「それはどうだろう」

シンジは自然に言葉を切ったつもりだったがカヲルが何かを待ち続けているので、仕方なく言葉を続けた。

「だって僕、男だよ」
「そうだね」

ベッドの上、座って向かい合う。

「カヲル君も」
「わかってるよ」

最後はほんのり苛立ちの響き。それは期待を見事に裏切られたせい。嫌われちゃったかも、とシンジは胸をヒヤッとさせた。

「シンジ君は僕が嫌いなのかい?」
「ううん、そうじゃなくて」
「うん」
「こういうのは、ちょっと、」
「ちょっと、何だい?」
「なにって」
「……」
「……時間がほしい、かも」
「もう十分待ったじゃないか」

それはカヲルの口から出たとは思えないぴしゃりとした響きだった。一瞬、彼を失うかもしれないとシンジは身を硬くした。けれどなぜだかどうしても首を縦に振ることができない。誰でもいいから思いきり後頭部をぶん殴って頷かせてほしいなんて、密かに思った。

最初のシンジのセリフの前にカヲルはこう言ったのだ。

『付き合おうよ、シンジ君』

カヲルとシンジはよくキスをする仲。先月から舌でペロペロするようになった。まるで口の中に未知の生物を飼い馴らしたようなキスだ。けれどシンジにとってそれは友達の延長線上の出来事だった(驚くことに!)。カヲルはシンジをその大きな愛情でひたひたに満たしていた。どのくらいかというと、ちょうど海が体温と同じぬるま湯になって裸のシンジを包んでゆらゆら揺れて子守唄を歌ってあげるほどの過保護っぷり。使徒のカヲルにとって愛情は注ぐほどに、コップに水が溜まるように愛が深くなるというストレートな解釈だった。カヲルの愛はかさを増して深く底の見えない赤い海をつくりつつあった。

けれどそれに伴う予想外の弊害が、これである。

「キスは嫌じゃなかっただろう?」
「うん」
「その先はどうかな」

カヲルは不意打ちにシンジの真ん中を触った。人差し指でズボンのチャックのあたりを。シンジは内股になり腰を引いた。

「嫌かい?」

黙秘を続けるシンジ。反応の悪いボタンを相手にするみたいにもっとぐりぐり指で攻められシンジは慌てて、

「だめだよ!」

悪戯なカヲルの手を叱咤した。パチン、と。

シンジはカヲルとのことすべてにおいて受動的だった。受け入れるばかりで返そうとしない。なのにちょっとした行き違いで愛情が減ったと疑って機嫌を損ねたりもする。すねられるといつも奇妙なテストをされているようだった。カヲルはなんとか合格点を取り続けた。

しかもシンジはカヲルを受け入れることをご褒美のように示してくる。カヲルのたくさんの言葉から一時的接触を許して、見返りを求めない献身から舌を入れるキスを許して、さて。恋人になるにはどのくらいの合格点と徳を積めばいいのだろう?今までの経過を見るとシンジが世界中を敵に回した時に味方になるくらいは必要になるのかもしれない(ご存知の通りそれで晴れて恋人になれるとも限らない)。

カヲルはシンジのこの現象をずるいと感じた。不機嫌にもなってしまう。カヲルはシンジの願いごとはすべて叶えてきたし、心の問題にも真剣に取り組んだ。決して見返りを求めなかった。けれどそれは愛されなくてもいいっていうわけではない。

コソコソとふたりの仲を内緒にされることにカヲルは傷ついていた。好きだよといくら言っても同じ言葉は聞こえてこない。ん、とか、む、とかしか返ってこないことにも傷ついていた。それで今日はキスの合間に「好きだよ」と言い「君は?」と聞いた。そこでシンジが頷いたり一文字呟いても聞こえないフリをしたらようやく返ってきたのは「わかるでしょ」――わからないから聞いているのに。カヲルは更に傷ついた。

カヲルはシンジに好かれている確信がほしかったのだ。会話は手を叩かれたシーンに戻る。

「何がだめなの?」

シンジはムッと顔を背けた。ぐずればカヲルはシンジの行間をいつも正しく汲んでくれたから。例えば今回は――そういう決定的なことはやめようよ、付き合うってわざわざ口にして結論を出さなくてももう付き合うのと同じことはやってるじゃないか、それ以上のことはさ、いずれそういうことになるんだろうしその時は(お泊まりの夜とか!今は昼間でしょ!)僕に確認とらないでぐいぐい押し倒してくればいいじゃないか◎★*%▲¥#…

シンジはカヲルとの関係を考えると心臓が苦しくなって生きた心地がしないからなるべく後回しにしたかった。自分の壁を壊して人と違うことをするのはすごく勇気がいる。しかも相手は人間のようで人間じゃない。世界でオンリーワンの試練なのだ。カヲルはそこらへんをわかっていない。

はあ、それなのに。シンジがいくら待ってもカヲルからのフォローが入らない。ごめんね、君に無理なお願いをしてしまったかな、この話題はやめてもっと楽しいことをしよう、と耳に囁いてきてもいいはずなのに。シンジがチラッとカヲルを盗み見たら、なんとカヲルは泣きそうな顔をしていた!心臓が爆死した。

「なら僕たちが男と女だったらどうだい?」

こんなにカヲルが引き下がらないのははじめてのことで、

「僕と付き合った?」

シンジの頭はクラッシュから再起動に時間がかかる。

「答えておくれよ、僕たちは付き合えたの?」
「だ、誰もカヲル君を断れるわけないよ」
「誰もって?君は!?」

舌の上で言葉が破裂してしまう。シンジの解答はカヲルにとって不十分な出来だった。そう。まったくもって納得がいかない。赤信号はみんなで渡ればナントカみたいにへ理屈じみている。

違うよカヲル君、僕は別に君と付き合いたくないわけじゃないのに……そう言いたくてもシンジは途方に暮れるだけ。カヲルもシンジがこういう場面に何もできないのはわかっていた。だからカヲルは目を閉じて、肺一杯にふたりきりの部屋の空気を吸い込んで、こう言うことにした。

「ならこうしよう」

指をパチンと鳴らす虚しい音がこだまする。まるで大きな瞬きの効果音みたいに。



「こうしようって?」

シンジは瞬きしている瞬間にうたた寝をしたようだった。ということは今のは寝言?シンジは両手をついて体を起こした。

「女の子が随分はしたない格好をしているね」

シンジがくしゃっと倒れた姿勢から女の子座りをしたらカヲルが変なからかいをする。お尻を突き出した猫のようになってしまった。

「女の子って誰のことさ」
「君だよ」
「そういうこと言わないでよ」

ムスッと眉間に皺を寄せてみせる。それは当然の態度だった。

だと思った。

「君は男の子なのにスカートを履いているのかい?」

ほら、と白い手の指差す自分を突き抜けた方向を振り返り、もう一度視線を戻し自分に向けてみると。ベッドの上で女の子が足を広げて四つん這いになっていた!しかも自分だ!制服の淡いブルーのスカートがプリーツを全開にしてずり上がり太ももが露になっている。すごくエッチだ。シンジは飛び起きた。

「な、何これ!」

隅に立てかけてあるスタンドミラーで全身を映してみた。確かに自分が女子の制服を着て立っていた。膝丈のスカート、標準的な靴下、きちんとボタンを全部閉めた純白のブラウス――そこには膨らんだ胸が存在していた。

「え!?」

シンジは両手をその膨らみに当てて鷲掴みした。パコパコと中身のないブラジャーが凹むはずだった。なのに感触はムニュッ。前にアスカに、おっぱいと同じ柔らかさなんだって〜と無理やり触らされた二の腕と同じ弾力だったのだ。

「僕おっぱいがある!」

シンジのおっぱい。可もなく不可もない可憐な膨らみで慎ましやかなのに食欲をそそる。

もしかしてと真っ赤になってスカートをめくってパンツを確認してみると――◯◯◯がない……!ブリーフが小さなリボンがあしらわれた清楚な女の子のパンツに大変身している!大混乱のシンジが信じられないという顔で袋とウインナーのあった場所に指を這わすと、そこには立派な割れ目が存在した。

「み、見えてるよ、シンジ君」

滅多に照れないカヲルが思わず口を手で押さえてチェリーピンクに染まっている。無防備にスカートをめくり上げてパンツの上から割れ目を触っているシンジを余さず目撃してしまったのだろう。鼻の穴がヒクヒクしている。シンジはわけもわからず「やだ!」なんて叫んで股間を押さえてぺしゃんとしゃがんだ。心なしか女の子らしい声だった。


「本当に覚えていないのかい?」

ベッドの縁に腰掛けるふたり。カヲルの長い足が組まれている。一方、シンジは心許なくて前を手で隠しながら座っていた。風がスースー入る気がして思わず内股に力が入る。

「僕って女子だったんだっけ?」
「ふふ、おかしなことを言うね」
「だってそんなの、」
「昨日、僕がマッサージしたらおっぱいが1カップおおきくなったって喜んでくれたじゃないか」
「嘘だよ!」
「ふふ、それは嘘かもしれないね。けれどひとつ言えることは、僕は君の彼氏にだっていうこと」
「嘘だ」

カヲルの目尻がピクッとなる。

「だって自分のこと僕なんて呼ぶ女子いないよ」

カヲルの口元がフッとほころぶ。

「一人称なんてひとそれぞれさ。君が自分を僕って呼ぶのは君らしいと僕は思うけれど」
「本当?」
「うん」

シンジはなんだかホッとした。

「シンジ君は本当に忘れてしまったんだね。さっき気を失ったのが原因かもしれない」
「気を失った?」
「そうだよ。最初は貧血なのかなと思ったんだ…生理で」

シンジがゴクンと唾を飲み込む。

「でも君は今日は安全日だって言ってたから違ったね」
「僕って何でも君に話してたんだね……!」

生理って聞こえてきただけで全身の穴という穴から蒸気が吹き出すくらいだったのに。安全日ってなに。言っちゃいけない言葉な気がした。

「そうだよ。それに今日は協力してほしいって言われたからこうしているんだよ」
「協力?」
「もっと綺麗になりたいからエッチなことしたいって、君が誘ったんだろう?」

エッチなことをするカヲルを想像してブラジャーの中の乳首がツンと反応した気がした。はじめての感覚に戸惑っていると、

「ごめん、これは冗談」

カヲルが妙に嬉しそうに笑ったのだ。

「カヲル君のエッチ!」
「エッチな彼氏が好きなのは君だろう?」
「どうせそれも嘘でしょ」
「僕たちは学校でみんなが憧れる美男美女カップルじゃないか」
「ぼ、僕は美女なんかじゃないよ」
「どうして?君は世界一可愛らしいのに」

こういうことをしれっと真顔で言うんだから。

「ああもう!カヲル君はいつだってそう言うけど!僕は化粧もしてないし、」
「しなくても最高だからね」
「可愛くないしおっぱいも小さいし、」
「最高に興奮するおっぱいだよ」
「見たの!?」
「ううん。でも今日見せてもらう約束だろう?これも忘れたのかい?」

悲しそうに眉を下げるカヲル。なんだか自分がひどいことをしているようで申し訳なくなってくる。シンジが一生懸命頭を悩ませていると、

「思い出してほしいな」

頭の中に突如、洪水のように鮮烈なイメージが流れてきた。



「シンジ、ナプキン貸しなさいよ」

休み時間の教室でアスカがシンジにけっこう通る声でこう呼びかけてきた。

「こ、声が大きいよ!それに僕が持ってるわけないだろ!」
「シンジが予備持ってないはずないでしょーが!」

勝手に鞄を漁るアスカに、見つけられるなら見つけてみろよ、とそのまま傍観していると、なんとアスカの手にはお母さんのポーチみたいなものがつかみ取りされていた。

「ほーらね」
「(な、なんで!?)……貸すだけだからな。返せよ」
「使用済み返してほしいわけ?」

爆笑しているアスカの横で青ざめるシンジ。女の子がこんなこと言うはずがない。

「碇さん」

背後の声に振り返るとレイが変顔をしていた。

「ど、どうしたの?」
「洞木さんのブラに忍ばせてたパットがないらしいの。もうスカスカよ。女子みんなで探索してるんだけど見つからなくて。誰かが鈴原くんが盗んだんじゃないかって言ったらみんなが戦争したがってるの。ゴリラみたいよ。碇さんって鈴原くんと仲良いでしょ。鈴原くんに聞いてみてほしいの。罪を認めたら生贄に捧げて」

すべてにおいて混乱した。

「あと私が変顔してる時は反応して」
「どんな顔すればいいかわからなかった……」
「笑えばいいと思うわ」

レイがもう一度変顔をした。すさまじい顔だ。

シンジの中の女子のイメージが音を立てて崩れ去った。


「シンジ君」

教室のドアのほうを振り返ると、

「彼氏のおでましね」

カヲルが少女漫画のイケメンのようだった。廊下から顔を出して微笑んでいる。
席を立ちカヲルに向かっていくと周囲の視線に気づく。ちらほらクラスメイトからの視線を感じるのだ。うらやましそうな、うっとりするような、からかうような、様々な思惑の視線。

「みんな僕たちがお似合いだと思っているんだよ」

そんなことを耳もとで囁かれて恥ずかしくてもじもじしていると、通り過ぎる数人の男子がヒューヒューとからかってきた。シンジは髪の毛の先まで沸騰して真っ赤になった。

「外野が多くて困るよ。本当はもっとイチャイチャしたいのに」
「ここ学校だよ」
「そうだね、もっとイチャイチャするにはプライベートな場所が必要だね」
「プライベートな場所」
「僕のうち」
「え」
「放課後、おいでよ。そして今度はちゃんとしよう」
「ちゃんと?」
「僕だって男だからね。お預けが続くと死んでしまいそうだよ」

シンジは目を見開いた。

「君とエッチなことがしたい」



「ほんとだ。僕は女の子だ」

シンジはぜんぶ思い出した。

「だけど、協力してほしいのはカヲル君でしょ」
「やっと思い出してくれたんだね」

カヲルは嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。

さっきの割れ目のくだりから、カヲルの顔が上気しているのには気づいていたが、さらに気づいてしまったことがある。カヲルの真ん中がとってもおおきくなっていた。ズボンが盛り上がっていてつい棒状の形を想像してしまうくらい膨らんでいる。

「お預けが続くと死んでしまいそうだよ」

また同じセリフを噛みしめるように囁くカヲル。瞳が熱っぽくきらめいている。

「あの、」
「ごめんすごく興奮してる」
「うん」

そばで感じる呼吸が荒い。カヲルは勃起した自分を隠すことなくシンジへと擦り寄った。

「爆発しそうだ」
「つらいの?」
「うん」

あまりにも切なそうにそう言うから。シンジはどうにかしてあげたいと心から思った。

「僕を受け入れてくれるのかい?」
「あ、ちょっと」

けれどカヲルの挙動は変に軽くて、切羽詰まった彼と投げやりな彼の二面の極をメトロノーム。苦しそうな顔で笑って、半ば無理やり体をくつけてくるのだった。

「そんな無理やりしないでよ」
「セリフが違うよ」
「ねえ、ちょっと」

抱きついてきて唇が重なった。熱烈に絡まる舌。美男美女カップルという言葉が頭にふと浮かんできた。これでいいんだ、と揺れた。カヲルとキスするとうっとりして苦しいくらい。胸の高鳴りが鼓膜にまで響いてくる。

「ん、だめっ」

けれどいきなり太ももに触れてきた熱い手のひらを反射的にはねのけてしまう。するとカヲルは深く沈むように下を向いた。

「ごめん、びっくりしちゃって」
「嫌なんだろう?」
「違うよ」

ドキドキシュワシュワしてシンジは自分の手がふるえているのを隠した。どうにかしてあげたいのに、カヲルの硬くておおきなものが自分の中に分け入ってこようとするのがたまらなく、こわい。

「僕はこんなに君を求めているのに、君は、」
「だから、違うよ」

語尾を少しだけあげて、甘えた声で、カヲルの頬に触れた。指先が湿った気がして俯いた顔を持ち上げると、驚いたことに、憎しみめいていて、それでいて懇願するような表情をしていたのだ。

「僕は証明がほしいんだ」

カヲルにはもう、1ミリの余裕もなかった。

「君に好かれている確かな証明がほしい」

どうしようもなく求めてしまう、愛情。呻いて頭を抱えて、この哀れな使徒は根幹にある欲求を持て余している。シンジはそんな弱々しいカヲルを初めて見た。

いつも誰よりも余裕があって何事にも優雅。けれど最近シンジにだけ素を見せているがわかった。彼の肉体は人間そのもので彼の中には抗いきれない本能がある。

愛されたい。

カヲルはそれだけを渇望していた。僕を受け入れてほしい。僕を許してほしい。僕を求めてほしい。激しい感情に溺れてしまいそう。

「お願いだよ……」

泣き言のように、そう言う。

それからもう何も考えられなくなったのはシンジのほうだった。
しょげて身を縮こめたカヲルがとても愛おしくて。シンジはカヲルにしなだれかかった。

「カヲル君、いいよ」

熱い吐息混じりで、シンジは囁く。

「カヲル君の好きにしていいよ」

そうだ、何もかもどうでもよかったんだ。大事なのはカヲル君だけだ。
シンジはぼうっとそう感じて、白くて長いふたつの手をとった。大好きな手を。そのまま片方を繋いで、ゆっくりと背を傾けてベッドの上に横たわる。誘うようになめらかに、手を引いた。カヲルを待った。

カヲルの体が遠慮がちに向かってくる。戸惑いながら覆いかぶさる。体が火照った。こんなに近くて、どんな顔をしているのか知りたいのに見られない。ああ、クラクラする。甘い息が耳たぶにかかると小さく身震いしてしまう。ドクンドクン内側が脈打って止まらない。これからこの大好きな唇が自分の肌の上を滑って、大好きな手がブラジャーの下から肉の感触を味わうのだろう。そして――もうパンツまで濡れちゃって大変なことになっているけれど、それをカヲルに知られてしまうことになる。どんな風に押し込まれるのだろう。裸を見られてしまうのかな。そんな妄想の上澄みを捨てるとシンジは自分でも驚くくらい昂ぶって、カヲルにギュッときつく抱き締めてほしかった。なのにほしいものはこない。ギュッと抱き締めてくれない。

「カヲル君……」

まつ毛を繊細に揺らしながら、シンジはおそるおそるカヲルの顔を覗いた。

「ごめんよ」

一瞬、瞳に映ったのは、満たされて嬉しそうで、同じくらい、途方に暮れて悲しそうなカヲルの顔。すぐに視界は白くぼやけてふわっと重力の歪みを感じて、気がつくと、シンジはカヲルに押し倒されたままだった。


ひとつ違っていたことは、

「僕に襲われてしまう前に服を直したほうがいい」

シンジは男物の制服を着ていたこと。スラックスを膝まで下ろして。
カヲルは恥ずかしそうに顔を背けてシンジの上から体をどかした。姿勢を反対に向けて頼りなく前屈みになる。

「君に見えていた世界ではスカートをめくっていたけれど、僕に見えていた世界では君はズボンを下ろしていたんだ」
「ええっ」

申し訳なさそうにそんなヘンテコなことを言う。

「力を使ったんだ。君は夢遊病のようになって、僕は催眠をかけて、君を試した。君が女の子になったら僕をどう思ってくれるのかを知りたかったんだ……軽率だったよ」

予想外のラッキースケベなシチュエーションにカヲルは調子に乗ってしまった。夢のようだった。なのに、

「ごめんなさい」

シンジが自分を受け入れたとたん、虚しさがあふれかえった。

1メートルも離れていないふたりの隙間にシンジはカヲルの孤独を感じた。果てしなく遠い場所に今彼はいる。軽率とその口は告げたが、積み重ねた様々な感情の織りがカヲルを追い込んだんだとわかった。シンジはようやく理解したのだ。カヲルは愛に飢えていた。シンジは貰うばかりだった。

――言葉にする勇気がなくて、

「カヲル君」

寂しそうな背中に頬を寄せた。

――伝えることを怠って、

「カヲル君」

後ろから両腕を巻きつけた。

――甘えていたから、

「カヲル君」

ギュッとして、体重を押し付けた。

――今度は僕の番。

「好き」

一度言ってしまえば、

「僕はカヲル君が好きだよ」

どうしてこんな簡単なことができなかったんだろうと思う。

「ずっと言えなくてごめんね」

結んだ手に大好きな手の温もりが重なった。

本当にほしかったものを手に入れたらあとに残るのは満ち足りた穏やかさ。カヲルはやっと感情の水面から顔を出して息を吸えた。すうっと胸に吸い込んだのは、空気の微粒子でも酸素でもない。

「ありがとう」

ちょうど海が体温と同じぬるま湯になって裸のカヲルを包んでゆらゆら揺れて子守唄を歌ってもらうような、安らぎだった。

カヲルはシンジに出会えたことを神様に感謝した。



薫風に咽ぶ
光風に祈る 続篇



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