夜色のマリアージュ


マリアージュ──ふたつ別々の存在が調和してひとつになること。フランスでは見事な食材の融合なども、そう詩的に表現する。


「たぶんこの道を右に行って」
「さっきもそう言ってたじゃない!」

貸しなさいよ、とアスカはシンジのスマホをぶん取って、マップを睨んだ。ここ第3新東京市の裏路地は、ひそひそと瀟洒なバーやダイニングがひしめき合う。

おしゃれなのはいいのだが、地図アプリの「目的地はここです」がアバウトすぎるのは困る。ふたりは舗道の角を丁寧に四辺回ってまた同じ場所にたどり着いてしまった。勝手に「お疲れさまでした」と告げるドライな合成音声は、まるで友達のレイの中学時代を思い出す。

レイがナビしていると思うと少し面白いが、シンジは真顔を崩さない。隣のアスカが悪態をついているからだ。彼女だって目的地がわからないくせに「バカシンジ」と小突いてくる。まあ、機嫌が悪くなるといつもこうだ。同居歴ももうすぐ6年。シンジは痛くも痒くもない顔で辺りを眺めた。

「あ」

そして、間抜けな声と一緒に指差す、小さな看板。

「目の前じゃないのよ! バカ!」
「見つけたのは僕なんだけど」

大学に入ると酒で歓迎されて、酒でコミュニケーションをとる。けれど、家主・ミサトの数々の悪行を始末してきたシンジはなんとなくアルコールを嫌悪していた。とは言ってももう成人式も済ませたふたり。カラオケが満室で、夜の都会でふたりぼっちで、ノリでここまでやってきた。さっきまでレイも一緒だったけれど、彼女はやたら早寝だからか「私は行かない」と妙に頑なになって帰ってしまった。

筆記体のアルファベットが眩しいネオン。地下へ続く狭いレンガ造りの階段。すれ違った二人組は最先端の流行ファッションで、露出が高め。ジャジーに燻されたようなエントランスは大人な雰囲気だ。テニスサークル風のポロシャツとAラインのワンピースには少々背伸びに見える。ヒール高いのにしてくればよかった、と内心もやるアスカだが、こういう時は怖気づくシンジを引っ張る役目。揚々と前へと進む。

「いらっしゃいませ……シンジ君?!」

シャビーシックなカウンターから見慣れた銀髪が覗く。目を丸くさせて、親友のカヲルがシンジを凝視している。首を伸ばして無理やりこちらを向いている状態だ。ちなみにシンジはアスカの後ろで、まだ一歩も店内へ踏み出していない。

「ハァ?! なんであんたがここにいんのよ!」
「シンジ君、どうしてここへ?」
「よく僕だってわかったね」
「もちろんわかるよ」
「あんたはシンジ探知機だからね」

カヲルはバーテンダーの衣装に身を包んでいた。白シャツに黒いベストと細めの黒ネクタイ。瞳の色と同じカフスが胸元でルビーの輝きを放つ。背後に羅列されたボトルがすべて彼の引き立て役に徹してしまうくらいには、とてもとても格好良い。

「綾波からいいお店があるって聞いて。帰っちゃったけど」
「謀られたわ」

アスカは天敵に対面した捕食動物の顔になる。その一歩後ろでは、シンジが頬を赤らめ、なんとも言えない顔でカヲルから目を逸らした。

「お酒、よく飲むのかい?」
「ううん。こういうとこははじめて」
「よかった。綾波さんにお礼をしなければ。今度ハムの詰め合わせを送ろう」
「レイは肉がダメなのよ」
「知ってるよ。着払いでね」
「ただの嫌がらせじゃない!」

ちょうどカウンターの真ん中の席が空いていたので、ふたりは着席する。さっきの客の温もりがまだ座席に残っていた。入念にシンジの前のテーブルを拭いて、カヲルはキラキラした笑顔で会釈する。

「会えて嬉しいよ、シンジ君」

シンジしか見えていないんじゃないかって態度だが、こちらも慣れっこなのでアスカは何とも思わない。さっそくレイに呪いの言葉でも送ってやろうとスマホを取り出す。

「カヲル君、バーテンダーやってたんだね」
「あんた知らなかったの?」
「アスカ知ってたの?」
「マリがね。どっかの誰かさんのせいでゆっくり酒が飲めないって。この店とはね」
「確かにこれから混むからちょうど良かったよ」

僕だけ知らなかったんじゃないか──シンジはムスッとした。

「おやおや、ご機嫌ナナメなのかい?」
「別に」

シンジはカヲルの視線を避け、不機嫌そうに天井を見る。シーリングファンの下にはアンティークの照明がほのかに明るい。内装は大人の夜のひとときにぴったりの雰囲気だ。見渡す客層は酸いも甘いも知ったクチ。目の前にカヲルがいなかったら既に逃げ出していたかもしれない。ところでメニューはどこなんだろう?

メニュー表を探していると、隣の席の綺麗なお姉さんがカヲルに「仲良しなんですね」と含みある顔で話しかけた。カヲルは曖昧なうまい返しをしながら追加の注文を聞く。ああ、ちゃんと仕事をしている。カヲル君は立派だな、とシンジは心の中で感動した。

というのも、保護者のミサトが妙に親バカで、バイト先をシンジは選ばせてもらえない。知人の子供の家庭教師はさせてもらえても、こういうところで働こうとするものなら「大学生は学業に励みなさい!」と一喝されるのだ。

薄暗い小さな店内には指の数ほどのカウンター席と、いくらかのテーブル席。寂しげな気怠いジャズピアノがオルタードテンションを重ねていく。誰もがカヲルへ話しかけくてうずうずと狙いを定めていた。その視線へカヲルは近寄りがたいオーラを発し、牽制している。なので、シンジが来たとたん笑顔を輝かせる彼に周囲はざわついていたのだが、当のシンジはまるで気づかない。

「ねえ、シンジ。何にする?」
「うーん最初は度数がいちばん低いのがいいかな」
「あんたは相変わらず石橋を叩きまくってから車で渡るわね」

シャカシャカと聞き慣れないリズムで、スタイリッシュな洗濯機のような音がする。見上げれば、カヲルがシェイカーを振っていた。シャツをまくった腕の引き締まった筋肉が眩しい。砂時計の形をした器を傾け液体を注げば、三角錐のグラスの中にカクテルが完成する。まるでミニチュアの南の海のよう。青い光がほんのり彼の白い肌に反射していて艶めかしい。つい惚れ惚れしていると、チラッと赤い瞳とぶつかる。心臓が飛び上がり、シンジは石橋を叩く前にバンジージャンプしてしまった。

親友に見惚れているなんてバカみたいだ。アスカに話しかけて気を紛らわそうとすると、その前に彼女はスクリュードライバーを注文した。はじめてじゃない感じがした。

「そうよ。マリとたまに飲むの。って言っても最近だけどね」

アスカもカヲルも既にミサトと同じ星の住人だと判明した。もしかしたらレイだって今頃宅飲みをしているのかもしれない。シンジはもう誰も信じられない。疎外感がすごい。異星人の気持ちを味わっていたら、オレンジ色のグラスの横に、赤く華やかなグラスが並んだ。

「君にはスプモーニを。とても飲みやすいんだ」

レシピはカンパリとグレープフルーツジュース、そしてトニックウォーター。見た目はブラッドオレンジジュースみたいだ。シンジは口をつける前に、律儀にいただきますと言った。ひと口含んでみてもまだ、ブラッドオレンジジュースみたい。

「美味しい。ジュースみたい」
「だろう? 爽やかで軽いんだ」
「詳しいわね」
「仕事だからね」

アスカに散々「酒弱そう」とからかわれてきたからそうだと思い込んでいたけれど、これならいくらでも飲めそうだ。シンジの心は明るくなる。なんだか総合的に強くなった気がした。

「味見したい。貸しなさいよ」
「おっと危ない」

間接キスを阻止するカヲル。

「お客さま、飲みたいものがあれば僕にどうぞ」
「そうだよ。あんまりちゃんぽんするとミサトさんみたいになるぞ」
「なーによ調子に乗っちゃって」

そしてスクリュードライバーとスプモーニがカチリと遅めの乾杯。ちらちらと互いの顔を見合わせて飲むお酒は新しい遊びみたい。大人の遊びだ。もしかしたら数年後、この瞬間を懐かしい青春として思い出すのかもしれない。シンジがそう半ばうっとりしていると、カヲルがシャカシャカ緑色のカクテルを作り出す。

「僕と飲もうよ、シンジ君」
「カヲル君は仕事中でしょ」
「つれないね。飲むのも仕事さ」
「やっぱり呑んべえになってるんじゃないか」

僕に内緒で。そう言う代わりに、乾杯したいエメラルドオーシャンをかわして、オレンジ髪と仲良くおしゃべり。まるで見せつけるように。

「彼女は酔うとタチが悪いから僕に乗り換えるなら今のうちだよ」
「一緒に飲んだことあるの?」
「まさか」「まさか」
「彼女と飲むくらいならそのお金をドブに捨てて時間を節約した方がマシさ」
「一応客なのよね私」

呆れて突っ込むアスカだが、目の前のバーテンは軽口を言い返せないほど、ツンツンしている隣のツレにご執心らしい。

「はあ、シンジ君が冷たいと僕は寂しくて死んでしまいそうだよ」
「ウサギじゃないんだから」
「少し似ているだろう?」

カウンター越しに顔を寄せてくるカヲル。きゅるんとした切なげな赤い瞳は光を集めて揺れていた。僕を見て、というように。けれど、すんでのところでウサギの罠をかわし、シンジはアスカとの会話に戻る。

何故だろう。カヲルのちょっとしたことがイライラに火をつける。自分を猫可愛がりする態度とか、誰にも興味がないそぶりでもたくさんモテてしまう状況も。何より、最近はカヲルの前では平常心でいられない。感情のメーターが振り切れてしまう。そんな自分が嫌になってばかりだ。イライラはやがてセンチメンタルへと変化する。真夜中に彼のことしか考えられなくなってしまうのだ。

視線をカウンターの先に向けると、ふてくされた顔で頬杖をついたカヲルが、シンジだけを見つめていた。額に入れて飾りたい視界に気をとられていると、アスカが不意にシンジの財布を取り上げた。

「クラブにいきたいんだけど」
「はい?」
「身分証持ってないの? ないと通れないわよ」
「勝手にあさるなよ」
「あった♥」

コトン、とテーブルにグラスが置かれる。

「ロングアイランドアイスティーでもどうぞ」
「何よ急に。酔わせるつもり?」
「へえ、そんなに弱いのかい?」

カヲルは不敵な笑みを浮かべて、同じ見た目のグラスをゴクゴク飲み干した。挑発を受けてアスカがグラスをひっつかむ。

「アイスティーなのに酔うの?」
「紅茶を使わずにアイスティーを再現したカクテルさ」
「へえ」
「シンジ君もどうぞ」

目の前に置かれたのはふたりと同じ、半月のレモンで飾られた、茶色い液体と氷のグラス。ウォッカベースに、ジン、ラム、テキーラなどをミックスしたもの。そのアルコール度数は25程度。
試しにほんのちょっと口に含むシンジ。舌の上で何度転がしてみても、

「ほんとにアイスティーみたい」

不思議なくらいアイスティーの味がする。

「って騙して女を酔わせるやり口なのよ」
「僕はそんなことはしないけれどね。でもシンジ君、クラブなんて卑猥なものにあふれた魔窟に、君がみすみす連れていかれるのは放っておけないよ」
「行ったことあるの?」
「ん?」
「カヲル君はクラブに行ったことあるの?」

赤い瞳がすうっと泳ぐ。黙り込んで人差し指を唇に当てるカヲル。その仕草は困った時に使うとシンジは知っている。カランと氷がグラスを鳴らす。心臓が冷たくなるのを感じた。

「……へえ。行ったんだ」

シンジの知らないところで、カヲルは卑猥なものにあふれた魔窟にいたらしい。誰と? 何をしに?
あの耽美で爽やかな渚カヲルが隠れて都会に染まっていたとは、非常に解釈違いである。

「なら僕も行ってみよっかな」
「やった♥」
「……仕方ないな。それなら僕といこう」
「カヲル君は仕事でしょ」
「そうよ、あんたが行っても逆ナンに群がられて踊るどころじゃないでしょうよ」
「ふ〜ん」

脳内で膨らむイメージは胸焼けするものばかり。胸焼けはすぐにチクチクした痛みとなる。

「シンジ君の想像していることは何もないよ」
「のわりに隠しちゃって〜! 後ろめたいことがあるんじゃないのォ?」
「君には関係ないだろう」
「なら僕たちがどこに行ってもカヲル君には関係ないだろ」

カヲルの表情は固まってしまう。その瞳はみるみると切ない色に変わってゆく。見つめ合うカヲルとシンジ──それは一瞬の出来事だった。客が新しいカクテルを注文し、カヲルは言葉を飲み込んで、酒瓶に手を伸ばす。

──まるで、僕がカヲル君に悪いことしたみたいじゃないか。

すっかりしょげて健気に仕事に励むカヲル。シンジはいたたまれなさで席を離れられない。というより、勢いで行くと言ったが全然クラブに行きたくない。バーを出た後、酔ったのを言い訳に家に帰ろう。そう思って隣のアスカへ振り向くと、アスカの目が座っていた。

「アスカ酔ってない?!」
「はァ? 酔ってないわよ。あんたは?」
「僕は全然」
「何よ、半分しか飲んでないじゃない」
「アスカも変わらないだろ」
「ふ〜ん、生意気」

アスカの顔は真っ赤になっていた。

「あんた本当に酔ってないのォ? 強いのかしら」
「強いのかな?」

ミサトからビールをひと口もらったことしかないからわからない。シンジの余裕な顔が癪に障ったのか、アスカはグラスの残りを一気に飲み干して、

「テキーラ対決するわよ」

何故か勝負を持ちかけてきた。

「もうやめなよ。顔真っ赤だよ」

座っているのにふらつくアスカを心配してシンジが背中を支える。アスカは近づいたシンジの頬をつまんでニヤッと笑った。近すぎるふたりの顔。傍目からはカップルに見えるだろう。カヲルが耐えかねて目を伏せたことに、シンジはちっとも気づかない。

「誰が一番強いかしら……フフ、なに弱気になってんのよ」
「違うよ、アスカがミサトさんみたいになってるから」
「負けたらおごり、いいわね?」
「アスカ!」
「私はこのすまし顔のいけ好かないバーテンに言ってんのよォ」

一見涼しそうなバーテンの顔を人差し指がロックオンして挑発する。カヲルは洗ったグラスを磨きながら、ちらりとも視線を向けずにつぶやいた。

「……最初から結果の見えてる勝負に挑む趣味はないよ」
「ならシンジと次の店行くわ」

「姫、来たよ」

ウィンドチャイムを鳴らし、慣れた調子でやってきたマリ。アスカの親友だ。カヲルは降り続く災難に耐えかねて天を仰ぐ。

「……はあ。いらっしゃいませ」
「わかりやすいリアクションだな君は」

マリはアスカから話を聞いて、急いでやってきたらしい。そういえばさっきスマホをいじっていたっけ。

「ワンコくんも今日は飲み明かそうよ。実は私、ここの常連でさ」

けれど、マリは着席することもできなかった。マリが言い終わる前に、アスカがよれよれと立ち上がり、

「気持ち悪い」

死にそうな顔でマリに寄りかかるのだ。シンジもカウンターから立ち上がって介抱しようとしたら、マリが「大丈夫」と手のひらで制止した。

「私が姫をどうにかするから、ワンコくんはあっちをよろしく」

細い顎がクイッと示す方向では、生気を失くしたバーテンが黙々とグラスを磨いていた。


★ ★ ★


アスカたちが退場すると、ますます気まずくなってしまった。シンジは五感をヒリヒリさせながら手元のグラスを覗き込む。アイスティーにそっくりな酒はもうほとんど氷水になっていた。

「僕、お酒強いのかな」

この状況でたったひとつの朗報──碇シンジは酒豪だった。そんな自分でも予想外の展開にうっすらほくそ笑んでいると、

「ノンアルコールだからね」
「え!」

更に予想外の展開になった。

「でも、僕が飲んでたのって」
「ブラッドオレンジジュースとアイスティーだよ」
「ただのソフトドリンクじゃないか!」

とんでもないバーテンだ。なんだこの茶番、とシンジが立ち上がろうとしたら、カヲルが慌ててカウンター上のシンジの手に、自分のを重ねた。

「君をこんなところで酔わせられないよ、どんなオオカミに襲われてしまうか」

カヲルはたまに現代の王子様になってシンジの前に現れる。その砂糖塗れのセリフはバーテンの衣装に身を包んだ姿では、似合いすぎた。夢のようだ。

するとまた、空気を読まずに登場人物がひとり増える。

「おはよう」

夜なのにおはようと言った無精髭の男は、ミサトの彼氏・加持リョウジだ。

「マスター、おはよう」

しかもこの店のマスターだという。

──加持さんってバーテンダーだったんだ……

「アスカが店の前で吐いてたぞ、何杯飲ませたんだ」
「さあ、彼女が勝手に飲んでいたので」

実は、アスカだけが強めのカクテルを飲んでいた。そう表情も変えずにさらっと白状するカヲルに、シンジは糾弾しようとするが、

「ね、夜の街にはこんな罠がたくさんあるんだ。僕と一緒じゃなければお酒を飲んではいけないよ」

逆に教訓をのたまわれた。あまりの罪悪感のなさに気力が削がれてしまう。それから、カヲルは重ねた手をそのままに、シンジへ顔を近づけ耳元で囁いた。

「ふたりきりの時に、君だけのとっておきのカクテルを作ってあげる」

シンジは王子様の破壊力に息をのんだ。今日の王子様は夜色をまとっていて、なんて色気なんだろう。

名残惜しそうにゆっくりと顔を離すカヲル。シンジの気持ちを確かめるように、丸い頬を指先でそっと撫でる。瞳に星屑を浮かべながら、ちらちらと睫毛を揺らす。


★ ★ ★


加持の計らいで、カヲルは早めに退勤した。シンジと一緒に終電前に帰れるように。ふたりが店を出る頃には、アスカとマリもいなくなっていた。スマホには『タクって姫をうちに泊める』とメッセージが届いていた。

「ふふ、シンジ君に酔ってしまったよ」
「ノンアルコールだったでしょ」
「君は罪な人だね」

カヲルはよろけるフリをしてシンジの肩に肩を寄せる。真夜中に近いといってもまだ人通りはあった。でも、なぜだろう。距離をとることがシンジにはできなかった。肩を密着させても避けないシンジが予想外で、カヲルは耳をピンクに染める。カヲルのほうを見ないシンジは、カヲルが照れているのにも気づかない。

シンジを待たせたくなくて、カヲルはバーテンダーの格好のまま帰路についた。彼の絶世の美男子っぷりには死ぬまで慣れることはないだろう。つまり、格好良すぎて、シンジはまともに見られないのだ。

「シンジ君」
「ん」
「今日はご機嫌ナナメだったね」
「……うん」
「わけを聞かせてくれるかい?」

一層うつむいてもじもじするシンジ。そんな見た目で、そんな甘い声で、卑怯だ。シンジの無言の抵抗も、

「言っておくれよ」

そんな風に駄々をこねられてしまったら、なすすべもない。シンジはゆっくり唇を開く。

「今日は知らないカヲル君ばっかりで、寂しかった、かも」

王子様につられて甘えた言い方になってしまった。恥ずかしくて死んでしまいそうなシンジとは対称的に、カヲルは嬉しくてうっとりとほほ笑んでいる。

「それは……嬉しいな」

噛み締めるようにつぶやくカヲルに、シンジは正気を取り戻し眉をつり上げた。

「どうしてバイトのこともクラブのことも言ってくれなかったの? 最近ずっと一緒に遊べなかったのは、これが原因?」
「ああ、バイトがあったんだ」
「それならそう言ってよ」
「ごめんよ……明後日まで内緒にしようと思っていたんだけれど」

カヲルは肩掛けにしていたリュックを抱えて、中をあさった。

「もうすぐ君の誕生日だろう。その時に渡そうと思ったんだ」

そしてシンジの手を引き寄せて、握っているものを大事そうに手のひらへ乗せた。
それは、鍵だった。

「ちょうど今日、もらってきたんだ。僕たちの家の鍵だよ」
「いえ?」
「シェアハウスしよう」

思考が追いつかない。

「待ってよ! 勝手に決めないでちゃんと相談してよ!」
「強引に進めないと、君は決めきれないだろう?」

もう何度もカヲルから、ふたりでシェアハウスしようと誘われていた。中学時代に約束したのだ。独り暮らしできる年齢になったら一緒に暮らそうと。その時のシンジは嬉しさに舞い上がって、ふたつ返事でOKした。

けれど、約束の時が過ぎてもシンジはなかなか家を出ようとしないので、カヲルは心配でたまらなかった。もう大学生、大人だ。なのに異性ふたりとずっと一つ屋根の下で暮らしている。アスカもミサトも一般的価値では美しく魅力的な女性。自分が遠くにいるシンジを想いながら夜中をやり過ごすのに、彼女たちはドア一枚開けるだけで簡単にシンジを誘惑できてしまう。そのことでカヲルは神経をすり減らした。

というのも、ふたりはまだ親友なのだ。数えきれないほどのカヲルの愛の告白をシンジは冗談だとはぐらかし、早5年。

「君があのマンションを出ても、彼女たちとの絆がなくなるわけじゃない」
「でも、ふたりとも家事が苦手だし」
「それは彼女たちの問題だろう? 君が責任を負う必要はない」

それはそうなんだけど。シンジは思う。
父さんから先生へ、先生からミサトさんへ。保護者も環境も変わっていった。だから環境が変わることには慣れていたのに、今、後ろ髪を引かれてしまう自分がいる。自分にとって環境の変化はいつも身に降りかかる災難だった。自分で選んだことはなかった。

──この後ろめたさの正体はなんだろう。

「僕に彼女ができたら嫌かい?」
「え?」

脈絡もないトンデモ発言。キョトンとするシンジに、カヲルはもどかしそうに訴えかける。

「例えば、バーの常連さんとクラブに行ったら?」

胸焼けとチクチクした痛みが再来する。シンジは喉がキュッとなって声が出ない。

「大学の誰かとふたりきりで朝まで一緒にいたら?」
「い、嫌だよ、そんなの。だって……」

だって──そこから先の、嫌な気持ちを正当化する理由を、今のシンジは持ち合わせていない。シンジとカヲルは親友で、付き合ってはいないのだから。


解を得たくない方程式ほど、シンプルだった。
だから、答えを知っているのに、知らないふりを続けている。


シンジは表現できない息苦しさに襲われる。つい、ずっと引っかかっていたあの疑問をこぼしてしまう。

「カヲル君は、何をしにクラブに行ったの?」

急な方向転換に赤い瞳が動揺する。探るようにシンジを見つめる。

「バイトはシェアハウスの資金集めだってわかるけどさ」

シンジはカヲルをまっすぐに見つめ返した。

「カヲル君らしくないよ。行きたくて行ったんじゃないでしょ」

テニスサークル風のポロシャツと王子様風に着こなされたスーツのベスト。ちらつくネオン、伸びる影は闇に溶け、瞼を下ろし街は眠る。最終電車は今、レールの音を響かせて、ホームを去った。


★ ★ ★


「シンジ君を僕にください」

夜のファミレスで、ミサトは腕組みをし頭をひねった。大事な話があるとカヲルに呼び出されて仕事の後で寄ってみれば、ミラノ風ドリアを頼んだとたん、これである。

「そういう話はシンちゃんと一緒に来るべきじゃない?」
「まだシンジ君には返事をもらえていないので」

ミサトは更にうーんと唸る。カヲルは独特なセンスの持ち主だと思っていたが、一般人的思考の自分にはわかりかねる状況だ。

「僕たちは想い合っているんです。けれど、それを認めることはシンジ君にとって時間がかかるようなので、僕は提案したいと思っています」
「提案?」
「はい。一緒に暮らしてみようと」
「既成事実をつくるってことかしら?」

こまっしゃくれたガキめ、とミサトが鋭い視線を投げると、カヲルはほんのり耳を赤らめた。

「邪推はやめてください。シンジ君に気持ちを見極めてもらうためですよ。離れがたいと感じたら、自然と理解できるでしょう?」

シンジのことになると、カヲルはたまにこういう照れ方をする。シンジに聞かれたくないというように。大切に育てたシンジは、いつの間にか目の前の無敵のイケメンを骨抜きにしていた。それは喜ばしいような、寂しいような、奇妙な心地だ。

「なるほどね。でもね渚君、同棲にはお金がいるでしょう? その為にバイト三昧で学業が疎かになるのはちょっとね」

カヲルが反論しようとすると、タイミングよくミラノ風ドリアが到着する。ミサトは迷わず熱々のチーズにスプーンをぶっ刺した。一方、カヲルはホットコーヒーに一口も口をつけていない。そして、保護者のミサトの印象を悪くしないようにと思っているのか、むずむずとミサトが食べ終わるのを待っている。なかなか面白いなとミサトは思った。

──ちょっと試してみようかしら。

悪い笑みを浮かべそうになって、咳払いする。

「確かに渚君は好青年よ。でもね、私にとってシンちゃんは息子同然なの。だから、本当にうちのシンちゃんと暮らすにふさわしいか見極めたいわ」
「見極めるとは」
「君がちゃんと大人の社会に対応できるか、ね」

そして、ドリアを平らげたミサトに連れられ、カヲルは夜の街へと消えた。


★ ★ ★


「それでクラブに連れて行かれたの?」
「そうなんだ、僕の働きがあって商談が成立したと喜んでいたよ。僕は座っていただけなんだけどね」

話が長くなるからと、舗道のガードパイプにもたれて話を聞いていたシンジだが、とんでもない内容に思わず口を挟んでしまった。あきれた、と盛大な溜め息をつく。

「カヲル君、それ、ミサトさんに利用されたんだよ」
「クラブのことは赤木さんにも怒られていたよ。仕事のことになると倫理を喪失するとね」
「あはは、確かに」

赤木リツコはミサトの同僚兼親友で、ふたりとも面識のある人物だ。シンジはリツコに説教されているミサトが目に浮かんでクスクス笑った。

「そのあとクラブの件のお返しにってあのお店を紹介してくれたんだ。シンジ君との時間は減ってしまったけれど、割が良くて、早く君と暮らしたい僕にはちょうど良かったのさ」

君と暮らしたい──そのシンプルな響きにシンジはほとほと困り果ててしまった。

「カヲル君」
「なんだい?」

シンジが急に黙ってしまうので、カヲルは察した。シンジが口を開く前に、ガードパイプに添えてある手を握る。鍵を受け取ったままの手を。

──カヲル君は僕と一緒に暮らしたら、きっと僕に幻滅するよ。

シンジはそう言おうとした。それなのに、

「シンジ君、どうか自分を過小評価しないでほしい」

心を読んだようなカヲルの言葉に遮られてしまった。


★ ★ ★


お礼にと斡旋された仕事がまさかバーテンダーだったとは。ミサトは彼氏の店の人材不足を解消したいだけなのではないか。そう思いながらも、すっかり夜のバーの空気にあてられてしまったカヲル。

仕事の見学の帰り道。早じまいしたバーを後ろに、夜道を歩くカヲルと加持。カヲルは都会の薄い星空を見上げていた。

「どうしたら伝わるんでしょうか」

そして、酔っぱらったように苦しい片想いを吐露してしまう。隣を並んで歩いている加持はポリポリと無精髭の顎を掻いた。

「あなたにこんなことを言うなんて、僕も焼きが回ったようだ」
「ソフトドリンクで酔うとはね」
「僕が酔っているのはシンジ君にですよ」

加持はバーテンダーだ。客の話を聞くスキルに長けている。そこでカヲルが気持ちよくなるようにシンジの話ばかりしていたら、いつの間にか、カヲルはシンジに酔っぱらったらしい。

「こんなに好きなのに、想いを伝えているのに、どうして伝わらないんでしょうか」

甘酸っぱいねえ、と加持は内心溜め息をつく。

「君は冗談のように完璧に見えるから、彼は信じられないのかもしれないな」
「何を?」
「まあ強いて言うなら、自分の身に起きた幸運をさ」

カヲルは理解できなくて顔をしかめた。加持は車のキーホルダーを指に絡めクルッと回す。真夜中の路地に軽い金属音と足音だけが響いていた。

「シンジ君は自分の幸運を信じられないということですか?」
「というより幸運が続くことを、だな。幸せに憶病なんだ」
「つまり?」
「自分を過小評価しているのさ」

大人の余裕の笑みを浮かべ、目を細める加持。声のトーンを落としてカヲルへと囁いた。


★ ★ ★


ガードパイプに寄りかかるのをやめ、カヲルはシンジに向き直った。

「シンジ君、僕が好きかい?」

ぱっと顔を火照らすシンジへお構いなしに、

「好きだろう?」

カヲルはぐいっと距離を詰めた。前のめりで迫るその表情は焦燥し、声色は怒っているようにも聞こえた。同じくらい、切なさで張り詰めているようにも。

「僕は好きだよ、君が」
「いつもそう言うけど」
「好きなんだよ、シンジ君」

鍵を持つシンジの手を掴み、

「好きなんだ」

その手に頬をすり寄せて、愛おしそうに唇を寄せる。都会の夜に隠れた親愛のキス。赤い瞳は情熱に燃えて、官能を孕む。けれどふと、その表情は縋るように歪んでしまう。

「だから、君が女の子と一緒に住んでいるのは嫌だ。君が……僕ではない誰かに目移りしてしまいそうで、怖いんだ」

弱り果てたカヲルは、大人びていて美しかった。おねだりをするように瞳が揺れて、誘うように長い睫毛が瞬いている。

──カヲル君は、わけがわからないや。

こんな素敵なひとに好かれて、こんなに想われて。そんなこと、あるはずないのに。でも、

──言わなきゃ、わからないんだね。

本当は、大人になることも、環境が変わることも怖い。カヲルともっと近づいたら、そのスピードが加速してしまいそうで、立ち止まっていた。けれど、カヲルも「怖い」と言う。違う種類の同じ気持ちを。

シンジの中に芽生えたのは、泣く子をあやすような、毛布にくるまったような、あたたかい気持ちだった。
深呼吸して肺に満ちる冷たいくすんだ夜の空気。吐き出すと、薄皮一枚脱皮して、明日分だけほんのり大人になれた気がした。

「終電なくなっちゃったね」

シンジは不安そうなカヲルに微笑む。大丈夫だよと言うように。

「だから、僕たちの……新しい家に行ってみない?」

この時、カヲルがどんな顔をしていたのかは、シンジしか知らない。けれど、それを見たシンジは、自分の勇気は間違っていなかったと、心底思った。

「……いいのかい?」
「あんまり遠いと難しいけど」
「ここから歩いて5分くらいだよ」
「ほんと? よかった」
「シンジ君」

掴んだ手をそのままに、もう片方のカヲルの手がシンジの腰を引き寄せる。

「ありがとう」

ギュッと抱き締められて、シンジはクラクラしてしまう。あんまり心臓が飛び跳ねるから、心の中に揺り返しがくる。本当にこれでいいのだろうか。都会の夜にあてられて、少し背伸びしてしまったのかもしれない。全身がドクドク脈打つ。

でも、どんなに戸惑っていても、時間は勝手に流れていく。勝手に大人になっていく。
気持ちが育つのも止められない。

「こちらこそ、ありがとう」

カヲルとシンジ、ふたりの気持ちがマリアージュして、新しい色のカクテルになった。




『あの子を落としたかったら、素直に甘えてみるといい』

今度、マスターには一杯おごらないと。カヲルがそうこっそり思ったのは、内緒。


──乾杯!



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