最後にあの笑顔を見たのはいつだろう。

渚は本当に屈託なく笑うんだ。まるで太陽に向かって叫ぶみたいに。周りの人間を巻き込んでとても嬉しい気持ちにさせる。それが渚の特技。本人は気づいてなかったみたいだけど。



やさしくつかまえて



「アンタたちよく喧嘩してたわよね。」

夏休みに片足を突っ込んだ気の抜けた教室で、僕が読書している渚を見てたらアスカが僕の机に座った。

「僕たち?」

それが僕と誰かなのかはわかりきっていたけれど、あえてわからないフリをした。

「アンタとアイツに決まってるでしょーが。」

視線の先にはやっぱり、頁をめくってちょっとだけ僕たちを気にしている、渚。

「まあ、そうだった、かも、」

その過去形が僕はちょっと気になってしまった。

僕と渚は本当によく喧嘩した。渚は僕によくちょっかいを出してきた。内容はくだらない。僕の消しゴムに落書きしたり、勝手に僕の水筒からお茶を飲んだり、僕が女の子と話してたらいきなり体操服をめくってきたり。標的は何故か僕だけ。その度に僕は怒って、渚は僕をからかい続けた。それがふたりの役目みたいに。

僕たちは仲直りの方法を見つけるまではなんだかんだでやり合った。いつまでもそれが見つからないと、僕は渚を無視しはじめる。渚は寂しそうにしていた。僕はそれが密かに嬉しかったんだ。だからそろそろ許してやるかと思っても、僕は自分からきっかけを作るのが苦手だった。そんな時はいつも、どうしようって途方に暮れて、なんだか切なかった。

僕は喧嘩するほど仲が良いって言葉を信じていたんだ。あまり人に素直になれない僕には喧嘩ができるってことはそれだけで気を許してる証だった。だから渚は僕にとって特別なんだ。でも、あまのじゃくな僕はそれを認めずに、わざと仲の悪いフリを皆の前でしたりした。嫌っているように振る舞ったりもした。

―しばらく喧嘩してないよな…

最近、渚の様子が少しおかしい気がする。いや、もう随分前からそんな気がしてたんだ。ゆっくりゆっくり、まるで空の様子が変わるみたいに、変わってるのがわからないのにいつの間にか変わっていた感じだった。

「ふうん。」

「いきなり何?なんでそんなこと言ってくるのさ。」

「昔を思い出したの。」

棘のある声。僕はなんでつっかかってくるのかわからなくて、アスカを探るように見上げた。彼女の横顔がちょっと冷たくなるのを感じた。

「ほら、5歳くらいの時にみんなで海に行ったじゃない。」

「うん。」

「アンタたち結局、海よりも喧嘩に夢中で帰る時間までずっとそうしてた。」

「そうだったっけ、」

僕は小さな嘘を吐く。それを昨日のことのように覚えていたのに。

僕の胸には懐かしい潮風の香りが広がった。


あの夏は例年よりも蒸し暑かった。だからちょうどこのくらいの時期、家族ぐるみで仲が良かったうちとアスカのうちで海まで遊びに行くことになった。海水浴場じゃなくて、誰も知らないような小さな海岸沿い。綾波と渚もついてきた。僕たち4人は幼馴染みだった。

あの日、母さんは白いワンピースを着ていてとても綺麗だった。桃色のリボンを巻いた麦わら帽子を被っていると少女のように可憐だった。幼いながらその佇まいにうっとりした。母さんは僕の自慢だった。

すると、潮風が母さんに悪戯をした。麦わら帽子が砂浜高く、舞い上がる。僕は波がさらってゆかないようにと一生懸命駆け出した。貝殻につまずきながら波間に浮かんだ帽子を拾うと、得意げに母さんへと届けたんだ。母さんはその麦わら帽子を僕の頭に被せて笑った。王子様に王冠を授けるみたいで、僕はとても誇らしかった。

そんな僕を渚はじっと遠くで見ていた。僕がうらやましかったのかもしれない。潮干狩りのシャベルを勇者の剣みたいに掲げる僕の前に来て、さっそくつっかかってきた。

「ボーシかぶると女の子みたいだね、シンジくん。」

胸を張っていた僕は女の子みたいと言われて腹を立てた。

「きみのほうがまっ白で女の子だ。」

「シンジ、悪口を言ってはいけません!」

パラソルの下で見ていた母さんが僕だけを注意した。せっかくいい子だった僕が悪い子にされたんだ。渚のせいで。悔しくて僕は怒った。

「だってホントだもの。まっ白でおばけみたい!」

「いけません!」

母さんの口調が強くなる。渚はちょっと傷ついた顔をした。

「べつに女の子がわるいってわけじゃないよ。」

「ぼくは女の子じゃないっていってるだろ!だってあおいろだよ。ナギサのほうがあかだから女の子だ!」

僕は青い海水パンツを履いていた。渚のは赤かった。

「色で男と女にわかれるの?」

「うん!」

僕は自信たっぷり頷いた。

「じゃあシンジくん、あかもにあうと思うからはいてみてよ。」

そんな返しをされるなんて。僕は仰天した。

「や、やだよ!ナギサのパンツなんてはかない!」

「1回だけでいいから、」

「やだ!」

「1びょうでいいから、」

「やーだ!」

渚は妙にしつこかった。僕は赤いパンツを履くことよりも青いパンツを脱いで外で裸になるのがすごく嫌だった。恥ずかしがり屋だったんだ。だから必死で首を横に振り続けた。僕と渚が喧嘩したら、いつも途中で折れるのは渚のほうだった。

でも、この時は違った。

「あーん!」

僕は叫んだ。打ちつける波の音に驚いて後ろを向いた瞬間に、渚が僕の海水パンツを引っ張ったんだ。僕の小さなお尻はパンツを脱がされ丸見えになった。慌ててゴムを押さえて前屈みになってもグイグイ下に降ろされて、もう何もかもをお披露目しそうになってしまう。母さんが慌てて間に入って止めても遅くって、僕はたぶん、ちょっと見られたかもしれない。膝に海水パンツをひっかけたまま、砂の上でしゃがんで泣いた。

渚はすごく興奮していた。それからもやたらと僕につっかかってきて、何度も何度も僕のパンツを脱がそうと躍起になった。僕は全然気が抜けなくて貝拾いなんてできなかった。砂の中のカニに見とれているだけでズルッと半分脱がされてしまう。辺りが琥珀色になってもそれが続いて、すごく怒った僕はポカポカ音が鳴るくらいグーで渚をめちゃくちゃ殴った。反射神経のやたらいい渚はそれを全部パーでしっかりと受け止めた。僕は自尊心を傷つけられた。渚は悔しそうな顔はしても、いつもならやり返すのに僕を殴り返さなかった。まるで僕のほうが弱いやつのような気がした。


「だからアンタ海嫌いなの?」

アスカは何か言いたそうな顔をして僕を睨んだ。遠くで渚が立ち上がってこっちを見た。

「別に海、嫌いじゃないけど、」

「へえ、じゃあなんで――」

渚は僕を見つめていた。

「――私たちと海水浴行かなかったのよ。」

とても気まずい顔をして。


◊ ◊ ◊


「だから説明させてって!」

次の時間は体育だった。僕らは水着に着替えてから屋外のプールへと移動していた。

「そんなことしなくてもわかるよ!」

僕は渚を睨みつける。

「勝手に僕の分まで返事したんだ。」

先週の日曜日、アスカは友達みんなで海水浴場へ遊びに行った。メンバーには僕も渚も入っていた。けれど、直前で僕と渚はドタキャンした。アスカは詫びの連絡すらして来なかった僕に腹を立てていた。

でも僕は、ドタキャンどころか誘われたことすら知らなかった。

「ごめん。ちゃんと説明するから、」

準備体操中でも僕にしつこくつきまとって渚はそう言い続けた。

「じゃあ言ってみろよ。」

「ここじゃ言えないからあとで、」

今日は塩素が鼻の奥にツンと染みる気がした。

「ほら、謝るくせにまだ言い訳思いついてないんだろ。」

「違うって。そんなに怒らないでよ、」

「怒らないで!?怒るに決まってるだろ!」

僕がプールの梯子に手を掛けたら渚が腕で邪魔してきた。気づいてよけた。

「…シンジ君って怒ると頑固だよね。」

ひと泳ぎしたら渚がまた話し掛けてきた。僕は無視する。

「昔から手に負えないや、」

それでも僕の横に来て、しみじみそんなことを言ってくるから、

―もっと怒れば?

僕は密かにそう思った。

僕と渚は喧嘩する機会が減った。減ったというより勝手に終わりにさせられた。渚はもう、僕をからかわない。僕が一方的に怒ってみても、渚はそれを受け流すだけ。その態度は一歩高い所で僕を見下ろしてるみたいで、嫌だった。僕だけ本気で怒っていて、自分が子どもっぽく感じた。僕は距離を感じ始めていたんだ。

「そうやって何でもわかった気でいてさ、」

渚が急に対岸の向こうに行ってしまった気がした。

「僕が嫌いならかまうなよ!」

それが何なのか、僕にはうまくわからなかった。

「それ、本気で言ってるの?」

渚が寂しそうな顔をした。なんでそんな顔をするのかも僕にはもう、わからない。

「本気だよ。僕をバカにしてそんなに楽しい?」

「バカにしてないよ、」

「ハイハイ。いつまでもそう言ってれば?」

「ちょっと聞いてよ。」

―寂しい…

「うるさいな!」

「待ってって!」

僕の腕をつかもうとした渚の手を、思いきり振り払った。

「やめろよ!」

「ねえ、シンジ君、」

―ムカつく…

「ちょっと聞いてる?」

僕はまた伸びてきた手を叩いた。

―もう嫌いだ…

鼻の奥がツンとする。塩素のせいなんだ。

「触るな!」

「シンジ君!」

僕はプールサイドを早足で歩き出した。

「シンジ君!」

泣きたくない、僕は泣かない、そんなことを考えていたら、後ろから予想外の鋭い声がぶつかってきた。

「無視するなよ!」

それは一瞬の出来事だった。渚が僕の肩を勢いよく引っ張った。不意打ちに僕はそのままバランスを崩してつんのめる。目下には陽射しに乾いたタイルが熱く灼けた鉄板みたいに揺らめいていた。頭をぶつけたら大変そうだ。でも僕は重力に逆らえない。視界がぐらりと急降下。そうして倒れかけた時、渚が僕を抱き留めて、一緒になって真っ逆さま。僕を支えて体をひねって、ふたりで真夏のプールへと、ダイブした。


「ほら、背中に乗って。」

僕はプールの底で青い水面を見上げながら足首に違和感を覚えていた。水から出たら体重がずんとのしかかってきて、僕は立ち上がれなかった。渚は僕の足首を持ち上げて、捻挫だ、と呟いた。

「嫌だよ。」

「ほら、」

「いいって!」

渚が僕を保健室に連れて行く手筈になった。でも僕は無駄な抵抗をする。もう渚はさっきみたいに怒ってなかった。

「よくないよ。」

「自分で行くって、」

「歩けないのにどうやって行くのさ?」

正論だ。なのに僕は何処までも子どもっぽい。喧嘩中でもやさしく振る舞う渚とは、正反対だ。

“ この無性に逆撫でされる感情は何だろう? ”

黙り込んだ僕の手を取って、自分の肩に掛ける渚。

「落っこちないようにちゃんとつかまってよ。」

え、おぶる気?肩借りるだけでいいよ、そう言いたいのに、怒りながらそんな文句言ったらすごく図々しい気がする。僕が戸惑ってもたもたしてたらクラスメイトが無関心を装って、こっちの様子をうかがっている。その視線が痛くって、僕は降参。背中から、渚の首に手を回して抱き締めた。少しふらついて、僕は地面からは遠ざかる。渚は僕の腿裏を持ち上げて、僕をおんぶした。

皆に見られて恥ずかしい。ふたりの濡れた肌がぬるぬるして、落ちないように首に巻いた腕にギュッと力を入れた。鼻先にある耳は真っ赤だった。女子たちがキャッキャ騒いて僕たちを指差していた。

渚は何も言わなかった。ただ僕を落とさないように慎重に、一歩一歩前に進んだ。揺れるリズムが心地好かった。その筋肉質な背中がたくましいって初めて気づいた。水滴を垂らす銀髪と、そこに隠れた横顔の輪郭が、僕よりずっと大人に見えた。

僕の知っている渚じゃない渚がそこにいるみたいだった。不思議な感覚に僕はドキドキして、知らず識らず、甘えるようにその背中に体をあずけてしまっていた。


◊ ◊ ◊


保健室には先生がいなかった。カーテンで仕切られたベッドがひとつ。他は全部開いていた。渚はとりあえず僕を手前のベッドに降ろした。ピチッとしたスクール水着が気になって、僕が器用に体をくねらせお尻に食い込んだ半乾きの部分を直していると、渚の視線を感じた。僕が見上げると渚は慌てて後ろを向いた。

「ちゃんと言い訳考えた?」

ありがとうって言おうか悩んだ。でも誤解がとけなきゃそんなこと、言いたくても言えないんだ。渚は僕に背を向けたまま黙っていた。それからふと、濡れた銀髪を掻き上げて溜め息を吐いた。

「本当に知りたいの?」

当たり前じゃないか。今更何言ってるのさ。

「もったいぶるなよ。」

「そうじゃない、」

歯切れの悪い声だった。何を悩んでるんだろうと僕は思った。そんな渚、初めて見た。

でも、

渚は大きく深呼吸してから、

「見た方が早いよ。」

そう言って、僕へとゆっくり向き直った。

「見るって何――」

僕は次の言葉を忘れた。

目の前の渚の水着が水平に突っぱねていた。

―……

その瞬間、きっと何もかもわかっていたのに、僕はまた、わからないフリをした。

「シンジ君は夢精したことある?」

「え…?」

目の前の光景に持っていかれてムセイの意味を噛み砕けない。僕が返答に困っていると、渚が悩ましげに僕を見た。普段は雪のような頬が火照って赤く色づいていた。

「この前、あいつが海に誘って来た時、昔話をしてさ。どうしてあんなにシンジ君の水着を脱がしたかったんだって僕をからかったんだ。ほら、あの、夏。」

渚は幼馴染みなのにアスカや綾波のことをちゃんと呼ばなかった。名前で呼ぶのは唯一、僕だけだった。

「それで考えたんだよ。なんでだろうって。でももうずっと、それについて考えてるような気がしてた。」

渚はたまに哲学的なことを言う。柄にもないと思う僕と渚らしいと思う僕が、両方いる。

「そしたら君に伝えるの忘れてて。で、その日、夢を見たんだ。君の夢。」

渚の夢に僕が出てくる可能性に、その時、初めて気がついた。

「君と僕があの砂浜でまた喧嘩してて、あの時みたいに僕は君の水着を脱がそうとしてた。気持ちもあの時のままで、どうしても脱がしたくて必死だった。それで無理やり全部脱がしたら君、泣いちゃって。どうしてこんなことしたんだろうって思ったら、目が覚めた。」

渚はそこで言葉を切って、肺いっぱいに息を吸った。

「僕、漏らしてた。夢精してた。」

それって…変な汗が噴き出した。僕はどういう顔をしたらいいのかわからない。なるべく渚を見ないように、自分の爪の先を眺めていた。

「それで僕もさ、最初はちょっとパニクっちゃって。一時の気の迷いかなとか生理現象かななんて考えようとしたんだけど…わかっちゃったんだよね。ずっと奥歯に挟まってた魚の小骨が取れた感じ?今までわかんなかったことが全部、わかっちゃったんだよ。」

渚が近づいてくる気配がして息を詰めた。淡く何かを期待して肌が痺れた。でも、渚はただそっと、僕の横に腰掛けた。僕は変に意識したことがわからないよう細く長く息を吐いた。気になってちらっと横目で盗み見たら、隠しようのないくらい、渚の興奮が生々しく、そこに浮かび上がっていた。

「海行こうって言われてすごく嫌だった。シンジ君が彼女たちの水着姿眺めてるのなんて見たくなかった。昔からあの子たちとシンジ君が仲良くすると僕はなんだか傷ついてた。まあ、フツーに考えたら、君が好きだから、なんだけど。」

さざ波の音が聞こえた気がした。

「僕、君が好きみたい。」

体が熱い。皮膚の内側が燃えていた。なのに僕の胸は冷たい波に爪先で触れるように、慣れない温度に戸惑っていた。

僕は友達じゃない渚の温度を、知らない。

「気持ち悪いかもしれないけど、これが言い訳。」

僕たちの肩は触れそうで触れなかった。

「ねえ、どうする?」

僕がどうしたらいいのかわからないでいると、

「僕たち付き合っちゃう?あは。」

渚は不自然に明るくなって、可笑しそうにそう言って、

「何もなかったフリしよっか?いや、」

浮いて、沈んで、

「それはダメだよ。なかったことになんてできない…」

自問自答、

「別に僕は君に何かを期待してるわけじゃない。そんなんじゃない。」

まるで沈黙に怯えるみたいにひとりでずっと喋っていた。

「僕はただ…失くしたくないだけだったんだ、君を。なのに、バレる嘘を吐いちゃったみたい…」

渚は手のひらで顔を覆って俯いた。耐えるようにじっとしていた。僕は渚が泣いているんだとわかった。その心細そうな姿がすごく痛々しかった。僕まで溺れるみたいに、苦しい。

息ができない。

「…どうして、人は誰かを好きになるんだろうね、」

そうやってまた哲学を呟いて、渚は僕の肩に寄りかかった。

「…どうして、シンジ君、」

波が砂浜に打ち寄せる。渚は僕に、助けて、助けて、と囁いているような気がした。

「どうして、」

渚は熱い素肌で僕を焦がす。僕が拒めないようにそっと、そっと、僕の腰に手を回して、

「教えてよ、シンジ君…」

駄々をこねるように僕の唇を強請った。僕の答えなんて聞かずに、渚は僕にキスをした。濡れた睫毛を震わせて、僕を大事そうに抱き締めていた。
僕の瞼の裏には5歳の渚が屈託なく笑っていた。麦わら帽子をつかまえた僕へ誇らしげに手を振っていた。

“ シンジの方が似合いそうね。”

頭の上で落とさないようそれを持っていた僕に、母さんがその桃色リボンの麦わら帽子をそっと被せた。僕はまた渚を見た。渚はもう、笑っていなかった。吸い込まれそうな瞳で僕を見つめていた。

今だって、そんな目をしてる。


◊ ◊ ◊


「アンタたち何かあったの?」

僕たちが着替えを済ませて教室に戻ってくるなり、アスカが僕を問い詰めた。

「な、何もないよ、」

「何も?」

訝しげに僕の顔を覗き込む。

「別に何にもおかしくないじゃないか!」

「その足は?」

「え、あ!」

僕は渚に肩を借りている最中だと気がついた。

「捻挫、捻挫した、」

「なんでそれを忘れてるのよ。」

別のことを聞かれたのかと思ったなんて言えるわけない。耳が熱くなるのを感じた。

「別に忘れてないよ!た、ただ、僕たちに聞いてるのかと思って、」

「そうよ。アンタたちに聞いてるのよ。」

「え?」

「レイが保健室でアンタたちを見たって言うから。」

「え!?」

慌てて綾波の姿を探す。本に顔を隠しながら、目がじっと疑わしげにこっちを見ていた。

「何よ。何があったのよ?」

もしかして、あのベッドには綾波がいたのかも。ああ、もう、絶体絶命。既に蒸発しそうだけど、どうにか足を踏ん張った。

「な、何もないよ、」

「ふうん…そう。」

「そう。」

どうにか誤摩化せたかと思ったのに、

「わかりやすい。」

全然そんなことなかった。

「何でもないって!」

「バカねえ、」

「だから――」

「何でもない時はそんな顔しないのよ。」

渚が僕の顔を覗き込んだ。とたん、口に手を当てて笑い出す。

「シンジ君って嘘下手すぎ。」

「は!?」

信じられない。

「君がそれ言う!?」

裏切りだ。僕は渚に詰め寄った。

「シンジ君がそんな顔してるからだよ。」

「そんな顔って!?」

「ふふ。見ればわかるよ。」

「どんな顔!?ねえ、どんな顔なのさ!?」

「あはは!」

もう我慢できないって感じで、渚は思いきり笑った。


保健室でふたりの唇が離れてゆく時、僕はあの砂浜を思い出していた。唇の熱い感触も、このやさしい腕の力も、海へ返る波のよう、砂粒も貝殻も一緒にさらって消えてしまう。踝を濡らして僕をつかまえても、僕だけを残してその手はやがて離れてゆく。そして僕は、踵がのめりこむ淡い感覚に、少しだけ、自分が重くなった気がするんだ。臆病な僕はじっとして、大きな海を眺めることしかできない。

目の前の渚は寂しそう微笑んでいた。僕を見送るような瞳でただ見つめていた。僕は途方に暮れた。僕を包み込む空気が少しだけ重くなっていた。

―僕が仲直りの方法を見つけられないから、渚が寂しそうな顔をするんだ。

白い手がさよならと手を振るように、僕の頬をそっと撫でた。儚いと感じた。

―今、見つけられなかったら、きっと一生、僕は後悔する。

指先のぬくもりが、波の泡が弾けるみたいに消えてゆく。

渚が遠くに行ってしまう。

―渚、

―いかないで。

僕は後先なんて考えず、渚の手をつかんでいた。そして何も考えていないから、

「喧嘩なんてつまらないや。」

僕は海に向かって駆け出した。

「渚がいなきゃ、つまらない。」

助走をつけて水面へと飛び込んだ。やさしさにあふれた、その場所へと。

僕がその手を手繰り寄せて首を傾げると、渚は打ちのめされた顔をした。眩しいくらいの水飛沫。僕は伏し目がちになる。でも次の瞬間には、また波が押し寄せる。僕らの二度目のキスは海みたいにしょっぱかった。そう、僕たちの心がこぼれると、海の味がするんだ。僕の胸には真夏の灼ける陽射しを浴びて、光を転がし揺れる水面が何処までも続いていた。

―渚もそうだったらいいな。

水面から顔を出すと、渚はもう、寂しい顔なんて、していなかった。


夏休みに片足を突っ込んだ気の抜けた教室で、真っ赤になった僕の頬をやさしくつねって、渚は屈託なく笑っていた。

渚は本当に屈託なく笑うんだ。まるで太陽に向かって叫ぶみたいに。その笑顔はいつだって僕を嬉しい気持ちにさせる。それが渚の特技。本人はまだ気づいていないみたいだけど。


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