X\. 神託は自らで告ぐ





 
境界線を跳び越えたい
境界線を無くしたい
僕らはそのふたつの違いに揺れ動く





幸せになりたいなら、足りないものを数えるよりも満たされたものを数えればいい。けれど、たったひとつの揺るぎない願いを抱きながら、その願いを別の誰かが叶えてしまったなら…

幸せになりたいーー

何故だろう。それだけのことなのに、果てしなく遠くに感じてしまう。


君は、僕には遠過ぎるみたいだ。


ひとひらの寂寥の孤独が、僕の胸に海を創る。満ち引きも無く浅い、果てしない広さの瓶覗。僕はその中で小舟のように漂いながら、遠くの君を探している。




我慢比べは僕の負け。

「…ねえ、僕、もう…」

それを聞いて君は、僕の下着に手を掛けて、するりと脱がす。湿ったそれはぴちゃりと冷たい床に落下した。包まれていた熱が解放されて、たちまち僕を煽る。せり上がる、欲望。僕に覆い被さっている君が、期待に熱っぽく濡れた瞳を瞬かせる。

「ひとつになりたいかい?」

「……」

君の眉が微かに下がる。

「…また、手がいいのかい?」

「…うん。」

それを聞いて真紅が揺れる。

「ふふ……これは?」

「あ!」

カヲル君の硬く勃ち上がった中芯が僕のそれに擦れると、ふたり分の白濁した分泌液が絡まって、信じられないくらいの気持ちいい滑り。その感触に思わず僕が嬌声を上げてしまうと、カヲル君は切なそうに微笑った。そして君は我慢出来ずに腰を揺らす。僕はもうおかしくなりそうな頭をふるふると縦に振ったら、白磁の指先が僕の手を取り燃えそうに熱いふたりの接触部分に誘導する。それからふたりでふたり分のはち切れそうな熱を掌でぎゅっと握り締めて、君がピストン運動を始める。僕はその激しさに力の入らない指先をどうにか添えて、腰をひくひく浮かせながら喘ぐ事しか出来ない。卑猥な水音がくちゅりくちゅりとだだっ広い室内を犯す。だらしなく半開きの唇から漏れる、呑み込むのを諦めた変にいやらしい声は、ふたりの間の湿気塗れの空気を震わしてゆく。君の汗が僕の身体の上に飛び散って、やがて僕の爪先が高く宙を蹴って声にならない声で泣き全身を痙攣させると、互いの精液までもが勢いよく飛び散った。君が熱を出し尽くすように腰を突いてからそこから手を離し、荒い呼吸のままで僕を掻き抱く。そして掠れた声で僕の名前を囁くんだ。

これは誰がどう見たってセックスじゃないだろうか。
そう、僕らはもう、セックスしている。


僕らはあのヴァイオリンの奏でた白鳥の日から前戯を始めた。僕から誘った。僕はもう初恋の彼にまた恋をした気分で、その熱情に平伏すしかなかった。始めは下着を付けたままで終わっていた。君もイチャイチャふたりで触れ合って唇を這わせるだけでも満たされた笑顔をしていたんだ。

けれど、僕らは片想いの季節が長過ぎた。一度頬張った禁断の果実はふたりの秘めた欲望にもう決して消えそうにない炎を点火した。それから僕らは毎日身体を重ねて欲望を上塗りする。もっと、もっと。ふたりがひとつになれるまで。

僕にとっては下着を履いたままでいることは、不可侵の絶対領域を持つ意味があった。君はやたらと身体を繋げたがる。僕は、前戯をしてどうしようもなくなったら下着をずらして互いの手で扱いて出す、それでも充分に満たされて幸せだと思ってる。けれど、君はそれでは不満らしい。僕はついに先日君の荒々しい手で下着を全部剥ぎ取られた。そして怯えた。けれども君は僕のそれを丁寧に愛撫してくれただけだった。

そして今、僕らはふたりの性器を一緒に握り締めて擦り合わせたのだった。


「怖くなかっただろう?」

「うん。」

僕がふにゃりと笑って言うと、白皙の君の顔にもそれが移る。

「気持ちよかっただろう?」

「うん。」

そして君は眩い顔で嬉しそうに頬を緩めてから、また僕を抱き締めた。

僕はいつの間にか曖昧な境界を跨いでしまったみたいだ。君の前戯の誘いは始めからそういう魂胆があったんじゃないかと思ってしまうくらいに、気がついたら僕はこんな事になっていた。でも僕はその事に感謝したんだ。僕は本当に幸せだったから。けれどーーー

「今度は、君とひとつになりたいな。」

「……うん。」

ーーー君は必ずそう言って、ピリオドを打つ。君は僕の返事を聞くと、僕の手を取り眉を寄せて熱っぽく掌にキスを落とした。

何が不満なんだろう。君には今のままじゃ物足りないのだろうか。そう思うと僕はこのふたりの感覚の差異に酷く不安になるのだった。

ーカヲル君は気持ち良くなりたいから僕とこうするのかな…

けれど僕にはそんな事を君に聞く勇気はなかった。



ーーーーー…

「新婚旅行?」

「そう!帰り際にリツコさんから聞いたんだよ。今ミサトさんと加持さんはオーストラリアに行ってるんだって!」

今日シンジ君はネルフで定期検診を受けていた。だから遅くなるだろうと僕がゼーレの雑用を多めに済ませてから帰宅すると、既に彼は和彩色の夕食の卓上に並べて頬杖を付きながら僕の帰りを待っていた。だから僕が理由を尋ねると、こうだ。上司が不在だから簡易検査のみで済まされたらしい。

僕はそれを聞いて言い難い不思議な眩暈に襲われた。そして黙々と恋人の作った温かな家庭の味を食すのだ。そう、これは僕の、家庭の味。

その味を噛み締めながら、僕は思う。僕の激しい肉体的欲求。それは何処から来るのだろう。そして君はいつまでその攻防を続けるのだろうか。ヒトの身体、それは魂を隔てる境界のよう。だから僕は君とひとつになりたい。身体を繋げて君の中に入って君の体熱を感じたい。けれど君は、そうではないらしい。何故なんだ。僕には理解出来ない。

ー本当に僕を愛しているのならそう望む筈じゃないのか…?

「…カヲル君?」

「…ん?」

「どうかした?」

「…いや。何故?」

「だってほら。」

シンジ君は僕の手から醤油差しを取り上げた。

「お味噌汁に醤油入れかけてたよ。」

そう言って君は醤油皿に涅色のそれをつうっと垂らす。

「はい、どうぞ。」

「…ありがとう。」

君が困ったように微笑むから僕は身体の芯がきゅっと絞られるようにして、君が恋しくなった。



「…はあ、はあ……ん、」

「声、我慢しないで。」

「…ん、ふ……ん、」

「シンジ君!」

「…ひゃ!あ、あっ!」

僕はあれから堪らなくなって風呂上がりのシンジ君をそのままシーツの上に押し倒した。まだ半乾きの髪が枕を濡らしても気にしない。君が寝間着を着たばかりだとしても気にしない。君が湯冷めをしないように僕がその身体を火照らせばいいんだ。

時刻は夜の九時過ぎ。いつもふたりが肌を重ねる時間よりも幾らか早い。君はそれが気になるらしい。ふたりを照らす照明を気にして、電気消してよ、と何度か君がキスの最中にあえかな声でお願いをするもんだから、僕は焦れったいままにサイドテーブルのリモコンを手繰り寄せて適当にボタンを押した。そしてローシェンナの間接照明の中で君に口付けながら邪魔な服を剥ぎ取ってゆく。君の滑らかな肌を指先や舌で堪能してふたりの身体が汗ばんだ頃、僕は君の胸の突起を口に含んだ。けれども君はいつもよりも恥ずかしそうに腕で口元を隠して喘ぎを隠してしまうから、僕は酷く寂しくなって唇だけで粒立つそれを甘噛みした。そしてまだ抵抗をやめない君に僕は苛立ち、それに小さく歯を立てたのだ。噛まれた性急な刺激で君は驚いたような甲高い嬌声を上げた。僕はそれにほっと安堵する。

「カ、ヲル君…」

「なんだい?」

「怒ってるの…?」

「…ごめん。寂しいんだ。」

「寂しい?」

「うん。すごく。僕を慰めておくれよ。」

そう言って僕が苦渋を滲ませて君の顔を覗き込むと、君は心配そうに眉を下げて僕を抱き寄せた。だから僕は両手の塞がった君の下着をずるずると脱がしてゆく。君は驚いて身を固くしていたけれど、僕に譲歩してくれた。君は優しい。そしてそれを知っててそんな事をする僕は、ズルい。

噎せ返るほどの欲求。君の吸い付くような腿を尻肉を揉みしだきながら自身の膨れ上がった物を君の下腹部に擦り付ける。君は小さく僕の耳元で喘ぎながら身を捩る。その鼓膜から全身へと拡がる痺れに僕は鼻から張り詰めた息を漏らした。

執拗に君を味わい、反復練習の末に知っていった君の性感帯を攻め立てると、もう僕の腕の中には溜まった熱を持て余してぽろぽろと白濁液を滴らせた君が震えて僕を見つめていた。その瞳は僕だけしか映せないもののように涙を湛えて一心に僕だけを求めていた。

だから僕は逆上せた頭で、今日こそは、と思ったのだ。

僕は君の華奢な柳腰を掴んで自身に引き寄せた。両膝を突いて座り、そして腿から膝裏へと手を沿わせてから持ち上げる。下半身が重力に逆らい斜めに傾くと君は上擦った驚きの声を弱々しく漏らした。


「カ、ヲル、くん…!」

「シンジ君…」

僕は頬程の高さの君の脛に擦り寄るようなキスをした。

ー僕は君のものだよ、シンジ君。そして君も、僕のものなんだ。

君の足に頬擦りをしながら君を見つめて訴える。僕の願いを。それに気づいてはっとした君がふるふると小さく首を振った。悩ましく眉を歪めてゆっくりと瞼を閉じて、また開く。つうっと色のない涙が零れ落ちた。

お願い、シンジ君。僕がそう甘えた声で囁き再度強請ると、君の腰がぴくりと跳ねた。僕はそれに手応えを感じて今度は君のお尻を高く持ち上げて、足を開き、尻肉の奥に潜んだ秘部に唇を寄せた。

「あ!や、やだ…!」

僕がそのままチロチロと舌先でそこを舐め始めると、君は辛そうに眉を寄せて股を閉じようとした。けれど既に感じ入ってしまっている君は力なくぴくぴくと腿を俄かに寄せただけだった。そのまま腿の付け根の君の弱い部位をそろりと優しく舐め上げると、君が小さく痙攣してぴゅっと熱を吐き出し掛けて、泣くような嬌声を漏らす。僕はその情景に思わず歓びの笑みを零す。そうしたら君はもう耐え兼ねて震える指先で自身の張り詰めて涙を零すようなそれを掴もうとするから、僕はそれをやんわりと阻止した。

「だめ。」

僕は自分でも驚く程の甘い声で君を諌めた。そして僕がまた股の間に顔を埋めると君が泣き声を漏らす。

「やだよお…」

ドキッとして君を見やると君はハアハア小さく舌を出してポロポロと泣いていた。扇情的な君の仕草。

「やだじゃないよ。シンジくん。」

すんと胸を刺す痛み。やだ、なんて君に言って欲しくない。

「僕、まだ…」

「お願いシンジくん。」

君は腰が抜けたように僕にされるがままだった。けれど僕のお強請りの声には首をぶんぶん横に振る。渾身の力を込めて。

「お願いだよ。」

僕はその拒絶が堪らなくて思わず君をシーツに寝かせてぎゅっと抱き締めた。覆い被さる僕に君は抗う術もなく、やだやだと囁いていた。それが僕の胸を深く抉るようで、僕もお願いお願いとうわ言のように呟きながら、君の肩に首に額を擦り付けるのだった。

ー君とひとつになりたいんだ…どうしても…

「お願いだよ…シンジ君…」



ーーーーー…

カヲル君は駄々を捏ねるように僕に縋り付いて泣いていた。けれど僕もそれに貰い泣きをして、いやだあ、と幼い子供みたいに声を上げて泣いてしまった。だから君は、仕方なく、僕に譲歩したのだった。僕らは君の手の中で一緒に達した。

「カヲル君…」

君はふたりが果てた後もシーツに顔を埋めて泣いていた。泣き止んだ僕は申し訳なくて上体を起こして君の背中を摩りながら、思わず声を掛けた。

「…ごめんね。」

「…君は、悪くないよ。」

僕が謝ると君はくぐもった声でぽつりとそう告げた。君の俯いた背中が痛いくらいに寂しそうで、でもだからって君の願いを叶えてあげられそうにもなくて、僕はただ君を後ろから抱き締めたのだった。熱く湿った肌、小刻みに震えるその僕よりも大きな背中。

そして君は暫くすると僕の胸に頬を擦り寄せて眠った。僕はそんな赤子みたいな君をずっと抱き締めたまま、身体は気怠いのに頭は重く冴えていて、なかなか寝付けなかった。

ー君は、たまに、すごく哀しそう…

ーそんなにこの行為って、君には大事なの?

ー僕には君がわからないよ、カヲル君…

けれど、僕だってそこは譲れないのだ。


僕の中に在る悠久の記憶。過去の航海の末路に潜む、哀惜の淀み。それは今も君へ向かう僕の足に纏わり付いて離れない。僕は足を引かれていつも溺れてしまうんだ。





ふと瞳を仰ぐとペールアクアの明るい蒼穹。見渡す限りの瓶覗と空色のグラデーション。ここは一面に拡がる空漠とした海だった。踝ほどの深度の浅い海。動的な波紋は僕の周りにある限り。凪の中で水面は空との合わせ鏡のように薄い青を湛えている。果てしない絶対的な静寂。僕はここはどこか知らない惑星だと感じた。

「…ここは、どこだろう。」

「……シンジ君。」

僕が後ろを振り返ると、そこには見慣れた真紅の瞳。優しい笑顔。それは僕だけに向けられる、安らぎ。

「カヲル君!よかった!そこにいたんだね!僕ひとりかと思ったよ。」

「僕は、独りだよ。」

「え?」

「君は、独りではないけれどね。」

「…何言ってるのさ。僕らはここにいるじゃないか。」

「ほら、此処を見てごらん。」

カヲル君が白い指先で足許を差すから視線を下げると、水面に浮かぶ一本の線があった。それは僕に一糸のオーロラを連想させた。少し屈んでじっと見つめるとそれは流線で、まるでプリズムのインクを真っ直ぐに零したように揺らめいていた。

「何、これ。」

「君等と僕との境界線。そして君と僕との境界線でもある。」

カヲル君と僕はその線を爪先で挟んで向かい合わせに見つめ合っていた。

「そんなの、跳び越えればいいじゃないか。」

そして僕は一歩踏み出してその線を跳び越えたーーつもりが、どういう訳か僕はまた、君と僕との境界線前で着地した。

「僕、ちゃんと一歩踏み出したのに!」

「君は踏み出したよ。けれど、これだけは越えられない。」

「意味わかんないよ。どうしてそうなるのさ。」

「君はリリンで僕が使徒だからさ。」

「ほとんど同じじゃないか!」

「けれど、全く同じにはなれない。」

カヲル君が泣きそうな顔で、微笑った。

「…でも、そんなの皆同じじゃないか。ヒトとヒトだって全く同じじゃないよ。」

「だから君と僕との境界線でもあるのさ、シンジ君。」

僕はその科白に胸が潰れそうで、思わずカヲル君の手を握ろうと手を伸ばした。けれどもそれは、届かなかった。

「なんで……」

「シンジ?」

僕は背後の気配と右肩に置かれた重みに振り返ると、そこにはアスカが居た。

「何してんのよ。」

「アスカ!僕はカヲル君と話してるだろ。」

「カヲルって誰よ。」

「目の前に居るじゃないか!」

「はあ?何寝呆けたコト言ってんのよ。あんたの前には海しかないじゃない。」

僕の目の前のカヲル君は困ったように微笑んでいる。

「…アスカには見えないの?」

「シンジ君!居た居た。さあ、行くわよ。」

ミサトさんが無邪気に僕の腕を引っ張る。

「ミサトさん!ちょっと待ってくださいよ!僕はまだーー」

「碇くんには何が見えるの?」

綾波がちらりとカヲル君を見た気がしたけれど、すぐに目を逸らした。

「だから僕はカヲル君とーー」

「君にしか僕は知覚出来ないよ。」

「カヲル君!何でさ!皆どうしちゃったの?」

「君しか僕がリリンとは魂の種類が違う事を知らない。そしてそれを気に掛けない。君達は同じ魂同士で無意識に共感が出来る。脈々と受け継がれた遺伝的な内観、リリンの感性がある。けれど、僕にはそれは到底手に入れられない。僕は使徒だ。君達リリンの全てを理解する事は…出来ない。」

「…でも、そんなの…些細な違いだよ。」

「決定的な違いだよ。この境界線で君も感じただろう?」

僕らを隔てる、越えられない、一線。

「こんな線がなんだって言うのさ!こんなもの!」

僕がまた一歩大きく踏み出しても、それは越えられない。だから僕は君へと走り出した。けれど、ぴちゃぴちゃと水音が飛び散るだけで、僕らの距離は変わらなかった。

「…君と、ひとつになりたかった。」

「カヲル君!」

「シンジ君……」

「カヲル君!!」




僕は悪夢から目覚めた。嫌に明るい色の悪夢だった。まだ心臓が皮を突き破りそうなくらい暴れ回っていて息が苦しい。部屋の明るさが時刻を暁だと知らせる。僕は濡れた頬を拭った。冷たかった。

僕は堪らなく寂しくなって、横に一緒に寝ているカヲル君を抱き締めようとしたら、君はそこには居なかった。

「カヲル君!?」

「シンジ君…起こしてしまったかな?」

君の掠れた小さな声のする方へと上体を起こして見据えると、君はベッドの淵に腰掛けていた。俯き加減の猫背の君は、いつもよりずっと弱々しく見えた。でも僕は君がそこに居るだけで安心して、ほっと息を吐いてへにゃりと笑ってしまう。

「…へへ。そこに居たんだ。居なくなったかと思っちゃった。」

「…ふふ。君がいきなり叫ぶから、僕は心臓が止まるかと思ったよ。」

そう言って君は掌で顔を拭った。その横顔は何故だか哀しそうだった。

「…おいでよ。寒いでしょ。」

「使徒は、寒さを感じにくいんだよ。」

君がふっと笑う。自虐的な響きだった。

「汗はいっぱいかくじゃないか。」

「君を感じる時だけ、身体が熱くて汗が出るんだ。」

僕はその言葉に心臓が破裂するかと思った。君が愛おしくて、身体が疼く。数時間前まで君を感じていた余韻が波のように押し寄せて、じんわりと熱い。君が来ようとしないから、僕が布団から這い出て君ににじり寄った。君はそれを待って居たのか、ちょっと照れて微笑んでから、首を傾けて僕を真正面から見据えた。僕らは裸だった。

「カヲル君……」

君を近くで見つめると、気がついた。仄暗い朝の始まりでもわかってしまう、乾いた涙の跡。

「…泣いてたの?」

僕がその筋に沿って指先を這わすと、君が観念したように瞳を閉じた。その長い睫毛を震わせて。

「……夢見が悪かったんだ。僕はまだ、リリンのそうした行為には、慣れないらしい。」

噛み締めるように紡がれた言葉。ゆっくり開いた真紅の瞳。その輝きは朝焼けの赤を集めて結晶にしたみたいな神秘的な煌めきだった。

「…僕も嫌な夢を見たんだ。一緒だね。」

「…一緒、かな?」

「うん一緒。今、寂しい?」

「……うん。」

「それも一緒。」

僕が頬を緩めて笑ってから君の顔をぺろりと舐めると、君は驚いたような恥ずかしそうな表情をした。

「涙が甘くてしょっぱい。それも一緒。」

僕が君の首筋に顔を埋めてぺろりとまた舐め上げると、君はまた驚いて鼻から張り詰めた息を漏らした。

「…汗の味も同じだよ、カヲル君。」

「……どうして。」

「ん?」

「どうしてそんな事を言うんだい?」

君が泣きそうな顔をしてそう聞くから、僕まで泣きたい気分になった。

「どうしてだろうね……境界線を跳び越えたかったのかも。」

紅い瞳が瞬いて、きゅっと眉を寄せた。桜色の唇が小さく震える。

「……僕はそれを、無くしたいんだ。」

そう言うと君は思いきり僕に覆い被さって、勢いのままに僕をきつく抱き締めた。そして身体を擦り寄せ僕の息を止めるような激しいキスをする。たちまちふたりの身体は熱せられて、昂る。

僕はそうして求められて、歓んだ。

ー君は気持ち良くなりたくて身体を繋げたいんじゃないみたいだ。

それと同時に、苦しかった。

ーでも、僕は君の期待に答えられない。

ー僕は意気地なしだから…


それから小鳥達が朝を知らせる白んだ光の中で、熱りが冷めた僕らは秘密の恋人のようにして、同じ毛布に包まって額を寄せ合い囁き合った。

「ねえ、シンジ君。」

「なあに?カヲル君。」

「冬休みはドイツへ行こう。」

「ドイツ?」

「僕の住んでいた街を案内するよ。僕の見ていた風景を君にも感じて欲しい。」

僕は頭が真っ白になった。そしてとくんと心音が宿る。

「…嬉しい。僕一度も海外旅行へ行った事ないんだ。それに君の事、もっと知りたい。」

「僕はついでなのかい?」

君がちょこっと拗ねた顔をして片眉を上げた。

「あはは。まさか。カヲル君が誘ってくれたから嬉しいんだよ。僕、君と一緒だから行きたいんだ。」

そういって僕は君の指先に僕のを絡めた。シーツの上でそれはひっそり僕らを結ぶ。

「…約束だよ。シンジ君。スケジュールは空けておいてね。」

「うん、約束。カヲル君こそ、スケジュールちゃんと空けてよ。」

「老人達に何をされてもこれだけは死守するよ。」

そうして僕らはもう一度、気怠く湿った身体を並べて寝息を立てるのだった。


恋人達の約束。君の頭の片隅であの羨むべき新婚旅行が横切ったのかもしれない。そう思っても僕はそれを決して口にはしなかった。

それでもその時僕達は、幸福な朝の息吹を感じていたんだ。希望を互いの胸に灯して、微笑み合う。細やかだけれど満ち足りていた。


けれどその三日後には、ふたりは大喧嘩をしていたのだった。
今までになく、本気で、やり合うのだ。



ーーーーー…

「だから何度も言ってるじゃないか!僕は嫌なんだ!」

「どうして嫌なのか説明してくれ!」

「嫌だから嫌なんだ!放っといてよ!」

「これは僕等の問題だ!それで納得出来る筈がないだろう!?」

裸で向かい合わせの僕達。真夜中にベッドの脇で立ち上がって一戦を交える。こんな奇妙な状況でも笑えないふたり。

「いいじゃないか!僕だって言いたくない事くらいあるんだ。君の知らなくていい事なんだよ!」

「知るべきかどうかなんて勝手に決めないでくれ!」

「僕は心の準備が出来てない!これでいいじゃないか!君は待つって言っただろ!」

「いつ迄待てばいいんだ!僕はもう待てない!今すぐでも君とーー」

「うるさい!うるさい!毎日そんな事言わないでよ!迷惑だ!」

僕はそれを聞いて表情が引き攣るのを感じた。肺が潰れて呼吸が浅く早くなる。それを見てシンジ君がはっと表情を変えた。

「……ごめん。でも、僕らは中学生じゃない。そんなに急がなくても、いいよ。」

「…僕等は永遠に中学生だろう?それとも君は永遠に僕とそうなるつもりはないって事かい?」

自分で言っててあまりの苦しさに涙が零れた。全身を締め上げるような寂しさに、立ち尽くす。

「……違うよ。誤解、しないでよ。」

僕が止まらない涙に静かに嗚咽を呑み込んでいると、君はまた、違うよ、と呟いた。

「…君は、確信が、ないんだね…」

「……」

「…僕と歩んでいく覚悟が、無いんだ。」

きっと今の僕は酷く情けない顔をしているだろう。君が呆れるくらいにつまらない、縋るような、顔を。

すると君が予想外の言葉を口に出す。

「……当たり前じゃないか。」

その言葉は僕の生命機能の全てを奪った。

「……当たり前なんだよ、カヲル君。君は全然わかってない。」

もう僕は死んでしまうかもしれない…それか、気が狂ってしまう…


君がすうっと深呼吸する。そして張り詰めた表情で、真摯な青の瞳で語り出すのだ。君を苦しめる透明な足枷の所以を。

「僕は君が単に気持ちよくなりたくてそういうことを言ってるんじゃないってわかってる。」

「……」

「…そうなんでしょ?」

「…そうだよ。使徒の僕の肉体的欲求が芽生えたのはこの世界に目醒めてからだ。それよりもずっと前から君が好きだ。そこに性愛の概念は、無かった。」

「…でも…もしも、君の願いに崇高な意味があったとしても、それでも僕は、まだ出来ないんだ。」

「……何故?」

「……君が僕に殺されたからだよ。」

僕はそれを聞いて途方に暮れた。その科白が僕の胸に巣食う空洞にこだまする。

「……君は知らないんだ。好きな人に置いていかれた気持ちを。別離の寂しさだって。」

「……それは、僕にも、解る。」

「わからないよ。僕が言ってるのはヒトの気持ちなんだ。使徒のじゃない。」

それを聞いて僕は目を閉じた。頬を冷たい熱が伝う。心が零れ落ちるようだ。

「…ねえ、わかる?君と一緒に笑っていても心の中では未だによく思い出すんだ。君を殺した感触も、気持ちも、鮮明に。」

「……もう、過去の事だよ…思い出さなくて、いい。」

「僕だってあんなこと思い出したくないよ!でも思い出さないって思ってどうなるもんでもないだろ!」

「……それで、何故…僕とひとつになれないんだい?」

君は深い溜息を吐いた。きっとそんな君の気持ちも解らない僕に落胆しているのだろう。それを思うと僕は小刻みに小さく震えた。

「…怖いからだよ。」

僕は理由を知りたかったのに、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。

「…胸騒ぎがするんだ、いつも。最初は君が僕とひとつになって、僕に興味を無くしてしまったらって、思った。」

「そんな事、ある筈ないじゃないか。」

「わからないだろ!もうカヲル君は、ヒトの心だって持ってる。」

「…そう。その心で君を愛しているんだ。絶対に揺るぎの無い、愛なんだ。」

「……そうだとしても、またいつもみたいに、君が急に居なくなったら?」

「……もう、そうはならないよ。」

「なんでそんなことが君に言えるの?」

「……もう、そんな事は僕がさせない。」

「…そうやって軽はずみな事を言って、僕の前から消えちゃうんだ。それは、君がそう思っていなくても、僕にとっては、裏切りなんだよ。」

「……裏切り?」

「そう。だって、僕を幸せにするって言った後に、君は僕を置いてけぼりにしてしまうんだから。それは嘘と同じだし、裏切りだよ。」

僕は身体から生気が抜けていくのを感じた。僕が、シンジ君を、裏切っていた…?

「僕、君と何もかも、ふたりで心も身体もひとつになってから君を失くしたら、もう世界をやり直したいなんて、絶対に思えない。」

「……」

「…そしたら、僕らは、永遠に、離れ離れだ。」

僕はその科白の意味を考えようとした。けれど、余りにも恐ろしい事象で、考え進める事すら僕には出来なかった。

そして僕の脳裏には地球と月が旋回する。地球と月は、悠久の時の中で手を取り合っているけれど、決して重なり溶け合う事はなく、一定の距離が在る。この先も、未来永劫。それはまるで僕等のあの虹色の境界線の様。数日前に僕が観た、君との別離を想わせる明るい青の海の夢。君と僕、そして君等と僕を隔てる永遠の、寂寥の孤独の迷夢。



ーーーーー…

カヲル君を傷つけたくなかったんだ。けれど、君が望むから。だから、話した。だから、君が泣いている。僕はその情景が堪らなくってざらつく口内を動かして、指先を固く強張らせていた。

「……僕だって、置いていかれた哀しみは、知っているんだよ、シンジ君…」

暫しの沈黙の後、君が壊れてしまいそうな繊細な声でそう紡ぎ始めた。

「…君は記憶を失くし続けた。それは、この世界でだって…そうだった。」

カヲル君の哀しみを超えて淡く微笑む顔は、真紅の瞳も白磁の頬も桜色の端麗な唇も、涙で潤んで月影に煌めいていた。

「僕は初めてのヒトの心に戸惑っていてね、その事実がとても受け入れ難かったんだ。同じ君だけど、新しい君。僕は君自身を愛している。君の魂をね。けれど、過去の君は何処へ行ってしまったのか。僕達の想い出は何処へ消えてしまったのか。そればかりを考えて途方に暮れていた。そして、君の居ない歳月の本当の寂しさを、僕は知った。」

そしてカヲル君は僕の頬に手を伸ばして、愛おしそうにそれを撫でた。とても愛おしそうに。

「でも、僕には君が生きているという希望があった。始めからやり直せる希望も。夢が紡いだ奇跡を信じる希望も。それは全部、君がくれた希望だ。」

そして君は微笑みを崩さずに悔しそうに唇を小さく噛み締めた。瞳を瞬かせて、僕だけを見つめている。

「…僕は君に、それをあげられなかった…ごめん。シンジ君。」

静粛な想いを寄せ合い向かい合うふたり。君はポロリと涙を溢して苦しそうに微笑って、僕はそんな君を見つけて胸が苦しくて、ただ息をするので精一杯だった。

「…これは君を哀しませた、罰だ。僕はそれをしっかりと受け入れるべきだね。」

「…これから先の事なんて、まだ、わからないよ。」

「ふふ。君は優しいね。ありがとう。」

「…僕が意気地なしのせいで君が苦しんでるんだから、そんな風に言わないでよ。」

「本当にそう思っているのさ。僕は君に愛想を尽かされても当然な立場だ。」

急に僕らの距離が離れてしまった気がして、僕は慌てて君を抱き締めた。縋り付くみたいにその背中をぎゅっと抱き包めて、君の首筋に顔を埋める。君の全身の脈動を感じるくらいきつい、僕の拘束。

「…シンジ君?」

「もう僕から二度と離れていかないでよ!」

僕は悲痛な叫び声を上げた。君の喉がゴクリと鳴る。

「これ以上、離れないでよ!」

僕の我儘な願いに、君の僕を抱き締め返す腕が苦しくて、僕は息が出来ない。

「心はいつだって君の側に居るんだ。本当だよ。」

「…心だけ?」

そして君は思いもよらなかった事柄を伝えるから、僕はこの喧嘩の出発点を知る事になる。

「…明後日から急な出張で、僕はアメリカへ行く。年内には戻ってくるよ。今日、辞令が下ってね。なるべく早く君の元へ帰れるように画策はするけれど、最低でもひと月は掛かってしまいそうだ。」

僕は唖然として、君の腕の中で放心した。

「……帰ってきたら、ふたりでドイツに行こう。一緒にハネムーンの気分を味わおう。その為の、試練だと、僕は思う事にしたんだ。」

僕らは十四年ぶりに再会を果たしてからは、ずっと顔を合わせていた。最近だと、毎日のように肌を重ねて互いを確かめ合っていた。それが、急に、無くなるなんて。

「…僕は焦ってしまったんだ。君を置いて行く前にひとつになろうと強引だったね。君を置いて行くのは辛いよ。不安で堪らない。ひと月だとしても、ようやく君とこうして居られる時が来たのにそれを取り上げられるなんて、気が狂いそうさ。僕はその気持ちを君に押し付けて、とても身勝手だったね。ごめん。」

ー僕だって、それを聞いていたら、そうしたいと思ったかもしれない。

僕はそんな自分の身勝手さに、涙が溢れた。


けれども僕らは結局は身体を繋げる事はしなかった。カヲル君は僕の気持ちを汲んでくれた。僕が君を励ます為に腹這いになって君を誘ったら、君は興奮して僕のお尻を弄ったけれど、僕が怯えているのに気づくとすぐにやめてくれた。けれど、その僕の一線は越えない状態が君を酷く煽ってしまうようで、カヲル君は激しく長く、僕を愛した。僕は何度も手繰り寄せた内股を君のもので擦られて、ほんのりとまだそこが腫れているし、腰は硝子みたいに痛いし、肌は痣だらけだ。僕はそんな君の愛着に身体をとことん擦り減らして、連休明けの月曜日に、ついに学校を休んでしまった。けれどもそんな身体でも、僕らは陽の高いうちだって、ずっと互いを離さなかった。


その時の僕らの感傷は、遠い過去が連れて来たものかもしれない。僕らは気づかぬうちに離れ離れになる事に怯えていた。幸福はやがて過ぎ去る。僕らはいつだってその事を忘れられずにいた。だから、刹那的な今に酔い痴れて、その中で息をした。まるでふたりの世界は、混じり気のない色と色を重ねた二色しかない水槽だった。君と僕の色しかない世界で、ふたりは泳がないと死んでしまう魚になった気分で、そこに漂った。

そんな最中、僕はふと考えるのだ。あの境界線を跳び越える方法を。そうして跳び越えた先に、ふたりにはどんな未来が待っているのか、と。


ふたりの境界を越える。
僕は、その方法を、知りたい。



「最後のキスだよ。」

君のその科白と重なり合うふたつの唇。何度目になるだろう。

「だから、最後じゃないんだから、そう言わないでよ。」

「…胸騒ぎがするんだ。」

「そう言うから昨日はお風呂も一緒に入ったし、オムライスだって作ったでしょ。」

「…もう君に会えないかもしれない…」

「そう言って僕を寝かせなかったのは誰?」

「僕はS2機関が在るから枯れる事を知らないんだ…」

「そんなこと言ったら僕にだってもうあるんだよ!」

「…そう言えば君は少し使徒に足を突っ込んでいるんだったね。もう少しその割合が高まれば、僕らは似た者同士になれる…」

「君は真面目くさって何言ってるのさ。」

「…希望的観測だよ。僕に明るい未来を見せてくれるのは、いつだって君なのさ!」

カヲル君は何か思う所があるのか、急に水を得た魚のようにぱあっと笑顔を咲かせて元気になったから、僕は驚いた。僕をハグしてキスする仕草が妙に明るい。てっきり君は別れ際にはドロドロに崩れ落ちてしまうんじゃないかと思っていたから、変に呆れた。僕は予測不能な君に振り回されてばかりで、ちょっと悔しい。

そうして君は終わらない別れのキスを最後に、呆気なく僕らの部屋を後にした。


それからの一ヶ月は、僕は久々の独りを持て余して堪らなく寂しくなるのだった。部屋を綺麗にしても、美味しいご飯を作っても、そこに君が居ないのなら全てが味気ない。カヲル君の居ない生活は想像以上に僕に辛辣な現実を伝えた。


君が居なくちゃ、僕はまるで、死んでるみたいだ。


「なあに辛気臭い顔してんのよ!」

「いたっ!痛いだろアスカ!」

「アンタがぼ〜っとしてるからよ。顔にホモって書いてあるわよ!」

「なんでアスカはカヲル君のことになるとそう減らず口なんだよ!」

「…アイツの名前なんて言ってないじゃない。アンタはほんっと大バカね!」

僕はもう一発、物凄い威力のデコピンを喰らった。


「碇〜。トウジと新作のゲームやるんだけど、お前もどうだ?豪華三本立てだぞ!」

「…僕はいいや。気分じゃないから。」

「なんや、最近付き合い悪いのう。」

「ごめん。」

「旦那が不在で寂しいんだよ。俺たちじゃそのアナは埋まらないさ。」

何の穴だよ、なんてふたりして下ネタを展開し始めたから、僕はさっさと帰路についた。


なんで皆楽しそうなんだろう。それになんで僕はこうもつまらないんだろう。つまらない、と云うよりもこの感覚は、無。無感覚。

ーこんなんじゃ、ダメだ。カヲル君は仕事を頑張ってるのに。

僕は自主学習をしようとノートを広げた。そしたら広げただけで三時間も過ぎていた。気がついたら辺り一面、真っ暗な夕闇に包まれている。

だから僕は泣いてみた。頭がごちゃごちゃに撹乱していて、自分がよくわからない。

ーカヲル君の、バカ。

ーカヲル君が僕を、こうしたんだ。


そうして僕はプリズムの境界線を想った。ペールアクアの世界の海の一本の流線。越えられない、僕らの一線。

ー君はそれを無くしたいって言っていた。

ー無くなれば、越える必要もない。

ーでも、無くすってどうやるのさ。

使徒とヒト。だけど僕らはそう云うには既に不完全じゃないか。ヒトの心を持った使徒に、使徒の機関を持ったヒト。何故だかはわからないけど、そうなった。

僕らは互いを分け与えるようにして、そうなった。

ーあんな糸みたいな線が、僕を酷く寂しい気持ちにさせるなんて…

胸がささくれ立つみたいにして、痛い。


そうして僕はまた過去のように夢に悩んで時を過ごした。僕は暇さえあれば、君とのメールを眺めたり、君とした電話の内容を思い出していた。そして過ぎゆく昨日を数えるんだ。あと二十日で君に会える。あと十四日で君に会える。あと三日で君に会える。


そして今日、君に会える、筈だった。
けれど君は、帰って来なかった。


僕は君の云う最低の月日を数えていた。それから連絡が入って帰国予定日を当初から数日後にカレンダーに書き加えた。そして今日はその大きなマルのつく日。君もメールの様子だと、その予定だったみたいだけれど…

机の上には君が手配したドイツ行きの航空券が二枚。僕はもうすっかりボストンバッグにふたり分の荷物を入れたんだ。チェックも三回もしたんだ。それなのに。

ー出発は明日じゃないか。

ーカヲル君の、嘘つき。



ーーーーー…

「こんな所で寝てしまって…風邪を引いてしまうよ。」

僕は約ひと月ぶりに恋人と再会した。けれど、君は熟睡している。そう、僕は予定よりも遅く帰国したのだ。仕事が一日長引いてしまった為に。正確には数時間程の遅刻。

「…もう君と離れ離れにならないように、頑張ったんだよ。」

僕はソファですっかり寝入っているシンジ君の足の甲にキスを落とした。

ー君の思い描いた未来は、実現するには少々骨が折れたよ…

「ん…カヲル、君…?」

「…シンジ君。」

僕の心の襞を擽るその愛らしい声。この心でさえ、君のくれた贈り物なんだ。

「…僕、夢、見たんだ…」

「ん?」

「解けない糸になって、ふたりがひとつに、なるんだ…」

君はそう言うと本当に幸せそうに微笑った。そしてひと滴の透明な涙を零す。

それは君を求め枯渇した僕にとって、呼び水になってしまう。愛おしさが、止まらない。

僕は堪らず君の唇を僕ので優しく愛撫した。そうして君は僕の心に呼応するかのように、波間のように僕にそれをピタリと合わさる。息の合ったその感触に僕の肌は粟立った。

「…ベッドで休もう、シンジ君。遅れてごめん。待っていてくれたんだね。明日は早いから、そのまま寝ていいよ。」

僕はそう言って君をベッドに運んだ。立ち上がろうとする君を制止して、両腕で抱き上げて君を運ぶ。そうしたくて堪らなくなったのだ。

「……夢を、見たんだ…」

君が眠気と戦って焦ったそうにまたそう言う。

「明日、聞かせておくれよ。」

「…うん。」

「おやすみ、シンジ君。」

「おやすみ、カヲル君。」

君が寝息を立てるまで、僕はその丸い額を撫で上げながら、考えていた。

ー解けない糸…?

ーふたりがひとつに、なる…

僕はその響きに妙な期待をして、君の居る床に就くのだった。久しぶりに感じる君の温もりに僕は心を溶かす様に微睡んで、すぐさま意識を手放した。


解けない糸ーーー僕は懐かしい異国の地で、その意味を知る時を迎える。


君の告げた神託の夢。
それは僕達をひとつにする為の福音だった。



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