蓋を開けたら思っていたよりも違った、なんてことはよくある。予想外、期待外れ、心に描いていたものの外にあるものはまるで喜ばしくないみたい。想像通りの結末は想像通りの喜びへ。それはとても安寧の心地。

でも僕は、君の予想外の反応が嬉しい。僕の勝手な思い込みや的外れな期待を裏切って、新しい景色を見せてくれる、君。想像を遥かに超えて君は僕をドキドキさせる。僕を笑顔にしてくれる。本当の幸せをくれる。

僕はただ、そんな君にありがとうと伝えたいだけだった。



両想モノポライズ 下篇



「ほら、今日も君のファンからだ。」

ラッピング用のリボンを片付けていると、加持さんが僕に一輪の花を手渡した。それは、マーガレット。その淡いピンクの匂いを嗅いでいると、僕は早く家に帰りたくなる。

所狭しと絵の具をひっくり返したような色で溢れている。店内から路面へとはみ出た鈍色のブリキのバケツに、まるで世界中からさらってきたような色とりどりの花たち。鼻孔にはまだ甘い花粉が残っているような気がした。

「熱狂的だねえ。今日こそ彼の正体を知りたいぞ、シンジ君。そろそろ紹介してくれよ。」

「駄目ですよ。加持さん口軽いから秘密守れないでしょう?」

言ったな、傷ついたぞ、なんて言って僕を突ついて苛めてくる。だって、これ以上カヲル君を刺激したくない。ただでさえ加持さんは、

「それにしても女の子みたいな腰だな。」

「わっ!ちょっと!」

手癖が悪い。悪気がないからたちが悪い。これが彼のコミュニケーションだって知っているから僕も無理に怒れない。掴まれた腰をひねってそのたくましい手を振り切ったら、さっき剪定した葉を踏んで滑って転びそうになる。寸でのところで加持さんが僕を抱き留めた。

「おいおい。君が怪我でもしたら熱狂的なファンに俺が殺されるじゃないか。」

まるでタンゴの決めポーズみたい。僕がググッと上体を持ち上げるとふたりの目が合って、笑った。お客さんも笑っていた。

僕と加持さんは古くからの知り合いだった。父さんに放任された僕の面倒を見てくれたミサトさんの、旦那さん。僕とミサトさんが一緒に暮らしていた頃はくっついたり離れたりを繰り返す焦れったい恋人同士だった。

「あんまり変なことしているとミサトさんにまた怒られますよ。」

僕はミサトさんのことを姉のように慕っていたから、ふたりがようやく結婚した時は本当に嬉しかった。歴史的偉業を目の当たりにしたみたいだった。

「あいつは最近ふたり分怒ってくるからな。コワイぞ。」

そんなミサトさんから嬉しい知らせを聞いたのは、残暑でまだ蝉のうるさい夏の終わりのことだった。新しい命の誕生。そんなことが身近に起ころうとしているなんて。僕は自分のことのように胸が踊った。

「ふふ。元気ならよかったです。」

それから間もなくミサトさんからバイトをしないかと連絡が来た。ミサトさんが産休に入る期間に働き手が欲しいらしい。加持さんがあんなだからできれば馴染みの人に頼みたい、と懇願された。実は、僕は学生の頃、短期だけれどここで働いたことがある。

「そうだ。今度、顔見せてやってくれよ。」

加持さんは立派な花屋を営んでいた。そのワイルドな容姿からは花に囲まれて暮らしているなんて想像もつかなかったけれど、花を世界一美しく輝かせて誰かの心の代弁者に仕立てる仕事は、実際は彼に似合いすぎているくらいだった。

無精髭に伸びすぎただらしのない髪をひとつ結び。まるでそれをファションとして肯定するみたいに小洒落たシャツは襟元で崩してある。たっぷり歳月の染み込んだ濃紺のダブリエは彼の誠実な仕事ぶりを表していて、とても格好良かった。

「はい。喜んで。」

僕は額の汗を拭って水の張ったバケツを持ち上げた。たぽたぽと水面が揺れる。



「あれ?もう帰って来たの?」

夕食作りの途中だった。仕事の終わる定時からそんなに経ってないのに。僕が玄関へ駆けつけるとカヲル君が寂しそうに笑っていた。

「なんだか嫌そうだね、」

「そ、そんなんじゃないよ!」

驚いたんだよ、そう付け足すのを待たずに、カヲル君は僕に抱きついた。鞄が床に乱暴に落とされる。

「昨日の続きをしよう?」

性急に。耳に熱い息が吹き掛かる。僕が身じろぐと腕の力が強くなる。腰が反り返って爪先立ちになった。

「あ、ここ、玄関だよ…?」

スーツ姿のまま興奮しているカヲル君。ネクタイを緩めて顔中にキスして僕を誘っている。お鍋に火を点けてるから待って、そうお願いすると渋々湿った唇が離れてゆく。その身体は台所へ行ってもずっと僕にぴたりとくっついてきた。そしてコンロの火を止めた途端、僕はエプロンをしたまま愛されてしまうのだ。シンクの上に座らされてもう、抵抗できない。

「ずっと我慢していたんだよ…」

「ん、」

僕には申し訳ない気持ちがあった。久しぶりのバイトと家事の一式。学生の頃よりも忙しくないのに何故か疲れが抜けない。実は花屋は肉体労働。夕飯を食べたらもううとうとしてしまう。そんな僕を見つけて、カヲル君は家事を手伝おうとしてくれたけれど、それは僕のプライドが許せない。これは僕が言い出したことなんだから。

歳のせいかな、なんて思っていた。けれどよく考えてみればカヲル君をカウントするのを忘れていた。僕らは離れ離れの昼間を取り戻すみたいに夜に存分に愛し合っていた。愛し合うのも体力が必要だ。今みたいに。

「シンジ君…このまましていい?」

乱れた衣服の中に焦らすように指先が這っている。もう僕はほとんど出来上がっているのに。意地悪な質問に僕は情けないくらい首を振った。少しだけ上乗せした興奮で、来て、と囁く。すると、カヲル君はなけなしの理性を捨てた。

カヲル君はとても理性的な人だ。でも、すれ違い気味の夜が、彼をきっと駆り立てている。


昨日、前戯の最中に僕は居眠りしてしまった。やさしく愛撫されていると気持ち良くて眠気が襲う。僕が意識を手放すとゆさゆさと僕を揺り起こして「寝ちゃうの?」とカヲル君は苦笑した。僕は疲れていると言えなくて「気持ち良くて…」と誤摩化した。そしてまたうたた寝してしまう僕。乳首の甘い刺激に意識を引き戻される。カヲル君の白い歯がその突起を咥えていた。そして今度は寂しそうに「疲れているならやめるかい?」と聞いてきた。ああ、カヲル君、きっと傷ついてる…僕は姿勢を変えて「ごめん、大丈夫だから。しよう?」と微笑んで彼を誘った。申し訳なさそうな表情だったかもしれない。

それから一瞬の抱擁の後、瞼を閉じてまた開けばもう、僕の目の前で輝く朝陽。良く寝た、と思って上体を起こしたら、毛布がはだけて僕は数時間前を思い出す。肌に無数に赤い模様が散らばっていた。


「…あッ、」

エプロンの内側が熱く生臭く湿ってしまう。片方だけずり落ちた肩紐。まだ足首に引っかかったままの下着がピンと張った爪先を下ろすと音もなくフローリングの上に落ちた。台所でこんなことしたのは初めてで、僕はその背徳に身震いした。吐精後の余韻によろけて肘が蛇口のレバーに当たる。直線で流れる激しい水音がふたりを叱っているように聞こえた。ふたりして満たされた顔で気怠く笑う。目の前の脱ぎ掛けのスーツには薄白い飛沫のシミができていた。



「マーガレットの花言葉を知っているかい?」

「花言葉?」

温室のガラス戸を閉めて振り返る。僕がまた“ファンからの贈り物”を貰ったら、加持さんは思慮深そうな顔をした。

「心に秘めた愛。信頼。誠実。あとは、恋占いって意味もある。恋占いの花なんだ。」

「花びらが奇数なんですよね?」

「お。よく知ってるな。」

僕の心に咲く甘くほろ苦い想い出の花、そして、世界一幸せな恋の花。

「それからマーガレットって名前はギリシャ語で真珠の意味がある。白はブライダルブーケにもぴったりだよ。」

僕の緩んだ顔を見て、加持さんはニタリと笑う。彼はずっと僕がちゃんとカヲル君を紹介する日を待っていた。僕は世界がそれだけになるようにそのみずみずしい花びらの筋を眺める。胸いっぱいに息を吸う。そして、

「…昔、花占いをしたんです。ずっと片想いだと思っていた人と。僕が彼のことを好きかどうか、彼は“好き”から始めて占いました…同じ気持ちだったんです。」

ついに僕は白状した。僕の小さな声に花が耳を傾けている。匂いを嗅ぐふりをして唇を寄せる僕。その花びらを、あの愛しい唇と重ねる。

「…良い話だ。」

いつも僕に間接的に渡されるその一輪。僕が水あげか配達をしているタイミングに加持さんに頼むのだろうか。何度か店の隅に隠れて待ち伏せしてみたけれど、カヲル君は見つけられなかった。家でそれを花瓶に飾ってありがとうと伝えてもただ曖昧に微笑むだけ。職場から電話で注文したのかも。でもそうしたら僕だって受話器を取る可能性がある。カヲル君に聞くのも無作法な気もするし。加持さんに聞くのも気が引ける。

そうやって秘密にされると僕は色々な想像をして胸が苦しくなった。何だろう、この気持ち。いつだってこの胸は、カヲル君で満たされると溺れそうになる。

「なあ、シンジ君。その話、俺のネタにしていいかい?」

「え…はあ!?」

急に引き戻される現実。目の前のおじさんが悪い顔をしている。

「俺のレクチャーの小話のひとつとして。ロマンチックだろう?」

「だろう?じゃないですよ!駄目に決まってます!」

「ケチだねえ。」

「僕の大切な想い出なんですよ!」

残念だなあ、なんて呟いて。無精髭をぽりぽり掻いて。しみったれた不貞腐れ顔は愛嬌すらある。そうやって僕らが漫才みたいなことをしていると、真鍮の小さなパイプのドアベルが軽やかに鳴った。お客さんの呼び出し音だ。振り返るとひとりの若い男性客の姿。擦れた黒の革ジャンで、でもきっちりと髪がセットされている。察した僕は加持さんに合図してレジの奥へと姿を消した。

加持さんの花屋は“恋が叶う”花屋として巷では有名だった。その豊富な知識とセンスで束ねられた花束と、天性の才能でもあるその緑と白と赤色をした口説き文句で、最高の愛のひとときを提供する。彼はきっとこの街の婚活事情にすごい貢献をしている。

甘い花粉の香りの漂う店内で客にプロポーズの仕方をレクチャーしている加持さん。それを包装紙を切り分けながら盗み聞きする。人の恋愛話は面白い。他人から見ればそんなもんだ。おっと。吹き出しそうで咳払い。笑うのは可哀想だ。ちょっと待って可笑しすぎる。水替えをしようと席を立つ。

―僕たちも他の人から見れば笑えるのかな…

ホオズキのバケツに手を掛けて、僕は最近のカヲル君について想いを巡らせていた。


一輪のマーガレット。カヲル君のその僕への一連の行動を「一流のプロの仕業だな」なんて加持さんは高く買っていた。でも僕は、その行動がただの愛情表現だとは思えない。バケツの底を探すようにその裏側を覗き込む。

カヲル君はなるべく僕とバイトの話をしないようにしていた。僕がバイトの用意を始めるとそそくさと部屋にこもってしまう。そこまで嫌がられると寂しい気持ちがあったけれど、勤務日の朝には必ず「頑張ってね」と言ってくれる。必死で笑顔を作ってくれるカヲル君に僕の心は救われた。

最初は、新しい生活に慣れればカヲル君の態度も変わると思っていた。でもそれは、思わぬ方向で変化していった。

最近、カヲル君は日課の読書をやめた。一緒にソファに座ると僕ばかりを見つめてくる。穴が開くほとピントを合わせて見つめてくる。「そんなに見ないでよ」と僕が照れて携帯に手を伸ばすと、それを阻止して今度は膝の上に寝転がる。顎の下から僕を見つめて「ずっと君を見ていたい」なんて口説いてくるのだ。

「今日は朝までこうしていようよ。」

冗談かと思ったら、その目はとても真剣だった。

「…ちゃんと寝なきゃ。明日も仕事でしょ?」

「そしたらまた君に会えない。」

声の微妙な襞を感じて僕の鼓動は早くなった。

「でも夜にはまた会えるよ。僕らが学生の頃でもそうだったじゃない。」

カヲル君は急に泣きそうな顔をした。僕が一緒に寂しがらないから傷ついたのかもしれない。目を伏せて僕のお腹に顔を埋めて、じっと耐えているみたいだった。

「どうしたの?」

僕の手がさらさらの銀髪の上を滑ってゆく。夏の草原を走る夕風のように彼を慰めようとする。しばらくして、カヲル君は顔を上げた。迷子みたいな顔をしていた。

「もう明日なんて来なければいいのに。」

そう仄暗い言葉を残して、カヲル君は起き上がった。そのまま僕の手を引いて寝室へ向かう。もちろん、寝るためではない。

最近、セックスの回数も格段に増えた。僕たちはどっちも穏やかな性格だから夜もそれなりだったけれど、もうカヲル君は色んな体位で僕を抱いた。僕を満足させようとしている感じがした。そんな時のカヲル君は興奮を演じて上滑り、僕はそれに合わせようと嘘を混ぜて必死に喘ぐ。すればするほど心がすれ違う気がした。そして事後になると、水のように捉え所のない侘しさに襲われて、僕らは窒息しそうになるのだ。怯えた顔を塞いだカヲル君にもう一度抱かれる夜もあった。

―カヲル君…


「シンジ君、上等な方のメッセージカードを取ってきてくれないか。」

床に散る痛んだ葉を箒で集めていたら、声を掛けられた。振り返ると、革ジャンの青年は脂汗の滲むヘンテコな笑顔で、ピンクのグラデーションの逆さまのスカートみたいな、ふんわりと広がった薔薇の花束を抱えていた。何そのテョイス。意外性に満ちていて、僕は思わず笑ってしまった。

「はい、どうぞ。ペンも置いておきますね。」

白地にエンボス加工、ツタ模様で縁取られたシンプルなカードには、筆記体の装飾文字で“Love is like a flower - you’ve got to let it grow.”と書いてあった。加持さんの座右の銘だ。それは愛が実るための秘密の呪文。

青年は震える手で愛の言葉を書こうとしている。僕はその様子から予備を持ってこようと振り返った。やさしい目線で見守る加持さん。微笑みながら伸びすぎた前髪を耳に掛けている。その時、襟羽がちょっとずれて、胸元にネックレスが小さく光った。華奢なデザインがさりげなくて、ドキッとする。前にはアンクレットも付けていた。加持さんは男が憧れるくらい瀟洒だった。


その日の夜、僕が熱々のコーヒーをふたつテーブルに置くと、カヲル君がツヤツヤで腰のない本を読んでいた。雑誌だ。しかもファッション誌。珍しくて僕が「何見てるの?」と覗き込むと、「どれがいい?」と返ってきた。ぱらぱらページを捲るとそこには筋肉質の男性モデルがリッチな服を着て、およそ日常では決してしないポーズを取って澄ましていた。

「どれって?」

「どの人がいい?」

「え、」

これって何か試されてる?と訝しむ僕。

「どの人もよくない。カヲル君がいい。」

「ふふ。ありがとう。」

カヲル君はとても嬉しそうに笑った。今日は機嫌がいい。

「じゃ、質問を変えよう。どの服を僕に着てほしい?」

「服?」

カヲル君はファッションに無頓着だ。ファッション性を追求しなくても世界で一番美しい花のように優れた容姿。でも彼はそもそも自分の外見に興味がなかった。だからこの質問はとても意外だった。

「んー、これ?」

僕は雑誌と睨めっこして一点を指差した。チェックのシャツにカーディガンがヨーロッパの貴公子みたい。いつもモノトーンが多いからたまにはカラフルでも似合うと思う。ちょっとそんな服を着るカヲル君を見てみたかった。数式を解くような顔で頷いて、それからまるで研究するみたいにそのページを粘り強く熟読するカヲル君。久々に何かに熱心になる彼の横顔を見られて、僕は嬉しかった。


そして、一週間が過ぎた朝。

僕らは久々に遠出のデートをする予定だった。紅葉が綺麗で有名な隣町の公園を散歩するプラン。僕が着替えてリビングに戻ると、

「か、カヲル君?」

緊張した面持ちで振り返るカヲル君。ヨーロッパの貴公子になっていた。色素の薄い彼に合わせた淡い色合いのスタイリング。髪もセットしてあって銀髪が綺麗に斜めに流れていた。普段はドライヤーも自分でしないのに。着こなしも気取らずにカーディガンがくたっとしていてセクシーだった。

「用意できたよ。」

何でもないという感じで。少し照れたカヲル君が上目遣いで僕を見た。僕はみるみる火照ってきて、両手で顔を覆ってしまう。

「シンジ君?」

近づいてくるカヲル君。僕は指の間からその姿を確認して身をよじった。そんな子どもみたいな僕に苦笑してカヲル君がその手を剥がす。僕は女の子みたいに真っ赤になった顔を目撃されてしまった。

「あは。どうしたんだい?」

僅かに期待に上擦った声が聞こえた。

「心臓に悪いじゃないか…」

ドキドキが止まらない。俯きながらもじもじと呟いた。

「不意打ちはやめてよ…」

拗ねたように、でも身体は彼にしなだれてしまう。

「かっこいい…」

何も言わないカヲル君。おずおずと見上げてみると、その瞳は熱っぽく潤んでいた。嬉しいのか哀しいのかわからない複雑な表情に、僕は感電する。身体の芯が痺れてゆく。とても情熱的に見えたのだ。

でも次の瞬間、カヲル君はさらっとしていて、

「かっこいい?そう。」

なんてちょっと意地悪そうな声で僕をからかった。そして、

「じゃ、そんなかっこいい僕を喜ばせて。」

睦言みたいな耳打ちをする。余裕の笑みで首を傾げて僕を見下ろすカヲル君。だから僕は彼の首に腕を回して唇を食んだ。「足りないよ」と言われて深く舌を絡めた。ちゅっちゅと彼の舌を吸って唾液を飲む干すと、背中に回した指先が硬く僕を手繰り寄せる。爪の先まで感情に満ち満ちていた。

「おいで。」

それからカヲル君はキスの余韻もなく僕を連れてゆく。でも手を引かれた先は寝室。出掛けるのに、と思う僕はその後ろ姿を見た。僕の心を見透かしているのか、僕から顔を隠すように振り返らない。耳許は赤く染まっていた。もしかして、興奮してしまったのかも。

いつもなら僕がシーツの上に寝かされる。でもカヲル君は僕を残してベッドの真ん中に僕と向かい合わせで座った。そして前に立つ僕を手招く。なすがままにつくばって僕が膝の上に乗ると、カヲル君はゆっくりと上体を倒した。僕は彼に馬乗りにされた。僕の下にはうっとりと微笑む、カヲル君。

「僕に惚れ直してくれたかい?」

カヲル君は僕の手を取り自分の頬に当てた。擦り寄せて目を細めて夢でも見ているようだった。熱い肌。でも指先は氷みたいだ。彼は小刻みに震えていた。僕は驚いて瞬きをした。

「僕だって君を満足させてあげられるよ…」

僕は言葉を失くした。僕の手のひらに口づけるカヲル君は表面では調子に乗るようにして、本当は怯えていた。期待と絶望が水面の乱反射のようにちろちろと僕に訴えかけていた。

「もう一度、僕を好きになってくれたかな…」

まるで美しい花がその美しさも知らずに枯れるのを眺めているみたいだった。カヲル君は「僕を喜ばせて」と繰り返した。不敵そうに笑おうとして歪む、その美しい顔。氾濫してゆく心の影。影の綻びを塞ぐように、胸を激しく上下させてせり上がる何かを押し込めている。見つめる僕の視線を避けて、彼は泣くのを我慢していた。それなのに。無慈悲な世界が表面張力の限界を知らせる。つうっと垂れる涙を恥ずかしそうに横顔で隠すカヲル君。銀髪が流れに逆らって不自然にぱらぱらと目元に掛かる。言葉と仕草が倒錯するそのちぐはぐはとても脆かった。僕はどうにかしてあげたかった。

「何言ってるの。ずっとカヲル君だけが好きだよ。」

嘘つき、と叫ぶように泣き顔がくしゃくしゃに歪む。逆効果だったらしい。どうして伝わらないんだろうと、僕は思った。カヲル君は何か言いたそうだった。でも声を出したら嗚咽が漏れてしまう。

そうして耐えるカヲル君は皮肉にもとても官能的で、僕は心を奪われていた。カーディガンをよけてシャツのボタンをひとつひとつ外してゆく。カヲル君は期待に指を唇に添えている。窺うように僕を盗み見て熱い吐息を漏らしていた。はだけた白くて艶やかな素肌、薄っすら浮き上がる筋肉と骨。僕が指を這わせてゆくと、興奮で肋骨が浮いた。

欲情した僕たちは午後から出掛けることにした。僕はカヲル君に股がって彼を喜ばせようといつまでも腰を振っていた。彼を下で咥えてずりずりと内壁で擦る淫らな姿を見せつけていた。僕はただ、彼を癒してあげたかった。

そして疲れてぐったりした僕をひっくり返してカヲル君は僕を抱き締める。耳許で、ごめん、と囁く。窓の外では雨が降り始めていた。



歯車が狂い始めてから、僕はバイトをやめようかと思うこともあった。けれど臨月のミサトさんに変な不安を掛けさせたくない。それに、

「おっと。今日は休みじゃなかったかい?」

「えへへ。仕入れが大変そうだったので来ちゃいました。」

僕はこの仕事が好きだった。僕がマーガレットを見つけて胸を高鳴らせるように、もしも僕が手入れをした花が誰かの大切な想い出になったら。そう考えるとわくわくした。実際に加持さんの元へ結ばれたカップルが挨拶に来たりしていると、僕もいつかそうなったらと想像した。

「悪いねえ。いいのかい?」

僕が鉢植えを並べ直していたら、土塗れのスニーカーが視界に入る。影が覆ったので見上げると、加持さんが申し訳なさそうに笑っていた。

「はい。僕が店番してますので農家さんの所には安全運転で行ってください。」

僕はそれから店先の黒板をイーゼルに立て掛けて、青いチョークの部分を消した。

花屋の仕入れは早朝だ。この店では特別な種類の花は直接栽培農家から仕入れている。昨日、市場の仕入れとそれが二つ重なってしまったので開店時間を遅らせると、ミサトさんと電話で話しているのを僕は偶然聞いてしまった。知らないふりはできなかった。

「せっかくの休みなのに彼氏はご立腹だろう?」

「あはは。彼も平日は仕事ですよ。」

「そうだったそうだった。」

意味深な返答に首を傾げる。けれど、いざ開店となるとたくさんの準備がある。僕は店内の電気を点けてレジへ早足で歩いていった。

『せっかくの休みなのに彼氏はご立腹だろう?』

ドキッとした。僕はもしかしたら…ここへ来る理由を見つけて喜んでいたのかもしれない。あのデートに行けなかった日から僕は情緒不安定なカヲル君へどうしたらいいのかわからない。自分を曝け出してしまって戸惑うカヲル君と、彼を傷つけたくなくてぎくしゃくする僕。最近は会話も続かない。

僕は息の詰まるほどの問題から逃げ出して、ただ、飛び続けた蝶が花にとまるように休みたかった。ここでたくさんの花に囲まれてからやっと、僕は深呼吸ができた。

もちろん彼のことが嫌になったわけじゃない。好きでどうしようもない。好きだから、臆病になるんだ。なのに…この罪悪感みたいなものは何なのだろう。僕はカヲル君を決して裏切っていないのに。

そして、僕は今日、初めてマーガレットの花を貰えなかった。当たり前だ。勤務日じゃない。けれど。仕事終わりにそれがないだけで、僕には身体の一部が欠けてしまったように感じたのだ。まるで左手の薬指が一本だけ、見当たらないように。



「ただいまー!」

夜八時。あれから思いも寄らない残業になってしまった。残業はなしの契約だけれど、ミサトさん不在の中、ひとりで店を切り盛りして日に日にやつれてゆく加持さんを見ていたら、ひとり残しては帰れなかった。ドアを開けると家中が真っ暗、人の気配がない。カヲル君も残業かと思い内心ほっとする。そしてほっとしたのもつかの間。僕は驚いて、荷物を落とす。

「カヲル君?」

リビングの明かりをつけたらソファにカヲル君が座っていた。膝を抱えて縮こまって項垂れている。その服装は帰宅したまま。仕事鞄が無造作に床に転がっていた。思いきり投げたみたいだった。

「電気もつけないで…」

「どうしたの?」

顔を埋めて、抑揚のない暗い声が掠れている。

「ごめん、残業で。本当にごめんね。」

カヲル君はゆっくりと視線を上げた。顔面蒼白で無表情。神経を磨り減らした顔をしている。

「今日は仕事はないだろう?」

「忙しそうだったから手伝ってきたんだ。」

「無理やり?」

「違うよ。僕が勝手に。力になりたくて。」

「力になりたくて。」

それは僕が今まで聞いたことのない、冷たい棘みたいな響きだった。

「それで今までずっとあいつと一緒だったの?」

きっと加持さんだろう。あいつ、なんて彼が言うのを聞いたことがない。

「加持さんはオーナーだから。」

「へえ。加持、ね。」

「お、奥さんが妊娠してるって話したよね?だからひとりでお店をやってて大変なんだよ、」

「ふうん。そう。」

短く途切れた言葉が乱暴で、残酷な子どもみたいだった。

「君はその奥さんと親しいんだろう?」

「うん。お姉さんみたいな感じ。」

「あいつは?」

「え?」

「君のお兄さんなの?」

「えっと、」

「随分と仲が良さそうじゃないか。」

あ、と思う。カヲル君は僕のいない隙にいつも花を買ってくれた。もしかしたら、僕の休みの日に店で買っていたのかもしれない。そうしたら今日、遠くから店内の様子を眺めていた可能性がある。

「ち、違うよ。あの、前に一度バイトしたことがあって、」

「聞いてない。」

「だって、少しだったから経験があるって威張って言えるほどじゃなかったし、」

「それだけ?」

「え?」

「本当はそれだけじゃないんだろう?」

僕を探るように見つめる瞳は、睨んでいるようにも見えた。

「どういう意味?」

「僕に言わせたいのかい?」

「変な意味なら絶対違うよ。僕はただ、働きたくて、」

「何故?」

「…、」

「必要がないだろう?君は何も不自由していないじゃないか!」

カヲル君は怒りに叫んで、勢いよく立ち上がった。初めて聞く低い怒鳴り声。僕はあまりの怖さに全身が散り散りに痺れた。

「あ、え、っと、僕は、」

舌がもつれて喉が詰まる。僕は自分が気づくよりも先に泣いていた。

―本当のことを言おうか…?

「僕は、」

―でも…ここまで頑張ったのに…

拳を握り締めて、首を振った。

「好きなことしていいって、言ったじゃないか…そんなに僕を家に縛り付けたいの?」

僕が濡れた顔を袖で拭ってそう言うと、カヲル君の殺気立った空気を肌で感じた。食卓のガラスの花瓶が彼の振り払った手に当たって無惨に床に叩き付けられる。鋭い音を立てガラスは粉々に砕けた。差してあった色とりどりのマーガレットが足元に散らばって、水に塗れて横たわる。すべてがスローモーションで、その欠片のひとつひとつに、カヲル君の想いが宿って壊れてゆくのを、見送っている心地がした。

「やめて!」

一歩、前に足を踏み出したカヲル君。一枚も花びらを散らさず横たわる白いマーガレットがその爪先のすぐ先にあった。僕はそれが踏まれてしまうと思って慌てて這いつくばる。花を寄せ集めて身を屈めて守ろうとした。

カヲル君はそんな僕を何も言わず眺めていた。そして、

「僕は?」

と微かに呟いた。音もなくしゃがみこんで、真っ白い手のひらを割れた破片の上に乗せた。そしてぐっと体重をかけてそこに押しつけた。

「何やってるの、」

それに気づいて咄嗟に彼の手を取る。血の滲んだ傷だらけの手のひらから丁寧に透明な欠片を取り除く。赤い斑点がそこには浮かび上がっていた。ぷくっと濃い赤の滴が膨らんでゆく。僕はそれを両手で包み込んだ。

「駄目だよ。僕の大切なカヲル君を傷つけないで。」

視線を上げてカヲル君の瞳を見つめた。絡まる視線に心を込めてやさしくそう懇願する。すると、カヲル君は涙腺が壊れたみたいにぽろぽろと涙を零した。

「…大切なら、」

その後には、どの言葉が続いたんだろう。結局その先は永遠に飲み込まれて、言葉にする代わりにカヲル君は、僕を抱いた。

口にできないものを伝えようとするように。僕をソファまで引っ張って放って、すぐに全身で覆い被さったカヲル君。涙に濡れた顔が近づいてきて目を閉じても、唇は潤されない。すれすれを鼻がかすめて僕の耳の後ろから首筋、胸元へと這ってゆく。そしてその植物を含んだ衣服の匂いを嗅ぐと顔をしかめて、乱雑に僕のズボンを膝まで脱がした。そしてカヲル君もファスナーを下ろす。僕の腿を持ち上げて腰を構える。僕ははっとして筋肉が強張った。そして次の瞬間、なるべく息を吐いて全身の力を抜く。カヲル君は僕を馴らさずに何も付けずに、いきなり彼自身を深く挿入した。

僕は初めての時のような激痛に、喉を絞るような声を出す。反射的な涙で視界が歪んでゆく。カヲル君は僕の悶絶する顔を長い前髪の間から盗み見ていた。そしてその顔は身勝手な行為を罰するのを待っているみたいだった。叱られるとわかった子どものような顔をしていた。だから僕は、

「好き…」

そう囁いて、無理にでも笑ってみせた。痛みに震えながら彼の肩に腕を回した。

「好きだよ、カヲル君。」

カヲル君は驚いて目を見開いていた。青ざめた唇が震えている。中では彼が充血して膨らんでゆく。僕の予想外の反応に興奮して、カヲル君は無意識に腰を揺らした。僕はそれでも何度も好きと連呼する。もう自分でも痛みか快感かわからなくなっていた。ただ、僕はそうしなければいけないと本能で感じていた。カヲル君は僕を試すように強く腰を突いた。僕はそうされるほどに彼を抱き締めて喘いだ。段々と激しくなって、カヲル君も泣き声みたいな喘ぎを漏らした。それでも僕は受け入れる。僕はこの気持ちだけは負けられないと思っていた。

そして、キスの最中にカヲル君は絶頂感に襲われる。腰を引こうとした彼にしがみついて唇を離さないと、カヲル君は切なそうに首を振った。でも、僕は決してその唇を離さなかった。もっとしていいよ、と、ぐっと脚で彼を手繰り寄せる。中を締め付ける。するとカヲル君はそのまま痙攣して僕の中にいっぱい射精してしまう。そのまま止まらずに溢れるものをすべて注ぎ込んでしまった。

「ごめん…」

「ううん、嬉しい…」

僕の中から熱い塊を引き抜くと、すれ違った日々だけ溜まった精液が尻肉の谷間をとろとろとつたっていった。僕は初めての時と同じ感覚に目眩がした。恍惚の波間。同じ天井を見上げて、まるであの日と錯覚する。そして僕は今一度、心に誓うのだった。

―あとちょっとで、あの日が来る…

―だから、待っていて。カヲル君。

僕はカヲル君にそう心で囁いて、彼をぎゅっと抱き締めた。そして僕は、また彼を泣かせてしまった。



それからふたりの綱渡りのような日々は足早に過ぎていった。それでも僕らは繋いだ手を離さなかった。ただ、互いに互いを割れ物のように扱って、どうかこのままで、と祈るように時を刻んだ。そうすることしかできなかった。

そして――僕は、ついに“あの日”を迎えるのだ。

「おーい、シンジ君!レジを頼む!」

「はい!」

僕は朝から開け放たれるドアの前に立っているような気持ちだった。嬉しくて自然と声が大きくなる。アレンジ用の小物を整理していたら、背後にはお客さんが待っていた。

「ってアスカ!」

「って、って何よ。」

後ろからもうひとり。

「綾波!」

「碇君、すごく似合ってる。」

「え?」

「お花。」

「え!?あ、ありがとう。」

久々に不思議なテンポの会話をして、僕は面白くて笑った。

「ふたりともどうしたのさ。来るなら言ってくれれば良いのに。」

前に会った時よりも変に懐かしいのは何でだろう。

「変な気を遣わせたら悪いじゃない?まだあの変態に囲われてるんでしょ?」

「もういい加減仲直りしなよ。」

「嫌よ。おえっ。」

「もう。あ、もしかして、イヴ用のお花を探してる?」

「あんた地雷踏んだわね…」

「踏んだわね…」

ふたり分の呪いのエコーが聞こえてきて僕が顔をひくつかせていると、

「おう。シンジ君の友達か。こんにちは、お嬢さん方。」

加持さんが助け舟を出してくれた。

「あ!素敵!私、実はフリーなんです!」

「残念だ。俺は妻子持ちだよ。最近可愛い娘が生まれてね。」

「ちぇ。」

助け舟が通り過ぎていった。

「アスカは何しに来たのさ。」

「碇君の顔を見に来たの。せめてものお慰みに。」

「あんた華麗に裏切るのね…」

「だって本当だもの。」

「じゃ、あんたは何しに来たのよ。」

「私は碇君に会いに来たの。」

「どうしてそうビミョーに言い方変えるのよ!」

アスカと綾波は社会人になってからの方が仲が良さそうだ。

「ふうん。お、そうだ。シンジ君。」

「はい?」

何か閃いたしたり顔をして無精髭を掻いている。加持さんが僕に耳打ちする。僕は嬉しくて目を輝かせた。

「さあ、お嬢さん方。所帯持ちで悪いが相手させていただくよ。」

加持さんが振り向き様にウインクをする。ふたりを店の奥まで案内してくれた。

「花は命を掛けて想いを届けてくれる。」

僕は遠くから聞こえてくる彼の口説き文句を聞きながら、せっせと手を動かした。花の茎を指で撫でる。

「だからその花が最高に美しく咲けるように手伝うんだ。そういう訳で手が抜けないんだよ。」

こっちを見られていないかちらっと横目で確認して、僕はすうっと目を閉じた。ふたりとも、僕の大切なひとだ。瞼の裏に浮かんだものが指先を動かしてゆく。ハサミが水の中でパチンと鳴った。

「君たちが花を貰った時、感じるものがあるだろう?それは選んだ人の心が宿っているからさ。手入れされた花はそれを表現してくれる。ほら。」

そして、僕は最後のリボンを結んだ。

「後ろを見てご覧。」

アスカと綾波が振り返る。ふたりの驚いた顔が目に飛び込んできた。

「これ、ふたりに。まだ力不足でこんなものしかつくれないけど。」

僕は最近アレンジの勉強をさせて貰っている。だから小さいブーケなら店頭に出せるくらいになっていた。アスカにはオレンジを基調にしたガーベラのブーケを、綾波にはシャーベットカラーのスイートピーとカスミ草のブーケを、手渡した。

「あんたがつくったの?」

「うん。」

ふたりがぽかんと口を開けてずっと花を眺めているから照れくさくて僕は頭を掻いた。そして、何か言ってよ、と言おうとした時、

「絶対に忘れない。」

綾波が独り言のように呟いた。

「ありがとう。」

そう言って、まっすぐに僕を見つめる。その顔はきっと、マーガレットを貰った僕と同じ顔をしていた。

「…また来るわ。バカシンジ。」

そしてアスカはまっすぐ下を向いたまま綾波を引っ張って、店の前の舗道の向こうへと消えてしまった。呆然と立ち尽くす僕。ドクンドクンと自分の胸から鼓動が聞こえる。

「女泣かせだねえ。」

含み笑いで加持さんは片眉を上げる。あ、そうだ。幼馴染みの僕は思い出す。彼女は泣き虫のくせに絶対涙を見せないようにまっすぐ下を向く癖があった。

「…ごめん、ふたりとも。」

僕の手渡した花束は決して想いが実るものではない。けれど、感動が炭酸の泡みたいになって僕の中で弾けていた。ふたりの心をようやく理解した僕はやっと真摯に彼女たちと向き合える。花は代弁者になる――いつか加持さんが言っていた。その花を丹念に手入れして寄り合わせたのは僕のこの手。僕は花を束ねた自分の手を、まじまじと見つめていた。

「いいだろう?」

加持さんが僕の肩をつついて耳許で囁く。

「この瞬間があるからやめられないんだよ。」

「そうですね。」

胸がほろ苦くって、あたたかい。

「シンジ君には才能がある。」

「そんなことないですよ。」

そう言いつつ、僕は表情が緩んだ。

「俺の初めて手渡した花束は地面に叩き付けられたぞ。」

「あは。あの時はミサトさんが浮気を疑ってたからですよ。」

「そうか。君はいろいろ知っていたな。」

「知ってますよ。あれは加持さんが悪いんです。紛らわしいことをするから。」

「言ったな!ミサトの腹心め!」

いきなり脇腹をくすぐられて仰け反る僕。

「もう!さっそく紛らわしいことしてますよ!」

加持さんは嬉しそうにくたっと笑って頭をがしがしと撫でてくれた。父親が息子を褒める仕草に似ていて、僕は胸がドキドキした。

「秘密の買い物は無事済んだかい?」

「はい。」

僕は店の裏に視線を揺らした。あの先にもうひとつ、ブーケが待機している。

「よくここまで頑張ったな、シンジ君。」

「加持さんのおかげです。でも…僕はやっぱり彼の気持ちを犠牲にしちゃったのかもしれない。」

わかってくれるだろうか。この期に及んで僕はそれがわからなくなってしまった。

「弱気になってもしょうがないさ。ちゃんと伝えればわかってもらえる。」

「はい…」

「おいおい。もしや、後悔しているなんてことはないよな?」

「まさか、違います。ただ…」

「ただ?」

「…ううん。何でもないです。誘ってもらえてよかったです。」

僕はふうっと息を吐いて前を向いた。

「彼に買ってもらうのは嫌だったので。」

その時、バケツの倒れる音が聞こえた。僕は慌てて店先に駆けてゆく。そこにはあの花が――僕の一番大切な花が、横倒しになって水溜りに濡れて散らばっていた。

「カヲル君…?」

辺りを見渡しても、クリスマスシーズンに賑わう人混みの中に、あの銀髪は見つけられなかった。



「遅いな、カヲル君…」

もうすぐ時計の針はイヴの始まりを示す時分。僕らの記念日はもうすぐ終わってしまうみたい。僕はこの特別な日を心に描きながら、ひとり溜め息を吐いてソファに座っていた。いつも帰宅する時間を大幅に過ぎている。残業になったとしても連絡ひとつないなんておかしい。もう何度も電話もメールもしているのに繋がらない。最近、少しずつだけれどカヲル君は穏やかになったと思っていた。でも…僕の頭に嫌な予感がよぎってしまう。嵐の前の静けさだったのかもしれない。

―警察に連絡したほうがいいのかな…

外はみぞれみたいな雨だった。どんよりと憂鬱が部屋中に垂れ込める。食卓に並んだ食事はすっかり冷めて蝋細工みたい。立てかけたブーケまで凍ってしまったように見える。でも何より僕の身体が寒くて寒くて震えてしまう。なんでこんなに指先が冷たいんだろう。室内をどんなに暖めてもカチコチに痺れている。本当に寒くて震えているのだろうか。

―もしも事故に巻き込まれていたら…

僕は思わず立ち上がった。生きた心地がしない。もう耐えられない。とりあえず誰かに連絡しよう。

その時、玄関のドアが開く音がした。僕は電気が流れたみたいに飛び跳ねた。

「カヲル君!?」

僕は玄関まで走っていった。そして叫び声を上げそうになる。カヲル君は雨にずっと打たれていたようにびしょ濡れで完全に血の気が引いていた。

「ど、どうしたの!?あ、待って、今タオル持ってくるから!」

僕が慌ててバスタオルを持って来たら、もう玄関にいない。水滴が足跡になって廊下の奥へと続いていた。辿ってゆくと水分過多の鞄が転がっていて、ぐちょぐちょに水浸しのスーツジャケットが脱ぎ散らかされていた。

そして半開きのドアの先、電気も付けないで寝室のベッドに倒れているカヲル君。早く脱がせて身体を乾かさなきゃ。僕は電気を付けて彼の元へ駆け寄った。カヲル君は泣いていた。

「風邪引いちゃうよ。とりあえず、温かくしよう。」

肌が透けるくらい濡れている。バスタオルで包んでも、もう、乾かす余地もない。

「こんなに濡れちゃって。お風呂に入ろう?沸かしてあるよ。」

無反応。待っていられない。僕が上体を起こそうとすると、ぐったりと脱力されて腕からずり落ちてしまう。

「ねえ、お願い。カヲル君、言うことを聞いて。」

青白い顔に銀髪の束が乱れて貼り付いている。それを掻き分けて赤い瞳を覗き込むと、仄かに宿る光が絶望に小刻みに揺れていた。

「君の心が僕から離れてゆくのが耐えられない…」

「ん?なに?」

歯の間から抜けるようなか細い声。僕が耳を澄ますとカヲル君は堰を切ったように喋り始めた。

「君の心が僕から離れてゆくのが耐えられない、君を僕だけのものにしたい、他の何も見えないようにしたい、この気持ちの差が苦しい…」

一遍に吐き出して、すうっと息を吸う。湿っぽい肺の音がした。僕が言葉を探しているとカヲル君は痛いくらい僕にしがみついた。

「君なしじゃ生きていけない…」

その瞳は狂気を孕んで瞬きを忘れていた。僕は壊れたガラスを想った。

「僕は寝癖も直せない。君がそうしたんだ。僕からひとりで生きてゆく力を奪ったんだ。僕は君がいなきゃ何もできない、する気にもなれない。君に見捨てられたら死んでしまう…」

「どうしてそんなことを言うの?」

「あいつのどこがいい?」

「え…」

「あいつには家族がいる。でも僕には君しかいない。親もいないんだ。家族は君だけだ。」

「あいつって、加持さんのこと?」

その名前を拒絶するようにカヲル君は叫んだ。

「あいつが…!あいつのせいで…!僕だけのシンジ君が…!」

カヲル君は僕の太腿に擦り寄って、嗚咽に肩をヒクヒクと震わせた。

「こんなことなら、君を縛り付けておけばよかった…」

いっそ僕を殺してくれ、そう、激しく泣くカヲル君。悲しみが溢れて抑えられない。僕は銀髪を腕の中に抱き寄せる。苦痛に歪んだ横顔の頬を撫でる。まるでお母さんにすがりつく小さな子どもみたい。こんなに苦しそうなのに、僕はそれがただの勘違いからだと知っているからか、愛おしくて、内心何処か嬉しくて、うっとりと彼を見下ろしていた。そして、心の奥で、蜜を舌に乗せるような甘い痺れを味わっていた。その喜びに震えることを許してほしい、そう、思っていた。

「僕が加持さんのこと好きだと本気で思っているの?」

「僕にはわかってるよ…」

その幼い鼻声に胸がきゅうっとなる。

「加持さんが好きだから働きたいって言ったって思ってるの?」

「じゃなきゃ理由がないだろう…?」

あんまり可愛くて、親指で濡れた頬をくすぐってしまう。

「あるじゃない。家にずっといるのに飽きた、とか。」

「僕がこんなに嫌がっても辞めないんだから、それは僕に飽きたってことだろう…」

「もう。ひねくれちゃって。じゃあさ、」

僕はとびきり甘く耳許で囁いた。

「カヲル君が好きだから働いたって証明したら、君のこと好きだってわかってくれる?」

寝耳に水だったらしい。カヲル君は驚いてピクリと固まって、涙が引っ込んでしまった。そして彼の頭を置いて部屋の外へ出てゆく僕を、息を殺して耳でずっと追っていた。

戻って来た僕はマリオネットみたいになったカヲル君をベッドの縁に座らせて、彼の前で両膝をついた。

「これ、僕からの気持ち、です。」

恥ずかしくて何故か敬語になる。僕はまるく大きく広がった花束を彼に差し出した。無数のマーガレットの咲き誇る純白のブーケ。誰が見てもブライダルブーケだけれど、僕たちにはそれ以上の意味がある。僕はカヲル君に貰った数よりたくさんの花を束ねていた。これは僕の気持ちだから。

「これは…?」

うまく飲み込めてない顔をして、両手でそれを受け取って、花の間に埋もれているメッセージカードを開く。そこにはただ矢印が下を差す。カヲル君が下を見ると――僕の手には小さなプレゼントの箱。

花が開くように指先を広げて捧げると、カヲル君はきょとんとしたままそれを手に取って、盛り上がる青い花びらみたいなリボンをするすると外した。そして彼らしくなく逸る心でパールホワイトの包装紙を破って、中の小箱の蓋を開けた。

「時計…?」

僕の心臓が暴れている。そう。僕はこの時にためにずっとずっと頑張っていた。

「カヲル君、僕が選んだのしか身につけてくれないから。」

やっと秘密を打ち明けられる。僕は解放感に笑みがこぼれた。

「高いのを買ってって言うのは気が引けて。でもね、」

まだ呆然としているカヲル君が可愛くて、そっと手に手を重ねた。

「どうしても自分で働いたお金で君にプレゼントしたかったんだ。」

瞬く間に目の前の顔に血の気が戻ってくる。染まった頬はみるみると耳まで熱くする。

「でも、君をこんな気持ちにさせてまですることじゃなかったかも。ごめんね。」

「…このためにバイトを?」

「うん。」

「僕にこれをくれようとして?」

「うん。僕の選んだ時計を毎日つけてほしかったんだもの。」

「何故、時計なんだい?」

「それは…」

僕は口ごもる。身体が熱くなるのを感じた。

「離れていても僕と同じ時間を過ごしてるって感じてほしかったから…」

「ああ…」

カヲル君は急に魔法が溶けたみたいにベッドに倒れた。ブーケと時計を抱き締めて「勘違いしていた…なんてことだろう…」とか恥ずかしそうに口の中でもごもごと言っている。僕がそんなカヲル君を見つけて「ヤキモチやきのカヲル君ってかわいい」と囁いたら、マーガレットの中に顔を隠してしまう。

「恥ずかしいよ。何ヶ月も僕は…君につらく当たってしまった。」

「僕だって君につらい想いをさせたもの。」

「余裕無かったよね。」

「うん。さっきは泣き叫んでたよ。」

「シンジ君の意地悪…」

どんな顔してそんなこと呟いてるんだろうと思ってブーケを下に引っ張ったら、その下にはとろとろにふやけたカヲル君がいた。拗ねた表情をしようとしてもすぐにふにゃっと緩んでしまう。「変な顔」と僕は笑った。

「本当に、君を失ったと思ったんだ。店で紛らわしい会話をしていたから。」

「あ。やっぱり聞いてたんだ。」

「今日は記念日だから…驚かせたかったんだよ。」

「もう昨日になっちゃたよ。カヲル君のバカ。」

嬉しいのか泣きそうなのかわからない表情。でも、この数ヶ月で一番幸せそうな顔をしていた。それにあんまり熱っぽく火照ってるから額に手を当ててみたら、本当に体温が高い。

「熱が出てきてるよ!今すぐお風呂に入って!」

濡れて半透明のシャツは驚くほど冷たかった。なんでこんなに我慢してるの、僕は焦る。

「まだ君と離れたくない。」

「わがまま言わないでよ。」

「まだこうしていたいよ。シンジ君…」

額に当てた手を取って唇を寄せるカヲル君。その仕草がとても愛らしくて、

「仕方ないな…」

僕はカヲル君に覆い被さった。そしてその淡い色の唇に触れるすれすれで立ち止まる。

「続きがしたかったらお風呂でね。」

今一緒に入ったら身体洗ってあげるよ、そう付け足すと、花の蜜につられた昆虫みたいに、カヲル君は素直に手を引かれていた。

運命ってどうなるのかさっぱりわからない。僕は三年もつらい片想いをした。でも、二年後には好きな人に、こんなことを言っているのだ。

「カヲル君は僕なしじゃ生きていけないんだから…」


それからカヲル君はまた少し変わった。

翌朝、案の定、カヲル君は高熱で寝込んだ。イヴの朝だった。僕は加持さんの店とは今月いっぱいの契約。この花屋の忙しい日に僕はしっかりシフトが入っていた。午前は僕、そして午後は復帰したてのミサトさんにバトンタッチする予定で、僕はまだまだ本調子じゃないミサトさんに無理させないよう、色々用事を済ませようとしていた。でも、カヲル君も滅多に出さない熱で朦朧としている。僕を必要としている。僕は悩んだ末にカヲル君を選んだ。そして電話を掛けようとした時、

「行ってきなよ…」

カヲル君は掠れた声で僕にそう囁いた。

「でも、」

「僕は大丈夫だから。薬も飲んだし。」

「…本当に、大丈夫なの?」

「僕はここで君と同じ時間を過ごしてるんだ。」

カヲル君は寝間着の袖から腕時計を覗かせた。大事そうに指先で撫でている。寝ている時につけないでよって言っても聞いてくれない。ずっと手につけて抱えている。生まれたてのたまごみたいに。僕はそれをからかえなかった。

「だから、僕は、大丈夫。」

尊いものが身体中の細胞を隅々まで満たしてゆく。僕の視界はやさしく歪む。

「ありがとう。」

唇を重ねたら、涙と一緒に想いがこぼれた。

「愛してる…」



それから寒い季節は過ぎ去り、あたたかい春がやってきた。

「シンジ君、お客さんだぞ。」

「はい…あ!」

僕は“恋が叶う”花屋で、初めて愛の果実を結んだ。

「すごいや…!」

初々しいカップルが帰った後、店先で思わず足踏みしていたら、加持さんに笑われる。

「未来は予想外だからな。同じ人間が違う相手に…ってこともあるからまだわからないぞ。」

「もう。僕の感動を奪わないでくださいよ。」

「はは。でもな、」

加持さんは僕の顔をキスしそうな距離で覗き込む。

「想い出は一生ものだ。たとえその誓いが叶わなくても。」

「加持さ――」

「だから何度言えばわかるんです!」

僕らの間に割って入る見慣れたシルエット。伸ばした手首に腕時計がキラリと光る。

「そうやって無意味に近づかないでください!」

「か、カヲル君…!」

あれからカヲル君は僕の仕事への熱意を理解してくれて、僕が働き続けることを了承してくれた。そう言えずにいた僕に、彼からそう言ってくれた。カヲル君は一生懸命僕のために変わろうとしてくれていた。

「ち、ちょっと近すぎるよ…」

でも、やきもちやきは相変わらず。加持さんに変に張り合って僕に身体を密着させるから、白昼に行き交う通行人の視線が痛い。どさくさに紛れて僕の匂いを嗅いでいるかたちのいい鼻。

「さっきラベンダーを手入れした?」

変な特技も習得している。息が耳に掛かってくすぐったい。

「近いって、」

「次は僕の番だよ。」

「え?」

「僕は君のマーガレットだろう?水やりで潤しておくれよ。」

手に持った如雨露から水がこぼれて陽の光でぱらぱらとプリズムになる。「いやはや、口説きの天才だな」なんて加持さんの声が聞こえてくる。

僕がもじもじしていると、カヲル君は僕の腰を抱いた。

「ランチは何を食べようかな?」


心を重ねて 千切れた気持ちを 繋ぎ合わせて ――


意味深に囁いてくる。そう、カヲル君は店に来るのにもう隠れない。花を贈る代わりに彼が僕の前に届くんだ。そしてしょっちゅう加持さんに突っかかって、加持さんは仕返しにたまにカヲル君の口説き文句を店で披露している。そして、カヲル君と僕は時間さえ合えば、こうして一緒にランチをする。

「店の前ではやめようって言ってるじゃない…営業妨害だよ、」

「そうかな?」

辺りを見渡すと人だかりができていた。どうして皆立ち止まるの!これは“恋が叶う”花屋の宣伝なんかじゃないよ!

「ねえ、皆見てる…」

「ああ、君の唇が恋しい。胸が苦しいよ、」

「駄目。駄々っ子しても聞かないからね。」


ひとつひとつ 確かめてゆけば 何も失っていなかったと知る ――


僕らの周りには春の陽射しを浴びて色とりどりの花が咲き誇っていた。陽だまりの風にそよいで柔らかく輝いている。よく幸せな恋人の周りに花が散っている描写があるけれど、僕らはまさにそんな感じ。全身で幸せを感じていた。僕が手入れした花たちがふたりを祝福しているみたいだった。

「どうしよう、シンジ君。枯れてしまうよ。」

じりじりと近づく君の顔。

「大丈夫、何度もお水あげなくても枯れないから。」

じりじりと背骨を反らす僕。

「…なかなか意地悪だね。」

「甘やかすのと育てるのは違うからね。」

あ、目の前の瞳が怪しく煌めいた。

「そう。じゃ、言い方を変えようかな。」


途切れないで 欠けないで 僕だけの君 ――


「僕のマーガレットをいつも美しく咲かせていたいんだ。」

そう言ってカヲル君は僕を思いきり抱き寄せて、キスをした。そうされると僕はその甘い蜜に逆らえない。ツヤツヤの花びらから朝露が滴るように、僕は君にぴたりと合わさる。つぼみが花開くように、この世界に新しいふたりの愛の瞬間が生まれる。そしてきっと、何処かでまた一輪の花が咲くんだ。その花びらは散って最後の一枚になる。その一枚を千切って――好き。そう誰か囁いた時、世界にはまた、新しい花が咲く。

だから、

「もっと。」




Fin.



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