木漏れ日をポケットに入れて



届かない月


午前零時、僕は5分前から電源をオンにして耳を傾けている。つまみはひとつのヘルツにずっと合わせたまま。

『みなさん、真夜中のこの時間、いかがお過ごしでしょうか。』

口から淡い吐息を漏らす僕。キュンと締め付けられた胸に両手を当てる。

『今日も僕、渚カヲルがお送りします。』

渚カヲル――僕の大好きなラジオパーソナリティ。

『昨日の台風が大気の塵を運んでくれて、第三新東京市上空は鏡のよう。夜空が澄み渡っています。星をとても近くに感じますよ。手が届きそうなくらいだ。』

彼はとても人気がある。女性ファンたちは耳が孕むとか尊いとか呟いて熱狂的に彼を慕ってる。でもきっと僕みたいな男性ファンだってたくさん潜伏してるはず。だって、彼は本当に魅力的なんだ。

『今日の一大イベントをご存知でしょうか。皆既月食。月を照らす太陽の光を地球が遮り、月本来の姿が見える現象です。あなたにも見えますか。もうだいぶ欠けてきましたね。』

僕は窓の外を見た。本当だ、もうすぐ爪の先みたいな明かりまで欠けそうだ。彼にも見えているのだろうか。

『僕もスタジオを出たらまた、眺めようと思っています。』

あ、そっか。彼は生放送中だ。防音室の厚い壁の中にいるんだ。そこってどんな感じだろう?よく想像する。ぬくもりのある内装?無機質かな?どんなイスに座ってる?どんな格好?どんな唇?

…渚さんってどんな人なんだろう?

彼はラジオのホームページでも雑誌のインタビューでも顔を明かさない、ミステリアスな存在だった。

『星空はどうしてあんなに静かなんでしょう。心の声まで聞こえてしまいそうなくらい、静かだ。』

彼は七色の声を持っていた。ただ喋る時は隣の大切なひとに囁くよう、相談に乗る時は気のいい親友のよう、朗読する時は物語の中で生きているよう。その時々にぴったりの声で僕らに語りかけてくれる。その内容も知的でやさしくてとても誠実。哲学的で文学的で、純粋なんだ。

『ここへ来る途中もよく空を見上げていました。天体観測が好きなんですよ。』

あ!今、好きって言った!僕の調教された耳はさっきのエンジェルボイスを繰り返す。好き。甘い声。鼻から少し息の抜けるような舌先でじんわりとろけるような響きだった。しかも僕と趣味が同じ!もしかして、運命?やっぱり?

―一度でいいから僕の名前を呼んでほしい…

ああ、僕は病気だな。自覚はある。見知らぬ男性の声に恋している。好き過ぎて本人を好きになったんじゃないかと錯覚する。

『特に月を見ていると心が落ち着きます。まるで故郷の光のような。あ、僕はかぐや姫ではないですよ。』

悶死。枕を抱えてのたうち回る僕。可愛過ぎか。可愛過ぎなのか。

『月の光って柔らかいじゃないですか。好きな人を遠くでずっと見守っているような、その慎ましやかな明るさが好きなんです。とても。共感します。』

また好きって言ったし〜!さっきよりやさしい響き。もうこれ永久保存版だ。あ〜〜も〜〜!(息を潜めて絶叫してる図)ちなみに保存はいつもしている。

『ふふ、これじゃまるで片想いを告白しているみたいだ。』

はあ〜んって変な声出てきた。今日、サービス激しいよ。キュンキュンが止まらないよ。

何度も想像した。渚さんが僕にだけ囁いてくれることを。

例えばの話、すごくかっこよくて紳士的な彼が僕に道を尋ねてくる。僕は彼の声で正体に気づく。でもあえて素知らぬ顔で応対する。そして僕たちは意気投合。友達になって、すごく仲良くなって、ある真夜中の午前零時。僕がラジオをつけたら――「今日は個人的なメッセージを電波に乗せて伝えたい。シンジ君、僕と結婚してください。」

わ〜!すごいや!付き合う前にいきなり求婚してる!妄想大爆発〜!面白すぎて笑えない〜!

例えばの話、すごく繊細で綺麗な彼が道端に倒れていて(出会いの場所にヴァリエーションがないのは僕の妄想力の限界)偶然通りかかった僕が介抱する。元気になった彼は僕にお返しをしたいって言って断っても聞かなくて「いつも君の相談に乗ってあげるよ」なんて展開(パーソナリティなだけに)。でも実は、彼は僕のことが好きで一緒にいたいからそんなことを言っていて、それでそれで…

あ〜!また結婚してるパターン〜!なんで僕とそんなに結婚したいのさ〜!日本で僕たち結婚できてるのさ〜!※これは僕の妄想です。

いや!僕は思う。別に渚さんの外見がかっこよくなくたっていい。彼の声から透けて見える心が好きなんだ。確かに声から妄想する僕の彼(ゴメンナサイ)はすごくイケメン風だけど、でもそれは声の印象ってだけ。彼のその存在が眩しいっていうか、奇跡というか、国宝というか、世界の宝?とにかく、僕は彼が野獣でも、彼になら美女みたいに抱かれてもいいって思ってる。なかなかおこがましい例えだな。

でも、そう。それはぜんぶ、僕の妄想。

『今日は月が本当の姿を見せる日。僕も少し素直になろうかな。』

今日は饒舌だな、なんて僕はしたり顔。ファンはちょっといつもと違う珍しいシチュエーションに敏感なんだ。え?知ったかぶりじゃないよ。僕は初期からのファンだもの。

彼のことはとてもよく知っている。

『実は、僕は片想いをしています。』

知っていた、はず…

急に海が干上がるみたいに、僕の全身から血の気がさっと引いてゆく。

『一目惚れでした。でも、その人は僕の手の届かない場所にいます。』

汗ばんだ手を握り締めると、何故か力が入らなかった。

『会いたいのに会えない。名前を呼びたいのに呼べない。その切なさを月に重ねてしまいます。だから、』

僕は月を見上げた。

『僕の想っているあなたにも、今、この瞬間の月を見上げていてほしいな。』

月はすべて欠けて、金のおはじき玉みたいだったそこには仄暗く、赤い鉱石の肌をした惑星が見えた。

―これが、本当の月、なんだ。

『僕の本当の気持ちを、知ってほしい。』

僕は窓の向こう、遥か彼方へと手を伸ばす。指先に裸になって心細そうな月が触れる。僕を見つめている気がした。でも、すぐに滲んでしまう。僕の涙で滲んでしまう。

―僕にもわかります。

月は僕を見つめてるんじゃない、他の誰かを見つめてるんだ。ぽろぽろと、色のない涙がこぼれ落ちた。

『好きだという気持ちを、ただ、知ってほしい。』

―手の届かない相手を恋しく想う気持ち、わかります。

胸がいっぱいで、喉の奥が詰まってうまく息ができない。ああ、馬鹿だな。僕はこんなに彼のことが好きだったんだ。なのに、彼は僕のことを知らない。僕の知らない誰かをいつも想っている。

―どうか、幸せになってください。

だから、僕はこう願うことしかできない。

―その人へ、想いが届きますように。

こうして僕の初恋は、終わった。



モノローグが転んだ


今朝の目覚めは最悪だった。いつもは録音したマイ渚カヲルプレイリストをイヤフォンで聞きながら眠るのが日課だったのに、あの後、僕は失恋の苦しみで彼の声が聞けなかった。そして結局、空が白んでくるまで一睡もできなかった。

通勤電車でも耳の穴には変な違和感。体の一部が消えたみたいにスースーしてる。毎朝、渚さんに囲われてその美声で一日の元気を補給していたのに。今日の僕は死人みたい。焦点の合わない虚ろな目で現世の穢れた営み(朝の通勤ラッシュ)に鼓膜を完全に犯されていた。

―今日はもう、働きたくない…

誰か僕が死ななかっただけでも立派だと言ってくれ。もう僕は、立っているだけでもやっとなんだ。

進行方向ナナメ45°、肩幅まで足を広げて重心やや前、これが僕の急ブレーキでも倒れない鉄板スタイル。満員電車では猛者か鋼のメンタルじゃなきゃ、寄りかかれるスポットは占拠できない。だから僕はロングシートに挟まれたハンバーガーでいうとチーズあたりをうろうろしている。新人類の女子高生が大声で笑いながら僕を透明人間みたいにグイグイ押して追いやるから、僕はこのナナメ45°で、ふくらはぎをプルプル言わせてこの戦場を生き延びていた。

トレインチャンネルを見た。なんでまだ一駅しか進んでないんだ!?まるで味のないガムを噛み続けてるみたいに時間が過ぎる。手持ち無沙汰を解消しようと携帯の画面をつけて、また消した。

きっとSNSは大変なことになってるだろうな、僕は思った。お通夜だったらまだマシ、だけど肉弾戦になってたら…渚さんにもう嫌いとかファンやめますとか相手を◯◯◯とか、そんな言葉、目に映すのも耐えられない。心情は理解できる。でも、でもさ、渚さんだって恋くらいするさ(人間だもの)。それに、彼のことが好きなら彼の幸せを願うべきじゃないか。そうだ!これは踏み絵なんだ!みんな、ここで僕たちの忠誠心と真実の愛が試されるんだ!この試練を乗り越えた者だけが真のカヲラーになれる…!そうネット界の中心で愛を叫びたいけれど、僕のSAN値は既に虚数。自己ミュート機能発動。SNSは見ない。

僕は渚さんに関わるものすべてをポケットにしまった。

その時、電車が急ブレーキ。僕が思いきりよろけたら(ナナメ45°のくだりは忘れてください)誰かが受け止めてくれた。というよりがっつり両腕で抱き留めてくれた。恥ずかしくって何度もすみませんって頭を下げたら、大丈夫ですか って。ああ、やっぱり知らないひとにも僕が瀕死だってわかるんだ。あなたの声が誰かさんの声に聞こえてドキッとなるくらいには瀕死です。顔も見ないようにして、僕はもう一度、すみませんって謝った。

どうしてこんなことになったんだろう。

僕は昔からあんまり恋愛に興味がなかった。強い女性たちに囲まれて育ったからかもしれない。母さんは仕事一筋、ミサトさんはひどい酒豪、アスカは僕を下僕のように従わせて、綾波はなんだか僕より男らしくてさっぱりしてる。電柱を割ったみたいにすごいんだ。どちらかというと僕のほうが女性らしくてそのことでよくからかわれた。僕は家事もするし、かわいいものが大好きだし、ちょっと打たれ弱い、かもしれない(彼女たちに比べれば)。

車内放送で人身事故の知らせが流れて僕は更に落ち込んだ。

僕は男女の生臭い関係から極力離れて生きてきた。トウジにAV観ようって誘われてもなんだかんだで断って、ケンスケのエロ同人誌だって見せられて目を逸らした。僕は男友達といつまでも中学生みたいな付き合いがしたかった。一緒に騒いでくだらないことで笑っていたかった。彼らが性に目覚めてからの僕は疎外感でひとりぼっち。僕みたいなひとが周りにいなかったから自分が変だと思っていた。

でも、そうやって日陰を生きてきたある日、僕は何気なくラジオをつける。その時、スピーカーがカウントダウン。渚カヲルの伝説の第1回目の放送が始まった。運命な気がした。僕はやっと、僕と同じひとを見つけた気がしたんだ。

きっと彼も僕と同じ幸せを願ってる、僕はずっとそう思っていた。愛は激しくなくていい。変な駆け引きも大人の危ない遊びもいらない。ただ、木漏れ日の降り注ぐ公園を、いつまでも並んで一緒に歩くような、そんな穏やかな幸せを求めてる。僕は想像した。まだ見ぬ誰かの肩にそっと寄り添って歩く自分の姿を。

それがいつの間にか、まだ見ぬ誰かじゃなくて渚さんになっていた。

徐行していた電車が次の駅に到着すると、雪崩のように人類らしき大群が押し寄せてきた。戦地に赴く兵士のように手段選ばず駆け乗ってくる。待って!既に人口密度200%超えてるよ!僕が加齢臭プンプンの中堅サラリーマンの餌食になりかけた時、誰かが僕の腕をグイッと引っ張った。そして僕は誰かの腕の中に見事におさまってしまった。ちょうど、恋人の熱い抱擁のそれみたいに。

「危ないから、こうしていよう。」

ち/ょ/っ/と/待/っ/て/!他人の声がぜんぶ渚さんに聞こえる!わあすごい特殊能力。そしてすごいパニック。耳が性感帯になったみたいにキュピーンってなる。これって重症すぎるよ。でも僕の更に上をいく社畜ブラザーズ(複数形)が僕たちこれからひとつになるのってくらいモッシュをしてきて、僕はその渚ボイスの誰かさんと隙間なく密着した。

「ごめんね。」

な、何を謝ってるの?(そんな可憐な声で言われたら腰が砕けそうじゃないか!)僕たちは確かに見知らぬ男同士で、抱き合ってるのはおかしいけれど、むしろ謝るのは僕のほうです。さっきから、まるで渚さんに抱き締められてるみたいにドキドキして、もう下までムズムズしてきてしまってるんです。本当にごめんなさい。

この状況、いつまで続くの?あ!横のOLさん!押さないで!肘鉄されても睨まれても僕、動けないので場所変われません。あっ!そんな風に押されるとふたりの股間が…!あっ!もう!早く電車進んで…!あっ!お、お願い!僕の眠れる股間さん、こんな時に限って勃たないで!ダメ!勃たないで!勃たないで!勃たないで!!

こうして僕と誰かさんは1時間は抱き締め合っていた。僕は顔も見えない誰かに興奮して(僕も若いから…)それがバレないようにするのは拷問だった。彼はあれからもう何も言わなかった。ただ密かに息遣いが聞こえた。胸の鼓動も聞こえた。非常事態の人の熱気で蒸し暑くってふたりともドキドキが早かった。

―いい匂いがする…

どさくさに紛れて彼の甘い香りを嗅いでいた。呼吸の音と心音に耳を澄ませていた。すると彼の腕の中で、僕の失恋の痛みはいつの間にか遠のいていった。

そして1時間後、大半がターミナル駅でホームへと吐き出された。僕も彼も偶然にそこが目的地だったらしい。ふたりで二人三脚みたいにして降りて、そこでやっと僕は初めてその誰かさんとご対面した。僕はたぶんギャグみたいな顔だったはず。彼は絵に描いたような美しいひとで、僕はついに幻覚を見始めたんじゃないかと思った。彼は僕の中の渚さんにピッタリの姿だった。

僕は離れるのが名残惜しくてしばらくもじもじ彼の前に立っていた。彼のぬくもりをまだ体が覚えていた。コミュ障が炸裂してありがとうございますもちゃんと言えなくって下を向く僕。なんだか泣きそう。彼は僕を待ってくれているようで、それがすごく申し訳なくて、これ以上迷惑はかけまいと僕は深々とお辞儀をしてから駅の階段を下りようとした。

「待って。」

彼が僕の腕を、また掴んだ。

振り返ると彼が一歩前に出て、僕たちは見つめ合った。一度見たらもう逃げられない魔法みたい、あの月みたいな赤い瞳に僕は自由を奪われた。

「あの、さっきは、ごめんなさい。」

アレ?彼、急に敬語になってる。緊張しているのか、ほんのり頬がピンク色で困ったみたいにぎこちなく笑っていた。そっか、彼もコミュ障か。僕は同類に出会った親近感で未知の勇気が湧いてきた。

「こ、こちらこそ、あは。」

「さっきはすごかったですね。」

「ええ、すごかったですね。」

ほっこりするふたり。

しまった。オウム返ししか僕してない。既に沈黙。どうにかせねば。よく考えてみたら、僕たち通勤ラッシュの駅の真ん中でなんで世間話を始めたんだろう。何それ笑える!僕は真夜中のショックもあって、なんだか妙なテンションになってきた。

「あの…声が、渚カヲルさんに、似てますよね。」

「えっ?」

彼は信じられないって顔をした。何言ってるかわからないって顔にも見えたから…

「あれ、よく言われるのかなって思ってました。ご存知ありませんか?ラジオパーソナリティの方で、今すごく人気なんですよ。ファンクラブだってあるんです。結構有名なんだけどな〜テレビのナレーションで聞いたことないかな〜。あ、ちなみに僕もファンクラブに入ってるんです。えへ。会員ナンバー1桁なくらい、僕、大ファンなんです!これ自慢です。すごい数字なんですよ。今じゃ万超えてるんですから。」

完全な沈黙。やってしまった。ザ・好きなことだけは早口で無限に語り出すヲタクの、完成。

「あ、いや、きっとこれからもっとブレイクしていく逸材で…」

知らないなら教えてあげたいファン心理(布教)。ドン引きですよね、わかります。

「や、やっぱり男が男のファンなんておかしいですよね。えっと、あの…」

嫌われたな。っていうか彼に好かれようとしていた僕、浅はか過ぎる。渚さんがダメなら渚さん似のイケメンとお近づきになりたいなんて誰だよ。愚民だよ。何やってるの、僕。泣きたい。泣きたい!渚さん!こんなダメなファンを罵ってください!

僕がしょげはじめた時、目の前の彼がみるみる真っ赤になって悩ましげな顔をした。

「なら、昨日の放送も聞いていたんだね…」

それからとっても照れくさそうに、笑ったんだ。

「えっと…ありがとう。」

カヲラーの僕は何故か感謝された。

「僕は、渚カヲルです。」

目の前の彼は何故か渚カヲルだった。

腰を抜かした僕はしばらく立ち上がれなくて、結局、会社に休みの連絡を入れた。



そこに奇跡は降り注ぐ


だいぶ人通りが落ち着いてきた。渚さんは僕が落ち着くまで駅のベンチで隣に座ってくれていた。僕を気遣って、寄りかかっていいよと何度か催促してくれたけど、僕はやんわりと断った。便乗して死ぬほどそうしたかったけど、昨日の放送を聞いていたから何だかいたたまれなかった。

「…お仕事に遅れちゃいませんか?」

「帰りだから、大丈夫だよ。」

その声を聞く度に、心臓がトランポリンみたいに飛び跳ねる。

「へえ!夜中の放送の後にもお仕事があったんですか?」

「ううん…」

渚さんはそれだけしか言わなかった。

ああ、僕はまたやってしまった。これは、渚さんのプライベート情報を聞いてしまったんだ。仕事の後の朝帰り。普通の男性なら女性と会っていたのかもしれない。もしくは遠距離のあの好きな人と電話してたとか、もしかして彼女のことを想っていたら切なくなって別の人と…いや、渚さんに限ってそんなこと。でも、わからないじゃないか。僕はさっき1時間も渚さんと抱き合っていても本人とわかってなかったんだし。

「あはは。つい。ファンなんで節操なく聞いてしまいますね。」

渚さんがやさしすぎてつい勘違いしちゃった、かも。渚さんは僕にやさしいんじゃない、ファンにやさしいんだ。なのに、僕はまだ、何かを諦めきれてない。

「すみません…僕、ファンっていうより熱狂的なカヲラーで。」

あ〜…切ない。何も言ってくれない。どうしよう。会ったら余計に好きになった。大好きだ。もう、これは、本当の愛、なのかも。失恋した直後に運命の出会いなんて、傷口をえぐられるどころじゃない。傷口しかない。僕、消滅しそう。

僕がまたうつむいたら、渚さんの綺麗な手が見えた。そのすらっと伸びた手が、僕の手にそっと触れた。

「僕がこれから言うことを、最後までそのまま聞いてくれるかい?」

そう言って渚さんは僕の手をギュッと握った。ずっと好きだったひとと初めて手を繋いだ。ハラハラからのやさしい不意打ち。僕の内側から木漏れ日があふれてくる。僕もこんな気持ちになれるんだ。緊張が解けたら、涙腺まで緩んできた。喉が詰まって、涙で何も見えない僕は、そっと頷くことしかできない。

それはまるで僕の妄想も追いつかない、奇跡のようだった。

「僕は…真夜中の仕事を終えると局で仮眠を取ってから朝、家に帰る。同じ電車に乗るために。これはずっと最初から決めていることなんだ。だから僕はプロフィールに顔を載せない。誰にも見つからずにその電車に乗っていたいんだ。

僕はその時間が一番好きだ。ずっとひとりのひとを眺めていられる。本当は話し掛けたいけど、いつも熱心にイヤフォンで何かを聞いているから邪魔したくはない。だから、ただ見つめているんだ。見つめているだけで僕は木漏れ日みたいにあたたかい気持ちになれる。

でも、夜になるといつも後悔する。どうして僕は今日も声を掛けられなかったんだろう、僕はここにいるって彼に知らせなかったんだろうって。そう、僕は彼にずっと気づいてほしかったんだ。

彼はたまにとても幸せそうに微笑む。そしてイヤフォンに手を当てて目を閉じる。きっと、そこから聞こえる何かが彼をそんな顔にさせているんだ。そう思うと僕は苦しかった。僕の声だったらいいのにと、何度も思った。だから、そう、愛の言葉を囁く時は、彼に語り掛けるように言っていたんだ。そしてその声がいつか届いて、彼をそんな顔にさせられたら、そうやって毎夜の月に祈っていた。その祈りが僕の片想いの処方箋だった。

でも、昨日、月が欠けてゆくのを眺めていたら、その祈りが虚しく感じられたんだ。本当の気持ちを伝える勇気のない者の戯れ言だと気がついた。だから…僕はそれから、いつもよりちょっぴり素直になってしまった。そして、どうやら、心を丸裸にしてしまったようだ。ずっと想っているひとの前で。」

渚さんは僕の手をきつく握った。すうっと息を吸い込む音が、僕の全身を焦がす。僕は、僕だけに囁く渚さんの声をひとつひとつ、心の宝箱にしまっていた。

夢みたいだった。

「僕はずっと、君が好きだったんだ。だから昨日、君と、きっと同じ月を眺められたことが、とても嬉しい。だから、だから…ここで君が僕から離れてしまっても、僕はその事実を受け止める。時間は掛かってしまうかもしれないけれど、僕は君が、僕の声を好きでいてくれた想い出で、満足する。君を嫌いにはならない。なれないから…」

渚さんのその絹のように滑らかな声は、微かに震えて星の瞬きみたいだった。

「でも、もしも、僕の気持ちを受け入れてくれるなら、君の名前を教えてほしい。そしてそれができないなら…君の体が良くなったら、何も言わず、僕の前から去ってほしいんだ…」

僕はその声の美しさに、色のない涙をこぼす。その一粒が、彼の白い手の甲を濡らした。もしこの声を電波に乗せて届けたら、色のない雨が降っていただろう。

その響きはあの日の夜空のように澄んでいた。心の中、僕は星空へと手を伸ばす。星々に囲まれて、あの赤い月が、僕を見つめていた。

だから僕は、もっともっと手を伸ばす。

「僕、実は昨日、失恋しちゃって。今日はイヤフォンをつけてなかったでしょう?そのひとの声がどうしても聞けなかったんです。」

心の僕が指先で、月に触れた。

“ 僕の本当の気持ちを、知ってほしい。 ”

「出会った時から毎日、朝も晩も欠かさずに彼の声を聞いていました。彼が僕の支えだった。だからとてもつらかったんです。」

月が僕に微笑んだ。

“ 好きだという気持ちを、ただ、知ってほしい。 ”

「僕は何度も想像しました。彼が僕の名前を呼んでくれることを」

そして僕は覚悟を決めた。顔を上げて、この声の届いてほしい先へと向き合う。渚さんは死にそうな顔をしていた。

―どうしてあなたがそんな顔をするんですか。

「僕は碇シンジです。」

―ずっと見ていてくれてたんでしょう?僕があなたの声を聞いていたのを知ったんでしょう?

「呼んでみて、くれませんか?」

―その顔が恋をしているってわかっていたんでしょう?

「シンジ、君…」

―なら、答えはひとつじゃないですか。

「渚さん…」

「カヲルって呼んで、シンジ君。」

「カヲル、君…」

僕たちはそれ以上何も言わずに、額をそっと擦り合わせて微笑んだ。いや、泣いていたのかもしれない。ただそこには満たされたふたりが寄り添って、いつまでも行き交う電車と人々とを眺めていた。


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