伏し目がちな赤の瞳


物事には終わりがある。全てにおいて、平等に、例外なく。

少し前までは霜がおりていた。頬をうつ風は冷たかった。けれど気がつけば、桜の花が咲き乱れている。体育館の窓から注ぐ陽気もあたたかい。

何故、歴史は繰り返すのか。終わりを約束された命。その命は自ら知らずに廻りつづける。

卒業、カヲルにとって今日は特別な意味を持っていた。

中学に入って二年目の春、カヲルはようやくシンジを見つけた。
入学してきたシンジは全てを手に入れていた。平和な世界、やさしい家庭、振り向けば友達が、シンジに微笑みかける。不平を口にしたくなるほどの穏やかな日常。その真ん中でシンジは幸せそうに笑っていた。心の底から疑いもなく笑う彼をカヲルははじめて瞳に映した。
そして、彼だけの所持する記憶は、彼に真実を教えたのだ。

カヲルはもう自分の役目は終わったのだと悟った。彼は嬉しかった。シンジの幸せがカヲルの幸せ。だからその幸せを壊さないよう、カヲルはいつも遠くのシンジを眺めるだけで、充分だった。

充分、カヲルはそう口にする。けれど、彼の本当の心は、そうではない。

嬉しさの裏側で切なさが彼を染め上げた。息も出来ないほど、張り詰めた痛みだった。廊下でシンジとすれ違っても声すらも掛けられない。カヲルはつらそうに目を逸らす。そうやって彼は、シンジを見ないようにして、時をやり過ごした。彼は自分の心がわからずにいた。

瞳を閉じて自分にも内緒で、それでいいのかと自問する。禁じられたわけではない。でもカヲルは、自分が触れるとシンジの幸せが壊れてしまうような気がしていた。それがたまらず怖かった。だから彼は自分に言い聞かせるのだ。これでいいんだ。やっと彼は幸せを手に入れられたのだから。

もう、僕の出る幕ではない。悲劇は終わったのだ。

その強がりは今日まで続いた。卒業生がピアノの旋律に合わせて別れの歌を口ずさむ。ひとつひとつの終わりに決着をつけようと、三年間を巡る想いを声に乗せて、前を向く。カヲルの白い指先がグランドピアノを滑ってゆく。その和音に隠れてこぼれる音色はたったひとりを想い描く。ずっと忘れられなかった、きっとこれからも忘れられない、唯一のひと。彼はその姿を在学生の列のなかで最後に見つけようとする。その青の瞳がまっすぐにカヲルを見つめていた。指先は最後の一音をそっと奏でる。さようなら、と告げるように。



遠くを見つめる青の瞳


物事には理由がある。全てにおいて、無情に、容赦なく。

厳しい冬を越え、夢のような春へ。誰もが待ち望んだ季節。けれどただひとり、校庭に佇む彼はそうではなかった。クラスメイトが、帰るわよ、というと彼は、僕はもう少し見てる、という。

「何をよ。」

「…桜。きれいだから。」

いつも登下校をともにする仲間はそこで散り散りに帰路についた。気持ちいい午後に何をしようかと伸びをして。ひとりくらいこの日に感傷に浸る友達がいたっておかしくはない。

シンジは桜の木を眺めていた。けれど本当は、その先で春色に囲まれているあるひとりを眺めていた。その先輩はさっきから制服のボタンを欲しがる下級生たちをすげなく扱っていた。そんなに嫌なら適当にひとりにあげてしまえばいいのに、なんてシンジは思い、木陰に隠れた。
心臓に一番近いそのボタンは、二度と会えない大切なひとに想いを伝え形見として渡す風習を、この日本で古くから芽吹かせていた。

誰もが憧れる先輩、カヲルをシンジはずっと前から知っていた。どれくらい前からかと聞かれたら、彼は返事に困ってしまう。頭が変になったと思われてしまうだろう。何故ならシンジはカヲルを生まれる前から知っていたのだ。

この時代ではじめてカヲルを見つけたのは中学に入学してまもない頃だった。廊下でカヲルを見つけた時の感動を、シンジはずっと覚えている。君も生まれてきてたんだね、そう思う彼は今にも泣き出しそうだった。嬉しさに目眩がした。

けれど、カヲルはシンジを見ても目を逸らし、そのまま何事もなく通り過ぎたのだ。カヲルの銀髪が目の端へ消えるのと涙がこぼれるのは同時だった。

そこでシンジは悟ったのだ。自分が欲しかったものを全て手に入れたかわりに、自分がまた欲しいと望んだものが失われてしまったのだと。世界はうまくできている。天秤は片方が下がれば片方は持ち上がるのだ。手の届かない高さへと。それはとても残酷な仕打ちだった。

授業中の教室で、放課後の下駄箱で、シンジはふとした瞬間にカヲルを目で追った。カヲルに気づかれなくても、見えなくなるまでずっと追った。カヲルはいつもひとりでつまらなそうに前だけを向いていた。シンジの知っているカヲルとは違って彼は決して笑わなかった。同じひとなのにまるで違うひと。それがシンジには苦しかった。

けれど、そんな日々も終わってしまう。今日、カヲルは卒業する。シンジからとても遠い場所へと去ってしまうのだ。だからこうして遠くからカヲルを眺めるのも、今日で最後。シンジはそう胸に刻んで、その後ろ姿を瞳に焼きつける。もう決して忘れないように。



今を生きる白の光


ようやくカヲルの前から最後の下級生が引き下がった。泣きながら頭を下げ風のよう走り去る。どんなに慕われていても一方通行の想いには答えられない。カヲルの心にはもう確かなひとりが花のよう笑っているのだ。彼は校舎の時計を見た。もう式も終わって随分経つ。在校生はとっくに下校しただろう。静まり返った校庭を見渡し、カヲルは呆然とうつむいた。

ー最後に、シンジ君を見たかった…

身体から力が抜けてゆく。もう全て終わってしまったのだ。彼はこれから先、シンジを見つめることを自分に許すつもりはなかった。

ー大丈夫。シンジ君はこれからも幸せに生きてゆく。

だからもう、僕はいらない。そう噛み締めた彼のまわりには淡い花びらが流れてゆく。そのひとつを宙で掴み、瞳を閉じる。彼は自分も儚く散って消えてゆく気がした。抗いようのない痛みで痺れてゆく。これでいいんだ。彼は何度目かの台詞を呟いた。そしてゆっくりと、顔を上げて、歩き出す。ゆく宛てもない未来へと。


淡い桜のあられの浴びてカヲルが歩き出すのをシンジは幹の影から眺めていた。一歩一歩、カヲルが小さくなる度に、シンジの心臓は大きく脈打つ。

ーカヲル君が行っちゃう…

もう二度と会えない、そう想うと追いかけたくなる。待って、と叫びたくなる。けれど、足がふるえて動けない。

ーこのままいい想い出のままで終わった方がずっといいんだ…

もしもあの下級生たちのように冷たくあしらわれてしまったら。そう考えるだけで生きた心地がしない。シンジにとってカヲルは絶対に大事な存在なのだ。どの世界でも変わらない、美しいものなのだ。だからシンジはじっと耐える。

けれど、これでいいのかな、と自分に問う。僕は後悔しないのだろうか。

そう考えているうちにカヲルは消えてしまった。
もうそこには桜しかない。

「あ!カヲル君!」

いなくなった彼を呼びながら、シンジは駆け出した。

「待って!カヲル君!」

まだ答えが出てないのに。シンジは焦ってカヲルを探す。

全速力のなか、別れのピアノを弾くカヲルをシンジは胸に描く。彼は最後の一音の前に、シンジに向かって微笑みかけた。それは気のせいかもしれない。けれど、その時シンジは、本当のカヲルを見つけた気がしたのだ。

だからシンジは、何もしないなんて、できなかった。あふれてくる涙が止められなくて、春の風に浮かんでゆく。


校門の前、自分を呼ぶ声がする。そうしてカヲルが振り返ると、そこにはシンジが息を切らして立っていた。

「あ、あの…」

シンジはか細い声でカヲルを呼び止める。膝がふるえる。

「…やあ。どうしたんだい?」

「えっ…と、」

顔を横に向けて頬をぬぐい、恥じらうシンジ。答えに迷っていると、カヲルがシンジへと近づいてきた。

「これかい?」

カヲルは困ったように笑って第二ボタンをつまんでみせた。今日、カヲルはずっとこれを守っていたのだ。彼は平静を装っていたが、さっき手のなかの花びらに願ったひとが目の前に現れて、その心臓は早鐘を打っていた。

たとえシンジが首を横に振っても、彼は同じことをしただろう。シンジが頭が真っ白なままわけもわからず頷くと、カヲルはその胸のボタンをちぎった。そしてもう一歩、シンジへと歩み出る。

赤の瞳が青の瞳を見つめるその刹那、
ふたりは互いの瞳に自分を見つけたような気がした。
時を超えた記憶の重なり、
それはまっさらな時のなかで、再会を果たしたように揺れていた。
でもそれは、胸の奥に描かれた心象。確かな情景ではないと、ふたりは知っている。
今あるのは、こうしてただ言葉を失くして見つめ合う、先輩と下級生。
僕らはいったい何ものなんだろう。
過去は口に出してはいけないように、今を生きるふたりの間に横たわっていた。

シンジが驚き立ち尽くしていると、カヲルはそっと目を逸らした。そして、目の前の手のひらにボタンを渡すのを言い訳に、最後だからと、シンジを小さく抱き寄せた。そして触れ合いそうな距離、耳許で、深呼吸して、こう告げる。

「今までありがとう、碇シンジ君。」

シンジの手にはしっかりと、カヲルの鼓動といつも近くにいたそのボタンが握られていた。そしてふたりが離れると、強い春の風が桜を連れて、時を少しだけ遅くする。
ふたりだけの世界は美しい春だった。カヲルはそこで、とても幸せそうに笑ってから、シンジにゆっくりと背を向けた。その笑顔はあの時代のよう、とてもとても綺麗だった。そしてぽかんと動けないままのシンジを置いて、カヲルはまた歩き出す。後ろ髪を引かれるように、けれど、先へと進んでゆく。

「…これでいいの?」

シンジは手のひらのボタンを見つめ、寂しそうな背中を見つめた。でもそのふるえた響きは自分に向けて言っているようでもあった。

「僕は、カヲル君のなかでは終わっちゃったの?」

「…僕はもう、君には必要ない。」

それを言葉にするのはとても苦しいことだった。

「どうして?」

「君はもう、僕がいなくても生きてゆける。」

だからせめて、秘めた想いをボタンとして贈ったのだ。カヲルは痛みに顔を歪めた。

シンジは言葉に詰まってしまう。確かに、そう。カヲルがいなくても、シンジはきっと生きてゆける。今までそうしてきたのだ。もう世界は敵ではない。そばに誰もいない世界ではない。でも…願わずにはいられない。ずっと忘れられなかった、きっとこれからも忘れられない、唯一のひと。そんなたったひとりと生きることに、理由は必要なのだろうか。

シンジはカヲルへと歩いてゆく。しっかりと前を向いて。

「ただ、一緒にいたいってだけじゃ、ダメかな?」

触れそうで触れない背中に向かってささやく。

「僕はずっと、君の側にいたい。カヲル君が好きだから。」

ふわりと額が肩にあたるやさしい感触。そのぬくもりに、カヲルを流れる血潮が新しい感情を宿してゆく。それはとても尊く清らかで、散らない花のようだった。

振り返り見れば、ずっと求めていた瞳がある。輝きのなか、彼のまわりには淡い花びらが流れてゆく。そのひとつは愛しい目の前の頬にとまる。淡い春の貼りつくその肌に触れてみれば、抗いようのない痛みで痺れてゆく。だからもう、彼は意固地になるのをやめた。彼は何度目かの台詞をもう呟かない。そしてゆっくりと、顔を上げて、歩き出す。いつまでも変わらない大切なものへと。



散らない花を手折ろうとする君に

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