Q.E.D.2 ~ 平行線な僕らのバレンタイン事情 ~


バレンタインデー、それはキリスト教の元聖名祝日。もともとはウァレンティヌスを悼む日であったにも関わらず、15世紀あたりから恋人の要素が付け足された。そしてあれよあれよと愛の日に変貌を遂げ、今となっては欧米でプロポーズの定番の日、日本では女子が好きな男子にチョコレートを渡す日となる。ちなみに日本のこの習慣は戦後からだぞ、なんだか最近!しかもどこから出てきた、いきなりのチョコ!実にこれはチョコレート会社の陰謀である。陰謀は正義によって抹消されるべきである。よって、俺は、バレンタインを認めない。Q.E.D.

「昨日は甘いもんアレルギーやなんや言うとって」
「…トウジ、それ、お前の妹にも言ったのか?」
「妹関係あらへんやろ」
「え、ケンスケ、チョコ食べられないの?」

この質問に一瞬、ケンスケは教室を見渡した。それに続いてシンジもトウジも。3バカトリオの視線は女子の集団とかち合って、どっと笑い声が聞こえてくる。スクスクケラケラ3つの期待を見破って、上からおちょくるみたいな女子のリアクション。

「えげつねーなー女子って」
「なんや、別にお前らなんかに何か貰いたいわけちゃうで」

コソコソ威勢のない反論、消え入りそうな男子のピュアな繊細ハート。もうすぐチャイムが聞こえてきそうな8時15分の1分前。シンジはまだ赤い頬のまま不在の親友の身を案じた。今日は休みなのだろうか。

「おはよう」

と、ドアに視線を移した途端、カヲルが息を切らして教室に入って来た。室内の空気がふと変わった気がした。唐突リバース。さっきの3バカのように女子たちが控えめに気にしている。彼の持っている紙袋を。

「遅刻なんて珍しいね」
「違うんだ」

カヲルはシンジにもう一度「おはよう、碇くん」と言い直して隣に慌てて着席した。

「何故かみんながプレゼントを渡そうと追いかけてきたんだよ。今日は誕生日じゃないと言っても聞いてくれなくてね、きりがないから音楽室に隠れていたんだ」

ずっと…心底不気味なものに遭遇したような怯えた顔つき。思わずシンジは吹き出した。

「あはは!渚くん、今日はバレンタインだよ」
「…え?そうか!そういうことか」

3バカが4バカになり、周りのクラスメイトも笑い出す。カヲルはたまにピンボケなところがあって、そんなところも女子のハートを鷲掴みする。もしかしたら男子だって混じっているかもしれない。そう、カヲルは学校の人気者なのだ。言うまでもなく、彼は天がすべてを与えたような絶世の美少年だった。

「渚くんって本当にすごいや」

その人気者の視線の先にはいつもシンジがいる。時計の針は15分を越えたところ。ホームルームにそなえてシンジは鞄を開けてペンケースを取り出した。そして、その奥には、あるモノが。カヲルの心臓が跳ね上がる。

「君は…貰ったのかい?」
「僕?ううん、まさか。渚くんとは違うもの」

鞄を閉じながら何気なく答えるシンジ。恥じらって嘘を吐いている様子もない。だからカヲルはニコリと微笑み考え込む。そこで遅刻の担任の教師がやってきて、いつものホームルームが始まった。

(さっき、確かにプレゼントの包み紙が見えたけれど…)
(確かにブルーのリボンも付いていたけれど…)

シンジの横顔を盗み見るカヲル。

(貰っていない?…ということは、誰かに渡す?)

伏し目がちにはにかんでいるシンジ。何を思ってそんな顔をしているのかと、知りたくなる。

(碇くんは誰に渡すんだろう?)

そしてカヲルは自分がある期待をしていることに気がついた。鼓動が耳の内側までこだましているのを感じた。それは期待というよりも予感なのかもしれない。ずっと、彼とはただの友達ではないと感じていたから。

(…僕に?)

上履きにコツンと当たるいつもとは違う感触。たくさんの好意が詰まってはち切れそうな紙袋。それはありがたいけれど、カヲルにとってそれは好きな子から貰えたらそれで充分だった。だからバレンタインなんて気にも留めていなかった。けれど。好きな子が好意をかたちにしているならば、話は別だ。

(ならそれは何チョコなのかな…)

もしもシンジが誰かに渡すならそれは自分でなくては、カヲルは密かにそう感じていた。


昼休みも半分が過ぎ、シンジは弁当箱をしまいつつ教室を見渡した。廊下から疲れた顔のカヲルがこっちへ歩いてくる。両手は可愛いお菓子たちでいっぱいだ。

「ただいま」
「なんや、早かったな」
「クラスの迷惑になるから待たないでほしいとお願いしたんだよ」
「で、それは詫びのしるしか?」
「…断りきれなくてね」

シンジの口から小さな溜め息が漏れた。今日はカヲルが主人公。今日だけじゃない、カヲルはいつだって主人公。それは親友として誇らしい。シンジは思う。僕みたいな脇役が主人公の親友ポジションなんだから、いいじゃないか。首を縦に振ってみる。何がいいのかはわからないけれど。

「お前のせいで格差社会が悪化してるぞ、渚」
「山分けするかい?」
「いるかッ!」
「どうしてこんな碇至上主義がモテんだろーな」

ちらっとカヲルと目が合った。こんな文句聞き飽きている。日常の顔をして微笑み返す。赤い瞳はキラキラと星屑でも散らしてあるみたいに輝いていた。

「ほんまやな。こんなんのどこがええんや」
「仕方ないよ、渚くんだもん」
「もしや…碇も渚にだけ特別にチョコっと、なぁんて用意してんじゃないだろーな」
「な、な、何言ってるんだよ!そんなわけ…」

口ごもるシンジ。不意にカヲルの机の上に転がっている包みの中を想像する。きっと手作りのデコレーションしたお菓子や淡い恋の手紙なんかが入っているのだろう。そこには女の子らしい形の文字が綴られている。それをひとつひとつ、やさしいカヲルは読んで眺めて、もしかしたら返事をしたためるかもしれない。

シンジは何故か悲しくなって、胸の奥がスースーした。
そんなシンジのすぐ側で、カヲルは胸をざわつかせていた。

(否定しない?やっぱり…)

お返しだよ、と囁いてシンジにキスをする自分の姿がさっと頭をよぎりだす。

(まだ貰ってもいないじゃないか…)

こんな過激な妄想を教室で、しかもシンジの隣でしてしまうなんて。ひとり静かにうろたえる。うろたえるのに高まる期待にドキドキが止まらない。

「なあ、お前もなんか言ったれ」
「え」
「そうだよ、こいつはお前の言うことは聞くからな」

キョトンと互いを見るカヲルとシンジ。シンジはちょっと悩んでから、

「…渚くんばっかりずるいね」

攻撃してみた。

「そうかい?ごめんね」

カヲルは負傷…しているのだろうか?

「なんで嬉しそうなんだよ」
「もっと言ったれ」
「ええ?うーん…渚くんなんて知ーらない」
「し、知らない!?」

ツンとシンジがそっぽを向いてみせたらややダメージ…アリ?「知らないってどういう意味だい?碇くん」なんて聞いてくる。でもそれだってじゃれ合う範疇。カヲルへのシンジの最大限に冷たい態度なんてこれくらいだ。だから2バカはシンジを取り込んでふざけて3対1の構図を装ってみる。シンジは嫌々ぶってそうしながら、でも心の何処かではちょっぴり、カヲルが傷つけばいい、なんて思っていた。

その気持ちは複雑で、どこから生まれたのかもわからない。

「なあ碇〜俺たち仲間だろ〜」
「う、うん」
「お前家庭科得意じゃん〜」
「うん」
「弁当だって自分でやんだろ〜?」
「そうだけど」
「なら俺らにチョコくれたってよかったんだぞ〜?友チョコ流行ってるんだぜ〜?」
「碇くんは貰う立場だよ」

シンジの肩にあごを置いて馴れ馴れしく呟くケンスケ。案の定、カヲルがちゃんと嫌そうな顔をしたのでトウジもニヤリと合点、シンジの肩を組んだ。そして悪ノリでふたりがシンジをサンドイッチして横に仲良くゆらゆら揺れて遊んでいる。がっしり結託する3バカから孤立したカヲルが寂しそうにすると、普段のシンジならカヲルに気遣ってそれをすぐにやめようとするのだが今日はそうしない。かわりにもじもじ耳を赤くしながら、

「…実は昨日、アスカと一緒につくったの持って来たんだけど、食べる?」

と極めて控えめに、けれどカヲルの反応を横目で確かめながら呟いた。そして鞄から大きなタッパーを取り出した。あの包装紙にリボンの付いた物とは違うものだった。

「マジか!?見せろよ!」
「ぎょーさんあるやんけ!」

カヲルがそわそわしているので、ふたりは意地悪にカヲルには見えないようにそれを覗き込んだ。

「うまそうやないかい。ん、待てや。式波…?」
「あいつ調理実習でホウレン草炒めて炭みたいのつくってたけど大丈夫かよ?」
「これは僕がつくった分だよ」
「はよそれを言わんかいな!」

遠くで「あんたらなんかにやらないわよ!」とアスカの怒号が聞こえてきたがふたりは聞こえないフリをして、さっそくひとつ摘んで口に放った。それはチョコ、ストロベリー、ホワイトチョコ、抹茶、オレンジ…いろんな色のトリュフをふわふわのビーズ飾りみたいに詰め合わせたタッパーだった。

「うまい!」
「売りモンみたいや…」
「クラス分つくったから、よかったらみんなで食べてよ」

後ろの席の男子が覗いているからそう声を掛けたら、タッパーは瞬く間に教室中をサーフィンしてゆく。男子も女子もワイワイ集まって寄って集って貪り合う。あちこちで「碇くん可愛い〜」「女子力高ぇ〜」から始まって「女子もちっとは見習え」「男子うるせぇ」なんて発展して、調子に乗った男子が2個目に手を出しているのでカヲルが慌ててタッパーを回収した。危ない、もうあと2つになっている。カヲルがすぐさまひとつを手に取って、もうひとつをシンジに渡そうとしたらトウジがそれを取り上げてパクリと大口におさめてしまった。カヲルは少し悩んだが、手の中にある最後のひとつは自分の口に持っていった。

「ヨッ!一家に一台碇シンジ!」
「大袈裟だよ」
「碇は俺の嫁だぜ〜」

ふたりに挟まれ髪をわしゃわしゃされてシンジは照れながら笑っている。カヲルの口の中にはストロベリー味の甘いチョコがとろけて香ばしいナッツが弾けていたが、おいしいかどうかはわからなかった。シンジのお菓子がおいしくないわけはないが、味覚を奪うほどの強い痛みが胸をズキズキ刺し続けていた。喉が締め付けられて、苦しい。

(僕が、最後…)

カヲルは俯いた。シンジはカヲルを見ないようにした。

(おいしいって言ってくれなかったな…)

普段のカヲルなら開口一番にベタ褒めしてくれるはずなのに。元気を失くしたカヲルに気づき遠くでその姿を見つめるシンジ。ちょっとやりすぎたかな、と思って次に、僕は何もしてないじゃないか、なんて思う。どうしてあんなことをしたんだろう、と考えながら本当のところ自分が何をしたのかもわからずに悶々と、午後の授業中、自分とカヲルの関係について考えていた。そして結局、放課後まで、カヲルのことは少しも見られなかった。


「バッカシンジ!義理チョコひとかけらくらいは貰えた?」
「失礼だな」

いつもなら帰りのホームルームの直後には風のようにクラスの半数は消えてしまうのに、今日は不思議と帰る気配が見当たらない。ちらほらと忍び足で教室を抜け出すのは違うクラスに相手が待つ彼氏彼女の連中ばかりだ。

「フーン、その冴えない返事はやっぱりね」
「わかってるなら聞くなよ」

シンジはのろのろ帰りの支度をしながら他のクラスメイトの密かな注目を感じていた。男と女ってだけで周りは変な期待をしているけれど、シンジは思う。僕は見せしめでバカにされているだけなんですよ、と。

隣の席では数人の下級生にチョコ責めに遭っている親友がいた。何度目かもわからないシーンは見慣れて注目も集めない。

「何よ、当然の結果がショックなわけ?」
「別にそういうわけじゃ」
「どうせ貰えないからって慈善奉仕なんかしちゃって」
「もういいよ、アスカは性格が悪いなぁ」

背中合わせのカヲルとシンジ。この小さな範囲で繰り広げられる対比がシンジにはとても虚しい。

(ここまで綺麗に正反対だと笑っちゃうなぁ)

でもそれは対岸の存在をうらやむのとはまた違うドロドロをシンジの胸に満たしていった。

(渚くんがやさしいから対等に感じちゃってたけど、本当は僕たち…)

シンジの意識は自分を遠くで見下ろしながら自分がどんどん小さくなってゆくのを感じていた。

「フン。仕方ないわねぇ」

シンジがしょげていると頭にコツン。軽くて固い感触が。そして目の前には、ちょっと不器用だけど華やかなラッピングの――バレンタインのチョコ、らしい。おー!と沸く歓声にアスカがすかさず「何勘違いしてんのよ!義理よ!義理の義理!」と応戦している。

「あれ?でも昨日一緒につくったのは…」

仲良しの女子にだけ友チョコ配るからつくるのを手伝いなさいよ、と命令されて一緒につくったものではない。シンジをこき使うくせに仕切りたがりのアスカが毎度毎度分量を間違えてその度に失敗した材料を放置して最初からやり直すもんだから、もったいないとシンジは隣でせっせとそれをアレンジしていたのだった。そしてついにクラス全員に配れるくらいになってしまい、痺れを切らしたシンジが途中から主導権を握ったので、シンジは責任を持ってアスカがラッピングを終わらすまでずっと側で見守っていた。だから一緒につくったものは覚えているのに。

(そうだ、夜中に台所で物音がした気がした…)

「いるの?いらないの?」
「え!?い、いるよ!」

ありがとう、そう言って受け取ると、アスカの頬がピンクに染まった。彼女には珍しく本気で照れていた。

「同居人を哀れんだだけ。勘違いしないで」
「か、勘違いなんてしてないよ!」
「やーね、同情したからってつけあがって寝込み襲ってくるんじゃないでしょーねッ」
「そんなはずないだろ!!」

「わかったよ。ありがとう。じゃ、もうこれくらいでいいかな?」

シンジの耳の後ろでカヲルが語気を強めていた。彼らしくない不機嫌な声に下級生が動揺した顔で教室から撤退する。その後ろ姿を見送ってシンジは頭の片隅で、ごめん、僕のせいで、と思いながら、うわ、僕すごい自意識過剰、そんなはずないだろ、と自分を罵った。碇シンジの二極化現象。

「碇いち抜けだな」
「もうお前はわしらの敵や」
「え!?そんなことないだろ」
「へーへー余裕なこって――」
「鈴原、ちょっといい?」

トウジがビクッと飛び上がって後ろを見るとヒカリが怒ったような顔をしている。途端にトウジもすごく面倒臭そうな顔になる。ふたりが意識し合うといつもそんな表情なのを周りはちゃんとわかっていた。

「じゃ、バカシンジ、夕飯はすき焼きね」
「え」
「じゃ〜ね〜♪」

アスカはすれ違い様にヒカリを肘で突ついてエールを送ってから颯爽と去っていく。ケンスケも空気を読んで「ちぇ、サクラちゃんに漫画返しに行ってくっか」と微かな希望を抱えてすぐに退散した。トウジとヒカリはいつの間にか教室を出ていっていて、急に寂しい空気になる。カヲルには都合が良かった。心のしこりに言い訳して、仕方ないからと、シンジと一緒に帰るため声を掛けようとした、その時だった。

シンジもそそくさと教室を出て行ったのだ。

カヲルは驚いてシンジの後をつけてゆく。教室から顔を出すと、廊下の曲がり角でレイとシンジが合流していた。カヲルが見えなくなったふたりを追いかけると、人通りの少ない階段の踊り場で、シンジが鞄を開けていた。

そこから出て来たのは、朝に見かけたあの包装紙とリボンだった。


カヲルはふらふらと廊下を歩いていた。あまり記憶がない。けれど、確かシンジが後ろからやってきて、一緒に帰ろうと誘ってきたような気がする。他にも何か言われたのかもしれないが、もうどうでもよくなっていた。

(碇くんは綾波さんが好きだったのか…)

生きた心地がしない。どうやって足が前に出ているのかもわからない。もはやゾンビだ。呪われたバレンタインの亡霊。ちぎれそうな紙袋の取っ手を両手で掴んで、投げ捨ててしまいたい衝動をどうにか飲み込み、引きずりながら思い一歩を踏み締める。

(僕は…何を期待していたんだ?)

黙ったままの青白い顔のカヲル。心配そうに横目で窺い、シンジは神経質に瞬きをしながらしきりに何かを言っていた。けれどカヲルが無反応で、シンジは拳を握り締めた。

「ねえ、だからさ、やっぱりひとつ持つよ」

シンジの指先が突然カヲルの手に触れたから、驚いたカヲルが紙袋を道の上に落としてしまう。真冬の乾いたアスファルトに色とりどりの小包が散らばった。落としたのはカヲルなのに何故かシンジが謝って、しゃがんでそれらを拾ってゆく。ひとつひとつ埃を払うシンジと棒立ちになるカヲル。

(すごい手が込んでる。渚くんのことすごく好きなんだろうな…)
(こんなに貰って何不貞腐れてるんだろう?)

忙しなく二極のシンジの思考が交錯する。

(僕が渚くんだったら舞い上がっちゃうだろうな…)
(それなのにちっとも嬉しそうじゃない。贅沢だよね、渚くんって)

ころころ変わる心模様。

(渚くんにとっては好かれて当たり前って感じなのかな)
(何だよそれ…)

「渚くんはすごいね」

想いとは違うことを口にするシンジ。嫌味とも諦めともつかない響き。

カヲルはもうひとつの紙袋も地面に落とした。

「こんなものはいらないよ」

それはカヲルから出てきたものとも思えない予想もしないセリフだった。

「どうせ自己満足の愛情表現で満足する子たちさ」
「ちょっとひどいよ渚くん」

なのに、それは待ってましたと言わんばかりで、シンジは小さく震えていた。

「君のこと好きって気持ちにそんなこと言うなんて」
「僕は頼んでいない…迷惑だ」

ふたりはこの機を逃さない。破裂しそうに膨らんだ苦しい胸の内を針で突ついて、

「叶わないと知ってて渡そうとするひとの気持ちも考えなよ!」
「僕には関係ないじゃないか!」

吐き出してゆく。

「どんな気持ちで用意するか…」

カヲルが無意識に踏みつけているカードの送り主を想像する、シンジ。

「相手に少しでも思いが伝わればいいなとか…」

つま先に転がっているお菓子の焼き上がった時を想像する、シンジ。

「笑顔になってくれたらとか…」

その熱くて香ばしい匂いを嗅ぎながら瞼の裏に思い浮かべる、好きなひとの姿。

――ずっと内緒で好きだった、カヲルの姿。

「渚くん、見損なった…」

シンジは涙がこぼれていた。わけがわからなくなっていた。こんなに素の感情を露にするカヲルなんて見たことがなくて、揺さぶられた心から溢れてしまうものをもう、我慢できない。

「僕だって、そうさ…」

そしてそれはカヲルも一緒。まさかのシンジの涙にパニックになって目がかぁっと熱くなってうるうるして、

「君は失恋した人間の気持ちなんてわからないだろう…」
「…は?」

カヲルはついに苦しい胸の内を吐き出すが、それはあのカヲルが絶対に言わないだろうという類の言葉だから、

「それは僕のセリフだよ!勝手に取らないでよ!」

状況はますます混乱した。

「君が世界で一番そんな気持ちなんてわからないだろ!」
「…君は綾波さんとうまくいかなかったのかい?」
「あ、綾波!?なんで」
「チョコ…渡してたじゃないか」
「え!?そ、そうだよ渡したよ!うまくいかないわけないじゃないか!馬鹿にしないでよ」
「やっぱり…そうか…」
「え、ちょっと、」
「気づかなかったよ…」
「え?ええ?」

あのカヲルがシンジよりもぽろぽろ激しく泣き出すもんだから、役目交代とシンジの涙が引っ込んだ。急に冷静になる。客観的な頭の中のシンジが、なんだこれ、と呟いた。

「違うよ…綾波のことが好きだったの?」
「嫌いだ、大嫌いだよ」
「え、ひど…じゃあなんで、あ、」

親友なのに相談しなかったことを拗ねているのかもしれない、と、シンジは閃く。

「別に、変な意味で内緒にしてたんじゃないよ。綾波に友チョコ交換しようって言われてうんって言ったけど僕男だし勘違いされたらみんなうるさいからそれで…」

言い訳みたいに早口で捲し立ててから、どうして僕こんなこと言ってるんだ、と真顔になる。別に後ろめたいことなんてしていないじゃないか、なんで渚くんが泣くのさ、意味わかんないよ!感情的な頭の中のシンジが怒る。

でも、どうしてカヲルに見つからないようにしたんだろうとも、シンジは思った。

「…友チョコって、君は好きな子にも友チョコをあげるのかい?」
「なんでそうなるの。友達にあげるから友チョコでしょ?好きな子には本命チョコって言うんだよ」
「綾波さんが好きなのに?」
「だから違うって。綾波は友達だから友チョコなんだって」
「へえ…それで君は綾波さんが友達だから友チョコをあげたのかい?」
「そうだよ。だから綾波は友達だってさっきからそう言ってるだろ!」

カヲルの口調がだんだん子供みたいになってゆくからシンジはいちいち驚きすぎて、驚いてるのか怒ってるのか、妙なテンションになってゆく。あのひと回りは年上っぽい雰囲気の、賢くて落ち着いていて普段何考えているのかさっぱりわからないカヲルが、

「それで…綾波さんだけなのかい?」
「交換したのは綾波だけだけど」

あの恋人にしたいランキングも結婚したいランキングもお兄ちゃんにしたいランキングもぶっちぎりで独占しているカヲルが、

「そういう意味じゃないよ。綾波さんにだけなのかい?」
「何の話?」

あのみんなが憧れるかっこいいカヲルが、

「チョコ!僕のチョコ!!綾波さんにだけ特別で親友の僕にはチョコがないんだね!」

――全身全霊で駄々をこねる。唇を歪ませながら感情まかせに「僕のチョコがないよ碇くん!!」と絶叫する。君は誰?シンジは目が点。「僕のチョコは!?今すぐ出しておくれよ!」こんなカヲル見たことがない。これが本当の渚くんなの?思わず笑いそうになって、シンジはどろどろの感情をいつの間にか忘れてしまった。

「そんなにいっぱい貰ってても、まだ欲しいの?」
「碇くんのチョコが欲しいんだ!僕はまだあのひとかけらしか食べてないよ!」

声を荒げて必死に訴えるカヲル。力みすぎて指先でミジンコを表現しているけれど、シンジは確かにカヲルが大きな塊をパクッと食べたのを目撃していた。

(僕のチョコが欲しかったんだ…)

なんだか、嬉しい気持ちが込み上げてきて、

「あはは、ちゃんと用意してあるよ」
「…え?」

くすぐったい。

「だからうちに来てって誘ったんだよ」

カヲルはまるで覚えていなかったが、シンジの言っていることは本当だった。

「そう、なのかい?」
「うん」
「……」
「……」
「…取り乱して、ごめんね」
「僕もごめんね」

クシャクシャな顔をして一緒に笑った。それからカヲルとシンジは妙に意識し合って目を逸らす。肩を並べて帰りの通学路を歩いてゆく。


コンフォート17のシンジの部屋でカヲルはシンジを待っていた。壁の向こうの台所で茶器や冷蔵庫の開く音がする。憑いた悪魔が去ったみたいな顔をして、カヲルはさっきまでのかっこ悪いにも程がある自分に頭を抱えていた。あぁどうしよう、もう前と同じ目で僕を見てくれないかもしれない、なって思いながら、でも自分のためにシンジがチョコを用意していたことが夢見心地で、ふにゃふにゃとふやけてしまう。カヲルは器用に消えてしまいたい気持ちと生きててよかった気持ちを満喫していた。

一方シンジは、渚くん可愛いなぁ、実は甘えん坊なのかなぁ、学校ではずっと感情を押し殺して我慢していたのに僕の前でだけつい爆発しちゃったのかなぁ、素の渚くんってもしかしてこんな性格でこんな内緒の趣味があって…なんて様々な妄想を膨らませては、にこにこと皿にお菓子を盛りつけていた。

カヲルはドアが開くのを今か今かと待ち侘びながら、落ち着きのない心を紛らわそうと辺りを見渡す。ベッドの横の棚にはシンジが家庭科の実習でつくったカヲル人形が置いてあった。さっき部屋に入ったらそれはシンジのベッドの枕の横に寝そべっていたからカヲルは心臓がスポーンと勢いよく飛び出そうだったが、シンジがさりげなく枕元から棚に移してなかったことにしていたので、カヲルも気づかないフリをした。カヲルはシンジが自分の人形と眠っている姿を妄想して、落ち着かないどころか頭がパンクしそうになったのでブンブンと頭を振る。自分がどんどんおかしくなる。頭のリミッターが切れてしまったんではないかと不安になった。

「お待たせ〜」

振り返るとシンジがお盆を持って部屋に入って来た。カヲルは表情筋が崩壊しそうになって一生懸命何でもない美形の顔に整える。慣れた手つきで切り分けたお菓子と紅茶をカヲルに差し出すシンジ。ケーキもフォークもきちんと向きが揃っていて、そういう細かい気配りが彼らしい。カップを机に置いてふたりで並んでベッドに座った。

「チョコブラウニーだよ」

普通の男子中学生がこんなセリフを言うだろうか。そうカヲルはカヲル人形にテレパシーで語りかける。君の出生の秘密を教えてあげよう、カヲルは語り続ける。

他の男子生徒がスライムとかスパムの中身をつくっている中、カヲルはシンジのぬいぐるみをつくると言い出したもんだから、なら僕も、とシンジもカヲルのぬいぐるみをつくることにしたのだった。仲が良すぎて気持ち悪いとか、人形で何するつもりだよ、なんて周りから散々からかわれたが、楽しかったからふたりはあまり気にしなかった。

「すごいね、おいしそうだ」
「食べてみてよ」
「ではさっそく、いただきます」

そしてシンジが縫い上げたカヲルがとても上手で、笑いを越えて逆に感心されてしまう。クラスメイトがシンジを女子力高いと認知した瞬間だ。「なんでそんなに上手いんだよ」と聞かれてシンジは「全然だよ」なんて答えていた。でもカヲルは知っていたのだ。その理由を――自分でやるしかない環境だったから。

「…どう?」
「おいしい」
「よかった」

なのにそれをおくびにも出さないで笑ってやりすごすシンジ。カヲルの胸は人知れず痛みにあえいだ。

「本当に、すごくおいしいよ」

自分のことのように感じてどうにかしてあげたい気持ちでいっぱいだった。シンジのためなら何でもしてあげたかった。

この気持ちは、なんなのだろう。

「こんなことできても男だから得しないよね」
「そんなことないさ。君の才能だよ」
「あはは。材料が余ってついでにつくったのに、なんだか得した気分」

カヲルの胸がチクリ、小さな悲鳴。

「余りでも嬉しいよ、」
「…うん」

この気持ちに見返りを求めるつもりはなかったのに。

「嬉しい…」

どうして、自分だけの特別を期待してしまうんだろう。

「それとね…」

シンジはおもむろに立ち上がって机の中から大きな箱を取り出した。

「はい、これ。渚くんのもちゃんとあるんだよ」

そっとそれをカヲルの膝に乗っけるシンジ。鞄の中にあった物よりも大きくて、金のリボンと星のシールが付いている。夜空のような包装紙。

「特別な、友達だから…」

カヲルがそれを握り締めて口を半開きにしているので、シンジは困った顔で笑った。

「ありがとう」

そして、また赤い瞳が潤みきって星屑を散らかしているもんだからなんだか恥ずかしくなって、頭の中のシンジが、特別なって言葉はちょっといやらしかったんじゃない?と照れ隠しの文句を呟く。

「君がお嫁さんになってくれたらなって思うよ」
「もう、僕は男だってば」
「だったらなんて言えばいいのかな」
「渚くん、男が好きなの?」

シンジはさりげない風を装って、本当は痺れるくらい緊張していた。

「ううん」

そして失望に冷たい手を握り締めようとして、指に力が入らなかった。

「そっか、だよね、」
「僕は好きな子がいるんだ」
「…うん」

聞きたくない、シンジはそう言いたくて言えなくて、静かに立ち上がろうとした。

そうしようとしたのに、カヲルの手がシンジの手をギュッと掴んで離さないから、シンジはまた、動けない。

「…朝からそわそわしていたんだ。君の鞄にあるチョコが僕のだったらいいなって」

ゆっくりと重なった指先がシンジの指の間に沈んでゆく。絡まってゆく。

「でもそれが期待外れだとわかると拗ねてしまってね。思い知ったよ。ずっと知らないフリをしていた、自分の本当の気持ちを」

シンジは一秒後の展開を予感して目眩がして、体中を強張らせてゆく。

息ができない。

「君は考えたことあるかい?誰よりも仲良しでずっと想いを寄せている子がみんなにチョコを配っていて自分もそのうちのひとりだった時の気持ち。自分へかと期待していたチョコを他の誰かに渡しているのを見てしまった時の気持ち。それに…ちゃんと自分へのチョコを用意してくれていた好きな子が、自分の形をしたぬいぐるみを枕元に置いていたのを見つけてしまって、また懲りずに期待してしまう恋に狂った男の気持ち…」
「あ」

カヲルが俯いたシンジの顔を覗き込むと、ふたりはとても近い距離で見つめ合った。

「君が僕にくれたのは友チョコ?それとも…」
(ああ、僕は何を言っているんだろう、君といると僕はおかしくなっていくよ…)
「あの、えっと…」
(僕も君といると頭が変になっちゃいそうだよ…)

ふたりの瞳が隠せない想いを暴露してしまう。カヲルはシンジの迷子みたいな唇にそっと白い指を添えた。

「僕が答えるよ、碇くん…」

互いを握り締める手と手。互いを見つめる瞳が吸い寄せられてゆく。とてもとても勇気を出して、ふたりは一歩先に進もうとする。カヲルは首を傾けてシンジへと落ちてゆく。カヲルは泣きそうな顔をしていた。シンジは世界のすべてに感謝して、そっと、目を閉じた。


ガラッ――

「シンちゃ〜ん!チョコケーキみたいの食べていブフォッ…!!」

仕事に出かけたと信じていた家主のミサトが劇的な間の悪さで現れて、カヲルとシンジが磁石みたいに左右に弾け飛ぶ。ミサトは不運にも衝撃の瞬間を目撃してしまった。

「の、の、の、ノックぐらいしてください…!!」
「ひい〜〜!?どういうこと〜!?」

こんな時、保護者としてどうすればいいのだろうか。焦ったミサトが倍速のカニみたいな動きをしていると、

「たっだいま〜!バカシンジ〜今度の女子会にウーピーパイ持ってく約束しちゃったからあんたがつくりなさいよ〜」

上機嫌のアスカがマイペースに乱入する。どうやら友チョコが好評だったらしい。

「じ、自分でつくればいいだろ!」
「つくれないわよ」
「できない約束なんてしないでよ!」
「だって私ウーピーパイなんてよく知らないし〜女子力高いシンジがサクッとクックパッドでドゥしなさいよ」
「言ってる意味がわからないよ!」
「…で、なんであんたがここにいんのよ?」
「え?」

いつも雪みたいに白い肌のカヲルが耳まで茹で上がったピンク色なのを、訝しげにアスカが睨んでいると、

「シンちゃん私も食べたいな〜そのウーパールーパーみたいの〜アッハッハ〜!」

気を利かせたミサトが全力でフォローする。が、

「…なーんか怪しいわね」

全くもって役に立たない。

「な、渚くんは友達なんだから何も怪しくないだろ!」

勘のいいアスカ。カヲルの横にある夜空みたいな包装紙のプレゼントを指差そうとする。

「ああもう!ふたりとも出てってよ!ここは僕の部屋だよ!」
「こいつはいいの?」
「渚くんはお客さんだよ!」
「フーン、私はここの住人よ」
「渚くんは僕が招待したんだよ!ふたりは呼んでない!」

ドアの前で押し問答を続けているシンジとアスカを半ば放心気味で眺めながら、カヲルは憂慮した。

(碇くんは本当に過酷な環境を生きているな…)

家事を押しつけられても従順にこなしているシンジ。デリカシーの欠片もない同居人たちに日々精神的苦痛を浴びせられている。

(僕が早く大人になって連れ出してあげないと…)

カヲルは心の底からシンジをこの不条理な世界から守ってあげたいと思った。自分の家でいつもお世話しているシンジ人形みたいに、自分の手で本当のシンジを大事にしてあげたい、と。

(ハッピーバレンタイン、碇シンジくん…)


バレンタインデー、それは一歩踏み出せば好きなひとと何かが起こるかもしれない特別な“ハプニング”である。Q.E.D.


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