XV. 嘘を解剖しよう






涙って
どうして塩辛いのかな

海は空を映してるから青いらしい
ならどうして
同じ青じゃないのかな

もしも
空も塩辛くて星まで塩辛いなら
僕が涙を流すときは
空も星を流してほしい

君に想いが降り注ぐように





僕の名前を呼んでくれた君。ずっと、そうして欲しかった。君の可憐な声で僕の存在を紡いで欲しかったーーー


夜の静寂に浮かび上がる君の音色。そのひと言で、やっと、息が出来る。胸の中が君の温もりで満たされて、頭まで浸されたら、もうそれだけで良かった。君が側に居てくれたら、それだけで良かった。

君が僕の掌に君のを重ねる。嬉しい。君の手の温もりが、まるで僕の魂にそっと寄り添ってくれているみたいで、嬉しい。

「ずっと君に会いたかった…」

僕の声は情けなく震えている。

「僕もだよ、カヲル君…」

涙で潤んだ声が拙くて愛おしい。

「君に話したいことが、あるんだ。」

君はそう云うと深くひと呼吸して、重ねた僕達の手を優しく外して、僕に振り返った。向き合う君は凛とした表情を讃えて美しかった。




ーーーーー…

くるしい
わかるのは、それと、
いたい

この感情は一体何なのだろう

僕は知らない
まだ、知らないんだ


君が去った後、僕は世界から取り残された。シンジ君の居ない世界は空っぽだ。いや、きっと、語弊があるね。僕は取り残されたんじゃない。君達の満たされた賑やかな世界と、僕の居る何も無い世界。ふたつの間には超えられない壁があるんだ。

どうして、胸が痛いんだろう。以前のそれとは違って気持ち悪い程の抉られる痛み。肺が壊れてしまったみたいで苦しい。狂った様な鼓動が云うことを聞かないで苦しい。僕はこんなものは知らない。

ーシンジ君…

壁に背をもたれ崩れ落ちるようにずるずると座り床に膝を立てると、目前には玄関、君を逃がした扉。

ーシンジ君…

壊れたレコードのように君の名前しか呟けない僕の頭はきっとおかしくなってしまったんだ。呪文の様に君を呼んで自慰のそれの如く身勝手な妄想。半透明な君がその扉を開けて僕に駆け寄り抱き締めてくれる。君は、きっとそうしてくれる。

そう、僕は参ってしまったんだ。かつて、君が憧れ慕う様に寄り添ってくれた僕の残像を思い出して、君は残念に感じるだろう。皮を剥がせば醜いまでに君を求めて縋る僕を君の瞳は哀しく映すだろう。君は僕に失望してしまったんだ。


ー僕は君を幸せに出来ない…


取り憑かれた様に君を呼び続けたけれど、君は戻ってきてくれなかった。





青の視点


「バカシンジ!いとしの転校生はもう転校しちゃったみたいね!」

朝、何事もなかったかのように、アスカは僕に話しかけてくれた。僕はそのことに密かに感謝した。

「ち、違うよ!今日から出張なんだよ。って、いとしのってなんだよ!」

「そのまんまよ。スケジュールまで把握しちゃって、まさにホモ夫婦ね!」

僕は半分図星な見解と昨日の出来事の余韻で言葉に詰まってしまった。

「じゃあ、俺もお近づきになりたいなあ。」

ケンスケが間延びした声で大きな独り言を呟いた。

「なんでや。ホンマにいけすかんヤツやったやないかい。」

トウジはそう言った後、少しばつが悪そうに僕をちらりと見た。

「だって、アイツの話が本当なら、かなりの大物だよ。俺をエヴァンゲリオンのパイロットにしてくれるかもしれないじゃないか。」

欲望に忠実な男である。

「センセ、そないな話、本当か?」

トウジが訝しげに顔を歪める。

「間違いないわ。ミサトに確認とったもの。」

僕が話す前にアスカが問いを拾った。

「か〜!凄いな!参謀長官か!どう頑張れば同い年でそこまで上り詰められるのかよ!」

「有事の時だけよ。普段は指揮なんてしてないわよ。ゼーレで何してるか知らないけど、しばらくはエヴァのパイロットとして日本に滞在するらしいわ。」

舌打ちをしながらアスカが苦々しげに言う。

「それにアイツひとつ上よ。」

「なんやて。ほならなんで俺らと授業受けとんのや。」

「知〜らない。そこにいるお嫁さんならご存知なんじゃないかしら?」

意地悪にニヤついて僕を見下ろす。

「そんな変な呼び方するなよ!いいじゃないか。カヲル君の勝手だろう。放っといてあげなよ。」

「でもアイツ、碇しか見えないって感じだったぞ。お前大丈夫か?」

ケンスケの眼鏡が怪しく光った。

「だ、大丈夫だよ!ケンスケまで何言うんだよ!」

ああ、僕の耳は今ゆでダコだ…

「センセも惣流に綾波に転校生にって体いくつあっても足りんなあ。」

「そんなんじゃないって…」

トウジが僕にとどめを刺した。頭を抱えて机に突っ伏す。


内心はカヲル君のことばかり考えていた。出張のことを思い出したのは夜で、しばらく会えないのにあんな風に別れてしまって、心が重い。カヲル君が今どうしているかを考える度に焦燥にかられる。今すぐにでも涙を拭ってあげないと、消えてしまうんじゃないか、と想像しては自惚だと自嘲する。

ーでも、この機会にちゃんと考えなければいけないんだ。カヲル君の気持ちはカヲル君に聞けばいい。けれど、僕は、どうして不安で泣いてしまったのか、自分を見つめて答えを出さなきゃ。カヲル君をもうあんな風に泣かせたくない。




使徒。シト。
ヒトとシト。
知恵の実と生命の実。

生命の実は永遠の命。死なない。
繁殖もいらない。好き、もいらない。

知恵の実は知能故に、心が複雑。
繁殖をする。好き、になる。

死なない魂。
知恵を持つ肉体。
それは、君。

ー知恵が心を複雑にした。

ー愛が拗れて恋になった。


君の言葉。

君の心は複雑になる。
ヒトの心に、なる?

今はその過程なのだろうか…

なら、
君はやがてみんなと同じになる?

いや、
僕はそのままの君が好きなのに…

どうしてそう願ったの?
どうしてそう願って、不安になったの?



ーーーーー…

「碇!」

「…ハイ!」

意識が二泊三日ばかり遠のいていた。

「真面目にやれ。」

「すみません…」

だらりと伏して伸ばしてしまった体を起こすと同じ列の一番前の席のアスカがこっちを睨んで口の動きだけで、バカ、と言った。

背筋を伸ばして真面目くさった顔をして、続きを思考する。




不安。
安心できない心。

なんで?

友達の居る教室。
大切な恋人。

ー内緒にしたいんだ。

ー何故?

だって、バレたらまずいじゃないか。

ー何故?

だって、普通じゃいられなくなる。


普通。
僕にとって、不安の反対。
不安の反対は、安心。

安心。
カヲル君の居る世界。
僕の心の安心。一番大切な気持ち。


ーならどうして君は不安になったんだい?

カヲル君…だって…

ーどうして君はこの教室では、僕と居て安心できなかったんだい?

だって…
だって、使徒とヒトは共存できないかもしれないと思ったんだ!

君と居る世界も友達や家族の居る世界もどっちも守りたかったんだ!

どっちも崩れてほしくないんだ…


ー僕は、最低だ。

ー自分のワガママで君を傷つけた。

ー僕は、

ーサイテイだ。


でも、シトとヒトは相入れないの?
カヲル君は学校の友達とやっていけないの?


ーやっていけるわよ!

なんでアスカがわかるんだよ!

ークラスが色めき立ってたじゃない。みんな仲良くなりたいのよ。

そりゃあ…カヲル君だから…

ー結局アンタは自分の心配をしてるのよ!アンタが王子様の横で色眼鏡で見られたくなかったのよ!

そんな、それだけじゃ、ないよ…

ーアンタはみんな手に入れたくて、渚カヲルとの世界に他者が介入するのも、アンタが積み上げた日常の世界を渚カヲルが壊すのも、嫌ったのよ。

だってしょうがないじゃないか!

…僕だって傷つきたくないんだ…


ー碇くんは弱虫ね。

綾波までそんなこと言うの?

ー大切だから、弱虫になる。私はそれを否定しないわ。

綾波…ありがとう…

ーでも、碇くんが誰も本当に信頼していないのは、哀しいわ。

…信頼してない?


ーだって、僕が君の大切な日常を破壊するのが怖かったんだろう?

カヲル君!

ー僕が…使徒、だから君の大切な日常を破壊すると思ったんだろう?

カヲル君…

ー君は僕を信じていなかったんだね。

違うよ!そんなはずないよ!

ーだから、君は僕を拒絶した。ヒト非ざる者の僕を突き放したんだ…

まさか!違うよ!誤解だよ!

カヲル君!


カヲル君!




ーーーーー…

「碇!」

「…はい…」

「廊下に立つか?ついでにバケツも持つか?」

「す、すみません…」

いつの間にか悪夢を見ていた僕の気持ちも知らずにクラスから漏れる笑い声。アスカもこっちを見ながら舌を出して僕を茶化していた。



僕はカヲル君に酷いことをしてしまった。勝手に心配して、不安になった。しかも、自分勝手な理由だった。確かに僕は、カヲル君が使徒故に他人に思いやりが持てずに、僕を道連れに孤立してしまうと想像した。けれど、例えそうなろうとしても、僕が君と周りの間に入って辛抱強く繋ぎ留めるべきなんだ。僕はカヲル君の隣でただひとりきりの理解者になって、ただひとりきりの味方だと示すべきなんだ。


だって、僕らはこの世界で共に生きていくんだから。


ー君に会えるまであと二日。
ー今すぐにでも、君に会いたいのに。





赤の視点


冴えない顔をして仕事をこなす。頭がシンジ君に占拠されても、そつなく任された事を淡々とこなせるのは、ヒト非ざる者故か。そう考えて独り自身を嘲笑う。


ー君は今、どうしているんだろう…

ー僕を想ってくれていたら…

あの赤毛が揺れて、僕の愛しい黒髪を攫う。

ー憎まれても、嫌われても、僕を想っていてほしい…

赤毛の彼女の側に居ないで。
僕だけの君で居て。

ー僕だけの君…

独り占めしたい、君を。
誰にも触れさせたくない。

『関係あるよ、僕はシンジ君の…友達、だから。』

違う。

『関係あるよ、僕はシンジ君の恋人だから。』

そう云って、僕だけの君だと自慢したかった。


自慢。
そんな愚かな感情、かつての僕には無かったのに。要らなかったのに。

でも、君がヒトの心を持ち始めた僕を素敵だと言ってくれた。同じ気持ちを共有出来て嬉しいと言ってくれた。

だから、育むんだ。
君の為に。
全ては、君の為に。


『…どうして、シンジ君は彼女をそんなに気にするんだい?』

ーどうして僕は彼女の存在を気にするんだ?

そう、気にしているのは僕だ。
嫌なんだ、君が彼女の事を考えるのは。僕だけの君なんだ。彼女のではない。


ー僕は、誰のものでもないよ。

シンジ君!…確かにそうだね。

ー僕はみんなとも楽しく過ごしたいよ。

わかってるよ。わかってるんだ…

ーアスカだって、僕の大切な幼馴染みだよ。

…大切な、なんて言ってほしくないな。

ーだって事実じゃないか。大切な幼馴染み、大切な友達、大切な家族、大切な…

わかったよ!だからもう、やめてくれないか…

僕は、ただ、君を愛してるんだ、シンジ君…


ー欺瞞ね。

セカンド!欺瞞な筈がないだろう?

ーアンタなんかより私の方がシンジと過ごした時間は長いわ。

…………。

ー嘘つき。アンタは私よりもレイよりもシンジと一緒に生きてないじゃない。

…けれど、シンジ君だけを想って生きていた。

ーず〜っと遠くでね。私はシンジと暮らした。

もう黙ってくれ…

ー私はシンジと同じ屋根の下で暮らして、シンジの作ったご飯を食べて、シンジと一緒に遊んで、シンジと一緒に学校に行って、シンジと一緒に暇つぶしのキスをして…

もう黙ってくれ!

ー私は忘れてしまったけれど、シンジはちゃんと覚えてくれてる。私との楽しい想い出を。

もうやめてくれ…


ーあなた、ヒトじゃないのね。

ファースト!…君もだろう?

ー違うわ。私はヒト。碇くんと同じ。魂がリリスだとしても、リリスの子のリリンとして生を受けたわ。

僕だって、ヒト、に…似た身体だ。

ーアダムとリリスは対を成す存在。相入れないわ、リリスの子、リリンとも。

…何が言いたいんだ?

ーあなたはアダム、碇くんはリリスの子、リリン。だから、ふたりは相入れないわ。

やめてくれ…

ーそれに、あなたはヒトの身体としても、彼に適さないわ。彼は男だもの。

…それでも、僕は、シンジ君に選ばれたんだ。使徒でも男でも構わないと言ってくれた。

ー今は、でしょう。あなたに似た私、ヒトの私、女の私。碇くんはいつか気づくかもしれない。あなたより私の方が適していると。

…確かに、そうだ…君の云う通りさ…


ー僕を信じてくれないの?

シンジ君!

ー君を愛してるって言った僕を信じてくれないの?

そんな!信じているさ!

ー君の側に居たくて世界を変えて罪と罰を背負ったのに…

シンジ君…

ーカヲル君は僕を信じてくれないんだね…

シンジ君!ごめん!違うんだ!

シンジ君!


シンジ君!




ーーーーー…

『終点〜第三新東京市〜第三新東京市〜…』

僕はいつの間にか電車で寝ていた。酷い悪夢だった。送りのハイヤーを断って、ひとりになりたくてかつて君と一緒に乗った電車に乗ったけれど、甘い夢は見られなかった。二日ぶりに見た君は夢の中でも泣いていた。夢の中でも僕から去っていった。



僕は君を独り占めしたかった。君を囲む全てのリリン、ヒトに嫉妬した。この溺れてしまいそうな気持ちは、つまり、嫉妬、なんだね。僕は、醜いまでにヒトの心を模しているんだ。いや、変化しているんだ。君への愛が僕を変えてゆく。この気持ちを、君にちゃんと伝えよう。そして、嫉妬に溺れて君に酷い事をしてしまった事を謝ろう。


この世界で僕は君と共に生きていきたいから。



ーもうすぐ、家に着く。
ー明日君に会えるのが、とても怖いのに、もう待てない。君が恋しい。



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