まだ世界が幸福でこの体を支えてくれた頃
僕は地平線が歪むことを知らなかった
ただ青空が青くて地平は平らで
すべてにおいて約束があった

約束は僕が呼吸するのをやさしく見守ってくれた
僕は僕として空を見上げた
空は落ちてくるはずもなく
夜には安息が当たり前にそこにいた

当たり前の世界は空と一緒に落ちてきた

約束なんて最初からないのに
僕はまだ裏切られた気持ちでいる



あの日の満天の星空を君はまだ知らないんだ。




夏のつぼみ




誘拐?拉致?監禁?
何するかわからないと思って離れたのに、出会った途端これである。

「抑えろ僕、抑えろ」

カヲルは独り言を口に含んで行ったり来たりを繰り返している。言葉にならない叫びを噛み殺してから隣のベッドに腰掛けた。何の隣かって?10年前、中学時代にたぶん両想いだったのに離れ離れになってしまった、1メートル先にいる同級生のシンジのことだ。

これから第3新東京市の時計の針を巻き戻そう。夜空はこんなに曇っていなくて、ホテルのフロントを後ろ歩き、滲むネオンを横目に高速移動してタクシーを拾うよりも前、喧噪で満ちていた街頭の元で手を振るよりも、斜めになった体でのれんを手で押すよりも更に、数時間前へ――



だいたい飲み会なんて面倒くさい行事はすべて絶対に拒否していたのに、その日はどういうことか居酒屋ののれんを無言でくぐっていた。まあしらばっくれても仕方ないので説明すると、仕事先でかつて大学のゼミで一緒だった人間と遭遇した。世間話に付き合っていると「今日はこれからゼミ仲間で集まるんだよ」と聞いてもいないのに告げられて、通りすがりの上司に「たまには行きなさいよ。人間付き合いも大事なんだぞ」と背中を叩かれお節介され、こちらがいくら「用事がある」と連呼しても聞こえないのかあれよあれよという間にこうやって強制連行。聞きたいことしか聞こえない耳の持ち主が一処にふたり集まるなんて奇跡だ。世知辛い。

内装は新橋のサラリーマンが通っていそうという感じ。油汚れにたばこ混じりの揚げ物の匂い。季節感を出すための笹の葉は倉庫から引っ張りだして来たのだろう。埃をかぶって灰色だ。せせこましい耳障りな中年臭はとてもじゃないが女子向きじゃない。なのに目の前の女子達はいったい。

聞こえてきた会話から推理すると、主催がカヲルが来るとFacebookで情報拡散したおかげで男子ばかりの集まりに半数以上女子が集まった。姿かたちはもう女子とも呼べないくらい社会に揉まれているけれど、カヲルの前でそわそわと色めき立つ顔はあの暗黒時代のまま。ああだから嫌なんだ、とカヲルは心底思った。こうやって見世物にされるのは。実際、名前を覚えている奴もいないから探り探り言葉を繋げて相槌を打つしかない。いっさい興味のない内容に。相手の男だってカヲルを客寄せくらいにしか思っていないのだから、話に内容なんてないのだ。

適当に貰ったとりあえずのビールをちびちび飲みながら、カヲルは帰りたいと願った。いつも感じる「どうして僕はここに居るんだろう」という疑問。何百回目だろう。こうやって背骨から糸で吊るされただけの操り人形の心地になるのは。

「お前って彼女まだ出来ないの?」
「必要がないからね」

他人事の人生をやり過ごしたらいつか安息の死が訪れるのだろうか。美しい仮面の下に広がってゆくのは闇。そう、カヲルは凛々しく美しかった。絶世のイケメンだ。

「まあ女には困らないから特定の奴をつくるのが嫌なんだろ」
「え〜ひどい」
「独りが好きだからだよ」

だから頼むから独りでいさせてくれ、カヲルはぼんやりと遠くを見つめてもうひと口のアルコールを舌に乗せる。酔わない酒は不味かった。でも口をつぐむ理由にはなってくれた。

魂が抜けて壊れた不気味な白磁のマリオネット。操ってくれる神の手から忘れ去られて受動的に生きている。こうやって物に主導権を託さないと生の痛みからは逃れられない。

なんで僕は生きているんだろう。

ふと、カヲルはすべてが馬鹿馬鹿しくなった。今席を立とう。金だけ置いて。もう二度と人間と関わらないようにしよう。そうだ、それがいい。あんな会社も辞めてしまおう。すべてを捨てて、自分自身も捨ててしまおう。一気に手持ちのビールを飲み干し、そうやって、重い腰を上げた時だった。

「通っぽい店だね」

それだけがくっきりと浮かび上がって聞こえたのだ。ピンと張りつめた声が鼓膜を射抜いたかのよう。反射的に、その方角へと振り向いた。

「トウジっぽいよな。オヤジしかいない」
「ちゃんと女もおるやないけ」
「冷や奴にしようかな〜」

もっと精のつくもん食えや、と頭を小突かれている。苦笑いしてメニュー表を取り合っている。勝手に注文されて届いたレモンサワーを楽しそうにストローでかき混ぜている。

カヲルは信じられなかった。

運ばれてきたお通しに会釈している、あのはにかみ顔。手を合わせていただきますと言っている、あの奥ゆかしい淡い唇。それを箸でつまみながら、懐かしい友人達の話に耳を傾けている、あの艶やかな丸い黒髪。

カヲルは一点を見つめるしかできなかった。そこだけがこの世界でリアルに色づき動いているのだ。そのテーブルはまるでスポットライトを浴びながら劇の登場人物を待っているかのようだった。自分の居場所なのに自分だけが不在の劇へ吸い寄せられていくカヲル。

「この小エビの唐揚げ上手いな」
「でもそろそろ冷や奴も食べたいんだけど」
「豆腐くらい家で食えや。1パックなんぼやと思てんねん」

なのに次の注文で届いたのは原価いくらかわからない冷や奴。さっそく両方の箸から両隅の角を遠慮なくいただかれている。その三角はかつては四角で、ふたつの意地悪なベクトルを振り払うのは、カヲルの役目だった。

あそこへ自分は行くべきだった、ずっと前から。そうやって状況を整理できたのは数時間後の真夜中のこと。その時のカヲルは頭の機能が著しく低下していた。本能でしか行動が出来ない動物だった。カヲルのいるべきではない世界線では周りの人間が「おいおいどうしたんだよ」と硬直した彼を嗤った。それからカヲルがやっと席を立ったのは、視線の先のあの人がレモンサワー3杯で酔い潰れてピクリとも動かなくなった午後の11時半過ぎ。


「おい!!渚じゃんか!!」

中学の頃よりも落ち着いた声だった。

「やあ、久しぶり」

ケンスケとはSFの話をよくしていた。酩酊して引きずられている彼がよく聞きたがったから。まるで昨日まで会っていたみたいに馴染む空気を、カヲルは鼻から思いきり吸い込んだ。

「久しぶりじゃねーよ。こいつ全然起きないんだよ」
「みたいだね」
「も〜なんやねん。コレやるわ」

腕を肩にかけて引きずっていたお荷物をカヲルに押し付けるのはトウジ。制服を着ないでジャージばかりだった彼は今、スウェットにジョブチェンジしていた。まあそんな彼だから、こんな勘違いをしたのかもしれない。

「迎えに来んならさっさと言えや。ヒカリに断ってもうたやん」
「お前ら続いてたのかよ。碇何も言わねーんだもんな」

水臭いな、今度遊ぼうぜ、と強めにきつく小突かれる。そして返事も聞かずにふたりは颯爽と駅前に続く大通りへと消えていった。気の置けない関係はこうして少し水を注げばフリーズドライから元に戻るのか。いささかさっぱりした再会にドライの部分が戻っていない気もするが。取り残されてふたりきり。突然、肩にのしかかる重さと体温が実感になって胸の奥をざわつかせる。いつだって4人を半分に割ればこの組み合わせだった。

「さあ、行こうか」

どこへ、なんて考えもしなかった。それからカヲルは腕の中の華奢な青年の体を持ち上げて、ロータリーでタクシーを拾い、ネオンの銀河をワープする。と劇的な表現をしたくなる程、彼の瞳に映る夜の街は煌めいていた。寄りかかって爆睡する彼を運転手が「お友達泥酔ですね。やさしいなあ」と声をかけるので思わず頬が緩んでしまう。鼻下に指を当てて口元を隠した。ふたりが降りたのは一番近くのターミナル駅前にそびえ立つラグジュアリーな高級ホテル。不思議なことに運転手は「本当にお友達なのかな」と言い残した。ホテルでは電話予約しておいたのですんなりとキーを手にすることができた。ここでも不思議なことに、さっきまで満室だったのに突然のキャンセルが出たという。部屋はどこでもいいと伝えていたが辿り着いた場所は高層階のエグゼクティブな一室だった。頼んでないのに芳しいムードが部屋中に立ち籠めている。窓から覗く階下はたぶん何百万ドルの夜景。

そしてやっとベッドに寝かせて、間接照明の元で寝顔を見つめて、額にかかった前髪を指で梳いていた時だった。誘・拐・犯の3文字が頭に重くのしかかったのは。

それが冒頭のことである。



「いやいやいや」

別に僕は何も悪いことはしていない。酔って寝てしまったのはシンジ君の勝手だし、勘違いしたのは彼らだし。介抱するように頼まれたから連れ帰ったんだ。と言ってもまさか家に帰ったわけじゃない。別にここは変な意味のホテルじゃない。妙にロマンティックな部屋なのは僕のせいじゃない。

「誤解だよ」

急に汗が噴き出した。今度は、お・持・ち・帰・りの5文字が頭にいそいそやってきたので追い返す。真顔で壁を見つめる。ん、と喘ぎのような声が聞こえて飛び上がって振り返るとシンジが寝返りを打っていた。仕事帰りなのだろうか。スーツが窮屈そうだ。

カヲルは火照った顔を拭いながらシンジへとにじり寄る。腰を引きながら腕を目一杯伸ばした先は細い首に巻き付いたネクタイ。そっと結び目をほどいてするすると抜き取った。シャツに布の擦れる音の生々しさ。目を伏せて指をにぎにぎ屈伸させる。第1ボタンを外して第2ボタンを外して第3ボタンを外し…もう一度つけた。

「ん、ふ……」

極力意識しないようにはしているのに、心拍数は高まるばかり。毛布をかけたらもぞもぞと動かなくなってホッとした。何をホッとしているのだろう。見下ろすと緩んだ首元の鎖骨はすべすべ滑らかで、唇は艶々と濡れていて、シーツの消毒っぽい香りが蒸せ返るほどの色気を演出する。脱がして情事を始める時はきっとこういう景色なのだろう。

あの時、違う選択をしていたら。遠くの世界線では今頃同じ場所でふたり、こうやって体を重ねようとしているのかもしれない。

妄想を一時停止して、カヲルは髪を掻きむしった。

「弱ったな」

しんと静まり返った室内に響き渡る独り言。ひやっとして隣のベットに飛び退いた。シンジは起きない。犯罪者の気分がよくわかるビクビクぶり。詰めた息を長く吐いてカヲルはその縁に座った。セミダブルのスペースの端の端で膝を抱える。

自分の悪い癖は何も治っていなかった。猛省の中、どれくらいの時間が経ったのかわからない。無音では一秒は速度を落としとぼとぼと歩くのだ。歩く先は、10年前ーー



雨の少ない燃えるような初夏だった。今では心の原風景になってしまった。何度も忘れようとしては忘れられるはずもない、胸にしがみついて離れない日々。目を閉じて思い出すとどうしてそれは焼けたフィルムみたいな夕暮れなんだろう。どうしていつも自分を描いてしまうんだろう。彼の隣にいる自分を自分で見られるはずがないのに。

シンジは最初、友達だった。なのに最初から、特別だった。シンジと出会った瞬間に、この先ずっと彼とは繋がっていくだろうとカヲルは思った。今までの人生で感じたことのない運命的直感に彼の全細胞がひっそりとうちふるえた。

でもカヲルは少しずつ理解してゆく。自分がどんなに互いをひとつを半分にした存在だと感じていても、彼がそう思っているかはわからない。

「一緒に帰ろうか」
「うん、ケンスケ達下駄箱で待ってるよ」

わからないから苦しくなる。欲しい欲しいと思ってしまう。自分の想いと同じだけ想ってほしい。もしも自分よりも他の誰かと仲良くなってしまったら、嫌だ。

「今日はふたりで帰ろうよ」

カヲルはシンジを独り占めしたかった。

「トウジ達とゲーセン行く約束したじゃない」

けれどシンジはそうじゃなかった。忘れた?なんて笑われてしまう。そんな時は、心臓が冷たい熱で炙られてしまう。

「僕は用事があるから先に帰るよ」

そう強がってひとりきり帰路についたカヲルを待ち受けるのは、嫉妬。自分のいないところでシンジはどんな顔をして楽しんでいるのだろう。シンジといる誰かを妬み、誰かといるシンジも妬む。最終的にはシンジは自分がいなくても楽しいんだから自分はいる必要なんてないんだと結論して、眠れなくなるのだった。

どうして「君を独り占めしたいから次はふたりきりで帰りたい」と言えなかったのだろう。今になってはそう思う。そういえばきっとシンジは喜んだのに。

中学生のカヲルはいつもすねていた。シンジに関わることあるごとに一喜一憂して自己嫌悪。目の前が真っ暗になって自分は心が狭いとひたすらに落ち込むのだった。シンジに対しての自分はまるで子供で、気持ちが言うことを聞かない。

「ねえ、帰りにケンスケ達と野球するんだけど」
「また?」

カヲルはシンジと対峙する時の自分自身が嫌いだった。どうしても感情的で面倒臭くてつまらない人間になってしまう。シンジはカヲルが怒る意味がわからず表情を引き攣らせる。それを見つける度に、またやってしまった、とがっかりして勝手に傷ついていたのだった。

だからって責任のある関係になろうとはしなかった。そんなことをしたら激しく感情の渦に飲み込まれてしまうから。カヲルは既に疲弊して平常心を保てないでいる。これ以上は、生命維持が困難になる。

「カヲル君、僕、何かした?」

貧乏ゆすりがピタリと止まる。あまりにも惨めでシンジ断ちをしたのにシンジ不足の禁断症状に陥っていた時だった(まだ思春期だから許してあげてほしい)。シンジは孤独に鬱ぎ込むことが増えたカヲルに寂しさを感じていた。

「別に。どうしてだい?」
「最近よそよそしくなったなって、思って」
「そんなことないよ」
「……何でも言ってよ。僕達仲良しでしょ?」

そんな会話をしてからの帰り道は、ふたつの並ぶ肩がくっつきそうなほど近い。上機嫌のカヲルは夕日の中でシンジをキラキラ濡れた瞳で見つめるのだった。シンジも鏡合わせのように同じ瞳で見つめ返す。ふたりは決して互いの心を口には出さなかったが、何か特別な瞬間を共有していた。甘くてうっとりとして……それは友情を超えている何か。そうやって満たされる時もあれば、

「シンジ君が何を考えているのか僕にはさっぱりわからない!」

何もかも投げ出してしまいたい時もあった。共有していた気持ちなんて全部嘘だ。目の前で自分よりもケンスケを選んだシンジ。思わせぶりにして自分をからかっているのかもしれない。ただのアイスだと思うかもしれないけれど、普通はより好きな人間から食べ物を受け取りたいに決まっている。

そんなくだらない嫉妬や被害妄想に溺れても、翌日シンジに笑顔で挨拶されれば屈して微笑み返してしまうからたちが悪い。カヲルはフラフラ感情の天秤を揺らしてしまう自分を恥じて消耗してゆく。やがて夜はひとり歩きの妄想が制御できないと気づき、眠くなるまで読書することを自分に課した。気がつくと頭がシンジで一杯になって同じ文章を繰り返し読んでいたなら机に頭をぶつけて自分を罰した。マインドコントロールのゲームはクリアする毎にレベルが上がって難しくなる。そうやって自分を誤摩化す幾度もの夜は、次第に彼の中に抗えない欲求を蓄積させていったのだ。

「シンジ君……」

昼間、学校で階段から足を踏み外したシンジを抱き留めた。ごめん、大丈夫?なんて心配しながらシンジは一瞬自分の腕の中から離れたがらない様子だった。気のせい?いや確かに感じた。鮮明に刻まれた感覚が蘇る。両腕で余るほどの細い腰、制服越しの柔らかな肉の質感。

カヲルは動物の本能で、もっとしっかり思い出そうと感覚を研ぎ澄ます。深夜、枕を使って確かめる。抱き締めながらイメージを重ねてシンジに近づけようとしたら、思春期の青少年の想像力は現実を超えてシンジをくっきりと思い描けたのだった。自室のベットで自分に抱かれる彼の姿を。シンジはいつの間にか制服が透けて、裸だった。

「君は魅力的すぎるんだ」

本音を口にしたら、たまらなかった。背骨が折れそうなくらいシンジを抱き締める。抱き締め返してくれないシンジが切なかった。カヲルはのぼせて、熱い体を擦り寄せる。

「はあ、」

こすりつけた股間が熱い。腰を思い切り押し付けたら全身に痺れが走った。切なさは上り詰めてゆく。カヲルは必死に体を上下に動かした。もっともっと、と次第に枕を下敷きにして、動物的衝動をやめられない。汗だくの体を揺さぶる。充血したペニスはこれ以上なく硬くなり、シンジを求めて、カヲルは自分でも驚くほどの喘ぎ声で鳴いてから、射精した。

切なさは機を熟して爆発した。これがカヲルの生まれて初めての自慰だった。いつの間にかズボンが膝まで脱げていてパンツが濡れて枕まで染み込んでいる。カヲルは現実を受け止めきれなかった。今自分は、幻想のシンジを犯したのだ。

「ごめん……」

カヲルはとても若かった。

「ごめん、シンジ君……」

純粋無垢なシンジを汚してしまった申し訳なさで死んでしまいそうだった。罪悪感はずっと彼にまとわりつく。


それからというもの、カヲルはシンジを避け続けた。周りはふたりが喧嘩していると思ったが、当事者のシンジにはわけがわからなかった。

そしてあの季節の終わりか始まりかわからないような初夏、しばらくしてカヲルはシンジから想いを告げられた。告白と言うには未熟で、でも身の丈の想いをシンジは振り絞ってくれた。カヲルよりもシンジはずっと強かった。

「仲直りしようよ。僕はカヲル君が好きだよ。ずっと一緒に居たい」

なのに、カヲルは逃げ出した。約束の場所に現れなかった彼は答えを出さずに音信不通。だからだろう。愛想を尽かされてしまったのは。

「好きな人が出来たんだ」

諦めきれずに踏み出した一歩は、遅すぎて届かなかった。カヲルはあまりのショックに立ち直れずに不登校になりやがて、引っ越してしまったのだった。


今あの時に戻れるなら、何だって差し出すだろう。
シンジは背が伸びていた。丸い頬がすっきりと大人びていた。筋肉がほんのりついて美しく成長していた。その過程を自分は見られなかった。もう永遠に見られない。

カヲルは目の前の現実に、一緒に過ごせなかった時間の重さを思い知るのだった。

もう二度と離れたくないな。

カヲルは熟睡するシンジの額をゆっくり撫でる。

でもシンジ君はあの好きな人とまだ続いているのかもしれない。
いや違う相手がいるのかもしれない。
体の関係があって、本当に心から愛していて、もしかしたら将来の約束があるのかもしれない。
なら僕はどうする?
また同じ過ちを繰り返したくはない。
でも本当に愛しているなら、彼の幸せの為に身を引くべきだ。

もし許されるなら、ずっと友達として側にいたい。特別な友達として。
その誰かじゃ埋められないものを僕が埋めてあげたいんだ。
そうやっていつか僕の元へ戻ってきてくれたなら。

前髪を梳いた指をそっと離す。

ああ僕は。君の幸せを願いながら、同時にそれを奪おうとしている。
いつまでも自分本位だな。

きっと僕は、君に最愛の誰かがいることなんて、耐えられない。

ベッドとベッドの止まり木に休むふたり。その対岸の距離は果てしなく遠かった。じわりと瞳に溜まる涙。呆然と心が立ち尽くすカヲルは湧き出る想いをそのままに溢れ返らせるのだった。そしてもうすぐシンジが目を覚ますだろう。
止まっていた時計の針がタイムラプスの星巡りの速さになって、動き出す。




秘密の恋の切なさは死んでしまいそうなほどだった。それはとても厳重に守られていて、自分にもその気持ちは内緒だった。
友達以上恋人未満という表現がしっくりときた。確信もなく「好き」――曖昧な言葉に曖昧な想いを乗せた。背伸びすれば秘密を知ってしまうから子供でいようと努力をしていたのかもしれない。その好きを解剖したら、友達として好き、を、恋愛として好き、がとっくに侵食していたような気がする。

雨音で目が覚める。昔の、とても昔の夢を見ていた気がする。思い出しては何度も息の根を止められたから、もう忘れると封印していた彼方の記憶。窓を打つ雨の粒は力強くて夏の匂いを感じてしまう。シンジはこの季節が嫌いだった。昨日だって夏は嫌だと散々喚いていた。いや違う、喚く前にレモンサワーに溶かしたんだった。かき混ぜたら氷の音が涼しくて、急に胸が苦しくなって、居酒屋で。居酒屋で?

寝息が聞こえて目を見開いた。自分は寝ていないのに。いつものシーツはこんなにシルクの肌触りじゃない。真っ白なベッド、真っ白な肌、懐かしい、真っ白な匂い――

「わああああ!!!」

真横で寝息を立てている塊を思いきり蹴飛ばしてしまった。何?今の?床に落ちたんだけど?ここはどこ?僕は誰?酔ったらお持ち帰りって男も対象内なの!?

「い……たァ、」

僕は誰じゃないソイツは誰だよと身構えた時、這い上がってきたのはあの、銀髪だった。

「酷いよシンジ君。頭打ったよ」
「カヲル君!?」

そういえば、あまりにもそっくりな幻影を見てしまって最弱なのに3杯も飲んでしまったんだった。

「……のそっくりさん?」
「いや僕は本物のカヲルだよ」
「嘘だァ!!」

リアクションが若返ってしまった自分が恥ずかしい。僕はカヲルだよ、と念を押されたら驚いて嬉しくて口が変に歪んでしまう。そんな顔を見せられなくて毛布に包まり反対を向く。ドキドキが止まらない。

「どうして僕達ここにいるの?ここどこ?」
「第3新東京駅のホテルだよ。君が酔い潰れてたから、運んだ」
「ケンスケ達は?」
「僕に君を託して帰ったよ」
「なんだよ、つれないなぁ」

会話が途切れてから気づく。服の乱れに。毛布の中を覗くと腰のベルトが緩んでいた。

「……へんなことしてないよね?」
「してない!してない!」

必死にベッドの縁から弁明する声。ワイエスのクリスティーナの世界みたいな体位だろうか。くすぐったい。どんな顔をしているのか確かめたいけれど、そしたら自分の表情だってだだ漏れだ。

「ネットで見たよ。お酒で酔わせてお持ち帰りって」
「誤解だよシンジ君!!」
「キスくらいしたんじゃないの?」
「!?!?」

キャラが違ったって構わない。10年分のたくましさを見せつけてやる。カヲルが去って、どん底まで落ちてから今まで頑張ってきたんだ。ああ復讐のムズムズが止まらない。

シンジは出口を探した。毛布を丸めて立ち上がる。

「ということで、僕は帰るから」
「え!?待って!!」

カヲルは床を這ってがむしゃらに立ち上がりドアまでダッシュ。案内どうもありがとう。それを指標にシンジは出口まで辿り着く。

「どいてよ」
「ダメだよ」
「どうして?」
「ぼ、僕は君を誘拐したんだ!勝手に帰っちゃいけないよ」
「でも大事な用事があって」
「……」

カヲルの眉がシュンと下がる。うるうる捨てられそうな仔犬の顔になる。

「ダメだよそこで弱気になっちゃ」
「え?」
「何が何でも絶対に帰さないくらいの気迫がなきゃ」

赤い目が白黒して……表現が珍妙だがカヲルは必死にシンジの望んでいるニュアンスを探り当てようとする。

「僕は誘拐犯なんだから命令に従いなさい」
「ハア?」

イラッときた。前科者のくせに。不正解。失敗は何度までが許されるのだろうか。

「話そう。雨が上がるまで」
「うん」

すると意外とあっさりベッドに戻ったから、脳の処理が追いつかない。


雨がふたりを軟禁する。そしてカヲルはシンジを誘拐して拉致して監禁までしている。らしい。厚い雲の薄明かりが今のふたりには心地よかった。夢かもしれない現実感に包まれている。ふたりは朝食を食べるのも忘れてそれぞれのベッドに寝そべり向き合っていた。

「久しぶりだね」
「10年ぶりだよ」

カヲルはうっとりと穏やかに微笑んでいた。

「ふふ、よかった」
「ん?」
「やっぱりカヲル君だなって。昨日のカヲル君はなんだかカヲル君じゃなかったから」

自分を見ているカヲルの目尻は柔らかく色づいている。感情のないマネキンみたいな昨日の彼は本物かどうかも疑わしい出来だった。

「僕のこと気づいていたんだね」
「病んじゃったのかと思った」
「僕が?」
「僕が」

意識を失うまで幻覚だと自分に言い聞かせた。過去を乗り越えたつもりだったのに。強がっていたのかもしれない。こうして生身のカヲルを目の当たりにすると、自分は本当に綺麗事が好きだなと思う。

「元気だった?」
「元気だったよ」
「僕も」

元気だった筈がないのに。食事が喉を通らなかった。眠れなかった。笑えなかった。自分がおかしくなっていくのに誰にも話せなかったから、死のうとまで考えた。だから死んだように諦めて生きてきた。そんなことを言ったら重いと嫌がられてしまうだろうか。今だってふと思ってしまう。

どうして僕のことを嫌いになったの?



あの夏、答えも貰えなかったシンジは地獄の苦しみを味わった。カヲルは自分さえ覚悟を決めたら何でも受け入れてくれるものだと思っていた。自分の何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、ぐるぐると抜け出せないスパイラルにシンジは沈む。自分から一歩を踏み出すことさえ相当な勇気が必要だった。自分自身を変えるほどの大きな決断だった。シンジにはもう余力がなかった。

あの、口に出さなくても好きと叫んでいるような瞳ではもう見つめてはくれない。見つめるどころかむしろ避けられている。嫌われている気がする。連絡すらままならないのだ。なら、もういい。これ以上深入りしたら自分が壊れてしまう。頑張って、壊れてしまって、どうなる?誰も助けてくれない。

叶わないなら、自分から気持ちを捨ててしまえばいいんだ。

「好きな人が出来たんだ」

(だけどね、もう僕のことは好きじゃないみたいなんだ。君のことだよ、カヲル君。)

最初は怯えた。放課後の音楽室、沈黙がヒリヒリ痛かった。

「そうか……」

次第に乾いた元気が湧いてきた。

「だから、ごめん」

勢いで笑ってしまう。馬鹿じゃないの。何も嬉しいことなんてないのに。神経が病んじゃったのかもしれない。

カヲルは不思議な表情になった。ホッとしたような、泣きたいような笑いたいような、あらゆる感情を綯い交ぜにしたその顔はどの感情で形成されたのか、未だにわからない。シンジはそんなカヲルを見上げて心臓発作で死んでしまいそうだった。

唇がぴくりと動くカヲル。言葉が出てこないのか、何度か口を開いては閉じ、やがて静かに深呼吸ををした。

「君の幸せを願ってるよ」

睫毛が痙攣していた。白い頬に朱が差して瞳には涙が張って、それを隠すようにシンジに近づいて、視界を暗くぼやけさせたのだ。

最後に……するなんてひどい。

一瞬、唇がもしかしてと待ち、緊張した。なのにかすめることもなく数ミリ隣にそれは落ちた。頬にとも言えない名前のないキス。羽根のように柔く遠慮がちな温度はじわっと溶けてやがて消えた。止まらない涙をそのままに、取り残されてしまったシンジ。せめて最後のわがままとして唇にしてくれたなら。そしたら何か変わったのかな。

ああそうか。僕は最後にすがってほしかったんだ。
僕の大切さにやっと気づいたから、いかないでって。そう思ってほしかったんだ。
そして僕は賭けに負けちゃったんだ。

ひとり唇を舐める。自分の涙の味しかしない。振り返らなかったカヲルの背中が恨めしかった。



第3新東京市の上空に垂れ込める低気圧。初夏の雨は止まらない。大人になったふたりが答え合わせをするまで止む気なんてないかのように。

「付き合っている人は、いるのかい?」
「いるよ」
「……」
「嘘」

最初のテンションは収束して、トーンが下がるとふたりは互いを探り始める。

「からかわないでおくれよ」
「死にそうな顔してたね」
「僕がショック死したら診断書には死因、シンジ君って書いてもらうよ」
「あはは、そしたら僕は殺人犯だね」

どこまでが許されて、どこまでが顰蹙を買うのか。

「本当に、心臓に悪いよ」

どこまで駆け引きをするべきなのか。

「……カヲル君はいるの?」
「どう見える?」
「そういうのいらないから」

ベッドから起き上がって窓の前に立つシンジ。いつになったら止むのだろう。もう止まないかもしれない。ふとそんなことを考えて、雨の通り過ぎる様に目を凝らす。手の届かない遥か上空から雫は落ちているのにどうして痛くないんだろう。

痛みを痛みとも僕らはわからなくなってしまったのだろうか。

「ごめん、もちろんいないよ」
「僕も、ごめんね。なんだかいろいろ思い出しちゃって」

どうしても思い出してしまう、あの時の気持ち。



すがりつくような心地だった。いつも自分ばかりを見ているカヲルが急に遠のいてしまって、夢から覚めちゃったんだとシンジは落胆した。

僕はそんなに魅力的じゃない。なのにカヲル君は何かとてつもない勘違いをして僕に夢中だった。ううん、夢中なんて、僕は自意識過剰だったんだ。今、僕まで一歩退いたらふたりの間にあったものは全部なかったことになっちゃうんだ。でも、仕方ない。仕方ないよね。

シンジは声を噛み殺して泣いていた。枕に顔を押し付けてシーツをきつく握り締めて。誰にも悟られないようにひっそりと号泣した。

それで諦めて本当にいいのかな。
僕は後悔しないだろうか。
もうカヲル君みたいな人なんて現れない。

カヲル君は僕に価値をくれた。
初めて好きって言ってくれた。
どの好きかなんてわからないけど、
それだけで嬉しかった。

だから、今度は僕が一歩を踏み出したい。
僕も好きってちゃんと伝えたい。


本当は、

(どうして僕のことを嫌いになったの?)

と聞きたかった。なのにシンジはカヲルを呼び出してから怖気づいてしまった。避けないでよ、何か言いたいことがあるんならちゃんと言ってよ、急によそよそしくならないでよ、そう怒りをぶつけたいことは山ほどあったのに、からっぽの音楽室の夕日にほだされて、

僕はカヲル君がいてくれたらそれでいいんだ。

良い子になる道を選ぶ。

「仲直りしようよ。僕はカヲル君が好きだよ。ずっと一緒に居たいんだ」

そう言えばカヲルが楽だろうとシンジは思った。

「1ヶ月前の約束、覚えてる?僕待ってるから」

本音をさらけ出さなくても当たり障りなく、仲直りして今までの距離に戻れると思ったのだ。

「その時、カヲル君の気持ちも聞かせて」



雨脚が少し軽くなった。それはタイムリミットを告げているかのようだった。刻一刻と迫る別れの時。あの会話なら、雨が上がったら「もう僕いくね」と鮮やかに立ち去らなきゃ格好悪い。

「雨止んできたね」
「少しね」

シンジが振り返るとカヲルはベッドから起き上がり縁に腰をかけていた。

「ねえ、シンジ君」
「ん」
「せーのでお互いに一番言いたいことをひとこと言おう」
「ひとこと?」
「それで30秒はじっと黙ってるんだ」

挑むような目をされて、シンジもベッドの縁に座り向き直った。
そして深呼吸。

「「せーの」」

「好きな人って誰!?」「どうして僕のことを嫌いになった……ってそこ!?」

発言したくてたまらないのに強制沈黙。そこ!?そこが気になるの!?と口パクで怒るシンジはこんなにも机上のライトをへし折りたいと思ったことはない。

30秒経過。

「ねえ!10年ぶりに一番聞きたいことがそれっておかしくない??」
「すごく気になるんだ。僕の居ぬ間に忍び込んだ泥棒猫が」
「ちょっ」

怒りたいのに吹き出してしまう。ああ悔しい。昔からカヲルは変な言葉でシンジをくすぐるのが得意なのだ。

「好きな人って……いないよ」
「え?」
「正確にはカヲル君だったけど」
「待ってシンジ君」

カヲルは首を捻って、幾分か捻り過ぎて、それでもわからなくてうーんと唸った。

「つまり君は僕のことが好きだったけど、僕のことが好きで僕を振ったのかい?」
「そうなるね」
「意味がわからない」

カヲルは頭を抱えた。

「僕の質問にも答えてよ」
「僕はシンジ君のこと嫌いになったことなんてないよ」
「嘘つき」
「むしろ好き過ぎて病んでるくらいさ」
「ならなんで僕を避けたの?」

鋭い目で追うほど一方の目は逃げ惑う。

「あの時は……若かったんだよ」
「説明になってないよ」

シンジの目が座り始めたからついにカヲルは観念した。はあっと溜まった息を吐く。もう時効だ。

「君で……したから」
「何を?」
「何ってオナニーに決まってるじゃないか」
「なんでそんな常識みたいに言うのさ」

あーあ、せっかく格好良いイメージを築き上げてきたのに。台無しだ。カヲルは大の字で寝そべって天井を見上げた。

「結構ちゃっかりグロテスクにしてしまったからね〜ウブな僕にはつらかったんだよ」
「僕でオナニーしといてウブとか言わないでよ」
「そうだよ。ウブな僕は君を汚した罪悪感で心が折れてしまってたんだ」

もうヤケクソだ。

「最低だろう?」
「オ……それくらい気にしないよ」
「本当かい?」
「少しは引くかもしれないけど」
「ほらね」

足を子供みたいにばたつかせてうるさいカヲル。あーあ、シンジ君が引いちゃった、なんて完全に幼児退行している。

「僕達が10年も離れ離れになった原因がそんなだなんて僕だってやになっちゃうよ」

あーあ。バタンとベッドに倒れて天井を見上げた。あの日のようだとシンジは思った。

「何度も夢であの日をやり直したんだ」

カヲルの声にシンジの意識が時空を交差し透けてゆく。



星降る夜、手を伸ばしたら届きそうな天の川。1年に1度の奇跡、なのに君は来なかった。こんな日だから神様は嫌いな僕に何もご褒美をくれなかったんだ。

1ヶ月前に約束したんだ。七夕が晴れたら天の川を見ようって。真夜中にあの空き地で待ち合わせしようって。

だからシンジは駆け出した。今日だけ、今日だけでいいから僕を映画の主人公にしてくださいと神様に祈りながら。だって今、第3新東京市は雲ひとつなく晴れ渡っている。見上げれば星が降りそう。ビル街を抜け出せば、あの高台の空き地なら、最高の夜空が見えるはず。

満天の星空の下、ついにカヲルはシンジを見つけて秘めた想いを告げるだろう。僕もずっと同じ気持ちだったって。目を見れば互いの気持ちなんて手に取るようにわかるから。ちょっと弱気になった彼の背中をシンジはちゃんと押したんだ。もうふたりを阻むものなんて何もない。

世界は確かなものだった。障壁はハッピーエンドのためにあった。約束なんてしていないのに、そこには疑いようもない約束があったのだ。

「僕はあの日、カヲル君を待ってたよ」

手を伸ばせば透徹の夜空。瞳に映るのは幾千の降るような星。

「君にも見てほしかった」

点滅が滲んで指先が届かないのも、あの日のまま。

「星が綺麗で、悲しかった」

誰も来ない原っぱでひとり星空を眺めるのは怖かった。涙で滲んだ夜空はただの闇だった。約束なんてなければ絶景に胸が踊るはずだったのに。1秒1秒に、来てほしい、来てください、と願っては叶わないあの夜は恐ろしいほどの静寂で、美しくて、残酷だった。地球に自分以外いないんじゃないか、僕は気が狂ったんじゃないか、と疑いもした。そんなことを信じ始めても、カヲル君はもう来ないんだ、と認めて諦めるのはとてもとても大変だった。

10年後も涙が溢れてしまうほど、それはそれは残酷な満天の星空だった。


「あの日に帰ってやり直したい」

カヲルはあの日のシンジを想って涙をこぼす。自分のした仕打ちにふるえながら。今までシンジの目であの星空を見上げたことは一度もなかった。

本当は、カヲルはあの星空を知っている。あの時、1ヶ月前の会話をちゃんと覚えていた。そして真夜中に駆け出した先、遠くにシンジを見つけたとたん、足を止めた。

シンジは手を伸ばしていた。それがあまりにも透明で、カヲルはふと躊躇ったのだ。自分は不釣り合いなんだ、と心の底から思ってしまった。だからカヲルは逃げ出した。

結局はそれも自信がないという自己愛の一種だったんだろう。だからカヲルはその想い出を胸の深くにしまい込む。永遠に。埃をかぶってしまうまで。


14歳の少年がひとりきりで大切な友達を待っている。好き、たぶんお互いに恋だった。なのに彼の待ち人は来ないのだ。10年間もやってこない。


カヲルが肩を小刻みに揺らして泣く。ごめん、本当にごめん、と囁く。シンジは立ち上がりそんな彼の背中をさする。

「僕は身勝手だった。君を幸せにする自信がなかった。僕は君にふさわしくなかったから」

カヲルは悶えて身をよじりシンジの膝に額を擦り付けていた。

「でもねシンジ君、好きだから手放したんだ。君を自由にした。君のためだと、思ったんだ。それでも、想いが、通じ合えたらいつか、って……」

嗚咽を漏らしながら懸命にそんなことを言っている。

「僕はそんなこと望んでなかった」
「そうだよね……ごめん」
「カヲル君は無敵なのに僕のことになるとすごくちっちゃくなっちゃうよね」
「そうだね」

弱りきっていて苛め甲斐もない。

「ねえ、やり直そうよ」

シンジは手持ち無沙汰で銀髪を捻りキューピーちゃんにしながらそう呟いた。

「今日は何の日?」
「再会した日」
「それは昨日でしょ」
「僕が拉致監禁した日?」
「自虐的にならないでよ」

カヲルは鼻水をシンジのシャツで拭きながら考えた(シーツかと思っていて気づくのが遅れた)。

「……七夕」
「ピンポン」

窓からはゆっくりと陽の光が差してきていた。

「あの原っぱ、駐車場になっちゃったけど空は変わらないからさ」

まだ気にしてあの場所を訪れていたことがバレませんように。何度か夜空を見上げては来るはずもない人を待ち続けていたことは僕自身にも内緒だから。

ねえ、だから、今度こそ。

「真夜中に来て。待ってるから」



同級生の結婚式の打ち合わせの帰りに居酒屋にやってきた。今日のシンジは不機嫌だった。本人は隠しているつもりだけど。店の厚意で置かれたテーブルの上の短冊も無意識にひっくり返している始末。トウジはおしぼりを顔に乗っけてハフハフしている。ケンスケはストローの袋をギザギザに追って、目の前の仏頂面にピッと飛ばした。

「七夕ってさ織姫と彦星が会う日だよね」

腕に命中したそれを散り散りに破りながら誰とはなしにシンジは投げかけた。

「そうだな」
「何に願いを叶えてもらいたいんだろうね」

お盆やクリスマスのように訳もわからず慣習を鵜呑みにしている日本人とは違う。そんな得意げな顔をしてみせた。

「実際のふたりの距離って知ってるか?」
「ううん」
「ベガとアルタイルの距離は15光年、光の速さでも15年はかかるんだぞ」
「へえ」
「一生のうちで1度、会えるだけでも奇跡だよ」

妙に響いたその言葉に、驚いて顔を上げた。

「……どうしたの急に」
「この前の合コンの子とさ、へへ」
「「おお」」

眼鏡の奥ではキラキラの目が明後日を見つめている。馬鹿みたいだ。でも、いいなと思う。自分はその季節を過ぎてしまった。シンジはぼんやりと胸の痛みをあやしている。あの季節はいつだったろう。そうやって思い出せないふりを何年してきたのだろう。眩しくて目がくらむあの日々。歳月と共に美化されて、いい想いだけが抽出されてしまったのかもしれない。

出会えただけでも奇跡……か。

もう顔の隅々まで思い出せる自信もないけれど。でも確かに、胸の中にずっとずっと住んでいる人。思い出せばほら、きゅっと苦しくてたまらない。

そうだね。こんなに忘れられない人に出会えたんだ。

それだけでいい、そう密かに頷いてシンジが前を向いた時、カヲルがいた。



雨上がりの第3新東京市は嘘のように雲ひとつなく晴れていた。喧騒のビル街を駆け抜けるシルエット。

待っていて。もうすぐだから。

高まる心拍数は全力疾走のせいだけではない。時計の針はまもなく夜空を指差すだろう。真夜中寸前、薄っすら輝く天の川の下、カヲルは走る。遠回りをしすぎたけれど、10年も待たせたけれど、もう迷うことなく走る。走り続ける。

もう一度、ちゃんと恋をするために。



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