ふわとろ


その日の夕暮れはいつもよりも朱かった。


息苦しさに目が覚めた。脳内でまだ哀しい夢がリフレインしている。「間違った恋をしたけれど、間違いではなかった」なんて歌のフレーズがずっと聞こえていて、そうだと思って振り向いたら、もう渚の隣にはシンジはいなかった。渚は氷の塊を体内に感じた。押し潰される異物感。するとそこは大きな冷凍庫で、目の前の温度計を壊してシンジの名前を連呼していたらブーンブーンと羽音みたいな警告音。赤いランプが激しく点滅。一気に倉庫内はサウナと化す。汗だくになって体が重くなってついに渚はその場に倒れてしまった。最後に彼の名を口にして。

「……なに?」
「重い」

ふたりの体が重なっている部分が汗でべとついていた。うつ伏せの渚はシンジに下敷きにされていた。ぼんやり思い出すのはそうめんを食べたら眠くなって床に伸びているふたりの姿。まだ夏は先なのに地球温暖化の影響か真夏日を記録した、そんな茹だる6月の梅雨入り前。渚は押し入れから扇風機を取り出した。首振りモードでお互い涼しい場所を奪い合っていて「不毛な争いはやめよう」と定点で強にした。仲良く並んでプロペラの風を浴びていた。それがあんまり気持ちよくってそのまま横になって、現在。

「僕になんの恨みがあんのさ?」
「寒くなってきたから弱にしようとしたんだよ」

扇風機は強のままで何故か懸命に首を振っていた。

「それで途中で力尽きた。君が邪魔で」
「よく言うよね。人の上で寝ておいて」

渚は口からはみ出た涎を拭って扇風機を消した。心臓がまだうるさかった。時計を見ると午後4時の5分前。同じ首の角度で眺めるシンジが溜め息をついた。

「あーあ、寝過ごしちゃった。君のせいだな」
「どうしてさ」
「扇風機出してきたから」
「君はその恩恵にあずかったくせに」

窓の外、空は夕方の準備をはじめて青が白みだしていた。

「せっかくの日曜だったのに」

全部渚のせいだと言いたいらしい。シンジは不機嫌だといつもそうなる。なんでだよと思う反面、胸の奥がしびれるのを渚は感じる。シンジが他人にそんな強気に出るのを渚は見たことがない。それは自分だけにするとびきりに甘えた態度。別の誰かにそうしていたらきっと落ち込んでしまうだろう。

「今から散歩でもする?」
「うーん」
「それとも僕とキスでもする?」

すくっと立ち上がったから散歩の方を選んだらしい。渚の顔を避けるように玄関に直行するシンジ。その後を追う渚。

「でもどこに行くんだよ」

嫌々とアパートの階段を駆け下りていく背中を見て、渚はくすっと笑った。こういう時のシンジは乗り気なのだ。

「なに?」
「なんでも」

不貞腐れた顔をして早くしろよと催促する。渚が早足で隣にぴったりくっつくと、シンジは一歩横にずれた。その気はなかったのだけど、シンジは渚にまだ唇を狙われてると思ったのかもしれない。警戒心を自意識過剰と思われたくないらしく、シンジは少しずつふたりの距離を詰めていった。だから渚は盗むように首を傾げてその頬にキスをした。

「あっやめろよ!」
「いいじゃん減るもんじゃないし」

ごしごしと手で頬を擦りながら電柱の影に隠れるシンジ。つかまえようとしたら逃げ出された。2メートル先で振り返る、シンジの細めた目が警告する。

「今度そんなことしたら前歯全部折ってやる」
「おーこわ」

全然怖くなさそうな反応。シンジが怒り肩になってさっさと先へ進んでしまう。慌てた渚が大股でいつものポジションに落ち着いた。半人分の空気を間に挟んだまるで、小さな宇宙人を連れて歩いている距離感で。

何が僕達を遠ざけているんだろうと渚は思う。

一昨日、雨が降ったとき、シンジしか傘を持っていなかった。放課後の下駄箱の前、軒下で空を見上げたら雨はしばらく止みそうにない気がした。そんな渚の横でぱっと空気が弾けた。シンジがビニール傘を広げていた。淡々と。

「入れてよ」
「嫌だよ」

シンジが段差を降りようとするので腕を引っ張った。

「ケチ。僕が濡れるだろ」
「濡れれば」
「ハア?友達だろ」

シンジは辺りを見渡した。

「誰も友達同士でひとつの傘に入ってないけど」
「忘れたのが僕だけだからだよ!」
「偉そうに言うなよな!自分のせいなんだから雨があがったら帰ればいいだろ」

なんで男同士でそんなに意識してんの?と喉まで出かかった。言えなかった。

「夜まであがんなかったらどうすんのさ」

結局「酸性雨で僕がハゲたら君だって嫌だろ」という理由で落ち着いて、渚はほとんど強引にシンジの傘の中に入った。ふたりは肩を寄せ合いしばらく黙々と歩いていた。アスファルトも建物の壁も雨に濡れて色を落として薄暗かった。校門のレンガの上にかたつむりが一匹、のんびりと這っていた。

密着するカッターシャツは湿気で生温かった。傘の柄を持っていたのは渚だった。シンジは何度か肩をさすって俯いた。そして駅のロータリーで傘を畳んでから渚は気がついたのだ。シンジの体は半分だけ濡れていた。シャツからインナーの青が透けてべっとりと貼り付いている。黒髪からは雫がしたたっていた。

それに対してシンジは何も言わなかった。ただぶすっと何を考えているのかわからない無表情とも違う装いの表情で、耳にイヤフォンを差して伏し目がちに、音楽を聴いていた。

渚は別れの挨拶も忘れて、電車から降りるとまだ降り続けている雨の中へと駆け出した。散らかった心のかけらを整理できずにあえぎだす。とりあえずもう同じ傘には入れなかった。渚は何故か、泣きたかった。

ただこうして並んで一緒に歩いているだけでも渚は時折そんな発作に襲われた。痛みの追体験にぐっと喉を詰まらせる。湧きだす何かが窒息するまで焦点もなく、遠くを見つめて何も言わない。

「どこまで行くのさ」

渚はふと我に返った。

「……どこまで?」
「散歩に来たんだろ」
「ああ、適当」
「君が誘っといてなんだよそれ」
「一緒に来たんじゃん」

最後のセリフを最後まで聞かずにシンジは踵を返してしまう。もと来た道を戻っていく。渚はとっさに手を伸ばした。シンジの肩をぎゅっと掴んだ。

「ただ歩いてるだけでよくない?」

けれどシンジは何も言わず渚の手を振りほどいて走りだす。渚は追いかけた、溜め息まじりに。

ああ、こんな感じだな。渚の心臓は悲鳴をあげる。たまに日常に潜む神様がそうやってこんがらがった現実をわかりやすく見せつけてくるのだ。やがてシンジは曲がり角へと姿を消した。

きっとシンジもわかっている。ふたりの関係は友達だけじゃない。こんなに一緒にいて嬉しくて楽しくて仕方なくて、でも後ろめたくて苦しくて、つまらないふりをするなんて。その後ろめたさを直視するのはとても難しいけれど、でも、きっとそれが真実なのだ。ふたりが求めているもの。心が欲しがっているもの。それを世間がどう分別するかなんてどうだっていい。渚はそう思う。

「シンジ君、待ってよ!」

本当は当たり前のように何も気にせず肩を並べて歩きたい。寄り添ったらすぐ側にはシンジの笑顔があってほしい。
そんな勇気がシンジにはないことも、渚はちゃんと知っていた。

「ねえってば!」

曲がり角の先は十字路だった。渚はシンジを見失った。

「……」

歩くのをやめてしまう渚。立ち止まってずっと十字路を見つめていた。さっきの夢の副作用か、心臓が冷たく歪んで鼓動する。もう家に帰ってしまった方がいいのだろうか。渚はひとりぼっちで途方に暮れた。

この世界には恋が喜びだけの人もいるかもしれない。学校の登下校でもよく見かけた。一目を憚らずに誰からも祝福されていると確信していちゃいちゃしている男女のカップル。当たり前という顔をして手をつないで見つめ合って笑っている。渚はそんな光景にぶつかる度に「ひどい喧嘩をして別れますように」と願掛けした。悔しかった。同じように生きていて同じように恋をしているだけなのに。どうして自分の恋はこんなにも苦しいんだろう。

――間違った恋だから。

そんな渚の密かな悩みをわかりやすく神様は解説する。通学途中の電車で知らない女がそう言った。泣き腫らした目をした連れに、人のを取っちゃだめだよ、とか、相手は本気じゃないよ、とか説得しているのが聞こえてきて、そっちね、と渚は思った。でも「間違った恋」という言葉が頭から離れなかった。渚の横にはシンジがいて、ふたりは無言で流れていく窓の景色を眺めていた。渚はもうそれ以上聞こえないようにと頭の中で話題を探した。でも喉が詰まって息苦しくてもう何も言えなかった。聞こえてないふりをするのが精一杯だった。シンジは聞こえていないのか、表情を変えなかった。

けれど後日、シンジからたまたま借りたCDがこう歌ったのだ。

――間違った恋をしたけれど、間違いではなかった。

渚は時が止まってしまったんだと思った。ぴくりとも身動きが取れなくて息ができなかったから。でも音楽は流れ続けて心臓は痛みを刻み続けていた。もしかして、渚は思った。シンジは聞こえていたのかもしれない。でもそれなら、シンジは間違いではないと小さな声で叫んでいるのだ。間違いだらけと渚の前では目を背けていながらも。

本当は僕をずっと待ってるの?
君も同じ気持ちなの?

渚は何もわからなかった。何もわからないから、こうして今でも道端で立ち尽くしている。追いかけるだけじゃこれから先は迷子になってしまいそうで。渚はシンジを待っていた。シンジをずっと呼んでいた。

十字路のブロック塀から人影がはみ出たのは数秒もかからなかった。その瞳は睨みつけ、引っ込んで躊躇して、また顔を出す。とぼとぼとサンダルを履いた細い足がこっちへと向かってきた。何でもない顔をして覚束ない足取りで。

「遅い」

それだけぼそっと呟いて、もう一度十字路に振り返る。渚はまた歩き出した。ふたりはもと来た道とは反対の方向へと曲がっていく。新緑の街路樹はほんのりと黄昏に染まり、歩道橋の先、車道の側面は高台の線路になっている。見慣れた電車が規則的な金属音を立てて通り過ぎた。行き当たりで横断歩道を左に進むと架道橋、下のトンネルは目抜き通りへと繋がっている。でも渚とシンジはそのままもうひとつの横断歩道をまっすぐ進んだ。2階建てのビルと駐車場に挟まれた砂利道へ。砂利は砂に変わりコンクリートに。雑草の生い茂るひび割れた階段を一歩一歩上っていった。少しずつ視界が開けて、新鮮な川風がふたりの色の違う髪を掻き上げた。

そこは街を貫き流れる河川沿いののどかな土手。なだらかな斜面は葦の草原へやがて大河の水面へと景色を変える。その向こうにはふたりの知らない街がジオラマで建ち並んでいた。柔らかい山の稜線には茜に燃える夕日がゆらゆらと煌めいていた。

何も言わずにふたりはただ茜色を眺めていた。ふたつの肩は触れ合うほどに近かった。
その日の夕暮れはいつもよりも朱かった。

そしてしばしの風と営みの沈黙を破ったのは、トランペットの劈くような金の雄叫び。川辺にひとりの女の子が大河に向かってそれを勇ましく掲げている。朱々と燃える陽へ吠えるように奏でるのは、サマータイム。夏時間には早すぎる季節、そもそも日本にそんな習慣はない。見慣れた制服はふたりと同じ第壱中の学生だろうか。彼女の音は気怠い黄昏の刻を切り裂いていく。持て余した熱量を大空へと解き放つ。その背中は挑んでいた。得体の知れない大きな大きな何かへと。

メロディの最後の一片が群青の夕闇へと溶けて消えた。

「ん」

振り向くと、シンジが渚を見上げていた。もう一度、ん、と言ってからっぽの手のひらを見せるシンジ。渚は意味がわからずに戸惑った。戸惑っていたら、シンジが渚の手を無造作にぎゅっと掴んだ。引っ張るように歩き出す。

「珍しいね、どうしたの」

まだるっこしいやり方でふたりは手を繋いでいた。渚の問いにシンジは何も言わなかった。これ以上聞いてはいけないと渚も思った。ふたりは夕暮れの小径を歩く。シンジは渚より一歩先を行きたがった。だから渚はその通りにした。いつの間にか空気が冷えて、群青色が深くなる。

おもむろにシンジが深呼吸をした。

「こんな気持ち初めてだからわからなかったんだ」

シンジの手のひらは汗ばんで声はかすかに震えていた。

「言いたいことがたくさんあるのに言葉が出てこないんだ……好きだとしか」

渚はシンジの後頭部を見つめていた。顔は見えなかった。見ちゃいけないんだとも思った。
シンジは渚が知っていたよりずっとずっと勇敢だった。

渚は拙く繋いだふたりの手を握り直した。ちゃんと指と指とが絡まるように。

「好き以外にもいっぱい言ってたじゃん、前歯折ってやるとか」
「あ、もういい」
「よくない」
「もう知らない」
「ごめん冗談だって」
「……あっそ」

涙ぐんだ声が聞こえた。渚は胸が苦しくてたまらない。

「きっと僕の方がシンジ君のことが好きだよ」

繋いだ手を自分の胸に引き寄せて、シンジの肩を抱いて、渚は奪うように唇を押し付けた。シンジの唇は最初からそれを期待していたように静かにそれを受け入れた。きっと一瞬の出来事だったのに、ずっとそうしていた気がした。

ふたりの唇が音もなく離れていく。渚もシンジもつらくて泣きそうな顔をしていた。でもすぐに嬉しくて仕方ないへなちょこな笑顔になる。シンジのふわとろな照れ笑いは本当にかわいかった。一番星を浮かべているシンジの瞳を見つめながら、渚はあるとんでもない可能性に気がついた。

もしかして、わざと僕の上で寝てたの?

渚は想像した。すっかり熟睡している自分の横で寝ぼけ顔で起き上がるシンジの姿を。シンジは渚の寝顔を見つめて、自分と同じように胸が苦しくてたまらなくなって、そっと頬にキスをする。その遠すぎる背中に触れて、ぬくもりを確かめたくて耳を当てて覆い被さる。そしてそれが気持ちよくて離れられなくなって、ついにそのまま眠ってしまった。

「いこっか」
「うん」

でもそれは確かめなかった。
だってふたりは当たり前のように何も気にせず肩を並べて歩いている。寄り添ったらすぐ側にシンジの笑顔があるんだから。

「もう一回キスしていい?」
「だめ」
「……ケチ」

渚とシンジは手を繋いでいる。それだけでいい。


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