「次は誰だろうな?」

浮かない声が宙に浮く。眩しい陽射しの攻撃を受けながら教室でケンスケが頬杖をついている。ほふく前進みたいな三白眼の視線、視線の先、トウジが蛍光灯を見ながらウンウン首を振っている。その隣でほんのりピンク色のヒカリが口元を両手で抑えて笑っていた。

「あ〜やだやだ。あんなんだけはなりたくないわ」

目だけでほふく前進するケンスケをアスカが後方支援。補給物資の視線を投げて互いに合図でゲエッと顔をしかめてみせる。指先で標的を捕えるスナイパーケンスケ。手榴弾でも投げそうなアスカの拳。シンジはそんなふたりとふたりに苦笑い。肩をすくめる。

「幸せそうじゃない」
「うらやましい?」

手榴弾の栓を抜かれそうで、降参です、と両手を振った。

「ち、違うよ!けど」
「シンジ君には僕がいるだろう?」

けれど思わぬ方角から被弾する。ふたりとふたりとひとりの横にはもうひとり。カヲルがくっつきそうなくらいに顔を覗き込むからシンジは腰を引いて手のひらで防御した。

「それも違う…」
「渚にはいないのかよ?それとも何人もいるのかよ?」
「何よそれ」

標的を変えた負傷兵たち。ニヤニヤと視線の砲撃。カヲルはいわゆる学校のカリスマで、そんな噂が絶えなかった。学校中がカヲルのゴシップを密かに期待しているのに、当の本人はと言うと……

「いつもアプローチしているんだけどなかなかガードが固くてね」
「どうして僕を見るのさ」
「鈍感な子なんだ」

何故だかいつもシンジと一緒にいるのだった。いよいよシンジの顎を引くカヲルにアスカが爆撃、もとい、空手チョップをかます。

男の熱い友情のホットの方向性が妖しすぎる、なんてのはただの笑いのタネ。目下、カヲルはモテるのが嫌でシンジを盾にしているんだな、との憶測が誰彼言わずと普及していた。もちろん、シンジもそのうちのひとり。自覚しているよ、と周りへの弁明の表情を忘れない。

「好きだから怖くなる……」

そんな時、シンジの耳許だけに届いた呟き声。声の方へ振り向くとレイが首を傾げて恋愛小説を読んでいた。イミワカラナイと言う顔だ。シンジはじんわりと汗ばむのを感じた。シャツの胸元を握る。瞳の先には朝の情景が広がってゆくーー


今朝、カヲルが私用で遅れて登校するからシンジはいつもより1本早い電車に乗った。初夏の早朝は空気が澄んでいて涼しい。人のまだらな教室で予習もはかどりそう。案の定、いや、それ以上に着いてみたら教室には誰もいなかった。遠くのグラウンドでは朝練のかけ声がこだましている。そっか、もっと早い連中は部活をしているんだな、とシンジはひとり頷いた。気持ちのいい朝日、大きく伸びをして欠伸を一発。机の中から教科書を取り出す。と、何かが落ちた。白っぽくて四角かったような。拾い上げるとそれは――一通の手紙。放心した顔でそれをじっとシンジは見つめる。


「シンジ君」

後ろの席から肩に手を置かれた。もうすぐチャイムが鳴るだろうと着席した教室の片隅、シンジは自分の意識が朝に飛んでいたことに気がついて心臓が口から出てくる心地だった。

「何?」

体を少しひねって耳を向ける。顔を見られないことを気づかれたくなくて教科書を読んでいる真似をした。

「今度みんなで海に行くだろう?」
「うん」
「君が全員のお弁当をつくるって聞いたんだけれど」
「そうだよ。7人分だから張り切らなきゃ」
「ひとりで用意するのは大変だからさ、僕も手伝うよ」

シンジが振り返った。聞き間違えかと思ったが、カヲルの意味ありげな表情がそうじゃないと語っていた。

「そんな、悪いよ。前日の夜につくるんだよ、夜中になっちゃうかも」
「ならそうならないためにもふたりで用意しよう」

椅子の背に添えていた手を握られそうになって慌てて引っ込める。さっきから前のめりの早口をどうにかいさめているというのに。

「でも帰りが」
「遅くなったら君の部屋に泊めてもらう。それでいいだろう?」

いつもよりもちょっと強引なカヲルにシンジは机の下で教科書がひしゃげてしまう。そんなにじっと見つめられると何かが透けてしまいそう、戸惑っていると頭上からチャイムが降り注いで追い打ちをかけた。考えていた台詞もトンと飛んでしまう。

「いいの?」
「もちろん」

火照る頬をどうにかしたくて短い言葉で近道をする。

「ありがとう」

黒板に向き直ると、シンジは渋々承知したはずなのに自分に笑顔がこぼれていることがわかった。それはカヲルにも見られたのだろうか、シンジは汗ばむ手でさりげなく耳を覆って冷やすのだった。そして引き出しを見下ろし、何かを取り出す。それをこっそり眺める。千切れた紙にはシワを伸ばした跡があった――そこには『体育倉庫前で待っています』と女の子らしい字で書かれていた。

後ろの席ではカヲルがそれを見つけてポカンと口の力を抜いた。みるみると赤い瞳が大きく見開く。



「シンジ君は誰かからアプローチされているのかい?」
「え」

放課後、空調の効いた自分の部屋でシンジは設定温度を間違えたかと思った。

「僕以外から」

ニッコリとそんなことを聞くカヲルから目を逸らしひんやりとした肌をさする。何かを探すフリをした。

「な、何言ってるのさ……あれ?まただ」

でもそんなフリが現実になる。もともとそうしていたんじゃないかと思えてきた。本棚の背表紙を数えていた手を止め立ち上がるシンジ。

「アスカは勝手に持っていくんだから……!」

文句を言いつつそそくさとカヲルのいる自室から逃げ出した。

「ねえ、アスカ、うわッ!!」

ひと息つこうと思ったのに。ノックして返事があって部屋に入ると水着を着てポーズを取っているアスカが待ち伏せ。赤と白のストライプの三角ビキニだ。シンジは数歩後ろによろけて慌てて顔面を覆った。

「どう?すごくいい感じでしょ?」
「僕の漫画勝手に取っただろ!返せよ!イタタ…」

アスカが覆う手を無理やり外す。ギュッと閉じている瞼を睨みつけて、思わず笑った。

「なんで目つぶってるのよ」
「カヲル君に貸す約束してたんだよ!」
「ふーん……刺激が強すぎたかしら?」
「だから返せって!」

一方通行同士の会話。デコピンを食らわせてもシンジは頑に目を閉じてるから、流石のアスカも吹き出してしまう。よろけて壁に激突するシンジに悪戯心が疼きだす。

「ほら、取りなさいよ」

やっとシンジが目を開けると今度は目の前でアスカが胸の谷間を寄せてポーズをキメていた。

「うわあっ!や、やめろよ!」
「脱いだらすごいでしょ?」
「どうしたんだい?」
「わ〜!!」

背後にから声が聞こえて絶叫するシンジ。真っ赤になってカヲルにアスカが見えないように両手を広げた。そんなことをしてもひとつ背の高いカヲルからは丸見えなのだが。カヲルが見つけたのは嬉しそうにほくそ笑むアスカ。ほのかに頬に朱が差している。

「おっぱいくらいで騒いじゃって。これだから童貞は」
「うるさいな!」
「ほら、さっさと取りなさいよ」

もう一度振り返り、投げ返された漫画が見事に股間に命中して痛そうに呻くシンジ。弱々しく拾い上げるその背中を見つめる青い瞳。ああ、あの瞳をシンジ君が知らなくて本当によかった、とカヲルは思った。立ち尽くしてそんな光景を複雑な表情で眺めるカヲル。まるで自分に彼女の水着姿を見てほしくなくて――大事な物を隠すように――彼女をかばったと感じた。カヲルが言葉を失くしていると、ピンポーン。玄関で誰かの気配。シンジが玄関のドアを開けると、

「綾波!どうしたの?」

サマードレスを着てレイが現れた。レモン色が白い肌に映えていて、いつもとは違う彼女にシンジは思わず見とれてしまう。吸い込まれるほど透明な美しさ。制服を纏う彼女からは気がつかなかった。

「あ!着てきたのね!」

シンジの後ろからアスカが割り込みレイの手を引く。

「この子ったらスクール水着しか持ってないのよ。ありえなくない?だから私が水着を選んであげたの」
「アスカの趣味で?」
「ハア?文句あんの?」

ギロリ。つい口から出てきた本音が着火させてしまったらしい。シンジは思わず股間を防御、前屈みになる。

「べ、別にっ綾波まで派手になるのかなって…清純派なのに」

言葉尻はもごもごと口の中でぼやく。

「パステルカラーのフリル付きよ……ってな〜にエッチな想像してんのよ」
「してないよ!!」
「覗かないでよね!」
「覗かないよ!!」

キョトンとしているレイの背中を押して自分の部屋に放り込むとドアを勢いよく閉めるアスカ。あらぬ疑いをかけられて耳まで真っ赤なシンジ。悔しそうにガニ股で地団駄を踏んでいると、最後にまたドアが開いて隙間から

「エッチ」

と青い瞳がシンジを睨みつけた。シンジが反論する前にニヤリ、アスカがドアをピリャリと隙間なく閉める。シンジがわなわな肩をふるわせ壁に怒りをぶつけている。と、言っても壁に悪いと思うのか、寸止めパンチを連打していた。そんな景色を見て、カヲルは胸が痛くて立っているのがやっとだった。


もうすぐ夏休みだという現実味のない現実が足音を立てて近づいてくる。期末テストの返却、カレンダーの行事の余白、真っ白な入道雲に蝉の声……茹だる教室にその音が大きく響き渡るほど、クラスメイトの浮き足立つ笑い声も比例して明るく夏の色になる。夏に少年少女はほんのちょっと背伸びをして、大胆になる。そんな予感を滲ませている。

「あ〜トウジのヤツ、パスだってさ」
「え、今日も行かないの?」

最近めっきり4バカが3バカになってケンスケは夏の暑さに負けていた。顎を机に乗っけて曇った眼鏡で涎を垂らしているもんだから、シンジが仕方なしに下敷きで仰いでやる。

「どうする?3人で行く?」
「僕とシンジ君もパスしよっか」
「も〜これ以上ケンスケを弱らせないでよ」

ケンスケを仰ぐシンジをカヲルがパタパタと仰いでやる。そんなカヲルを女子たちが仰ぎたそうに見つめている。その横の席でアスカがスカートの中に下敷きで風を送っているのに気づいてシンジがゲッて顔をしたら、すかさずアスカに見つかってああん?とメンチを切られたので、シンジは目線をそのまま横にスライドさせた。

「文句ある?スカート履いたこともないくせに。もしかしてあんの?」
「もう言いがかりがめちゃくちゃだよ」

シッシッとシンジが下敷きを向けるとアスカの前髪がふわっと舞い上がった。眉毛の角度が一層厳しい。

「そんなんじゃ弁当づくり手伝ってやらないからね」

カヲルが下敷きを持つ手を止めてアスカを見上げた。

「え?手伝ってくれるつもりだったの?」
「だから!もう手伝ってやんないわよ!」
「アスカって料理できるんだっけ?」

アスカがシンジの両頬を思いきりつねると、

「なんだかんだでお前ら仲良いよな」

もはや死んだ魚というより煮魚の目をしたケンスケがふたりの上、天井にいる応援部隊に救助を要請する顔をしていた。そして投げやりに呟くのだ。

「いっそお前らも付き合っちまえよ、あいつらみたいにさ」

掃除用具入れの前でトウジとヒカリが笑っていた。短い休み時間に想いの丈を詰めてせわしなく喋り合っている。きっと授業中にずっとこの瞬間を待ち侘びていたんだろう。その仕草は日に日に自然となり、ふたりの距離は縮まっていた。

シンジはどうせアスカが弾けるようにケンスケに飛びついて「嫌よ!誰がこんなヤツ!」と締め上げるだろうと思っていたから、何も言わずに嫌そうな顔をつくってみせただけだった。でもシンジの予想に反して、アスカの怒号は聞こえてこない。見ると、アスカは妙に顔を赤らめて台詞を詰まらせているのだった。

「僕は反対だな。こんな子はシンジ君に悪影響だ」
「ア、アンタに言われたかないわよ!!」

カヲルが助け舟を出さなかったら一瞬の微妙な空気は何かの確信に変わったのかもしれない。アスカはシンジに弁明でもするように途切れることなくいかにシンジが嫌かをまくし立て始めた。シンジもそれを聞いているうちにあの一瞬を忘れて、ハイハイ僕も嫌ですよ、と一緒に相槌を打ち、仲の悪さを上塗りしていくのだった。


その日、カヲルが立ち尽くしていたことを誰も知らない。数分置きに溜め息をついていたことも、思い詰めた表情で空を見上げていたことも、何度も寝返りを打って、眠れない夜に両手で顔を覆っていたことも、誰も知らない。



次の日の朝、シンジは玄関を開けてパチクリと瞬きをすることになる。

「シーンジ君!」

目の前でカヲルが手を振っていたのだ。

「どうしたの?」
「久しぶりにシンジ君と朝一緒に歩きたくなってさ」
「でも逆方向じゃないか」

いつも電車で途中から合流していた。カヲルがここに来るには電車で学校から遠ざからなければならない。シンジも朝は早い方だ。始発で来たのだろうか。しかもチャイムも鳴らさずにずっとシンジを待っていたらしい。

「何〜?郵便?」
「う、うん!」

そうだ、鳴らそうもんならアスカがうるさくて大変だろう。ただでさえいつも朝は不機嫌なのに。幸い、アスカは今ドライヤーで髪のセットに忙しい。シンジはそっと玄関のドアを閉めた。気づかれずにホッと息をつく。

「もっと喜んでくれると思ったんだけどな」
「え」
「さあ、行こう」

手を取られてマンションの渡り廊下を駆け足で過ぎてゆく。まるで彼女から逃げ出すみたいに。盗み見た横顔は心なしか寂しそうで、でも、シンジはそれは自分の心が補正したものだと思った。ああ、今日だけはカヲル君に会いたくなかった、シンジは胸の内でこっそりとそう呟く。その想いは少しずつ肥大してシンジの上にのしかかる。電車の中、次第によそよそしく俯くシンジにカヲルは眉を下げてゆく。車内はどんどん混んできて中間駅に差しかかるとふたりの顔は糸電話なら糸のいらないの気まずい距離。息をつめて、目を逸らした。

「危ない時は僕につかまってね」
「うん……」

車掌がアナウンスする。どうやら線路に不審物があったせいでダイヤが乱れてしまったらしい。朝の通勤通学ラッシュは既に五割り増し、もみくちゃにされてふたりでドア付近を死守していた。シンジを角におさめ、カヲルはその前で両手をついて潰されないようにする。そんなカヲルの面倒見の良さに、シンジは出会って間もない頃は気後れしていた。でも何を言ってもやめようとはしないから、いつの間にかそれはとても心地よくなり、甘えてしまうものとなった。

シンジはカヲルのそんなやさしさが好きだった。

「暑いね」
「夏だからね」

電車は止まり人の出入りで騒がしくなる。黙っていても気まずくなくてそっと胸を撫で下ろす。発進して周りが静まることには頭に会話の筋道が立つ。

「今すぐにでも海に入りたいよ」
「海、楽しみだね」
「何が一番楽しみ?」
「うーん、スイカ割り」
「スイカ割りか」

またシンジの番で途絶える会話。電車は知らん顔で各駅を通過して進んでゆく。

「そういえば、スイカ割りの道具なんだけれど」
「うん」
「僕の家に変な武器があるんだ」
「変な武器?」
「槍があるんだ」
「槍!?」
「うん。それを使おう」

ふふ、とシンジが笑った。カヲルは嬉しくてつられて笑うが、シンジはとたんにまた黙ってしまう。目を伏せて思い悩んだ顔をしてしまう。カヲルは切なくてたまらずに、その頬に触れようと片手をシンジの顔に寄せた。

と、その時だった。急ブレーキに激しく揺れる満員電車。ひしめき合う疲れ顔のサラリーマンに香水臭いOLまでが斜め前に折り重なる。咄嗟にカヲルはシンジをかばおうと上体を近づけた。その拍子に――誰かがカヲルの背中をトンッと押したのだった。ほら、こうすればいいでしょ、と――カヲルとシンジの唇がくっつくくらいの奇跡的な思いやりで。

それは一瞬だった筈。なのにシンジは驚いて何度も心臓が止まって死んで、同時に一生忘れないくらいの痺れを長い時間をかけて味わった気がしたのだ。離れた唇は名残惜しくて、でももう心臓がもたなくって、涙を誘う。

それはすごく嬉しいのに悲しい温度だった。儚くてやわらかい感触だった。カヲルはもう我慢できなくて、もう一度、シンジを両腕できつく抱き寄せ、キスをねだった。

混んでいる車内で誰もそんなふたりには気がつかない。




「作戦会議しましょうよ」

後ろからアスカがヒカリの首根っこを掴んだ。掃除用具入れの前に強制連行されたシンジとケンスケが申し訳なさそうにトウジに苦笑いしていた。

「何やて?」
「海の話に決まってるじゃない!私とレイはビキニよビキニ!」
「おー!!」

トウジとケンスケが暴発して、トウジはヒカリに小突かれた。

「もうそろそろ持ち物分担決めましょうよ。私浮き輪持ってく。可愛いの持ってるの」
「軽いからな」
「何か言った?」

アスカのひと睨みにケンスケが亀みたいに首を縮めた。

「それにシンジがお弁当つくるから、誰かが飲み物とスイカとパラソルを持ってこなきゃね」
「重いのばっかだな」
「何か言った?」

ついにケンスケがシンジを盾にして引っ込んだ。

「敷く物も必要じゃない?」

でもシンジは正直この話し合いを休み時間いっぱいまで引き延ばしたい。さっきカヲルに「話そうよ」と後ろから声を掛けられ心臓が止まるかと思った。そして肩に触れられ反射的に避けてしまった。ああ、やってしまった。そうしたかった訳じゃない。でも、もう頭がいっぱいいっぱいで、どうしていいかわからないのだ。

二度目のキスでシンジはつい泣いてしまった。絶対に人前では泣かない人種だったのに。もうそれ以上、カヲルを見ることも触れることもできなかった。カヲルにどう誤解されたかわからない。でも、あふれてしまう気持ちを止めることができなかった。

今日あんな出来事があったのは神様の罰なのかもしれないと、シンジは思う。そう思うと目が熱くなってふるえてしまいそうだから、シンジは今は海のことだけについて考えていたい。だって、授業が始まったらそれは頭の中を占拠して渦巻いてはみ出そうになる。後ろから聞こえるペンをノックする音でさえもシンジの全身を焦がすのだ。

シンジは大事な決断をしなければならない。けれどどうしても勇気がない。もしそうしてしまったら、シンジはどうしても欲しかったものを手を振って見送らなければならないかもしれないのだ。

だから、ずるくなりたいのに、どうしてそれでいいと思えないんだろう。

「スイカは何で割る?棒?」
「棒って何やねん」

シンジは唇を小さく噛んだ。火照る顔を暑さのせいだとでも言うように、これ見よがしに仰いでみせた。思い当たる道具については触れないでおこう。今朝の出来事を思い出してはいけない。泣いてはいけない。

時計の針は刻一刻と無慈悲にシンジを審判の時へと押しやった。シンジはもう逃げられないと知っていた。だから帰りのホームルームの最中に後ろの席へとそっと手渡したのだった。『放課後、屋上に来てください』それだけを告げるノートの切れ端を。


屋上は見事に晴れ渡っていた。放課後でもまだ陽は高く、底抜けの青さが落ちてくるようだった。シンジはそんな空を見上げて自分をからっぽにしてみせた。どんな結末になっても、いつかいい想い出にできるから、だから、大丈夫、そうやって何度も自分を奮い立たせて、やっと立つことができた。

ギイッと重い非常口のドアが開く。シンジはゆっくりと振り返る。カヲルがシンジを見つけて駆けだした。思い詰めた顔は今にも泣きそうで、シンジはひるんだ。そんなカヲルを見たことがなかった。シンジはカヲルが朝から今までどんな気持ちで過ごしていたのかなんて考える余裕はなかったのだ。

「ごめん」

先手を取ったのはカヲルだった。遠慮がちな距離で立ち止まって、白い肌は更に青白く、切なそうに眉を歪めて、彼らしくなく赤い瞳が痙攣していた。

「ごめん。本当に」
「なんで謝るのさ」

涙を含んだような声は小刻みにふるえて少し掠れている。それはシンジも変わらなかった。でも、

「……無理やり君にキスしてしまったから」

カヲルはシンジとは違って命乞いをするのだった。おもむろにカヲルはシンジの手を取った。強く強く握り締めた。

「君の気持ちを無視して僕は自分の気持ちを押しつけた。ごめん」

両の手でシンジの片手を包み込む。それは懺悔にも祈りにも、そしてすがっているようにも見えた。その手の中にカヲルの全てがこもっていた。カヲルは項垂れて懇願した。

「君を失いたくない」

シンジの瞳の先にある情景が広がってゆく。


数日前もここは晴れ渡っていた。ただ澄んだ空気は涼しく、空は淡い青さで、鳥の囀りが遠くのグラウンドからは朝練のかけ声が、蝉の合唱と混じり校舎の壁に反射していた。シンジはしばらく悩ましげに屋上を歩き回り、ついに立ち止まりポケットに手を突っ込んだ。そして取り出したのはくしゃくしゃの、一通の手紙。シンジは屋上の端に立ち手を伸ばす。両手でその白い封筒をビリビリに破いてしまう。それは紙吹雪になり風に飛ばされて、夏の空に散っていった。


シンジはついに観念した。

「謝らなきゃいけないのは僕の方なんだ」

ポロポロとこぼれる涙は炭酸の泡みたいに止め処ない。

「僕は君の思っているような人間じゃない」

吐き出すように言い切った。諦めてしまえばもう清々しくもなり、一度走り出したら最後まで走りきらないともう走りきれる自信はない。シンジは制服のズボンのポケットから紙切れを掴み、自分の手を握り締めるカヲルへと手渡した。カヲルはそれを受け取って広げてみた。知らない字がカヲルの名前を綴っていた。

「意地悪しようとしたんじゃないんだ」

鼻をすすり、嗚咽を飲み込み、シンジはどうにかありのままの想いを言葉に変換する。

「間違えて僕の机に入ってて、だから…」

止まらない涙を拭いながら、膝がふるえてしまうシンジ。こわい。嫌われるのがこわい。苦しそうに濡れたその顔をカヲルがじっと見つめていた。

「ごめんなさい」

シンジは深く深く落ちるくらいに情けなく、頭を下げた。それはカヲルへだけじゃない。自分と同じ気持ちの誰かがカヲルを待ち続ける姿を考えると、シンジはずっと押し潰されそうだった。でも手紙をカヲルに手渡すこともできずに、結局、こうして無かったことにもできなかった。そんな自分が嫌いで嫌いで仕方がない。嫌いで仕方がないから、大好きなカヲルの前では嫌いな自分のままでいたくはなかったのだ。

「彼女、今でも君を待ってると思う。行ってあげて」

好きな人に好きになってもらってもいい自分でいたかった。

だからそのために、嫌われてからまた好きになってもらえる努力をしようと、シンジは思ったのだった。

両腕できつく抱き寄せられて、キスをねだられた、その瞬間に。

「いけない子だ」

おそるおそる頭を上げたら両手で頬を包み込まれて引き寄せられて。カヲルの額がシンジの額にぶつかった。痛かった。でもそんなのはおかまいなしにカヲルは額を擦りつける。

「初めてふたりがキスした日に僕を誰かの元へ向かわせようとするなんて」

緊張がほどけたカヲルはシンジに甘えるように抱きついた。シンジが抱き締め返すとカヲルはホッと溜め息を漏らす。行ってあげてよ、とシンジが耳許で囁いたら、ひどいねシンジ君は、とカヲルがヤダヤダ首を振る。それがなんだかとっても可愛くてシンジは笑った。全身の力が抜けそう。見たこともないカヲルが腕の中にいる。それが嬉しくてたまらない。笑うほどギュッとされて、お返しにギュッとする。また笑ってしまう。

「お仕置きだよ」

三度目のキスは海みたいにしょっぱくて、ほんのりと甘かった。
もうすぐ夏休みが来る。



可憐モラトリアム


END.



top



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -