ギンイロウルフなんてこわくない 前篇


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「誰だい」
「僕は かわいそうな 子羊ちゃんです どうか ドアを開けてください」
「ウソをつけ オオカミだろ 誰が入れるもんか」
「ばれちゃ しょうがない こんな家 ひといきで 吹き飛ばしてやる
そら、いくぞ」

オオカミなんか こわくない
こわくないったら こわくない
オオカミなんか こわくない

__『おおかみなんかこわくない』抜粋



大抵ややこしい状況っていうのは第三者にはわからないもので、

「おい碇、見舞いにも来ないってあいつ怒ってたぞ」

なんて通り過ぎざまにクラスメイトは言ってくる。シンジがスルーする間もなく

「はよ行けや」

それは当然のように。

「え、敢えて僕が行く必要」
「「ある」」
「あるんだ?」
「保健室のありとあらゆるものがひっくり返されたんだぞ」
「んでワイらが駆り出されとんのや」
「走れ碇。セリヌンティウスが待ってる」

太宰治まで出てくるから仕方がない。僕はこうするのがあいつのためかと思ったんだけど、シンジはひとり胸の中で言い訳をつぶやいて保健室までの道のりを歩き出す。その道すがら、ことの顛末を説明しよう。


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今から6月を10回戻した2005年の初夏。冒頭でややこしい状況を何ひとつ知らずにずげずげと太宰治を気取った相田ケンスケが見舞いの開口一番にこう言った。

「ギンイロウルフがいた」

検査着の裾から小さな腕を出してシンジは目の前に差し出されたプラモデルを受け取った。

「なに?」
「オオカミなんか〜こわくない〜」
「こわくないったら?」

悪友ふたりの手のひらがこちらに向けられる。

「こわくない?」
「だろ。なら5ゴウトウの3カイにいけよ」

完璧なフリに答えただけだったのに。

「ぼくビョーニン」
「しっとる」

つるんでやってきた鈴原トウジもニタニタして指図してきた。エレベーターを使えばすぐそこだと。肝試しなんだから夜に布団から抜け出せよと。

そんなことをしたら父のゲンドウに大目玉を食らうからする気はなかった。母のユイが病室に戻ってきたらふたりはすっとぼけてお行儀のいい5歳児を演じた。母親たちの立ち話は終わって彼らはそれぞれの親に連れられて病室を後にした。

シンジは両親の勤めている会社の系列の大病院に入ったけれど、実際大した病気ではなかった。少し食物アレルギーが出たから両親が心配していろんな検査やら治療をさせた。念入りなプログラムをこなせば無事帰れる手筈だ。本人は至って健康に感じられたから――ジンマシンくらいでとうさんもかあさんもおおげさだよ。はずかしいじゃないか――なんてくすぐったい気持ちでいた。そして盛大に暇だった。

暇だからギンイロウルフを見たかった。きっとフサフサの銀の毛に覆われたオオカミが入院してるんだ。シンジは白昼のベッドから抜け出した。
歩きながら血液検査後のガーゼがかゆくてむしったらちょっと血が滲んでてドキッとした。オオカミが血の匂いのする自分を食べちゃうんじゃないかとたくましい想像を働かせて、エレベーターのボタンが届かないのに気づいて人気の少ない階段をのぼった。母はさっきお見舞いのハムを届けてくれた部下の葛城ミサトとお茶しているからきっと大丈夫。ミサトは一度話し出すと1時間は止まらないとシンジは知っていた。
子供の足での階段はいささかきつい。シンジが噂の棟にたどり着くまでにはすっかり大冒険になっていた。だからかもしれない。ひとつひとつの部屋にオオカミの姿を確認するたび心拍数は急上昇。もしかしてここかも、もしかして次こそは、心臓がバクバクした。そして不意打ちに、眩しい閃光に襲われた。

あ、ギンイロウルフだ。

そう直感したのだった。
白浮きしそうなほど部屋は少年の瞳には露光が高く、目を細めると初夏の風がカーテンを一斉に舞い上げた。部屋の真ん中には銀色のフサフサの毛がミニチュアの草原のようになびいていた。真っ白なお人形の肌にはサクランボのような目がふたつ。それはすぐに野獣のそれへと変化した。

ガーゼに滲んだ血のような赤い眼がこちらを見つけて不思議に歪んだ。自慢げに、食べちゃうぞとからかうように。

「キレイでしょ」

その暴力的なほど美しい見てくれに圧倒されていたのもつかの間、その色はさらに強まる。彼はトレイの上の食べ物をひとつ残らずひっくり返していた。シンジはそんな罰当たりなことをする人間に出会ったことがない。そいつが人間なのかもわからない。病室の入り口のラインを越えないように息を殺してじっと彼を眺めた。それをつまらなそうにギンイロウルフは場を独擅する。

「もっとグチャグチャにしようか?」
「そ、そんなことするなよ」
「なんで?」

肺いっぱいの息を吐き出し、シンジは境界線を一歩、越えた。

「だってだれかがつくってくれたんだし」

引っかかったなとギンイロは口角を上げる。

「手間をかけたんだろうね」
「しゅうかくしてくれたんだし」

ミサトの彼氏の加持リョウジにシンジはそう教わった。
赤い眼がニタリと嬉しそうにほころぶ。

「死んでくれたんだしね」

彼はミートボールにうやうやしく一瞥をくれて、それを手を振り下ろしてブチャッと潰した。真っ白な顔に赤いソースの飛沫がかかる。シンジは顔をクシャッとしかめた。ギンイロウルフはそれはそれは綺麗に微笑んだのだった。


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そのセンセーショナルな出会いは未だ鮮明に脳裏に焼き付いている。中学生になった今でも。そして奴は只者じゃなかったとしみじみ思い知るのだった。でもなんでだろう。シンジの胸にはそれは懐かしくどこか愛おしげに映るのだ。シンジは保健室へと続く階段で気がついて、教室に鞄を取りに戻った。

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「ベッド半分使っていいよ」

シンジは退院した後もしばらくは通院していた。そしてこの「友達のお見舞い」の時間は母親へ懇願してやっとこさ手に入れたもの。
あの日の帰り道、ナースが彼のことを「笑わない子」と言うのを聞いた。シンジは終始嬉しそうに目をキラキラさせていたギンイロウルフを思い出して――あいつってあんなかおしてもわらってないのか――と妙に心配した。気になって気になってまた夕方にこっそり抜け出して覗いてみたら彼はまたひとりだった。

「きみのとうさんとかあさんはいないの?」

仰せの通りにベッドを半分使ったら親愛のしるしとばかりに枕を渡された。よく見ると渚はブチブチと縫い目をむしっていた。そう、ギンイロウルフには渚カヲルという容姿に負けないくらい美しい名前があった。

「パトロンのこと?キールはここの株主だから僕はVIP扱いなわけ」

シンジには意味がわからなくて口ごもる。頬が熱くなった。

「まあ、君の言っているような人間は誰もいないよ」

隣を眺めると、その横顔は何の変化もなくブチブチと糸を引きちぎるのに夢中だ。

「君には両親がいるよね。どう?」
「どうって?」
「それってどんな感じ?」
「さあ……わかんない」
「なら君も僕のことわかんなくてもいいんじゃない?あ、見て」

渚は破ききった枕の中身を勢いよくぶちまけた。目の前が無数の羽根で真っ白になる。

「こんなことしても誰も怒らないよ。首が飛ぶからね」

シンジはあんまり驚いてくつくつとこみ上げてきた笑いをそのままにした。部屋中が真っ白だ。赤い眼は一瞬キョトンとして、次の瞬間、一緒のかたちになって声を上げた。アハ、と。
ふたりして笑い合う。なのに幼い胸にそれは甘くてなんだかざわざわと苦しくて、そして何もわからないと感じた。笑ったのに胸が苦しいなんて複雑な感覚は生まれてはじめてだったことを今もシンジは覚えている。

「よしよし」

小さな腕を伸ばす。羽毛の綿毛が舞う空気を掻き分けて、仔犬にするように銀髪をくしゃっと撫でる。

「ワンワン」
「?」
「ねえワンワンっていって」
「……ワンワン」

ポカンとした渚の頭を引っ張って膝の上に寝かせて、シンジは銀色の仔犬を抱き寄せた。

「よくできました」

それは彼が母親にやってもらって嬉しかったことだった。
渚はすうっと鼻から息を吸い込んで「ミルクの匂いがする」と言った。シンジは渚が犬の真似をしているのかと思った。そして気がついたら銀色の仔犬は寝ていたのだ。自分にしがみつきながら。


その頃、渚は脚を怪我していてリハビリが必要だった。けれどそれを断固拒否していてナースステーションは戦火のごとくヒステリックになっていた。株主の期待に沿わなければならないのに大人顔負けのIQで子供にそれを阻止される。だからシンジに白羽の矢が立ったのはしょうがなかったのかもしれない。母親に連れられてシンジが申し訳なさそうにやってきた時、渚は少し傷ついたような顔をした。

「僕のこと好きでしょ?」
「すきじゃない」

一歩一歩、シンジに向かって渚は歩く。その度にシンジは後ろ歩き。手すりにつかまり痛みで息を切らしながら渚はシンジを睨みつけた。

「好きじゃないのに人質にされてるんだ」
「ひとじちって?」
「まあいいよ」

渚はシンジの肩に手を置こうとした。するりとかわされる。届かないから進んでも、シンジはさらに遠くに退く。

「なら君も僕と一緒だ」
「なにが?」
「僕しか友達がいないからこんなことしてるんだ」

シンジは不機嫌な顔をしてグイッと大きく一歩下がった。

「ちがうよ!トウジだってケンスケだっておみまいにきてくれたし、アスカもヘンなてがみくれた!アヤナミだってこんどうちにあそびにくるし。きみとはちがう!」

最後まで告げてから気がついたのだ。渚の顔がみるみる青ざめたのを。
それからはシンジの方が渚を傷つけたのを気に病んで、病院に行く日に知恵熱を出したり風邪を引いていた。そうして半月くらいもだもだしている間に病院から一報。あれ以来渚は荒れて大変らしい。ゲンドウは勤め先の筆頭株主が夢に出てきてうなされた。ユイもシンジの好きなゲームを買ってきた。そして謝らなければならないのが嫌でぐずってもシンジは母にむりやり連行されるのだ。けれどあの白んだ病室の前に連れてこられてしまえば心のわだかまりはすぐにどこかへ行ってしまった。

ギンイロウルフは気が狂ったように枕にフォークをぶっ刺していた。

しばらくは遠くで見守った。気配に気づいたのか渚は顔を赤らめてより激しく枕を虐めた。とぼとぼとシンジがベッドの淵までくると、渚はポツリとつぶやいた。

「大勢の中のひとりなくせに」

眉ひとつ動かさないのに、シンジの瞳にはそれがとてもしょんぼりして見えたのだ。寂しい寂しいと密かに叫んでいるように。

「あるけるようになったらさ、やきゅうしようよ」
「ふたりで?」
「みんなで」
「やだね」

知らない奴となんか――冷たい声で吐き捨てる。

「じゃあ、どうしようか」

考えあぐねて、でもそれはストンと胸に落ちてきた。

「かぞくになってあげる」

渚は目を見開いた。思わず殺戮をやめて、シンジと向き直った。

「なんて言った?」
「かぞくになってあげる」
「ほんと?」
「うん」

自分でも気づかないうちにシンジは笑っていたのだった。その顔は鏡写しとなって、渚はいつもとは違う気の抜けた表情をした。そしてそれはやがてあどけない照れ笑いになったのだった。それから完治するまでふたりはリハビリに励むことになる。それは時間にすれば他愛もないけれど、細やかな慈愛がゼリーのように凝縮された、密度の濃い季節だった。


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シンジがその5歳の初夏を思い出すことになるのは今からちょうど数ヶ月前の春だった。保健委員に勝手にされ養護教諭の下僕になっていたある放課後のこと。
今日はプロレスでも流行っているのか擦り傷やら打撲やらが多くて、そんな日に限って赤木先生はネコをインスタグラムにアップするついでに友達と電話してくるとか言い出してこのざまだ。世話になっているミサトの親友と知らなかったら留守番なんてトンズラして3バカでゲーセンに行きたかった。

「いたたたた」

やけにわざとらしい入室の一声。これは保健室に入り浸ろうとする初心者だろうと横目で睨みつけたら、

「アハ」

この珍妙な笑い方で記憶が鮮やかに蘇ったのだ。仲良しのギンイロウルフがリハビリを終えた次の日に両親の転勤が決まって第二東京に引っ越したことを。


渚カヲルは学校外でも評判のスーパーイケメンになっていた。幼少の頃はその風貌はオバケみたいに扱われたが、現在はそれをカリスマ性に転化していた。飄々とポケットに手を突っ込んで歩くだけで女子が「むり」とつぶやいて壁に頭突きする程。

「なんやあのスカした転校生は」

シンジは頬杖をついて成長したギンイロウルフを眺めてみる。さっきからこの教室の前を3周はしている。マリオブラザーズの閉じ込められたキノコのようだと思ったらいきなり迂回してシンジの机の前に来て「何してんの」とぶっきら棒に声をかけてきて「別に何も」と言うと「ふうん」と行って颯爽と姿を消した。クラスメイトの女子が隣で「しんどい」と突っ伏した。

「なんやあいつ、気色ワルッ」
「おい、知り合いかよ」
「まあ……」

その時のシンジには自分がこれから血みどろの惨劇に付き合わされるなんて思いもよらなかった。
不定期で赤木先生の下僕になるシンジ、彼はその度に鮮血を目撃することになる。


「ねえ、これってさガラスを素手で殴らなかったらこんなにならなかったよね」

ガラス片をピンセットで入念に取り出しながらシンジは言った。

「素人の治療だからどうなっても知らないからな」

病院に行く選択肢は頑なに却下された。ヨードで小まめに消毒をする。白くてこんなに綺麗な手に傷が残ったらやだなと思った。

「これが効くから」

亜鉛軟膏を分厚く塗って包帯を丁寧に巻く。長く細い指はすべすべしていてほのかに温かい。ずっと触れていると体温が馴染むようで心地いい。そうやって手に集中していたからあの暴力的に綺麗な顔がすぐそばにあることに気づかなかった。

「シンジ君まつげ長いね」
「へっ?」

心電図をつけてたなら針が振り切れただろう。耳の穴に息がかかって慌てて首を仰け反らせる。

「君、目悪いの?」
「視力1.5」

距離感、と胸の中でつぶやいて、シンジは本日の手当てを終えた。

本日の、というのには訳がある。再会した日からずっと渚は怪我をして保健室にやってくる。心配して赤木先生にそれとなく聞いてみたら、どうやらシンジが担当する時にだけ彼は怪我をするらしい。

「どうして怪我するのかなあ」
「僕に聞いてるの?」
「そう」

今日は膝かと思いながら亜鉛軟膏を指ですくう。

「僕を困らせたいとか?」
「それもあるかな」
「君、頭いいのにバカだね。体張ってそんなことしたって意味ない」
「じゃあどうすればいいの?」

クエスチョンマークが脳みそいっぱいに広がって、目の前のオオカミを見る。野生的でしなやかで、そんなバレエダンサーのような長い脚が何もない校庭で転ぶなんて信じがたい。

「とりあえず怪我しないようにすれば」
「どうすればいいの?」
「もういい」

黙り込むと前髪をフーフー吹いて乱してくる渚。シンジは目尻をヒクつかせた。

「さっき告白されたんだけど。今月13人目。やばいよね」
「よかったね」

シンジはあてがったばかりのガーゼ越しに膝をペチンと叩いて立ち上がる。使用済みの道具を処理する。

「自分がモテないから妬いてるんだ?」
「嫌なやつだな」

渚とシンジは仲が良いのか悪いのかわからない関係だった。もちろん可愛げがなさ過ぎてこちらが焦る渚カヲルだ。シンジがウザがるのも当然だろう。でもシンジにも素直になれない理由がある。

引っ越しは幼いシンジにはどうすることもできなかった。けれど、あの猟奇的なオオカミを野放しにして去ったことで大変なことになっていたんじゃないだろうか。あの枕が生き物になってフォークがナイフに変わっていたら――

「ゴミついてる」

首筋に触れられてとっさに突き放してしまった。渚は探るようにシンジを見つめて、それから「あっそう」とだけ吐き捨てて保健室を後にした。バタンと大きな音を立てて。

首をさすりながらシンジはこう続けた。

――もしそうなら、あいつはすごくつらかったんじゃないかな。

ひとりぼっちで。

そう胸を焦がしてから、シンジはもう保健室へと行くのをやめようと決意した。


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そして現在。ショルダーバッグを脇に挟んで、ドアの前で深呼吸、保健室へと入っていく。

消毒液の浸みたコットンの容器も、ピンセットのトレイも、ああ、新しいシーツ入れまで。あちこちをひっくり返した部屋の真ん中でギプスをした渚カヲルは獣みたいに笑っていた。挑むように。

「もう来ないかと思った」
「嘘つけ。来ると思ったからこんなにしたんだろ」
「嘘つきは君だろ」
「はあ?」

床の上でグシャグシャになった包帯を集めると、渚のつま先が貧乏ゆすりを刻んでいるのが視界に入った。

「僕が手首骨折したのは先週だよね」
「僕の代わりの子はどうしたの?」
「追い出した」

腹が立って「そう」と無関心に囁くと渚がしゃがんで作業を遮る。

「もうずっと動かしてないんだけど、利き手なのに」
「へえ」
「ねえ」
「君は何がしたいんだよ!」

包帯を踏まれてつい、声を荒げた。シンジはもう何回も渚を手当てしてきた。もう怪我をしてほしくないと思いながら。なのにどんどんエスカレートする。血の次は骨である。どうしてなのかもわからない。

「復讐のつもりなら僕を傷つければいいだろ!」
「復習?なんの?」
「知らないよ!」

なんだか悔しくて泣きそうになる。

「自分を大切にしろよ……」
「え、なんで!?なんでシンジ君泣いてるの!?」
「泣いてないよ」
「泣いてるじゃん、ならさ、えっと」
「泣いてない!涙出てないだろ」
「いや、だからさ、」
「君も手伝えよな、使える方の手で」
「うん、」

片し終わるまでふたりは黙ったまま。ぎこちなく物を拾う渚からてきぱきとそれを回収しゴミ箱に入れる。新しい替えを用意して、赤木先生に一筆を書くためにペンを取り出す。

「ちゃんとリハビリはしなきゃだめだよ」

メモ用紙に向かいながらシンジはつぶやいた。

「大事な体なんだから」
「誰が大事にしてるの?」
「君がするんだよ、自分を自分で」
「へえ」
「聞いてるの?」
「君医者みたいだね」

それを言うならお母さんみたいだね、だと思ったが、シンジは渚の事情を知っているから何も言わなかった。言えなかった。

――ずっとあのままの環境だったのか……

胸がすんと痛みだす。

「僕が保健室にいるから怪我するんだと思ったけどいなくても怪我して呼び出されるなら意味ない」
「ねえ、放課後は何してるの?」
「え?」
「もうゲームしないの?」
「たまにゲーセンは行くけど」
「家で?」
「いやゲームセンター」
「ああ」

昔から、彼とはあまり話が通じなかった。

「ドイツにはないの?」
「興味ない」
「そう」

ギンイロウルフは動物で、異邦人で、

「でも君が興味あるならさ、いいと思うよ」
「へえ??」

果てしなく遠い。

「だから、手の神経動かさないとだしさ」
「うん」

シンジは時計を見上げた。ただなんとなく気になった。夏至が近いから外はいつまでも昼のように明るくて感覚が鈍くなる。

「予定あるの?」
「別に」
「つまらない?」
「どちらかというと驚かされてばかりだけど」
「そう、じゃ、て、提案なんだけど」

急に渚がどもりだすので訝しげに視線を移すと白かった頬が赤く色づいているのを目撃した。

「リハビリうちでしよ」
「え?」

消え入りそうな声で聞き取れなかった。

「金縛りなう?」
「うちなら誰にも邪魔されないしスプーンもあるし」
「え??」
「Wiiもある」
「うぃー??」
「そうだよ、シンジ君もうちに来ればいいんだ!」

なんだかぎこちない響きで意味不明だけど、

「アハ」

すべてがそのセリフに集約されているんだなとシンジは理解した。勢いに押されて頷いたら渚は情けないくらい嬉しそうに照れていたから。シンジには物凄く不器用に気を引こうとされていたんだとまではわからなかったが、ただ、自分は歓迎されているとはわかった。


渚は何回も血を流し、擦りむいて、自室のインテリアを見直して、ひどい打撲をして、切り傷を用意して、室内ゲーム機を買って、骨まで折ってやっとシンジを部屋にお誘いするのに成功した。


「ゆっくりしてってよ」

半ば無理やり誘い込まれたのに変なことを言うもんだなとシンジはもやっとする。殺風景な部屋。窓辺には牛乳瓶に一輪のハルジオンが挿してある。

「貧乏草」
「え?」
「牛乳瓶に、ほら」

瓶を持ち上げて底を覗き込んだ。懐かしいガラスの厚み。渚は緊張で貧乏までしか聞き取れなかった。

「貧乏じゃないけど」
「君ずっと第3新東京住みだっけ」
「ほとんどドイツ」
「意外と帰国子女なんだな……え?」

シンジは渚を正面から見た。

「じゃあ僕だけが引っ越したわけじゃないんだ」

一気に肩の荷が降りて表情筋が緩む。すると蜜に吸い寄せられた蜂のよう、渚はシンジの頬に触れた。

「自由がきかなかったから約束を取りつけたんだ。大学卒業したら第2東京に行っていいって」
「大学卒業したの?」
「一応ね」
「ここ第3」
「君がまた越してきたから」

不意に目を伏せて白く長い指は離れた。まつげが風に揺れる雄しべのようにふるえた。シンジは妙に意識してしまった。目の前の真剣な顔に。落としそうになって牛乳瓶を机に置いた。

「あ!」

すると渚はしまったという風に口元を手で覆い、部屋から出ていこうとする。

「そこにいて」
「え?」
「ちょっと出てくる」
「忘れ物?」
「いいから」
「そっちが呼んだんだから理由くらい言えよ」
「じゃあ忘れ物」
「じゃあってなんだよ」
「だからなんでもないって」

駆け足で近づいて、渚の肩を掴む。

「僕も行く」
「ここにいてよ」
「手首がそんななんだから」
「お茶買うくらいできるって」
「お茶?」

渚の横顔に余裕がなくなる。

「何もないから」
「いいよ」
「喉乾くだろ」
「帰りにコンビニで」
「すぐ帰る気なんだ?!」

そして急に5歳児のようになる。

「僕だって友達くらい何人もいるし女の子だって呼べばいくらでも連れこめるんだよ!」

圧倒されて固まった。シンジはこの怪我ばかりして自分に手当てをねだり、よくわからない理由で自分を家に連れてきてから飲み物がないだけでキレてしまう獣をまじまじと眺めていた。そして彼の表情がとても悲しそうなのに気がついた。

「違う……間違えた」

眉間にしわを寄せてうなだれて、

「僕は欠陥人間だからさ」

壁に額を押し付ける渚。銀色の髪が遅い午後の光にきらめいていた。

「君に会ってから僕は変わった。君といると心臓飛び出てショック死しそうだし。ねえ、わかる?」

おもむろに机上の牛乳瓶を掴んで振り上げた。反射的にシンジはその手に手を添えた。床に叩きつけるんだと思ったから。

けれど渚はそうしなかった。

「ハルジオンが可哀想って思うんだ」

水面が傾き、ハルジオンの薄桃色の花弁が揺れた。

「君は僕をおかしくした」

そして困ったような顔で言うのだ。

「どうして?」

迷子の子供が母親を探すように。


『ウソをつけ オオカミだろ 誰が入れるもんか』
『ばれちゃ しょうがない こんな家 ひといきで 吹き飛ばしてやる
そら、いくぞ』

__オオカミは家に入れてもらえないから家を壊そうとした。
__オオカミは悪い子だ。
__でも誰もオオカミがどうして家を壊そうとまでするのかを考えない。


迷子のオオカミの子供は一生懸命人間の真似事をしては失敗を繰り返した。誰もちゃんとその作法を教えてくれなかったことを恨んで、自分の不器用さが腹立たしくてもどかしくて気が狂いそうになっている。

「家族になるって言ったなら」

そしてギンイロウルフの赤い眼からは

「そばにいてよ」

捨てられた仔犬のような、涙。

悔しそうな顔をして、怒りのこもった声で、出てきた言葉はすがるようで。感情が全部ちぐはぐな彼は“ちゃんとした”人間ではなかった。見てはいけないと思った。彼が何者だとしても、思春期の少年はかっこつけたいのだ。シンジは彼の泣き顔を視界に入れないことにした。ゼロ距離になって。

「そばにいるよ」

抱き締めると驚く程強く抱き返されて、骨が軋んだ。ギンイロウルフはギンイロウルフのまま。

「ミルクの匂いがする、う、」

けれど心は人間の少年に飼い慣らされて、人間と同じ温度の涙を流せるまでに至った。どんな獣だって心を持っている。渚は今シンジから貰った愛情が積もり積もったまま返し方がわからない。それを力に還元してただ想いを伝えるしかできずにいる。
シンジは生まれてから家族に愛され友達に大切にされ周りのたくさんの人に支えられてきたから、そんな彼の痛々しい愛情を精いっぱい受け止めることができる……と思うんだが、それは甘すぎる考えだろうか。

「よしよし」

シンジはギンイロウルフの巣の中で、彼を“ちゃんとした”人間にしようと誓った。


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