これは僕の小さい頃の話。君は信じられないかもしれないけれど、少しだけ、そう、今夜見る夢の間だけでも、ここに書いてあることを信じてみてほしい。
まず僕は、僕の友達のことから話さなければならない。彼は僕たち人間とはひと味違った子供だった。君の今、想像したオオカミ人間や緑色のカッパとは違って、見た目はごくごく普通の男の子。ただひとつ、とびきり綺麗な男の子だった。白い肌に赤い瞳。妖精のような軽やかな銀髪。僕は同じ男の子なのに彼を見るといつもドキドキしていたことを、今のうちに告白しておく。いずれそれは読んでゆくうちにわかってしまうことだから。
鯉には滝を登りきると竜になるという言い伝えがある。それが今日、五月五日の習わしの由来らしい。
さあ、不思議な物語の、はじまり、はじまり。
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第三新東京市にひとりの男の子がいた。先月、第二東京市から引っ越してきたばかり。彼にはまだ友達がいなかった。
ついでに彼には両親もいなかった。正確には遠くにしかいなかった。お母さんはきっと空の上に、お父さんはどこなのかもわからない。彼は心の具合を見てくれるセンセイに育ててもらっていた。そしてそのセンセイも都合が悪くなってお父さんのいる街に来たのだけれど、充てがわれた部屋には誰もいなかった。白衣の女のひとだけがたまに様子を見に来てくれた。彼女はハカセと呼ばれていた。お父さんは一度もそこには来なかった。
そんなひとりぼっちの彼の名は、シンジ。誰も彼に話しかけないから、きっと彼しか彼がシンジという名前だってことは知らない。
シンジには居場所までなかった。だからなるべく誰にも迷惑をかけないようにして暮らしていた。まだ十にもなっていないのだけれど、自分の身の回りの世話はきちんと自分だけでこなした。そしていつでも出て行けるようにと、少ない荷物をカバンに詰めたままでいた。
そんなある日、住宅街に大きな金属棒が立ち並ぶようになって、シンジはまたあの日が来るとうつむきながら通学路を歩くようになった。その予感は的中した。しばらくして青空の下、一面には大きなコイが泳ぐようになる。走っても走っても、色々ないろかたちのコイがシンジの目に飛び込んできたのだ。
こいのぼり。それは五月五日の端午の節句に男の子の成長を願って立てられる。その子を愛している家族が、立てるのだ。
その祝日は連休のあいだにある。だからクラスメイトは家族との予定を高々に自慢し合う。出かけるのが当然の彼らは目的地の面白さで競ったりする。シンジはそんな会話が聞こえる度に耳をきっちり両手でふさいだ。それなのに、出かけたら留守になる家でさえ、この家の男の子がどれだけ愛されているのかを、魚を吊るして大きなのぼりで自慢してくる。
今日、シンジはとても悲しかった。晴れた休日にひとりで部屋にいるのもつらくて散歩に来てみたけれど、失敗だった。いや、わざとみじめな思いをするために靴をはいたのかもしれない。
隣の席の男の子は、お皿洗いの手伝いをしただけでお母さんからほめられた。
ぼくは毎日しているのに。
前の席の男の子は、洗濯物をたたんだだけでご褒美におやつをもらった。
ぼくは毎日しているのに。
小さな指先は冷たい。震えている。その手をまじまじと眺めていると水滴がポタリ。でも、シンジが泣いても誰も気づかない。誰もシンジを見つけてくれない。
冷たい手をポケットにいれると、一本の輪ゴムがあった。
知らない家の塀の上にはコイが風に揺れている。車庫はからっぽ。真っ昼間なのに戸締まりがきっちりしてある。きっと出かけているんだ、家族で。
家族で。
シンジは輪ゴムを指にかけた。そしてもう片方の手でそれを引っ張って、コイへと向けた。
「バン!」
心臓が爆発しそうでのけぞるシンジ。背後で誰かが声をあげたのだ。思わず手を離していしまい、気の抜けたよう輪ゴムが塀にぶつかって、音もなく落ちた。
「何しているの?碇シンジ君。」
振り返ると、そこには知ってる男の子がいた。同じ学校の一つ上の上級生。廊下ですれ違う度にみんなが彼を見つめている。あんまりきれいで、他の星の生き物みたいに憧れている。シンジもそのひとりだった。
「泣いているのかい?」
シンジが声も出ない間、その男の子はじっとシンジを観察した。
「…ぼ、ぼくの名前、知ってるの?」
「もちろん。」
シンジはものすごく驚いた。自分以外で自分の名前を知ってるひとがいたなんて。
そして最初の質問を思い出して、さあっと頬が熱くなる。何しているの?って聞かれた。僕がしてたこと、わかっちゃったかな。シンジは急に恥ずかしさでいっぱいになった。
「恥ずかしがることはないよ。」
「え?」
「そうだ、シンジ君。これから僕は高台に行くところなんだけど、よかったら一緒にどうだい?」
そんな風に誰かに誘われたこともないシンジは固まった。
「そうだ、自己紹介がまだだったね。僕は渚カヲル。さあ、行こう!」
するとまだ返事もしていないうちにカヲルはシンジの手を引いて駆け出したのだ。だからシンジはなすがまま、カヲルについていくことにした。
高台からは大きな街が一望できた。今日はいっそうカラフルに色づいている。その点々が何だかわかると、シンジの胸はまたチクリと痛くなった。
「さて。そろそろ始めようか。」
「はじめる?」
「こいのぼりだよ。」
それは今、一番聞きたくない言葉、なのに。
「い、いいよ、ぼくは…」
「さあ、これを持って。」
さっきからぼくの言ってることは聞こえているのかな、とシンジは心のなかでひとりごちって口を尖らせた。
「…聞こえているよ。」
そうしてきょとんとしているシンジへとカヲルがにっこり手渡したのは、釣り竿。シンジの小さな手のひらに、ずっしりと重い。
「さあ、糸を垂らしてごらん。」
「どこへ?」
辺りには水の張った場所なんてない。あるのは道路のアスファルトと、高台の淵に沿って巡らせてある欄干くらいだ。すると、カヲルはシンジをその白い柵の前へと連れていった。そしてそのまま糸を引いて、宙へとそれを放つ。
「そう、その調子。」
何がその調子なんだろう。シンジは首をかしげた。
「釣りが上手だね。いいよ、さあ、そろそろ引いてごらん。」
「引く?」
「釣るんだ。こうやって。」
カヲルは釣り竿を思いきり引き揚げる格好をして見せた。カヲルが何をしようとしているのかシンジにはわからない。けれどシンジはよくわからないまま、それを真似したのだった。
「えいっ!あ、あれ?」
何にもない空気なのに。ぐぐっと何かが抵抗している。
「もっと、もっと強く!」
もう一度やってみる。けれど何かが引っかかっているようで、ピンと糸はまっすぐに伸びるだけだった。
「もっと!」
ぐいぐいと力いっぱい持ち上げてみて、気づく。糸はむしろ引っ張られていた。
「シンジ君!もっとだ!」
歯を食いしばっても、だめだ。動かない。
「もっと!全力で引き揚げるんだ!」
だからシンジは足を思いきり踏みしめて、力の限り全身全霊で、釣り竿を後ろへと、引っ張り上げたのだった。
「わあっ!」
すると、見たこともない光景が一面に広がった。四方八方から突風が吹き荒れて、街中のこいのぼりのコイがいっせいに、天を目指して空高くに舞い上がったのだ。まるでシンジの釣り竿に釣られたように。
激しい風にあおられてさらわれそうになるふたり。カラフルな炭酸の泡みたいなこいのぼりの大群が上昇してゆく。飛び出した勢いでたなびいたコイの音はまるで豪快な滝のよう。はためきの重なる音はすごい迫力で、小さなシンジを圧倒した。足がすくむ。
「全部、君のこいのぼりだよ!」
その轟音のなかでカヲルは叫ぶ。
「君が釣ったんだ!」
こんなにたくさんのこいのぼりが僕のもの?
「そう!誰よりも頑張ってる君の幸せを願うこいのぼりだ!」
水の流れに逆らうように上へ上へと泳ぐコイはまるで生きているみたいだった。何百もの尾ひれが揺れて、目がキラキラと太陽に輝いて、鱗は鮮やかな絵の具をちりばめたみたいで、とても美しかった。
「これをもらうのは君であるべきだ!」
カヲルは叫ぶ。
「君であるべきなんだ!」
けれど。
「ありがとう…でも、これはみんな、他の子のものだよ。」
そう。その子を想うお父さんやお母さんが飾ったんだ。
ぼくのじゃない。
「…君は、」
あれほど欲しがってたじゃないか。
「それでいいのかい?」
あんなに悲しがってたじゃないか。
「うん。」
シンジの瞳はとても澄んで煌めいていた。
「こんなにきれいなこいのぼりが見られて、ぼく、それだけですごくうれしいんだ。だから、大丈夫。」
そして本当に幸せそうに笑ったのだ。
「ありがとう…カヲル君。」
カヲルもそんなシンジを見て笑っていた。泣いているようにも見えた。
「…なら、これは僕からだよ。」
カヲルはポケットのなかから一枚の折り紙を取り出して、シンジの掴んでいる釣り竿の針にそっとぶら下げた。それはコイのかたちをしていた。高く掲げてたなびかせると、それはシンジにとって、生まれてはじめてのこいのぼりとなったのだ。上空にあふれている大きなコイの群れよりも、その小さなコイの方がシンジには嬉しかった。
だってそれは、カヲルがシンジの幸せを願って、シンジのためにくれた贈り物なのだから。
そんなふたりの頭上をピチピチと滝登りしていたコイたちは、気持ち良さそうに青空を泳いだあと、やがてそれぞれの我が家へと帰っていったのだった。
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この不思議な物語はこれでおしまい。
今思えば、よくあんな魔法のような景色の中であれくらいしか驚かなかったものだと思う。でも僕はまだまだ子供だったし、目の前のことを素直に受け入れるのは子供の才能だ。あの時、僕は瞬時に理解したんだ。カヲル君は不思議な力を持っているって。彼は天使だった。ちゃんと生きている天使だったんだ。
それから僕の天使は僕にたくさんのものをくれた。カヲル君は僕がほしいものを指差して、君にあげるよ、と言ってくれた。星も、月も、夕焼けも。だからそれはすべて、僕のもの。その言葉だけで僕はそうだと信じられた。
僕がこれを書いて君に伝えたかったのは、世の中は残酷で不公平で、誰かが簡単に手に入れているものが手に入らないなんてこともたくさんあるけれど、それでも前を向いていたらいつか思いがけないものを手に入れられるかもしれない、ということ。今はまだ信じられないかもしれないけれど、いずれ君にもわかると思う。
そして、これはどのお話にも言えることだけれど、物語はあれでおしまいになっても、現実はそこでおしまいにはならないんだ。
「シンジ君、入るよ。」
僕が伸びをしているとノックが鳴り、返事をするとドアが開く。そこから僕の恋人が顔を出した。
「仕事の邪魔しちゃったかな?」
「ううん。今終わったところ。」
僕はペンを机に置いた。その恋人は手に長い葉っぱの束を持っていた。
「それは?」
「菖蒲だよ。お風呂に入れようと思ってね。」
菖蒲湯。端午の節句に行われる風習だ。
「取ってきてくれたの?いいのに。」
「君がしてもらえなかったことを僕がすべてしてあげると言っただろう?」
そう。そうやって僕は様々なことを恋人にしてもらった。誰よりもしてもらった。
「…ねえ、二十年前の今日、君は僕がああするとわかっていたの?」
僕は壁に飾ってある古ぼけた折り紙を指で撫でて、君に問う。コイの群れをそれぞれの家に見送った景色を思い浮かべて。
「そうだよ。君はみんなの幸せを考える。誰よりもやさしいひとだからね。」
折り紙のコイには、大変よくできました、と花マルが描いてあった。僕はあの時、はじめて褒めてもらったんだ。僕の頑張りをずっと見てくれているひとがいた。だからもう、
「ありがとう…カヲル君。」
僕はひとりじゃない。
すべて、君のもの
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