“ヤキモチ”という言葉は“妬いてる気持ち”からきているという説がある。ぷくっと膨れる様子もそれっぽいかもしれない。でも結局のところ、嫉妬なんていうものはそんな可愛らしいものじゃない。

それは決して開かない密室のようなもの。じとじとした地下のその分厚い独占欲の壁は、いざとなればその仄暗さの中に想いの先を隠そうとする。鍵を閉めて鎖を掛けて、もう逃げられないように、言いくるめる。君は僕のものなんだ、と。

これは僕らが同じバスタブに浸かった一年後の話だ。



両想モノポライズ 中篇



目を輝かせて湯気を見ている顔に、出会った頃を重ね合わせる。僕が初めて鍋料理をふるった日。カヲル君は感動して涙ぐんでいた。何故だかわからなかった。僕が取り皿を手に取って「何がいい?」と聞いたら、君は何のことだかわかってなかった。だからお玉を持ちながら「お野菜が好きだよね?しらたきもいる?」と聞いたら、君は「全部」と答える。そうして僕が「ふふ、欲張りだね」と全種類の具材をてんこ盛りにして渡したら、君は宝物でも見つけたみたいに綺麗に笑ったんだ。


「わあ…美味しそう…!」

だから僕らは夏にだって鍋をやる。

「何がいい?」

「全部!」

笑い合う。これは僕らのお決まりのやり取り。カヲル君は幸せそうに屈託なく笑っていた。
僕は親友でいた3年間、彼にその感動の訳を聞けなかった。でも恋人になってからそれとなく聞いてみたら、彼の過去を少しだけ知った。


カヲル君は家庭の温かさを知らずに育ったらしい。何故かはわからないけれど、今まで一度も帰省した気配がないから、きっと家族の問題を抱えているんだろう。僕もそうだ。母さんを亡くした日から父さんとうまく折り合いがつけられていない。でもカヲル君は僕みたいに気持ちを全く表に出さないから、そんな暗い過去があるなんて露にも思わなかった。そう正直な感想を言ったら、こう言われた。

「君に恋してから僕は変わってしまったんだ。別に知らなくても気にしなかったものを、知りたくなってしまった。」

そしてこう告白された。僕がカヲル君と初めて会ったよりも少し前、カヲル君は僕に一目惚れをした、らしい。その時、僕は二日酔いのアスカを廊下で世話していたようだけど、フラグがありすぎて覚えていない。カヲル君とアスカは母国のドイツからの腐れ縁の関係で、カヲル君はアスカに僕のことを色々聞いた。“友達”になりたいって伝えた。カヲル君が誰かに興味を示すなんて初めてで、アスカは衝撃を受けた。そんな時にシェアハウスの話が持ち上がって、アスカはちょっと気を利かせてみたんだとか。

この隠されたエピソードを聞いたのは大学卒業の頃だった。

卒業パーティーの最中、僕たちが恋人になったことを誰にも秘密にしてこのまま終わってしまうのが心苦しくて、僕は一大決心。僕からカミングアウトした。居酒屋の二次会で、仲良いサークルの友達に囲まれて、僕が弱々しく片手を上げ「僕、永久就職しました!」って言ったらアスカがチューハイを盛大に吹き出す。僕はその時、永久就職の意味がよくわかってなかったから皆が「何の話?」って反応になると思ってた。それまで僕が就活に失敗したと思い込み労ってくれたケンスケが間髪入れずに「誰にだよ!?」と叫ぶ。すると、隣にいたカヲル君が「さあ、誰にだろうね?」と言って僕を抱き寄せ唇を熱烈に奪ったから、カヲル君と僕は一夜にして伝説になったんだ。SNSのせいで。

「誰のせいでそうなったと思ってんのよ!」

それからはアスカが何故か泣き上戸になり僕にムチャクチャな八つ当たりした。カヲル君にはボロクソに怒っていた。でも、綾波は一番に「おめでとう」と言ってくれた。彼女の静かな笑顔に僕は胸が痛かった。これが幸せの代償かと感じた。
でもそんな僕の隣では、本当に幸せそうなカヲル君がずっと笑っていて、気を抜くと舌を入れるキスをされそうなくらいうっとりと僕を見ていた。トウジが「惚気んなや、こっちが照れるわ」と冷やかしたら、

「惚気ていないよ。幸せすぎて、表情をうまくつくれないんだ…」

だって。そう言ってふにゃりと照れるカヲル君。その瞬間、僕は、これでよかったんだ、と確信した。
そしてこの日初めて、飲み過ぎたカヲル君を介抱するという貴重な体験をすることになる。カヲル君は飲み過ぎると赤ちゃんがおっぱいを強請るみたいに甘えん坊になるんだと知った。あのクールなカヲル君が!


「ふふ。」

「どうしたんだい?」

僕が鍋をハフハフしながら一生懸命食べてるカヲル君をニヤニヤ見つめていると、気づかれた。

「酔っぱらいカヲル君を思い出してたの。」

するとカヲル君が椎茸を喉に詰まらせ噎せ返る。僕は何かと「シンジ君、おっぱい」って帰宅した玄関で胸をチュパチュパされた想い出を語るもんだから、それだけで威力充分。消え入りそうなくらい照れる真っ赤なカヲル君は、本当にかわいい。

「ら、来週の、予約席のチケット、取ったよ…」

来週のお盆はふたりで僕の母さんの墓参りに行く予定。現在の日本の法律では男同士の結婚はできない。だから僕らは永遠に婚約のままかもしれない。でも、実質、事実婚だから。カヲル君と僕が唯一報告できる肉親、母さんのお墓の前で愛を誓い合うことにした。もしかしたら音信不通の父さんにも遭遇して、僕の幸せを見せつけられるかもしれない。

「ありがとう。でも、おっぱいはあげないよ?」

僕が大笑いすると、カヲル君が「今日のシンジ君は意地悪だ」なんてしょんぼりいじける。だから「ほら、大根いっぱい余ってるよ?」って取り皿とお玉を手に取ったら、

「シンジ君のその仕草、好きだよ。」

なんて目を細めて微笑む恋人から口説かれた。

「何の仕草?」

「お鍋を装う時の。少し屈んで伏し目がちで、楚々としていて、あったかい。初めて見た時にもう、君と結婚したいって思った。」

「…今日はおしゃべりだね、カヲル君。」

耳が熱い。今日、君に抱かれたら、僕はこの言葉を思い出して淫らになってしまうかもしれない。僕はカヲル君の瞳をまっすぐ見られなかった。僕の胸は未だに君に恋をしていて、たまにドキドキが止まらなくなる。

結局、その晩、僕は何度もカヲル君を求めた。もっともっと、どうしてもそう体が揺れてしまう。大人の愛情表現を重ねて、僕は昔よりも大胆になっていた。学生の頃の、横顔を見つめていた気持ちを思い出して僕が悶絶していると、足の間には感じ入って紅潮したカヲルの姿があった。柔らかい舌で僕の内腿を舐め上げて、火照った頬を擦り寄せて、潤んだ瞳で僕だけを見つめる。好きだよ、と告げるように。

僕は君に出会って、醒めない恋があることを知ったんだ。



「今日はどれかな?」

「んー、これ?」

平日、毎日ネクタイを選ぶ。これは専業主夫の僕の役目。

カヲル君はスーツを着る時、いつも僕がクリスマスにあげたタイとピンを身につけていた。毎日毎日。これじゃすぐにボロボロになってしまう。「他にも持ってるんだからたまには変えなよ」ってアドバイスしたら、他のはいらないって全部捨てちゃうんだから、困った。僕の旦那さまは頑固なんだ。

だから僕は「毎朝、カヲル君のネクタイを選ばせてよ」なんてうまいこと言って、彼に他にも何種類かプレゼントしてあげた。甲斐甲斐しい主夫。それに一緒にお店でネクタイを試着している時の、あの笑顔。どんな美人の女の子に「渚君、かっこいい」なんて言われても眉ひとつ動かさないのに、僕が「これ似合ってるよ」って言うだけで喜んじゃうんだ。だからつい余計に見立ててしまう。でも家計簿だって僕の役目だから気が抜けない。この時には既に僕たちのお財布はひとつになっていた。


僕たちは閉鎖的な生活を送っていた。カヲル君は人付き合いもなくて僕ばかりだった。本当に僕ばかりで、心配になるくらい。

「いってらっしゃい!」

こうしてカヲル君を送り出してから玄関で「ただいま」を聞くまでの間、この家は僕ひとり。家事が早く済んでしまっても、何が何でも、ひとり。これには理由があった。

カヲル君が入社して3ヶ月目のある梅雨明けの頃、ひとりの女性がこの家を訪ねてきた。スレンダーな美人。彼女はカヲル君の同僚で、同じ部署で、仲が良いんだとか。それで今日はカヲル君の忘れ物を届けにきた、と僕に話して聞かせてくれた。それは仕事用のペンで、先日カヲル君が失くしたと言っていたもの。彼女はまるでそれを自分の部屋に泊まった時に彼が忘れたの、とでも言いたげに思わせぶりな顔をした。

僕は急に不安になった。僕の知る限りカヲル君が外泊した記憶はないけれど、平日に仕事のフリして彼女の家に行くことだってあり得る。カヲル君がそんなことするはずないとは思っていても、完全に否定できない自分がいた。前々から、僕なんかをカヲル君が好きになるなんて絶対におかしい、と僕は心の何処かで腑に落ちないでいたのだ。捻くれた心はその最大のミステリーを誰かに説明して欲しがっていた。だから彼女の言い分を了承して、家に上がってもらった。その時ちょうどカヲル君は車のガソリンを入れにいってくれていた。

彼女は僕がお茶を用意している間にも忙しなく喋り続けた。そこで初めて僕はカヲル君が会社でも学生の頃と同じように羨望の眼差しを向けられている事実を知った。予想していたけれど、いざ他人からそう聞くと、僕は胸に波が立つのを感じた。

「碇さんは渚さんとシェアハウスは長いんですか?」

「そうですね。」

ふーん、と頷いて、彼女の目は部屋中をキョロキョロ詮索していた。カヲル君について知りたいんだな、と気づいて僕はわざと詳しく答えないようにした。彼女に彼のことも僕たちのことも知られたくなかった。でも彼女はめげずに巧く会話に混ぜて色々と聞いてくる。私にだけ教えちゃってくださいよ、なんて内緒話のトーンで共犯を仄めかす。しかもちょっと、上から目線。初対面の人と、特にこんな派手目な女の子と話すことに慣れていなかった僕は、目を泳がせないように言葉を濁すのに必死で、自分からは何も切り出せない。

「渚さんって指輪していますけど、フェイクですよね?」

「…フェイクじゃないと思います。」

「でも、奥さんがいてあなたとシェアハウスなんておかしくないですか?」

「……」

僕は思わず自分の手に光るそれを机の下に隠した。彼女にとって僕はカヲル君の友達にしか見えないんだろう。彼女は僕の口から“あの指輪は変な女に近づかれないためのニセモノなんです”とか“実は奥さんとは離婚間近で、僕の家に転がり込んで来てるんです”なんていう打ち明け話を聞きたくて仕方がないみたいだった。あの手この手でそんな答えに結びつきそうな質問ばかり。僕が彼女の望む答えをあげないから若干苛つかれてる。僕はもう逃げたかった。何だか現実を突きつけられて夢から醒めた気さえした。僕は壮大な勘違いをしているのかもしれない。得体の知れない惨めさで窒息しそうだった。

そんな時、カヲル君は帰宅した。

外で車の走行音が消え、キーロックの音がした。僕の内臓が冷水に浸かる。どんな反応をするんだろう。最悪の場合、“あ、バレた”って反応をするんだ。それはどんな顔なんだろう?でもたとえ、“あぁ、君か!”なんて仲良く会話を弾ませられても、今の僕なら泡になって消えてしまう。認めたくないけれど、僕なんかよりも彼女みたいな煌びやかなタイプの方がカヲル君には似合っている。それに同じ職場なんだから相当才色兼備なはず。女性だから、彼女が僕の立場だったら“奥さんですか?”と誰も疑わずに聞くだろう。僕は邪魔者じゃないか。途方もなく、そねむ心。

「ただいま…」

あ、僕は壁の向こうのカヲル君の姿がまざまざと想像できた。玄関にあるハイヒールに気づいて固まるカヲル君。ぐしゃっと買い物袋が落ちる。僕、頼んでないのに何買ってきたんだろう。廊下を駆け出す足音。近づく。目の前の彼女が期待して、緊張してる。怖い。あぁ、どうしよう。ドアが開く。夢が終わるかもしれない。怖い。

でもカヲル君は僕の予想を遥かに超えていた。

「…誰?」

開口一番、絶望の表情で僕を見て尋ねる。内心ずっこける僕。あ、でも、それなら…僕はいけない人を家にあげてしまったかと、足がすくむ。

「渚さん?あの、先日会議で隣だったーー」

焦った彼女が慌てて自己紹介する。やっぱり知り合いじゃないか。

「誰?」

それでももう一度、彼女を遮って掠れた声で僕に聞いてくるカヲル君。彼女に一瞥もくれない。目にも映したくないという冷たい拒絶を感じた。

「…カヲル君の会社の人だよ…たぶん、」

僕はちょっと拗ねた声を出したかもしれない。

「知らない人を僕らの家にあげたの?」

でも、カヲル君はまるで僕を責めるような声だった。僕の頭がこんがらがる。

「わ、忘れ物を届けに来てくれたんだよ、」

「外で受け取ればいいじゃないか。」

「え、でも…」

赤い瞳が僕を睨む。

「せっかく来てくれたんだし…」

何故か僕が申し訳なさそうな返答をする羽目に。困り果てた僕を見つけて目を伏せるカヲル君。それからひと言、彼は壁にでもぶつけるようにこう吐き捨てた。

「ここは僕とパートナーの家だ!部外者はさっさと出て行ってくれ!」

彼女は目を見開いて僕を見た。それからペンを置いてそそくさと退散した。つまずく後ろ姿が何だか可哀想だった。でもきっと、僕も彼女もカヲル君の言動がちっともよくわからなくて困惑する方が強かったと思う。

彼女が出て行ってすぐ、カヲル君はまるで邪気を祓うかのように部屋中の窓を開けて換気をした。目が血走っていた。すごく興奮して落ち着きがなかった。僕はそんな異常事態の彼をとりあえずベッドに座らせた。全身が震えている。その憔悴した顔を覗き込む。

「カヲル君?」

じわっと赤い瞳に涙が浮かぶ。ぎょっとした。

「どうしたの?」

するとカヲル君は弱々しく深呼吸をして、こう言った。

「僕は君を信じてる。信じているのに、さっき玄関を開けた時、最悪な想像をしてしまった…」

僕も同じなのに。カヲル君は震えが止まらない。シーツを痛いくらい握り締めている。その指先が冷たくて、両手で包み込む。

「そんなことあるはずないじゃない。ガソリン入れてる間だよ?」

笑って雰囲気を和ませようとしたけど、カヲル君は笑わなかった。

「…シンジ君、」

「ん?」

「約束してほしい。」

痛切な声だった。

「もしも君の心が僕から離れてしまったら、僕に告げないでほしい。告げないまま、僕を殺して。」

涙が音もなくこぼれた。絶望の末に微笑っているような顔。僕は前にもこんな台詞を聞いたけれど、より現実味を帯びた響きがした。

「…ありえないよ。」

「お願い、」

「ありえないもの。」

僕はカヲル君をきつく抱き締めた。背中をさすって、震えが止まるように温めた。僕の腕の中ですがりつく彼はまるで小さな子どもだった。僕は彼の中に巣食う仄暗い穴に感づく。それはとても哀しくて、もどかしかった。何かがとても欠乏していて、溺れるくらい、重症。僕はそんな彼の処方箋。それが僕の使命。そう思った。

それから僕はベッドに押し倒されて、その白い体の中を渦巻く強迫観念を癒すかのように、赤い痣を落とされ続けた。その時折、聞こえてくる。「ここは僕たちのサンクチュアリだ」「シンジ君は誰にも渡さない」なんて幼い響きの言い訳が降ってくる。僕はその度に「うん」「そうだね」と頷いて、目の前の銀髪をやさしく撫でた。甘えて擦り寄るカヲル君にされるがまま横たわっていると、やがて日は暮れ、玄関では放置された僕のお気に入りのアイスが液体になった。

僕はそれから誰も家に入れていない。カヲル君がもう二度とこんな哀しい発作を起こさないために、僕は細心の注意を払って生きている。


その後、僕はカヲル君のその行為について気になって調べてみた。そしてひとつの謎が解明された。

“キスや前戯で相手の体を舐める行為を丹念に繰り返すと、相手の体にかすかな臭いやフェロモンが付着。すると他の異性は近寄りにくくなる。恋人に浮気をされたくない場合、それらの行為をおろそかにせず、丁寧に時間をかけて行う事が大切である。”

それを知ってしまった時の僕は、全身、カヲル君に抱かれているような恍惚で目眩が止まなかった。僕はカヲル君の分泌物によって、世界から囲われているのかもしれない。そう想うと堪らなく嬉しい自分がそこにいた。



残暑の湿った風が乾いて濃緑の色褪せる初秋、僕は久々にアスカと綾波に会った。ふたりとも元気そうで、僕たちはいつまでも居心地のいいカフェで話に花を咲かせていた。女の子に人気の店内、行き交うガールズトークに混じって笑う僕のあまりの違和感のなさに、自分でも驚いた。同性とくっついた僕は何かしら女性の要素があるのかもしれない。

「はあ?呼んでないんだけど。」

話しても話し足りない、そんな時、陽だまりのカフェがざわめいて、アスカが僕の頭上に唾を吐く顔をする。見上げると、

「呼ばれてないと来てはいけないのかい?」

確か仕事中の、スーツ姿のカヲル君。

「あれ?どうして?」

「仕事を切り上げて来たんだ。」

油断してると頬にキスされて、店の空気が揺れる。当然のように綾波を移動させて僕の横に座るカヲル君。ふたりの椅子がかなり近づく。

「僕のフィアンセに何か用?」

これ見よがしに僕の左手を取って、ふたりのプラチナを重ねる。

「この日本はあんたの思う通りにはいかないわよ。ましてや同性婚なんて。」

「別に。痛くも痒くもないね。」

「あんたも目を覚ましなさい!」

いきなり指を差されて。さっきまでそんな話題は微塵もなかったから、動揺する。

「横恋慕とは醜いな。」

そこでカヲル君はドイツ語で何かをベラベラ話し始めた。火が点いたようにアスカが応戦する。僕と綾波はキョトンとしてその争いを見守っていた。そして僕らが集中力が切れてもじもじストローの袋を折って遊び始めた頃、キレたアスカが僕らに何も言わずに席を立ってしまう。綾波は僕に小さく手を振り彼女の後を追った。僕が説明を欲しそうに横目で見ると、カヲル君は晴れやかに、

「母国語で自慢話をしていたのさ。」

とニッコリ笑った。あんまり清々しく言うから、僕はちょっと怖いと思った。


帰り道、繁華街の賑やかな舗道をふたりで並んで歩く。僕は久々に会った友達とあんな別れ方で残念という気持ちが消えない。カヲル君はそんな僕の態度を感じて、黙って僕の手を握った。隙間なく結ばれた恋人繋ぎ。まだ陽は明るかった。

「ねえ、」

しばしの沈黙の後、声を掛ける。それを待っていたかのように、カヲル君が瞬時に振り向く。

「何だい?」

「どうして僕なの?」

僕はまっすぐ前を向いていた。ずっと知りたかった疑問。そのもやもやした気持ちを隠すように。

「カヲル君みたいな人が僕を好きになってくれたなんて未だに信じられないや。」

「僕みたいな人って?」

わかってよ、と思う。

「皆の憧れで、やさしくて…完璧で、」

「それはシンジ君だろう?」

「どうして僕なのさ!」

ムッとした。カヲル君は僕の採点が甘い。甘すぎる。

「今日だって僕の恋敵と会ったばかりじゃないか。」

含みのある言い方。立ち止まって考える。

「でも、綾波は…彼女の一時の気の迷いだよ。」

「惣流さんは?」

「アスカ!?」

カヲル君はなんだってライバルにする。

「あはは!ただの幼馴染みだよ。」

「彼女は諦めきれないようだけれど。」

何の話?僕が訝しげに見上げると、カヲル君はパッと面白そうに笑った。

「あは!シンジ君は残酷だね。これは彼女に同情するよ。」

嬉しそうにほくそ笑んで僕を見ている。

「…カヲル君の方がおかしいや。」

顔が逆上せる。僕は今まで考えなかった。その可能性を。考えれば少ししっくりくる部分があるけれど、でもだから何かできるわけでもない。僕はもう、考えないことにした。

「僕は君に選んでもらったんだ。」

その言葉には重みがあった。

「そんな、違うよ。僕、最初からカヲル君だけだし、」

「でも、綾波さんと付き合おうとしただろう?」

「あれは…!カヲル君のことを諦めたくて、」

恋の苦みを思い出して繋いだ手に力が入った。

「僕はね、シンジ君。今でも毎日怖いんだ。君を誰かに奪われてしまったらって。君を信じていても、君を繋ぎ止められる自信がまだ持てない。ずっと持てないかもしれない。」

強く握り返された、手。好きで好き堪らなくてもずっと握れなかったそれ。どうしてきつく握り合えてるんだろう。一年前の僕は、こんな未来、想像もしなかった。

「おかしいね。」

僕の胸を染め上げる、切なさ。

「3年間…僕はカヲル君に好きになってもらえるなんて思いもしなかったから、必死で自分の気持ちに気づかないようにしたし、君を嫌いになろうとしたし、勘違いしないようにしたんだ。つらい片想いをしたんだよ。」

ふたりは並んで歩いてゆく。

すると、カヲル君は「ちょっと待ってて」と花屋に立ち寄った。言われた通り店先に佇んでいると中からは一輪の花を持った、僕のフィアンセ。目の前で片膝をついて僕にその黄色を掲げる。

「僕を信じてくれてありがとう。」

その白い指先に咲く花は、マーガレットだった。


昔、この花でカヲル君と一緒に遊んだことがある。ある日、カヲル君が花束を買ってきて「君の気持ちを占うよ」と束の中から一輪を取り出した。ソファに座って僕らはその黄色い花びらを眺めていた。カヲル君が「君は僕のことが…好き」と言い始めて、心臓が飛び出しそうになった感触を今でも覚えてる。それから「嫌い、好き」とずっと続いて、その度に花びらは一枚ずつ千切られてゆく。でも、最後には必ず「好き」になる。何度やっても「好き」になる。僕は好きな人の15センチ隣で冷や汗をかいていた。「念が投影されるのさ」なんて囁かれて僕は泣きそうになった。心がこぼれそうだった。

そしたらカヲル君が種明かし。マーガレットの花びらはほとんど奇数だから、最初の言葉が最後になる。だって。僕は「嘘つき」と彼を怒った。その時、カヲル君はこう言った。「僕を信じて」「信じればいつか本当になるから」と。それから、僕は苦し紛れにこう返してしまったんだ。「男は男を好きにならないよ」と。あの時、カヲル君は片想いの相手にそんなことを言われてどんなに傷ついただろう。


そして今、僕はその花を堂々と道の真ん中で受け取った。もう想いを隠さない。通りすがりの男の人が口笛を吹く。女子高生が道端で騒いでいる。

「嘘つきは僕の方だって知ってたの?」

「ううん。けれど、そうであってほしいと願ってた。」

視界が揺らぎ、大好きな匂いに包まれる。カヲル君の、愛しい香り。僕はその腕に抱かれて、今、天に召されちゃってもかまわないってくらいの幸せを噛み締めている。きっと僕は世界一の幸せ者。どうすれば想いを伝えられるだろう。

この気持ち、かたちにしたい。

今思えば、この考えがすべての始まりだった。



「バイトをしたい?」

「うん。」

「何故?」

夕食後、ふたりでソファでくつろいでいた時に、僕は思い切ってそれを切り出してみた。すると呼んでいた本をパタンと閉じてカヲル君が向き直る。驚いた顔をしていた。

「何故って…」

返事に窮する。夜な夜な考えて煮詰めたこの計画をバラすわけにはいかない。

「欲しいものがあるのかい?お金は足りない?」

「いや、えっと…」

「僕に至らないところが、」

「え、ちょっと、違うよ!」

いつになく早口。話が変な方に流れていきそうで、慌てて言葉を重ねる。

「その、カヲル君のいない時間は暇だし…やりたいことができたらやっていいってカヲル君、前に言ったよね?」

その瞬間、彼がひどく傷ついているように見えたけれど、僕は気のせいにした。

「……そうだね。」

長い沈黙の後にそれだけが返ってきた。そんなに躊躇うものだろうか、と僕は不思議だった。でも、

「僕は…君を満足させてあげられなかったんだね。」

途方に暮れた声で呟かれて、ハッとする。

「待って、そういう意味じゃないよ。」

僕がカヲル君に言い聞かせるように一言一言大事に伝えると、カヲル君は瞳を揺らして、ゆっくりと頷いた。

「わかっているよ…」

その哀しい響きは、言葉の意味とはまるでかけ離れて聞こえた。

しばらく僕らは見つめ合っていた。それから、カヲル君は僕になだれ込み、苦しいくらいに掻き抱いて、唇を塞いだ。まるで最後の瞬間のように必死で、力強くて、その熱が僕を焦がす。何故そうなったかはわからない。でも、僕の胸は早鐘を打つ。好きな人に激しく求められて、拒むことなんてできない。熱い体に触れて、それだけでは終わらないとわかって彼をベッドに誘った時、時計の針はまだ寝るには早い数字を指していた。

シーツの上にやさしく押し倒されて、耳許で「好きだよ」と囁かれる。愛撫とマーキングの間、「好き」が絶え間なく注がれる。カヲル君は情事の間は滅多に言葉を発さなかった。僕たちは何処かまだ開き直れずに、水音の響くばかりの静かな夜を重ねていた。だから僕はその噎せ返るような「好き」にあてられ、どんどん敏感になってしまった。「僕のシンジ君」と耳打ちされるだけで、張り詰めた先端から露が溢れる。長い長い執拗な前戯。僕の全てを制覇して、快感で埋め尽くしてゆく。

「ここがいいんだよね?」

「ぁ…」

内腿を舌でくすぐられた。手を口に添えて、指先を食んで我慢しても、堪らず喘ぎが漏れてしまう。

「もっと聞かせて?」

今日はなんでこんなにおしゃべりなんだろう。僕は混乱して、それにすら感じていた。すると、イキたくてうずうずしている下腹部をねっとり咥えられる。音を立てて吸い上げられて甘噛みされる。普段舐められたことしかなかったから、僕は慌てた。ジタバタしても手で頭を突っぱねても止めてくれないカヲル君。踵でシーツを蹴っても腰を押さえつけられて、根元まで絶妙に絞られた僕は枕にしがみつき、間もなく爆ぜた。

「…ッ!」

ゴクリと鳴る白い喉。出したものを飲まれたんだと知って羞恥に震える僕。あぁ、飲んじゃうなんて。まだ挿れられてもいないのにひとりで先にしてしまって恥ずかしい。いつもふたりで一緒にしているからちょっぴり寂しかった。

「聞かせてくれないのかい?」

「…え?」

でもそんな僕の気持ちはおかまいなしで、君は進んでゆく。息を整える間もなく、後ろを指で掻き混ぜられる。ひくつく内壁。体が好きな人のかたちを覚えていて、強請ってる。二本の指で広げられてゆくと、今の僕は期待に胸が高鳴ってしまう。肩で息をしていたら、物欲しそうにしているそこに熱くて硬いカヲル君が入ってきた。

「んぅ…」

膝裏を持ち上げられて、体を捻られ、角度をグリグリ変えられてゆく。逃げ腰の僕をつかまえて、探している。僕の気持ちいいあの箇所を。

「ぁっ!」

ある角度で僕の体はピクリとしなった。もう一度擦られて、電気の流れたみたいに体が大きく反り返った。僕はそこを攻められると全身で痙攣してしまう。深く沈むような快感で息もできない。

「シンジ君、もっと…」

「や、ぁ…!」

卑猥な声で囁かれ耳穴に舌を挿入されて、悶絶した。それからカヲル君はその箇所ばかり激しく突いた。僕はシーツにしがみついて絶え間なく押し寄せる絶頂に、だらしなく前から白濁液を垂らしてしまう。その小刻みな痙攣がどんな状態か知っているのに、カヲル君は何度も何度も僕をイカせる。暴れても止めてくれない。怖がった僕が「やだ!」と泣きべそをかくと、怒ったように力任せに余計に速度を上げられしまう。僕は喘ぎが止められず、それは叫び声になり、ついには泣き声が部屋中に響き渡った。

そして体に力が入らなくなったへなへなの僕をうつ伏せにして、今度は体重を乗せて突き上げてくるカヲル君。背位で抱かれてその勢いに潰れた僕は枕に額を擦り付けていた。唾液まみれで玉の汗が流れる。腰だけが別の生き物みたいに艶かしく波打ってしまう。カヲル君のそこはもう弾けそうなくらい張り詰めているのに、乳首を指で弄ばれて、弱点の首筋を舐め上げられて、止まない愛欲。僕はもう苦しいほどの快感に泣くことしかできなかった。カヲル君はこれ以上は無理ってくらい激しく腰を動かしながら忘我の声を漏らした。初めて聞く声帯を震わす喘ぎ。そして一番大きくそれを吐き出して、僕の腕をグッと引っ張り、僕の中に思いきり射精した。その熱さに目眩を覚えて僕の目は真っ暗になる。



そんな僕が目覚めたのは明け方だった。薄暗い夜明けの青。瞼を開けるとカヲル君が僕を見ていた。ずっと見ていたように感じた。

「つらくないかい?」

毛布の内側で僕の素肌を摩る手のひらの温もり。

「ん…大丈夫。」

本当は体が鉛みたいだった。まだ体内に余韻が残っていた。でも、

「体、洗ってくれたの?」

「うん。」

体の表面はさらっとしていた。お風呂に入ったみたいに。それに、

「…中も?」

「うん。」

僕は全部の毛穴から湯気が吹き出すくらい恥ずかしかった。お尻までさっぱりしている。どうやって?まさかお風呂で掻き出したの?何にも覚えていない。いつも僕の体を気遣ってコンドームをしてくれるからまさかとは思ったけれど…僕はそんな所を洗われたまま、寝ていたの?僕は思わずカヲル君の胸に顔を埋めた。

「ごめん…気絶しちゃうなんて…」

あぁ、そんな姿見られたくなかった。泣きそうだ。

「気持ちよかったかい?」

頬をするする撫でる指先。事後にそんなこと聞かれたのは初めてだった。蒸発してしまいそう。戸惑いながら、僕は小さく頷いた。

「うん…」

そして耳許に吐息混じりの甘えた声で「すごく気持ちよかった」と囁くと、カヲル君は嬉しそうに微笑んだ。僕だってこんなことを言うのは初めてだったから、驚いたのかもしれない。

でもそれから、カヲル君は思いも寄らないことを口にした。

「寂しくさせてしまって、ごめん。」

カヲル君は僕を大事そうに手繰り寄せた。ギュッとされる。

「もっとシンジ君のことを考えるべきだった…」

僕は寝起きの頭で考えた。何の話?

「週末は遠出のデートをしよう。」

どういう展開かわからない。でも、

「うん…」

僕はその誘いにうっとりしていた。

「どこに行きたい?」

「えっと…まだわかんないや。カヲル君は?」

「君の行きたい場所に行きたい。」

夢見心地だった。ふたりの指先が絡んでじゃれ合っている。

「そうだ。今度、家で観るプラネタリウムを買いにいこう。シンジ君、欲しがっていただろう?」

「え、いいよ…」

「僕も欲しいんだ。」

「そう?」

「そう。」

「…じゃ、うん。ありがとう。」

えへへ、と僕が嬉しくてふやけていると、カヲル君は体を離して僕の顔を覗き込んだ。顎を上げて猫みたいにこちょこちょされる。

そして会話は思わぬ着地点へ。

「今度からお昼を一緒に食べよう。」

「ん?」

「君に出向いてもらうのは悪いけれど、待ち合わせして、一緒に食べようよ。」

僕はこの言葉の意味を考えなかった。

「あ、でも、バイトが始まったら…時間合うかな?」

その瞬間、カヲル君の顔から血の気が引いた。笑みが消えた。ショックで声も出ないという感じだった。そんな顔を息のかかるほど近くで見て、心臓が止まった。でも、と僕は困惑する。でも、数時間前にちゃんと君に話したじゃないか。君も了承してくれたじゃないか…渋々だけれど。

「…お昼の時間が重なったらいいね。」

しばらく待ってもカヲル君は何も言わなかった。凍ったみたいに動かなかった。ただ、赤い瞳は涙でキラキラ揺れて、僕をじっと見つめていた。まるで何かを探しているようだった。だから、

「できたら、一緒に食べようね。」

僕は明るく振る舞ってみる。僕の髪先も爪先もカヲル君への愛情でいっぱいなんだとわかってほしくて、腕の中に彼をつかまえる。

でもカヲル君は頷かず、僕の肩に顔を擦り付けてじっとしていた。何かに耐えるように縮こまっていた。そして、鎖骨が涙で濡れた。嗚咽を呑み込んで、怯えるように震えているカヲル君。僕はいつかのカヲル君を想った。同じなのかもしれない、終わりよりも死を懇願したあの日と。そしてそれはどういう気持ちなのかと目を閉じて考える。

「好きだよ、カヲル君。」

すべてをわかってあげられないのが、悔しい。

「僕を好きにしていいよ。」

とたん、首筋に滑らかな歯が軽く立ち、甘い痛みが一点に走る。それはやがてじわじわと全身に広がり、夜が明けるまで続いた。気の遠くなる官能的な儀式だった。

全身に咲く所有の花。僕は身を捧げながら、想う。

もしかしたら、カヲル君は僕をこの部屋にずっと閉じ込めたかったのかもしれない。



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