「もうこんな時間か。」
「あっという間だね。」
「また離れ離れ。明日にならないと君に会えない。」
「哀しむよりも明日僕に会えることを喜んでよ。」
「君の言う通りだね…おやすみ。」
「おやすみ。」
…
……
………
「おはよう。」
おやすみで終わっていた昨日に、おはようと今日が迎えてくれるようになった。
泣きべそペパーミント
スプーンがすくう夢 続篇
「寝るだけなのに寂しがるなんて。」
「夢の中で君に会えるとは限らないだろう?」
「隣で寝てるのに。そっちを喜んでよ。」
同じベッド。隣り合わせで起床するカヲルとシンジ。毛布を畳んだりカーテンを開けたりふたりで共同作業。
「なんだか修学旅行みたい。」
「せめて恋人の家でお泊まりって言っておくれよ。」
婚約をして両親に挨拶をして認めてもらえた。そうしたら次は、同棲。気持ちの上では新婚生活のようなもの。これはまだ少しぎこちなくて、ふたりがとろとろに甘い生活を送るまでのふわふわとした調節期間の話だ。
カヲルとシンジはまだふたり一緒がゆえの妥協を学んでいる最中だった。例えばこの前、こんな喧嘩をした。きっかけは「もしも法律が整って結婚ができた時、姓はどうする?」という話題。
「碇カヲルか。君はご両親がちゃんとご健在だし、僕が婿になるっていうのもアリだね。」
「でも、渚シンジもカッコイイよ。渚って苗字好きだな。」
「ダメだよ。それじゃ僕の世界一好きな碇シンジって名前がなくなっちゃうじゃないか。」
「それを言ったら僕の世界一好きな渚カヲルって名前もなくなっちゃうでしょ。僕、渚になりたい。一緒の苗字って結婚してるって感じするもの。」
「僕は反対だね。何よりお義父さんが許してくれないだろう?君に似て頑固だから。」
「僕が父さんに似てるんだろ。」
「君はお義母さん似さ。全然お義父さんには似てない。」
「言ってることが矛盾してるよ。なんでそんなに父さんを嫌がるの。ならやっぱり渚で――」
「ダメ。僕の大好きな碇シンジって名前の滅亡は僕が永久に阻止するよ。だから僕が碇になるね。」
「でも、」
「絶対ダメ。」
「…意地悪、」
修学旅行どころかお泊まり教室みたいな言い合いになっている。最後にはシンジが泣きべそをかいて終了のゴングが鳴った。それから同じベッドの隅と隅に背中合わせで寝るふたり。寂して眠れなくて、もぞもぞ動く。背中がぴたりと合わさる。朝にはふたりは抱き合って眠っていた。
夫婦は似てくるという。ふたりはどうしても曲げられない主張のベクトルがとても似ていた。
「僕が君の背中を流すって言ったのに!」
「僕だって君の背中を流したいんだ!」
スポンジを持ってやり合う風呂場。最初にしてあげたい、僕のほうが君のことが好きだから。
「ねえ、今日はカヲル君の好きにしていいよ…」
「今日は君に気持ちよくなってもらいたいんだ、シンジ君…」
シーツの上で裸の知恵の輪みたいになって。変なところで譲り合う。
「僕ばっかり。カヲル君は僕よりもイッてない。」
「僕は君をイカせたいんだからいいだろう?」
ぴったりとちょうどいい折り合わせが見つからない。
「今日はカヲル君の誕生日なんだから僕の好きなメニューを言わないでよ!」
「僕は誕生日だからシンジ君の大好きなハンバーグが食べたいんだよ!」
なんというか。
「あは。実は誕生日だから君にプレゼントを買ってきたんだ。」
「今日はカヲル君の誕生日でしょ!?」
もうどうにかしてくれ。
けれど、物理的に心情的に、カヲルの方が少しだけ優勢だった。カヲルの方がシンジよりも体格がいい。性格もしなやかで、頭の回転も早い。何よりも、シンジのことを最高に愛しすぎている。
「あ、もうこんな時間…」
シンジはネコである。名前はまだな――つまり、愛情を注がれて受け止める愛の器である。だからカヲルが愛情を注ぎ過ぎれば過ぎるほど、
「どうしよう…」
起きられない。
「シンジ君、もう起きたのかい?」
そこへ鼻歌を唄ったカヲルが登場。静かに姿を消して戻ってきたと思ったら、
「僕の愛するシンジ君へ。朝ご飯だよ!」
トレイにはまるでカフェのように綺麗な朝食が並んでいた。この前レシピを教えてあげたフレンチトースト、もう習得してる。シンジは驚く。オレンジジュースに色とりどりのフルーツを添えたヨーグルト。その上には、ほら、完璧に可愛いペパーミントの葉が添えられている。これは、用意されていた。計画犯罪だ。
「体がきついだろう?起こしてあげるよ。」
シンジがうつむく。
「そうだ。ホットタオルでも用意するかい?」
じっとして動かない。
「僕が食べさせてあげようかな。あーんしよう?」
そこでついにシンジがキレた。
「カヲル君のバカ!!」
もう我慢できない。シンジはわんわんと泣き出した。
「ど、どうしたんだい…?」
まるでいじめっ子にコテンパンにやられたみたい。言い合いの駆け引きはしていてもまだちゃんと喧嘩らしい喧嘩をふたりはしたことがなかった。だからこんな風に泣くシンジをカヲルは初めて見た。
「シンジ君…」
背中をさすっても嫌がる。肩に手を添えたら振り払われた。カヲルはシンジにこんなに拒絶されたこともなかった。そしてこんな事態に免疫のないカヲルは、
「シンジ君…う、」
急に泣きはじめた。
「どうしてカヲル君が泣くのさ!」
「シンジ君が悲しいと僕も悲しい…うう、」
「もう!」
もらい泣きをこじらせて号泣するカヲル。そんなカヲルを起き上がったシンジが抱き締める。よしよし頭を撫でるとうわ言のように、ごめんよ、ごめんよ、と囁いていた。
「なんで謝るのさ、」
「シンジ君を泣かせてしまったから…」
「なんで僕がそうなったかわかったの?」
「わからない…」
「もう!」
ふたりとも鼻をすすってすがりつく双子の赤ちゃんみたいに互いが泣き止むまで一緒に慰め合っていた。
「僕だって、カヲル君にしてあげたいんだよ。」
「充分してもらっているよ。」
「僕だってそうでしょ。」
「…そうかな。」
「ねえ、それでどっちもしてあげたくなった時、どうする?」
「僕が君にしてあげる。」
「でしょ?それで僕はいつも我慢してる。」
「我慢?」
「そう。カヲル君はいつも僕に我慢させてる。」
カヲルが固まる。そんな!と潤んだ瞳がシンジを見つめる。そして、シンジのまっすぐな瞳の強さに負けて、項垂れる。
「ごめん。僕は君に尽くしてあげたくて、その気持ちを優先させてしまったね。」
あんまり切ない声が尻すぼみ。しょげている。シンジは今度は自分がいじめているような気持ちになった。せっかくフレンチトースト作ってくれたのに。可哀想。慰めてあげたい。カヲルの額にやさしくキスする。
「ううん。僕も自分の気持ちを優先させちゃった。ごめんね。」
部屋中には美味しそうな朝食の匂い。シンジはカヲルとゆっくり起き上がった。
「かわりばんこにしようよ。」
「かわりばんこ?」
「カヲル君は朝食作ってくれたから今度は僕の番。」
「君の番?」
「そう。今度は僕がカヲル君に食べさせてあげる。一緒に食べよう。」
「そしたら次は僕の番?」
「うん。」
「シンジ君は何してほしい?僕はお詫びがしたくてもう死にそうだよ。」
「ふふ…じゃあね、」
シンジがカヲルの耳許に囁いた。
「カヲル君の方が立派だからっていい気にならないでよ!」
それはシンジとカヲルがハチミツのべっとり絡まりそうなくらい仲睦まじく朝食を食べた後のこと。カヲルはリクエスト通りシンジをお姫様抱っこして台所へと連れて行った。けれど、シンジは腰が痛くてうまく立てなかった。家事がしたい。カヲルにたくさん尽くしてあげたい。なのに出来ない。そのせめぎ合いで悔しい気持ちを噛み締めていると、空気を読まないカヲルがひょいっとまたシンジを抱き上げた。無理しなくていいんだよ、なんて囁いて調子に乗った王子様みたいに家中をぐるぐる回ってベッドに着地。天真爛漫な笑顔で、もう一周するかい?なんて言ってきたのだ。得意げに。
「僕のディラックの海は君のシャムシエルよりも強いんだぞ…」
「シンジ君…?」
ぼそぼそと意味不明なカタカナ語を語り出すシンジ。それは彼がダークサイドに落ちてゆく黄色サイン。だからカヲルは物凄く必死に考える。シンジにしてほしいこと。必死に考えるほど思いつかない。だって、
「君がいてくれるだけで僕は幸せだよ。」
これが本心だ。
「もう!カヲル君のわからずや!知らないから!」
シンジは毛布でミノムシになってしまう。まだまだあうんの夫婦になれる道のりは遠そうだ。
それからちょっと後のこと。
「気持ちいい?」
「うん。すごく…」
シンジの体に無理のないように。カヲルはおずおずと耳かきを持ってきた。ずっと昔から夫婦になったらやってほしいと思っていた、耳掃除。でもまだ新婚未満の雰囲気でおねだりするのを躊躇っていたのだ。
「あ、そこ…」
「ここ?」
「もうちょっと右。あ、そこ。気持ちいい…」
「えへへ。」
上機嫌な声が聞こえてくる。尽くされるより尽くすほうが嬉しそうだなんて。カヲルはそんなシンジが愛おしくてたまらない。なんだかくすぐったい気持ちになる。
「ありがとう。」
「こちらこそ、ありがとう。」
そしてすぐに尽くしてあげたい気持ちになる。愛の不思議。
← top →