XX. 言葉のない世界






もしも世界に言葉がなかったら


好き、をどう伝えよう

ごめん、をどう伝えよう

愛してる、をどう伝えよう


まだ言葉を知らなかった時には

そんなこと、できていた気がする





鳥の囀りが朝を伝える。僕は音もなく瞼を開く。青く仄暗い神秘的な朝焼けから、生まれたてのように白む目覚めの朝までのひと時。その雄大な彩りのグラデーションを僕は眺めていた。染み込むように透明な色の移ろいが僕の生命力を満たしてゆく。

隣の君はすやすやと微かな寝息を規則的に揺らして今は深い夢の中にいる。どんな夢を見ているのだろう。早朝の空気が君の表情を様々に演出するけれど、どの君も愛おしくて美しかった。

寝不足だとの宣言通りにカヲル君は甘えるように僕の肩に顔を埋めて、あっと言う間に寝てしまった。少しだけ姿勢を変えようと身を捩ると、君の腕が意外にしっかりと僕の腰に添えられているのに気付いて観念した。肩や腰が痛くなったらカヲル君のせいだと小さく心で不平を呟いてみて、僕も君を起こさないように慎重に腕を伸ばして君の背中を包み込む。僕らは並んで横たわりひとつのベッドの真ん中にふたりして寄り添って朝までぐっすり眠っていた。


君が側にいる。ただそれだけで僕には未知の力が湧いてきて、妙に早く目を覚ましてしまったのに、頭は澄み渡ってて体は軽かった。せっかくだから、ふたり分のちょっと豪華な朝食を作ってしまおう、と楽しい閃きに顔を綻ばせて、僕はベッドから脱出した。



「カヲル君、朝だよ。」

ん、と小さく呻いて君は身を捩るだけ。朝の光は随分前から強くくっきりと部屋の隅まで照らし出し、街はもう営みの喧騒を遠くからざわめかせているのに。

「カヲル君…ごはん冷めちゃうよ。」

そう、腕によりをかけて支度した朝食はすでに冷めかけている。食べてもらえるのを待ちくたびれて。

「ねえ、カヲル君ってば。」

毛布に包まった君がより深く潜ってしまう。見兼ねて僕は君に悪戯を仕掛ける。毛布越しに君の体に覆い被さって耳元で囁いた。

「カヲル君、起きて、お願い。」

息を多めにして掠れた声は君の鼓膜を擽った。

「ん…駄目だよ、シンジ君…」

何が駄目なのだろう?君のその見たこともないくらいの目覚めの悪さの方がよっぽど駄目じゃないか。僕が朝食を作った時に限ってなんて、たちが悪い。僕は痺れを切らして、強行手段に出た。

「カヲル君!もういい加減にしてよ!」

何時だと思ってるの、そう続けて僕は君に被さる毛布を引き剥がした。

「な…!」

力無く体を丸めて重たそうに目を瞬く君の下半身は固く膨らんでいて、部屋着の布の中でも形を浮き彫りに存在感を知らしめていた。


「カヲル君の…バカ!」



ーーーーー…

「だって仕方が無いだろう?十五歳の身体の生理現象は僕だって止められないよ。」

シンジ君は耳まで真っ赤にして抗議の意志をその不機嫌な顔で表していた。テーブルに並んでいる幸せを象ったような非常に美味な朝食を食すには何とも勿体無い表情だった。

「ねえ、ごめんよ、だから機嫌を直して。」

君の眉毛がぴくりと反応する。僕を視界に入れない様に必死みたいだ。

「どうせいやらしい夢でも見てたんでしょ!」

真っ赤になりながら険しい表情で自身の力作のフレンチトーストをほいほいと口に放り込む姿は見ていてなかなかに虚しい。

「勿論、君の夢を見ていたよ。とっても積極的でいやらしい君の…」

「もう!わかったから!」

君がぺしゃりと萎れるようにテーブルに伏してしまった。きっと何処も彼処も真っ赤にして羞恥に耐えているのだろう。


僕達は僕にとっては酷くゆっくりと前進していた。再会したあの夜の速度で物事は進まずに、じゃれ合い、キスを交わすのみの健全な交際だった。ベッドで寝る時も添い寝のように、互いの存在を確かめ合うだけ。それはとても幸せで心を満たしてくれたが、肉体は別の生き物のように飢えに飢えて、君を捕食しようと僕の意志に反して蠢き出す。僕は雄々しく捲し立てる肉欲にたまに負けそうになりながら、心細い一本の綱渡りをたどたどしく踏み締めていた。

僕の色欲で君を傷付けない様に身体が画策しているのか、君の夢を以前にも増してよく見るようになった。君のようで君じゃない、僕の欲望に忠実な君の肉体が僕の意志を反映して僕に貪り尽くされようと艶かしく誘ってくるから、僕にはもう成す術がない。

君の身体を想像する。君の仕草を想像する。君の表情を想像する。目の前の恋人を見つめながらいつか来る未来を想像してしまう、欲に塗られた君の恋人を許して欲しい。



今日は君の創った平和な世界をふたりで見たい、カヲル君は朗らかにそう言った。朝から予想に反して壮絶な情景を見せられた僕は、不機嫌を撒き散らしながら食後の食器を洗っていた。すると背後から抱きすくめられて、甘い声で耳元でそう囁かれてしまう。その時にぴくりと跳ねてしまった僕の体の反応に君は気付いているのだろうか。

君の熱を孕んだ雄々しい昂りを目に映してから、僕の頭に繰り返し再生されるイメージ。夜に溺れる君が僕に跨り綺麗な顔に似合わないいやらしい微笑みで僕の体を弄る。その熱で突き上げようと紅い瞳を輝かせながら、僕にぴたりと覆い被さる。

考えないようにしてたんだ。僕は物事を新しく変化させるのが苦手なんだ。ただでさえ、初めての恋愛に四苦八苦しているのに、もうこれ以上抱えきれない。僕の頭を占拠し始めた艶かしい想像の君には早く退散してもらいたいのに。


「それって、デート、なの?」

デート。自分で言ってみて、知らない言語のような違和感を感じてしまう。

「そうだよ、恋人達が営むデートだよ。」

言い方がいちいちいやらしいから困る。

「…カヲル君はどこへ行きたいの?」

不機嫌の残響で君を見ずに言ってみる。

「受け入れてくれるんだね、ありがとう。」

君が首筋に音を立てて軽くキスをした。その言葉から別の想像をしてしまった僕の体は粟立った。

「ふふ、そうだな。僕は、静かで美しい所がいいな。僕達の初デートに相応しいような特別な場所にしようか。君は行きたい所、あるかい?」

僕の腰に回した君の腕に力がこもる。カヲル君はとても上機嫌で歌うような、艶めいて響く声を奏でていた。

「僕はカヲル君に任せるよ。あまり思い浮かばないから。」

火照る体も顔も気づかれないように皿洗いに没頭しているふりをしながら、何気なさを装い答える。

「了解。仰せの通りに。」

そう言うと君は上体を捻り、盗むようにして俯いた僕の瞼にちゅっとキスを落とす。そしてふわっと僕から離れて鼻歌を唄いながらリビングへと向かった。僕は言葉遣いの懐かしさに胸がつん、となった。


ー初めてのデートか…

特別な感慨に縁取られたその記念すべき行為へ、言葉に実感が持てないままに不覚にも、その額縁に似合う素敵な絵を飾りたい、と僕は思ってしまった。




「準備出来たかい?」

「うん…」

僕らは私服で出掛けることにした。僕はカヲル君に促されて、恋人だから、という理由で生活に必要な最低限のものをカヲルくんの家に置いていた。カヲル君は元々物持ちが酷く少ないから、使っていないクローゼットをひとつ僕専用としてあてがってくれた。そこは僕が歩けるくらいのなかなかの大きさで、僕もあまり物は持っていないから、衣服を入れたボストンバッグがちょこんと隅に置かれているだけなのが妙に寂しそうだった。カヲル君は仕事と学業と僕との時間とですごく忙しくて、僕らが再会してから二週間くらい、カヲル君が日本に来てからもせいぜい三週間程度だから、この家はまだまだ生活感を持つには程遠くさっぱりとしていた。けれど僕らは互いに離れていた時間を埋めるように語り合ってばかりだったから、それでも全然寂しくはなかった。むしろ今は何もなくてちょうど良かった。随分昔から知り合っているふたりの初めての、愛に目覚めた共同生活にとっては、何もないくらいでちょうど良い。

僕は正直ボストンバッグを持って来たことを微かに後悔している。私服のセンスも自信がないのに、ましてやカヲル君と並ぶなんて公開処刑じゃないか。何を着ても似合ってしまう無敵の美人と何を着ても地味にしかきまらない無敵の凡人。僕は着替えのために閉めたドアの前で変な緊張と不安とで自虐的になっていた。


「開けていいかな?」

「う〜ん…」

歯切れの悪い返事を了承と受け取って、カヲル君がガチャッとドアを開けた。

開けた視界の先はやっぱり、けれどいざ目にすると想像をずっと超えて、君はかっこよかった。カヲル君はダークグレーのタイトなボトムスに無地の黒の襟口の広い長袖のカットソーをさらりと着ていた。彼の好みが反映されたシンプルで飾り気のないものなのに、それがかえって洗練された雰囲気で、カヲル君の白い陶器のような肌や月明かりのような銀髪、宝石のような深紅の瞳といった生まれ持った超自然的な造形美を際立たせていた。誰もが振り返って溜め息を吐くだろう絶世の美しさを前に、僕はまるで新しくまた再会して初恋に落ちたみたいな不思議な緊張をした。胸のどきどきが止まらない。その彼が僕の恋人で、しかも今朝には僕の夢を見てあんな寝起きを披露した人だなんて、自分でも未だに信じられなかった。カヲル君は何故か無言で頬をほんのり染めてぼやっと僕を見つめている。

「カヲル君…どうしたの?」

「ああ…君が私服に身を包むのを初めて見て…見惚れてしまっていたよ…」

「…はあ?」

甘い溜め息混じりにカヲル君は意味のわからないうわ言を呟き出したから、僕はつい心の声がそのままに口から出てしまった。僕は至って普通に濃い色のジーンズに長袖の少し薄めのスカイブルーのパーカーだった。びっくりするくらい普通の組み合わせをやけくそで選んだのに。

「僕、とてつもなく普通じゃないか。」

「僕にとっては初めてのことだから、普通、じゃないよ。」

「じゃなくて…君が見惚れるとか変なこと言うから…」

「こんな可愛らしい君に見惚れない方が変だよ。」

「か、可愛らしい…!」

カヲル君は、おかしな感性をしている。それは使徒だからなのかカヲル君だからなのかはわからないけれど。僕が思うに180度くらいずれていて、一般人がカヲル君の見解を聞いたらひっくり返るだろう。地味な凡人が普通すぎる服装をしたら見惚れてしまうなんて、ちょっと哀しいくらいその感覚に同情してしまう。それに可愛らしい、なんて男の僕に言ってもちっとも褒め言葉じゃないのに。

「そう、とっても可愛らしくて素敵だから、外に出る時は気をつけないといけないね。」

頬を染めたカヲル君はとろんとした瞳のままちょっぴり切なそうに眉を寄せた。

「な…!」

ーなんて残念な感性なんだ!それにちょっと頭もおかしい!

「心配はありがたいけど、そんな心配は要らないよ、ありえないから…それに、か、可愛らしいなんて男への褒め言葉は、変だよ。僕は…そんなんじゃないよ…でも、褒めてくれてありがとう…」

自分で言ってて恥ずかしくて君の顔が見られない。僕は俯いてカヲル君の足元を見ていた。真っ黒の靴下、それだけなのにカヲル君はかっこいい…

「君は自分の良さをわかっていないだけさ。そんな謙遜ばかりじゃいけないよ。もっと自分に優しくしてあげてもいいと、僕は思うよ。」

視線を上げると君がほんのり哀しそうに微笑みながら、そんなことを言ってくれていたから、僕の胸は仔犬が鼻で鳴くようにきゅんきゅんしてしまった。

「それは、カヲル君もだよ。カヲル君は、本当にかっこいいから…カヲル君も気をつけてね。」

これは正真正銘、まともな心配。

「ふふ、ありがとう。」

そしてカヲル君は頬を染めたままとびきり綺麗に笑ったから、僕は一瞬でのぼせたみたいに顔中に熱が集まってしゅわしゅわと体が霧の汗を噴き出すみたいに熱くなる。

ーこんなのって…反則だよ…

僕は初めて見る私服姿のカヲル君に、体がおかしくなる。変に火照って疼いて、居た堪れない。


「シンジ君…おいで…」

急に声のトーンを落として色めいて君が僕を呼ぶから、僕はぼうっと君に吸い寄せられていく。

僕は間近の君に急に恥ずかしくなって俯いた。触れそうで触れないふたりの距離。生々しい無言の静寂に互いに息を潜めると、実にゆっくりぎこちなく君の手が僕の背中に回って優しく僕を包み込む。まるで壊れやすいものを抱きしめているような繊細さに僕はくらくらした。君はゆっくりと首を傾けて僕の髪に鼻を埋めて息を吸い込んだから、僕は掠める君の銀色の髪の擽ったさと、当たる鼻先への恥ずかしさにびくりと全身を竦ませた。

「このまま…ベッドに行こうか…」

首の傾きを深めて、熱い吐息混じりの囁きを僕の耳に吹きかけて、おずおずと指先に力を込める君。僕は頭の中まで熱に浮かされて目が熱くなってゆく。何とか声を出そうと渇ききった喉に生唾をひとつ呑み込んだ。

「だ、だめだよ…これから…デートじゃないか…せっかく服、着たんだから…だめだよ…」

息が上がってたどたどしくなってしまう言葉は妙に宙に浮き、まるで自分に言い聞かせるようにして紡がれた。

「…そうだったね。さあ、行こうか。」

カヲル君はそれを聞いて力を抜くように甘い溜め息を少し長めに吐いてから、複雑な響きを持って、そう呟いた。



ーーーーー…

「ねえ、ここは…特別な場所なの?」

見渡す限り普通、限りなく普通の街並み。カヲル君が閃いたとばかりに、さあ行こう、と僕の手を取りふたりで部屋を後にしてから数十分、辿り着いた目的地らしい場所は至ってへんぴな日常の街角だった。首を傾げてしまう僕。

少しずつせっかちな葉が秋の足跡をつけるように斑に秋色に染まっている街路樹。規則的にどこまでも続く様は美しいけれど。今日は秋晴れにしてはやや気温が高めで夏と秋の間のような中途半端な天候だった。名のない季節の中で、名はあるだろうけれどなくても差し支えない感じの慎ましく地味な街は、どこを取っても特別な風格はなかった。

「普通、が特別なのさ。」

カヲル君は僕の手を強く握り締めた。

「普通が、特別…」

何やら核心めいた言葉を読み取ろうと遠くを見ながら頭をフル回転させていたら、つい野外の公衆の面前で手を繋がれてしまった。人気のない歩道の途中で、よかった。



ーーーーー…

ふたりの手を絡ませるように握りながら玄関を出ようとする恋人に僕から、誰かに恋人同士の姿を見られたくないから外では手は繋がない、と言い放つと、君は少し困ってから、じゃあ少し遠くまで行こう、と僕と並んで電車に乗って、この知らない街まで来た。

電車は休日ということでなかなか混んでいて、カヲル君はさり気なく僕を扉や仕切りに挟む形で囲っていた。僕は男だから狙われもしないだろうし、何だかむず痒かったけれど、君はこういう時は頑なに持論を通すから、ただ身を任せていた。たまに大きく揺れる度に顔と顔が急接近しては体が触れ合って、僕は不可抗力の私服姿の恋人との接触に、内心ひどくときめいてしまっていた。朝の出来事が嫌でも脳裏にこびりついて離れなくて、変に意識してしまう。側にいた女の子達はさも羨ましそうにまじまじと僕らを見ていたから、僕は頭の中を覗かれそうで心許なくて、恥ずかしさにどうしても俯いてしまっていた。君はそれを知ってか知らずか無言のまま僕だけを恋人の熱っぽい瞳で見つめていた。

電車を降りてしまえばふたりの距離はさっきよりも必然的に間が空いてしまう。心なしかふたりの間に風が吹くような寂しさが流れてゆく。僕は君の温もりが名残惜しくて君に気づかれないようにいつもより密かに距離を詰めてみたりした。

ふたり並んで歩く。それだけなのに、カヲル君の絶世の美しさが嫌でも周りから光を集めてしまうから、僕は外でふたりして並ぶとつい引け目を感じてしまって、無意識に君との距離が離れてしまう。それを知っている君は、自然と静かで落ち着いた方角へと足を運ぶ。そして僕らはどこにでもあるような並木道に辿り着く。なんとなく勘付いていたけど、行き当たりばったり感が否めない平凡な道なり。つい君のことだから、何かを企んでいるんじゃないかとずっと思っていたから、意外な肩透かしを食らう。隣には謎めいた笑みを浮かべる恋人が僕をただ見つめていた。



ーーーーー…

普通と特別。両極のそれが折り重なる、君の視点。


「シンジ君…」

君はかしこまった雰囲気で僕の名を呼び穏やかに微笑んだ。僕は隣り合い並んだ体を君に向き直す。

「僕は平和な日常が一番特別に思うんだ。無限とも思える繰り返しの中で、僕は心の何処かでずっとそれを求めていた。君が創ってくれたこの世界は僕が悠久の時の中で願い続けた世界なんだよ。」

「大袈裟だよ、カヲル君。」

急に発せられたその真剣な科白に僕はたじろいだ。

「少しも大袈裟なんかじゃないよ。」

澄んだ紅い瞳がきらきらと光り輝いて、真摯に僕だけを見据えた。

「それを、伝えたかったの?」

僕は君のデートへの誘い文句を思い出した。ああ、やっぱり。君の企みは始まりから仕掛けられていたんだ。

「そう。君が誇るべき自らの努力の結晶を見過ごさないようにね。」

子供に何かを諭すような慈愛に満ちた静かな笑顔の、君。

「意識して平和や日常の喜びを目に映して欲しかった。そして、その時君の隣には僕が居られたら、と、そう思ったのさ。」


そう言われてまた辺りを見渡した。何の変哲もない景色ーーだけれど…

整列された樹々は、ひとつひとつ幹も枝も葉も全て、色や形が違い、何ひとつ同じものはなかった。微かな風に擦れてかさりと鳴らす木の葉の音に耳を澄ませてみたら、あちこちに小さな音が重なり合い、立体的なシンフォニーを奏でている。深く息を吸うと、緑や土の命の芳しさやアスファルトの人工的な埃っぽさ、人の生活が落とす車行のオイルの残り香…様々な要素が綯い交ぜにここに在るものを伝えるように鼻をつく。空は高く降り注ぎそうな蒼さで、雲が意識しないとわからないくらいに形を移ろわせていた。遠くに聞こえる街の営みの喧騒。遠くではきっと様々な風貌の人が今日も生きて道路を歩き、帰る場所に小さな楽しみを抱えている。その背後には働いたり恋をしたり何かを失くしたりしてそれぞれが唯一の人生を綴っている。その人生はたくさんの命や想いと交差して、それを繋ぎ合わせれば果てしなく大きな樹が無数の枝を伸ばして無数の葉を揺らしているんだと思えた。その樹の種を星に蒔いたのは、確かに僕だ。僕の手を離れて樹は大きく大きく成長してしまっているけれど、その種子を手に握り締めて祈りを込めて放ったその瞬間は僕だけが知っている。そして、目の前には君が木漏れ日に揺れている。光の粒を髪先や瞳、睫毛、唇…至るところに宿しながら。


ーあ、…


見逃してしまう程普通になってしまった、日常。当たり前になってしまった、この世界。立ち止まることも忘れて馴染んでいたそれは、僕がほしくてほしくて堪らなかったもの。

そのことを、何よりもほしくてほしくて堪らなかった君から教わった。

それは、世界中で君しか僕に伝えることができない、言葉にできない大切な、大切な、何か。


「…特別になったよ。」

観念して僕は君に告げる。

「ありがとう、カヲル君。」

その手を強く握り返すと、君はとてもとても美しく、笑った。



あらゆるものに言葉が当てられ名が冠されたこの世界。その雑念を取り払えば、言葉のない世界で全てが煌めく。確かなものも変わらないものもないけれど、全てが唯一無二にただ輝いていた。言葉にされなかった君の見ていた世界が今、僕の心を通って伝わる。君の伝えたかったことは言葉にするには難しすぎるけれど、手に取るように今ならわかる。


ー君が好きだよ、カヲル君…

瞳に想いを込めて、心だけで伝える。

ー大好きだよ…

すると、君に想いが伝わったのか、君の瞳が微かに見開き、それからゆっくり瞬きをして、瞳を深く緩ませて、僕だけを見つめた。

ー僕も、君が大好きだよ、シンジ君…

僕にはそう、聞こえた。




僕らは繋いだ手を離さないままにして、この道をどこまでも歩いた。それだけなのに、とても幸せだった。


ー不意打ちの真面目さは反則だよ…


今なら君に何をされても喜んで全て受け入れてしまう、と僕の頭の片隅でふたりが朝の続きをしたことは、絶対に内緒。



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