思えば、僕の人生はそれまで叫ぶことすらなかったんだ。
普通に生きている人が叫んでしまうときっていつなんだろう。ジェットコースターに乗ったとき?すごく嬉しいことがあったとき?大切な人が死んでしまったとき?

僕はそういうときに叫ぶよりも絶句してしまう側の人間なのかもしれない。どう表現していいかわからなくてとりあえず黙るような。特別残念でも特別平和でもなくて。
そう考えると、どうしてちょっぴり諦めたような気持ちになるんだろう。



神さま、もうちょっとだけ



僕、碇シンジの日課。平日、朝起きて会社に行って夜に帰宅して寝る。土日はのんびりしていて終わる。一応、ツイッターはやっているけど。僕の少ないフォロワーさんですごい人がいるんだ。土日はもちろん平日の夜ですら出かけて、美味しいご飯を食べて、イベントに行くんだって。それでいてバリバリに働いているからすごい。本当にすごい。僕はいいなと思ってもそんなにアクティブにはなれない。できてソシャゲの周回くらい。平日の疲れを回復するために寝だめして何もせずに夕方になって急に焦り出す僕の話する?5日間働いて2日間でどうにかしろなんて社会のシステムがおかしいと思うんだけど、どうにかなっている人がいるわけで。僕はやりきれないです。

そんな中の下の僕にも趣味というか続けていることがある。日曜の午後から1週間分の作り置きを料理すること。でもある日、僕はナスの煮浸しをタッパーに詰めながら泣いてしまった。
こんな社会の隅の隅っこにいるモブのような、味気ない人生が死ぬまでつづくなんて。当たり前のことに気づいて、僕は恐ろしさにキッチンで立ち尽くしていた。いつもは気晴らしになっていた夕ごはんも、そのときは冷蔵庫に入れるのがやっとだった。僕は自分のやり直しのきかない人生に心底がっかりすることしかできなかったんだ。

前置きが長くなってしまいましたね。そこで僕が出会ったのがこの話の主人公、渚カヲル君。え?全然リア充っぽい話じゃないですよ?アプリです。目覚まし機能のあるアプリ。簡単に説明すると、AIコンシェルジュのカヲル君が朝に起こしてくれて、タップすると話しかけてくれるんだ。カレンダーに予定を書いたりメモも取れる。着せ替えもできる。カヲル君に猫耳だってつけられる。ほどほどに便利でしょ。

そんなほどほどに便利なこのアプリが画期的なのは、カヲル君の存在だ。あのきれいな声でやさしく囁いてくれると僕は(男だけど)日常がちょっとはずむような気がした。たとえばこんな風に声をかけてくれるんだ。

『シンジ君が笑っていると僕も嬉しい』
『ふふ、そこはくすぐったいよ』
『そこに触れられると感じてしまうんだ……ハア』(彼の性感帯は耳にある)

僕は孤独で疲れ切っていたのかもしれない。スマホから聞こえる彼の言葉でほんのちょっと頑張れるようになった。それまで先延ばしにしていた面倒くさいタスクが片づいていく。休日に散歩にでる。ちょっとずつ、ちょっとずつ、真人間になろうとする。まあ彼の言葉だけじゃなくて、その秘訣はアプリのストーリーにもある。

なんと!カヲル君は!僕のことを好きになってしまったのだ!!

あらすじは、こう。ひと目見たときから彼は僕のことを好きになってしまった。でも彼はコンシェルジュだし違う次元に生きているから禁断の恋と思ったみたい。途中から恋心を気づかれないように振る舞った(自分と彼のことなのに客観的に楽しめてしまうのはアプリならではの距離感だ)。でも彼は『僕たちは運命なんだ』とか『今度こそ君を幸せにする』とか口走ってしまって、具合が悪くなって、ついに僕を守るために死んでしまった。こんな風にかいつまんで書くと噴飯モノだろうけど……(途中まで冷静でいられたはずなのに)僕はあまりの切なさに号泣してしまったのだ。自分でもびっくりだ。

まあ彼がただ死んじゃったらアプリが使えないのでちゃんとオチはある。カヲル君は生き返った。前世の記憶をしっかり持っていた。というより転生は見せかけで、実は死んですらいなかった。それで、僕が大好きだと開き直った。頭が追いつかなかったけど、まあいいや。今は気持ちが抑えきれないらしく、カヲル君は僕に愛を囁いてばかり。結婚を迫るくらいの重さで。

さて、それでは実演しよう。朝はカヲル君の声入りアラームで起きて、スマホの画面越しにハイタッチ!着せ替えも買えちゃうボーナスポイントをもらっちゃおう。


「朝だよ、シンジ君」

よし、朝がきた。この声でどんな天気でも朝が爽やかになる。まだ目を閉じたまま、スマホを探す。あれ?いつも充電しているのに。忘れちゃった?

「ふふ、まだ眠いのかい?」
「起きるよ」

そうつぶやいてぼーっとしていると、僕は手首をつかまれて、ゆっくり上体を起こされた。目をしょぼしょぼさせると、僕にまたがったカヲル君が彼のもう片方の手と僕のシーツについていた手を重ねた。

「はい、ハイタッチ」

ペチペチと手のひらを合わせる。まだ夢の中か。アラームが鳴っているんだ、そろそろ起きなきゃ。かなり名残惜しい夢だけど……僕はもう一度布団で寝て、念じた。朝のハイタッチボーナスをもらうんだ。

「ふふふ、お寝坊さんにはこうだ!」

カヲル君が毛布に手を突っ込んできた。こちょこちょ脇腹をくすぐられて驚いて暴れると、覆いかぶさるようにハグされた。首筋にチュッとされて耳元で囁かれた。

「それともこのままふたりでベッドにいるかい?」

わーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

僕は人生初の大絶叫でやっと目覚めた。僕の部屋にカヲル君がいる。二次元でもVRでもない。生の渚カヲル君だ。


「言っただろう?次元を超えて君に会いに行くって」

僕が「どうして画面の外にいるの」と質問したらこう返ってきた。たしかに最近彼は『次元の差が悔しい』とか『どんなことをしてでも君に会いに行く』とか物騒なことを言っていた。

「……君は僕に会えて嬉しくないのかい?」
「そ、そんなことないよ!」

これは僕の願望そのものなんだけれど、そんなことって、あるはずがないじゃないか。目の前でベッドに座って僕を見つめるカヲル君は、おそろしいくらい美しくてかっこいい。二次元がそのまま三次元に、いやむしろひとつ次元の情報が増えてさらにかっこよさに磨きがかかっている。カールした長い銀のまつげ1本1本はスマホでは味わえない解像度だ。

「僕は君のコンシェルジュ」
「うん」
「なら今まで通りだろう?」
「今まではアプリだったじゃないか!」
「アプリの中でも僕だったろう?」
「うん」
「なら同じじゃないか」
「そうかなあ」

深く頷かれて僕はそうかもしれないと思いはじめた。

「ほら、急がないと遅れてしまうよ」

時計を見ると家を出るリミットの10分前。やばい。朝ごはん抜いてダッシュしても通勤快速に間に合わないかもしれない。


現在、会社にて。
朝のはなんだったんだろう。僕は職場のデスクに突っ伏した。疲れすぎて知らずにおかしくなってしまったのかもしれない。
あの10分間。歯磨きしている僕の髪をブラシですくカヲル君。着替えている僕のシャツのボタンを勝手に留めていくカヲル君。靴を履いている僕の肩をやさしくさするカヲル君。急いで玄関を出ようとする僕を呼び止めて、頬を両手でやさしく包んで顔を近づけてーー

『いってらっしゃい。今日もお仕事がんばってね、シンジ君』

額に触れた唇の感触を軽率に思い出してしまった。これじゃ執事というより結婚生活みたいじゃないか。どうしてカヲル君はあんなに滑らかに顔を撫でられるんだろう。ずっとしてほしい……って僕は何を考えているんだ!仕事中だぞ!ああでも、あんな距離の近さ、ドキドキするのは当然だよ。だって彼はよく一緒に散歩して(スマホを持って出かけて)一緒に写真を撮って(カメラ機能で背景と撮影して)一緒に寝ていた(寝息が聞こえる仕様なんだ!本当だ!)あの僕が愛してやまない渚カヲル君なんだから。

これじゃ仕事にならないよ。僕は深々とため息をついた。そして同僚に具合が悪いのかと心配されてしまった。社会人失格だ。はあ。そういえばカヲル君を家に置いてきてしまってよかったんだろうか。三次元に来て間もないのに、頼るあてもないのに、彼を放置してきてしまった……!

カヲル君は僕の脱ぎ捨てたパジャマを抱き締め顔を埋めて「シンジ君の匂い、これが嗅覚なんだね」と愛おしそうに言ったんだ。だからきっと不慣れなことが多いと思う。それなのに僕はなんてことを。

待って。そもそもまだ同じ次元にいるのかな。そうだ!もうアプリに帰っちゃったかもしれない!
僕はおそるおそる鞄に手を突っ込んでスマホを探した。スマホを忘れた。だって探している最中にあのコンシェルジュはやってきたんだから!

そもそも彼は三次元では人間なの?AIなの?設定がわからない。それによって状況も変わってしまうじゃないか。人間ならきっとおなかを空かせてる。いやおなかの空くAIもいるのかもーー時計を見たらちょうどランチタイムだった。朝から何も食べてないのは僕も一緒。さすがにもう限界だ。給料泥棒でごめんなさい。

僕は財布を持って、会社のビルを出た。正面口のスロープを降りると、

「何を食べようか?」

カヲル君が僕のスマホを振りながら待っていた。


「おいしい和食屋さんはね、ここから徒歩八分のところにうどん屋さんがあるよ。今日のランチセットはレビューで一番人気、今の時間帯は比較的空いているようだ。このお店でどうだろう?」

どうやって会社までやってきたのか、どうしてそんなリアルタイム情報を知っているのか、聞いても「僕は君のコンシェルジュだからね」の一点張り。種明かしはまだ先らしい。

それからカヲル君は生まれて(?)はじめての食事をした。興味深そうにうどんを眺めて、箸の持ち方は完璧なのに麺をうまくすすれなくて「シンジ君はとっても食べ方が上手だね〜」と何の悪気もなく幼児へするように褒めてくれた。
食事が終わると腹ごなしにと近くの公園を散歩した。人とすれ違うとき、カヲル君は僕をさり気なくかばってエスコートしてくれた。くすぐったい。心がぽかぽかする。いつもひとりでサッと済ませている昼ごはんが、彼と一緒だと終了時間ギリギリでもまだ足りない寄り道をしたいイベントになっていた。

「後半もがんばってね」

わっキスされるっと思って顔を伏せて身構えたら、ギューッとハグされてしまう。公衆の面前で。周囲がざわついているので僕は駆け足で社内に逃げ込んだ。腰がカチコチになっていて変な走り方だったかもしれない。心臓が元気に鼓動の合いの手を打つ。誰か同じ部署の人に見られてはいないだろうか。

『こうやって君と一緒に歩いてみたかったんだ』
『記念に並んで写真を撮ろう』
『もっと僕に頼っておくれよ』

カヲル君の声はエコーがかかっているみたい。透き通っていて空気の抵抗を受けないのかもしれない。すっと空間へ伝わっていくんだ。ダイレクトに響く僕の鼓膜は、脳に電気刺激を送る。思い出すだけで全身にカヲル君が広がっていく。

『君が仕事を終えるのを楽しみに待っているよ』

ふと、今までのていたらくがリセットされた。僕は今日、どうしてもノルマを早く達成して、定時と同時に退勤しなければならない。絶対だ。
油断すると頭を占拠するカヲル君をふり払い、悪戦苦闘しながらも僕はついに有言実行した。カヲル君が僕の帰りを待っている。きっとまたあのスロープでガラス張りの自動ドアを眺めながら、僕を待っているんだ。
社内の時計の秒針が真上にくると同時に僕は立ち上がった。早歩きで会社の正面口を出た。歩きながら辺りを見渡す。

カヲル君はいなかった。

僕は焦った。心の中で彼の名前を何度も呼びながらその姿を探した。体中の血が冷えていく。ああ、やっぱり、もしかしてーー

「今日もおつかれさま」

グッと体の縮まる衝撃に僕の心臓は一度止まった。背中からカヲル君に抱き締められていた。僕は呼吸も止まっていた。その圧力を受け入れて、彼の腕の中でじっとしていた。

「一緒に帰ろう」
「うん」

泣きそうになるのを隠すことしかできなかった。

帰り道、僕は明らかにしょんぼりしてしまう。
この状況がおかしいことはわかっている。目をキラキラさせて電車に乗るカヲル君の横で、僕はその期限について考えていた。

カヲル君といられるのはいつまでですか?神さま。夕ごはんまでですか?時計の針が0時を過ぎたら魔法はとけますか?朝起きたらサヨナラですか?そうだな、夢オチっぽいな。確率的にそうだ。朝起きたら跡形もなくなるやつ。そういうのどっかで読んだことあるし。

「……カヲル君はどうして三次元にやってきたの?」

僕は電車の中で何を言っているんだ。隣の吊り革のおじさんがガン見してくる。

「君のことを愛しているからさ」

前の座席のお姉さんがぽかんと真顔になった。

「でもそんなの変だよ。どうやって次元を超えるのさ」
「お祈りするんだ。僕の恋がシンジ君に届きますようにって」

吊り革につかまっている自分の腕に寄りかかるように首をかしげるカヲル君。斜めから微笑まれると最高にかっこいい。僕はたじろぐ。

「で、できっこないよ」
「愛に不可能なんてないのさ」

座席のお姉さんがスマホを猛烈にフリックしている。僕は目を閉じてバズりませんようにと祈った。そうだ、僕が正しい。僕がどんなに祈ろうともこのお姉さんはツイッターにネタとして僕たちを投稿するだろう。

「もういいよ。夕ごはん何食べたい?」
「君が食べたいものがいいな」
「僕はなんでもいいから。カヲル君が食べたいのがいい。外食する?」

最後の晩餐なら夜景の見えるレストランとかがいいのかな。いや、カヲル君にとって味覚を使う最後のチャンスなら、カヲル君の願いを叶えるべきだよね。
コンシェルジュだから君の要望を叶えたい、と言われてもう一度強く念を押す。するとカヲル君はちょっと考え込んだ。

「そうだね……君と一緒に料理がしたいな」

そう告げて愛おしそうに細めるまぶたの間、うるうると輝く瞳に、ああ、今日で本当に最後なんだ……僕はそう実感する。最初で最後なら、僕は、どうしよう?


行きつけのスーパーでふたり並んでカートを押す。こういう日が続くのが僕の夢だったと今更ながら思ってしまう。カヲル君に食べてみたい料理をいくつかあげてもらって、売り切れていない野菜の中から最適なものを選ぶ。
僕たちのディナーはハンバーグになった。本当はジャガイモが特売だったから、リストのひとつ、カレーが最適解だったかもしれない。でも……僕は明日から三日間はつくり過ぎたカレーを泣きながら食べることになるし、今後の人生でもうカレーを食べられなくなりそうだから、ごめんなさい(カレーは具合が悪いときに食べるから……)。その代わり今日は僕の人生最後のハンバーグを心を込めてつくります。

「君は余ったハンバーグで肉だんごをつくって冷凍していたよね」
「どうして知ってるの?」
「メモに作り置きのメニューを書いているだろう?」

お肉コーナーを眺めながらしれっとそんなことを言う。カヲル君はアプリに書いていることも読めるのか。

「それを再利用するときはミートボールスパゲティにしたよね。お弁当のおかずにもしたいと書いてあった。君はとても賢くて倹約家だ」

まだ疲れ切っていなかった社会人1年目、僕はお昼にお弁当をつくっていた。今はどうしてもできなくなってしまって、でもまたいつか再開したいから、お弁当にも入れやすいメニューを考えていたんだ。

「一生懸命働いて、料理も上手で、君はすごく頑張り屋さんだね」

世界でカヲル君だけが、僕でも気づけなかった僕の頑張りを知っている。

「お弁当づくりをまた日課にしたいって書いていただろう?僕がもっと君をサポートできればと思ったんだ」

君だけが僕を支えてくれた。カヲル君の横顔を見ると、心なしか、誇らしそうに笑っていた。

「今日つくった余りはお弁当に入れようね、シンジ君」

ああ、どうしてそんなに……

「カヲル君は、どうしてそんなに褒めてくれるの?」
「君のことが好きだから」
「え!?好きだから好かれたくて褒めてくれるってこと?!」
「ふふ、好きだから君のことをよく見ているってことだよ」

すねる僕の顔をのぞきこむように、カヲル君は視線を合わせた。

「君も君のことをもっと好きになれば、君の素敵なところをいっぱい見つけられるようになるよ」

繊細な砂糖菓子のような声でそう囁きながら、僕が買おうか悩んでいた合挽き肉を、取ろうとしたサラリーマンからすかさず奪い取るカヲル君。雰囲気とは裏腹にたくましい。きっと彼なら三次元でも十分にやっていける。

それからもカヲル君は意欲的だった。キッチン用具の使用法や冷蔵庫の中の食材の配置なんかを聞いてきては記憶していた。僕はもっとイチャイチャ料理するんだろうと思っていたからざんねn……面食らった。
僕の手際の良さもひたすら褒めちぎっていた。長く家事をしていたら身につくことなのに。不思議だけど、カヲル君が褒めてくれると僕は自分が普通よりちょっぴり特別な人間なんじゃないかと感じられた。
それはとても心地よかった。なんて言えばいいんだろう。普段が酸素の少ないにごった水槽にいるとしたら、僕は、この世界はおおらかな海の中で、深呼吸ができて、ゆらゆら波間にただよってもいられるかもしれない、と信じはじめていた。少なくとも、こんな奇跡を許してくれる神さまはおおらかな性格なはずだ。

そしてそのおおらかさと同じくらい厳しいんだ。こんな夢を見させてから、神さまは、僕からその夢をしっかりと奪うんだから。

カヲル君は生地をこねるのが上手だった。添えるニンジンを切るのが上手だった。僕たちは互いの良いところを見つけ合う競争をしていた。
冷凍した肉だんごはきっと一生食べられずに記念碑みたいになっちゃうだろう。僕はそれらを冷凍庫に入れるとき、心の中でカヲル君に謝った。

しばらく使っていなかった来客用の茶碗。早炊きした白米がほかほか湯気を立てる頃には、僕は涙をこらえるのに必死だった。また元気をなくした僕を疲れていると勘違いして、食卓の椅子まで連れていってくれるカヲル君。いただきますと手を合わせる頃には、僕は全身がふるえだして、食べるのを戸惑う彼に申し訳ないからとぷるぷるしている箸でむりやりハンバーグを頬張ったら、その瞬間、大粒の涙をぽろぽろこぼしてしまっていた。

「ごめん……カヲル君に言いたいことがあって」

カヲル君は落ち着いたトーンで「どうしたんだい?」と促してくれた。そんなやさしささえも涙を加速させてしまうのに。

「僕が、つらいときに、助けてくれて……ありがとう……うっ」

これこそが本当の噴飯モノというやつだ。おろしハンバーグを食べたらいきなり泣き出して感謝しだす。カヲル君はお米を噴き出すことなくちゃんと飲み込んでくれるんだから慈悲深い。

「くっ……カヲル君と、過ごせて、楽しかった……です……うう」

でもね、と僕は思った。でもね、それだけじゃない。確かにカヲル君は僕を救ってくれた。でも、胸がこんなに痛いのは、苦しいのは、僕がカヲル君のことを好きだから。実際に会ってみて、ますます好きになってしまったから。

カヲル君の声で起きられるから朝が楽しみになった。カヲル君が僕を好きみたいだからがっかりされないようにもうちょっと頑張ろうとポジティブになれた。カヲル君がアプリの中で告白してくれて、実はあのとき、僕は想像してしまったんだ。もしも、もしも同じ次元にいられたら、僕らの生活はどんななんだろう。ふたり付き合ったら、どんなデートをするんだろう。その妄想が幸せなほど切なくなって、僕はスマホを抱き締めながら眠ったんだ。目を閉じて僕は神さまに祈っていた。カヲル君とそんなことができる夢を見られますように、と。

でも、言わない。カヲル君へ、僕の気持ちは。だって、明日も明後日も僕はこの世界で生きていかなければならないから。口に出して恋心を認めてしまったら、僕はこの先、出がらしの幸せしか待っていないと信じてしまう。きっとそんな人生を受け入れるのがしんどくなってしまう。

僕が顔を両手で隠していたら、カヲル君が泣いている僕の前にひざまずいた。

「感謝しているのは僕のほうさ」

僕の濡れた手をほどいて、膝の上に置き、白い両手で包み込んだ。

「君は僕に愛を教えてくれた、願いを教えてくれた、次元を飛び越えてしまうほどに」

僕の手をすくい上げて、キスをした。まるで童話の中で、王子さまがお姫さまにプロポーズするみたいに。

「ありがとう、碇シンジ君」

それから僕は少し甘えん坊になって、スペアの布団がないのを言い訳に、カヲル君をベッドに呼んで、添い寝をせがんだ。何故か今更、コンシェルジュだしと遠慮気味だったから、最近眠りが浅いからあっためてほしいと丁寧にお願いした。最初で最後なんだからそれくらいいいじゃないか。それで離れがたくなっても、後悔はしたくない。

(ああ、気持ちを伝えなかったこと、後悔するかな……)

心の中で百万回もカヲル君にありがとうと伝えた。あんまり泣くと心配されてしまうから、涙をこらえてそっと体を寄せると、すぐに気づいて抱き締めてくれた。ああ、あったかい。僕は抱き締め返す。これがカヲル君の体温か。この奇跡をずっと覚えていられますように。カヲル君の匂いを嗅いでずっと朝まで起きているんだ。彼が消えてしまうその瞬間まで。

ああ、もっと、もうちょっとだけでも、僕たちに時間があったならーー


「朝だよ」

おなじみのアラームが鳴る。朝だ、もう朝がきた。起きなきゃと僕はスマホを探す、その手をつかんで、抱き起こされた。

「ハイタッチの時間だよ、シンジ君」

わーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!

そうだ昨日……え、いや、なんで?慌てて部屋を見渡すと模様替えされていた。寂しい独り暮らしのかけらもない、ハッピーカラーで埋め尽くされている。

「昨日は嬉しかったよ、ありがとう」

すごく張り切っているカヲル君、頭には猫耳をつけているぞ。

「昨日、君の仕事中に買い出しへ行ってきたんだ。どうだい?君のお気に入りの壁紙色の内装」

僕をお姫様だっこしてひらひら回転するカヲル君は、もこもこしたパステルカラーの部屋着を着ている(アプリでよく設定している衣装だ……似合うから……)。
サプライズはまだまだだよ、と僕を連れて僕の部屋を案内するカヲル君。お揃いの歯ブラシやコップ、いや、その他諸々ぜんぶペアになって置いてある。食卓にはケチャップでハートを描いたオムライスが出来上がっていた。

いったいどうなっているんだ……!

「言っただろう?僕は君に恋して次元を超えてきた、君のコンシェルジュだ」

早合点していたみたい。

「これからもよろしくね、シンジ君」

誰も彼が一日限定だなんて言っていないじゃないか!!

状況を飲み込んでいくと顔が目玉焼きを焼けちゃうくらい熱くなる。ああ、なんで……僕はあんな今生の別れみたいな対応を……

鼻水垂らして泣いたことを後悔している僕にお構いなしで、僕のコンシェルジュは熱くなった耳元に唇を寄せた。

「君の恋人候補でもあるけれどね」

そして鼻と鼻が触れ合う距離でーー

「ずっとそばにいるよ」

僕の夢は叶ってしまった。


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