君の指先に世界がとまる



アスファルトにコントラストが眩しかった。サイズ違いの白いスニーカーの間を切り取り線が斜めに歪みながら続いていた。黒い斑点の行列は境界ブロックの段差を横切り、くっきり広がる青野原へ。蟻は雑草を掻き分け土山を越えて蝉の屍骸に群がっていた。シンジとカヲルは首を垂れてただそれを見下ろしていた。聞こえないように、感嘆の溜め息を漏らしながら。

シンジにはこの公園が懐かしい。ここに迷い込むまで自然とは図鑑におさまる出来事だった。そして初めて迷子になった幼い日、ここで見聞きしたものは敷地外のそれよりも鮮やかに眩しくて、シンジは醒めない夢の世界にいた。彼らが現実離れしているのか自分がそうなのか。曖昧な夢と現実の接触点、感じるささやかな生の躍動。彼らはどこか懐かしくもあるのだった。ヒトのシンジにはそうだった。

一方、カヲルはヒトとそっくりの生き物で、全く違った。それは誰にも知られてはいけない秘密。だから彼にはそれらが懐かしくもないし、幾分も鮮やかではない。虫の食物連鎖は図鑑で見たことがあるから驚かない。生態系だって既に授業で習っている。ただ、シンジが興味を示すから、同じように驚いてみた。それらを眺める時のシンジはいつもより少しだけ、カヲルとは遠かった。

カヲルは蝉の葬列への溜め息を真似してみた。ただ虫が死んでいると思いながらも、すごいね、と囁くシンジに、そうだね、と頷いた。



「取り壊しになるんだ」

あの夏から季節は一巡りして、ふたりの足がまた止まった。下校途中、通学路は住宅街に横たわり歩道橋から目抜き通りへと続いていく。けれどこの日は車道の舗装工事の為に裏路地へと回避したのだ。家々の間は人と自転車がすれ違うのがやっとの幅。度々ふたりは肩が触れ合うほどに近かった。

シンジが指差す方、無機質な看板が立っている。

「駐車場になるんだって」

ここへはスーパーの特売日と買い物当番が重なった時にしか通らなかった。蝉の葬列はもう跡形も無くなっていた。

「へえ」

カヲルは返事ひとつで歩き出したがシンジはまだ立ち止まっている。首を傾げて後戻り。カヲルは言葉を選び直した。

「残念だね」
「小さい頃遊んでたんだ」

そうぽつりと呟いて、シンジは後ろ髪を引かれながらその報らせから立ち去った。最後にもう一度振り返り、目に光景を焼き付けて。

そこは近所の子供達におうまの公園と呼ばれていた。砂場とブランコの間に木馬が二頭、鎮座していていたからだ。木馬といっても分厚い丸太を金具で固定し縄で締めたような簡素な仕立て。遊び方はよじ登るくらいしかない。だから子供達の大半は横の砂場かブランコでたむろしていた。

シンジからそんな話を聞いてもカヲルは何とも感じなかった。事実だけを受け取った。

「想い出の物が壊されてしまうのは寂しいことだね」

カヲルはシンジの肩にそっと触れた。

「カヲル君はいつもやさしいね」

ありがとう、と告げられて白い手は離れてゆく。


ヒトではないカヲルには触れた物の心象風景を覗ける能力がある。だから、カヲルはシンジが立ち尽くした心地を知りたくて、あの時そっと、肩に触れた。


幼い日、誰もいない公園でシンジは砂遊びをしていた。子供達の笑い声と足音は黄昏の鳥の囀りと一緒に遠くへと消えた。誰もが手に取れるように並べたシャベルやジョウロをとぼとぼとバケツにしまう。みんなが手を添えれば完成したかもしれない大きな砂の山はまだ不格好で、陰り始めた茜空の下、何かになることはなく小さな手によって崩されてゆく。大事そうに、そして、腹立たしく。

側にはあの木馬の遊具があった。ふと見上げると、グロテスクに昆虫の背中が割れていて空っぽだった。生まれて初めて見つけた蝉の抜け殻。そのすぐ側にはふやけたような生き物が湿った半透明の翅を畳んでうずくまっていた。珊瑚の明るい緑を光で薄めたような、薄緑。見たこともないくらい美しくて、怖かった。それはじっと動かなかったけれど確かに生きていたのだった。殻から這い出し初めて見る世界に怯えているようだとシンジは思った。息を詰めて日が暮れるまでただそれを見つめていた。ふと溢れた涙を拭うと袖は泥が付いていて、鼻水と混じって、シンジの丸い頬が汚れた。

__どうしてこんな想い出を大切にするんだろう……


「落としたよ」

開き放たれた窓から秋風が前髪を梳く。頬杖と瞬きの教室の窓際で、視線を上げるとシンジが自分の定規を振っていた。

「最近カヲル君考え事してるね」
「そうかい」
「そうかいって、僕に聞くの」

くつくつと喉から込み上げる笑いを聞いて、カヲルは何が可笑しかったのかわからなかった。そして定規を手渡されて、やっとそれが落ちていた事実に気づく。

「ぼーっとしてるなって思って」

最近のシンジは迷わずカヲルの目をじっと見つめる。それは論理的に考えて戸惑うこともないはずなのに、カヲルは沸々と居心地の悪い感情に悩まされた。それが何なのかはわからない。わからないことは神経を苛つかせる。だからだろう、今もこうして我慢比べをしてしまうのは。挑むように視線を繋ぐと、シンジは小さく瞳を揺らした。

「何もしていないからそう見えるんだろう」
「そういうわけじゃないけど」

シンジは同じ体温の彼らとの調子を持ち込む。斜め前で仲良くふざけ合っていたあの喧噪を。肌なじみの悪い、カヲルとは相容れないそれ。カヲルはついに降参して、目を逸らした。

接続詞の先を待ったが届くことはなかった。ついさっきまで友人達と交わしていた言葉は途切れることがなかったのに。ガラス越しにグラウンドの土埃が舞う。千切れたプリントが流されて視界から消えた。

「……僕に用なの」

消えた視界の先を想う。あのプリントは土に還るまでずっと異物としてこの街を彷徨うだろう。人には塵として踏まれ、雨にふやけてもまだ残骸を晒して、こうして時折誰かの前を通り過ぎてゆく。誰の記憶に留まることもなく。

「何か悩み事があるなら相談に乗るよ」

見開かれた紅い瞳は予想もしなかった台詞に振り仰ぐ。

「僕でよければだけど」

目の前の朗らかな笑顔に感じる温度差はまるで、高い温度から低い温度へと見下されているようで、嫌だった。カヲルの頭には不思議なくらい千切れたプリントが焼きついて離れなかった。

「君が僕の悩みを聞いたらそれで解決するのかい」

挑発をするようにカヲルは含み笑いを浮かべた。急に引き攣る表情に、ああ、君はこんな質問でもそんな繊細な反応をするんだね、と頭の中で呟きながら、虚しさが襲う。肋骨の奥が疼くのを感じた。

__なんだろう、これは。

「気に障ったならごめん」

抑揚なく掠れてしまったシンジの声。カヲルは放った言葉のオブラートを慌てて手繰ろうとする。

「そうじゃないよ」
「いや、そうだよ」
「僕には検討がつかなかったから」
「僕が悪かったんだ」
「君は悪くない」

違う、そうじゃない、カヲルの白い手がシンジに伸びる__

「忘れて」

__けれどその手が呼び止める前に、彼は仲間の輪へと戻ってしまった。噛み合わない会話の最後を紡ぐように、白い手は宙を泳いでそっと机の上に着地する。まだほんのり温い定規を握り締めた。

どうしてシンジ君は勝手にお節介をして勝手に傷ついたんだろう。

カヲルは落ち着きなく机の下の足を小刻みに揺らしてしまう。彼は自分がそうしていることにも気付かない。指を組んで唇を押し付けて眉間にうっすら皺を寄せて。今度シンジが話し掛けてきたらどうしようかと考える……生憎、僕は今忙しいんだ、と目も合わせずに言ったらシンジは焦った顔をするだろうか……僕を独占したいんだったらまた次の機会にしてよ、なんて強めに言ったらこっそりトイレの個室で泣いてしまうかもしれない……可哀想に、シンジ君、と隠した唇がひっそり歪んだ。

けれど次の休み時間もその次の休み時間もシンジは近寄って来なかった。まるでカヲルが居ないかのように他のクラスメイトと楽しんでいた。賑やかな笑い声がカヲルをじりじりと責め立てる。自分は本当に透明になってしまったのかもしれないと錯覚して眉間の皺が深くなる。遠くから見ていると泣くのを我慢しているかのような横顔だった。

「カヲル君」

考えるよりも早く、首を回して視線は声のする方へ。

「カヲル君も一緒に帰ろうよ」
「……あ、ああ」

途端、カヲルは嬉しそうな照れ笑いを浮かべてしまった。それはシンジにも伝染して、頬を染めてにへらと笑った。カヲルはそんなシンジを見つけて自分が同じ表情で浮かれている事を知った。さっと耳が熱くなる。まるで自分まで体温が高いみたいだ。また不機嫌そうに俯いて、カヲルは眉間に力を込めた。口元は微笑みを残して。



登下校の道は皆と群れている時よりもふたりの時間が長かった。夏の名残りと秋の気配、木漏れ日が落とす陽射しがまろやかな並木道。暑さがぶり返すと蝉の声が聞こえるのに蝉をもう一匹も見かけないのは何故だろう。風に揺れる葉はかさかさと乾いた秋の音色なのに、見上げると鮮やかな翠色はまだ入道雲を想っている気がした。

「シンジ君は僕の言った事できっと落ち込んでいるんだよね」

ふたりきりになった途端、シンジの元気が無くなったからカヲルは小さく深呼吸する。それは溜め息にも似ていた。

「別に、ちょっと疲れただけだよ」

褪せてしまった表情は夏を想う秋風の樹葉みたいに移り気で。

「五分前までは疲れていなくて今になって急に疲れたのかい」

無意識に棘を孕む。いつもならシンジの疲れた事を気にする筈なのに。カヲルは食い下がった。

「僕とふたりきりになったら急に笑わなくなったね」

直接的な言い回しはシンジが嫌がると知っているのに。けれど当のシンジはただただ驚いて、焦りで張りつめた横顔をじっと見つめたのだった。

「カヲル君、どうしたの」

カヲルは何かを見つかってしまってはいけない気がして、肋骨の奥を冷やした。

「答えたくないから僕に質問しているんだね」
「違うよ、ただ」
「ならちゃんと僕の言った事に答えてよ」
「だから……」

シンジの言葉はぷつりと途切れて、目を泳がせて着地を探す。

「だから」

語尾を上げてそうカヲルが促すと、

「カヲル君には関係ないだろ」

まるで突き放すような響きで。先へ先へと足を速めてしまうシンジ。対照的にカヲルの足は鉛のように重くなる。アスファルトを睨みつけ、居心地の悪い鼓動に耐えている。紅い瞳は来た道を遡ってゆく。



瞼が下がりたいのに下がることが出来なくて震えていた。

痙攣する睫毛。縁取られた紅い瞳は唯まっすぐひとりを見据える。ひとりの背中。その背中は笑顔に囲まれていた。同じ体温を持った、彼らだけがわかり合える意思疎通を駆使して、肩を組み顔を寄せ合い笑っている。その雑多の中にはシンジの笑い声も混じっていた。同じ響きがした。彼らだけの音色。

振り返る背中。急に立ち止まったカヲルを置いて何歩も先に進んでから、シンジはふと後ろを気にした。カヲルは繊細な瞬きをした。シンジが何か言おうとする前、

「早く行こうぜ」
「あ、うん。カヲル君も早く」

急かされて彼らとまた歩調を合わせる、その背中。だからカヲルは自分の足が止まっていることに気づいて、一歩を踏み出す。冷たく感じた紅い瞳の違和感もそのままで、シンジはまた彼らの空気に溶け込んだ。彼らだけの空気に。カヲルと彼らとの距離は数歩、なのに、果てしなく遠い。

カヲルは得体の知れない痛みを感じて肋骨の辺り、その胸に手を当てた。ヒトではないその胸に。



__どうしてやさしくなれなかったんだろう。

紅い瞳はやがてアスファルトからゆっくりと前へ。離れてゆく背中へと移る。関係ないだろ、そんな語気の調子を引いて強張った肩、膨らんだ分寂しそうに猫背に縮まっている背中。カヲルにはシンジのしてほしい態度がわかっていた。いや、わかっていたわけではない。ちゃんと論理的な分析は出来ていた。シンジにとってカヲルは全てを受け入れ包み込むべき存在なのだ。カヲルがいじけたシンジに親切な態度を取るべきなのだ。ほら、今だってそう。カヲルはシンジが後ろを気にして足取りを遅くしたのを見つけた。けれど今のカヲルにはただ立ち尽くすことしか出来ない。言葉が見つからない。微笑みかけることが出来ない。

珍しくシンジからカヲルとの距離を取った。カヲルはそれが嫌なのに、追い掛けない。白い足は歩きたがっているのに、肋骨の奥では冷たい何かが無理にそれを止めている。ベクトルは二分して、支離滅裂に神経が分断されてしまったかのよう。あと一歩のところで、ついに何も出来ずに、カヲルは途方に暮れた。

そうしている間にシンジはとうとう振り返った。どうして追い掛けてこないの、とでも言いたげに、遠慮がちに恨めしそうな瞳を揺らして。カヲルは翳った表情でぽかんとしている。そんなカヲルに内心ぎょっとして、シンジは引き返した。眉を下げて困惑した表情で。

「ごめん」

でも面と向かった時にそう呟いたのはカヲルだった。これはシンジがよくやる行為。相手の顔色を伺ってまず謝る。反射神経による対人予防ライン。

「……どうして謝るのさ」
「わからない」

無表情で呟く。真似する気はなかったのだ。摩訶不思議な出来事だった。

「わからないのに謝るんだ」
「君だっていつもそうするだろう」

シンジの頬が半瞬に火照りだす。またくるりと踵を返すシンジにカヲルが手を伸ばす。触れ合う指先、敏感に弾けて握られなかったふたりの手。踵を上げたまま止まるふたりの白いスニーカー。

「また意地悪してごめん」
「ううん」
「最近調子がおかしいんだ」
「う……うん」

頭で考えるよりも先に言葉を紡ぐ。振り返れば絡み合う視線。ふっと力が抜けてしまう。淡く潤んだ瞳は緩む。ふたりはそれから何事もなかったかのように横に並んで道なりに進んだ。シンジには見えないようにカヲルは痺れた指先をかちこちと縮こめていた。

今までの彼とは何かが明らかにズレている。そのズレは少しずつ肋骨の奥深く積み重なってゆく。カヲルは今、火傷のように疼く指先を持て余している。

たまに触れ合うシャツ越しの肩に甘い高鳴りを感じては、密かに目眩。何故だろう、隣の横顔も見られない。ふたりはもう、次に立ち止まるまでひと言も交えることはなかった。


そして立ち止まったのはあの看板の前。その向こうでは大型車と作業員が砂利や土を事務的に処理している。遊具に覆い被さる埃まみれのブルーシート。雑草が薙ぎ倒されて水飲み場が裸にされた。目の前では樹木がクレーンに倒されようとしていた。無慈悲な重い圧力を掛けられメキメキと軋みながら、やがてケヤキの太い根が天を見上げた。彼らは暴力的に姿を変えさせられてゆく。

「本当に無くなっちゃうんだね」

寂しそうにシンジはその光景を眺めていた。

「夏にはね、土にたくさん穴が空いてて、そこから蝉が出てきたんだ」
「蝉の幼虫だね」
「うん。蝉って何年も土の中で眠ってから出てくるんだって。なのに一週間しか空を飛べないんだよね」
「割に合わないね」
「そうだよね」

カヲルはこっそりとシンジを見た。

「今土に埋まっている子達ってコンクリートで固められたりしたらもう出てこられないね」

ただシンジを見つめていた。

「ずっと眠ってずっと待ってて、やっと空を飛べそうだったのに」

カヲルは冷たいコンクリートの下でもがく蝉の幼虫を想像した。どんなに足掻こうとも分厚く硬い壁はピクリとも動かずに、間際まで奮闘して、やがて闇の中で絶命するその生涯。誰にも知られずにやがては腐り土となる。

この暗い土の外はどんなだろう。この翅は何の為にあるんだろう。

最期まで蝉は独りきりなのかもしれないと、カヲルは思った。

__ヒトになれたらどんな心地だろう。


紅い瞳を持つ彼は、きっとヒトとは何もかも違っていた。ヒトとは違う仕組みでつくられた躯体、そこに宿る彼の魂そして心。彼がその謎を解かない限り、隣の横顔との距離は縮まらない。

彼方からカヲルはシンジを見つめていた。


一番星がちらちらと輝く頃、幼いシンジはとぼとぼと帰路に着いた。結局、あのふやけた生き物は半透明の翅を広げて飛ぶことはなかった。辛うじて生きているだけ。湿った翅を広げても脆すぎてそのまま地面に潰れてしまいそうだった。

可哀想に。あの子は飛べないのに生まれてきちゃったんだ。

シンジは唇をキュッと噛み締めた。

ずっと死ぬまであそこにしがみついていたらどうしよう。

振り返ると宵の公園は不気味に影を落としていて、シンジはあの生き物を独り残した事が後ろめたかった。でも、彼が絶命する瞬間を見るのはもっと嫌だった。大丈夫大丈夫、と心の声で応援しながらも、反対の結末を胸に描いて、固い唾を飲み込んでいた。心から願うものほど遠くへと消えてしまう。手の届かないところまで。そうやってシンジは逃げ出したのだった。

それからのこと。
まだ街が眠りについている未明、青の刻。シンジはこっそりと玄関の鍵を開けた。そんな勇気はどこからやってきたのだろう。見つかって怒られないよう重いドアを静かに閉めて、誰もいない道路を駆け出した。まるで違う世界のようだった。澄んでひんやりした早朝の空気で肺を満たす、いつもより遠くまで響く足音に鼓動を早める。息を切らして坂道を登りながら、辿り着きたいようなずっとこのままでいたいような、そんな気持ちで足元に躓いた。そしてそれを振り払おうとシンジは膝を高く掲げた。

公園は神聖な静謐に包まれていた。おそるおそる馬の遊具に近づいてみるシンジ。居ない。あのふやけた薄緑の生き物が居ない。抜け殻だけがぽつねんと取り残されているだけ。シンジは地面に目を凝らしてから首を伸ばし木目を見上げた。すると馬の鼻先に、蝉が一匹止まっていた。もうあの目の醒めるような綺麗な色ではないけれど、確かに彼だとシンジにはわかった。

シンジは気づかれないように手を伸ばした。届かなくて背伸びをした。爪先に力を込めて、高く、高く。蝉はシンジに気づいたのか、ブンと羽音を鳴らし瞬きよりも早く翅を動かしながら、まだ青の深い夜明けの空へと飛び立った。ぎこちなく宙でよろめいて、でもしっかりと翅を広げて。シンジの頭の上を一周してから樹木に潜り、もう他の蝉とも区別がつかなくなってしまった。きっとこの合唱のひとつが彼の羽音。彼は新しい世界の住人になったのだ。

まるで体の内側から自分自身が広がってゆく心地がした。力を抜いて大空を振り仰ぐ。澄み渡る青に溶けて自分が果てまで続くみたいだ。シンジは茫漠としていて、それでいて、今なら何でも出来そうな気がした。僕だって、一歩を踏み出して羽ばたけば、空を飛べるかもしれない。そう思った。


「カヲル君」

シンジは居心地の悪い表情で彼の名を呼んだ。さっきからずっとカヲルに肩に手を置かれ見つめられて、どうしていいかわからない。意識しないようにしても恥ずかしくて頬に朱が差す。綺麗な紅い瞳が自分の瞳の奥の本当の気持ちまで覗いているような気がする。

数分前、カヲルは隣のシンジに振り返り、肩に手を伸ばした。そして瞬く間に幼い日のシンジの想い出のラッシュが駆け巡り、その余韻に身動きが取れなかった。自分のまだ知らない感情を反芻して、その処理が追いつかない。カヲルは感情によって思考を失くした。それは生まれて初めての事だった。

もう片方の肩にも白い手はとまる。紅い瞳は瞬きに震える。長い銀の睫毛が濡れて、温度の高い雫が溢れる。カヲルのヒトではない綺麗な顔は透明な表情で、ヒトのシンジへと歩み寄る。カヲルはシンジの肩を抱き、縋りついて額を押し付け首筋に顔を埋めた。泣いているようだった。でも嗚咽も聞こえない。ただ静かに、止まり木に休むみたいにカヲルはシンジにくっついていた。

シンジはおずおずとその背中を包み込む。触れそうで触れない遠慮がちな感触で撫でる。でもやっぱりしっかりとやさしく背中をさすったのだ。シンジは、ずっとこうしていていいよ、と囁きたかった。こんな気持ちは初めてだった。今まで背伸びしても届かないと想っていたものに、触れられた気がした。



一週間後__


「あの事件の話、聞いたかよ」

教室が不思議な熱気に噎せ返る。通学路も廊下もある噂で持ちきりだった。

第壱中近郊のとある公園が駐車場になる予定だった。しかしその計画は中止に終わった。確かに途中まで工事は進められていたのに、一晩のうちにクレーンも砂利もブルーシートも何もかもが消えていて、代わりに処分した筈の樹木や草が蘇っていた。水飲み場も遊具もいつもと変わらない様子で佇んでいた。

この怪奇現象はたちまち近所に知れ渡った。人間が悪戯でこんな事出来る筈がない。祟りじゃないかと大人達が、妖怪の仕業じゃないかと子供達が騒ぎ立て、ついには町内会やPTA、地主に業者を巻き込んで、元通りになった公園をそのままにしておく事に決まったのだ。

そしてこの都市伝説みたいな噂には尾ひれが付く。目撃者がいるのだ。女子高生の彼女曰く、深夜の公園で立ち尽くしていた少年が片手をかざすと、敷地内のあらゆるものが宙に浮き、渦を巻き、やり直しされたのだと。映像を巻き戻しするみたいに。彼女は言った。その少年は嘘みたいに白くて綺麗で、とてもこの世のものとは思えなかった、と。

「こわいね」

カヲルはその話をシンジから聞いた。

「でもよかったじゃないか。きっと夏にはまた蝉が出てくるよ」

嬉しそうにカヲルにそう言われて、なんだかシンジはくすぐったくなる。シンジはカヲルが虫にとてもやさしいと勘違いしている。あの日、もう土から出てこられない蝉の幼虫を想ってカヲルは泣いたと思っている。論理的でやさしいのにどこか冷たい印象があったカヲル。彼のそんな意外な一面に、シンジは、可愛いな、と密かに微笑んでしまうのだった。

そして、

「おーい、お前らはよせんかい」

放課後の帰り道、手招きする友人に誘われ、シンジが駆け出す。

「シンジ君」

呼び止められて振り返る。幸せそうな眩しい笑顔。紅い瞳は瞬きをした。


肋骨の奥から沸き起こり、得体の知れない何かが透明な翅を広げて飛び出した。
そしてそれはヒトではないカヲルの人差し指にとまる。
温度の高い呼吸のように開いては閉じている翅。
スウ、ハア……指先で翅を休める。
カヲルはじっとそれを見つめた。
それは鼓動の強さで舞い上がり、瞬きよりも早く翅を翻す。
そして空の果てまで消えてしまった。
きっと朝と夜が混じり合う大気圏を超えて、宇宙まで。


カヲルはシンジへと走り出し、シンジの腕を引っ張った。視線を合わせ、ふたりしてわからないという顔をした。

でも__

「明日からはふたりきりで帰ろうよ、シンジ君」
「……わかったけど、なんで」

カヲルは肺いっぱいに息を吸い込む。

「君が誰かと仲良くしていると変な感じになるんだ」
「変な感じ」
「そう、これはなんて名前の感情だろうね」

透明な翅は未知の宇宙で邁進する。

「君が僕だけに笑っていてほしいと願う気持ちの名前。君にはわかるかい」

真剣な表情でそんな事を聞かれてしまって、

“ 僕だって、一歩を踏み出して羽ばたけば、空を飛べるかもしれない。”

「……わからないや」

耳まで真っ赤になったシンジがまた歩き出す。こんな顔を見られたくない。歩幅を合わせて隣を歩くカヲルの白い頬もすっと高い温度の色に染まってゆく。照れたシンジの横顔がとても可愛い。肋骨の奥が甘く痛い。でも苦しいよりも、嬉しい。

何故だろう。

並んだ白いスニーカーの横、蟻の行列が誰かの食べ残しを背負って運ぶ。これを書いている私は葬列の反対の言葉を知らない。だから最後はこう書く事に決めた。
みんな、生きている。



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