夜明けの詩が聞こえる
たまゆらの事象 続篇



私は全力で駆けてゆく。追手に捕まったら、唯では済まない気がするから。何か少しでも考えたら足が竦んで縺れてしまいそう。だから私は実直なくらい目の前の道を走り抜ける。

「いくら走っても無駄だよ。この先は行き止まりさ。」

都会の湿っぽい路地裏にエコーする追手の声。私はそれをハッタリだと自分に言い聞かせて逃走の速度を緩めなかった。だから私は蔦の生い茂り先の見えない、仄暗いひび割れたトンネルの中に突っ込んだのだった。

随分先に出口の希望の光が見える。鼠や爬虫類の棲家のようなこの空洞は私のかち割るような尖った足音を螺旋状に反響させて時折水音を響かせる。不思議とアイツの足音はしなかった。

「…うわ!」

私は転びそうになりながらもどうにか静止した。爪先からは小石が深淵の底へと最後の名残を響かせて落下。そう。その先はアスファルトの大きな陥没があった。無慈悲に希望を切り裂くそれは女の私ではとても跳び越えられそうにない。ここまでか。

「ほら、言っただろう?往生際が悪いね。」

気がつけば、背後に冷たいアルトが聞こえる。振り返ると目の前にはーー

「さあ、それを返してもらおう。」

ーー絶世の美少年が居た。

「はあ!?追ってたのはこんな美少年だったんですか。なら逃げなかったのに。逃げ損だわ。」

「…それを渡してもらおうか。」

「薄暗くてよく見えないなあ、勿体無い。鬼気迫る感じだったから秘密の組織にでも追われてんじゃないかと思ったのに。もう。疲れた。」

「君、話を聞いているかい?」

「どうして私を追ってきたんです?ナンパなら大歓迎なんですけど。」

「まさか。君のその手に持っている物を渡してもらいたいだけだよ。さあ。」

手にーーそうだ。握りしめていた。さっき私の頭に降ってきた物を。

「え。私盗んだわけじゃないですよ。降ってきたんです。まあいっか。はいどうぞ。」

私がその天然石のようなそれを差し出すと、美少年は満足そうに微笑んだ。そして其の侭何も云わずに踵を返すのだった。

「ち、ちょっと待ってくださいよ!それ、そんなに大切なものなんですか?」

「…君には関係ない。」

「あなたが急に全速力で追っ掛けてきたからこんなに走る羽目になったんですよ。だから私には知る権利があります。」

「君が勝手に逃げたんだろう?」

「…あなたが勝手に追って来たんです。」

「…これ以上僕を怒らせないでほしいよ。」

そう言って美少年の瞳が紅い焔のように発光したから、私の背筋は瞬間冷凍。私はファンタジーの世界の中に迷い込んでしまったらしい。私の腰はふにゃりと抜ける。


「ーーカヲル君!!」

その時、トンネルの入り口からボーイソプラノが凛と投げ掛けられた。それはまるで天使の救済のようで、私の胸をときめかす。

「シンジ君!どうしてここに…!」

「GPSだよ。もうすぐ満月だからね。話し合ったでしょ?」

「ああ、そうか。そうだったね。」

「駄目じゃないか。女の子に、何してるの?」

「違うよシンジ君!彼女が僕達の宝物を奪ったから返してもらっただけさ。紳士的に対応したよ。」

「…本当?ーー大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」

手を差し伸べるこれまた美少年。今日の私はとてもツイているみたい。美少年が磁石に吸われるようにして私の元へとやって来る。私がその手を取ろうとすると、紅い瞳の少年が私の手を思いきり振り払った。

「彼女にそんな事する必要ないさ。自力で立てるよ。」

「もう!カヲル君は!僕以外の人にも優しくしなよ!」

紅い瞳の少年は渋々私の身体を起こして、とても嫌そうに私の顔を一瞥した。

「もういいだろう?では、サヨウナラ。」

「待ってください!それは結局、何なんですか?」

「君は本当にしつこいな。苛々するよ。」

「カヲル君……これはね、僕らの想い出が詰まったものでねーー」

「多面体ユーフォリア。愛の夢の結晶さ。」

紅い瞳の少年が残りを紡いで、白い指先にそれを掲げる。すると、昼の陽の下では黒や紫の水晶体のように煌めいていたものが、この暗闇の中では七色の眩しい光を放っていた。多面体の光り輝くクリスタル。さっきまではそうではなかったのに。

「想いの持ち主にだけ、本来の光を放つ、生命の樹に成る完熟の実。並行世界の僕らを繋ぐ、神の慈愛の涙の化石。君はパラレルワールドを知っているかい?」

手の中で輝くそれにうっとり見惚れながら、紅い瞳の少年は雄弁に語り出す。誇らしく、自慢げに、ノリノリで。さっき勿体ぶったのは一体なんだったのか。

「…何となくわかるようなわからないような。」

「つまらないね。君、SF小説を読んだ事はないのかい?」

「私、薄い本しか読まないので……スミマセン…」

「厚い本は読まないのかい?変わったヒトも居るもんだ。」

「まあ、つまり、僕達の生きる世界はここにあるけれど、他にももっとたくさんの僕達が違う世界で生きているみたいなんだ。宇宙はとても広いから。」

「そして僕らのように真実の愛で結ばれているふたりは、どの世界でも必ず結ばれているのさ。ね?シンジ君。」

愛おしげに紅い瞳の少年がボーイソプラノの天使の腰を抱いたから、私は妄想の具現化にアッと変な声を漏らした。

「カヲル君、恥ずかしいよ。もう…そう、それでね、これ、僕らの色んな世界での幸せな時間を覗く事が出来る物なんだ……僕がさっき裏山で捨てたんだけどね。」

「…え?君が捨てたのかい!?どうして!」

「だって、カヲル君、最近そればっか見て、僕を見てくれないじゃないか……寂しかったんだ。」

私は正直ここらへんから姿を消して壁になりたいと思い始めていた。とろんとしたふたりの瞳はきっともう、私の存在なんて忘れている。

「…シンジ君……そんな、気が付かなかったよ。ごめんよ。寂しかったのかい?」

「元々使徒の君の満月の特性のせいで僕が大変な事になって、夜な夜な月に願っていたら降ってきた物じゃないか。それなのに、満月の日は僕をめちゃくちゃにするくせに、違う時にそれを見てる。そんなのっておかしいよ!カヲル君は僕を愛してなんかいないんだ!」

「まさか…!違う、誤解だよシンジ君!僕は毎日でも君を抱きたいんだ。けれど一度君は身体を痛めてしまっただろう?だから必死でいつも我慢しているのさ。最近他の惑星の並列に影響されて、月の力が強まって来ているんだ。本当は今すぐにでも君を抱きたいんだよ!僕は!」

私は消える決心をした。アスファルトの陥没に身を投げる勇気はないけれど、いつまでもお幸せにと名残惜しげに視線を逸らして音も立てずにトンネルの外に出る。最後に、ご馳走さま、と呟くのも忘れなかった。


ボーイソプラノの天使が裏山で投げた物が、その裏山の下に在るひっそりとした神社の賽銭箱に五円玉を放りながら、今日も素敵な萌えに出会えますように、といかがわしい祈りに手を合わせた私の頭上に降って来て、こんな至高の萌えに出会えたのだから、やっぱり神様は居るんだと思う。本日の日本では、美少年がふたり、恥ずかしいくらいにがっつり愛し合っている。頭を流血した甲斐があった。

「多面体ユーフォリア……」

一体どんな使い方をするんだろう。聞いてみたかったけれど、甘い嬌声が螺旋状にこんなシダの繁ったトンネルの入り口の外側まで響き渡って来たもんだから、好奇心をぐっと堪えて私はそそくさと退散したのだった。火照る頬に手を当てながらいやらしく歪む顔を隠して、自分の欲よりも美少年達の幸せを優先した自分を褒め称える。

後は脳内で補完するさ。そうさ。それでいい。


ーーーーー…

僕らは昼下がりにようやく僕の家に帰宅する。初夏の部屋には窓を開けるだけでは快適さは不充分で、すぐにエアコンを強めに入れた。僕に氷の浮かぶ冷たいグラスをくれた君。中には昨日君が作り置きしたジャスミンティが芳しく琥珀色を湛えていた。

「いつの間にか、彼女は居なくなっていたね。」

「カヲル君が僕にいやらしい事するから逃げちゃったんだよ。」

「君だって夢中だったじゃないか。」

「…うん。だって本当は…僕だって毎日したかったんだ。」

僕は思わず喉にお茶を詰まらせて、二、三度咳払いをする。

「そうだったのかい!?」

「なんかエッチな使徒のせいで影響されちゃったみたい。最近身体がおかしいんだ。」

「…でも、君はヒトだからね。また身体を痛めてしまうよ。」

ベッドに腰掛け君を見やると、君は少し寂しそうに笑っていた。隣り合う肩をピタリと寄せ合う使徒とヒト。

「…うん。じゃあ、一緒にそれを覗いて、幸せをお裾分けしてもらおうかな。」

「そうだね。僕はもう君の苦しむ姿を見たくないからね。」

「使徒と愛し合うのって大変だな。」

そんな事を言いながら微笑む君を見つめて、ハッとする。一瞬、シンジ君の瞳が紅い焔のように光ったのは、気のせいだろうか。


そして僕らは部屋を暗くして闇をつくる。多面体ユーフォリアに触れると虹色の閃光をたなびかせ、僕らを明るく照らし出す。その宙に浮かぶ光と陰のコントラストの中からひとつ、ぽっかり穴の空いたような暗闇の欠片を掴むと、それは僕の掌に黒いフォルムを描くのだ。それを両手で合わせて温めると、両の掌には対照の虚空。僕の白い掌に言葉通りの覗き穴が現れた。

「…それを君が覗いたら、僕はどうやって覗けばいいの?」

「こうするのさ。」

僕は徐にシンジ君を背中から抱き、両手で君の目を塞ぐ。そうしたら君は驚くのも束の間に、悦楽の衝撃に打ち震えて、まるで僕に貫かれたような甲高い嬌声を上げながらその腰をしならせる。その声に身体を疼かせながら君の後頭部に僕の額をくつけると、僕らは同じ夢の中へと意識を飛ばす。遠のく意識の中で僕らの身体が重なりながらベッドに落下してゆくのを感じた。


一瞬の永遠を僕らは盗み見て、幸福を共有する。

その幸福は様々な彩りで僕らの身体を潤すのだ。


多面体ユーフォリア、それは違う世界の僕らの幸福を追体験出来る、神秘の石。
神の落とした最高の悪戯だった。

僕らの耳にはほら、もう。夜明けの詩が聞こえる。



夢の続きへようこそーー



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