僕たちはいつもたまごの中身を想っていた。
これは、抱き締められたことのない君が、抱き締めてみたくなり、抱き締められるまでの話。
たまごをあたためる話
生ぬるい夜の匂いに懐かしさがこみ上げるのは、春の記憶からだろうか。冬が脱皮しかける二月の終わり、駅前の居酒屋が存在感を発揮する夜更け。階段を降りるなり碇シンジは小さく眉を上げる。スロープの手すりにもたれて相方が夜空を見上げていた。
「待ってたなら連絡すればいいのに」
相方と言うと地方によって誤解を生むので注釈するが、シェアハウスをしているただの腐れ縁の昔馴染みだ。
「飲んだの?」
「少し」
「可愛い子いた?」
答える義理なんてない。シンジは歩調を緩めずにロータリーへと進む。隣を歩く渚カヲルは冷えて赤くなった鼻をすすった。シンジの手から自然な動作で紙袋を奪い、覗く。
「なにこれ」
「バウムクーヘン」
「へえ? 意味不明」
意味不明は徒歩で迎えに来る渚もそうだろうとシンジは思う。ただ歩く労力がふたり分に増えただけ。そうぶつぶつ考えながら無意識に口角を上げている。
「引き出物の定番だよ」
「なんで?」
「年輪を重ねるとかそんな、というか君はまだ風邪完治してないんだから寝てなよ」
ふたりは並んで暗い路地を無言で歩く。不思議なのは、それがまったく苦じゃないこと。そっけなくても突き放しても、渚はシンジの側を離れようとしなかった。気を使わなくても成立する関係。シンジはそんな人間を他に知らない。
シェアハウスに誘われたのは高校最後の冬。同じ大学に進学することが決まった矢先、話を持ちかけられたのだ。理由を聞くと、
「一緒がいいから」
顔色も変えず、当たり前のようにそう告げられた。だからシンジは頭の中に『家賃』や『家事分担』という言葉を浮かべた。深く追求することではない。そうするのが都合がいい、それだけだ。シンジは首を縦に振った。
ただ一緒にいる。それは実際、ぬるま湯の心地良さだった。この四年間で、シンジは渚が勝手に部屋に入ってきても抵抗感すら湧かなくなった。ふたり分のパーソナルスペースで形成される安全圏。その曖昧な距離感を許す自分はまるで自分じゃないみたいだ。心を書き換えられたようで気持ち悪いとすら感じる。
バウムクーヘンをキッチン棚にしまい、ネクタイを解く。大学生で結婚を決めた旧友の顔が頭をよぎる。シンジが風呂から上がると、渚はまだこたつでスマホを弄っていた。
「風邪ぶり返すから寝なよ」
「ねえ見て見て」
肩にかけたタオルで毛先の水気を切りながら、シンジは渚の横に座る。スマホの画面では、コウテイペンギン二羽がたまごをあたためていた。
「このオス達は番で、たまごをあげたらふたりであたため始めたんだって」
「ペンギンって多様性があるんだ」
「動物の性別はかなり複雑だよ。ヒラムシは闘って負けるとオスがメスになっちゃうし」
「性転換ってこと?」
「そう」
渚はデフォルトでこういう雑学がスラスラ出てくる。指先は楽しげに仲睦まじいペンギンカップルの写真をスクロールしていた。
「あのクマノミだって性転換するよ」
ペンギンの可愛さにシンジが思わずスマホへ顔を近づけると、渚のふわふわの銀髪が湯上がりの頬をくすぐった。
「どうして性転換するの?」
「同じイソギンチャクに住むクマノミ同士で子孫を残すためだって」
「決め方は?」
「大きさ。ちなみにヒラムシはちんこで闘うんだって」
「あっそ」
渚は黙っていればかっこいいのに、たまに小学生みたいなノリになる。それは中学の頃から変わっていない。シンジは立ち上がって伸びをした。
「もう寝る」
「ドライヤーしてあげようか?」
「いいよ! 君も早く寝ろよ」
渚のそうしたセリフが甘く聞こえるのは体調不良の前触れだろうか。シンジはドアを閉める寸前で、思い出したように立ち止まった。
「ちゃんとビタミン飲んでよ」
「はい、お母さん」
心配して損した。シンジは大きい音を立てて自室へと退場した。バタン。
「こたつで寝るなよ」
リビングの騒音で目が覚めた。渚のスマホの目覚ましだ。セットした張本人はこたつ布団に顔を埋めて眠っている。もう春なのに、しまい忘れたこたつは渚の寝床になりつつある。シンジは不機嫌をにじませて溜め息を吐く。ラグの上で震えているスマホを持ち上げ画面を見たら、壁紙があのペンギンカップルだった。
「起きろよ。用事あるから目覚ましかけたんだろ」
呻いて丸く縮こまる背中をやさしくゆすって起こしてやる。
「それ、シンジ君用」
「は?」
「シンジ君が、朝早いから」
迷惑なやつは処す。勢い良くこたつを捲れば、カタツムリのよう渚はこたつ机の下に潜ってしまった。
シンジは今日も会社説明会だが、あのカタツムリは既に行き先を決めている。その差が彼の善意でさえ素直に受け止めにくくする。それは自分が至らないせいだとわかるから、シンジは小さく目を逸らした。
「……フレンチトースト」
「え?」
「浸けてるの冷蔵庫にあるから焼いて食べて」
前にシンジが褒めたレシピだ。いつもシンジに料理させてばかりの渚が突然、寝坊したシンジのために焼いてくれた。少し焦げていたけれど、寝坊の理由を聞かずに笑顔を添えたそのフレンチトーストは、とても甘くて美味しかった。
胸に広がるむずむずが、仄暗い苛立ちを、溶かして消した。
ご活躍をお祈り申し上げます、そんなメールを何回見たかわからない。もうすぐ夏がやってくる。なのに春から何の成果も出ていない。スマホを見るシンジの表情で筒抜けだったのだろう、渚が呆れたような切ないような、神妙な表情でつぶやいた。
「きっとシンジ君が今思っていることとは逆だよ」
謎かけのようなセリフに、シンジはゆっくり顔を上げた。
「君はたぶん自分に何かが足りないとか思ってるのかもしれないけど」
「実際そうだろ」
「あっちがシンジ君の期待に応えられなかっただけだから」
まあ、確かに自分を失望させたのはお祈り先だ。いや、でも、そうじゃない。
「選ばれなかったのは僕なんだから」
「選ばれてるのに気づいていないこともあるし」
「ハア?」
全く意味がわからないシンジをスルーし、渚はひと口、ぬるいアイスコーヒーを飲む。
「君のお父さんのところは受けてないんだろ?」
シンジは不仲の父親の会社を選択肢から外していた。前にも一度、渚はシンジに、利用すればいいのに、と言った。やりたいことや夢もなく勤め先を探すシンジを渚は不思議に思っていた。
「頑固なんだから」
「君ほど長いものに巻かれないだけ」
「合理的って言ってよ」
「渚はドライすぎ」
渚はシンジと同じような境遇だった。権威ある親を持ちながら不遇の寂しい生活を強いられた。なのに渚はあっさり親族の会社へと内定を貰いに行ったのだ。シンジはそれがまるで理解できなかった。
「人並みの幸せを得るには資金の担保が必要なんだから、利用できるものは利用すればいい」
「結局利用されて支配される側は立場の弱い僕に決まってる」
渚は押し殺すように細く長く息を吐いた。意固地な自分をつまらなく感じたんだろうと、シンジは心臓をヒヤッとさせた。渚は長い睫毛を瞬かせ、唇に指を当て、逡巡する。
「僕は大切なものとそうじゃないものを線引きしてるだけだよ」
そう告げる渚はほんのり苦いような困ったような横顔なのだ。心臓の不快感が尾を引いて、シンジはますます混乱した。
「大切なものって?」
シンジが慎重に問いかけるので、渚は面食らっていた。瞬きをひとつして、言葉を選ぶ。
「……この生活だよ」
シンジへ振り向き見つめるその渚の目には、妙な力がこもっていた。
「この生活を維持するために、楽に資金源が手に入るならそれがいいだろ」
今度はシンジが面食らう番だった。
「君はずっとこのままでいるつもりなの?」
考える間もなく、シンジはそう口にしていた。渚がまるでこの共同生活を守るためなら他は何でもいいと言っているように聞こえた。そうは聞こえたが、それがどういうことなのか、シンジにはわからなかった。
歳をとると人は社会人になって、家庭を持ち、責任ある大人というものに変容する。なのに自分たちは大学生のシェアハウスのままで許されるのだろうか。
渚は答えを告げることはなかった。シンジは時が止まった気がした。
最近、シンジは真夜中に発作が起きる。自分が無価値に思えて生きた心地がしない、心臓がよじれる発作。眠れない。世界からも時間からも遮断されたシェルターにこもりたい。
そんな時は壁の向こうの渚を想像してしまう。規則正しく寝息を立てているのだろうか。それとも自分と同じように壁を見つめているのだろうか。
シンジが寝坊する日はいつも目元が少し腫れている。彼の部屋の前、渚は静かに立ち尽くす。昔なら何も考えずにドアを開けられた。けれど今は煩悩がそれをさせない。
『結局利用されて支配される側は立場の弱い僕に決まってる』
やっぱり違う気がする、と渚は思う。立場の弱い者ではない、より相手を求めている者ではないか。シンジは他にどこでも選べるはずだ。心に決めた場所がないのだから。けれど、渚はシンジ以外を選べない。ならばシンジから選ばれないことはイチがゼロになるに等しい。
らしくない感傷でドアに額を擦りつける。欲求不満なのかもしれない。三年半、よく耐えた。一緒に暮らせば何かが起こると思っていた。酒を飲み交わした勢いでキスをしたり、ハプニングから欲情したり。何度も想像したけれど、意識しているのは自分だけだった。
健全な生活の中、期待を重ねてその度に叶わなくて、弱っていく。ならいっそこの生殺しのまま、ただ隣にいられればいい、そう思い至った矢先、それすらも疑問符で返される。
『君はずっとこのままでいるつもりなの?』
この生活は“僕たち”のものですらないのだろうか。そう聞きたかったけれど、喉が締まって出てこなかった。思い出す度、鋭い棘となり心臓を刺してくる。それはシンジの真夜中の発作と似た痛みだった。
「わっ」
途方に暮れていると急にドアが開いた。額を押し付けていた渚は、ドアを引かれた勢いでよろけてしまう。
「びっくりした……渚?」
シンジが手を伸ばし渚の体を支える。渚はそのまましなだれかかることにした。シンジの肩に額を預けて、寄りかかる。
「体調悪いの?」
「うん」
「大丈夫? 自分の部屋まで歩ける?」
「うーん」
ドアの外にずっといて、何を考えていたのかなんて悟られたくはない。渚の間抜けな返答に戸惑ったシンジだが、すぐに渚へ肩を貸して自分のベッドにそっと寝かせた。さっきまで寝ていたぬくもりと、シンジの匂いがするベッド。
「気持ち悪い?」
「わからない」
「わからない? どう体調悪いの?」
匂いが鼻腔をくすぐったとたん、渚は身体がドクドクと脈打つのを感じた。熱が下半身に溜まるのが居た堪れなくて、頬にサッと朱が差した。膨らみを隠すために毛布を手繰る。顔を覗き込んでくるシンジからも目を逸らした。
「目眩がして……あと、熱っぽいかも」
「体温計持ってくる」
「いいよ!」
もぞもぞと固い欲望が目立たないよう身体を縮める。つい強めに断ってしまった。不自然だ。シンジの反応が気になるが、渚は顔が見られない。
「熱計っても対処療法しかないから。少し横になってる」
「わかった。何かあったら声かけて」
シンジはあっさり渚を置いて部屋を出た。渚はホッと息を吐き、少しの寂しさを味わう。またもう一度、シーツに顔を埋めながら今度は思いきり鼻で吸い込んだ。さっき寄りかかるふりをして半分だけ抱き締めたシンジの身体を思い出す。シンジは驚いて渚の腰を手で支え、渚は顔を預けながら両手でシンジの腕を掴んだ。
──二の腕、思ったより柔らかかった。
柔らかくしっとりとした肌の感触。反芻すると、痺れた脳はイフの妄想をする。あのままギュッと抱き締めたらどんな心地だったのだろう。薄いTシャツから、筋肉の流れや華奢な骨格はどれくらい感じられるのだろう。
──ちゃんと抱き締めてみたい。
どうしても拒絶されてしまう気がして、いつも思いとどまってしまう。未遂をしては誤魔化してばかりだ。
──キスしてみたい。
唇や舌の感触を想像したら、ドッと熱が真ん中に溜まった。
──……
鼻から脳へシンジの情報が伝わっていく。普段よりも濃い妄想を掻き立てる。このベッドにシンジがいて、自分がいたら。この狭いスペースで、どういう体勢でどう動こう。
「渚、飲み物持ってきたよ。あ、寝ちゃったのか」
慎重に細長い呼吸をして身を固める渚。シンジは寝たふりには気づかずに、そっとドアを閉めたのだった。
──本当に熱が出そう……
渚は焼けるような恋しさに悶絶した。
秋の訪れに、夏の気配を探してしまうのは何故だろう。蝉はもうすべて死に絶えてしまったのかもしれない。世の中は思っていたより残酷で、道行くひと誰もが自分よりも幸せそうに見えてしまう。そんな時、シンジは置いていかれた子供の気持ちになっていた。
夕飯は甘めのカレーライスだった。窓を開けたら夜風がやさしく頬を撫でる。冷房の要らない夜は久しぶりだ。シンジはソファに腰掛けて、氷の溶けた薄い烏龍茶を口に含んだ。
「ペンギンはオスがたまごをあたためるんだよ」
テーブルに頬杖をつきながら渚はスマホを弄っていた。シンジの憔悴したからっぽの心には、渚の言葉がよく響いた。何も入っていない缶を蹴るといい音がするみたいに。
「メスは何してるの?」
「ヒナの餌獲り」
「生まれてないのに?」
「産卵場所と海が遠いんだよ」
生きることは過酷なんだ。最近シンジは落ち込んだら、自分よりも大変な境遇を検索しては溜飲を下げていた。
「でさ、オスは二ヶ月間、何も食べずにたまごをあたためるんだって」
「それ、死んじゃわない?」
何でもない話をする時だけ心臓に麻酔が打たれる。できれば寝るまで一緒にこんなくだらない会話をしていたいけれど、シンジはどうしても渚にそうは頼めなかった。
「体重が40%も減るらしいよ」
渚はたまにペンギンについての話をしたが、たまごの話は久しぶりだった。スマホ画面をシンジに見せて、得意気に片眉を上げる。
「往復100キロ、四カ月は何も食べられない世界一過酷な子育て」
シンジが絶句していたら、渚が懸命に指先でスクロールし始めた。
「おっぱいも出るんだよ」
ペンギンミルクはオスの食道から出る分泌物で、最初ヒナはそれを飲んで成長する。
「あはは、ペンギンに生まれなくて良かった」
「人間やるのも大変だけどね」
妙に甘い響きがして、この会話の主成分は思いやりなんだと、シンジは実感する。
『君はずっとこのままでいるつもりなの?』
──今の僕に渚を抜いたら何が残るだろう。
長いことひとりが楽だと思い込んでいた。なのに気がついたら、シンジは渚なしの生活が想像できなくなっていた。それは依存というやつではないか、これでは駄目だ、そう“正しさ”の型に自分を嵌めようとした。けれど、ふたりの生活が“正しくない”として、誰がふたりを罰するのだろう。
──何も残らないんじゃなくて、僕だけが残るのか。
鏡がないと自分を見ることはできない。だから何も残らない気がするのはただの錯覚だ。
シンジはじっと目の前の渚を見た。食べ終わったアイスの棒を名残惜しそうに眺めている。それだけなのに、つまらない自分とは不釣り合いなほど綺麗だと、改めて感じた。賢いし人を惹きつける魅力がある。でも本人はそんなこと気づきもしないでペンギンに夢中になっている。
──僕は器用じゃないから、正当な理由がほしい。
誰か僕を論破してくれ、とシンジは内心頭を抱える。渚はもったいないことをしている。こんな自分と一緒にいるメリットが彼にはない。もっと“良い未来”を手に入れられるはずなのに。そう思うと悲しくてたまらない。
シンジはこれ以上自分を嫌わなくて済むようになりたかった。
「どうして僕に優しくするのさ」
「下心があるから」
何を今更という顔で即答されてしまう。渚はスマホを置いてシンジを見た。妙に透明な表情だが、真剣な眼差しだった。
「下心って……用法合ってる?」
「君に好かれたいから優しくしてる。どう?」
妙に挑発的な物言いにシンジは余計意味を飲み込めない。怒っているのだろうか。渚はフローリングから立ち上がりシンジの隣にドカッと座った。その大雑把な座り方とは裏腹に、妙に距離が空いていた。
「ふたりの生活を守りたいからね」
「別に僕じゃなくてもよくない? 君にメリットなんてないだろ」
「君が好きなんだから、君と一緒に生活するのは僕にはメリットしかないんだけど」
あまりにはっきりとした言い分なので健全な意味合いにしか聞こえない。あるいはそう逃げたかったのか。シンジは眉間に皺を寄せた。
「……猫でもいいんじゃない?」
「バウムクーヘン的な意味で言ってるんだけど」
「スイーツ?」
「だから! 君に恋しててずっと一緒にいたいって意味で! 好きなんだけど!」
渚はしびれを切らし、恥ずかしそうに声を張った。
──……
シンジの胸にはスッと切なさがよぎる。今じゃなければよかったのに、と。
渚はつい前のめりになる。見つめ合うふたりの距離は、近かった。
「だからどうして僕なのさ」
「シンジ君だから以外に理由なんてないけど」
「渚はおかしいよ」
今は何かを考えることも決めることも億劫で。すべてのことへ、地球の自転でさえ待ってほしいと願ってしまう。
そんな時に、側にいると安心する相方が“対岸のひと”になろうとする。懐かしい親友を見送るような感傷が、シンジの胸を染め上げた。
──……
渚は目の前の、明らかに歓迎していないシンジの表情に、息が出来ない。
限界だと思っていた。だからこのタイミングだと切り出した。でも今は、時間を巻き戻したい。今じゃなかった。
「……前にたまごの話をしたよね」
ただの友達として、今はシンジに寄り添うべきだった。激しい後悔が渚の胸を染め上げる。
「たまごを長い時間あたためてるのにちっとも孵らなかったら、ペンギン達はどうするだろうって考えてた」
渚の声は微かに震えていた。軌道修正しなければと遠くで考えながら、一度滑り出した坂道は止まれない。
「中身が腐っているのに気づいていないだけだったら。僕はそう思ったらたまごを割って確かめられるのか、諦めてたまごを置いて海へ行けるのか」
うっすら涙を溜めた瞳は綺麗で吸い込まれそうだった。
「好かれも嫌われもしないで君がこの家から出ていったら、きっと君は僕たちの間にあったものをなかったことにする。僕は知らんぷりされる。それだけは耐えられなかった」
繊細に震える長い睫毛。一粒の涙が零れる。渚は恥ずかしそうに笑って、手の平で頬を拭った。
「でもさ、あたためている間にはちゃんと何かがあったはずだから。たまごがどうだとしてもそれだけは変わらないよなって思ったんだ」
シンジは奇妙な感覚に襲われる。目の前の彼を抱き締めてあげたい、と。それができたらどんなにいいだろう。
「君が大変な時期にごめん」
渚はシンジを振り払うように立ち上がり、さっさと自室へ逃げ込んでしまった。
シンジはひとり取り残され、誰もいないリビングでしばらくまともに動けなかった。
──ああ、全部うまくいかない。
シンジは渚を想像の中で抱き締めながら、悔しさにクシャッと顔を歪めて泣いた。
ある日突然、全部うまくいくこともある。
夜風に人肌恋しさが募る十月の終わり。帰宅が予定よりも遅れてしまった。渚は紙袋を引っ提げ暗い路地を駆け抜ける。
午後にシンジから連絡が来た。内定もらった、とだけ。おめでとう、とだけ返した。
あのねじれた夜からふたりの関係は微妙にだが変化した。
シンジは渚を強く否定しなくなった。身体が近づいたり、視線がかち合うと、シンジの耳がふわっとピンク色になる。意識されていることに気づくと渚の期待は膨れ上がった。けれどすぐに、シンジはふたりの間合いを保つ。もうタイミングを誤りたくない。だから渚はそれをなかったことにして、シンジの後ろ姿をそっと見つめるだけにしていた。
「ただいま」
早くシンジを祝福したかった。けれど、それだけじゃ足りなかった。
「あ」
慌ててリビングに飛び込むと──シンジはソファへ横になり眠っていた。自分を待っていたのだろう。電気はつけっぱなし、スマホからはローファイなプレイリストが流れている。
静かに近づき、音楽を消そうとスマホをタップした。壁紙はペンギンのイラストだった。
渚はソファの側にしゃがみ、シンジの寝顔を覗き込む。
「よく頑張ったね、シンジ君」
囁いて、シンジの前髪を指先で梳く。久々にシンジに触れた。指先がほんの少し触れただけで、愛しさが溢れてしまいそうだ。
──ねえ、シンジ君、抱き締めていい?
その体温を、そのかたちを感じられたなら、死んでもいいとさえ思っていた。
──こんなにずっと一緒にいて、君を一度もちゃんと抱き締めたことがない。
出逢った頃から好きだった。最初は感情の正体がわからなくて苦労した。距離を詰めて、シンジに怒られ、拒絶されたら渚も怒った。
一緒に暮らすことへオーケーを貰った日、嬉しすぎて眠れなかった。これで毎日一緒に居られる。けれど今度は違う痛みを知ることになった。
もう離れ離れになりたくない。ちゃんと自分と同じように好きになってもらいたい。けれど、自分を押し付けて嫌われたらもう友達にも戻れない。渚は綯い交ぜの感情の中で、ひとつだけ、答えを選ぶ。
もうボタンを掛け違えたくない──だから渚はシンジの寝顔を目に焼き付けることにした。
「こんなところで寝ちゃ風邪引くって僕には言う癖に」
シンジの頭をそっと撫でて、渚は立ち上がろうとした。
けれど、立ち上がれなかった。離れる渚の白い手をシンジの手が掴んでいた。
渚は驚いて振り返る。起きてたんだ、そう言おうとした。
言えなかった。シンジは渚の手を強く引っ張る。
渚はバランスを崩してシンジの上へ倒れてしまう。
シンジは覆い被さった渚を、ギュッと強く、抱き締めた。
「渚……ありがとう」
背中に回された腕が自分を求めているようで、渚は固まる。ふたりの身体は密着した。耳元で甘く囁かれた言葉に、渚は思わず身を震わす。
「渚がいなかったら、僕は自分を無価値だと思ってた」
鼓膜を撫でるようなシンジの声に、渚の全身が熱を巡らす。
「今でもたまに思うけど、でも渚が否定してくれてる気がして、僕は最低まで落ち込まない」
内定の連絡を貰ったとき、シンジはちょうどこのソファにいた。脱力して、ほうっと長く息を吐いた。それからは、感情の洪水に飲み込まれ、じわっと涙で視界が滲んだ。
やっと終わったという気持ちよりも、これでやっと渚とちゃんと向き合えるという安堵のほうが大きかった。込み上げてくるのは、いつも隣で見守ってくれた相方への感謝だった。
『君はずっとこのままでいるつもりなの?』
濡れた睫毛を腕で拭いながら、自分の問いに今こそ答える。
──うん、そのつもり。
無価値だなんて思わないでよ、そう応答しようとしたが、渚は刹那、息を詰める。大事な話をしてくれているのに身体が言うことを聞かない。もぞもぞして、どうしようもなくて、渚はついに腰を引いた。
「シンジ君、ちょっと」
「なに」
「ごめん、いったん離れていい?」
「なんで」
不満そうなシンジの耳元で、勃ってるから、と渚は囁く。けれど、シンジは腕に力を込めて、逃げることを許さない。
「もう二度とないかもしれないけど」
「それは嫌、です……」
思わず敬語になってしまった渚をクスクス笑うシンジ。その笑い声さえ愛おしくて、渚は身悶え、降参した。諦めて、突っ張っていた身体の力をゆっくりと抜く。
シンジは自分にのしかかる身体を強く抱き寄せた。互いの高鳴る心音が筒抜けだ。渚は急激な温度差で心も身体もついていかない。嬉しくて興奮してしまう身体が恥ずかしくて、シンジの首に顔を埋める。渚にはシンジの顔は見えなかった。本能に抗えないその様子にまんざらでもないシンジの顔は。愛おしそうに目を細めて、話を戻すけど、とシンジはつぶやく。
「諦めたようなこと言わないでよ」
緊張に息を飲んだ渚だったが、
「諦めたことなんて言ったっけ?」
またボタンを掛け違う。
「たまごの話しただろ。孵らなくてもいいとか」
「言ってないよ」
「え?」
「結果じゃなくて過程に愛が宿るって言ったつもりだけど」
『でもさ、あたためている間にはちゃんと何かがあったはずだから。たまごがどうだとしてもそれだけは変わらないよなって思ったんだ』
──ふたりに愛がなかったのはつらいけれど、共同生活は楽しかったからそれでいい。
──共同生活で恋愛イベントがなかったけど、根底にはちゃんと愛があったはず。
違う人間だから、時にはすれ違うことだってある。これくらい解釈が違ってしまうことだってある。
「紛らわしいこと言うなよ」
「わかりやすい例えだと思ったんだけどな」
「君が泣くから」
「タイミングに失敗したと思っただけだよ」
シンジ君の早とちり、そう囁いて、渚がきつく抱き締め返す。夢みたいだ。舞い上がってつい笑みが零れてしまう。喉を鳴らしてクツクツ笑う渚の熱い息がくすぐったくて、シンジが肩をピクリと揺らせた。
渚がゆっくり腰を引き、シンジの腕を引く。ゆっくりと起き上がるふたりは、顔を見合わせ悟るのだった。互いの上気した顔はもう何も隠せていない。
「ねえシンジ君、そろそろたまごの中身を確かめてみたいんだけど」
躊躇いがちに視線を向けるシンジの顔は熱っぽく切なげだった。ああ、僕だけが我慢していたわけじゃないんだと、渚は惚気る。シンジが目を伏せたから、渚はそっと、嘴でついばむようなキスした。
「渚、あれなに」
どっと気が抜けたふたりはソファで寄り添い座っていた。貪るようなキスの応酬の末、渚は四カ月ぶりに食にありつくペンギンの気持ちが理解できた。満たされてぽーっとしたまま、少し前の自分を思い出そうとする。
「バウムクーヘン」
「珍しいね」
「だって末永く続くようにって意味でしょ」
そういえば、前に旧友の引き出物からそんな話をした気がする。ああ、あの時の『バウムクーヘン的な』、あの変な比喩はそういう意味だったのかと、今更つながった。
「シンジ君の勤め先が決まっても一緒にいたいから」
「近いところを選んだから大丈夫だよ」
よかった、と渚がキュッとシンジの手を握り直すから、シンジはもう片方の手をその白い手に重ねた。
「そういえばこの前、父さんに会ったんだ」
「え、あんなに嫌がってたのに」
思わずシンジの横顔を覗く渚。シンジはバツが悪そうに少し俯いた。
「本当に後がないなと思ったら、渚といるほうが大事だと思ってさ。父さんに相談してみたら、意外と優しかった」
そう告げる声のトーンが柔らかくて、渚は胸を撫でおろす。
「別にシンジ君がニートでも僕が働くからいいのに」
「良くないよ。対等だって思えないと僕は意地が悪くなるし、それに」
シンジは躊躇ってから、白状する。
「甘えづらいだろ」
俯いていた横顔が更に俯き、唇がちょんと尖った。
渚はかつて、シンジを抱き締めたら拒絶されると思っていた。
長いこと一緒にいても予想が外れることもある。
「甘えたいんだ?」
「うるさいな、たまにはいいだろ」
ポスッと渚の鎖骨あたりに、シンジは顔を押し付けた。
たまごをあたためなければ、中身がどうなるかなんて誰にもわからない。
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