あの時、私が忘れ物をしなければ…

アスカはつい思ってしまう。そう、私が忘れ物をしなければ…いつもいつもそればかりが頭の中でぐるぐる回る。あの時、私が…




うさぎちゃんとプリンス




「やあ、うさぎちゃん、大丈夫かい?」

ー……プリンス!

それが僕らの出逢いだった。僕はそれまで一度だって心の中でプリンス、なんて叫んだ事はなかった。でもそう叫ばざるを得ない事もあるんだと知った。それくらい彼は美しかった。手を差し伸べる姿はたとえそれが逆光を浴びたシルエットだとしても、息を呑む程優雅で綺麗な映画のワンシーンだった。

僕が何故うさぎちゃんかと言うと、貧乏学生宜しくアルバイトをしていたから。バニーガールじゃない、着ぐるみの方の。薄いピンクの着ぐるみを着て、僕はひたすらティッシュを配る。今日は三回目のはずだった。

でも現在の僕は着ぐるみを着て走っている。初夏のオフィス街を全速力で駆け巡る。原因は幼馴染みの女の子、アスカにある。

ドイツの大学を飛び級で卒業した彼女は今年日本に戻ってきた。一年早い帰国に僕は驚いたけれど、それよりも驚いたのは世界でも有数の大企業に就職を決めていた事だった。

「あんたが頼りないから戻ってきた来てやったのよ。早く生活を安定させなさいよね!」

余計なお世話だと言いたいが、もっともな言葉にぐうの音も出ない。だって僕は今、唯一の家族の父親と仲違いをし、奨学金で大学に居る。もう四年目だ。これから地獄の就職活動。けれども生活費は必要だ。学業も大事だけど、食事も大切。だから僕は今日もティッシュを配る予定。こんな暑い日差しの中で着ぐるみなんて着たがるバカは少ないから、時給が良いんだ。

そんな様子を冷やかしに、アスカは出勤途中に僕に声を掛けに来た。スーツ姿の彼女はかっこ良かったけれど、僕に向ける意地悪な微笑みは昔のままだ。話を聞けば、もう少し先の大きなガラス張りのビルがアスカの職場らしかった。アスカは僕の大学生活への一通りのお節介なセリフを言ってから、颯爽とビルの谷間に消えていった。

なのに暫くして僕の携帯電話が不穏に震える音がしたのだ。

『あ、もしもし?あんた今すぐ私の会社に来なきゃ、多分私、死ぬ。』

仰天した僕は理由を聞いた。その僕の足元にオレンジ色のエコバック。アスカ曰く今日は大事な会議があって、プレゼンテーションの資料が入っているからそれが絶対必要で、それが会社に届かなければ一流企業をクビになるかもしれないらしい。僕は携帯の時計を見た。走ればどうにか間に合うかも。

一流企業としがないバイトを天秤に掛けるまでもなく、僕は走った。うさぎのままに走って走って、全身汗だくになっても走り抜いた。そう後三十分で持ち場に戻らなきゃいけない。今夜こそ、温かいご飯が食べたいから。


ーーーーー…

「やられたよ、全く。」

僕は朝のビル街を歩いていた。正確には逃走していた。

緊急の会議があるから、とそれだけで僕は呼び出され、義理の祖父キールにメールで送り付けられた行き先をハイヤーに告げていざそこに降り立ってみたら、そこには祖父と知らない初老の夫婦と一人の和装した女性。踵を返してそのままコンクリートとガラスの都会の街中に紛れた。

僕はお見合いには興味がない。今年二十三になるが、全くない。結婚も恋愛も一度だって興味が湧かなかった。学生時代は学業と読書をした。つまらない跡を継ぐ会社の経営を学んだ。独りでピアノとヴァイオリンを弾いていた。異性にも他人にも心を動かされずに、孤独を愛した。孤独とはつまり、自由なのだ。

自身を不能なのかもしれないと密かに思う。生殖と僕の人生は交わる事がなかった。それならそれでいい。つまらない人生を、楽で仕方が無い人生を、終わりが来るまで淡々と歩いてゆくだけ。そう、今みたいに。

溜息ひとつ零して、僕はさっきから鳴りっぱなしの携帯電話の電源を切る。行き当たった曲がり角を左に曲がろうと面を上げると、視界はピンク色に染まった。


鈍い音と共に大きなピンクの塊が倒れる。僕に勢いよくぶつかって来たくせに、へたりと地面に仰向けになってしまった。見下ろすと、うさぎの着ぐるみ。うさぎの首がぽろりと転がる。そこには…

黒髪の青年。あどけない表情は痛みで歪んで、口を大きく開けて酸素を吸っている。頬は紅潮して、濡れた前髪が額に張り付いている。震える睫毛が瞬いた。

ドクンーー

生まれて初めての衝動。これは、何だ?

漆黒の瞳が僕を見ていた。今まで見たどの光景よりも美しかった。彼に吸い込まれるようにして世界は止まった。スローモーションのカタルシスの中に僕は堕ちていったのだ。


ーーーーー…

カヲルの差し出した手をシンジは取った。けれど重ねた掌をさっと引っ込める。だって自身はうさぎちゃんだから。着ぐるみは意外と重いのだ。

「ごめんなさい。ぶつかっちゃって。大丈夫です。すみません。」

ゆっくり尻もちをつきながら立ち上がった。埃を叩いてうさぎの生首を拾う。

「こんな可愛らしい服を着て、どうしたんだい?」

「え?あ、ああ!違います。アルバイトなんです。でも、今急いでて…」

シンジは変な勘違いをされたのかと、恥ずかしくて目を逸らした。けれど…そうだ、アスカが死にそうなんだ。そう思って走り出そうとしたら、腕を掴まれた。

「待って。何故急いでるんだい?」

カヲルは自身でも驚く程食い下がった。そんなこと今まで一度もした事がない。

「え?あ、あの、僕、忘れ物を届けに行く途中なんです。失礼します。」

「僕も手伝うよ。ここら辺は得意なんだ。場所を教えてごらん。うさぎちゃん。」

カヲルはどきどきしていた。不自然だろうか。ありったけの自意識を込めて、綺麗な笑顔をつくってみる。シンジはシルバーの光沢のあるスーツを着て銀髪をなびかせるそのすらりとした姿を直視できないでいた。けれど好奇心でちらりと視線を送ると、卒倒しそうな程に輝く笑顔が間近にあって、心臓が止まりかけた。

そうしてふたりはどぎまぎしながら目的地へと急いだ。うさぎの生首は何時の間にかカヲルが運んでいた。カヲルは目的地を知っていた。近道の路地裏を通り抜けて、シンジの予想よりも早く例のオフィスに着いたのだった。

ガラス扉を潜るとそこには壮大なエントランス。シンジはアスカがメールで送ってきた階に行こうとエレベーターに急いだが、勿論警備に止められる。けれども、カヲルがひと言何かを囁くと、いとも簡単に目の前のガードは解かれた。

「ありがとう。君ってすごいね。」

シンジはその時気づくべきだった。何故カヲルがそんな芸当を出来たのか。けれどもシンジは幼馴染みの身を案じて焦っていたし、貧乏生活ゆえに頭に余裕と栄養が足りてなかった。

「カヲルだよ。僕は渚カヲル。君には下の名前で呼んでほしいな。」

シンジが何かを言おうとした時、エレベーターの扉は開いた。

「おーそーいー!」

アスカがエレベーターの前で仁王立ちをして、こちらを睨んで待っていた。

「心臓が止まりそうだったんだから!あんた鈍臭いから間に合わないんじゃないかって。」

「アスカが忘れたんだろう!失礼だなあ!」

そう言ってオレンジの手提げバックを手渡す。

「うさぎちゃん、彼女は君の恋人かい?」

眉を酷く下げたカヲルがシンジを見つめた。

「アスカは幼馴染みだよ。ふふ、うさぎちゃんって。」

ほっとしたカヲルは目を輝かせた。彼の世界は三十分前のそれとは全く変わっていた。けれどもカヲルはそれに気がつかない。彼にとってはあの道端でうさぎちゃんを見つけた時に、生まれて初めて息をしたようなものだったから。

アスカはようやく隣にいる銀色の男に気がついた。オレンジのバックの中身を確認してからそちらを見やる。

「あんた誰……って!プリンス…!?」

「アスカ、知り合いなの?」

シンジは目を見開く彼女のその言葉を聞いて、共通認識の素晴らしさを思った。プリンス、やっぱり誰だって彼に対してそう連想する。

「シンジこそ、知り合いなの?」

「うさぎちゃんはシンジって言うんだね!良い名前だ。なんて素敵な響きなんだ…!」

シンジ君、ぼそりとカヲルが恍惚と呟き出した辺りから、シンジはようやく気がついた。この人、ちょっと、変わってる…

「あんた、どうしてこの変態に気に入られてんのよ…」

「え?か、カヲル君はさっき道で僕がぶつかっちゃって、親切に僕を助けてくれたんだよ。アスカがクビにならないために一緒に頑張ってくれたのに、そんな言い方ないだろ。」

「…もう一度言ってくれないかい?」

「え?」

「僕の名前…」

カヲルの不思議なテンポの会話にシンジはどぎまぎしてしまう。

「…カヲル、くん、」

そしてカヲルが嬉しそうに笑みを深めたのでシンジは眩しくて目が潰れるかと思った。心臓まで飛び跳ねる。

「やあやあ、これは…!渚様!」

中年で眼鏡を掛けた小太りの男が三人の前に立っていた。周りを見たら人集りが出来ている。

「やあ、社長さん。おはよう。」

しゃ、しゃちょう…?!

シンジは仰天した。朝からめちゃくちゃな頭の中を整理する。ここはアスカの職場。世界有数の大企業で、彼が呼ばれた通りなら、きっとこの大企業の社長だ。その人がカヲル君にぺこぺこ会釈している。何故だろう。

「いやはや、驚きましたよ。秘書がたまたま貴方様を見かけましてね。どうなされましたか?こちらの不手際か、渚様の御訪問の理由を分かり兼ねまして…」

「いや、特に用はないよ。彼に付き添っただけさ。」

そう言ってカヲルはシンジのふかふかのピンク色の肩を抱いた。シンジは全注目をその顔に集めてしまい、頬を真っ赤に染め上げている。

「お友達ですかね。お初にお目に掛かりますな。はは。若いとはいいですなあ。」

「そうですね。運命の相手に巡り合う事もありますのでね。では、僕らはこの辺で失礼します。また水曜日にお会いしましょう。」

「は?はい。先日の件、承りましたので、どうぞ宜しくお願い致します。」

「こちらこそ、宜しくお願い致します。では。」

歌うようにそう告げたカヲルにシンジは肩を抱かれたまま、エレベーターに乗った。途中でカヲルを見上げると、ウインクが返ってきて、全身から変な汗が噴き出す。エレベーターが閉まる間際にアスカをちらりと見たら、不思議な顔をしてこちらをじっと見つめていた。

シンジが後で聞いた事には、カヲルはアスカの勤めるネルフを仕切るゼーレという親会社の会長の跡取り、つまり、いずれはトップに立って複数の大企業を束ねる身の上だったのだ。そしてその噂はアスカのような新人社員にも聞こえるくらいに響き渡っていた。

ゼーレの跡継ぎの御曹司は、それはそれは壮絶な程美しく、銀髪に紅い瞳の持ち主で、頭脳明晰、あらゆる才能に秀でていて、冷徹な性格をした、残念なくらいの変態らしい。その名も渚カヲル、通称プリンスーー

そうしてこのうさぎちゃんとプリンスの世にも奇妙な純愛物語は知らず知らずと既に始まっていたのだった。シンジはこの時、まだ何も知らなかったのだ。アスカの心配は見事に外れて、自らが誰もが憧れる永久就職を遂げる事を。うさぎちゃんはプリンセスになる。ウブな童貞と変態の童貞は、三日後には共に暮らし始めるのだ。

だからアスカは後悔している。自分が忘れ物をしなければ、あの幼馴染みの隣には自分が居るはずだったのだと。もしもあの日がやり直せるなら、プレゼンテーションも大企業での生活も要らないから、貧乏学生の彼女になって一緒にティッシュ配りがしたかった。彼女はそう思いながら、今日も浅い眠りにつく。


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