止まない時を少しだけ遅くする君に
散らない花を手折ろうとする君に 続篇




移ろいの予感


桜は散り緑は深まる。雑節の上ではもうすぐ半夏生。足元に揺れる木漏れ日の輪郭も強まってきた。

カヲルとシンジは今、別々の道を歩む。それは平日の通学路の話。ここら辺で一等の高校に進学したカヲルは寮生活を送っていた。

短い登下校の道のりも密に組み込まれたカリキュラムも彼にはちょうどいい。休日への線路は特急で走りたい。

だって土日には、

「シンジ君!こっちだよ。」

好きな人に会えるから。

今日は土曜。あの卒業式からふたりは連絡を取り合っていた。そして日曜を一緒に過ごすようになった。けれど最近、それだけでは物足りなくなった。

「カヲル君!僕が行くまで待っててって言ったのに。」

シンジの最寄り駅の改札前でカヲルが手を振っている。カヲルの住む街からは随分と遠いというのに、いくら言ってもカヲルは聞かない。

「この方が一時間早く君に会えるからね。」

カヲルは万感の面差しでシンジを見つめていた。淡い花びらの頃から変わらない笑顔。その視線に照れて斜め横を見ると、シンジと同級生らしき女子たちが憧れの元先輩を指差して騒ぎ始めた。

「さあ、行こう。」

それに気づいた白い手がシンジの手を握り歩き始める。周りを気にして緊張した指先と、涼しい顔でそんなふたりを見せびらかすような指先。そのふたつはもう、離れない。


「晴れてよかったね。僕、友達と海に行くの初めて。」

これから電車を乗り継いで海へ行く。初めての遠出だ。泳ぐには早い季節。けれど線路沿いには綺麗な紫陽花が色とりどり咲いているらしい。

「美味しいかき氷屋さんがあるらしいよ。行ってみるかい?」

「うん!楽しみだね。」

それからふたりは会えなかった日々の出来事を話し始めた。もう習慣になっている。メールや電話では埋められなかった距離を埋めてゆく。カヲルはこの時間が好きだ。けれど、

「それでその時、綾波がね、」

こうして他の誰かの話題が出る時、彼の胸はチクリと痛む。後ろ姿を見送っていた時には諦めていたものを、手の届く場所でどう受け流せばいいのかを、カヲルはまだ知らない。その想いは会えば会う程、彼の中に募っていった。

「…ねえ、シンジ君、」

「ん?」

人のまばらな電車のシートで、ぴたりと肩をくつけて唇を耳に寄せる。

「今夜、僕の部屋に泊まってもいいんだよ。」

突然の、含みのある囁き。驚いたシンジが頬を真っ赤にして爪先まで固まった。

「ぼ、僕、明日の勉強道具、持ってきてない、もの…」

その意識した様子が可愛くて、胸がすうっと静かになる。笑みがこぼれる。

「ふふ。」

「あ、からかったな…!」

からかってはいないけれど、そういうことにしてカヲルは可笑しそうに笑った。もう、とシンジが怒ったそぶりでカヲルから一歩離れる。席を横に移動する。そんな小さな悪戯でシンジが自分の目も見られないことが嬉しい。カヲルはシンジをふざけて追いかける。座りながらお尻だけでずれながら、くっついて、離れて、くっついて、離れて、端にぶつかって、シンジはぎゅっと手すりとカヲルに挟まれてしまった。勢い余ってふたりは密着してしまう。

「カヲル君のいじわる、」

すねて呟いた口が甘く尖っている。瑞々しくて淡い唇。その何気ない横顔に今度はカヲルが意識してしまう番だった。鼓動が早くなる。その横顔を振り向かせて、小さな顎を持ち上げる自分を想像した。

そんな想像をしても、ふたりはまだ友達だった。好きという言葉の含む意味の狭間で、曖昧な距離を保つ。そんな居心地の良い関係でいた。

それなのに。側に居られるだけでいい、そういう想いとは裏腹に、どんどん欲深くなってゆく自分をカヲルはどうしていいのかわからない。

「日曜…」

急に静かになったカヲルを横目で窺い、シンジの言葉が宙に浮いた。

「頼んじゃってごめんね。迷惑だったら言ってね。」

「まさか、迷惑なわけないよ。僕は君と一緒に過ごせて嬉しいんだ。」

とても、そう囁いてすぐ側の手を握りたい。さっきまでは何のためらいもなくそう出来ていたのに、何故か、今は、触れられない。全身が痺れてゆく。こんな時、カヲルは途方もない切なさに襲われるのだ。

微妙な空気に包まれて、会話は途切れ途切れ。それでも焦るとは違って、心地好く流れる時間。恋人なら首を傾け寄り添い合うかもしれない。こんな気持ち、他の誰にも持ったことはない。

ーあたたかい…

カヲルの唇が薄く緩む。その時だった。

「あ、海…」

電車の窓の外、駆け抜けてゆく景色は開け、目の前には一面の海が広がった。



寄せては返すその面差し


それはひと月前の電話からだった。

『カヲル君、勉強教えてくれないかな…』

あの、頼みがあるんだけど、と遠慮深くかしこまった電話口に何事かと固唾を飲んだカヲルだったが、正直拍子抜けした。

『もちろん。何がわからないんだい?』

けれど、カヲルの知らないところで、ある決意がたまごのよう産み落とされたのだ。

シンジは毎週日曜、カヲルに勉強を教わることにした。そうしたいと思ったのは電話やメールでカヲルから日常の話を聞くようになってからだった。

彼の報告には明らかに欠けているものがある。周りの人間だ。クラスメイトや上級生の女の子は、彼の話の何処にもいない。いないはずがないのに。

ー僕みたいに仲良い友達がいるのかな…
ー好きな人とかできちゃうのかな…

そんなこと、内気なシンジには聞けなかった。メールを待ち侘びて何度も携帯を気にする。電話したくて画面の番号を押そうとして迷惑だろうと思い留まる。そんなことを重ねて、彼は自分の中での変化に気づき始めていた。

シンジはカヲルを慕っている。それは友達として、だと思っていた。でも、他の友達には想わないことを想ってしまう。街路樹の葉の数が増えるほど、その想いは増えてゆく。想いは彼から眠りを奪った。そして眠れない真夜中に、シンジは思い知らされる。

カヲル君と同じ高校に通いたい。そしてずっと僕を見ていてほしい。

自分の願いを理解した時、シンジは静かに涙を流した。そしてその涙の理由はカヲルには絶対に内緒だと決めた。もしも報われなかったら。やっと手にしたこの幸せまで失ってしまう気がしたのだ。


「綺麗…」

駅から紫陽花通りを歩くと電車から見えていたあの海が現れた。海開きをしていない砂浜には人も少なく、露店もない。たださざ波と潮風が満ちていた。海面が陽を零したようにキラキラと夏の予感を知らせていた。

「波の方まで行ってみよう。」

「うん。」

ふたりはコンクリートの階段を下ってゆく。そして裸足になって歩き出した。陸と海の出会う場所へ。

「あ!カニがいる!」

寄せては返す波の襞に、さらさらと砂粒が流れてゆく。さっきより足の裏が埋もれて、気持ちいい。

「何書こうかな?」

そうして悩んでから、シンジはカヲルの名前を書いた。消えてしまう。それを真似してカヲルもシンジの名前を書く。同じ速度で、消えてしまう。

「あはは…ねえ、」

そうシンジがカヲルを呼んだ時だった。また、あの顔。カヲルは万感の面差しでシンジを見つめている。時が止まったように、見つめている。

ーどうしてそんな顔するの?

一緒にかき氷を食べた時も、そう。シンジの味をすくって食べさせてあげたら、そんな顔をした。

ーまるで…僕しか見えないみたいに。

紫陽花を立ち止まって眺めていた時も。シンジの手を引いたカヲルは振り返り、そんな顔で何か言おうとした。そして何も言わなかった。

その熱っぽい瞳を見つける度、シンジは息が出来ない程、苦しい。勘違いさせないで、そう言う代わりに瞬きをして目を逸らす。気づかないふりをする。心が吐露してしまう前に。

好き。

そう伝えることが出来たらどんなにいいだろう。

「そろそろ、帰ろっか。」

いつの間にか、世界は茜色に包まれていた。とても切ない色だった。



新しい季節へ


帰り道は行きより少し長く感じた。シンジの横でカヲルはずっと難しい顔をしている。彼が無言なのは疲れているせいではない。

『来週も、こうして出掛けないかい?』

道路には電燈がチカチカと光っていた。陽の沈む紫の刻。コウモリや蛾が横切り、積み荷を背負ったトラックが忙しないエンジン音と共に通り過ぎてゆく。時化た潮風。駅も蛍光灯を点して風情を変えている。昼間とは違う街に来たような奇妙な感覚に襲われた。嬉しい。切ない。そんな綯い交ぜな心がシンジから見える景色に暗いフィルターを掛けていたのかもしれない。

シンジには言わなければならないことがあった。来週の土曜はクラスメイトのトウジたちに誘われて映画を観に行く。最近カヲルと会うようになってから誘いを断り続けていたら、彼女でも出来たのかと詮索された。だから、カヲルとの関係に気づかれたくなくて、首を縦に振ったのだ。

シンジからの返事が遅くて、カヲルは急に黙りこくって前だけを向いていた。そして、返事を背中で聞いてから、抑揚のない声で、そうか、とだけ呟いた。

あれからカヲルは浮かない顔をして何処ともわからない遠くばかりを見ている。シンジを見ない。そんな横顔が辛くてシンジは肌が冷たくヒリヒリするのを感じた。電車の掲示板が知らない駅ばかりを表示するので迷子になった気さえした。

「もうすぐだね…」

車内アナウンスでカヲルの最寄り駅の名を聞いて、シンジが呟く。

「送っていくよ。」

「そんな、もう遅いから、」

「送っていく。」

断定的な声。でも行きの駅から折り返したらカヲルの住むローカル駅の終電に間に合うのかわからない。だからシンジは電車が止まると無理やりカヲルを引っ張ってプラットフォームへ降りていった。

「次の電車で帰るね。」

カヲルの顔も見られずにそう告げる。シンジは電車の時間を確認した。ふたりが一緒にいられる時間はあと、二十分。

「今日は楽しかったね。」

人気のない駅に言葉が寂しく響いてしまう。会話にならない。そんなカヲルは初めてでシンジは焦った。こんな空気のまま別れて明日に持ち越してしまいたくない。

「あ、明日は数学を…持ってくね。」

応答はない。指先が冷たくなる。目が濡れて熱くなる。

チクタクと無情にも時は過ぎてゆく。シンジは生きた心地がしない。言葉を探す。見つからない。カヲルの心がわからない。

そうしているうちに駅は次の電車が数分後に到着すると知らせた。それを来てほしくないと思うふたりしか居ないのに。

けれど。そんな重苦しい沈黙を破ったのはカヲルだった。

「シンジ君…」

線路の先には電車のライトが人工的なスピードで揺れている。

「なに、」

泣くのを我慢していた喉は掠れていた。

勇気を出して見上げてみると、そこには初めて見る、余裕のないカヲルがいた。心がぽろぽろ溢れてゆくようなぎこちない笑顔。笑顔なのに哀しそうで、万感の面差しの正体が解けてゆく。唇がためらって、喉が鳴る。声にならない想い。別れの電車が到着するのは、もうすぐ。もうすぐで、もう声は届かない。

「ふたりが恋人なら、もっと会ってくれるかい?」

カヲルはシンジへと一歩を踏み出した。そして、煌々とした夜の電車の流れる光を浴びて、ふたりはキスをした。

それはあまりにも完璧な一瞬で、シンジは夢じゃないかと思った。

「…またね。」

その夢から醒める前に、世界は発車の合図を知らせる。シンジはカヲルに背中を押されて電車に乗った。そして人混みに隠されてしまう彼に小さく手を振って、カヲルはシンジに背を向けた。

電車は機械音を撒き散らし、発車した。

ー自分を抑えられなかった…

果てしない心細さに途方に暮れる。シンジ君は嫌だったかもしれない。取り返しのつかない今に愕然とする。

ーでも僕は、シンジ君が、恋しい。

シンジは泣きそうな顔をしていた。人は嬉しくても哀しくても涙する。カヲルにはシンジの心がわからない。

苦しい。

カヲルは目を閉じた。


「カヲル君、」

そして驚いて振り返る。

「シンジ君…」

そこにはもういないはずの、シンジがいた。

「僕、君に話したいことがあって。」

肩を上げて呼吸しているシンジ。その声は震えていた。元々小柄な彼をより小さく感じる。そう感じながら、カヲルは怖くて立ち竦んでいた。

「勉強教えてほしいって言ったでしょ。」

「うん…」

「それはね、行きたい高校があるからなんだ。」

少し拙い早口で。一度零れ落ちた想いは、堰を切って溢れ出す。

「カヲル君と同じ高校に通いたくて。僕には無謀かもしれないけど、でも、どうしても行きたくて。」

それはもう泣き声に変わっていた。言葉が涙を連れてゆく。

「どうしても行きたいのは、カヲル君がいるからで。どうしてカヲル君がいるからかって言うと、僕は…」

嗚咽混じりの想いを歪んだ唇が繋げてゆく。

「僕は、」

濡れた顔を腕で拭って拳を握り締めながら、シンジは一生懸命足で踏ん張っている。すべてはこの想いのために。

「君が好きなんだ。」

そしてシンジは泣いてしまった。肩を激しく上下させて、項垂れて。彼は自分を超えた勇気で最後までやり遂げた。心を吐露して、これまでの長い道のりが胸を駆け巡り、もう感情が抑えられない。

あの桜のあられの中で聞いた言葉と同じなのに、それはより深く、重く、明らかな想いを宿していた。少しだけ遅くなった時の中で、あの美しい世界の中で、生きていきたい。ただそれだけでいい。ふたりは同じ幸せを願っていた。

だからカヲルはシンジを抱き締めた。もう離れられないと感じるくらい強く抱き締めた。

「僕も、ずっと、シンジ君が好きだよ。」

あたたかい。なんでこんなにあたたかいんだろう。ふたりは互いの体温に新しい季節を感じた。


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