〆X. 果てしなく透明な明日
(in RED and BLUE)
何を犠牲にしても
守りたいものがあった
けれど守ることもできずに
ひきかえに犠牲だけが残った
世界の最果てに
無数の足跡をおとして
歩き続けながら僕は叫んだ
神様
罪も罰もすべて僕が引き受けるから
彼のそばにいさせて
ただ、それだけでいいから
彼のそばにいさせて
あのひと月に二度目の満月の夜から、月は下弦にさしかかる。ふたりの距離は思いの外近づいて、互いに時間を見つけては語り合い、互いの情報を補完していった。シンジの創った世界について、互いの悠久の時の中での相手の知らない出来事など、取るに足らない事柄から大それた覚悟の話など、ふたりは魂の片割れ同士がぴたりとくっつこうとするように、互いの空白を互いで埋めた。
「シンジ君がそう思っていたなんて、知らなかった。」
「僕が言わなかったから…」
「僕はいつも君の事ばかり考えていたのに。知らない事ばかりで自分が情けないよ。」
「そんなことないよ。僕もカヲル君のこと全くわかってなかったよ。」
「優しいね、シンジ君は。」
眩しい微笑みを湛えて顔を近づけるカヲルをやんわりとシンジは彼の胸に手をついて、彼の次の動きを静止させた。
ここは休日の昼下がりの校庭。初めてのこの世界の第壱中学校を見て歩きたいというカヲルの提案から帰り道の方向を変えた。これは、ずっとカヲル君と学校生活を送ってみたかった、とシンジが曰ってからの出来事。感慨を込めた口ぶりにカヲルの胸がしなったのだ。
カヲルはドイツで大学の博士過程を既に終えていた。この世界に生まれ落ちた瞬間から長い歳月に培った知識と分別が備わっていた彼にとっては至極容易いことだった。それ故に今更日本の義務教育を受ける必要はないが、さり気なくシンジが学校生活の話題を出して、カヲル君とも通えたらいいのに、と呟いたのを聞いてカヲルは慌てて手続きをした。ゼーレとネルフに掛け合って、その雄弁さを武器にして。仕事の兼ね合いで流石に毎日は通えないが、少しでもシンジの側に居られる口実が出来てカヲルはとても満足している。
「て、手続き意外と簡単だったね。」
無理に雰囲気を変えようとするシンジ。実際今日学校側に書類を提出して、明日から転入する手筈となった。
「ねえ、キスしちゃ駄目かい?」
まだ諦めずに食い下がるカヲル。
「こ、ここは学校だよ!」
「うん、知ってる。」
「ダメだよ…ここは外だし、誰かに見られたらどうするのさ。」
「見られても構わないじゃないか。」
シンジの細い腰にカヲルの白い腕が巻かれる。
「………」
耳まで真っ赤にしたシンジが俯いてしまう。
「ごめん、君を困らせてしまったね。君が嫌ならしないよ。だから、顔を上げて。」
頬を真っ赤に染めたシンジは潤んで赤みがかった瞳で、そっと腕を離したカヲルの眉を下げて残念そうな瞳を睨めつけた。
カヲルとシンジの歩幅は違う。それはカヲルにはもどかしく胸を焦がさせて、シンジには手に負えない激しさで心を困らせた。
ふたりはあの満月の夜から名前のない関係を終わらせて、恋人として互いを認め合っていた。しかし、初めての距離はふたりを混乱させていた。カヲルが以前よりも人間らしい積極さでシンジに愛を求める度、シンジは調子を狂わされて途方に暮れてしまう。甘く切ない恋人たちのすれ違いを今、ふたりは謳歌している。
「…ごめん…」
シンジのそれを拒絶と受け取って力なく哀しい声で謝罪するカヲル。翳らせて泣きそうに歪んだ瞳が瞬きを増す。
「僕こそ、ごめんね。」
その姿に胸をきゅんと突かされたシンジは申し訳なさそうに、手を彼の胸から離して控えめに微笑んだ。
涙を湛えた瞳を崩さずにカヲルがぎこちなく微笑むのを見てまた胸が痛んだシンジはカヲルの冷えた指先に密やかに自身の指先を絡めて小声で告げた。
「ねえ、今日はカヲル君ちに泊まっていっていい?」
少し含みを持たせたのはカヲルへの甘い励ましからか。
「…勿論だよ!嬉しいよ、シンジ君。」
カヲルはやっとその陰を潜めて機嫌を持ち直し、笑みを深めた。そしてゆっくりと絡まり合う指先に力を込めた。
ーヒトの心は、こんなにも繊細で複雑なのか。僕はシンジ君の一挙手一投足に振り回されて心を掻き乱されている。君を知る程に君に触れたい欲求が増して行くのに、シンジ君はそうは望んでくれない。それが堪らなく辛い。待つと言った気持ちは変わらないけれど、どうしてこんなに苦しいんだ…
ーどうしてうまくいかないんだろう。カヲル君に応えたいのに、君の自由さが僕にはうらやましい。僕は臆病だから、そんな風にはできないよ。君に触れてほしいのに、いざそうなると勇気が出ない。僕も周りなんてどうでもいいって思いたい。そしたらきっと君は喜んでくれるよね、カヲル君。
カヲルがこんなにも恋の病を拗らせたのには理由があった。あの再会の夜の次の日の朝、シンジから告げられたある事実。
それは、果てしのないものだったから。
ーーーーー…
「死海文書の新書、カヲル君は読んだ?」
いきなりの話題に目を見張るカヲル。朝の白んだ光に包まれたベッドの中でいちゃいちゃと語り合っていたふたりは不意に見つめ合う。
「いや…僕は閲覧出来なかった。ゼーレにいても、使徒の僕は警戒されていたから。」
「そうなんだ。君は何も知らないんだね…」
「どういう事だい?」
そしてカヲルは死海文書新書に記された神の言伝を知る。
『遠い昔、神は地球に白き月と黒き月を蒔かれた上でふたつの種族を対峙させ、ひとつの書物を与えた。それを発掘した知恵の実を持つ黒き月側は、生き残りの名目で、白き月側を滅ぼそうとした。そんな中、黒き月から生まれた悪魔の子は白き月側が持つ生命の実を手に入れて神になろうとした。結果、世界は終焉を迎え、神の御慈悲もなく、世界は始まりに戻された。そして幾度と知らずこの残酷な争いは繰り返された。
その争いの中で、神に選ばれし神の子は、世界を変える選択を与えられた。神の子はやがて、神は争わせるためにふたつの種族を交えさせた訳ではないと知る。白き月の子と黒き月の子が手を取り合い、共存を目指し互いの実を分け合うことを神は望まれた。それが生きとし生けるものの新しい進化を促す道標になると神は思われたのだ。
神に選ばれし神の子は告げる、月に生まれし白き月の子と星に生まれし黒き月の子が、迷える生きもの達へいつか道を示す時が来るまで、彼らを待たれよ、と。』
「君と僕のことだよ、カヲル君。」
カヲルは驚きのあまり、息を忘れた。ぼやけそうな焦点をぱちくりと瞬きで戻す。
「つまり、君と僕がリリンを導くと記されていたから、セカンドインパクトに繋がるあの計画は頓挫されたということ?」
「うん、ゼーレは死海文書を元に神を信仰していたから、新書も信じてくれた。」
「君が書いたのかい?」
「うん。僕が世界を創る時にシナリオを書き足したんだ。」
シンジが誇らしげにほんのり照れてにこやかに頷いた。
「どうして…」
カヲルは動揺した。シンジの意図がわからない。
「僕が居ない世界は考えなかったのかい?」
「またそれを言う。僕は少しも考えなかったよ。」
シンジは呆れたように顔を顰めた。
「例えば、使徒が居ない世界は?」
「使徒の居ない世界を創ったら自然と使徒のはじまりの君も居なくなるじゃないか。それに…」
シンジがカヲルをしかと見据える。
「僕はそのままの、使徒の君が好きだ。」
まっすぐな言葉がカヲルの胸に刺さる。
「君がヒトなら使徒もエヴァもない世界が実現できるかもって考えたよ。でも、僕は世界を創れたけど、君を作り直すような神様じゃなかったから。それに君が使徒で僕がヒトだと、それもダメだと思ったから…」
「どうして…?」
カヲルが絞り出したような声で聞く。
「え?」
「どうして…」
「僕が死んだら君がずっとひとりきりで生きてく羽目になるじゃないか。」
シンジが力を込めて続きを紡いだ。
「僕は君とまた会いたかった。でも、君をひとり残してずっと君に生きててほしいなんて、そんなの酷いじゃないか。」
そしてシンジは慈しみの表情をその愛しい人に向ける。
「僕はもうすぐエヴァに乗る。それでエヴァの呪縛を受ける。僕は君と同じように歳を取らずにずっと生きていくことになる。だから君の側にいつまでも一緒にいられる。君をもうひとりにはしないよ。」
シンジの真摯な台詞が朝の光を帯びた明るい部屋に響き渡る。まるで新しい世界を呼び醒ます福音のように。
カヲルは黙っていた。そして、シーツに肘をついて上体を起こすと横に寝そべるシンジを見下ろした。シンジはカヲルをずっと見つめていた。カヲルの肩は大きく震えだし、噛み締めるように結ばれた唇は少し歪んで、綺麗な紅い瞳からは大粒の涙が溢れ、ぱらぱらと零れてシーツにぽたぽたと音を鳴らして落下した。その白い手はシーツを拙く手繰り寄せて握り、指先の力は幾重にもシーツに波の皺をつくった。
口を開こうとし、荒い呼吸音以外紡げずにまた閉じる。それを何度か繰り返すカヲルはとてもヒトらしく、幼い少年のようにとても純真な泣き姿だった。
そんなカヲルを初めて知ったシンジは、愛おしさから手を伸ばした。その手は昔とは違い、ちゃんとカヲルに届いた。濡れた頬を指先で撫でて、包み込む。その手にカヲルの震える手が重なる。顔をふたつの手に傾けて眼を閉じたカヲルはとても綺麗だった。濡れた長い睫毛が存在感を増して震える。涙の筋が彼の神聖な響きを強くする。まるで透明な色を湛えた神の遣いのようだった。
シンジは泣きやまないカヲルのその儚さに堪らず、手をそのままにゆっくりと肘をついて上体を起こしてカヲルと向き合った。彼の顔の側に自分の顔を寄せて、おいでよカヲル君、と囁く。カヲルは大きく息を吐いて、濡れた瞳を静かに開けると、彼の瞳に映るのは、彼の救世主。彼の魂に寄り添うために尊い犠牲を払って罪と罰を請け負った、悠久の時の中で想い続けたひとりの少年。
カヲルは崩れるようにシンジの胸に顔を埋めたから、その勢いでまたふたりはベッドに倒れた。幼子が母に抱きついて泣くような仕草にシンジは心を擽られる。彼をとても大切に想う。彼を包み込み、守りたいと想う。
シンジは優しくカヲルを抱いて、彼が思う存分涙を流せるように胸を貸した。カヲルは生まれて初めて咽び泣いた。甘く純真な響きが静寂を満たす。暫くの間、ふたりはそのまま抱き合っていた。
少年たちは新世界に祝福されて、降り注ぐ希望の目醒めに互いの光輪を見つけた。
シンジのシナリオには続きがあった。エヴァに乗る目的。それは使徒の殲滅ではない。使徒は同じ星に辿り着いた尊き生命体。カヲル以外の白き月の使徒はセカンドインパクト無き今は眠ったままだ。アダムとカヲルの肉体と魂は分岐していて、リリスと綾波のそれも分岐していた。アダムとリリスより造られしエヴァシリーズ。それらの最終目的は人類補完計画から大きく針路を変え、白き月と黒き月の共存となった。
長い歳月の掛かる壮大な計画。科学の力で白き月を維持できる天体を発見し、冬眠している使徒を解析し、人類の安全を保ちながらその惑星まで彼らを移送する。その計画をゼーレが仕切り、実行をネルフが指揮する。そのためにカヲルはゼーレに属し、シンジはネルフに属する。気の遠くなる話だが、物理的に同じ惑星での共存は困難な人類と使徒の選ぶ道としては一番妥当だとシンジは思っている。神の悪戯なのか、ひとつの天体に降り立ってしまったふたつの種族は、自らの力で運命を軌道修正する。互いの命を尊重し保全する道を歩んでいく。
「君はすごいよ…それに、すごく優しい。」
陽の光が強さを増す頃には泣き止んで、シンジから続きを語られたカヲルはそう言って吹き出し気味に笑った。
「なんで笑うのさ。」
心外だとばかりにシンジは膨れっ面になる。
「だって、君、僕以外の使徒は嫌なんじゃなかったのかい?」
「怖いだけだよ。それに同じ生き物なんだから闘うのも殺すのも嫌だよ。仕方なくそうしてたんだ。」
カヲルの泣いて赤みを増して潤んだ瞳がとても愛おしそうにシンジを見つめている。
「そんな君だから、僕は君が大好きだよ、シンジ君。」
カヲルが姿勢をずらして、シンジの体の上に密着して彼の体を重ねて、彼の両の手とシンジの両の手をしっかりと重ねて肩の横に置き、指を強く絡ませる。全てに隙間のないようにして、顔だけはお互いを見据えるために空間を残した。触れそうで触れないふたつの唇。
「君が大好きだよ。」
シンジの唇をカヲルの唇が掠めながら言葉を落とす。甘い音色が唇を擽る。
「僕は君に出会えて、本当に幸せだ。」
シンジからの言葉を待たずにカヲルは唇を重ねた。愛しさだけで紡がれた、重ねて繋がるだけの、優しい優しいキスだった。
ーーーーー…
「桜の木だね…」
カヲルが呟く。あれ以来、シンジへの愛おしさから熱情を拗らせて、やたらシンジに触れたがるカヲルは先程絡められたシンジの指を決して離さなかった。恥ずかしさに限界が来てそれとなしに離そうとシンジは手を引いたが、カヲルはきつく手を握り締めてそれを許さなかった。縋るような赤い瞳に青の瞳は降参する。そして貝殻繋ぎに変貌してしまったそれにほんのり汗を滲ませて、熱い繋ぎ目のふたりは校庭を歩いていた。
「カヲル君は満開の桜を見たことある?」
春をとうに過ぎた桜は緑の葉を風にそよがせて、悠然と枝を広げていた。
「まだないよ。日本の桜は綺麗だとは聞いているよ。」
新しい世界の四季のある日本をカヲルはまだ知らない。
「春にね、辺り一面淡いピンクになって、とても綺麗なんだ。次の春はふたりで観に来ようよ。」
シンジはカヲルを見上げて微笑んだ。カヲルもシンジを見つめ返す。同じ熱の眼差しで、見つめ合うふたり。その互いの瞳には、光のヴェールで優しく包んだように輝きを散りばめた鮮やかな世界が映されていた。
ーああ、これが幸せなんだ…
ふたりの瞳が同時に深く瞬く。重なるふたりの世界。
ー知らなかった。君が隣に居るだけで、世界がこんなにも美しくなるなんて…
ふたりの気持ちは隙間なく重なった。
「そうだね。そうしよう。その次も、そのまた次も、君と一緒にそうしたい。」
「僕も…そうしたいよ。」
ふたりの面影も重なる。
「行こう、シンジ君。」
ーふたりの未来へ。
「うん、カヲル君。」
ーふたり一緒の未来へ。
君と一緒なら、
何処だって僕は幸せだから。
僕は君が好き。
それに、
君も僕が好き。
空と海とが堕ち合う時が来たら
赤と青とを眺めてみてほしい
ふたつの色はとても美しく混ざり合い
決して紫にはならないのだから
fin.
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