〆XX. 解けない糸
 





四十六の鍵を廻して
天まで届く扉を開いても
そこに君が居ないなら
僕は鍵を隠してしまおう
夜空の秘密の片隅に
すっかり埃を被っていって
ふたりが忘れてしまうまで






さざ波が聞こえる。耳のもとから。心のもとまで。とても安らかな音色は染み渡る様に広がりゆく。広がりゆくけれど、其処に居るのは少年ただふたり。彼らを残して消えた営みの喧騒、最果ての波打ち際の様な異国の端の端。

「あの日は天気雨が降っていた。」

そう。僕らは夢の描いた邂逅の答え合わせを楽しんでいた。けれど、何処かで予感していたのだろう。僕達にはまだ秘められた何かがある。

「ねえ、カヲル君。」

黄金色の潮風が吹く。明るい夕映えは辺りの青を乳化して、やさしい虹色のヴェールで包み込む。それはまるで失われた時が息を吹き返したような柔らかな色調。さらさらとまっさらな砂の上に腰を並べて僕らは薄紫の空をずっと眺めていた。透き通るような黄昏の静寂。

「君の手紙、ちゃんと僕に届いたよ。」

「手紙?」

その刹那、勘のいい君が微かに驚き頬を染めた。その表情は僕と何ら変わらないヒトらしいもの。空が色を変えるように変わりゆく君の心。使徒は双眸を瞬かせて照れながら、どれだろう、と呟いた。

「何故、届いたんだい?」

「大家さんが届けてくれたんだ。」

「あの人は、全く…」

君が不満気にうつむいているから、僕は君の白い手にそっと僕のを重ねた。

「ありがとう。」

ヒトは独りでは生きられない。けれど使徒は違うという。その理由を、僕は君を知ってから密かに、こう考えるようになった。

使徒は完全な魂を持っている。独りでも均衡を保つヒトとは仕組みの違うもの。だから他者を求めない。
ヒトは不完全な魂しか持てないから他者を求める。独りでは不安定な心の天秤から命が零れ落ちてしまうから。

そう考えると、君の涙は僕の罪なのかもしれない。新しい世界へと賽が投げられたあの時、僕と君とはきっと大切な何かを分かち合ったのだろう。そして君は僕の色に少しだけ染まった。
君の完全な魂は色が混じり、僕のせいで何かが欠けてしまった。僕との、世界との、境界線が苦しくて泣いていた君。もう君は純然たる使徒として独りでは生きられないんだ。

「こちらこそ、ありがとう。」

けれど、きっとカヲル君はこう言うだろう。それでよかった、と。君の心を知れてよかった、と。きっとカヲル君はそんな歪なヒトの心を美しいと言うと思う。だって、この世界のカヲル君は苦しそうに泣くけれど、本当に嬉しそうに笑うんだ。今みたいに。君の指先が僕の唇に触れて、あ、もうすぐ僕らはキスをする。


ねえ、カヲル君。だから僕は決めたんだ。
君が知らずに欲しがっていたもの、僕が知らずに怖がっていたもの、僕はそれをようやく理解した。理解したら、君とちゃんと分かち合いたくなったんだ。たとえそれで後戻りが出来なくなっても。




蛹から羽化して蝶になったらもう戻れない。
大空を知ってしまったから。




僕等は早朝に家を出て、日本を発った。クリスマスシーズンの街の賑わいを尻目に、厳冬の待降節に沸き立つドイツへと向かった。

僕は一ヶ月ぶりにシンジ君の瞳を見て会話が出来るだけでとても幸せだった。フライトに緊張を隠せない君に笑いながら、もっと危険な乗り物に乗っていたじゃないか、と冗談めかして言うと、君はぷいっと拗ねてしまう。僕はそんな君に擦り寄り、寂しいからこっちを向いておくれよ、と甘えて、すると君がまたぷいっと振り向いてキスしそうな距離まで顔を近づける。真に受けた僕が緊張して瞼を下ろしたらクスクスと笑い返された。挑発的な君の仕返し。僕がムラムラとしてきてしまっても君はお構いなしでキャビンアテンダントにオレンジジュースを注文する。だから僕はそれを受け取ってひと口お先にいただいてから、君には僕のホットコーヒーを手渡した。ひと口ゴクンとそれを飲み込み苦そうに眉を寄せる可愛い君に思わず、僕の頬は緩む。

僕は本当に幸せだった。だから昨夜君が告げてくれた不可思議な言葉の存在なんて忘れてしまっていた。僕の頭はこれからのふたりきりで巡る異国の地と今を楽しむ恋人同士のじゃれ合いで一杯一杯だったのだ。

それからふたりは半日以上にも及ぶ長い移動時間を経て、ようやくドイツの地に降り立つ。ヘルシンキを経由して目的地のリューベックに程近いハンブルクにてチェックアウト。ゴシック様式の歴史ある建造物のひしめき立つハンブルク、厳かな活気に満ちた鈍色の街並。今は待降節のクリスマスマーケットで露店が並び観光客でごった返し、至る所で昼間からお祭り騒ぎだ。君は僕がお預けを食らってすっかり落ち着きがない事を知ってか知らずか、僕なんか眼中になく、初めての海外旅行にばかり夢中になっていた。

「ねえ、プレッツェルが売ってるよ!」

あんな月並みの焼き菓子の何処がそんなに嬉しいのか、と妬ける気持ちを持て余しつつ、シンジ君の目の輝きに負けて僕は屋台でひとつ、それを注文した。

「 Eine Brezel, bitte. 」

「…カヲル君、ドイツ語話してる。」

「当たり前だろう?此処に住んでいたのだから。」

耳まで真っ赤にしている君。風が冷たいせいだろうか。だから君の濃紺のマフラーを僕はきゅっと隙間なく整えた。少し大きめのダブグレイのダッフルコートを羽織った君はまるで寒がりの天使のよう。

「温かい飲み物も買おうか。」

「う、うん。いただきます…あれ、しょっぱい!」

「ふふ。これはね、塩を手で払ってから食べるのさ。」

僕が手本を見せてあげると、君はとろんとした瞳をしている。

「どうしたんだい?」

「ん、何でもない…これ、すごく美味しいね!」

それから僕等は生クリーム入りのココアとプレッツェルを頬張りながら気がつけば無言で歩を重ねていた。チラリと君を盗み見ると初々しく悩まし気な横顔だ。まるで再会した頃のよう。あの頃、僕はとにかく君に触れていたくて手を繋ぎたがった。嫌がる君に胸が静かに苦しくて堪らなかった。

思い出して尚、すんと突く切なさに今、そっと君の手を握ってみる。指を絡ませ強く握り締める。けれど、君は驚いた事にそれを咎める事はなく、そのまま握り返すだけで振り払おうとはしないのだ。耳まで林檎の様に真っ赤だけれど。

「寒いだろう?おいで。」

君は小さく頷いてから俯き加減で黙々と歩いていた。そして徐に肩と肩が触れ合うくらいに身を寄せてくるのだ。だから僕は途端に鼓動が煩くなる。飛行機の中とは打って変わった急な君の方向転換、そのしおらしく甘える仕草に僕はドキドキしてしまうのだ。

ー解けない糸…

そこで思い出すあの言葉。僕は期待せずにはいられなかった。君の色が移ったかの様に頬が熱を集めて紅潮する。

「…そろそろRegional Expressの方へ行かないと。時間はたっぷりあるからまた別の日にゆっくり観光しよう。」

隣の君はそれに頷いてほうっと白い息を吐く。ココアで温められた吐息がくっきりと白い影を残す。それが印象的でじっと君の口元を眺めていると君は微笑みながら僕にココアを手渡すから、僕は甘いそれをひと口含んで嚥下してから同じように息を吐く。その滲む白い影を今度は君がじっと眺めていた。そんな一瞬一瞬を僕は瞳に焼きつける。その時、僕の胸の奥の方がきゅっと締まるのを感じた。

駅につく前の路地裏で僕はそっと盗むようにして君と軽いキスをした。その柔らかな唇はココアの甘い香りがした。




初めての異国の地、僕の知らない君の故郷。思い返せばあんまりこうして人生を贅沢に楽しんだ記憶はない。今までの世界では平和なんてなかったし、今の世界でも両親は共働きだから仕方がない。

でもカヲル君はどんなに忙しくても僕をこうして連れ出して、何もわからない僕の手を引いて歩いてくれる。一ヶ月、君と会えなかっただけなのに、その背中が頼もしく見えて僕はドキドキしっぱなし。

「あれ、雪が降って来た。」

粉雪とこの街はカヲル君の綺麗な横顔にとても似合っていた。それは電車に乗っている時もこうして枯れ木の街路樹の真ん中を歩いている時も見惚れてしまう程で、僕は腰を抱き身を寄せる君に何の抵抗も出来ない。会えない時間が長すぎたかな、僕は自分にそんな言い訳をしてみせた。


けれど。何よりもあの夢が、僕に語りかけるのだ。
君と僕とがひとつになる、それはーー…


「さあ、着いた。此処が僕の昔住んでいた家だ。」

そこは寂しい色合いの小綺麗な、きっと遠い時代に建てられた、石造りのアパートだった。繊細な装飾の青銅の上に黄金の盃のレリーフの描かれた看板がさりげなく入口に掛けられていて、蔦の編み込まれたような複雑な手摺りのついた螺旋階段を上ってゆくと、ステンドグラスの小窓の脇に臙脂色の扉があった。くすんだ金色のドアノブを回すとそこには、掃除の行き届いた、机とベッドくらいしかない簡素な、まるで初めて日本のカヲル君の家へ行った時のような殺風景な部屋が広がっていたのだった。

「シンジ君…」

ぼうっと室内を眺めていると、ドアが閉まったと同時に僕はカヲル君にきつく抱き締められていた。そして焦りを滲ませた君の熱い舌が僕の唇をノックする。

「ん、ちょっと…」

ずるずると引きずられて、上着も着ていてマフラーも巻いているのに靴のまま僕はベッドに押し倒されてしまった。久々の感覚に目眩がする。カヲル君はもう、我慢が出来ないという顔をしていた。何度も僕の唇を貪りながら次々と服を脱がそうとする。火照った指先が焦っている。

「ずっと、こうしたかった…」

「ねえ、ドアの鍵、掛けてないよ…」

そんなことはどうでもいいと言うようにカヲル君は答える代わりに僕の首筋に吸いついた。鼓膜に伝わる息が荒い。こめかみに汗が浮いている。僕はカヲル君のそんなひとつひとつの仕草に酷く興奮して震えていた。

「嫌かい?」

「嫌じゃない、けど…」

カヲル君は申し訳なさそうな顔をして僕を見下ろしている。そして僕はひと月前のふたりの会話を思い出して息が出来なくなる。

「本当はね、まだ何処かでシンジ君と共に居られる時間は限られているんじゃないかと思っていたんだ。」

「まさか、そんなこと、」

「だからほんの僅かな時間でも惜しかった。君に触れられないのが堪らなく辛かった…」

「あ、カヲル君…」

カヲル君は僕の上半身を脱がしながら自分の服も放り投げた。もう余裕のない眼差しが紅く情火を灯している。白日の陽光が容赦なく僕達の表情を赤裸々に晒して、君は少しだけよそよそしく僕から体を離した。

「…大丈夫。君の望むやり方でしか君を愛さないからね。」

哀しみを隠そうと揺れる紅い瞳。微笑みの端々に淀む、孤独の陰。

「カヲル君…」

僕は君の胸に手を添えた。

「僕も君とずっと、こうしたかったんだ。」

カヲル君はそれを聞くとやさしく笑みを深めて、そして、さっきよりも激しく僕を求めた。僕に甘えるように肌を擦り合わせて、ねだるように舌を這わせて、吸いつく。すぐに汗をした垂らす君。その汗は僕で全身が満たされている証拠。僕がきつく抱き寄せると、君は小刻みに震えて、張り詰めたような甘い吐息を漏らした。そんな君を感じると君は僕と溶けてひとつになりたいと願っている気さえする。あの、かつての黙示録の果てに見た、混沌の赤い海の中を思い出す。僕はとくんと刺す恐怖に君にしがみつく。

「シンジ君…」

コンコンコン。

それは、カヲル君が僕のベルトを緩めた時だった。鍵の掛かってないドアを誰かがノックしている。

「カヲル君…」

「放っとこう。」

コンコンコン。

好きだよ、と甘く囁いてベルトを脱がす白い手を僕は掴む。カヲル君はそれが不服そうに下唇を噛んだ。

「ダメだよ。鍵掛かってないじゃない…」

「でも…」

コンコンコン。

「ああ!もう!」

カヲル君は怒りのままに飛び起きて玄関へと向かった。上半身裸だよ、と注意する間もなくて、僕は慌てて側にあるインナーにすっぽりと袖を通した。

「Wer ist das!?」

『あら、随分な歓迎ね。お久しぶり。』

『…大家さん。お久しぶりです。ですが今、取り込み中でして。』

カヲル君はお得意のアルカイック・スマイルも不発だろう。苛立った指先がトントンと壁をせわしく叩いている。

『知っているわよ。ふふ。天使が天使を連れて来たのが見えたんでね。可愛らしい坊やねぇ。』

『…もういいですか?』

『これ、おあがりなさいな。それと、その元気が宜しい下の息子はあの子だけにお見せなさい。また来るわね。』

ドイツ語のやり取りが僕にはさっぱりわからなかったけれど、最後の会話の内容は僕にもわかった。カヲル君が耳まで真っ赤になって股間を抑えているから僕まで恥ずかしくってベッドに突っ伏したんだから。
盛大な溜め息の後、さっきの優しそうなお婆さんからカヲル君は何かのトレーを受け取ってガチャンと乱暴に机の上にそれを置いた。

「何?それ。」

「シュトレンだよ。さあ、シンジくーー」

「シュトレン!?」

僕が飛び起きて机の上のドイツの伝統的な焼き菓子を見つめているとカヲル君は相当に困った顔をした。

「僕よりシュトレンなのかい!?」

「だって本場だよ。すごいや。お茶の熱いうちに食べようよ。」

「…僕はシンジ君がいい。もう、僕を焦らさないでおくれよ!」

そう言うとカヲル君は僕をベッドに強制連行。僕を改めて脱がして、一瞬にしてふたりで生まれたままの姿になる。それでも僕がチラチラとトレーを見ていると、やっぱりやさしすぎる君はもう一度溜め息をひとつ、立ち上がってベッドまでトレーを運んできてくれた。

「早く平らげて、僕しか見えないようにしておくれ。」

「へへ。カヲル君ってやっぱりやさしい。」

カヲル君は唇を尖らせてちょっと不機嫌な顔。シュトレンを恨みを込めて一刺しして、僕の前へと差し出した。僕がそれを咥え咀嚼している間中、舐め回すみたいに僕を濡れた瞳で眺めて、僕がゴクリと飲み込むとカヲル君も喉を鳴らした。あんまり見つめられると味わう気が引けるものだ。僕がティーカップを持ってお茶をひと口含み唇を舐めると、君は物欲しそうに吐息を漏らした。よく見ると君はちょっと驚くくらいに硬く勃起していた。

「カヲル君、」

「美味しいかい?」

嗜めようとしたけれど、カヲル君が屈託もなく微笑っていたので言うのをやめる。考えてみればカヲル君はそんなになっても僕に気を遣ってくれているんだから、胸が苦しくなる。たまに君のその底無しの盲目的な愛情に僕は自分が申し訳なく思えてくるんだ。

「うん。ねえ、カヲル君、」

僕が口を噤んで誘うように見つめると、君はトレーを雑に放り投げて野獣みたいに僕に飛びかかってきた。全く余裕のないカヲル君。けれども先ずはと貪るようなキスをする。僕の甘ったるい口内を君が舐めとる。僕はそれが愛おしくて堪らなくて君をぎゅっと抱き締める。

けれど、僕が無抵抗なまま君に全てを預けても、僕の体にカヲル君が入ってくることはなかった。その代わりカヲル君は凄く興奮したまま僕を隅々まで執拗に愛し続けた。それはまるで離れていた間のふたりの距離を埋めるように、僕が君のものであるかを確かめるかのように、そして君が僕のものであるのを証明するかのように、愛で尽くしてくれた。僕はそんな君に窒息するくらいに感じては達して、それを繰り返し、思考がグチャグチャに蕩けてしまい、やがて果てた。僕はその間、カヲル君が何度も僕の中へと入ろうと姿勢を変えて身をよじり、その度に耐えて諦めてしまう姿を眺めていた。カヲル君は哀しいくらい僕へとあの懇願はしなかったのだ。ひとついなりたい、と。





毛羽立ちひとつない滑らかなシーツはもうふたりの体液が乾きざらついた感触がする。微睡みから身体を起こすと数刻は経った筈の室内は、日照時間の長いこの国では一瞬の午睡の後のような錯覚を思わせる。ふたつの身体で寝そべるふたりには少し小さめのこのベッドは、かつて僕が会えない君を想って眠れない夜を過ごした其れ。此処で君を想って自慰もした。初めてのそれに君を穢した罪悪感で落涙したなんて言ったら君は驚くだろうか。僕は錯綜する初めての感情に戸惑ってばかりだった。それから十数年、僕は今、君の側に居る。手を伸ばせば温かい柔肌。すうっと指を滑らせると身じろいで君が瞼を開いた。

「カヲル君、ごめんね。」

シンジ君は青い瞳で何処までも果てしないものを見つめるように僕だけをそこに映した。今日の君の瞳は透明な藍の色を湛えていて、吸い込まれそうになる。

「シュトレンの事かい?気にしてないよ。」

「ううん。」

君と僕とはまるで内緒話をするように顔を寄せていた。首を小さく傾げて僕を見上げる表情が、僕に愛おしいと告げているよう。この部屋でそんな君を見られる日が来るなんて。世界の全てに光の粒子のフィルターが掛かるような感傷が僕を襲う。これは、ずっと叶わないと自分に言い聞かせながらも願い続けた、夢のような逢瀬なのだ。夢ならもう醒めないでほしい。

「…一ヶ月前のこと。僕、君にひどいことを言っちゃった。カヲル君はいつだって僕の味方で、僕のために最善のことをしてくれたのに。」

君が僕の手を握る。全身の脈動が暴れ巡り、肌が粟立つ。

「僕、あの時は怖くて堪らなかったんだ。何が怖いのかわからなくて。それで君に当たっちゃった。君の立場も考えないで自分勝手な言い分だった。ごめんね。」

「そんな事はない。僕が君の立場だったらと思うと…考えられないくらいに苦しい、」

感極まって喉を詰まらせた僕。それを見つけて君がふたりの指先を胸元へと手繰り寄せる。とくんとくんと君の心音が僕を癒す。

「カヲル君は使徒だから。ヒトの心がわからなかったのは当然なんだよ。それにカヲル君は誰よりもやさしい。」

「けれど、君を深く傷つけた。」

「でも、僕は…もうあんな想い二度と嫌だけど…そんな傷ついた過去があるから君との今があるんだから、あってよかったって思うんだ。君が変えてくれたんだ。僕のつらい過去を必要だった過去に。カヲル君は僕の運命を変えてくれた。」

僕が言葉を失くしていると、シンジ君が胸にあったふたりの手を口許へ寄せて僕の指先にキスをした。

「ありがとう、渚カヲル君。」

ああ。この瞬間の君を余す事無く瞳に宿していたいのに。涙の膜が君を蜃気楼へと隠してしまう。

君は僕の濡れた頬を拭ってまるで子供をあやすように僕の額を撫で上げた。きっと今、僕は銀髪が無造作に跳ね回り、表情は歪み、情けない顔をしているだろう。恥ずかしさに君の首筋に擦り寄ると僕は君の腕の中にひたと抱き留められて、大きな安らぎを感じた。それは孤独とは対岸にあるような、全身が解けるような心地がした。

「ずっと独りにしてごめんね。でも、もうちゃんとわかったんだ。だからもう、大丈夫だよ。」

「何がわかったんだい?」

「境界線は糸だったんだ。」

「ふふ。なぞなぞみたいだ。」

「つまり…きっと、僕らはまた夢を見る。そしたらカヲル君にもわかると思う。」

「君は予知夢を見たのかい?」

「うん…たぶん、」

僕には何が何だかさっぱりわからなかったが、いずれ僕にもわかると君が言うのなら、そうなのだろう。

「シンジ君。使い古された言葉だけど、」

だから僕は今、君に伝えたい事を、伝えよう。

「君がいると世界が輝いて見える。」

シンジ君はいつも褒められた時にするように、眉を下げて耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうに微笑んだ。けれども瞳だけは真っ直ぐに、僕だけを見つめていた。


僕はその時はまだ、赤と青とは紫にはならないと思っていた。際限なく混ざり合ってもひとつの色彩にはならないのだと。
生まれ持った僕だけの孤独は仕方がない。そう、思っていた。




夢で見た場所に辿り着いた時は不思議な感じがした。時を旅してきてふわふわと浮いているみたいだ。天気雨に濡れていたカヲル君はまるで天の遣いみたいに儚げで、苦しげで、そして…

「お願いだよ、ねえ、ちょっとだけだから、」

こんな破廉恥でエッチな生き物じゃなかった。

「やだよ!外でするなんてどうかしてるよ!」

「此処でしたいんだよ。君を自慢したい。」

「誰に自慢するのさ!?」

「海にだよ。孤独な僕を嘲笑っていたあいつにね。」

僕達はあれから暫くして部屋を出た。目的地はここ。夢で見た天気雨の海。僕はずっとこの場所に憧れていた。初めてこの景色を眺めた瞬間、弾けるような高鳴りを感じたくらいに。それから砂浜をふたり並んで散歩して、岩に囲まれた人目を遮るにはちょうどいい一角を見つけてそこに座った。それが使徒の罠だった。

「それは言いがかりだよ!あ、ちょっと!」

ジリジリと攻防戦を繰り返していたら隙をつかれて押し倒される。カヲル君の顔が僕の下腹部に沈んでいったからもう本当に絶体絶命だと思ったその時。僕のお腹の上でチュッとやさしい音がしたのだ。

「ふふ。可愛いおへそだ。」

すると岩の影から緑色の目が五、六個現れた。地元の子供だろうか。僕達よりも少し下の男の子達が数人、僕達に何かを言っている。意地悪そうにニヤニヤして明らかに冷やかしている感じ。けれどカヲル君は頬を薔薇色にして満遍の笑み。ドイツ語で意気揚々と答えている。絶好調というようなガッツポーズ、可愛い雄叫びをあげている。ヒューヒューと奇妙な歓声の中、手を振る男の子のひとりが何かをジェスチャーすると、カヲル君は照れながら頭を掻いて頷いた。

「僕達は祝福されている!」

呆気にとられていると、束の間の交流を終えたカヲル君が僕に振り返りそんな事を報告した。すごく嬉しそうだ。

「何言われてたの?」

「エッチな事をして風邪を引くなってね。」

「…カヲル君は何て返したの?」

「僕の最高の恋人だと自慢したさ。羨ましいだろうってね。そしたら君をくれと言うから絶対にやらないって返してやった。シンジ君は僕だけのものだってね。」

カヲル君はこういう時は必ず超ポジティブに捉えてしかも饒舌になる。弾ける笑顔はまるで幼い子供みたい。

「それ絶対からかわれてるよ!真に受けないでよ!」

「そんな事はないさ。シンジ君は照れ屋だね。」

「で、最後のは、何?」

「ふふ。凄くエッチな冗談さ。君との…まあ、そうだね、」

カヲル君はまた僕に覆い被さってふたりの体を密着させながら耳許で囁いた。

「君の中に入る時はやさしくって…ごめん、冗談でも嫌かい?」

急に声色の変わったのに驚き君の顔を持ち上げると、さっきまでのはしゃいでいた頬の色のままでカヲル君が寂しそうに笑っていた。しょげた気持ちを隠そうと無理して口角を上げている。僕はきゅっと体の芯が絞られる感覚に苦しくなった。思わず君を抱き締める。

「カヲル君…あ、」

僕が気配を感じて見上げると岩陰からさっきの少年の瞳がチラリ。

「君達まだいたの!?」

僕が慌ててそう叫ぶと男の子達がインディアンみたいに笑いながら遠くの海岸線の緑の中へと走って消えた。唐突な展開に、
僕らの胸を染め上げた一瞬の切なさも吹っ飛んでしまう。キョトンと互いの顔を見合わせて、ひと笑い。

「…おませな悪ガキ達だ。シンジ君、大丈夫かい?顔が真っ赤だ。」

「カヲル君だって、赤いよ。」

「僕は…嬉しくてだよ。自分をまるでリリンみたいだと思ってしまった。君と普通の恋人みたいだって。」

「普通、じゃないよ。自慢の、だよ。」

カヲル君は、けれど、まだ杞憂にとらわれている。何かが引っかかるみたいに遠慮がちに笑うから、

「ねえ、カヲル君…」

僕は君の顔を引き寄せてから耳許で囁いた。

「青を探してたんでしょう?」

カヲル君が驚いて目を見開く。僕はそんな君の隙をついてくちばしで突つくみたいなささやかなキスを贈る。シュトレンの粉砂糖が唇の熱で溶けるみたいな淡いキスを。



「これが僕?」

「そう。君が生まれた日に見つけたんだ。」

僕らは夕映えの海辺に座って水平線を眺めていた。あの滲むような青の境界。カヲル君はポケットから綺麗な青いガラス玉を取り出して僕に手渡した。陽にかざすと透明な瑠璃色が煌めいて、海の結晶みたい。

「綺麗だね。」

「懐かしいよ。青を見ると君を思い出していたんだ。空も海も青いだろう?それにそのガラス玉もいつも持ち歩いていたからいつも君を思い出す事になっていたよ。君から逃れたい時もね。」

「僕から逃れたい時?」

「恋の苦味を知った時、その狂おしさを知った時。僕なりに思い悩んでいたのさ。」

ガラス玉をずっと見つめていると、そこはかとなく揺れている気さえした。それはまるで遠くの憧憬の水面のよう。

「ねえ、甘酸っぱい味って何の味か知ってる?」

「甘酸っぱい味…恋、かな。どうしたんだい?いきなり。」

「あれ、どうしたんだろう?」

ふたりで顔を見合わせてクスクス笑う。

「シンジ君は謎に満ちているね。」

「カヲル君だって、青が僕だなんて、どうしてそうなるのさ。」

「君の瞳は青みがかっているだろう?それに、僕がこの世界で目覚めた時に最初に見た色が青なんだ。青い海に僕は初めて涙を流した。青い地球が美しくて、胸が苦しくなったんだ。君を想うと恋しくて堪らなかった。君がずっと好きだったのに、そんな気持ちは初めてだった。」

紅い瞳が黄昏の朱を含んで吸い込まれそう。そこで僕は、数刻前に見た情景を、思い出した。



ーーーーー…

ベッドの上で泳ぎ疲れて微睡んでいた僕らは、昼下がりにあの海に行こうと決めた。僕が行ってみたいと頼んだ。カヲル君は数年ぶりだから路線を調べると言ってシャワーを浴びてから外へと出掛けた。僕は異国にひとり待つ心細さにそわそわして体を洗って身支度をして、ひとり膝を抱えていた。カヲル君は数日前までこんな気持ちだったのだろうか。

コンコンコン。

また同じリズムで刻まれたノック音。僕がドアを開けるとさっきの人の良さそうな大家のお婆さんが居た。上品な葡萄色のストールを肩に掛けて足下には大きな木箱をカートに乗せて携えていた。

『こんにちは、天使の天使さん。お届け物よ。』

「ど、どうしよう…ぐーてんたーく?」

『あら、ドイツ語は出来ないのね。まあいいわ。勝手に喋らせてもらうわね。上がるわよ。』

「わ!えっと、入るんですか?」

大家さんは部屋にカートを押して入ってきた。カヲル君が何かを頼んだのだろうか。そんなことは聞いていないんだけれど。

『これはね、私の余計なお世話よ。あの子が此処を経つ前日に処分した物。私は中身がさっぱり読めないんだけれど、年寄りの勘ね、大事な物だろうとピンときたわ。それでこんな日が来るだろうと心積もりもあってずっとクローゼットに仕舞っていたのよ。最近物忘れが酷くてね、探すのに一苦労だったわ。重いし。感謝してちょうだいね。』

「んー…ばうむくーへん?」

『バウムクーヘン?貴方、よく知ってるわね。欲しいの、坊や?一体幾つなのかしら。天使は歳を取らないのよね。貴方もそう?』

僕はすごくよく話す大家さんの迫力に頭が真っ白。バームクーヘンしか出て来ない。でもそれだけは通じたみたい。僕は何かを質問されてとりあえず頷いた。

『あら、バウムクーヘンが欲しいのかしら。それとも天使のお話?よくわからないけれど可愛い坊やだこと。あの子を夢中にさせるわけね。』

僕は何故か頭を撫でられているけれど、そのままにした。

『おっと、もうこんな時間。此処だけの話、貴方の天使は恋煩いがひどくって、いつも心此処に在らずだったのよ。それでこの愛のポエムだかラブレターだかわからないものをいつも貴方に書いていたわ。読めなくてもこうしたものはわかるのよ。ふふ。貴方も罪な子ね。』

「…だんけ?」

『まあ!ふふ、どういたしまして。面白い子ね。またいつでも声を掛けてね。じゃ、掃除をしなくちゃ。またね、天使さん!』

僕はされるがままにハグを返して、大家さんを見送った。彼女とカヲル君がどんなやり取りをしていたのか想像すると可笑しさがこみ上げてくる。

「えっと…この箱はなんだろう?」

鼈甲色に褪せた古ぼけた木箱。そっと蓋を開けてみるとそこには溢れんばかりの紙の山がある。僕は一番上の一枚を手にとって、ゆっくり折り目を開いてみた。



碇シンジ君


これを最後の手紙にしよう。もうすぐ僕は日本へ発つ。そしてきっと僕達は初めましてをやり直す。

僕はずっと君の忘れてしまった君について考えていた。けれど、君が忘れても僕が忘れなければいいと今は思っている。きっと君の顔を見たら僕は全ての事に感謝して、君が居てくれる幸せに心が満ちてゆくのだから。

僕は君の隣に居たい。君が手を伸ばせば僕に届く場所で君をずっと見守っていたい。そして君が僕に手を伸ばし、この手が君の望むものを差し出せる時が来たなら。

僕はその手を掴んで離さない。君をもう独りにはしない。

早く君に会いたい。シンジ君。



僕は頭の先からつま先まで心臓になってしまった。鼓動が鼓膜まで振動させる。さっと沸騰したみたいに顔に熱が差して、蒸発しそうな体でどうにか踏み止まる。これは、何?そう言えば前にカヲル君は詩を書いていたことを話してくれたっけ。僕は震える手で木箱を掻き分けてもう一枚紙を手にとった。



Sehnsucht
僕はそれに君を見出す。自分に欠けているもの、手に入れたいもの、Sehnsuchtの示す憧れの意味はまさに僕にとっての君だ。僕が青を探すのはそうした所以だろう。君に強く惹かれる事に運命の他に何かが在るとするならば、僕の最も根本的な部分が君によって空白を補おうとしているようなのだ。僕はこんな激しい感情も不安定な情緒も知らなかった。この世界の安定と反比例して僕は深い闇に堕ちてゆく。青を見ると君を想い、そしてそれから逃れようと画策する。けれど気がつくとまた青を探している。この矛盾した深層心理への答えが欲しい。僕は君が



ここで文は終わり、紙が破けている。僕はもう一枚、取り出した。



あとどれだけ待てば君に会えるのだろう



日焼けした古紙。隅に一点のまるい染み。そこを指でなぞってみる。僕はそれが涙の跡だとわかった。

「カヲル君…」

心が溢れそうで息が出来なくなる。これは、僕の知らない君。君は僕の知っている以上に、僕を想って、苦しんでいた。

「カヲル君…」

僕は窓を開けた。大きく息を吸い込んで、君の眺めていた景色の時を遡る。机に触れてみる。歴史を刻んだ木肌に指を滑らせて、君がここで独りこれを書いていた時代に想いに馳せる。どんな気持ちで筆を置いたのか、どんな気持ちでこの青空を瞳に映したのか。
窓の外は冬らしく降り注ぐような澄んだ蒼穹。僕は込み上げて溢れた涙を拭った。冷たい風が頬を撫でて涙が温かいと知らせる。僕は、僕は……


蛹の中の蝶は何を想っているのだろう。僕は今、大空の何処までも続く色に憧れて、そしてその果てしない大きさに怯えている。けれど、羽ばたいたらどんな感じなのだろう。君と羽ばたいたらやっぱり、世界だって変わるのだろうか。ただ、蛹はもう守ってくれない、それだけ。それだけなんだ。それだけなのに、僕は弱虫だから、立ち止まる。

けれど、僕が立ち止まるよりもずっと前から君は大空で独りきりだった。君はその自由を喜ぶ心の他に、それを寂しいと感じる心も、今は芽生えてしまったんだ。それは僕が世界をやり直す時に、君に残してしまった、代償。


僕は窓の外へと手を延ばした。掌を陽にかざしてみる。何かを掴むように握り締めると、シルエットから光が広がった。

「シンジ君!何してるんだい?」

驚いて窓の下に目をやると、カヲル君が楽しそうに手を振っている。両手いっぱいに袋をぶら下げている。

「カヲル君!おかえり!何持ってるの?」

「こっちはクラップフェン、こっちはマジパンさ。見た目はフルーツだけど甘いお菓子だよ。可愛いだろう?どっちも君が好きだと思ってつい買ってしまったよ。バスの時間があまりないから歩きながら食べよう。さ、降りておいで。」

「うん!」

僕は窓を勢いよく閉めて、一目散に駆け出した。湧き上がる恋しさに一秒でも早く、君に会いたい。螺旋階段をドタバタと駆け下りて、入口の門を潜って、君のもとへ。

「シンジ君、早い、おっと…!」

僕が飛びつくのが予想外だったのか、君は思いきり仰け反って倒れそうになる。

「お菓子があると君はすごい勢いだね。」

「違うよ。カヲル君が恋しかったんだ。」

僕らしくなくタガの外れた調子のセリフにカヲル君の耳がすっと薔薇色になる。君らしくなく言葉に詰まって固まった体からどくんどくんと高鳴りが伝わってくる。僕はその命の流れる音も愛おしくって、もっと、きつく抱き締める。すると、

『私の伝え聞いた天使はもう少し恥じらいがあったんだけれどね。天使も時代で変わるのかしら。』

垣根から箒と塵取りを持った大家さんが参上。

「もう勘弁してくれ…!」

天を仰いでそう呟くカヲル君。僕はここでのカヲル君の生活を垣間見た気がして、面白くてつい吹き出してしまう。


僕らはこの時はまだ、この先に待ち受けているものを知らなかったのだ。
翼を広げるためには蛹を破る痛みが必要だってことも。




ーーーーー…

シンジ君がお風呂に入っている時間が気が遠くなるくらい長く感じられて、僕はベッドに寝そべりながらふと今までのふたりの運命を走馬灯のように思い出していた。君と出逢った瞬間から僕は恋に堕ちていて、それはこんなにも僕自身を変えてしまった。机の横に置かれた木箱。僕はそれを過去を知らない君に見せまいと処分した筈が、君は何もかも憶えていて僕の前に現れて、あの膨大な散文までもが僕の前に現れる。何という皮肉だろう。僕はもう、運命の傍観者ではなく、その舞台の上で右往左往している演者。それは時に見苦しい混乱を呼ぶけれど、それでも僕には心地好い。生きていると感じるんだ。

さっきまで此処でふたり、あの中身を読んでいた。紙の上での僕の独白を。君は時に照れて、時に笑い、またに僕に声に出して読んでとせがんだ。君は凄く嬉しそうで包み隠さずはしゃいでいて、僕が恥ずかしくて次の言葉に戸惑うと喜んだ。

けれど、そんな楽しい時間も時計の針が進むにつれて不可思議な静寂に包まれてゆく。僕は心の何処かで何かを期待して、君は何処となくそわそわとして。だから僕は君がお風呂から出てきてからの展開に意識を向けてしまうのだ。そしてそのはち切れそうな期待が僕の身体の芯をジンジンと疼かせる。体熱が上がってゆく。僕は上体を起こし片膝を曲げて座った。それを抱き寄せ額を膝に押し付けて、ただ、君を待つ。


「…カヲル君…君が、好きだよ。」

僕がうっとりとした微睡みから我に返るとシンジ君はベッドの際に腰を据えて少しはにかんで此方を向いていた。その瞳は青い光を宿しながら緊張で涙を溜めている。肩が少し震えていた。

「…シンジ君…僕も、君が好きだ。」

僕の言葉を聞いて恥ずかしそうに俯いて、ちらっと首を傾げる様にして僕を見ては、また俯く。君の瞳は優しく揺れている。

「おいで、シンジ君。一緒に眠ろう。」

此処で僕はデジャヴを感じて胸が弾けるように高鳴った。シンジ君は小さく俯き、両膝をついてゆっくり僕の右側に移動し、恥じらいながら横になった。そうして僕も横になり肘をついて自分の頭を支えて、君の形のいい頭を眺める。そっともう片方の手で髪を梳く。

「カヲル君…」

シンジ君が僕を見上げる。潤んだ目が僕だけを見つめていて、僕の全身に痺れが走った。

「もう、いいよ。」

シンジ君が深呼吸をひとつ。僕は頭が真っ白になる。

「ひとつになろう。」

「けれど、」

「僕に君の孤独を分けて。」

僕は頭の整理が出来ずに目をパチクリとさせる。

「シンジ君…?」

「でも、ふたりがどんなになっても、この時を忘れないでね。」

「何を言ってるんだい?」

「だって、わからないことだから。」

シンジ君の青い瞳から一筋の涙が零れる。僕はますます混乱した。

けれど、僕の全身から沸き起こる得体の知れない歓喜が僕を前に進ませるのだ。僕に事態を噛み砕くのも許さない。噎せ返る程の欲望に僕は平伏す事しか出来ない。

「カヲル君…」

僕は気がつくとシンジ君に覆い被さっていた。そして君を骨が軋むくらい強く抱き締める。そして獣が求愛をするような激しいキスで君の口を塞ぐ。くちゅくちゅと卑猥な音を立てて舌を抜き差し君の蜜のような唾液を啜ると、君はそれだけで全身を痙攣させた。

「いつまでも、一緒、だよ…」

覚束ない呼吸の隙間、君が絞り出したみたいなか細い声でそう囁く。だから僕は濁流に飲まれそうになりながらも、なけなしの理性を引き留め君に告げる。

「いつまでも、君を、愛してる…」

僕は全身を奮い立たせて、裸の君の足を持ち上げ、爪先にキスをした。

何かがおかしい。僕はそれに気づいても欲求に抗えない。君はずっと、これを予感していたのだろうか。
僕の愛撫に君は腰を持ち上げ喘いでいる。肌に口付けると全身が跳ねて苦しそうに震えた。灼けるように身体が熱い。僕もまだ君を抱いて間も無いのに、酷く興奮していて達しそうな快感に目眩がする。君をもっと時間を掛けて愛したいのに、身体が言う事を聞かない。

「いいよ…」

シンジ君は泣いていた。それがどんな涙なのかよくわからない。僕の顔からはぽたぽたと止め処無い汗が君の頬を濡らしている。シンジ君も汗だくで前髪が額に張り付いている。

「シンジ君…」

僕はもう、嬉しいのか哀しいのかもわからない。ただ全ての感情を束ねて揺さぶるような激しさに支配されて、泣いた。僕の異変に気づいて君が僕の頬を拭う。

「ふたりなら、大丈夫…」

僕は君の足を開いて顔を埋める。性急にせり上がる絶頂の昂りを必死で抑えて無我夢中で君を解す。それは僕の思い描いていたものとは違い、乱暴なもの。君がまた激しく痙攣して僕に足を絡めた。聞いたこともないような苦しそうな嬌声を上げて達するシンジ君。けれど、身体は震え続けて、泣き声のような激しい喘ぎが止まらない。普段は恥じらい声をあまり出さない君らしくなく、その反応も常軌を逸していて、僕は君が悶絶する程の果てしないオーガズムの渦中にいるのだと悟った。君は溺れそうだと言うように柔らかい肢体をくねらせて僕が君の中を掻き混ぜるとまた大きく叫んで痙攣する。胸を大きく前に突き出し肋を浮かせて酸素を取り込んで、必死でしがみつく僕の背中に爪を立てて、君の小さい身体は限界を迎えそうだ。

僕はそんなシンジ君を腕の中に囲って、君が感じるのと同じように僕も感じているのだと理解した。体感がシンクロしているのか、シンジ君が激しく泣く度に僕も強い絶頂感に襲われた。しかもそれは引く事を知らずに際限無く高みへと昇ってゆく。僕も抑えきれずに声を上げて達し続けながら、君の腰を力尽くで押さえつけて、そして自分の恐ろしいくらい張り詰めた中芯を君に当てがい、そして、突く。

「ああ…!!」

シンジ君は弓なりにしなって全身が激しく揺れている。僕も息も出来ない快感に意識が振れる。頭の下がった君の首を支えると、

「シンジ君…!」

君の青い瞳は赤い光を宿していた。それはちょうど色を混ぜてアメジストのよう輝いている。

「だ、駄目だ…こんな…」

僕は腰を引いた。僕達が今している事の意味に気づく。

「カヲル、君…いかないで…」

けれど、君は僕を留める。その衝動で鋭い快感に君が身悶える。繊細な身体が絶頂に耐えきれずに折れてしまいそう。

「全部、ふたりで…」

君が僕の腰を掴んで催促する。泣きながら苦しそうに喘いで僕を誘っている。器から溢れ出るような絶頂の連鎖に僕は咽び泣く。

「半分こしよう…」

僕はその言葉を聞いて、最後のひと欠片の理性も失くしてしまった。僕は君に感謝のキスをしながら君の身体を持ち上げる。そして、力一杯君の腰を突き上げた。

僕のコアがドクンと強く脈打ち、それと同じ脈動を君にも感じた。僕達は絶頂のその先の何もかもが溶けて消えてしまう果てしない快感に貫かれてゆく。僕は君がもう二度と離れてゆかないようにときつくきつく君を抱き締める。そして、辺りは光に包まれ、白んでゆき、ふたりは意識を手放したのだ。

こうしてふたりの交歓の儀式は終わった。



ーーーーー…

瞳を開くと靄が晴れたように何もかもが澄んでいた。
ペールアクアの蒼穹、空漠とした一面の海にふたりきり。全てを見透かす鏡のような明るい水盤の世界。僕等は裸のまま見つめ合っていた。

「ねえ、カヲル君。」

「なんだい、シンジ君。」

「北風と太陽の話、知ってる?」

「ああ。イソップの寓話だろう。」

「僕、わかっちゃったんだ。」

そうして君が徐にしゃがんだから、僕はその後を追った。

「綺麗だね。」

「…僕はこれが憎いよ。」

「線と思っているからだよ。でもこれはキラキラ光る、糸なんだ。」

「糸?」

「ほら。」

君が片手を水に浸して、人差し指でそれを掬った。それは君の指先に絡まって呆気なく持ち上がった。

「ね?糸でしょ?」

「本当だ。こんなに簡単に動かせるなんて。」

「無理に跳び越えようとしたからだよ。ねえ、こうしてよ。」

君は小指にそれを結んだ。天上の羽衣の糸みたいに繊細な其れ。僕の真白い小指にも結ばれて、眩しく輝きを放つ。

「これで僕らは解けない糸になった。」

君はそう言って僕へと雪崩れ込んできた。僕等は糸に繋がれたまま、浅い水面にパシャッと倒れた。光の粒が弾けて透明な星屑の様。僕の背中が水に浸かっている。けれど、そこは不思議なくらい温かい。

「ねえ、ひとつになろう。」

愛しい君がとても美しく微笑っている。だから僕は理解したんだ。君は答えを見つけたらしい。

「全部、ふたりで半分こしよう。」

君の頬を撫でると君が僕の手に擦り寄る。そして君が瞬きをすると僕はアメジストの幻覚を見た気がした。

「けれど、そうしたら君は、糸の向こうのヒト達とはもう、違ってしまうよ。」

「いいんだ。それで、君が独りぼっちじゃなくなるなら。ふたりきりならもう、寂しくないでしょう?」

「でも、僕が君を得られても、君はたくさんのものを失ってしまう。」

「まだそれはわからないよ。僕達が頑張ればもっとたくさんのものを得られるかもしれないよ。そうでしょ。だから、カヲル君、」

すると、シンジ君は笑みを深めるのだ。慈愛に満ちた柔らかい微笑みで僕を見つめている。

「もう、独りで我慢して、自分を犠牲にしなくても、いいんだよ。」

君の想いが僕達の触れている部分から沁み渡ってくる。僕は果てしない安息に包まれて、欠けていた何かに温かいものがみるみる満ちてゆくのを感じた。嬉しい。幸福に顔が綻ぶ。だから、そのまま全てを君に委ねたのだ。


そうして僕達は解けない糸になり、ひとつになった。
絶対的な静寂の世界で、僕達だけが、互いの名を紡いでいた。それはとても神聖な響きだった。


君は僕に跨って、僕は君を支えて、大切だと伝え合うように視線を絡ませる。そして君の中に入る僕は還るべき処に戻れた歓びに震えていた。静謐な満足感。天秤が均衡を保ち始める心地に深く息をする。心が満たされて瞳を閉じる。そして、ゆっくり濡れた睫毛を瞬かせて瞳を開くと、そこには果てしない蒼穹と青い君のその瞳。その輝きは世界に在る全ての青を集めて結晶にしたような神秘的な煌めきだった。僕だけに向けられる、吸い込まれそうな紺碧の灯火。僕の心を照らす光。

「シンジ君……」

だから僕は君に愛していると告げた。そして君がそれを返してくれるから、僕は君を想いのままに、揺り動かす。とても優しく、力強く。その律動は君の愛らしい前髪を揺らして、その飛沫が僕のもとへと降り注ぐ。恍惚とした君の笑顔が眩しくて、僕は瞳を細めた。君の瞳が少しずつ赤く染まる。

「カヲル君……」

そして僕達は同じ時に達して、心を重ねた。重ねた心の感じながら、互いがひとつになれたことに歓喜の涙を流して抱き合ったのだ。僕達は運命を小指に結びつけて、境界線で結ばれた身体のその愛しい侵食を感じていた。ふたりは本当に境界を無くしたのだ。溶け合うふたりは互いの享受に、この上ない悦楽と安息で満たされていた。


白き月の子と黒き月の子は魂を分け合って、新しい発色のふたつのコアと生む。
赤と青とが堕ち合う時、君と僕とは魂の交歓を果たしたのだ。







空と海とが堕ち合う時が来たら

僕達は未来を想う

その祈りは蝶になり新しい色を運ぶ

まだ見ぬ明日へと向かって







fin.

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