近づいてくる。目を凝らす。どんよりした曇り空を見上げていた時だった。まるで知らない季節のような空気を頬に感じていた。
ケセランパサランだと思った。あいつがこの前言ってたんだ。そんな羽毛を丸めた感じの生き物を見ると幸せになれるって。僕はあんなふわふわしたものが空からたくさん降ったらいいなと思っていた。雨が降るみたいに。それで積もれば世界はあたたかい布団を敷き詰めたみたいになるのかもしれない。それくらい、頬を打つ風は信じられないほど冷たかった。
「さむっ」
二の腕をさすっていたらやっとふたりが戻ってきた。
「なんや雨て。曇とるがな」
「お、碇が正解だな。あっちは戦場だぜ」
下駄箱前に外の空気がもろに侵食している。慣れない寒さに同級生たちが苛立ちながらめちゃくちゃになった傘立てに群がっていた。コンビニで買ったんだろう白いビニール傘を俺の私のと取り合っている。僕の横ではそれを悠長に眺めていた渚が紺色のアウターのボタンをとめていた。
「そんなの持ってたんだ」
「昨日買ったんだ」
「お前傘は?」
「持ってきてない」
「テレビ見てないんかいな」
今日の第3新東京市は降水確率100パーセントでしょう、気象予報士が神妙な面持ちで語っていた。トウジはきっと僕と同じニュース番組を観たんだ。
「天気予報って当たらないよな」
ケンスケは朝見かけたのと違う傘の柄を握っている。渚が今度はマフラーをきっちりと巻いていた。いかにも寒がりの完全武装。去年までマフラーなんてどこにも売っていなかった。僕も最近流行っているから名前を知っているだけ。
「使う?」
「えっなんで」
「首元寒そうだから」
校門を過ぎた頃、そのチェック柄を見ていたら不意を突かれる。巻いたばかりのそれをスルッと外して僕の首に回そうとする。
「いいよ」
「動かないでよ」
「いいって」
「渚、シンジを甘やかすなや」
「まずコートを忘れた俺を気遣えよ」
「ちょい貸し」
ニタニタ企み顔のトウジがケンスケの首を厚いウールで締め上げる、その直前で渚が阻止。元の場所に巻き直す。
「伸びるから」
「なんや、つまらんのう」
「暇つぶしで俺を殺すなよな」
たまに発症する渚の妙な気遣いにまだ僕はうまい切り返しが見つからない。しかも僕にだけだからタチが悪い。いつも場が流れるまで存在を消してやり過ごす。ああ面倒臭いな、そう思って深呼吸しようとした。息を吸い込むと鼻の穴がひりっと痛い。吐き出すと息が、白い。僕がびっくりして固まっていると渚が呟いた。
「いきなり予言するけど」
そして、衝撃的な発言をする。
「今日、雪降るよ」
立ち止まって、ぽかんとして、顔を見合わせる。僕達は笑った。
「いきなりすぎだよ」
「ここをどこだと思ってんだよ。常夏の島、日本だぜ」
「天才や、天才現りよったわ」
ケンスケの言う通り、日本で雪なんて歴史上降ったことがない。渚は食い下がって、気温が0度な時点で常夏じゃないから、と言う。そんな意見もテレビで聞いたことはある。地球寒冷化の波が来ていると宣言したセンセーショナルな本がベストセラーになったり、枯れかけた山を見に行くって意味の紅葉狩りって言葉が流行語に選ばれたり、環境の話題が何かと続いていた。それに最近は暖かいとは真逆の天候が続いているけれど、でも、まさか。僕達日本人にとって雪は遠い国のおとぎ話みたいに聞こえる。
「セカンドインパクトの影響で地軸が反対に傾いてきてるらしいよ」
渚は遠くを地平線を眺めるような横顔で呟いた。
「地軸なんて傾くかよ」
「地軸はもともと傾いてるんだよ。コマみたいに動いてる」
「それで?急に地軸が変に傾いたら気候変動とかあるんじゃないのか?」
「だから実際、異常気象が続いてただろ。この15年」
さらっと苛立ち始める口調。込み入った口論みたいになってきたからだろう。つまんなそうにしてたトウジは僕の鞄にケンスケの傘を挿してきて、それを引っこ抜いたら「フォースを使え」って自分の傘を振りおろしてきた。振り払うとチャンバラが始まって、応戦を続けている横でふたりはピリピリと科学検証。(本来この手に詳しいのはケンスケって設定だからきっと譲れないんだ。)僕が敵の膝に当てて1ポイント稼いで思わず吹き出すと、渚が後ろから僕の傘を奪ってきて、
「本来2万5800年周期だから反対に傾くのは1万2900年周期なんだけど、衝突が鋭角だったから早まったんじゃない?」
なぜか質問したケンスケじゃなくて僕に話してきた。トウジとケンスケはもう一度笑った。僕はその嘲笑に追いつこうとした。
「じゃない?ってなんだよ。あはは」
ああ、取って付けたような笑い方になってしまった。
渚はキャラを裏切って物知りだ。いや、顔だけ見ると実は賢そうだけど一緒にいると雰囲気や仕草でそれが上書きされてしまう。ゆるい制服の着こなしとかチャラそうに跳ねた髪型とか、無責任そうな口ぶりも。何より渚はケンスケと違ってそれをひけらかさないから。
「渚は突拍子も無いこと言うよな」
「本当に降るから」
「なら歴史的瞬間に立ち会えるぜ」
ケンスケのツッコミが不服なんだろう。渚はじっと僕の出方を伺っている。困ったな、と僕は思った。
「雪なんて降ったらまた野菜が高くなるだろ。ただでさえ今レタスが450円もするのに」
「シンジ」
「ん」
「お前は主婦か」
はあ。僕は仕方なく助け舟を出してやる。案の定ふたりのからかいが僕にシフト。あー嫌だ。鉄板の主婦ネタを自分で振ってしまうなんて(趣味が料理だとバレてからいつもこうだ)。僕としてはなるべく避けたい状況なんだけれど。
さっきから妙な予感がしているのは僕だけなのかもしれない。
渚はたまに素になって賢い一面をさらけ出す。気を許してる僕にだけ。だから僕は渚の意見はたいてい的を得ていると知っている。それに僕は渚の話を少し理解していた。前に一緒に観た教養番組で地球の自転軸についてやっていたのだ。渚がそんな番組が好きだなんてきっと僕だけしか知らない。
「ま、渚ってたまに妙に博識だよな」
「ハクシキってなんや」
「いろいろ知ってるってことだよ」
「ほう」
ちょうど花屋の前を通り過ぎたから、
「この花は?」
何気なくブーケのひとつを指差して聞いてみたら
「ブーゲンビリア」
即答された。ケンスケが吹き出す。
「歩くウィキペディアかよ」
普段は誤魔化して、さあね、なんて言って逃げるのに。らしくない。横顔を盗み見ると銀髪の隙間から少しだけ尖った唇が見えた。
「なあ、さっきから思とったんやけど」
「なんだよ」
「トコナツってココナツからきとんのかもな」
凄い得意げに言っちゃうから、僕はまた吹き出した。
「トウジ喋るな、バカがうつる」
「可能性あるやろ」
「はあ、ウィキペディアとのコントラストが哀れだぜ」
それからはケンスケのトウジいじりが十字路まで続いて、分かれ道で僕らはじゃあねと手を振った。ケンスケが手のひらサイズの僕と渚の背中に向かって「今日雪が降ったら今度映画奢ってやるよ」と叫ぶのが聞こえた。渚が鼻から大きな溜め息。その響きで不機嫌なんだとわかった。
「ねえ、この前テレビで歳差運動のことやってたじゃん」
しばらく無言で歩いてから、おもむろに渚は話題を蒸し返す。
「古代文明の遺跡がある国が砂漠化してるのも地軸の影響だって」
「……確か昔は自然が豊かだったから栄えたんだっけ」
「そう。だから傾きによっては日本に四季があってもおかしくないとも言ってたよね」
「でもさ、もしそうならニュースでも言うんじゃない?」
「去年桜が咲いたのはニュースになってた」
「桜と雪じゃ次元が違うよ」
「実際に地軸の移動が観測されてネットニュースにもなってるよ。テレビが取り上げないだけ」
「でもーー」
「みんなが雪なんて降らないって言うから?僕より信憑性あるもんね」
「なんでそんなにムキになるんだよ」
あまりの寒さに鼻が痛い。向かい合ってる渚の鼻もほんのり赤い。そういえば僕は何度で雨が雪に変わるのかを知らない。鼻水をすする。きっと平均気温が氷点下何十度の国で起こるんだろうなあ。カサついた手をすり合わす。
「何千年も起こらなかったことが今起こるよ、なんて言われてそれを信じる方が変だろ」
「いつ起こってもおかしくないのに認めない方が不自然だよ」
「うるさいなあ、そんな奇跡起こるはずないよ」
と、半ば呆れて語気を強めたその瞬間。周囲が騒めいて車道の向かいの歩道で女子高生が悲鳴を上げた。僕はそのキンキンした声に頭頂部が痛くなった。けれどすぐにそれが冷たいものが染みたんだと気がついて、頭を触ると濡れていて、なんだ雨かと見上げるとふわっと何かが鼻先に着地した。目前には僕が一週間前に胸に描いた光景が広がっていた。
「あ、」
世界がふかふかの布団になるのかもしれない、と、僕は思った。
「なんで信じてくれないの」
「ゆき……」
「僕の方が知識あるって知ってるのに」
「いや、雪」
僕が指差しても空前の奇跡を見ようともしない。こんなに主張してるくせに。
「僕は君が信じろって言ったら信じるけどね」
街中が歓声に包まれていた。僕は捨てゼリフを残して去ってゆく渚を見送った。
その日、日本では北から南まで一斉に初雪が観測された。建国以来の初雪、大寒波ってやつだ。例の気象予報士は、積雪の条件は揃っていたけれど勇気がなくて発表できなかったと翌朝の天気予報で告げた。人と違うことを言うのは勇気が要るのだ。
僕はその歴史的瞬間に親友と立ち会いながら、一緒に喜びを分かち合えずにひとり取り残されて、もやもやとした気分で空を見つめるばかりだった。
次の日、歴史的瞬間を棒に振るほど怒っていた渚は何故か普通に戻っていた。そして種明かしをしてくれた。
彼は一週間前に雪虫を見たらしい。翅のある白い綿毛で覆われたアブラムシ。海外ではその虫が飛んでいたら一週間後に雪が降ると伝承されているんだとか。前に僕が見たのもそれだった。ただ僕らの違いは、僕はそれをケセランパサランかなと思うだけで、渚は見たこともない虫の種類を図書館で調べたということ。僕は同じものを見たのにそれが何かを知ろうとはしなかった。
僕だけが知っている渚カヲル――好奇心が人一倍強くて知識欲があって、真面目。図鑑で雪虫のページを見つけた時、渚はどんな顔をしていたのだろう。きっとすぐに僕にどう知らせようかを考えたはずだ。それで結局、渚は一週間待つことにした。僕の反応を楽しみにして。もしかしたら僕が渚に完全同意することを疑わなかったのかもしれない。ふたりでいる時のように。でも、あの場には僕達ふたりだけじゃなかった。僕は多い方に流された。それだけなんだ。
黒板では雪の降ったメカニズムを解説している。渚が僕に教えてくれたことそのままだった。冷蔵庫並に冷えた教室では上着を着ることを許されていた。窓際の生徒が冷気で風邪をこじらせたらしい。見渡すと女子のほとんどが流行のマフラーを巻いている。渚はあの紺のアウターだけ着ていた。教科書を立ててそこに隠して本を読んでいる。何の本だろう。分厚い。小説かな。渚のことだから気象に関する学術書かもしれない。そうぼんやり考えていると僕の視線に気づいて渚が振り向いた。
くすんだ教室に、透明な白さがよぎる。
見たこともない穏やかで優しい表情。ゆっくりと僕に微笑みかけてくる。僕はそのいつもと違う反応にたじろいで慌てて目を逸らしてしまう。それは頭に焼き付いてスローモーションで畳みかけてくるのだ。僕はそれを思い出す度、変な汗をかいて心臓の具合が悪くなった。
あれ以来、雪は降らずに冬休み。僕らは相変わらずつるんでいる。来年は受験だから悔いのないよう遊び尽くすと誓い合ったのだ。
「勘弁してくれよ」
「いいからいいから」
「男に二言はないやろ」
「トウジも信じてなかっただろ、クソ」
4枚分のチケットを買わされてげんなりするケンスケ。上機嫌の渚を見ていると僕の罪悪感は薄れて少しだけ胸がスッとする。僕につきまとう申し訳ない気持ちはなんだろう。僕は渚の味方をするべきだったのだろうか。渚がそれについて何も触れずに流しているから余計に粘っこい感情が膨れ上がる。
「俺達やばいだろ、これ」
多数決で怪獣映画に決まっていたのに、それをすごく観たがっていたトウジが昨日の日付でタイムテーブルを調べていたせいでラブコメアニメを観る事態になってしまった(渚だけ一票入れていたやつだ)。トウジを信じた僕達がバカだった。ネットのレビュー通りカップルで埋め尽くされた客席にトウジが声にならない雄叫びを上げる。その横をホクホク嬉しそうな渚が追い抜いて、振り返った。
「シンジ君、こっちこっち」
僕はご指名で渚の横に座らされた。今日の主導権を完全に掌握した渚は僕を隅に隔離して、なんとなくケンスケとトウジ、渚と僕の二対二の構図。劇場が暗転するまで渚は僕にだけキャラメルポップコーンを食べさせるから右からは大ブーイング。「いいじゃん、僕が買ったんだし」なんてしれっと言うもんだから、ああ、また例の甘やかしだ、と僕は内心ヒヤッとする。
「まーたシンジだけかいな」
「なんでそんなVIP扱いなんだよ」
「食べたかったら買えばいいじゃん」
そんなにされるほど僕は渚を大事にしていないのに。僕にはもったいないくらい優しいから、居たたまれない。
満員の客席に放たれるファンタジーの大恋愛。雪と同じ、僕達とって遠い国のおとぎ話。好きだからってすごい行動的な展開に、嘘だろっと口に出さずにぼやいてしまう。よくもこんな共感できないものを観たがったなあ。僕の意識はあの日に帰る。
あんなに怒った渚は初めて見たんだ。僕は帰り道、渚の態度に腹を立てた。でも家に着いた頃には悲しかった。ネットで雪虫について調べながら、ひとつひとつあいつの仕草や表情をすくい上げた。僕に落ち度があったのかわからない。なのに自分が情けなくなったり、謝りたくなったり、僕はスマホを片手に訳のわからない数時間を過ごすはめになった。
ちらっと横目で様子を伺う。物静かな渚は端正だ。遠くで眺めるだけの存在だったら、もしかしたら憧れていたかもしれない。なのにずっと隣にいるから慣れ過ぎてしまった。慣れ過ぎてから、渚は圧倒的な差を見せつけて僕に知らしめるんだ。僕は境界線を越えられない人間だって。僕は渚と同格にはなれない、小さくて、弱くて――と、独白にふけっていると手に妙な感触が覆い被さった。
心臓が跳ね上がる。目を見開いたらスクリーンの中で男女が感動の再会を果たしている。いや、でもそんなことより。
渚が僕の手をぎゅっとしてきた。今、絶対に横を見られない。見たら石になるぞって自分に言い聞かせつつ、石になる。指先まで固まっていると今度はするすると指の間に指を絡ませてきて、その感覚がまるで僕に侵入してくるみたいでパニックになった僕はピクッと手を縮こめた。すると渚はその手を離して何事もなかったように映画の世界に戻った。僕は身体中がどくんどくんと熱くなって、手が、ぜんぶの肌が、ヒリヒリして、頭は真っ白になって、もう映画どころじゃなくなった。
鼓動が、唾を飲み込む音が隣の渚に聞こえませんように、と祈っていた。映画館にはポップロックが鳴り響いていた。
エンドロールで席を立ち、ケンスケとトウジがトイレに行くから僕もと後をついていったら渚が僕の腕をつかんできた。
「シンジ君のせいで内容わからなかったんだけど」
「自分から変なことしてきたんだろ」
「そうだよ」
意味不明な会話がすごく恥ずかしくて、僕は渚を振り払ってトイレへと逃げ出した。変なこと、なんて言ったらもう無かったことにはできない。けれどこれで焦っていた僕は甘かった。それからその日は坂道を転がるように、わけもわからず急展開する。
あれから惰性でゲーセンへ行って夕方になったら「次はケンスケんちで泊まり込みでドラクエやな」なんて適当な約束に相槌を打って十字路で別れた。僕は何か用事を作って残りの一択に進みたかったけれど、違和感のないシチュエーションが最後まで見つからずに渚の横に居座った。心持ち人一人分離れて。渚も黙り込むから地獄だった。生きた心地がしなかった。
そして、ふたりの目の前を飛んでいく、白い綿毛。
「イタッ」
急に、渚がうつむいて顔を覆う。
「目にゴミ入った」
「えっ大丈夫」
「大丈夫じゃない、とって」
「待って、見せてよ」
バカ正直に僕が顔を近づけると隙をついて右頬にかすめるような、キス。
「あは!騙された」
「だ、騙されてやったんだ!」
カッとなって何も考えてない発言。僕は昔から渚に騙されると張り合ってしまうから、無意識にそんな反応が出てしまったんだ。特に深い意味はなかった。けれど、目の前の渚は衝撃を受けたような表情。今思うと行間を深読みしすぎたんだろう。今度は唇に唇が近づいてきたから、僕は卒倒した。
「やめろよ!」
接近してきた肩を突っぱねて、一蹴。そこには耳まで真っ赤になって、潤んだ瞳。すぐにわかった。渚は傷ついていた。顔を逸らしていびつな笑みを浮かべている。
「ねぇまた雪が降るって言ったら今度は信じてくれる?」
「また起こる確率の方が少ない」
「信じてくれる?」
乾いた声色に僕まで泣きたくなってしまう。
「そこすごくこだわるね」
「返事になってない」
「信じたらどうだっていうのさ」
「もう一度騙されたふりして」
「どうして」
どうして、そんなに必死になるのさ。
「どうしても」
「……降らなかったら?」
「降らなかったら降らなかったで」
「は?」
僕の悪い癖も発動してしまう。引き際がわからなくて、変に意地を張って、譲らない癖。
「僕になんの旨味もない」
「そんなに信じたくないの?」
「いや人に騙されろって言うならそれ相応の」
「じゃ友達やめる」
キレたんだ、と僕は思った。
今思えば、友達やめる――これには逃げ道があった。
「なに言ってるの?」
けれど僕はその含みにも気づかずに、言葉のままに受け取った。
「簡単に言うなよ」
僕達そんなものだったの?――僕の内側はぐしゃぐしゃで死にかけて、
「ならこんなこと言わせないでよ」
「君と話してると疲れる」
すぐ側にいるもうひとりの瀕死の誰かのことなんて考えられなかった。
「普通そんなにいろいろ知らないし」
ぽろぽろと溢れてしまうのは自分のことばかり。
「馬鹿にされてるみたいだ」
「僕だって嫌だよ、こんな風に空回りするの」
いっぱいいっぱいなのは、おあいこだった。
僕と渚の間には風に吹かれて飛ばされてゆく雪虫の群れ。
きっと渚は試したんだ。
僕がその一匹を見つけたのに気がついて。
渚はたまに賢すぎて、僕はそれに先回りして気遣うことも許されない。
僕は思わぬところで渚を傷つけてしまった。
渚も僕の心の平和を奪い去った。
寒い。寒い。雪虫には口がない。寿命は一週間ほど、卵を産むと死んでしまうらしい。雪虫は皆に雪を知らせて、雪を見ぬまま死んでしまうのだろうか。
熱に弱くて人間の体温でも弱ってしまう、力が弱くて風になびいて流されてしまう、まるで僕みたいだ。
もどかしさに胸をかきむしりたくてしょうがない。僕がずっと目を逸らしていたひとつの可能性。それはある日突然に、僕にバケツの冷水を思い切りぶっかけるように容赦なくやってきた。
休み時間だった。隣の席の女子がペットボトルを忘れたとクラスメイトの男子に話していた。昼休み、その男子は「お前が好きなの買ってきてやったよ」と彼女にミルクティを渡したのだ。僕はそこで気がついた。彼は彼氏だった。彼氏の甘やかしには見覚えがあった。僕に向ける渚の態度がオーバーラップしたその時、僕は全身の毛穴という毛穴から水分を根こそぎ吸い取られるようなひどい眩暈に襲われた。
親友が自分に友達以上の感情があるのかもしれない。それだけならまだしも、その可能性に違和感もなくほのかに嬉しい感情がある。まずい。強烈にまずい。
僕は瞬時、徹頭徹尾全否定して、蓋をした。それからの毎日、渚にも自分にも見て見ぬふりを重ねていた。だからなのかな。僕には僕がわからない。
密かに僕は、渚に惹かれる度に渚を憎く感じてしまうようになった。
引けを取りたくなかったんだ。どう足掻いても僕のプライドは傷ついていった。渚に敵うものを僕は何ひとつ持ち合わせていない。釣り合わない。だから僕は、彼を相手にしないことでその存在価値を下げて同等であろうとする。そんな自分にも薄々気づき始めて、自分の卑しさを感じた時に僕はまたしても渚に八つ当たりをする。傷つけたくないのに傷つけたくなる。そんな自分が僕は嫌いだ。
僕は自室で頭を抱える。こびりついて離れてくれない。なんで僕は渚を嫌いになれないんだ。会いたくないのに会いたくなるのはなんでなんだ。
一週間後、あの雪虫はきっと死んでいる。僕達の間を舞っていた彼らは、綿埃になって路面に散って、その上に静かに雪が積もってゆく。
僕はこのまま曖昧でいたかったんだ。疲れることは考えたくない。なのに、渚は何かが吹っ切れたみたいで、おかしなことを仕掛けてくる。おかしなこと……嫌ならやめろと言えばいいだけなのに。結局どうしたいんだ。認めたくない。何を、何を僕は認めたくないんだ。
頭の中でさえ慎重になって、僕は本当に自分に対して過保護だな。空っぽになって天井を見上げていると、もうひとりの僕が僕を覗き込んできた。
まだ何も準備ができてない。覚悟もない。受け止める余裕もない。僕はこんな性格だから心のままに新しい世界に飛び込む勇気なんて持ち合わせていない。
渚は奔放で自由。そして、頭が良い。僕と駆け引きをしながらいくらでもある戦法から次の駒を選べる。強引に勝つ方法だってきっと知ってる。でも渚は勝たないんだ。優し過ぎて最後の一手で僕にわざと負けてやるんだ。渚は迷わず僕よりも自分が傷つく道を選ぶ。僕はそんな渚に甘えている。
ねえ渚、僕はどうすればいい?
たまに思う。後悔しないのかなって。渚だっていつかはこんな僕に愛想が尽きるだろう。もっといい誰かを見つける。渚の気持ちにちゃんと答えてくれる誰か。そんな人はきっと世の中にたくさんいる。僕はその時、何を思うんだろう。今こうやって考えるだけで息も出来ないくらいなのに、僕は生きていられるのかな。勝手に飽きられちゃった気になって枕に顔を押し付けてぐずぐず泣いている僕を知ったら、渚はきっと大笑いするだろう。なんで何もされてないのに被害妄想でそんなになるのって。シンジ君ってドMなのって。
「ごめん」
何に謝ったのかもわからずに、最後にそう囁いた。
雪は降らなかった。二階から窓を開けて見上げた空は垂れてきそうなほど重い。雪が降るならきっと雲はもっと白くてふわふわなはず。気象予報士は煮えきらない顔で「データがないので予測しづらい」と朝からぼやいていた。
僕がドラクエもやらずに部屋に引きこもっているのは、インフルエンザになったと嘘をついたから。そんなこと言おうものならうるさい奴が押しかけてくるかもしれないと無駄な心配をしていたけれど、案外あっさりしていてLINEで『大丈夫?』だけだった。(別のふたりの『日頃の行いが悪いからだな』と『わいにも移っとるんちゃうか』よりはマシだけど。)渚はきっと僕の嘘を見抜いている。同じ気持ちなのかもしれない。外界から遮断されてひとりになって考えたいって。
僕は無感覚を装っていればいつか本当に何も感じなくなると思っていた。でも、心のどこかでずっと待っていた。ウイルスなんて気にしない奴と、それから……
だからこうして窓から身を乗り出して、分厚い雲を眺めている。
「ねえ」
鼓膜がふれた瞬間、僕はそれが誰だかわかって心臓がしゅわしゅわと弾けてしまう。密かに深呼吸して見下ろすと、紺色のアウターとチェックのマフラーが小さなブーケを持っていた。
「碇シンジ君、友達から始めませんか」
下からスイング、振り子のように投げられたブーケ。いつも突拍子も無い。僕は慌てて両手でそれをキャッチする。危ないな、何してるんだよ、そんな顔でもう一度下を見るとこんなに離れていてもわかった。照れた笑顔に緊張が混じっている。
「絶交じゃなかったの?」
「だから友達から」
「からって何」
「……友達から墓場まで」
「怖すぎだから」
そして頭頂部がしんと染みた。見上げると、
「ほら雪!!雪降った!!」
はらはらと。あの日とは真逆で、下には空を指差しながらジタバタしている奴がいる。
「あっそう」
雪虫が一週間の命を終えて眠りにつくみたいだった。手の甲に着地したそれはじわっとにじんで水滴になった。僕のこんがらがった頭は雪虫の一生に空が泣いているんだなと、じんとした。
「約束守ってよね」
「や、約束なんてしてないだろ!」
「言い訳なんて男らしくないな」
「言い訳ってさあ、」
そして渚の賢い頭は端折るのだ。
「地球の地軸だって傾くんだし君だってわからないだろ」
何の話、と聞こうとした。でもその姿に僕は飲み込まれてしまう。
「最近わかったことがあってさ」
陶器の肌はほんのりと血の色を浮かせて、柔らかな髪はあの綿毛のよう、
「でもこれを口にするのは君は嫌がるだろうし――」
遠い国のおとぎ話みたいに透明な白さで、
「すぐ出さなくていい答えを勝手に出されても嫌だから――」
僕はあまりにも美しい彼に圧倒されていた。
「今は友達でいいけど僕は君にちょっかい出すのやめない」
そんな美しいひとから投げかけられた言葉はあまりにも素直で、体温に溶けてなじむ雪の速度で僕の胸に沁みてゆく。
「……いいよ」
「え」
渚は聞こえなかったんだろう。でも僕を見てもう何も聞かなかった。
「せっかく来たんだからあがってきなよ、風邪引くよ」
「君、インフルなんでしょ?」
「もう治った」
僕のそんなに賢くない頭は先回りして、少しだけ回転が早かったらしい。僕は胸に抱いている花の名前もその花言葉も知っている。渚は僕がそれを理解したことに気づくだろうか。
雪虫が死んだ日、世界は音のないレクイエムに包まれていた。僕達は答え合わせを先延ばしして、あたたかい家の中、くだらないことをして、笑い合った。
抒奏
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