どんなに必死にこの胸に焼き付けようとしても、僕たちはこの時を忘れてしまう。夢中で追いかけた夏の日も、目を閉じてただ感じていた冬の日も、僕は何を追いかけていたのか、僕は何を感じていたのか、いつか永遠に思い出せないのだろう。でも、今はその消えてしまう永遠に全力で抵抗したい。僕はこの時を忘れない。絶対に忘れないために、この胸に手を当てて、握り締めて、十年後もそのずっと先でも覚えていられるくらい強く、心に刻み付ける。痛いくらい刻み付ける。君といたこの時を。



14歳のパノラマ



 僕が箱根に越してきたのは梅雨の半ばのことだった。数年ぶりに父さんから便りが来たと思ったら、「来い」。僕は腹が立ってその場で手紙をビリビリに破いて捨てた。そしてゴミ箱をひっくり返して紙切れをセロハンテープで貼り合わせて、長野県の松本から遥々ここまでやってきた。箱根といえば温泉。驚いたけどなんと神奈川県にある。神奈川といえば横浜だし、横浜は都会だし、東京にも近いから便利かななんて気軽にやってきてしまった。けれど僕の目に映ったのは過疎化した観光地。良く言えば由緒正しい、悪く言えばお婆ちゃんの半纏みたいな。言い過ぎたかな。僕の家族はバラバラだからお婆ちゃんも半纏も小説の中でしか知らないけれど。とにかく、僕は父さんにだまされた。いつものことか。

 僕にあてがわれたのはそんな箱根でも田舎寄りの街の片隅にある築40年は固いアパート。このボロ屋は父さんの会社が持っているらしい。僕が父さんの仕事で知っている情報が増えたわけだ。箱根にある検索しても出てこない弱小企業ネルフは、階段の一部が腐っててベランダにきのこが生えちゃうくらい悲惨なアパートを持っている。それに管理人の女の人は父さんの部下で僕の保護者代理を任されている。挨拶に行ってもいつも居ないんだけど。まあ、僕にはどうでもいい。それは父さんの人生の出来事だもの。その時はそう思っていた。

 こんなことを書いてしまってなんだけれど、僕は父さんに感謝しているんだ。だって僕に最高の夏をくれたんだから。今まで僕は起きながら目を閉じていた。そしてやっと目を開けた。この箱根にある第壱中学校に転校したその日から。僕の人生はここからはじまった。心から僕は思う。かけがえのないこの時を僕は忘れない。


 転校初日6月22日の朝は晴れていた。僕は朝食をつくりながらほっと溜め息をついたのを覚えている。第一印象が肝心だってことは何度かの転校で身に沁みている。僕は雨に自分の存在が掻き消されてしまうのが怖かった。人気者になりたいなんて思わない。でも穏やかに、無難に、学生生活を送りたいんだ。僕は豆腐の味噌汁をおたまで混ぜながらそんなことばかり思っていた。

「シンちゃん、今日から学校なんでしょ」

 制服を着て学校鞄を肩に背負ってゴミ出しをしていたら知らない人に声を掛けられた。馴れ馴れしい口調で。振り返るとスーツを着た女の人が屈託なく笑顔になる。疲れて重くくねった髪、ああ、僕は合点した。彼女は管理人だ。たぶん仕事で朝帰り。だからいつも居ないのか。

「頑張ってね!いってらっしゃい!」
「……いってきます」

 大きく振られた手を横目にゴミ袋を放って僕は一目散に水溜まりの道路へと駆け出した。大きく前へと踏み出したスニーカーの白に雨の名残が音を立てて跳ね返る。僕は逃げ出している気持ちになった。シンちゃんなんて呼ばれたこともなかったし、いってらっしゃい、だなんて。なんで返してしまったんだろう。そう口にしたのは何年ぶりかな。

 さなぎから出た羽根は脆くて飛べそうにないのに、大空へと羽ばたいていくのは何故だろう。

 その時、僕は動揺していた。期待しても裏切られるだけなのに。僕は世界が脱皮して新しくなるような、そんな予感に心臓が高鳴っていた。

 4日前、僕は墓参りをした。母さんのお墓は箱根の山奥の丘に密かに佇んでいた。長野にいた頃はたまに写真立ての前で手を合わせていた。スーパーで買ったお菓子や道端に咲いていた名前を知らない花をお供えして。僕は小さな子どもだった。子どもにできることは限られていた。でも今はアパートから墓地まで電車を乗り継いでも1時間もかからない。僕は花屋でちゃんと花を買って駅の改札を通り抜けた。箱根登山電車は青や紫のあじさいがしっとりと咲き乱れていた。僕の手にしている花は薄黄色のカーネーション。仏花はやめたんだ。お店の人に花言葉が悪いと言われたけれどとても綺麗で、絶対に母さんは好きだと直感した。母さんはきっと誰かの決めた意味よりもそれ自身の魅力を信じてくれる。そう僕は母さんに一種の理想を抱いていた。人の善良な部分の上澄みだけを煮こごりで固めたような、親しみのある美しさ。その日も僕はそんな母さんとふたりで、もしくはひとりで会話を楽しむはずだった。お墓の前に辿り着くまでは。

 墓石には淡い紫色が咲いていた。示し合わせたようなカーネーション。そして添えてあるのは牛乳プリン。僕がコンビニで悩んでやめたやつだった。僕は代わりにロールケーキを買った。真ん中に生クリームがたっぷりのだ。

「持って帰らないと腐っちゃうじゃないか」

 お線香からは細い煙が立ちのぼっていた。黒いツヤツヤした石肌からは水が滴っていた。ついさっき前まで誰かがいたような気配。考えるまでもなかった。子は親に似るってよく言われてるから。母さんが生きていたらそんなことを言ってからかうのかもしれない。
 僕は先を越されたことが悔しかった。それにお線香を忘れたことも。手を合わせながら僕は母さんのことよりも父さんばかり気にしていた。もやもやが広がっていく。父さんは確かにここではないどこか、それも僕の届きそうな範囲で生きていて、なのに僕の手は父さんには届かずに、今の父さんの顔を知らない。母さんの生きていた頃の父さんしか僕は知らない。母さんの生きていた頃ーーそうだ、10年前まで母さんは生きていたんだ。

 僕は立ち止まった。辺りを見回してみる。下調べした地図にはない場所を歩いていた。普段はこんなこと考えないのに。気をつけなければいけなかったのに。新しい学校への初めての通学路は戦地に向かうようなもんなんだから。僕は頭を巡らせた。転入届を出しに行った時は駅からの道のりだった。だから、こんな石畳の階段が斜面に這っていてリンドウが生い茂った道なんて知らない。僕は肺いっぱい草いきれを吸い込んだ。やってしまった。

 僕の心の中はどこまでも晴れ渡っていて、それでいて終わらない雨が降っている。平穏を願いながら絶望を期待していた。そんな恥ずかしい矛盾が僕の中にあることを僕は認めなければならない。心の奥の奥底で、僕は、管理人が意地悪で学校が最悪で虐められて人の汚さに打ちのめされながら、父さんに面と向かって言いたかった。「全部父さんのせいだからな!」父さんの残酷さを証明するために世界はあるはずだった。悲劇の舞台装置として。でも世界は不意打ちで、やさしくなる。いってらっしゃい、なんて言って。

 ポツリ、ポツリ、見下ろしたアスファルトが水玉模様を描いてゆく。こうでなくちゃ。僕をどこまでも追いつめるんだ。天気予報は曇りだった。なのに空は青白く晴れていて、明るい雨が降っている。僕をずぶ濡れにして自己紹介の教壇で笑い者にする気だろう。傘を持っていこうか悩んでいたのに話しかけられて忘れてしまったなんて笑える。いや、僕はわざとそうしたのかもしれない。

 僕は僕がわからない。

 白いカッターシャツがにわか雨に濡れてゆく。どこまでも続きそうにカーブする坂道に、ひしゃげて苔むしたガードレール、深い緑の初夏の木立が雫に打たれてうるさくなる。きっとこの木立の先の森では狐が嫁入りしているんだ。僕は迷子になってしまった。ここはどこ、なんて聞いても誰も教えてくれないだろう。

 もう逃げ出してしまおうか。
 僕は心の中で呟いた。

「大丈夫?」

 そして世界はまた気まぐれの発作を起こす。見上げると半透明のビニール傘が揺れていた。僕をこの残酷な世界から守るために。後ろから傘をかざす誰かの手。その手は嘘みたいに白くて、僕は幽霊なんじゃないかと思ってしまった。

「濡れてしまっているよ」

 でも、僕を見つめる赤い瞳は確かに生きて燃えていて、僕がその生命力に驚いていると、赤がほころぶ。僕はガーネットの瞳に吸い込まれてしまう。そして胸の痛みを違うものに転化させてしまっていたのだ。まだ僕が知らなかった気持ちへと。

「同じ制服だね。第壱中の生徒かい?」
「うん、転校生なんだ」
「ならちょうどいい。一緒にいこう」

 その時の僕は何も気づかず、ただ歩き出していた。僕を雨宿りさせてくれたその少年の隣は、素肌に水滴がなじむみたいにとてもしっくりきて、居心地が良かった。不思議なくらい安心して、同じくらい緊張していた。

「同じクラスだといいね」
「……うん」

 それは懐かしい憧れの人に再会したようだった。スポンジみたいに穴だらけの弱りきった心臓がひたひたと命の水を吸い込んでゆく。しっかりと力強く鼓動してゆく。だから僕はこう感じたんだ。
 大丈夫、と。

 これが僕と渚カヲル君との出会いだった。


 それから二週間が経って、本日は快晴。朝のテレビでは梅雨明けが早そうだというニュースが星座占いと一緒に流れていた。

「あ、ミサトさん、おかえりなさい」
「ただいま。いつも入れ違いになっちゃうわね」

 僕は管理人のミサトさんとも不思議なくらいうまくやっていた。彼女は保護者というよりもむしろ年の離れた姉弟で、僕らの配役はだらしのない姉としっかり者の弟らしい。

「そういえば。ゴミ出しの日間違えてましたよ。可燃は水曜です」
「ありゃ。勘違いしちゃったかしら」
「ゴミ出しの日をですか?曜日をですか?」
「どっちもよ。もう」

 なんで肘で突かれるのかも謝られながら頬をつねられるのかもわからないけれど、僕はそれが嫌じゃなかった。

「もうすぐ期末試験でしょ?」
「はい」
「赤点取ったらお父さんに言いつけちゃうから」
「赤点なんて取りませんよ」
「ふふ、心強いわね。頑張って」

 僕の頭をまるで小さな子どものように撫でる大人の女性の手。その無遠慮さがたとえ大人の気遣いだとしても、僕には拒むことはできなかった。無意識に頭を差し出している自分に知らないふりをした。

「おはよう、碇くん」
「おはよう、綾波」
「バカシンジ、寝癖ついてる」
「え、どこ?」
「ウッソ〜!いつもだまされるんだから」

 Y字路からクラスメイトの女子二人組と合流する。綾波レイと惣流・アスカ・ラングレー。僕は彼女たちと仲が良い。別に僕が男子から浮いているわけじゃない。

「おーい、碇、漫画持ってきたかよ」
「持ってきたけど、僕のも早く返してよ」
「俺じゃないって。こいつが読むのが遅いんだよ」
「活字が苦手なんや。悪いか」
「悪い」「悪い」
「ハモって結託すな!」

 よくつるんでいるのはこの男子ふたり。相田ケンスケと鈴原トウジ。僕たちが面白がって笑っていると、

「漫画で活字なんて鈴原、現代文のテストどうするの?」
「んぐ…」
「ヒカリ〜おそ〜い」
「ごめんね、妹が風邪引いちゃって」

 学級委員長の洞木ヒカリが後ろから駆けてきた。そう、僕達2年A組は男女の垣根がない、とても平和なクラスだった。

「妹大丈夫?」
「うん、平気平気」
「テスト前のワシに風邪移すなや〜イインチョ〜」
「ヒカリとキスでもしたら移るかもしれないわね」
「風邪引いたらキスしたことになるってこと?」
「そういうこと!鋭いわねレイは」

 僕達男子はこういう話題になると急に弱りきってしまう。トウジは赤くなって何も言い返せない。僕とケンスケはいじられませんようにと目を逸らす。女子達は勝ち誇った顔をしてこの手の話に花を咲かせた。

「キスぐらいで意識しちゃって。何こっち見てんのよ、バカシンジ」
「見てないよ!」
「シンジ君!」

 耳を火照らせた僕が振り返るとそこには、

「おはよう」
「おはよう、カヲル君」

 あの日僕を救ってくれた少年、渚カヲル君。石畳の狭い階段を優雅に下りてくる。この階段の繋がっている向こう側で僕は迷子になったのだった。彼は僕達のことをひっくるめて「シンジ君」と呼ぶ。

「あんた見てると涼しくなってくるわ」
「だろう?僕は夏には大活躍さ。でも生憎もう予約済みなんだ」

 みんなが一斉に僕の方を向いた。僕は慌てて首を振った。

「今のがシンジ君のイエスって意味なんだ」
「違うよ!」

 にっこり微笑むカヲル君。知り合ってからずっとこんな調子だから僕はカヲル君がユーモア抜群の人気者かと思っていた。人気者だから気に入った人間だけに好き勝手できるみたいな。カヲル君はそれだけ魅力的だった。赤い瞳に銀に輝く繊細な髪、触れると冷たそうな透き通る白い肌。それに柔らかく包み込むような美声。目鼻立ちもとても格好良かった。でもアスカが僕に言うところはこうだった。

 カヲル君はその整いすぎた容姿でみんな近寄り難かった。彼はアルビノという先天的な遺伝子疾患で色素が欠乏している。神様が丹精込めて創り上げた完成品。僕達凡人よりも気高い存在。僕だって彼に声をかけられなかったら敬遠したのかもしれない。彼はいつもひとりぼっちで、でもそれを何とも気にする様子はなく、クラスの隅でただ読書だけをしていたらしい。だからカヲル君と僕が笑いながら校門を潜ってきた時には学校中で衝撃が走ったのだ。

「シンジ君は照れるのが上手だね」
「照れるに上手も下手もないよ」

 何故かはわからないけれど、カヲル君は僕だけに興味津々でいつも僕ばかりを見ていた。他の人にはあまり興味がないみたいだ。僕はそれを思うと胸の真ん中がくすぐったくなってしまう。

「今日もシンジ君は愛らしいね」
「男に愛らしいなんて使わないよ!」

 僕達がそんなやり取りをしていても2週間も経てば日常になってしまう。ちょうど数学の集合問題のベン図だ。重なった二つの円グラフ。仲良しの友達の円とカヲル君の円。重なった部分は僕だ。それを囲んだ四角は2年A組のクラスメイト。僕は円を重ねる接着剤の役目。そして僕はそれをとても気に入っていた。

「使うよ。愛らしいって言葉はシンジ君のためにあるんだから」
「相変わらず渚はクレイジーだな」

 ツッコミから生まれる笑いも嫌味な響きなんかじゃない。僕達は互いの違いをいびつな部分をそのままで包み込める。カヲル君が何を考えてるのかさっぱりわからないけど僕がそのままのカヲル君を好きなように。こんな大らかな人間関係を築けるのは幸運なんだと僕は知っている。
 幸運というよりも奇跡なのかもしれない。

 僕達は今この瞬間にも、キラキラと新しい何かが生まれるのを予感していた。
 赤外線で宇宙を撮影すると鮮やかな極彩色になるように、14歳だけしか持てない秘密の虹彩でこの世界の見えないものを見ようとしていた。

「あ、虹!」

 そして――降ったり止んだりする雨の隙間に、朝空は、新しいサインを掲げる。

「逆さまだ」
「環水平アークだよ」

 羽根を広げた七色が上弦の弧を描く。高台の坂道は見晴らしが最高だった。抜けるような初夏の空。僕達の頭上にはこの一瞬にしか存在しない今日の光が降り注ぐ。手が届きそうなほど五感を掴んで迫ってくる。開いた瞼をもう一度開くようにして、僕はこの景色を胸に焼き付けた。この乱反射した光の強さも、湿って澄んだ空気の匂いも、朝の他愛ない喧噪も、まるごと。ひとつ残らずに。

 忘れてしまうとわかっていても僕は強く心に刻み付けたんだ。

「ねえ、カヲル君」
「なんだい?」
「僕達はこの瞬間も忘れちゃうのかな」

 みんながその鮮やかな予感に透明な手を伸ばしながら、ただ空を見上げていた。だから僕は今なら何を言っても大丈夫だと思ったんだ。

「忘れられないようにすればいい」

 僕は声のする方へと振り向いた。
 僕はカヲル君を見た。カヲル君は僕を見ていた。彼は微笑んでいた。あのガーネットを湛えて。僕はその赤に吸い込まれて動けなくなる。銀色の睫毛が朝陽を浴びて虹色に瞬いた。
 首を傾げて色白の顔が近づいてきて、貝の内側みたいな唇がそっと、火照った僕の頬に触れた。

 その瞬間、僕はふと、思ったんだ。
 父さんも今、同じ空を見ているのかもしれないって。

 ここから僕達のかけがえのない14歳の夏が始まった。


 つづく


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