてほしい。とても寂しいじゃないか。」
カヲル君は春の木漏れ日のような物腰が秋晴れの様へと変わっていた。僕らの間にある季節が移ろいだんだと感じた。
「…うん、わかったよ。でもね、僕、一応お客様だからそうしていただけで、カヲル君とはとても近しいって出逢った頃から思っていたんだよ。」
そう言うと目の前にある美貌を湛えた純白の顔はとても幸せそうに笑ったのだった。僕は初めて誰かの笑顔を見て胸が苦しくなることを覚えた。この数日の空白が僕の中に芽吹いた何かを育んでいたみたいだった。彼が居ないと寂しい。彼が居ないと空っぽだ。それは何故だろう。僕はこの日からその感情を意識するようになったのだった。
「僕はね、とても冷たい人間なんだ。」
カヲル君はいつものその彼の色をしたタルトを丁寧に口に運びながら、そう話を続けた。
「末端冷え症のことじゃなくて?」
「ふふ。きっとその冷え症も元を辿れば同じなのかもしれないね。」
「カヲル君の言葉は謎掛けみたいだ。」
「ごめんよ。僕が言いたかったのはね…」
彼は勿体ぶるように神経質に瞬きをしてひと口だけセイロンティを口に含んだ。そして朗らかな笑顔でこう続けたのだ。
「僕は、この世界にもはや何も期待していなくて、この箱庭に迷い込んだ日に、まさに死のうとしていたのさ。」
彼が言うにはこういう事だ。彼は昔から人や物に愛着が持てずに、本ばかり読んでいた。そしてそのまま物書きになり静かに生きていこうとしたけれど、ある日それも嫌になった。彼は何ヶ月も言葉ひとつ思いつかずに、あの日ふと思ったそうだ。最後にカフェで紅茶でも飲んでから死んでしまおう、と。けれど僕に出逢ってベリーのタルトを食べていたら不思議なくらいに言葉が溢れてしまって、死にきれなかったのだ。だからこうして今も生きて、言葉を書いているらしい。
「…僕はね、シンジ君。毎日不思議で堪らないんだ。どうして君と居ると言葉の雨が降ってくるのか、どうして生きようと思うのか、どうして僕は笑っているのか。」
「カヲル君は笑わなかったの?」
「そうだよ。ちっとも笑わなかった。何もかもが楽しくなかったからね。それなのに…どうしてだろうね。」
僕は驚いた。彼は出逢った時から笑っていた。絶えずずっと優しく笑っていた。だから僕は彼はいつもそうなんだろうと思っていた。彼は笑顔を絶やさない人柄なんだって。
「…僕、知らなかった。カヲル君、いつも楽しそうに笑っていたから。」
彼はまた、どうしてだろうね、と呟いてふと、僕の手の甲に彼の掌を重ねた。するとその指先は人らしくほんのり温かくて、何故かそれが僕にはとても衝撃だった。
「…このタルトは甘い毒蜜入りなのかな。雨が嵐に変わる前に立ち去るとするよ。ご馳走様。」
彼はするりと手を離して、用意していた小銭を放ってそそくさと出て行ってしまった。僕はその突風のような心変わりに呆気に取られてふたりで座っていたソファに身を沈めていた。そして硝子戸の先を見やる。
「雨どころか、晴れているじゃないか、カヲル君。」
僕らはその頃互いに混乱していたんだ。ふたりして厭世の中で溺れて生きていたというのにある日突然その先に水面と太陽が待ち受けているのを知ってしまった。僕らはその先へ無意識に藻掻きながら泳いでいたけれど目の前の水面が眩し過ぎて怯んでしまっていたんだ。水の外に出るのが怖かったんだ。
そして、僕らはあの雨の日を迎える。それはユートピアについて話した数日後の事だった。
僕らは話の流れで早めにカフェを閉めてから、散歩へと出掛けた。僕はやつれたカヲル君にタルトばかりじゃなくて、しっかりと栄養の摂れるご飯を作ってあげたかった。聞くところによると彼は菜食主義者だから、近所の八百屋で買い出しをして、またカフェに戻ってふたりで夕飯を食べようと思っていた。彼にその趣旨を伝えると彼は言ったのだ。
「そんな事までしてもらったら、僕はあの箱庭にきっと居着いてしまうよ。僕にとって彼処はユートピアのようなものだからね。」
「じゃあ、もし君が僕と暮らしたら、あの場所はユートピアでは無くなってしまうの?」
カヲル君の面は思い悩んだように深い翳りを差した。
「…分からない。それがずっと分からないんだ。ユートピアは実在しない筈なのだから。」
「でも、あのカフェは実在しているじゃないか。君も、僕も。」
「何時だって夢は醒めてしまうんだ。触れたら消えてしまう、泡のように。」
「醒めない夢があったっていいじゃないか!君が醒めない夢になって、僕のこの世界を、この世界の方程式を全部壊してしまったって構わないじゃないか!」
僕は何故かそう叫んでしまっていた。廃れて誰もいない商店街の真ん中で。今日は商店街は定休日らしい。そんなことまで僕の秘めた細やかな夢を嘲笑っているみたいで只管悔しかった。
「…シンジ君……」
僕は俯いた。カヲル君の顔を見たら泣いてしまうと思ったから。僕は何をしているんだ。彼の言う通りだ。多くを望むとアスカのようになってしまう。この世界への純真な想いや見果てぬ夢は捨てなければいけないんだ。この不条理な世の中では、どうにかして両手に納まる物だけ持ってひとりで歩いていかなければならないんだ。幸せは拾う物であって、手を伸ばしてはいけないんだ。いけなかったんだ。
その時僕の頬を水滴が掠めた。ぽつりぽつりとアスファルトが染みをつくる。何時の間にか空は明るい鈍色になっていて、その打音は幾重にも重なって、気がつけば僕らは通り雨の中にいた。僕は空を見上げた。僕の代わりに泣いてくれた涙雨に感謝を込めて、小さく微笑んだ。
よかった。これでようやく僕は泣いてもいいんだ。
僕は身体の力を抜いて泣こうとした。それなのに、僕は次の瞬間、カヲル君の腕の中にいた。普段の彼からは全く想像のつかない激しさで思いきり僕を掻き抱いて、僕らは濡れた体を隙間なく摺り寄せていた。その力はほんの一瞬緩んで、僕らは互いに瞳を交わす。その熱情に咲いた血の紅を見て、僕の夜の碧が見開かれた時、僕らはふたりして、溺れた。
君は僕にキスをくれた。雨の中、溺れ合うように何度も何度も激しく唇を重ねた。僕が息継ぎする間も許さないくらいに、力強く舌を絡ませる。積み上げたレトリックが崩壊して、点も丸も要らなくなってしまったかのような熱い嵐の接吻。
僕は思わず腰が怯んで彼の肩に掴まった。カヲル君の肩は遠くで見るよりも骨ばっていて逞しかった。僕の耳元に彼の息遣いが聞こえる。その悩ましく溢れる音色に僕の身体の芯が疼く。きっと彼もそうなのだろう。彼の僕の項に掴まる指先は力を増して、燃えるように熱かった。
でも、僕は知っていたんだ。止まない雨は無いことを。
通り雨は何時までも降り続いてくれずに、儚く湿った残り香をそのままに、消えてしまった。僕らは唇を離して水面から這い上がったかのように互いに激しく身体に酸素を取り込んでいた。
「……僕は……すまなかった…」
そう言うと斑に晴れた空の下に僕を残して、彼は走り去った。僕はうっすらまだ酸素が足りない身体でその後ろ姿を見送った。少し腫れた唇を舌先で舐めてみると、より一層あの味がするのだ。甘酸っぱい小果実の味が。
僕は眠れないまま次の日の朝を迎えた。そして眠気まなこで庭の植物に水をやっていると、ポストからはみ出ている封筒を見つけた。嫌な予感がして恐る恐る手を伸ばすと、やっぱり送り主は昨日僕と一緒に雨に溺れていた彼からだった。
碇シンジ様
突然の手紙を許してほしい。
単刀直入に云えば、僕は君の事が好きだ。愛を謳うのに月並みですまない。けれど、今の僕はそれ程に混乱しているのだ。
君に出逢うまで、僕は幽霊だった。それは僕の言葉にも言えるように心の無いものだった。けれど君と過ごしてから僕の中にも血肉があって、心がある事を知ってしまった。
僕の世界は変わった。君が変えたんだ。君は僕の世界を壊してそれまでの僕までをも壊してしまった。君の云う醒めない夢とは、僕にとって君の事なんだ。
だから僕は君の言葉が心から嬉しかった。それに僕が言葉よりも先に行動で君にそれを示してしまった事に今でもとても驚いている。
あの時、君が雨を降らす空を見上げた横顔があまりにも儚くて、僕の前から消えてしまうんじゃないかと思った。だから僕は君が消えてしまわないように抱き締めた。抱き締めるだけの筈が、君に夢中になって口付けてしまっていた。
そうして僕の心を君に知られてしまってから、僕は考えた。僕は君を幸せに出来るだろうか。ユートピアを信じきれない僕は、君の醒めない夢で居られるだろうか。
僕は君といつまでも一緒に居たい。それはずっと前から僕が密かに願っていた事だ。けれど、僕はそれだけじゃ嫌になってしまったんだ。
僕は君にとっての雨になりたい。君は僕にいつも居心地の良い居場所をくれた。美味しいタルトと紅茶をくれた。けれど僕は何もあげられなかった。僕には手持ちが何も無いんだ。
だから、僕は旅に出ようと思う。安住の地を探す君の友のように。そして僕は旅をして答えを探そうと思う。君に何時までも雨を降らせてあげられる方法を。止まない雨の降らせ方を。
もしも、僕が答えを見つけて君の箱庭へ帰る頃に君が待っていてくれたのなら、今度こそ僕は君に伝えたい。僕の言葉で君に愛を伝えたい。
渚カヲル
「狡いよ、君は。もう花が咲いてしまったのに。水をあげてくれないなんて。」
君が言葉で毎日僕の胸に水をあげてくれていたから、ぬくぬくと育った芽はもう花を咲かせてしまっていた。君の色の銀色の花弁。美しい、僕だけの花。
僕はそれからずっと待っている。あの原稿用紙を褐色の封筒で包んだ置き手紙をずっと肌身離さずに読み返しながら、僕は今日も君の好きなベリーのタルトを作るんだ。その甘酸っぱいタルトは食してもらいたくてずっと君を待っている。
僕は君の居ない淡々とした日常の中で、けれど以前のそれとは違った時間を過ごしていた。僕は君と生きていく事を夢見て、二階の部屋を一部屋真っ新にした。庭に勿忘草や鈴蘭を植えた。カフェがより誰かの句読点になれるように、新作メニューを考案した。平日のランチの評判は上々だ。チーズケーキもアップルパイも季節のロールケーキも人気だ。けれど、一番人気は君の色をしたベリーのタルト。それだけは変わらなかった。
ねえ、君は今、何処に居るの?
絵葉書もくれずに、何処に居るの?
僕を残して去ってしまって、僕を忘れてしまったの?
僕は昼下がりの誰も居ないテラスへ出た。もう季節は春になる。あれから半年は過ぎてしまっていた。あの頃は、君の居た季節は、夢だったのだろうか。僕は毎日そう思ってはポケットに忍ばせているあの置き手紙に手を伸ばす。そして触れた指先を唇に寄せて、あの日の雨のキスを想うんだ。
「…カヲル君……」
「…シンジ君……」
僕は後ろを振り向いた。そこにはあの日となんら変わらずに微笑む、僕の胸に銀色の花を咲かせた君が立っていた。
「…君が正しかった。ユートピアは実在したみたいだ。」
君は旅から帰ってきた。久しぶりに見た君はひと回り輪郭線を強くしているような気がした。
「僕は、君に言葉の雨を降らせたい。止まない雨を降らせるんだ、この箱庭で。」
「そんな事。ずっと前から君はそうして僕に雨を降らせているもんだから、僕の胸にはたくさんの花がもう咲いてしまっているよ。君の色をした銀色の花が。」
「じゃあ、その銀色のユートピアに僕の言葉の雨を降らそう。そして君はその花の中で僕に微笑みかけてくれ。いつまでも。」
「…おかえり。言葉の雨を降らす人。」
「…ただいま。ユートピアで笑う人。」
この物語には続きがある。
僕らはそれから一緒に暮らした。僕らの箱庭で、僕は菜食主義者の食事とカフェのメニューを作り続けて、彼は言葉の雨を降らせながら物書きをしていた。彼は言葉になろうとして、僕は句読点になろうとして、ふたりはいつまでも寄り添っていた。そして彼が旅の間に書き上げた僕らの物語が店先に並ぶ頃、僕は彼にある秘密を打ち明けたのだった。
「ベリーのタルトの隠し味はね、リキュールに漬けたさくらんぼなんだよ。」
← top →