ねえ、
「この子、やるわね…」
葛城ミサトは白旗を上げながらそう呟いた。
ここは第三新東京市にある保育園。ここに勤めだしてから早五年だが、この春からは困った事態を抱えている。
碇シンジくん二歳。両親は共働きで研究者らしく、いつも母親のユイは大変遅くに彼を迎えに来るのだった。そんな状況に慣れないシンジくんは泣いてばかりかと思えば、そんな在り来たりな話ではないのだ。
渚カヲルくん三歳。一見してラファエロの描く天使のような風貌の彼は、キール・ローレンツというザ外国名の祖父がのんびり迎えに来る、不思議な境遇の持ち主。そしてこの子がミサト先生を困らせている張本人だ。
最初は良かった。初めての保育園で立ち尽くすシンジくんの手を握り、
ぼくはきみにあうためにうまれてきたんだね
なんてプロポーズみたいなセリフを言って、シンジくんを手を引きながら自分の教室に連れて行く。その背伸びした彼の姿にミサト先生は胸をキュンとさせたのだった。
けれどもカヲルくんはそんなことは背伸びのうちに入らなかったのだ。
一週間後ーー
ねえ、
ミサト先生はそれを聞いて身構える。
シンジくん
その枕詞のその先を頭の中でユニゾンしてみる。
『きみがすきだよ。』
ふふ、とミサト先生は笑った。毎日毎日よくもまあ囁けるもんだ。シンジくんがうらやましい。
二週間後ーー
「どうしたの?シンジくん!」
お昼寝の時間にシンジくんの泣き声がする。ミサト先生が駆けつけていくと、
「ごめん、シンジくん、いやだったかい?」
「おもいよお…」
シンジくんのタオルケットの中から銀色の髪がもぞもぞ動いた。
「カヲルくん、どうしてここに居るの!」
「なぎさです…シンジくんとおひるねしています。」
カヲルくんはシンジくん以外に下の名前で呼ばれるのを嫌がった。可愛くない。それよりも…
「な、なぎさくんは隣のお部屋でしょう?」
「ぼくはシンジくんのこいびとだから、となりでねます。」
断定形…
「駄目よ。ルールは守りましょう。ほら、行くわよ。」
カヲルくんは禁断の恋人から引き離されるヒーロー宜しく、連行された。
「シンジくん…!」
三週間後ーー今日である。
静かな教室で小さな小さな音がする。ちゅっちゅっちゅっ…何だろう?ふと、ミサト先生は直感したのだ。
シンジくん…!
そして駆けつけてみたら、目の前の光景である。
タオルケットの中で黒髪と銀髪の天使のように可愛らしいふたりの坊やがちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱ唇を啄ばんでいる。嬉しそうなシンジくんの笑顔に、ミサト先生は色々悟った。
そして冒頭の独り言を宙に浮かせて、何も見なかった事にして早々に立ち去る。ああ、今日はなんて平和な日なんだ。そうして先生はひっそりとポケットから携帯を取り出した。
「…で、俺に連絡をくれたわけだ。」
「別にそんなんじゃないわよ、たまたまよ。」
「ふーん。そうかい。」
夜の保育園は静かだ。残りはカヲルくんとシンジくんのお迎えを待つのみ。ふたりはそれはもう隙間なく愛に満ちた空間でいちゃいちゃと小さな手を握り合っている。
「彼がなぎさくんか。なかなかの色男じゃないか。」
「まだ三歳に使うには早すぎる形容よ。」
「でも現に彼の愛に生きる姿を見て、俺に会おうと思ったんだろう?」
「だから、そんなんじゃないってば。」
図星を突かれて頬を染めるかつての恋人に、加持リョウジはニヤリといやらしく笑った。
「後どれ位掛かる?」
「もうそろそろだから、適当に待ってて。」
「じゃあ、噂の恋人達にご挨拶してくるよ。」
「あ、ちょっと!」
加持リョウジが教室に入って行くと、異変に気づいた赤色の瞳が鋭くその姿を射抜く。
「やあ、ふたりとも、元気かい?宜しくやってるみたいだねえ。」
「行ってはだめだ!シンジくん!」
カヲルくんはシンジくんを抱き締めて隠すようにした。加持リョウジをまるで汚らわしいものを見るようにして赤色の瞳は歪みきっている。
「何故駄目なんだい?僕が君の恋人を取るように見えるのかな?」
お姫さまを怪獣から守る王子さまのようなシチュエーションに、加持リョウジの胸は温まる。穢れなき子供達に社会の毒に塗れた心が洗われてゆく。
「あ、あのおじさんのこと?」
おじさん…
あどけないシンジくんのその切ない言の葉は、せっかく洗われた彼の心を、春の夜風に乗せて散り散りに飛ばしてしまった。
「すいません!遅くなりまして!」
碇ユイは息を切らして保育園に入ってきた。隣にはドイツ人の老人もいる。
「うちも遅れまして。」
「碇さんにローレンツさん!お待ちしてました!シンジく〜ん!なぎさく〜ん!お迎えよ〜!」
よし、今日はふたりして早い。ミサト先生は心の中で小躍りした。
「あら、渚さんの御宅ですか?うちの子がお孫さんにお世話になってるみたいで…」
「おお、碇さんですか。うちの孫が御宅の御子息に心底惚れ込んでいて、恐縮です。」
「ふふ。惚れ込んでいるだなんて、男の子同士ですわ。仲良くしていただいて、うちの子もとても笑顔が多くなりましたの。ありがとうございます。」
「いえいえ…」
そんな微笑ましい会話の最中、とぼとぼとカヲルくんとシンジくんはやってきた。ふたりはきつく手を結んでいる。
「…もうかえるの?」
「かあさん…もうきちゃったの?」
あれ、と碇ユイは思う。最近まで仕事が随分忙しかった。迎えはいつも最後の最後だ。今日初めて話に聞いていたカヲルくんを確認したのだ。
「ま〜た始まったか…」
キール・ローレンツのその言葉に浮かぶハテナの記号。碇ユイはまだ何も知らなかった。
「また、なんですか?」
「ええ。毎日ですよ。私が来ると嫌がりまして、ギリギリまでふたりは離れないんです。」
そこで初めて碇ユイは何とも言えない危機感を覚えた。
「シンジ、母さんよ。母さんと一緒に帰りましょう。」
「いやだ!カヲルくんとここにいる!」
「え?」
「シンジくんのおかあさん、ぼくたちはけっこんしてふたりでここにくらします。シンジくんをいままでありがとうございました。」
「はい?」
それに続く息子の、いままでありがとうございました、の言葉に碇ユイは衝撃を受けた。
「…どういうことですか?」
「あの〜、このふたりはとっても仲良しでしてね…まあ、いつものことですから、お気になさらずに。」
ミサト先生は、ユイ母さんを宥めるように眉を下げたが、内心はシンジくんが母親よりもカヲルくんを選んでいた事に驚愕し、妙に心を打たれていたのだ。
加持リョウジは遠くからその全貌を見据えながら思ってしまった。なぎさくんは色男じゃない。責任を持った漢の中の漢なんだ…
それから愛するふたりを引き離すのに大人四人が四苦八苦して、ようやくそれぞれが帰路につく。
碇ユイは息子を放っておきすぎた事を反省し、母親の立場の危機に身を引き締めた。
キール・ローレンツは跡取りの孫が想いを添い遂げようとする場合を考えて、自身の会社で今から同性婚賛成のスローガンを掲げようかと本気で思案し始めた。
そしてミサト先生と加持リョウジのおじさんは、ふたりで大人の街に繰り出す。加持は久々のデートに舞い上がるミサトを横目で見た。美しい横顔。一度もその顔を忘れた事はなかった。
深く溜め息を吐いた後、突然、加持はミサトの肩を優しく掴む。
「何?」
「…俺達やり直そう。そしたらあの時言えなかった言葉を今度こそお前に言いたい。」
それからミサト先生は、カヲルくんがどんな風にシンジくんのお布団に忍び込もうとも、決して邪魔することはなかった。
そうしてシンジくんが卒園する日、ミサト先生の左の薬指には綺麗で慎ましいダイヤの指輪がキラキラと春の陽だまりに揺れていたのだった。
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