熊ヶ谷ネリコ様との合同誌『ひみつの恋まじない』(前篇 後篇)の原作。
漫画では漫画での表現を優先しアレンジしてありますので、ちょっと内容が異なります。実際の作業では、候補作品のあらすじをいくつか仕上げ、熊ヶ谷様にこの作品を選んでいただき、プロットを仕上げ、ネームを描いていただき、お互いに意見を出し合い漫画表現としてよりよいものへと試行錯誤を重ねました。
楽しかったです! 熊ヶ谷さん、どうもありがとうございました!





僕らの秘密の恋まじない




“ イソップのすっぱい葡萄
キツネは美味しそうな葡萄を見つけるが、手が届かないとわかると「どうせまずいに決まってる。誰が食べてやるものか」と悪態をつく―― ”

シンジはふと図書室にいなかった。瞬きをひとつ、遠のいた意識を呼び戻す。本を閉じて空いた隙間へ押し込むと、睫毛の先に虹色の埃がキラキラと舞った。夕暮れ少し前のほのかな光、降り注いでいる窓の向こうに校舎の中庭が続いている。

――また断るのかな

親友のカヲルがまた女子に呼び出された。シンジはそう彼から聞いた。きっと告白されるのだろう。これはシンジの憶測、けれどいつも当たっていた。本棚に手を添えて本の背表紙を揃えてゆく。下級生で可愛い子だと教室でクラスメイトが噂していた。指先が立ち止まる。シンジの表情が曇った。

――もしかして

付き合うのかもしれない。

親友なら喜ぶべきこと。なのにシンジにはそれが空を飛ぶよりも難しい。何も知らない人なら残念な友達だと思うかもしれない。けれどそれはシンジだけのせいではないとしたらどうだろう。

カヲルはいつも必要以上に親密で、シンジを困らせた。よく見つめる、よく声をかける、よく触る、まるで好意があるかのように。誰にからかわれてもやめないその態度に揺れてしまう時もあった。正直に言えば、シンジは未だによくわからなくて揺れている。切ない目眩に襲われてしまう。

でもいるじゃないか。そうやって思わせぶりに仲良くしても何とも思っていない人。シンジは思う。カヲルがたとえ自分しか見えていないようでも「僕は君に会うために生まれてきたのかもしれない」と自分を見つめて告げようとクラスメイトに「お前は何が好きなんだよ」と聞かれて「シンジ君」と即答しようと、真に受けてはいけないのだ。

――カヲル君が僕を好きなはずないじゃないか

絶対に。

――でも僕は……

好き。どうしても、シンジはカヲルが好き。そう想うだけで頬が火照ってしまうくらい。ついラブストーリーの背表紙をなぞってしまうほどに。同性に、親友に、そんなこと考えてしまってはいけないとシンジだってわかっている。たまに抱く淡い期待が勘違いということだって。でもあふれてしまいそうな気持ちをどうしようもできないのだ。

本棚で仕切られた狭い通路を抜けて、壁沿いのおびただしいタイトルの1文字目だけを横に繋げて、行く先、棚と棚の直角に交わる隅に視線を投げる。と、そこには、斜めに横切る金色の陽。雲の動きで明暗を怪しく移ろう。そして雲の最後の尾が抜けた時、窓枠に切り取られたその細い台形の先端が、隅の一角を照らしだす。人差し指を1文字目に滑らせながら、シンジはまるで吸い寄せられるように、そこへと向かった。

「あ」

また指先が立ち止まる。棚の奥まった部分が不自然だ。ほんの少しだけ数冊の背が前へと張り出していた。秘密を隠しているかのように。選ばれた者だけがそれを見つけて魔法使いの横町へと行けるのだ。シンジは自分が呼ばれている気がした。本に手を掛け一冊一冊剥くようにして外していけば、さらに奥にもう一冊、壁に埋め込むようにして、それはあった。

「おまじない?」

『あなたの恋が絶対叶う秘密のおまじない』――手にしてみると、それは不思議な不思議な恋まじないの本だった。ノートと同じ大きさ、薄いけれど、表紙は角度を変えるとホログラムが万華鏡みたい。シンジはおそるおそるページを捲った。『片想いを絶対両想いにする!』パラパラと頁は流れる。『あなたに夢中になってさあ大変!』指先の動きが止まった。

『好きな人を想ってルテシイアと唱えましょう。するとあなたは好きな人とあっという間に両想いになれますよ。おまじないを解きたい時は反対に唱えましょう』

『ただし!恋は魔物。効き過ぎても責任は取りません』

――まさかね……

シンジは予感がして振り返り、変な汗が噴き出した。ちょうど図書室の入り口にカヲルの姿が見えたのだ。どうしよう。キョロキョロとシンジを探しているカヲル。どうしよう。焦るシンジ。でも……

「ル、」

シンジはカヲルをさりげなく指差した。そしてうずうずと戸惑いがちに、呪文を唱えてみたのだった。誰にも聞こえないくらい、小さな声で。

「ルテシイア!」

――ふわり。
すると、カヲルが宙によろめいた気がした。

それは何かに躓いたのかもしれないし、何にもないのに躓いてしまったのかもしれない。この距離ではわからなかった。シンジは慌てて本を元の場所に隠す。カヲルが首を傾げているとも知らずに。

「お待たせ」

何事もない笑顔でカヲルはシンジの背中に呼びかけた。シンジは内緒で深呼吸する。いけないことをしていたみたいに心臓が暴れてしまう。それでもシンジは本心を隠すのが上手かった。

それからふたりはいつも通り一緒に並んで帰るのだった。

クシュン!――廊下の曲がり角で、カヲルがひとつ、くしゃみをした。


それでも日常は何も変わらずそこにあった。休み時間の教室は今日もいい天気。

「クシュン!」

おかしなことがあるとすればこのくしゃみくらいだ。もう何度目かのそれに、カヲルの顔を覗き込むシンジ。

「風邪?」
「使徒のこいつが風邪引くわけないじゃない」

心配するシンジとは裏腹にアスカが愉快そうに笑う。アスカは仲が良いほど無遠慮に口が立つ。でもシンジへとカヲルへの悪態の種類は微妙に違った。今のはカヲルへの当てつけのように見せかけて、実はシンジに対してだった。

「引くかもしれないじゃないか」
「なら人類には朗報ね」

アスカは通り過ぎざま話しかけたようなのに、何故か全然通り過ぎない。シンジとアスカは既に厳戒態勢。と、またくしゃみが聞こえてきて一時休戦。シンジはカヲルの額にそっと手を当てた。

「熱があるのかも」
「ぼーっとしてきたよ……君が可憐で」

そんなシンジの気持ちはするりとかわしてカヲルは嬉しそう。どんどんふたりの顔は近づいてゆく。それはカヲルの得意技。とろんと潤んだ瞳をほころばせてシンジの肩に頬を寄せる。甘えた仕草で頬擦りをして、好意を明け透けにおっぴろげる。ああ、何してるの。心地好さそうなカヲルにシンジが真っ赤に固まってしまう。

「早く使徒殲滅のウィルスでも開発されないかしらね」

準備万端のアスカがカヲルを思いきり突っぱねた。いつもより力なく仰け反るカヲル。このためにそこにいたのか、シンジはちょっとあきれ顔。隠すのはちょっぴり残念な気持ち。カヲル君って見た目より体温が高いんだな、シンジは急にその温もりが恋しくなる。そう自覚したとたんにカヲルがまた擦り寄ってきたから、ああ、どうしよう。胸がキュンキュン、苦しくなる。

「碇くん」

その時、レイがシンジを呼んだ。

「何?綾波」

振り向くシンジ。熱い頬を見つからないよう、カヲルからさっと離れてレイの元へ。カヲルは支えを失くしてガクンと首が傾いた。とっさに手を伸ばす、けれど、シンジには届かない。その手を不思議そうに見つめ、カヲルは遠ざかるシンジの背中を眺めていた。


放課後の廊下は黄金の西日が差して古ぼけてくすんで見えた。僕はいつかこの景色を懐かしく思い出すかもしれない、そんな感傷を胸にシンジはプリントの束を持っている。日直の雑用だ。レイは鞄を片手にちらちら時計を気にしていた。

「あとは僕だけでもできるから。用事あるんでしょ」

レイは何処となくカヲルと容姿が似ていたが、中身はむしろ対称的で、不器用なほど寡黙だった。シンジにとって彼女は同類であり放って置けない存在。だからだろうか、傍目からだとふたりは仲の良い兄妹に見えた。シンジはレイが何も言わなくてもなんとなく気持ちがわかってしまう。まるで特別な相手にだけ許された魔法のように。

「いいの?」
「うん。おつかれ」

微笑するレイ。

「ありがとう」

小走りするレイの背中を見送りながら、そんな彼女とも大人になったら離れ離れになってしまうのだろうかなんて考えていた。そしたらカヲル君とはどうなっているんだろう。突如胸を内側を走る一陣の風に身をまかせ、また歩き出すシンジ。背伸びしたこと考えると努めて何事もなかったかのように振る舞うのが癖だった。けれど今日は違うらしい。ふと立ち止まって振り返る。誰もいない。


「失礼しました」

一礼してシンジは職員室のドアを閉める。長い安堵のため息がこぼれた。

――先生は僕と綾波だから余計に仕事頼むんだよな

疲れが肩にのしかかる。でも腹が立たないのは、待っていてくれる人がいるからだ。カヲルはいくら遅くなってもシンジを待ち伏せしてくれている。笑顔で、一緒に帰ろうと。約束をしたわけではない。ではないのに、いつの間にかそれは習慣となった。

そしてやっと仕事を終えて教室に戻る途中、

「わっ」「やっ」

廊下の曲がり角でアスカとシンジが鉢合わせした。顔と顔がぶつかりそうになって慌てて飛び退くと、すぐ側、ヒカリにも遭遇した。

「脅かさないでよ!」
「そっちがだろ!」

ふたりはそんな偶然が多かった。

「こんな時間まで何やってんのよ」
「日直だよ!アスカこそ何してんのさ」

まるで見えない糸に手繰り寄せられているかのように。

「何よ?可愛いアスカ様がそんなに気になっちゃうわけ?」
「あーはいはい、どうでもいいです」
「ふたりとも夫婦喧嘩は相変わらずなんだから」

それは第三者がからかわずにいられないほど。

「そんなんじゃないよ!」「そんなわけないでしょ!」
「息もぴったり」

嫌で嫌でたまらないと睨み合うふたり。動作がシンクロしていてヒカリは笑った。ヒカリはアスカには言わないけれど、きっとシンジとアスカは両想いだと信じていた。気になる相手との相性の良さを指摘されるのは嬉しいこと。それは彼女なりの気遣いだった。

心の奥底でそれが嬉しくても、アスカはむず痒くてたまらない。

「そういえばさっき鈴原を――」

ヒカリがアスカの口を押さえて慌てている。言わない約束でしょ、なんて怒りながら。さっきまでふたりは野球をしているトウジを遠目に観ながら恋の話をしていた。ヒカリの恋をアスカはずっと応援している。シンジだって、わかりやすいふたりの両片想いにはちゃんと気がついていた。

好きな相手が異性なのがうらやましい。ひと月も経てばトウジとヒカリはこの廊下で秘密の会話をしているのかもしれない。胸を焦がす波が喉元まで押し寄せる。カヲルと出会ってからだ。シンジの心はそうやってふとした瞬間に敏感になって、感傷に浸る。嬉しくて楽しくてたまらない時にふと襲ってくる悲しみに似た名のない感情。無防備でいるとひたひたにあふれてしまう。しびれてもう動けなくて、泣きそうなのを我慢して、人知れず笑ってみるのだ。カヲルを思い出しながら。ふと気配がして後ろに振り向く。廊下の先に薄暗い階段がある。誰もいない。

「あ、そういえば、」

アスカの声にシンジが振り返る。

「あいつがすごい形相であんたのことを探してたわよ」

シンジは目を見開いた。もう一度、気配のした方へ振り返る。やっぱり誰もいなかった。
誰なのかと聞かなくてもシンジにはわかった。わかったから、驚いたのだ。


間隔の狭い足音が閑散とした廊下にこだまする。早足でシンジが駆け抜けてゆく。2年A組の教室と職員室は渡り廊下を挟んで隣の校舎なのだ。近道で東側の階段へと向かう途中、図書室の前を通り過ぎた。シンジは表札を目の端に写し、すぐに瞼を伏せてしまう。

――後ろめたくなるならするなよ、僕

重く垂れ込む黒い雨雲を振り払うように足を速める。さっきから背後に魔物が潜んでいる気がしてヒリヒリと肌が痛い。

――別に悪いことしたんじゃないし……

ゾクッと背筋が寒くなった。振り返っても、誰もいない。

――効くわけないもの

「やっと見つけた」
「うわぁ!」

と思ったら目の前に、探していた顔があった。

「驚かせてしまったかな?」
「うん、あっ、ううん」

その微笑みを不気味に感じてしまうなんて。瞬きをして目を逸らす。カヲルは二人分の鞄を抱えてシンジを探しに来てくれたらしい。シンジは鞄を受け取っておそるおそるカヲルを見上げた。

「一緒に帰ろう」

その声は一連の不穏な放課後の中で異物のように明るくて、

――なんだ、気にして損した

「待たせちゃってごめんね」

シンジは背筋に貼りつく不安になんだか馬鹿馬鹿しくなった。そう思いたかったのもある。けれどシンジは自分の心の作用だろうとも理解していた。どんな手段を使っても恋を成就させたいなんて、野蛮な振る舞いができる自分こそが魔物なのだ。

シンジはカヲルに微笑みかけた。世界の全部が嘘でも彼だけは信じられるという微笑みだった。

「行こう」

ゆっくりシンジは歩き出す。そんな背中の先には激しく揺らぐカヲルの表情。疾風に波立つ夕暮れの水面のよう。音も立てず、さざめいて。おもむろに、カヲルは手を伸ばす。

あ、

シンジは背中からカヲルに抱きすくめられていた。回された二本の腕がきつくきつく締まってゆく。

「好きだ」

耳許でしっとりと囁くカヲルの声。熱い吐息。しびれてしまう小さな鼓膜。息ができずにいるとシンジは肩を引かれた。悩ましげで泣き出しそうなカヲルがいた。刹那、カヲルはシンジの顎を押さえて首を傾げる。抗えない勢いで、火照ったふたつの唇が合わさった。

見開いたシンジの瞳。放心した、いや、感電したのかも。どちらにしてもそれは永い永い一瞬の空白だった。

――おまじないが効いたんだ……!

そして訪れる痛み。痙攣するシンジの瞳。瞼はふるえて涙を溜める。

――それでもいいや……

シンジは小さく言い訳をした。好きだから、いいじゃないか。そうしてシンジはもう一度目を閉じたのだ。しっかりと、初恋の親友を、抱き締め返した。


“ もしもキツネが諦めきれずに葡萄を食べたらどうだったのだろう ”

それは甘い甘いふたりだけの秘密の味がした。苦い恋の実りの季節――ふたりは授業中にこっそりと瞳だけで睦言を交わした。校舎裏で木陰に隠れて両想いを囁き合った。そして帰り道には、誰もいない通学路でこっそりふたつの手を繋いだ。想いが重なる幸せの味をシンジは噛み締めていた。

“ その葡萄は本当に美味しかったのだろうか―― ”

けれど、ふとした瞬間、シンジは目を閉じるのだ。そして思ってしまう――カヲル君が僕を好きになってくれたなんて奇跡だ、おまじないのくれた奇跡なんだ。シンジは自分に言い聞かせる――僕はカヲル君が夢から覚めないようにしなければならない。

シンジは心の中で幾度となくまじないを唱えていた。唱えながら、後ろめたさに図書室を避け続けた。カヲルだけじゃない、シンジだって同じ夢から覚めてはいけないのだ。


それから間もなくだった。

「シンジくーん!」

シンジは全速力で駆け出していた。

嘘みたいな速さでカヲルが迫ってくる。シンジは放課後の校舎を逃げ惑う。もつれる足を叱咤して、ようやく曲がり角にカヲルの姿が見えなくなった。その隙に誰もいない図書室へ。蔵書点検の札を下げた立入禁止の鎖を潜り抜け、並ぶ机に体をガタガタ打ちつけすぐさま、一番奥の机の下に滑り込む。恐怖で浮きそうな体を丸めた。

「シンジくーん!どこだーい?」

シンジは体育座りでめいっぱい手足を縮める。身を硬くして荒い息を殺している。

――カヲル君がおかしくなっちゃった!

唇まで青ざめながら今日のカヲルを思い出す。

――それとも僕、何かしちゃった?

違和感を感じたのは、あの時だった。
午前の休み時間にシンジはアスカと口喧嘩をした。些細なことで白熱するのもクラスメイトにからかわれるのもいつものこと。それなのに、そんなふたりの間に無理やり割って入って、カヲルは冷たい顔で、そう、すごく冷たい顔でシンジを見下ろしたのだった。赤い瞳は怒りに燃えて揺らめいていた。

ガタッとドアを打ちつける鋭い音。静かに少しずつ近づいてくるその気配。シンジは揃えた膝に顔を埋め、ギュッと指先を握り締める。

――いや、いつもと同じだし、

こうなる少し前だってそうだ。シンジはいつものようにレイと楽しく話していただけ。感覚が似ていると自然と息が合って笑いだって生まれてくる。それだけなのに。カヲルがいきなり全速力で追いかけてきて、シンジは追われるままに逃げ出した。

――なんであんなに怖い顔……?

怒りを通り越して不気味な激しさのあるカヲルの顔。まるで知らない人みたい。シンジは思い出すだけで身震いする。どんどん近づく足音に心臓が暴れだす。どうしよう。そもそもなんで僕は好きな人から逃げてるんだろう。どうしよう。何が何だかシンジにはわからない。野性の本能でシンジは這って逃げ出した。逃げ出したけれど、

「ここにいたんだね」

目の前には見慣れた上履き。見上げると、怖いくらいの、あの笑顔。

「探したよ。どうして僕から逃げたんだい?」

その虚ろな赤い瞳に背筋がぞくぞくしてしまう。舌がしびれて何も言えない。差し出されるカヲルの白い手。それは優雅に、けれど冷たく凍りそうに、シンジの手が重なるのを待っていた。とたんに胸が軋みだす。僕はカヲル君の恋人なのに、わけもわからずに逃げ出してカヲル君を傷つけている。白い手は目の前でずっと待っていた。僕はあんなに届かない恋に苦しかったのに、届いたらもう恋を大事にしないなんて。シンジは身勝手な自分に打ちのめされながら、カヲルの手を取ったのだった。

「あ」

引き上げてもらえると。けれど手は掴まれただけ、罠に嵌った獲物のごとく暗がりに引きずり込まれる。物陰に隠れたふたつのシルエット。カヲルは目と鼻の先で唐突に膝をつく。そして不意に手を引かれ、シンジはその勢いで、カヲルに抱きすくめられてしまった。

「寂しいよ」

カヲルの崩した膝の上にシンジは乗せられてしまう。力強い腕に骨が軋むほど締め上げられた。潰れた肺がまた膨らむのを許された時には、熱く興奮した吐息が耳にかかり、濡れた唇が首筋に流れ着く。腰を反らすとカヲルの手が尻に触れるのを感じた。

「ダメだよ」

羞恥に張り詰めて、首に吸い付くカヲルをシンジは避けようとする。

「こんなところで」

長い指が尻肉と腿の付け根を弄っている。揉みしだかれる。

「な、何してるの?」

耳許で何かを囁かれて、シンジはたちまち耳まで紅潮し困り果ててしまう。

「まだ中学生だよ」

返事のかわりに反逆者は挑発する。敏感な箇所に触れられてシンジの体は跳ね上がった。カヲルから離れようと腕を突っぱねたのにびくともしないなんて。焦るシンジを気にも留めず、カヲルの手がシャツを手繰りインナーも捲り上げてシンジの領土を侵略する。直に素肌に触れられた時、シンジは毛穴から熱が吹き出すのを感じた。

「男同士なのに……」

体温が上昇してゆく。緊張で不自然に言葉を切れた。そう呟きながらも気持ち良さに身悶えてしまうシンジ。悪戯に動き回る指先はくすぐったいだけじゃない。内側の何かを焚きつけるのだ。ドクンドクンと真ん中に快感が集まり膨らんでゆく。シンジは変な声を漏らして眉をひそめた。まんざらでもなかった。

「シンジ君、いい匂い」

気持ちいい。うっとりととろける瞳。

――本当に僕とこんなことしたいの?

熱に浮かされたシンジの頭はもう何も考えられない。恐怖は消え去り喜びが占拠する。胸の突起を指の平と熱い舌で転がされると奇妙なしびれが走ってヒクヒクしてしまう。そのまま舌が美味しそうに鎖骨を這って、ベルトの内側、尻の窪みを爪の先でそろそろと攻めてゆく。密着した下半身は互いに主張し脈動する。何か、出そう。シンジは体を縮こめた。下着が濡れて急にこわくなって、シンジがヤダヤダと首を振ってもカヲルはまったく止めなかった。

「ずっとこうしたかったよ」

床の木板に押し倒されてしまった。またがるカヲルにばたつく肢体を縫いつけられた。覆い被さり擦り寄るカヲル。のしかかる体重に、柔らかな愛撫が寄せては返す。カヲルがシンジの耳の裏に鼻を埋めてうちふるえていた。微かな振動をシンジは感じた。それはカヲルが自分の匂いを嗅いで興奮しているのだとわかった。くつくつと血が沸いた。愛を感じた。

カヲル君は本当に僕のことが好きなんだ。シンジは恍惚の海に溺れる。強張るのをやめた肉体は愛を受け入れようとする、閉じた細胞を開いてゆく。

急に冴えた意識が辺りを見回した。そびえ立つ本棚を見上げると決して逃げられない囲壁のよう。首をよじると本の背表紙をぼんやり照らす金色の台形。その陽光の指差す方へ焦点を合わせた。そこはほんの少しだけ前へと張り出していた。その後ろで秘密の書物が眠っているのだ。シンジはあの日の情景を瞳の裏に焼き付ける。まじないをかけるかつての自分の指先と、ふわりとよろめく片想いの先、カヲルの姿。

――これはカヲル君の本当の気持ちじゃないんだ

世界のすべてが鏡に映る虚像なのだ。そっくりだけれど左右対称、何かが絶対的に違う、そんな夢仕掛けの魔法。カヲルにこんなことをさせているのは自分なのだ。シンジは途方に暮れた。覚めない夢の中でシンジは自己満足の自慰を愉しんだだけだった。浅ましく欲を溜め込み膨らんでいる自分の器官に辱められる。全身の細胞が張り裂けるみたいに痛い。痛い。泣きたい。でも泣いてはいけない。

ちゃんと、最後は自分でちゃんとしなければ。夢はいつか終わるものだから。

「我慢出来ないよ……」
「あっ!?」

けれどシンジのそんな感傷をカヲルが知るはずもなく。ズボンのチャックを豪快に下ろしたのだ。

「え、ち、ちょっと、」

解き放たれたカヲルのそこはもう既に最終段階まで硬く反り勃ち上がっていた。濡れた下着を突き破ろうとするたくましさに腰が砕けそうになる。まずい。流されそう。僕と君のをふたりで擦り合わせてみたい。揺れるシンジ。

「好きだよ」

ああ、でも、好きだから。いけないんだ。

「君は?」

ずるいことをして仮初めに溺れてはだめなんだ。

シンジのそんな決意もカヲルに届くはずもなく。沈黙がふたりの間を支配する。返されない愛の確認にカヲルは激しく身を焦がす。カヲルはシンジの口を強引に自分ので塞いだ。懇願の色を纏った片想いのキスだった。

――おまじない、解かないと

ねっとり絡まる熱い舌。カヲルは自分の知っているよりもずいぶん大人だったんだなとシンジは知った。甘く粘り気のある唾液はシンジを蜜で絡め取ろうとする。でもこれは最後の試練。もう終わりにしなければ。この幸せな蜜の味を決して忘れないと一息に飲み干して、必死でしごく舌の誘惑に抗いながら、シンジはまじないを解く呪文を唱えたのだった。

「ルテシ、ルテシイ……アイシテル?」
「僕もだよ」
「アイシテル!」
「愛してる」

全然効かない。

――インチキじゃないか……!

びっくり!驚いているうちにも制服を脱がされそうになるシンジ。大変だ。

「やめてよ」
「やさしくするよ」
「やだって」

言葉の伝わらない相手にもぞもぞと抗戦を繰り広げ、シンジの湿ったブリーフが顔を出したり引っ込んだり。荒くなるふたりの息。痺れを切らしたカヲルに股間に触られて、ギュッと握られて、自分でも驚くくらいシンジは喘いでしまった。

「あッ――!」

漏れ出た声、先端からあふれる体液、背骨を反らせてそこを駆け巡る快感に圧倒された。

――もうこのままでも……いいよね

気持ちいい。脱力してピクピクと全身を引き攣らせて、感じてしまう。シンジは無駄な抵抗をやめた。口の端から涎が垂れて、布擦れの音が響いた。シンジはズボンを脱がされてしまった。カヲルがそんなシンジを愛おしそうに見つめている。いや、美味しそうに見下ろしていた。獲物を捕食する前の獣みたいに舌舐めずりして。まるで快楽を貪る異種生命体のように、ぶるぶると身震いをしていたのだった。

ついに蘇るシンジの客観的視点。ふと我に返る。

――よくないに決まってるじゃないか!(ここは学校だ!)

最後の砦、純潔のブリーフに敵の魔の手が忍び寄る。

――わああああ!!

鉄壁の守りを脱がされかけて、誰の目にも触れたことのない聖域が露わになりそう。ああもう絶体絶命、そんな時だった――シンジは覚醒したのは。

「これ以上したら来世の来世まで絶交して金輪際二度と目も合わせないからな!!」

どこに隠してあったのか、渾身の力を振り絞りシンジは男前に絶叫した。

「ごめん……」

ぱちり。目を覚ましたカヲルは、そのままプシューッと空気が抜けるようにして、倒れてしまった。


「本当に風邪だったなんて!」

日常の教室は今日もいい天気。シンジの机の上に座ってアスカが盛大に笑っている。

あの後、図書室で倒れて動かなくなったカヲルに仰天してシンジは慌てて助けを呼んだのだ。カヲル君が死んじゃうかも!おかしなテンションで号泣してシンジは保護者のミサトに電話をかけた。すぐさまカヲルは特務機関ネルフに搬送されて精密検査へ。あらゆる機械に投入されても眠り続けるカヲルにシンジは生きた心地がしなかった。涙を流して神様仏様あらゆる尊い何かにカヲルの命を祈り続けた。そしてやっとの診断結果は――なんと本当に風邪だった。

「ヒトに囲まれて生活しているうちにミラーリングを起こしたのかもしれないわね」

検査をしたリツコはすごく淡々とシンジにそう告げたのだった。

アスカは涙が出るほどの爆笑。身をよじって面白くて仕方がない。

「何が原因なのよ?生物破壊兵器?」
「それくらいの威力だったよ」

カヲルは恥ずかしそうに頬杖をつき、チラッとシンジを盗み見た。死んでしまいそうなほど真っ赤になるシンジの横顔。互いに目を逸らしてもじもじと意識し合うふたり。こんな面白い光景なのにアスカは笑うのに忙しくて気づかない。

シンジはリツコにこんな説明を受けていたのだ。

「ヒトの風邪とは違って強烈な催淫症状が出るようね。どうやらあなたのフェロモンが彼を刺激してしまうようだから、症状が緩和されるまではなるべく接触しないであげてちょうだい」


だから今日もシンジはひとりきり、図書室で本を読む。

――あれは使徒の本能だったんだ

突っ伏して、机に重ねた両手に頬を当てて、シンジはため息。

――僕はたまたまそんなカヲル君の側にいただけ

ふるふる痙攣する睫毛。切なくてたまらない。椅子の下、つま先だけで悶絶する。夢は覚めるとまるで魔法みたいに跡形もなく消えてしまった。本当にそれが起こったのかも日を追うごとにわからなくなる。当事者のカヲルに確かめられるはずもなくて。

――カヲル君が僕を好きなはずないじゃないか

振り出しに戻る。シンジは妄想と区別のつかない季節を、甘い甘いふたりだけの秘密の味を舌に乗せて反芻することしかできない。

――でも僕は……カヲル君が好きだけど

けれどそれはとっても幸せな味がするのだ。誰かの悪戯、インチキのまじない書の『片想い』の文字を指でそっとなぞるシンジ。片想いの苦さに眉を下げて小さく微笑む。

そんなシンジを窓の向こうから見つめている赤い瞳。キラキラと夕暮れの水面みたいに揺れている。

忍び寄る静かな足音。図書室の敷居を超えて、床の木板を一歩一歩、踏み締めて。

――今までのことはなかったフリした方がいいのかな。風邪だったんだし……

ページを捲ってゆく指先。首を傾げて夢中で耽るシンジの眼差し、その背後、銀髪がさらりとなびき虹色に煌めいた。唇はさっきの誰かと同じく秘密の味を乗せて弧を描く。

そして微笑む口元を寄せ、カヲルはシンジの耳許であの呪文を唱えたのだった。両想いになれる不思議な不思議な恋まじない。驚いて、シンジが振り向く。

「僕も何度も君にかけていたんだよ。効いたかい?」

クシュン!



END.


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