確かめ合い学び合い、ふたりは愛を分かち合う。時間も、空間も、心も、身体も、全てふたりで分かち合いたいと祈りながら、彼らはふたりきりの孤独をひっそりと育んでゆく。
けれどそれは成長の痛みを伴って、ふたりを試す。ただ愛されたいと願う心が、時に複雑に、その願いの邪魔をする。そして、肌の温もりとは一番遠い場所に、その心を置いてしまう。
「僕にはもう、君がわからないよ…」
抱擁
そこはかつて古来の植物相を研究する施設だった。植物模様をこしらえた青銅の門は壊れ、その中には繁茂する翠色しか見当たらず、まるで秘密の森の入り口のよう近寄りがたい廃園と化していた。そこにふたりが移り住んだのは壊滅的なコンフォート17で解り合えたあの日から、間もない時分だった。
退廃した第三新東京市ではまだ病院も機能しておらず、ましてや使徒を治療する術があるはずもない。だからシンジはせめて満身創痍なカヲルが療養できる場所を血眼になって探した。誰にも見つからずに彼を守れて食料も確保出来るふたりのサナトリウムを築こうとした。そして偶然迷い込んだのが、この蔦に塗れた硝子張りの廃墟だった。
「もっといる?」
シンジは膝枕の上、細かく刻んだ桃缶のお粥を咀嚼するカヲルをずっと見つめていた。彼が頷くともう一度スプーンを口元へ運ぶ。腕に支えられて身を屈めたカヲルがそれを、音もなく啜る。
「美味しい?」
「うん。」
まるで舞台のように数段高いこの台座に街で集めた毛布を敷き詰め、ふたりのベッドにした。真上の半透明の天蓋は夜は微かな星を映す。きっと埃まみれの天窓を拭けば満天の星を眺められるだろう。
「調子はどう?」
「良くなってきているよ…あともう少し、かな。」
きっともう、カヲルは回復している。痩せこけ青ざめていた彼はもう、澄んだ白肌を纏い麗しい容姿をしている。けれど、シンジに介抱され無条件に甘えられるこの膝枕の特権を失わないために、カヲルは心許ない調子でまた横になる。朝は具合が悪いという風に。シンジの指先を手繰り寄せて、行かないで、と握り締める。
「まだこうしていてくれるかい?」
「いいよ。」
膝枕の上、銀髪を撫でる指は風のよう、とてもやさしい。シンジはカヲルの真意を知っていた。知っていても尚、それが嬉しくて調子を合わせているのだ。
けれど、シンジがカヲルの回復を確信しているのはその肌の色のせいだけじゃない。
カヲルはたまに何処かへと消えてしまうのだ。シンジが家事をしている時を見計らって忽然と姿をくらます。そしてシンジの作業が終わる頃にはまた、眠っている。
朝陽の差し込む静寂の時、薄紫のシーツに埋もれたカヲルはまるで神々への生け贄のように儚げだ。あの阿鼻叫喚のデストルドーを体験した彼は、以前の彼とはまるで違った。とてもひとらしかった。彼はその自らの変化を「原罪を犯した僕への罰だ」と小さく嘲った。シンジにはその意味が分からずにただ、“罪”という言葉ばかりが胸にすっと刺さっていた。
「罪…」
今、カヲルの寝ているリビングから渡り廊下で繋がったサンルームにシンジは居た。バスタブに浸かりながら水面に浮かぶ薔薇の花弁をじっと眺めている。ここから数キロ先にある浜辺で打ち上げられていたそれはまるで白く滑らかな小舟だった。まだ熱に浮かされて意識の朦朧としていたカヲルを風呂に入れてあげたくて、シンジはそれを何日も掛けて自力で運んだ。ロープで手の皮が擦り切れてもシンジは決して諦めなかった。
「罰…」
カヲルは何に対して云っているのか。シンジはそれを聞けないでいる。
再会してからふたりは愛を交わすことも無くなった。キスはおろか、触れ合うこともままならない。シンジがそれは意図的だと気づいたのは、つい先日のこと。
「カヲル君…」
月の見えない闇夜だった。シンジはなかなか触れてこないカヲルに寂しさを募らせていた。同じベッドに寝ているのに、どうしてカヲルは自分を見てもくれないのか。白昼に自分に甘える彼とはまるで別の人のよう。貝のように固く閉ざして眠るカヲルに、シンジは後ろから抱きついた。
「ん…?」
カヲルは本当に寝ていたのだろうか。寝ぼけた様子もなく後ろを振り返る。そして目を見開いたのだ。
シンジは何も身に纏っていなかった。薄い毛布ははだけて乳白の肩が露になる。その陵丘の下には、つんと緊張した乳首が朧げに見えている。それを瞳に映して硬直するカヲルを誘うようにじっと見つめるシンジは、罪深いほどに妖美を漂わせていた。カヲルは動揺し、目を逸らせない。
そしてシンジの熱い手がカヲルの冷たい手を自らへと導いた。毛布の中、柔い肌の瑞々しい質感。カヲルは自分がシンジの性器に触れていることに気づいた。恥じらいに震えながら、シンジはカヲルの肩に顔を埋めて、それをゆっくりと動かした。ねだるように熱っぽく濡れた瞳を揺らしている。そして、カヲル君も、と云うように全身を擦り寄せて、細い足をまとわりつかせ、カヲルのスラックスのファスナーを開けようとしたのだ。
「やめてくれ…!」
カヲルがそう叫ぶと、今度はシンジが硬直した。そして呆然とした顔でカヲルを見つめ、青ざめる唇は言葉を失くし、そのさっきまでは熱を帯びていた瞳は凍てついてしまう。じわりと涙が溢れてしまう。ひっく、とシンジは小さく喉を鳴らした。
「ごめん、シンジ君…」
カヲルが咄嗟に謝るのを振り払い、シンジはくるりと反対を向く。そしてシーツに縋りつき声を殺して泣くのだった。そんなシンジをカヲルは慌てて後ろから抱き締めた。泣き声を上げ、言葉にならない声を出して抵抗するシンジも、あんまり強く抱かれて次第に、カヲルに身を委ねながらしゃくり上げて涙を流した。肌を焦がすほどの痛み。拒絶された哀しみは、シンジを果てしない迷子のような気持ちにさせた。
もうシンジにはカヲルしか居ないと云うのに。
バスタブに波紋を打つのはあの時頬に垂れたのと同じ雫。それをちゃぽんと手で掻き消すと、薔薇の花弁が沈んでゆく。ふたりが庭と呼ぶ、野性化した植物園で朝に彼が摘んだその赤は、ひとひらでも芳しい香気を放つ。
「なんで…」
あの夜のことを考えると胸が張り裂けそうなのについ、考えてしまう。ある疑問が頭にこびりついて離れないのだ。
カヲルはシンジを後ろから抱きながら、好意の言葉を、好きという雨を降らせていた。甘く慈しむ響きだった。そして、そうしている彼の性器はしっかりと張り詰めていた。シンジの尻肉にそれが擦れると我慢するように打ち震えて、囁き声も蒸気を帯びる。背中から伝わる早い鼓動は嫌でも彼の興奮を表していた。なのにカヲルの指先は、シンジのそれに絡まるだけ。ただ、愛を囁くだけ。ただ、好きと云うだけ。何故。
「あ、雨…」
水面を揺らす打音に頭上を見上げると、硝子を失い真鍮の骨格しかない天井から、ぱらぱらと雨が降ってきた。ライフラインの消えた街では水は貴重だ。このバスタブも雨水を溜めるために此処に設置したのだ。
建物の中には植物が蔓延っていた。壁にも天井にも、それは冷たい外気や雨から彼らを守ってくれていたが、それを逃れて所々に雨の滴る箇所が点在した。そこはまるで天然の蛇口だった。
浴槽から立ち上がり、タオルに包まり回顧する。床には至る処にビーカーや如雨露やバケツが佇んでいた。そしてそれらがポロンポロンとやさしい水音の音楽を奏でている。
弧を描く渡り廊下の一番遠い場所に、朽ちた理科室に似た一室があった。そこには実験道具や植物を育てるためであろう器具が所狭しと並べられていた。それらをふたりは知恵を絞って生活用具に変えていったのだ。ビーカーは時としてコップとなり、如雨露は時としてポットとなる。博識なカヲルはシャーレで蝋燭を作り、家事の得意なシンジはフラスコの中に庭で採れた青梅のジャムや花梨の糖蜜漬けを詰めた。フラスコの色彩は穏やかな季節の変化をふたりに教えてくれた。
「もう大丈夫なの?」
シンジが髪を拭きながらリビングに入ると、カヲルが天窓越しの雨空を見上げていた。
「あまり寝ていると君に放っとかれてしまうからね。」
冗談めかして、けれど何処か芯のある響き。それまでは、午前はカヲルが休んでいる時間だった。だからシンジはこの時間を入浴に充てていた。
「お風呂に入ってたんだよ。」
けれど実際、あの夜の一件以来、ふたりには言い得ぬ距離があった。破れない膜のよう、しなやかで強い距離が。
「薔薇の香りがするね。」
カヲルは足音もなくシンジへと歩み出た。そしてそっと彼を抱き寄せた。シンジが戸惑い手を添えられずにいると、今度はぎゅっと抱き締めた。
息が出来ないのはその腕の強さのせいではなく、途方に暮れるくらいその腕の中が好きだからなのだろう。その中で息絶えるほど愛されたいと願ってしまう。シンジはやっとカヲルから触れて貰ったことが嬉しくて、眩暈を覚えた。痺れの中で、永遠にそうしていてほしいと祈った。
けれど、すぐにカヲルはシンジから離れたのだ。まるで磁石が反発するような勢いで。
「…雨水を集めよう。そろそろ飲料水が切れそうだ。」
シンジはもう、返事も出来ない。ただ立ち尽くしていると、カヲルが申し訳なさそうに目を逸らした。
ーどうして僕を、避けるの?
地面が崩れて何処までも堕ちてゆく心地がした。
そうしてふたりがぎこちなく過ごしても、関係なしに宵は訪れ、雨雲は遥か彼方へ、星座の瞬く闇の帳が降りてきた。
シンジはそれでもこの共同生活が楽しくあるために一生懸命、知恵を絞って料理をした。カヲルに愛されたい一心で。幸い施設の資料室には野草の調理本もあったので、シンジはとても頑張っていつも食事の用意をした。湖畔のほとりに実っているアケビとキノコを使ったソテーは上々の出来だった。
「シンジ君はとても料理上手だね。君と一緒に居られて僕は本当に幸せだよ。」
ー美味しいごはんが食べられるから?
「カヲル君も…色々知っているから、助かってるよ。」
ありがとう、と小声で呟く。カヲルは火の消えかけたシャーレの横に新しいシャーレを置いて炎を移した。ふわっと一段明るくなった天蓋下のふたりのベッドで、シンジの寂しそうな微笑みがちらちらと揺れている。
「…君は幸せじゃないのかな?」
カヲルは残念そうに、ぽつりと淡い言葉を放つ。それはシンジの胸を掬い、星の瞬く宙へと浮いて、闇に消えた。
幸せだよ、そう言いたいのに。シンジの舌は動かない。
「シンジ君、好きだよ…」
ー僕だってカヲル君が好き…
「もう、眠くなってきちゃった。そろそろ寝ようよ。」
卑屈になりたくないと思うのに。シンジは拒絶された哀しみを振り払えない。何も気にしていないようシーツに寝そべると、上からカヲルが見つめている。悲痛な瞳で、見つめている。
冷たい指先がシンジの頬を撫でる。つうっと天鵞絨の心地で、惑うようにするすると、やがて唇に触れた。その淡い桃色の蜜を吸う白い蝶みたいだった。
引けば押されるものなのか。期待に薄く開く唇。シンジは息をするのも忘れて想い描いたものを待つ。祈るようにカヲルを見つめ、溜まった涙が溢れる前に瞼を下ろした。繋ぎ止めたい展開がちょっとの弾みで逃げてしまわないように。
「おやすみ。」
けれど、カヲルはそう呟いただけだった。全身に凍てついたような痛みが走り、シンジはぼんやりと瞳を開く。もうそこにはカヲルは居ない。隣で、シンジに背中を向けて、眠ってしまった。
ーねえ、どうして…
こんなに近くにいるのに。
ーどうして僕にちゃんと触れてくれないの…
今のシンジには、カヲルが果てしなく遠くに感じる。シンジもカヲルに背中を向けて、乱れそうな呼吸を呑み込み、涙を流した。泣いているとは気づかれぬよう、息を詰めて寝たふりをした。
「シンジ君?」
夜も深い時分、カヲルは眠りから目覚めた。シャーレの灯火は消えているから、意識を手放してから一刻以上は経っている。
赤い海から流れ着いてから、カヲルは自身がとてもリリンに近づいていると感じていた。感情は不安定、こうして自然と眠りこける。不意な睡眠に彼はいささか呆然とした気持ちになった。
「シンジ君?何処だい?」
最初はトイレに行ったんだろうと考えたカヲルだが、シンジはいつまで経っても戻ってこない。急にあの日の恐怖が鮮明に甦る。シンジが消えてしまった時、あの時も未明だった。
「シンジ君!」
カヲルは青ざめて駆け出した。この広い構造体ではふたりのよく居るリビングとサンルーム以外にも、両手足の指よりも多い部屋がひしめいていた。
「ああ!シンジ君!」
生きた心地がしない足は時折屋舎の雑草によろめき、カヲルはそれが焦れったかった。いつから自分はこんなに弱くなってしまったのだろう、と拳を握る。
カヲルはシンジを呼び続けた。そして全力で肢体を動かしシンジを捜した。そこで渡り廊下の先、理科室に似たあの部屋の隅にある、外付けの螺旋階段の下に、燃え尽きたシャーレが置いてあることに気がついた。その螺旋階段はその朽ちた理科室の二階へと繋がっている。カヲルは一目散に駆け上がり、扉を開けた。
「来ないで!」
姿は見えない。けれど確かにシンジの声だ。
「シンジ君!」
その願いだけは聞けなかった。カヲルは何度、来ないで、来ないでよ、と叫ばれても真っ暗な部屋の中、声のする方へと歩いていった。
「来ないでって言ったのに…」
「シンジ君…」
そこにはスラックスとブリーフを足首まで下ろしているシンジが居た。部屋の隅で、立てている膝をきゅっと寄せて小さく座り、背中を丸めて股間辺りを両手で隠している。ぽたぽたと精液の飛沫が飛び散っていた。
窓に切り取られた月影が無惨にもシンジのその白濁を照らす。自慰のつんとした匂いを隠しきれず、シンジは泣いた。隠しきれていないのは匂いだけではないのだが、何故だかその匂いがシンジには酷く恥ずかしかった。
「さあ、帰ろう。僕らの部屋へ。」
カヲルはひとまずほっとして、シンジを起こそうと白い手を差し伸べた。シンジはその手を取らなかった。
「…聞かないの?」
「ベッドで話そう。」
「どうして僕がオナニーしてるかって聞かないの!?」
カヲルを見上げている瞳は力強く歪んでいた。ぽろぽろと悔しそうに泣いている。哀しそうにも、見える。
「…わかっているよ。」
「わかってない!」
「なら、教えておくれ。」
カヲルがシンジの目線までしゃがみ込むと濡れててらてらとした性器が視界の端に映った。まだ少し、熱を持っていた。カヲルが目の前の火照った頬に伝う大粒の涙を指先で拭うと、その感触を乞うようにシンジの長い睫毛が震えた。
「もっと、」
カヲルの白い手が戸惑いに揺れる。
「もっと、僕に触って…」
堪らずその手に擦り寄ってしまうシンジの顔が甘えた幼子みたいに、カヲルには見えた。
「もっと、ちゃんと、触ってよ…」
戸惑うことを止めたカヲルの手が、シンジの首筋を這う。その感覚に眉をひそめ、感じてしまう、シンジがいる。
「おいで。」
シンジを抱き上げ自分の方へと引き寄せて、カヲルは自らの腕の中へと閉じ込めるようにその熱い身体を包み込む。座ったカヲルの脚の間であやすように抱かれてシンジは、久しぶりに穏やかな気持ちになった。側では足首に絡まっていた服が、抜け殻のよう、転がっている。
「…カヲル君は、もう僕のこと好きじゃないんでしょ?」
鼻にかかった甘えた声。カヲルの胸が撹拌される。
「君が好きだからここまで君を捜しに来たんだよ。」
「僕に同情して好きなふりしてるんだ。もう気持ちは冷めてるのに。」
「そんなはずないだろう?」
カヲルが濡れた頬に頬擦りすると、シンジは脚をもぞもぞとさせた。カヲルが動くと無防備なシンジのふぐりが刺激されて、ざわつくのだ。
「だって…僕に触らなくなった…もう触りたくないんでしょ?」
「ごめん。シンジ君を傷つけるつもりはなかったんだ。」
「好きなのに触りたくないなんて…カヲル君がわからないよ、」
シンジが鼻を啜って嗚咽すると、カヲルはとうとう観念して深く長く、息を吐いた。観念した溜め息だった。
「僕だってシンジ君に触れたいんだ。」
「カヲル君は嘘つきだ、」
「本当だよ。君を抱き締めたい、君にキスしたい、君と愛し合いたい。」
「じゃ、なんで、」
「怖かったんだ。君がまた、僕の元から去ってしまいそうで。」
「そんなはずないじゃないか!」
シンジが大きく否定すると、カヲルは力なく微笑した。
「君が去った時、僕は君と、やっと通じ合えたと思っていたんだ。初めてリリンの営みを知った。何故、君達がそうするのかも、僕には理解出来た。とても幸せだったよ。けれど、かわりに君を失った。」
「失ってないよ。」
「あの時の僕にとってはそうだったんだ。だから…とても根拠もない、迷信のようなものだけれど…触れ合ったら君が居なくなってしまうような気がしてならない。とても不安なんだ。君をもう一度失うくらいなら、僕は永遠に情欲を我慢してただ、君の側に居たい。」
その科白はシンジの胸をひたひたに満たした。回顧すると、全ての歯車が合わさったよう、しっくりときた。そっか、前の僕と同じ気持ちだったんだ、シンジは思う。カヲルが自分と同じ感情を抱いているなんて想像もしなかった。想いが冷めたわけじゃない、それがシンジには痺れるくらい、嬉しいのだ。でも、あの苦しみをカヲルも感じていると知って、シンジの胸がきゅっとしなる。
「僕、もう何処へも行かないよ。カヲル君が僕のことを嫌いでも、僕にはカヲル君しかいないもの。」
「…本当かい?」
「でも今日、ちゃんと僕に触ってくれなきゃ何処かへ行っちゃうかもしれない。」
それはシンジの精一杯のおねだりだった。じんじんする内股を擦り合わせながら、カヲル君…と甘えた声で呼ぶシンジはこの上なく妖艶で、カヲルはもう、我慢することなんて出来ない。
「ずっと…こうしたかったよ…」
カヲルはそう囁くと、シンジへと首を傾け、キスをした。ずっと待っていたあの甘い接触にシンジは目を閉じ全身を震わす。こうしているとカヲルの秘めた熱情がシンジにも伝わってくる。もう包み隠すことの出来ない情火がその内側に侵入して、とろけそうな舌先がシンジのそれを犯してゆくのをカヲルはどうしても止められない。その力強さにやがて、シンジの腰が痙攣する。敏感な肌、シャツの中に熱い指先、あっと唇の隙間で喘ぐと、ふたりの間に透明な唾液の糸が張る。
カヲルはシンジをうっとりと眺めていた。力の入らない身体が仰け反って、カヲルを求めている。涙の道を無抵抗に流れる雫、そのとろみを含んだ瞳は、カヲルの全てを求めている。
「行こう…僕らのベッドに。」
そうして長い長い渡り廊下を歩いてゆくふたりには、もう何も言葉は要らなかった。手を繋いで、一歩一歩を踏み締めているだけで、全てが通じ合えている気さえした。
薄紫のシーツはカヲルが慌てて飛び起きた様子のままよれていた。そこへ廊下に咲いているクチナシの花を散りばめて、ふたりは横になる。時な神聖なほど遅く濃くなり、甘い香りはふたりを官能へと掻き立てる。もう熟したシンジへとカヲルが覆い被さると、気怠くくずおれかけたその肢体で必死にしがみつき、シンジは愛される喜びに打ち震えた。全身に脈打つ血潮が、カヲルを求める。それを見つめるカヲルも、喪失を恐れて抱けないほどに募らせていた気の遠くなる想いが、彼の手を離れ、本能の赴くままに、シンジを求める。
カヲルはシンジによってリリンとしての愛情表現を手探りで習得してゆく。シンジもカヲルによって少年のままに大人になったそのつぎはぎを無くそうとする。目に映ったものを真似するように純粋に、互いを愛撫する。舐め合う。キスを重ねてゆく。相手が感じればそれを繰り返す。拙い性交、それは愛しかない儀式のよう。限界まで昂れば、カヲルはゆっくりシンジの尻を持ち上げ脚をひっくり返し、その割れ目に屹立した性器を埋めた。そしてシンジの屹立と合わせて彼に二つを握らせた。カヲルはシンジをまるごと抱き締めて深く腰を動かしてゆく。
「あ…!」
カヲルが腰を沈めて深く突くと、シンジはカヲルが体内に入って来たような錯覚に眩暈がした。カヲルののしかかる体重で肺が軋んで、苦しい。けれどそれはとても幸せで、ずっと望んでいた感覚だった。
「痛くない…かい?」
カヲルがシンジを気遣い力を弱める。すると、もっとして、いっぱいして、なんて苦悶した表情で舌足らずにねだられてしまう。ずっと欲しかった恍惚の中でシンジはもう理性を忘れた。そんな甘美な誘いにカヲルも酷く興奮して、ひたすら快感に身を委ね、シンジだけを感じながら、激しく身体を揺り動かしていったのだった。
シンジが明け方に目覚めると、カヲルが自分を見つめていた。ずっとそうしていたのだろう、撫で上げられた額がほんのり温かい。
「…僕、居なくなってないよ。」
とても満ち足りた顔で、そう囁く。少し声が嗄れている。
「シンジ君、愛らしいよ。」
何かを含んだその科白に、シンジが目線の先、自分のこめかみ辺りを触ると、そこにはクチナシの花が一輪挿してあった。
「あ、悪戯したな。」
照れたシンジが今度はカヲルめがけてその花を向けると手を取られ、ぱくりと花のがくを咥えられてしまう。それが可笑しくてシンジが笑うと、カヲルが嬉しそうに抱き寄せた。
「あんまり愛らしくてもっと悪戯したくなるよ。」
「お花食べちゃうカヲル君の方がかわいい。」
見つめ合うと、それまでのすれ違いが嘘のように、ふたりに距離はなかった。
「そうだ。君に見せたい物があるんだ。朝ご飯を食べたら一緒に行こう。」
それからふたりは野草のサラダと木の実のオートミールの美味しい朝食の後、庭へと出た。彼らの庭、果てしなく広がった植物園は手入れされずに野性の森のようだった。その中で表札や器具がまるで眠りについたよう苔むして傾いている。シダに覆われた日陰ではラピスラズリの色をした蜥蜴が木の葉の下へと消えた。
「これを君に贈りたかったんだ。」
水辺には名の知らない水鳥が泳いでいた。木々に囲まれた湖はまるで空を雲を映した翡翠の鏡だった。食材を採りに行く湖畔から幾ばかりかの東側。シンジはこんな景色があるとは知らなかった。
シンジが見蕩れて立ち尽くしているとカヲルがそっと指差した。手入れされ整えられた一角に植物模様であしらわれたベンチがある。その上では大樹の枝が涼風に吹かれ木漏れ日を揺らしている。その光のダンスの中では朽ちかけて補填されたベンチでさえ、奇跡のように美しかった。
そこでようやくシンジはカヲルがこそこそと部屋を抜け出していた理由を知る。自分を驚かせるために時間を見つけて準備していたカヲルの姿を想い描く。そして、これからこの場所で笑って語り合う昼下がりのふたりを想い描く。
「仮病だったとバレてしまったかな。」
あんまり黙ったままのシンジにカヲルが申し訳なさそうに呟くと、
「ねえ、カヲル君、」
何か言いたげに呟くシンジ。カヲルが耳を傾けると、
「僕、幸せ。」
と耳許で囁いて、そのまま白い頬にキスをした。カヲルはそんな不意打ちに、驚くほど薔薇色になって照れてしまう。
「…君はまるで禁断の果実だ。」
「禁断の果実?」
時に難し過ぎるカヲルの言葉。シンジはそれを理解できない自分をいつだってもどかしく思う。
「一度その味を覚えると、もう知る前には戻れない。リリンはその果実を食べたことを原罪と記したけれど、僕はそれなら喜んで罰を受けたい。」
シンジの胸に絡まっていた糸がそっと、解れてゆく。
「僕はこれからも君に翻弄されてゆくんだね、シンジ君。」
カヲルの薔薇色の笑顔がシンジを同じ色に染めた。ふたりの足許ではスズランが、鈴を鳴らすようささやかな光風に揺れていた。
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