この胸に愛をくれたひと


「とりあえずビールと特上カルビ」
「決めてたお店と違うでしょ」

洞木ヒカリがむりやり連れてこられたのはこじんまりとした焼肉屋だった。親友のアスカらしからぬセレクトに戸惑いながら辺りを見渡す。年季の入った油っぽい壁には手書きメニュー、食欲そそる芳ばしい匂いが充満する店内は煙たく、ちらほらと常連客が歓談している。店員が排煙フードを下ろしタレ皿を置く。ヒカリはもう逃げられないと悟った。

「今日はぱーっと肉で祝いたいの!」
「なら明日でも──」

そう言いかけてハッとする。自分事ではないから忘れていたけれど。親友が祝っているのはもしかして。

「なんで私とお祝いするの」

責めるような口調になってしまっただろうか。目の前の親友を探るように見れば、何でもないというような笑顔。その奥にただならぬ気配を感じて、ヒカリは静かに眉を下げた。


×××


放課後の教室でひとり、渚カヲルは溜め息をつく。もう今日の幸せな出来事は終わってしまった。また明日までつまらない時間をやり過ごすしかない。

「痩せ我慢しないで待てって言えば良かったじゃない」

振り返るまでもない。カヲルは唇だけを動かした。

「僕の都合でシンジ君の時間を奪うのは望まないからね」

アスカは呆れ顔で目をぐるりと回してみせた。生徒会も煩わしいけれど、この男は無性に癇に障るのだ。最近第壱中に転校してきたそいつは、教科書を一度読めば一文字も間違わずに諳んじられる天才だった。神様に与えられた作り物のような美しい容姿とそのカリスマ性で、誰もが彼に憧れる。努力型のアスカからすれば気に食わないスペックだが、一番気に食わないのは、同居人のシンジまでもがカヲルに骨抜きになっていることだ。

「私はヒカリが待ってるから。アンタはひとり寂しく帰りなさいよ」
「断る手間が省けて良かったよ」

フン、いい気味、とアスカはわざわざカヲルの横を通り過ぎる。この男はやたらシンジを大事に扱う。見ているこちらがムズムズするくらい。

「あーお腹空いた! 今日の夕ご飯、シンジは何作るのかしら」

だからきっとこういう言葉が一番効く。背後では、あの美しい顔が悔しそうに暗く歪んでいるだろう。


×××


「私たちもう10年ね」
「中学からもうそんなに経つの」

特上カルビが網の上で美味しそうな色に変わっていく。裏返すと綺麗な焼き目がお目見えした。いつもなら自分の焼肉奉行ぶりを褒め称えるアスカだが、今は黙々と肉の世話をしている。ヒカリは逡巡し、気の利いた言葉を探すが喉から何も出てこない。

「日本も変わるわよね」

アスカがぽつりとつぶやいた時、店内に壁掛けされたテレビから、ニュースが流れた。

『日本では、明日から同性婚がスタートします』


×××


高校の校内放送はやかましかった。足元から不愉快な鼻歌が更に追い打ちをかけてくる。

「やあ」

カヲルの朗らかな挨拶をアスカは無視した。眉ひとつ動かさずに階段を下りていると、通り過ぎ様、クスッと勝ち誇った笑いが聞こえてきた。足を止める。

「ムカつくのよアンタ」

引っかかったね、とばかりに優雅にカヲルは振り返る。

「嫉妬かい?」
「ハァ? アンタのどこらへんに羨ましい要素があるのよ」

同じ美しい優等生だった中学の頃とは違い、アスカとカヲルは別々の方向へと歩みだしていた。

「僕がシンジ君に想いを伝えられるところかな」
「気持ち悪いわね」

気持ち悪い、そう思いながら何故か生きた心地がしない。このまとわりつく不快感はなんだろうとアスカは常々感じている。言い足りなくて、高性能な脳みそが敵の弱点を分析する。

「よくもまあ、そんなに自信があるわね。“対象外”の相手から言い寄られても気持ち悪いだけじゃない」

カヲルの眉がピクッと反応した。ほら、負けてない。アスカは鼻から大きく息を吸い込む。

「僕は押し付けているわけじゃない」
「よく言うわ、おめでたいわね」

久しぶりに対面したその顔は、幼さが抜けて洗練された青年の美を輝かせていた。そのくせ見たこともない余裕のない表情で睨みつけてくる。アスカはどきりとした。

「いつか僕に痩せ我慢するなと言ってくれたから、僕からもひとつアドバイスをしよう」

思い詰めた瞳の色を隠すように、不敵に微笑んだカヲル。神経質に目頭を絞り、唇を横に引き、けれど闘争心を滲ませていた。アスカはその時初めて、自分がライバルにカウントされていることを知った。

「君は不自由だ」
「それのどこがアドバイスなのよ」

不躾なそしりに拍子抜けする。高性能な脳みそは置いてきたのだろうか。キョトンと目を見開くアスカが面白くないのだろう。カヲルは小さく唇を噛んでから、わざと覗き込むように首を傾げ、捕食者のような上目を向けた。

「君は臆病で、プライドが高くて、相手の反応を先読みして、何もしない。自分の気持ちに気づかないふりをする。自信がないんだろうね」

可笑しなことだが、アスカは目の前の男が同じ人間なのだとしみじみ感じた。自分と同じで真夜中に悩み、弱さを秘密にし、気持ちを持て余すような人間なのだと。

「そうやって自分の気持ちを大切にしないと、相手からも大切にされることはないだろう」

吐き捨てるようにカヲルは背を向けた。小さくなっていく背中をアスカは見上げる。

──何よ、知った気になって。

彼が去ってから、予想外にじくじくした痛みが胸に広がっていく。酷いことをしたのはお互い様なのに。

最近、シンジはカヲルについて話さなくなった。中学の頃は崇拝して口を開けば『カヲルくんが』とこぼしていたのに。それがやけに胸騒ぎを誘っていたのだ。でも、なんでだろう。

「ふうん」

あの余裕のない反応がゾクゾクと、根拠のない安堵へと変わっていった。アスカは鼻歌まじりに階段を駆け下りていた。


×××


──あの時、私は少し浮かれてた。バッカみたい。

「もう、泣いてるじゃない」

残り少ないビールジョッキをテーブルの隅に移動させ、俯いた親友の顔に紙ナプキンを押し当てるヒカリ。マスカラ取れる、と駄々をこねるアスカに見つからないように、スマホ画面のメッセージを盗み見る。ああ、どうしよう。

「ねえ、アスカ。ここを出て決めてたお店に行かない?」
「焼肉がいい」
「全然食べてないじゃない。それにイタリアンが食べたいって」
「ここがいいの!」

このお子様モードは解除できない。ヒカリは神に救いを求めるよう、くすんだ天井を見上げた。深呼吸してこみ上げてくるものは、親友に何もできなかったという小さな後悔。

「アスカって変に面倒見がいいのよね」
「何よそれ」

ヒカリは10年間、このトライアングルの傍観者だった。


×××


第壱中の校門の前にクラスメイトが立ち尽くしていた。親友と同じ屋根の下に暮らす碇シンジだ。隣のアスカが吸い寄せられて彼の方へ向かっていく。ヒカリは少女漫画のページを眺めるように、交互にふたりを観察した。

「アンタ帰ったんじゃないの?」
「別に」

素っ気なさは仲が良い証拠だろう。ヒカリはその関係が羨ましかった。自分が例えば鈴原トウジとそういうシチュエーションだったらどんなだろう。共同生活の役割分担、朝の風景を妄想してしまう。

「アイツを待ってるんでしょ」
「忙しそうだからどうしようかなと思って」
「アンタほんとヒマよね」
「ほっといてよ」

実際、そうした役割は今門前で俯いている彼がほとんどしているらしい。だからなんとなくだが、親友は相手に脈なしかと思っていた。

「……そういえばアイツが言ってたかもしれない」

でも、そうじゃなかった。

「アンタと一緒に帰りたいけど待たせるのが申し訳ないって。他人行儀でバッカみたい」
「アスカ、ありがとう」

駆け出す同居人の後姿を振り払うように、アスカは歩き出した。もしかしたら彼の言動を確かめたのかもしれないと、ヒカリは思った。シンジの喜びようはまるで……こちらの思い過ごしだろうか。
アスカもヒカリと同じことを思ったのだろう。その横顔は平然を装っているのに寂しげに戸惑っていた。まるで好きな相手からの連絡を、スマホを眺めて待ち続けている自分みたいだと、ヒカリは思った。



「シンジ君どうしたんだい? 先に帰ったんだと思っていたよ」

ぼんやりと茜がかった空を眺めていたら、気配がして振り返る。大好きな愛おしいこの気配。全速力で走ってきたのだろう。肩で息をし、静かにこちらの様子を伺いながら教室に入ってきたシンジ。胸に手を当て、呼吸を整え、カヲルの元までやってくる。

「途中までトウジたちと帰ったんだけど、やっぱり戻ってきたんだ」
「どうして」
「わ、忘れ物をしたから」

食い気味の返答と共に、瞬時にシンジの頬が染まる。カヲルは幸せな発見に目を輝かせ、ゆっくりと微笑んだ。

「なら一緒に取りに行こう」
「ううん、大丈夫……一緒に帰ろう」

やっぱり、とカヲルは思う。“忘れ物”と密かに呼ばれたことがくすぐったくて、嬉しかった。

「今日はもうシンジ君に会えないのかと思うと寂しかったよ」

空よりも赤く染まった頬にカヲルの白い手が触れる。有無を言わさないカヲルの引力に、シンジは身動きがとれない。西日が揺れるシンジの深い瞳をカヲルの赤い瞳が覗き込み、もう片方の手も添える。見つめれば、瞳が輝いてるのは西日のせいではないとわかる。白い指先が微かに動くと、シンジはつられて瞬いた。

「シンジ君のほっぺたあったかい」
「ッ?!」

熱々の頬を両手で掴まれて、こんなに顔が近くて。我に返ったシンジは驚く声さえ飲み込んでしまう。

「気持ちいい」
「か、からかわないでよ!」

プニプニ。優しく指先で弄ばれた拍子に飛び退くシンジ。睫毛を震わせ耳まで真っ赤にしてたじろぐシンジに、カヲルは密かに興奮した。

「ねえ、シンジ君」

その興奮がカヲルの背中を押す。抗えない魅力に、ささやかな我儘を受け入れてほしいと願ってしまう。

「今度、僕に用があったら、僕を待っててくれるかい?」

それは、碇シンジを大切にしたい、という願いとは二律背反かもしれない。けれど、一秒でも長く一緒にいたい、カヲルにとってはその願いも本心なのだ。

「待つから、先に帰ってなんて言わないでよ」

シンジは緩む表情を隠したくて、カヲルのスニーカーを見つめる。甘えたような不貞腐れたその声色に、カヲルは全身が痺れる心地がした。蜜掛かったとろんとした空気がふたりを包んでいた。


×××


自分を呼ぶ声がして、ヒカリはふと視線を上げた。鞄に教科書を入れていたら、隣のクラスのシンジが本を返しに来たのだ。高校に上がってから、シンジとはたまに恋愛小説の貸し借りをしていた。

「シンジ君!」

聞き慣れない大きな声だった。目の前の彼を呼び止めるのは──

「僕のこと、嫌かな?」
「え!?」

いつも言動がミステリアスな彼、渚カヲル。存在が嘘のように完璧な王子様であり、親友アスカの好敵手。中学の頃は、失礼だが、面白可笑しくふたりの関係を眺めていた。けれど最近は笑えなくなってしまった。

「えっと、嫌って何が?」
「僕が君へこうして愛を伝えることだよ!」

親友に足りないものを彼は持っていた。それは能力の話ではない。
ヒカリは気配を消して、帰宅の準備を終え、席を立つ。

「もしも君にとって僕が受け入れられない存在だったらどうしようと思ったんだ。この前初めてキスした時、君は──」

手を握られているシンジの安否を横目で確認し、ドアへと忍び足で進む。答えを聞く前にヒカリは教室の外へ出た。それを知ってしまったら、親友に告げるべきか悩むことになるだろう。ヒカリは自分にそんな勇気がないことを知っていた。


×××


「も〜、酔うとすぐ泣いちゃうんだから」

ぐすんぐすんとべそをかき、おしぼりの端を目元に当ててしょげる親友の頭を撫でる。結局特上カルビは一枚しか食されず、炭火が虚しく焚かれているだけ。
なんでアスカは未だに泣いているのだろうと、ヒカリは思う。才色兼備の彼女なら選びたい放題じゃないか。そう考えるのは邪なことだろうか。

「もっといい男いっぱいいるって言ってたじゃない」

失恋はもうずっと前、大学生になりたての頃だった。ひとり暮らしに慣れ始めたころ、風の噂が聞こえてきた。ヒカリはそれとなく親友に元同居人の様子を聞いた。知らない、とだけ彼女は言った。そのいじけたトーンで粗方察しはついた。

それからぽつりとアスカは言った。「焼肉が食べたい」と。


×××


シンジがスマホを覗くと、予定時刻より三十分も過ぎていた。待ち合わせ場所を間違えたのかもと思い始めたとき、ふてぶてしくゆっくりと待ち人は現れた。

「遅いよ、アスカ」

悪びれもせず、むしろお前が悪いと言わんばかりの態度でアスカはシンジの前に立つ。大学生になって大人びた彼女はとても綺麗だった。一瞬、悪態の間が空いてしまうくらいに。

「僕には細かくいろいろ言ってきたくせに」
「あんた本当に守ったんでしょうね?」
「カヲル君には言わなかったよ」
「ふーん」

アイメイクの濃いアスカの強い瞳が訝しげに、あちこちとシンジを見やる。

「何だよ」

シンジは眉間に皺を寄せる。彼はアスカが、久しぶりに会う初恋相手を目に焼き付けているとは知らない。

「ごまかしが下手、何その恰好」

シンジは帽子を被って大きなリュックを背負っていた。
カヲルはシンジが自分以外の誰かとふたりで出かけることをかなり渋るのだ。なのでアスカの入れ知恵で、野球観戦のチケットが余りケンスケが相方を探しているということにした。シンジは罪悪感から律義にマフラータオルと双眼鏡を持ち歩いている。

「しょうがないだろ! 僕だって嘘つきたくなかったんだから」
「いいじゃないこれくらい」

カヲルの気持ちは理解できるが、アスカを無下にもできない。なのでシンジは事後報告であとでたっぷり怒られることにした。



「ここがアスカでもひとりで入りにくいお店…イテッ」

殴られたタイミングでビールが到着する。こじんまりとした通っぽい焼肉屋。シンジは確かにひとりで入りにくいかも、なんて思ったが、アスカにとってはシンジがそう思うようにわざわざ選んだ店だった。

「ほら、乾杯」
「何に?」

何でもいいでしょ、と無理やりジョッキを合わせるアスカ。それ以上は追求しないシンジ。アスカはそんな元同居人に、ふたりが出会った記念日なんて言えなかった。

「やっぱりカルビは特上に限るわ」
「僕の分までとるなよ」
「あんたはハラミが好きでしょ」
「好きだけどさ、カルビだって食べたいよ」

相変わらずの高飛車なアスカ。シンジは懐かしさに溜め息を漏らす。肉の世話をするふりをして、アスカはシンジから視線を逸らした。

「元気そうで何よりね」
「アスカも。アスカは最近どう?」
「最高にFreiheit」
「フライハイ?」
「Freiheit! じ・ゆ・う」

自由にはいろんな種類がある。アスカが選んだ自由は、決定的な答えを見つけない自由だった。

「そっか」
「あんたはどう?」
「こっちは……普通だよ」

だからシンジの赤い顔も見ない。焼いた肉をハサミで切りながら、ゆっくりじわじわ殺した自分自身のようだと感じた。

「私気づいたことがあるのよ」
「な、なに?」

上擦ったシンジの声に瞬きをひとつ。何度もシミュレーションをして言い続けたセリフを舌の上に乗せる。

「私は自由なの」

自分に言い聞かせるようにつぶやいた。滑り出した舌は、心に決めていた言葉もちゃんと着地させようとする。

「一度しか言わないわよ、おめでとう」
「えっ!? どこまで知ってるの、アスカ」

アンタの気持ちなんて関係ない。
私が好きなら好きでいればいいし、嫌いなら嫌いになればいいの。
そのどちらでなくたっていいの。
私は自由なんだから。


×××


そう。惣流・アスカ・ラングレー、アンタは自由なの。
でも、ちょっぴり弱かったのかもしれない。

「いい男なんて腐るほどいるわよ」

──最初は“選ばれなかった”ことが、あの男に負けてしまったことが嫌なんだと思った。

おしぼりに付いたマスカラを眺めながら、今更な自己分析をするのは酔いのせいだろうか。
目の前のヒカリはスマホで時間を気にしている。所詮他人事なんだから仕方がない。

「なら、新しい出会いがきっとあるから」
「そういうことじゃない」
「アスカ」
「私は結局、自分が一番可愛かったの。でも誰だってそうでしょ」

ヒカリはアスカの手をとって、その艶やかなオレンジのネイルを撫でた。店内では寒い恋愛ドラマが流れ、茶碗の米は固くなり、いつまでも焼かれない肉はくたびれた顔をしている。

「新しい恋をするとすぐに忘れられるってよ」

甘やかすように親友へと囁いた。もう長く苦しみすぎて見ていられないのが本心だ。けれどヒカリは知らなかった。

「違う、忘れたくないの」

アスカの心の拠り所について。


×××


──オーケー、アスカ。一時的な感傷よ。

たまに世界が壊れちゃえばいいのにと思う。いつか観た深夜のロボットアニメのように。
アスカはお気に入りのパペット人形を抱いて、越してきたばかりの第三新東京市の高台から、高層ビル群を眺めていた。

どんなに完璧になろうと努力しても手に入らないものがある。それなのに必死に生きあがいて、最終的にはこの辺鄙な日本の都市へとたどり着いた。

心は不思議だ。自分が最強だと思うときもあれば、情けなくて恥ずかしくてどうしようもなくて、仄暗い欲求が込み上げるときもある。自殺願望の出来損ないのような痛々しい妄想。それを諦め俯瞰する自分すら気持ち悪い。感情が喉を締め上げるから、新鮮な空気が吸いたかった。

──世界も私も、所詮つまらないものなんだから。

タンクトップが夜風に晒され、肩が冷たい。

──私なんでここにいるんだっけ。

地面が崩れ落ちる感覚に襲われて、目眩がする。
そんな内省の邪魔をして現実へと呼び覚ます何か。ゼエ、ハア、とたどたどしく荒い吐息が鼓膜をノックした。

「やっと、見つけた」

同居人の碇シンジだ。一ヵ月前に出会ったばかりの、奉仕が得意の、平凡な男子中学生。額の汗を拭ってからこちらへ向ける視線は、怒りの色ではなかった。

「何よ、アンタもしかして私を探してたの?」

アスカは半笑いでざわつく胸をとっさに隠した。

「ミサトさんは出張だし、ごはんは冷めるし」

さてはコイツ、ちゃんと同居人に食わせないと怒られるとでも思ったのか。一歩一歩近づいてくるシンジにアスカは首を傾げて品定めする──していた。

「心配しただろ」

正面に立ち止まったシンジは物怖じしていなかった。

「委員長のところにもいないし。みんなに手分けして探してもらったんだ」
「大袈裟ね、何でもないのに」

自分の声が震えていることにアスカは驚く。シンジはアスカへ手を差し出した。

「帰ろう」

お仕着せがましくない素直な声に、身体が火照る。どうして自分がずっと欲しかった言葉を、ママじゃなくこのちんちくりんな男の子がくれるのか、わからない。

──私、ずっと、誰かに迎えに来てほしかった……?

頬が濡れていることに気づいて、焦ってパペットで顔を隠す。突然の涙に動揺し、シンジが「ちょっと待ってて」と、近くのコンビニでボックスティッシュを買ってくる。吹き出すと、余計に理性の堤防は決壊して、声を出して泣いてしまった。

「模擬テストで2位だったのが悔しかっただけよ」

とってつけた誤魔化しは通じるだろうか。

「日本語がわかりづらくて」

隣のティッシュ係は特に疑うこともなく、

「僕はアスカはすごいと思うけど」

一生懸命拙いながらに励まそうとしてくれる。

「運動もできるし……性格も良かったらもっといいけど」
「うるさいわね! なんで来たのよ!」
「僕がアスカを心配したり探すのは自由だろ」

コイツはこういうときに「自由」を使うのかと思った。
フン、と鼻を鳴らす。アスカはそれ以上続けなかった。

「誰にも言わないで」
「言わないよ」

そして、ふたりだけの秘密を持つことにするのだ。シンジは大切そうにパペットを抱えて、次のティッシュを渡してくれた。


×××


私がいないことに気づいて心配してくれた。
そんな人間がひとりでもいるだけで、世界が変わった。
だから、そんな甘い錯覚をくれたアイツには、私を選んでほしかった。

でもそれ以上に、幸せになってほしいと願ってしまった。

「私ね、ふたりを応援しているフリしてたけど、優越感があったの」

オレンジのネイルをテーブルに立てて、アスカは小さく白状する。

「私は女だから。私が本当の相手だって、錯覚してた」
「錯覚だなんて」
「だから同性婚が可決された日は全然嬉しくなかった」

本音をまとった声色がやけに強く店内に響いた。けれどすぐにそれは喧騒に溶けて消えた。

「だってそしたら勝ち目なんて……そもそもそんなのあったのかしらね」

ヒカリは思った。アスカが想うシンジなら何と言うのだろうと。

「ね? 最低でしょ」
「ねえ、アスカ」

彼ではない、だから力が及ばないかもしれないけれど、

「アスカは最低なんかじゃないよ」

心の底から、今、伝えたい。そう思った。

「アスカは自分の気持ちと同じくらい碇くんの気持ちも大事にしたのよ。どっちも大事なの。そんなアスカだから、みんな好きになるの」


バサッ──
ウッと嗚咽を噛み締めるアスカの頭上に花束が降ってくる。というより殴りかかってきた。

「イッタァ!」
「君の気まぐれで僕らは待機したあげく、終電ギリギリの電車を乗り継いできたんだ」

地獄の窯から響くような天敵の声がする。慌てて顔を上げて振り返ると、カヲルとシンジ、それにレイがいた。レイとは大学が離れてしまったので夏ぶりの再会だった。壁に掛かっている時計の針はちょうど頂点を差している。

「シンジ君の考えたサプライズが台無しだよ」
「アスカ大丈夫?!」

メイクがゾンビと化したアスカを心配して、シンジはおしぼりを追加注文する。

「ごめんね。どうにかこの状況を回避したかったんだけど」

ヒカリはせめてもの慰めにアスカの前髪を手櫛で直す。
一方、険しい顔のカヲルはこれ見よがしに嘲笑した。

「歳をとるくらいで取り乱して、見かけより繊細なんだね」
「アンタこそ性根が腐ってるわね」

レイはアスカの髪の毛に絡まった花びらをやさしく取ってやる。シンジは熱いおしぼりを冷ましてから、アスカの目元を拭ってやった。

「いいの? こんなとこにいて。明日は長年の夢が叶う日でしょ」
「それもそうだけど、アスカも大事だから」
「痩せ我慢するね君は」

カヲルは微かに眉を下げて同情を滲ませた。けれどそれは彼女への侮辱になるかもしれない。すぐさま憐憫を振り払い、片眉を上げてほくそ笑む。

「もっと盛大に祝いなさいってふっかけてくるかと思ったけれど、君を過大評価していたかな」

挑戦的な響きだった。アスカはカヲルを睨みつける。カヲルは受けて立つと目を細めた。そのつながった視線には、奇妙な連帯感があった。

「はー、もうどうでもよくなってきた」

みんなに囲まれ甲斐甲斐しく励まされて、不本意ではあるが、アスカはゾンビから蘇生することにした。強張っていた切なさまで、脱力していく。

「財布は持ってきたんでしょうね」
「碇くんが持ってる」
「綾波、簡単に僕を売らないでよ」

フフッと楽しそうに笑うレイ。シンジは思い出したように改めて花束を持ち上げた。

「アスカ、誕生日おめでとう」
「君がまたひとつ若さを失ってめでたいよ」

祝福と悪態はセットなのだろうか。ニコニコとシンジの横から毒づいてくるカヲル。
この男、絶好調らしい。私はやられっぱなしなんて柄じゃない。高性能の脳みそが閃いて、アスカはひけらかすように、両手を広げた。

「それにしても偶然ね。この店、前にシンジとふたりで食べにきた店よね」
「今、それ言う!?」

シンジの慌てようを見ると、フィアンセの地雷をしっかり踏めたらしい。
カヲルの目尻が引くつくのを見つけて、アスカは満足げに、ニヤリと笑った。


×××


「ハァ……特上カルビ10皿は流石に引いたよ」

結局、始発の電車で帰ることになった。朝焼けを浴びて、カヲルはシンジを労わるように腰に白い手を添える。

「搾り取られたね。節約しなきゃ」
「ハネムーンでは彼女のお土産だけなしにしようか」

シンジが少しだけカヲルへと寄りかかる。路上にほとんど人通りはなく、鳥のさえずりと走行車の音で街の気配がするのみだ。

「アスカ意外と安い物でも喜ぶんだよね」
「彼女へはその辺の草でも渡せばいいよ」
「カヲル君、アスカには厳しいんだから」

カヲルは密かに思う。この恋人は彼女の事情にどこまで気づいているのだろう。カヲルにはシンジがアスカを“対象外”の兄妹としてしか見ていないと感じるのだ。それは残酷で、でも少しだけ羨ましい。彼女は自分より先に、シンジの家族になれたのだ。

「あのお店が例の事後報告の現場だったんだね」
「物騒な言い方しないでよ……ごめんね」

あの頃のカヲルはシンジがアスカに奪われるのではと不安だった。でもそれを今では懐かしいとさえ感じる。

「そういえばアスカ、変なこと言ってた」
「変なこと?」
「うん、私は自由だからアンタにずっと感謝してあげてもいいわよって。何のことだろう」
「さあね、でも気持ちはわかるよ」

カヲルとアスカはひとつだけ、共有しているものがある。

「君は僕の胸に愛をくれたひとだから」

愛の関係はパートナーだけではない。
たとえ想いが報われなくとも、胸に愛が育まれた事実は揺るがない。

カヲルはジャケットの胸ポケットから、一輪の花を取り出す。
早朝の路面に跪き、愛するひとへとそれを捧げた。

「シンジ君、ありがとう」

君は、あなたは、この胸に愛をくれたひと。



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