命よりも大切なものがあった。
だから、僕は願った。
神様はこたえてくれた。
命よりも大切なものと引き換えに。




ペイル・ブルー・ドットの記憶




“僕には好きなひとがいたんだ”

春のあたたかな雨の中、遠くを見つめて渚カヲルはそう呟いた。相合傘の透明なビニールの下、碇シンジは静かに次の言葉を待った。

桜は初恋の苦みを思い出させる。あの日、水たまりには咲いたばかりのソメイヨシノが浮かんでいた。雨が無数の花びらを流し、まるで想いの弔いのようだった。

シンジは憧れへさよならと手を振った後、通学路でひとり、手渡された傘を閉じた。瞼の裏に焼き付くのは、あの曖昧な微笑み。誰にも見つからないうちに、そっと、密かな想いを洗い流そうとする。けれど、見上げた夕空は妙に明るくて、皮肉にも、永い雨は上がった。

ペイル・ブルー・ドット。遠い遠いかつてと同じ色なのに、その海のさざ波には、漂白できない想いが残る。




「シンジ君、あっちが海のようだよ」

先月、相田ケンスケからそろそろ会おうと連絡があった。離れた大学に進学してつい疎遠になってしまった旧友は、大昔の約束を覚えていてくれたのだ。
だから、カヲルとシンジは遥々、片道数時間かけて、霞んだ水平線を眺めている。

「もうすぐお昼だからまず何か食べない?」

ケンスケは港町に住んでいた。海沿いに大学の研究所があるらしい。船浮かぶ青い海、三日月状の白い砂浜、丘陵には小さな天文台。電車から見えたその景色は都心よりもずっと色鮮やかだった。

「シンジ君は何食べたい?」
「カヲル君は?」
「もちろん、君の好きなものさ」

カヲルはまるでそれが自然なことのように、シンジの腰にそっと抱いた。何が食べたいの、と耳元で甘く問いかける。その親密すぎる距離感も、うっとり見つめる潤んだ瞳も、あの言葉がなければシンジは勘違いしていただろう。

“好きなひとへの想いがまだここにあるから、思い出そうとしているんだ”

あの春の雨の中、カヲルは胸に手を当ててそう告げた。シンジは彼の親しすぎる態度に、その微笑みに、ふたりは同じ気持ちなのではないかと感じていた。けれど、シンジはカヲルの胸に空いた“誰か”の代替品に過ぎなかった。

「カヲル君もちゃんと食べたいの考えてよ」

シンジがさりげなく腰に回された腕を剥がすと、カヲルは寂しそうに微笑んだ。名残惜しげに白い指先がゆっくりと宙を握る。ここでカヲルの気持ちを無下にしたと錯覚してはいけない。シンジは目を逸らして店を探すふりをした。昔そうやって淡い期待をして傷ついたのだから、もう繰り返さない。もしも今日、カヲルが好きなひとを思い出したら、もう自分は用済みになるのだから。

「シンジ君が美味しそうに食べている姿を見たいんだ」
「だから、いつもそう言うけど……」

シンジが思わず困った顔を向けると、物欲しそうに潤んだ赤い瞳とかち合った。どういう文脈でそうなるのだろう。シンジが言葉を失くし目を丸くすると、カヲルはうろたえ、逃げるように首を傾げた。

「ごめん」

鼻先をこすり、耳を染め、ばつの悪そうなカヲルにシンジは、何が、とは聞けなかった。
最近、カヲルは歯止めが利かないようだった。隣を歩いていると何度も彼の指先が手に触れる。手をつなごうと誘っているように感じる。でもそれは密やかで、いけない誘いな気がしたのだ。シンジはいちいち胸を高鳴らせる自分をいさめるために、あの桜流しを思い出す。そうしてシンジが距離をとり、無視する度、カヲルはうろたえ、恥ずかしそうに横顔を隠すのだ。


ふたりのこんがらがった隙間へと、春の潮風が駆け抜ける。
鼓膜に届く潮騒が、かつての青い海の記憶を手繰り寄せる。




中学二年の夏、雲ひとつない白昼だった。
渚カヲルは波打ち際で倒れているところを発見された。その姿はまるで、打ち上げられた“人間になった人魚”のようだった。一糸まとわず、うつ伏せになり、白い肌が夏の日差しに透けている。海面は熱いプリズムを照り返し、さざ波が彼の輝く銀髪を濡らす。一面の青の景色の中で、その姿は異様な美しさを放っていた。

目覚めた彼は自分の名前と「好きなひとがいた」という幻想しか覚えていなかったという。


──カヲル君が何を考えてるのかわからないや。

カヲルは二度と好きなひとの話をしなかった。思い出せたのかなんて、怖くて聞けない。だから、その瞳に自分が映っている限り、思い出せていないのだろうとシンジは推測する。このままずっと思い出さないでほしいと願う夜も、早くこの報われない関係を終わりにしてほしいとうずくまる夜もあった。




高くのぼる陽が街の彩度を上げている。道路沿いの木々は知らない顔ぶれで、南国を彷彿させた。建物の肌は都会のそれよりも温もりがある。白壁に反射する陽光が、隣のシンジの頬をてらてらと艶めかしく輝かせる。光の中、瞬きする長い睫毛も、小さく噛まれた唇も、自分だけの宝箱にしまいたい衝動に駆られる。カヲルは奇妙な感慨にほうっと静かに息を吐いた。

「ケンスケ遅くなるって」

シンジの声は言い訳の響きに似ていた。瞬きをして、現実を咀嚼する。旧友はどうやらのっぴきならない用事とやらで夜に顔を出すらしい。それは、つまり。

「シンジ君とデートだね」
「デートじゃないよ」

シンジは渋い顔でスマホをポケットにしまった。慣れたあしらいだ。カヲルは広がった笑みをぼやかし眉を下げる。胸がざわつき思わずシンジに触れたくなる。その発作を誤魔化して、機嫌の良さを装った。

「ふたりきりで君と過ごせるから」
「カヲル君は言い方が紛らわしいよ」

柔らかいけれど冷たい拒絶。膨れ上がった感情が堪らずカヲルを動かしてしまう。シンジの手を白い手が握り、手繰り寄せ、その甲に唇を寄せる。

「君と一緒にいられて嬉しいよ」

困らせたくないのに── 手を引っ込めて一歩離れるシンジを見送りながら、カヲルはいつもそう思う。シンジは何かを言おうとして何も言わず、カヲルに背を向けた。赤みを帯びたその耳に、未だに淡い期待をしてしまう。けれど、その背中は困惑したままカヲルを静かに拒絶するのみだ。

カヲルには、諦められない、思い出せないひとがいる。
なのに、シンジに好かれたいという気持ちがどうしても抑えられない。


──覚えていない誰かと同じように、シンジ君を好きになるのは不誠実だろうか。

桜を流す雨の中、カヲルはシンジへ小さな懺悔をした。そして次の日、顔を強張らせるシンジを見つけ、小さく後悔した。これ以上はいけないと思いながらも、どこかでシンジが共犯になってくれることを期待したのかもしれない。カヲルの心にいる誰かを許しながら、シンジなら寄り添ってくれるだろうと。

──僕は、卑怯者だ。

その感情をいけないと否定しても、ずるいと非難しても、カヲルはシンジに焦がれ続けた。

──もう一度、ごめんと言えば嫌われてしまうかな。

目の前の背中を抱き締めて、息もできないほど掻き抱いて、好きだと伝えられたらどんなにいいだろう。カヲルはヒリヒリ痛む心臓を飲み込むように、口の中でだけ「ごめん」と呟く。



何かとても大切なものを──好きなひとを忘れてしまった。
その虚しい焦燥が胸の中にずっとあった。

身体の真ん中が欠けている心地だ。思い出せない日々におかしくなりそうだった。なのに、同じくらい生きなければならない気がした。そんな矢先、転校先で、シンジと出逢った。

──碇、シンジ君……

まるで身体に空いた穴がひたひたと満ちるようだった。シンジと一緒にいる時だけ、痛みを忘れて呼吸ができる。寝ても覚めてもシンジのことばかり考えていた。もしかして自分が忘れてしまったのはシンジなのでは。カヲルはそう思い始めた。

けれど、状況的にそんなことあるはずがない。だから、こんなに本能が思い出そうともがく誰か、その誰かを裏切ることなんてできなかった。

それなのに、とカヲルは思う。今となってはもう抑えようもないほどに、シンジを心から求めていると、カヲルは自覚する他なかった。
触れたい、抱き締めたい、キスしたい。欲求がエスカレートするのに、煩悩をひた隠し、純然たる友達の顔をする。夢の中では愛を囁き、僕だけを見てと懇願した。そのちぐはぐが綻びを見せて、ふたりの関係は静かにこんがらがっていった。

「カヲル君、あっちに行ってみようよ」
「……そうだね」

そのいびつさを認めないために、ふたりは意地でも平然を装い続けた。




腹ごなしに目抜き通りを並んで歩く。ふたりの間の空気が元に戻ったので、シンジは気が抜ける心地好さに伸びをした。

「カヲル君のことで気づいたことがあるんだ」
「……僕のこと? なんだろう」

心臓が跳ねて、期待と不安に瞬きをしながら、カヲルは微笑みを崩さなかった。

「カヲル君ってさ、海の生き物を見ると不思議なこと言うよね」

カヲルは魚介類を見るとぽつりと「感慨深いね」と呟く。シンジが覚えている限り、最初の記憶は中学の頃、シンジの弁当の焼き魚をカヲルが見た瞬間だ。最初は弁当の出来を褒められたと思っていたが、学食のエビフライを見ても、深海魚の映像を見ても同じことを言うのだ。コンビニスイーツや唐揚げにはそんなことは言わない。

シンジは得意げに推理を披露したが、カヲルには全くの無自覚だった。

「何が感慨深いの?」
「そうだな、海に生き物がいてすごいと感じるんだろうね。何故かはわからないけれど」
「カヲルくんがいた場所には海がなかったのかな」

カヲルがどこで生まれてどこで育ったのかは誰にもわからない。不謹慎かもしれないが、シンジはそういう所もカヲルらしいと感じていた。例えば、どこかの国の王子様で、映画のように王家間の権力争いに巻き込まれ、命からがら亡命してきたとしても「やっぱり」と内心納得するだろう。

「僕は地球の外から来たのかもね」

と、シンジの妄想を遥かに超えたカヲルの突拍子のない見解。

「宇宙人ってこと? 人間にそっくり過ぎない?」

シンジが楽しそうに冗談に乗ると、カヲルも嬉しそうに目を細めた。

「人間にそっくりの宇宙人さ。月に住んでいて、人間を観察していたんだ。青い海が綺麗だから憧れて、シンジ君の元にやってきたんだよ」
「カヲル君ならありえそうだね」

神秘的な設定がカヲルにはぴったりだった。凛とした鼻筋も、桜貝のような唇も、熟れたザクロ色の瞳も、神様に心から愛されているとしか思えない。月から地球を眺める彼はとても格好良いだろうと、シンジは思った。

信号待ちの横断歩道、月面の宇宙人にシンジが惚けていたら、するすると指に絡まる熱い感触。

──カヲル君……

興奮と熱望で潤んだ瞳が、脳裏によぎる。たまに自分へ向けられた視線が欲情を孕んでいると感じるが、自意識過剰ではないのだろう。自分が心を許せばどうなるかを、シンジは内心理解できた。それは、彼の恋心を暴く居心地の悪さで、シンジに不可抗力の申し訳なさを植え付けるのだ。

形を確かめる官能的な滑りは前儀のよう、少しだけ摘まんで名残惜しく離れる仕草はまるで口づけ。水面下の愛撫はまどろっこしい程に、甘く控えめだ。カヲルの押し殺した吐息が聞こえた。「手をつなごうよ」とおねだりされて、触れられた箇所が痛いほどに感じてしまう。シンジは駆け足の鼓動に、じわりと汗を滲ませて、息を詰めた。

しびれを切らしたカヲルの手が、シンジの手を包み込むようにして、そうしなかった。いっそのこと、ちゃんと握ってくれればいいのに。シンジは悩ましげに目を伏せた。
友達以上恋人未満の関係は変わらない。世の中には友達のまま恋人のような振る舞いをする人だっている。終わりがあることをちゃんと胸に留めていれば──きっと大丈夫。
シンジはそっと、感電しかけた指を開いた。

けれどその時、カヲルがシンジの手のひらをつうっと撫で、シンジは予期せぬ快感に、肩をピクンと反応させてしまったのだ。ヒヤッと羞恥に染まったシンジは、思わず乱暴に、カヲルの手を振り払った。

信号は青に変わり、周りの群衆が散り散りに歩き始めた。カヲルも何事もなかったように歩を進める。けれどその横顔は途方に暮れ、泣きそうに歪んでいた。

シンジはすぐに弁明をしてカヲルの誤解を解きたかった。嫌だから振り払ったわけじゃない。でも同じくらい、カヲルの胸の中にいる誰かがうらやましくて、その誰かを捨てられないカヲルが憎らしくて、どす黒い感情を処理できない自分が情けなくなった。だから、傷ついたならお互い様だよ、と心の中で言い訳する。じくじくと千切れそうな胸を抑えるために、シャツの胸元を静かに握り締めるのだった。



頭の中が真っ白で、カヲルは自分がどこへ向かって歩いているのか判断ができなかった。
目頭がつんと沁みるのを引っ込めようと、深呼吸する。

──シンジ君……

シンジに拒絶される度、心臓を握り潰されるようだ。どうして、とカヲルは焦心に喘ぐ。手をつなぐくらい友達でもできるじゃないか。僕はただ──そう思い至り、自分の身勝手さに息を呑む。

手を繋いでいるカップルがうらやましい。肩を抱いて、腰を抱いて、耳元で内緒話をして。シンジとあんな風になれたら、おかしくなりそうなこの身体の疼きが少しは癒されるだろうか。カヲルはシンジに友達以上の期待をするのを止められない。

でも結局はシンジに受け入れてもらえず、昏い目眩の中で、この世の終わりのような絶望に放り出されている。次にやってくるのは“嫌われたくない”という焦燥。

挽回しないと。我に返り周りを見渡すと、カヲルは古本市に辿り着いていた。
シンジはカートに積まれた本を何冊か手に取って頁をぱらぱらと捲った。大きさが不揃いに並べられていて雑多な印象を受けるが、装丁の凝った背表紙がいくつもある。シンジがちらちらと自分を気にしていることに気づき、カヲルは咄嗟に手近にあった本を掴んだ。

「洋書?」

シンジは話すきっかけがほしかったのだろう。肩を並べるシンジの近さに舌が痺れる心地だが、カヲルはどうにか格好つけようと、手に取った本の擦れた表紙へ視線を落とした。

「そうだね。子供向けのようだ」
「カヲル君、読めるの?」
「Die kleine Seejungfrau……ああ、これはアンデルセンの人魚姫だよ。ドイツ語訳のものらしい」

適当に開いた頁には陸に上がる少女の幻想的な挿絵が施されていた。

「懐かしいね。人魚姫が記憶を失う代わりに人間になって好きな王子様に会いに行くんだっけ」
「ううん、失うのは記憶ではなく声さ。どうしたんだい?」

シンジが口元を手で覆っていたので、心配して顔を覗く。なんでもない、とシンジが首を横に振ったので、それ以上は問いかけなかった。

遠くのさざ波に違う波音が重なり、カヲルは頭の中で、記憶の糸がピンと弾かれた気がした。
でもそれはそれきりだった。だから、気のせいだろうと、カヲルは先に進むシンジを追いかけたのだった。




「久しぶりだな」

ケンスケから連絡が来たのは、街が紫色にくすみ、一番星がチカチカと顔を出す時分だった。待ち合わせ場所は昼に電車から見えた天文台の周辺。カヲルとシンジが芝生の傾斜を上っていくと、肉の焼ける香ばしい匂いと炭の爆ぜる音がする。自分たちを呼ぶ声に従って歩いていけば、バーベキューセットの前でトングを持った旧友に虚を突かれた再会となった。

「海沿いだから魚介が多くてさ、特別な時は肉が食いたくなる」

タレに漬け込んだ肉をトングで裏返しながら、にやっと笑うケンスケ。天文台でアルバイトをしていて、敷地を貸してもらったという。お仕着せずに手間暇をかけてくれるのが彼らしい。煙で曇る眼鏡をクイッと持ち上げる仕草は昔のままだ。

「研究室でアクシデントがあってさ。悪いな待たせて」
「観光してたから平気だよ」
「どうだ、いい街だろ」

その声は誇らしげで、親しみがこもっていた。

「うん。さっき古本市がやってたんだ」
「今日は古本だったのか。たまにイベントがあるんだよ。渚、具合悪いのか」
「いや、問題ないよ」
「なら腹が減ってるんだな」

暗い顔で黙っているカヲルの皿にケンスケが焼き上がった肉を置いた。そして間髪入れず、シンジの皿にも肉を乗せる。カヲルが行動を先読みされていると、苦笑した。

「お前は昔から碇に過保護だよな」
「僕がしたくてそうしているだけさ」
「それが過保護なんだよ、なあ碇」

口をもぐもぐ動かし、言葉にできない代わりに首を縦に振るシンジ。そんなシンジを見つめながら、口の端に付いたソースをハンカチで拭うカヲル。そういうとこだよ、とケンスケが笑うと、自然に受け入れていた自分が恥ずかしくなり、シンジは一歩、カヲルから離れた。


「星が綺麗だ」

しんみりとカヲルが呟く。炭がパチパチ焚かれるだけになった頃、辺りには夜の帳が色濃く降りた。けれど眺めが寂しくなることはなく、むしろ、静謐な喧騒にふたりして感嘆の溜め息をこぼす。

三人とも天文台の備品らしいイスに座り、星空を眺めていた。手の中でマグカップのコーヒーが湯気を立てる。目下に広がる街灯りは弱く、天文台に配慮しているという。漁火もない黒い海は夜空と溶け合って、満天の星々を映し煌めいている。

「もう少し早い時期だとカノープスが見られたよ」

見ると長寿になれる伝説がある恒星・カノープス。そのりゅうこつ座にある明るい星は、北半球では高度が低く、すぐに水平線の下へ隠れてしまう。そのため期間限定でしか観測できないことで知られていた。

「ケンスケは見たんだ」
「何度も見たからあと数百年は生きられるな」
「ただひとり生き続けても孤独だよ」
「おいおい、センチメンタルだな」

カヲルが寂しそうに呟くから、シンジは心配そうに横顔をうかがって、ドリップポットをバーベキューコンロに乗せた。そんなシンジの背をカヲルの仄暗い瞳がじっと見つめる。向かいに座っていたケンスケはふたりをただじっと見守っていた。

「ふたりはうまくやってるか」
「うん。家も近いからよく遊んでる」
「何年くらいなんだ」
「何が?」

着席したシンジが全くわからないという顔をするので、ケンスケは少し大袈裟に溜め息を吐いた。

「そりゃ付き合ってだよ」
「は!?」
「そろそろ教えてくれたっていいじゃないか」

シンジが焦って前のめりになり、いやいやいやと両の手の平をかざす。

「いや、友達だから」
「はぐらかすなよ」

答えをニンマリと待つケンスケ。けれど、シンジの引き攣る表情と、カヲルの申し訳なさそうな表情を見比べて、「冗談だろ」とぽつりとこぼした。

「どうしてだよ? お前ら何を気にしてるんだ?」

遠慮ない憐憫が、ケンスケを必要以上に大人びた青年にする。対照的にシンジは、自分が長いこと暗いトンネルの中にいる錯覚に襲われた。

「いや、まあ、お前達の事情を無視して言うことじゃないな」

カタカタと湯の沸く音がして、ケンスケは立ち上がった。気まずい沈黙の中で固まるふたりのマグカップに、ペーパーフィルターを掛け熱い湯を注ぐ。芳ばしいコーヒー豆の香りが周囲に広がった。

「勝手に勘違いして、悪かった」

労うようにケンスケがふたりにマグカップを渡す。

「たまに昔を思い出して、美化していたんだ」

通り過ぎ様にケンスケがシンジの肩にそっと手を置く。シンジは恥ずかしさに消えてしまいたくなった。その台詞はまさに、シンジが心に秘めていたことそのままだった。

胸の痛みが致死量を超え、意識がぼんやりと遠くなる。
シンジの鼓膜を、遥か遠くのさざ波の音が、ノックする。




父親の単身赴任先を尋ねたが、父親は急な仕事で出かけてしまった。五分と満たない再会は、中学生のシンジの胸に暗い影を落とした。

──父さんは、僕のことなんかどうでもいいんだ。

十四歳の初夏。駅のプラットフォームは誰もおらず、耳をつんざく蝉の声だけが響き渡る。電車の到着予測を知らせる電光掲示板。携帯電話が震え、慌てて画面を覗いたが、期待とは裏腹に他愛のないニュースレターが顔を出す。シンジはつまらなそうに、表情もなく、くたびれた電車に乗り込む。

車内では、人はまばらで空調が利いていた。シートに腰掛け向かいの窓から見えるのは、一面の青──海だ。けれどシンジにとっては特に感動するほどのことでもなく、視線を下げた。規則的に金属の揺れる音を聞き、しばらく電車にただ揺られていた。すると、シンジは不思議なデジャブに襲われた。ずっとこうして電車の中で考え事をしていたような、そんな感覚がこだまする。
そして吸い寄せられるように、電車を降りてしまったのだ。

場末の無人駅の先には暑さをしのげる屋根もなく、シンジはとりあえず海まで歩くことにした。雲ひとつない空の下、海はこんなに青いのかと感じるくらい爽快なブルーだった。寄せては返す穏やかな波の音。海水浴の季節なのに浜辺には誰もいない。多感な十四歳の胸はざわついた。不思議な世界に迷い込んでしまったのではと、ふと立ち尽くす。けれども、そんなシンジへおいでと誘うように、視界の端で何かが光った。

シンジは戸惑い、歩き出し、そして走り出した。誰かが波打ち際に倒れていた。
死んでいるのかと思い、息が震えた。血の気のない透き通った白い肌。夏の陽光を乱反射する色のない髪。うつ伏せの身体を仰向けにし、胸に耳を当て心音を確かめる。

小さくうめき声が聞こえた気がして、慌てて視線を上げる。彫刻を彷彿とさせる美しいその顔には、濡れた銀の睫毛が微かに震えていた。

「あの、」

言葉が見つからず、シンジは彼を起こそうと、砂粒のつく、白い頬にそっと触れた。すると、赤い瞳がうっすらと開いたのだ。

「ああ、よかった」

シンジがそう囁くと、手の中の頬は淡い桜色に上気する。薄っすら目を開けた彼は、シンジを見つめて、微笑んだ。はじめましてとさよならを綯い交ぜにしたように。シンジは彼が逝ってしまわないように力強く手を握った。波の音だけが満ちる、静寂の青の中で。
そして目の前の少年は、ポロリと涙をこぼし、力なく唇を動かして、最後に意識を手放した。

その美しい唇が「シンジくん」と言っている気がした。それから世界が揺らぐ。自分の頬に止め処なく涙が流れていることに気がついた。


──あの人は、どうなったんだろう。

夏休みが終わってもシンジは彼のことばかり考えていた。彼は一命をとりとめたのだ。きっと今頃は自分のように、知らない学校の知らない教室で、クラスメイトと談笑でもしているのだろう。シンジは言葉にできない感情を持て余し、頬杖をついた。すると、教室のドアが勢いよく開き、

「あ」

あの日、助けた少年が教室に入ってきたのだ。

「初めまして、渚カヲルです」

彼は身なりを整えて、すっかり回復したようだったが、物憂げな顔をしていた。クラスメイトが息を呑む空気も気にせずに、気怠げに教師の指差す方向を見やる。そしてシンジと目が合った。その転校生はシンジの後ろの席だったのだ。カヲルはシンジを見つけるなり、時が止まったように目を見開いて、それから速足でシンジの元へとやってきた。シンジはどんどん近づいてくるカヲルに胸を高鳴らせた。

「君は?」

けれど、その一言で、期待はくしゃりと握り潰されてしまう。

「……碇、シンジ」
「よろしくね、シンジ君」

カヲルはシンジを覚えていなかった。

「シンジ君、一緒にごはんを食べようよ」

けれど、カヲルとシンジは一瞬で打ち解けた。自分が助けたことを覚えていないのは残念だが、それをわざわざ告げるのも、シンジは気が引けた。シンジにとってあれは運命を感じてしまう出来事だが、カヲルにとっては恐ろしい体験でしかなかったのだろう。でも──

──あの時、カヲル君が僕の名前を呼んだ気がした。

それはただの願望なのだとわかっていても、答えを確かめたい衝動に駆られてしまう。

カヲルが微笑みかけたり、そっと優しく肩に触れれば、シンジは嫌でも鼓動を速めるしかなかった。その美しい声が、美しい唇が、自分の名前を形作ると、身体の芯が震える気がした。

──僕、男が好きだったんだ……

最初は戸惑ったシンジだったが、

「シンジ君、雨が降ってるよ」
「どうしよう、傘忘れてきちゃった」
「僕の傘で帰ろう」

カヲルの特別な魅力を前にしたら、それは些細な事だった。相合傘で通学路を歩くことも、ふたりの濡れたシャツがこすれ合うことも、心地好かった。シンジは密かに願っていた。カヲルと両想いだったなら、と。

“僕には好きなひとがいたんだ”

カヲルの告白は、シンジから幸福な夢を奪ってしまった。シンジはカヲルと目が合う度に心臓がキュッと冷たくなってしまう。いっそカヲルに「そんな二度と思い出せないかもしれない不毛な恋はやめなよ」と言いたかった。でも、まだカヲルに未練を残して泣いているシンジが口にできる言葉ではなかった。
そう毎日人知れず傷ついていた季節に、シンジは綾波レイと仲良くなった。




シンジとレイが恋仲だと噂するクラスメイトの声が聞こえた。カヲルは落ち着きなく机の下で足を揺すり、ふたりの笑い声が聞こえてきたので、席を立った。教室を出ようとしたらクラスメイトのケンスケとすれ違う。

「渚、碇を取られちまうぞ」

ケンスケは軽い冗談で言ったつもりだった。親友に彼女ができれば誰だって寂しいだろうと。けれど、こちらを一瞥したカヲルを見て、ケンスケは目をパチクリさせた。仄暗い、悲しみと怒りを煮詰めたような顔色だったのだ。
ああ、そうか、とやっとケンスケは理解した。今時驚くことでもない。ケンスケは寂しそうなカヲルの背を見送って、もう一度シンジを見た。シンジも同じように、寂しそうな背中を眺めていたのだった。


──僕たちふたりの世界があったのに!

放課後の埃っぽい音楽室で、ピアノは激しく葛藤のソナタを奏でていた。カヲルは最近、鍵盤に感情を叩きつけることしかできない。調律をさぼったグランドピアノは時折、相応しくない音を鳴らし、より一層カヲルを苛立たせるのだった。

確かに、ふたりの関係に水を差したのは自分だ。でもシンジを大切に思うから、誠実でいようとした故の行動なのだ。

──あんな子、シンジ君とは釣り合わない!

わかってとは言えない。けれど、あてつけのように女の子とイチャイチャするなんて、とカヲルは涙を滲ませた。それが身勝手で理性を欠いた妄想だとは承知していた。

廊下の窓を覗いても誰の影も映さない。シンジが苦しむ自分に気づいてくれたらいいのにとつい思ってしまう。同情して、僕だけを見つめてくれたら……そんな思考もカヲルをひたすらに惨めにさせた。

靄のかかった頭の中で、常に誰かの幻影を感じてしまう。思い出せ、そうもうひとりの自分に突きつけられているようだ。けれど、その空回りの「思い出したい」は孤独を埋めてはくれず、深めるだけだった。

──僕は何を、誰を忘れてしまったんだ!

思いっきり指を叩きつけた鍵盤が不協和音を響かせた。カヲルは知らない誰かを想うほど、シンジへの感情でぐちゃぐちゃになる。シンジが自分から離れていく、その焦燥はもはや恐怖でしかなかった。

──シンジ君を僕につなぎとめたい……

二度と思い出せないかもしれない、もう会えないかもしれない、そんな不確かな形ないもののために、このままシンジが遠くへ行ってしまってもいいのだろうか。カヲルは弱々しく項垂れた。
でも、どうしても、その忘れてしまった何かを諦めきれないのだ。それは命よりも大切だったと思わずにはいられない。

──僕は……気が多いね、シンジ君。

どちらかだけを選べない、哀れな自分の姿を自嘲せずにはいられなかった。


そして、陽の傾いた黄金色の教室に入り、カヲルの心臓は小さく爆ぜる。

「……シンジ君」

シンジと一緒に帰る約束をしていたのだ。シンジは机に伏して、重ねた手の上に頬を置き、静かな寝息を立てている。

カヲルは体温が上がり、血液がばくばくと全身に脈打つのを感じた。無防備なシンジが手の届く場所にいる。慎重に歩を進め、息を殺し、シンジを見下ろした。

──シンジ君、君と僕だけでいいじゃないか。

切なさが喉元まで込み上げる。苦しくて、唇を薄く開けて呼吸した。

──いや、シンジ君が幸せならそれでいいんだ。

寝顔の輪郭をなぞるように、視線を這わせる。何も知らず、シンジはあどけない幼子のような顔をしていた。カヲルはシンジがぎこちなくはにかんで、自分から目を逸らしたのを思い出した。

──君に黙っていれば良かったかな。

誰もいない教室で、カヲルはシンジを独り占めする。そう感じると、全細胞が喜びに打ち震えた。

──シンジ君、彼女の元へ行かないで。

ああ、いけない、と思っても、カヲルはシンジに吸い寄せられる。喉の渇いた砂漠の旅人が、オアシスの泉にそうするように。鼻先が頬へ着地しそうな刹那、眉根を寄せて、唇を小さく噛む。目の前の細い首筋は滑らかで、優しく歯を立てたくなった。甘噛みしたら、鎖骨に沿って舌を這わせて、シャツの下へ──そんな未成年らしい欲望を想夢して、カヲルは下半身にどっと熱が溜まるのを感じた。シンジ君を僕につなぎとめたい……もう一度、恍惚とふやけた脳内で復唱する。そして、カヲルは目を見開いた。

「ごめん、カヲル君。寝ちゃった」

シンジは上体を起こしてゆっくりと伸びをした。その無邪気な声色に、仕草に、愕然として、カヲルは床に両膝をつく。堪らなくなって、首を垂れて、額をシンジの腿にそっと擦りつけた。事態が飲み込めず、シンジはただ、受け入れることしかできない。

「シンジ君が、他の子と仲良くしていると……寂しい」

自分に弱々しく縋りつくカヲルを見下ろす。その震える指先に、これは吐露ではなく懇願だと理解した。

「僕もそうだよ」

それからシンジは囁きほどの小さな声で応答する。そっとあやすように、膝の上の銀髪に触れた。聞くまでもなく、カヲルは相当参っている。なら彼を励ますのは友達の自分の役目。それは、カヲルの心の中にいる、知らない誰かにはできないことだ。シンジがカヲルの手を握ると、カヲルもギュッとシンジの手を握り返した。

──僕はやっぱり、カヲル君がいい。

好きなひとに求められる喜びを噛み締めて、シンジは密かに降参した。たとえいつか、カヲルが自分の元から去るとしても、その時まで、ただ側にいられたらそれでいい。シンジはそう自分に言い聞かせていた。




ベッドシェルフにキーを置く音が、室内にカランと響いた。

『気を回しすぎたな、悪い』そうケンスケが予約してくれた、知人の営む海沿いのヴィラ。南欧風の可愛らしい内装と、窓から見渡せる大海原が印象的な建物だった。真珠貝を模した室内のライトはあたたかく、広い部屋の中央にはセミダブルのベッドがひとつ、完璧なベッドメイキングを施され鎮座していた。ケンスケの勘違いが妙に生々しくて、内心苦笑してしまう。シンジが静かに溜め息を吐くと、口数の少ないカヲルは黙ったまま窓を開けた。夜風がレースのカーテンを揺らし、潮騒が室内に満ちる。

さざ波の音が心地好く、いつもならカヲルも「いい部屋だね」なんて照れながら言ったかもしれない。けれど、目の前のカヲルの背中は茫然としているように、シンジには見えた。それはシンジの中で、認めたくはないが、決定的な証拠を突き付けられているのと変わらなかった。

──カヲル君はやっぱり、僕とどうなる気はなかったんだ。

大切なひとの記憶を失う苦しさは計り知れない。けれど、カヲルは未来を選ぶこともできたはずだ。その大切なひとを大切に思いながら、シンジを選ぶこともできた。
それもできないくらい、カヲルの心は知らない誰かと共にある。それなら、とシンジは思う。僕は敵いようがない、と。

──最後には僕を選んでくれるって、そんなこと、思ってたなんてバカみたいだ。

「ソファで寝るね」

シンジは抑揚のない声で告げ、淡々とソファで荷ほどきを始めた。カヲルはハッとして、シンジの元へとやってきた。数秒前まで別の誰かを想っていたのに。

「風邪引くよ」
「大丈夫だよ」

まるでシンジを心配するよう背中に手を添え、顔を覗く。けれどその赤い瞳は──

「ふたり分のスペースはあるから一緒に──」

──期待に濡れているのだった。

「やめてよ!」

シンジはカヲルを力任せに突き放した。むくれ上がった激情がシンジの首を真綿で絞める。肩でようやく息をして、涙を湛えて、シンジはカヲルを睨みつける。

「僕のこと、一番じゃないくせに」

美しかった初恋が、どんどん汚れて、死んでいく。

「カヲル君はずるいよ、自分勝手だよ」

声を震わせ、顔を歪ませ、一度吐き出したら止まらない。その表情には嫌悪と軽蔑、何より苦痛が滲み出ていた。

「誰かを思い出したら、僕のことなんて、なかったことにするくせに!」

シンジの瞳に映るカヲルは恐怖で凍り付いていた。カヲルが自分をただ利用していたなんて思わない。カヲルは自分のことが好きなのだ。シンジはずっと知っていた。

「でも……僕は……」

だからこそ、あとちょっとで選ばれないことが、こんなにも苦しい。

「さっき……一緒に、星を見た時、思ったんだ」

だってシンジは今、確信しているのだから。

「僕は君に出会うために生まれてきたんだって」

悔しそうにはにかんで、シンジはカヲルへと告げた。さよならを伝えるように。
瞳の中のシンジは、つらくて途方に暮れていた。まるで、あの頃のように──そう、奇妙なデジャヴを感じた瞬間、カヲルの頭の中の糸が、ピンと弾けた。



ビニール傘越しに眺めた雨の桜。互いのマフラーを巻き直した冬の朝。電話しながら寝てしまった誕生日の夜。そうした想い出に混じって、夕暮れの湖畔や、孤独な月面、廃墟に置かれたピアノの音色が溢れ出す。ハイカットのスニーカーがコツン、コツン、と冷たい廊下を歩いていく。

知らない天井を眺めた日、カヲルは胸を掻きむしった。絶対に忘れてはいけない──その想いの残滓が魂に留まっていた。だから、何か大切なものが身体から抜け落ちてしまったと、そうちゃんと理解できた。けれど肝心の何かが全く思い出せないのだ。カヲルはあまりの恐ろしさに、しばらく嗚咽が止まらなかった。医者は記憶喪失だと告げたが、カヲルはもっと根源的な喪失な気がしてならなかった。

それからカヲルは激しい喪失感を引きずって、自分が発見された波打ち際に立ち戻った。ここに打ち上げられた時まで、確かに何かを覚えていた、そんな気がする。カヲルはふと、海を見た。

海が“青いなんて”感慨深い──そう、思った。


カセットプレーヤーのボタンが押され、テープが勢いよく巻き戻っていく。


──僕の神様はとても優しくて、意地悪だね。
──僕が泡になった時、世界が作り変えられる中で、お願いしたのに。


『僕の神様、碇シンジ君。
 次生まれ変わる時は、君と同じ人間として、君の側にいさせてください』


──僕は人魚姫のように願いを叶えた。君との記憶を代償にして。



カヲルが目を開けると、顔をくしゃくしゃにして心配しているシンジがいた。倒れた身体をシンジが抱いてくれている。シンジの腕に抱かれて、心から安堵したカヲルは、目の前の濡れた頬を愛おしげに、そっと拭った。

「君だったんだね」

激しくしゃくりあげるシンジ。その顔があまりにも心細そうで、カヲルは眉を下げる。シンジの顔に様々な想い出の顔が重なった。かつての少年は、青年になっていた。それは途方もない祈りの果てにあるものだった。

「ずっと一緒にいたのに、おかしいね」
「よく、わからないよ」

カヲルは姿勢を直し、床に座った。シンジも腕で顔をごしごし拭って、鼻をすすり、ようやくカヲルに向き直る。正面に膝を組むカヲルは、見たこともないほどすっきりと澄んでいた。

「僕が忘れていたのは君だったんだ」

綻んだ赤い瞳から愛おしさがあふれている。上手く咀嚼できなくて、シンジはおそるおそるカヲルに尋ねた。

「……海で君を助けた時のこと?」
「ううん、ずっとずっと前から僕たちは出逢っていたんだ」

予想もしていない答えが来て、困惑するシンジ。けれど、そう告げるカヲルの顔は妙に晴れやかで、とても嘘には聞こえない。

「カヲル君は……僕を好きなのを忘れていたの?」

言い淀みながら恥ずかしそうにシンジが聞くと、カヲルも恥ずかしそうに頷いた。その恥ずかしさは忘れていたことに掛かっているのだろう。
正直、許容量を超えた展開に、シンジの頭が追いつかない。それってつまり、ふわふわした脳みそで解を導く。カヲルは一途にシンジだけを好きだったらしい。それは数分前までは、どんなに願っても叶わない夢だった。

「……覚えてないや」
「いいんだ」

呼び覚まされた無数の想いを堪え切れず、カヲルはシンジを力いっぱい抱き締めた。その迷いのない抱擁に、シンジは目眩の中、瞼を閉じる。そしておずおずと、カヲルの背中を抱き締め返した。

待ち侘びた、ずっと願っていた、この現実が信じられない。ふたりは見えている景色は違うが、同じ感動に身を震わせていた。

カヲルは少し身体を離し、シンジの瞳をじっと見つめる。赤い瞳に満天の星屑を散りばめて。

「キスしていいかい」

考える間もなく、シンジが薄く開いた唇を差し出すと、カヲルはゆっくり首を傾げて顔を寄せた。大事に重ねた唇はひたすらに甘く、優しかった。互いを確かめるように、角度を変えて小さく食むと、シンジの肩に添えられたカヲルの手に力がこもる。舌先が触れ合えば、全身が痺れる心地で、ふたりの緩んだ涙腺からはぽろぽろと雫がこぼれた。

名残惜しげに唇を離すカヲルに、シンジは照れ笑いを浮かべる。官能的な余韻に浸っているのか、カヲルは額を擦り合わせて身悶えた。

人魚姫が初めて自分の脚を見た時、きっとこんな気持ちだったのだろう。カヲルはドクンドクンと脈打つ、シンジとお揃いの心臓に、うっとりした。

「やっと一緒だ」

さっきから、カヲルは不思議なことばかり言う。まるで月面にいる宇宙人だと、シンジは笑った。

「ずっと一緒にいたのに?」
「……そうだね」

寄せては返す波の音と、カーテンの裾を揺らす潮風と。窓の外には星空が、ペイル・ブルー・ドットの記憶を伝承する。それはかつて子供たちが、懸命に駆け抜けて、導いた、億千の灯火だった。

──ねえ、優しくて意地悪な、僕の神様。

カヲルはそう告げる代わりに、シンジの頬をゆっくりと撫でる。

──僕が好きのお返しを貰えたから、大事なものも返してくれたのかい?

波が海へ還るように、カヲルはシンジにもう一度、キスをねだった。




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