光風に祈る


「僕は人と関わるのが苦手なんだ。」

膝を抱えたシンジは憂鬱な声でそう呟いた。独り言のようだ。

「なら、僕はどうだい?」

けれど、それをきちんと拾ってくれる相手がいる。カヲルはちょうどいい距離でシンジの横に同じように膝を抱えた。肩の触れそうで触れないくらいの、馴れ馴れしくはないけれど寂しくもない、この心の膜一枚分の距離感がシンジはたまらなく好きだ。

「カヲル君は…特別だもの。」

シンジはしゅっと火照る頬を腕で隠した。耳たぶまでは隠しきれずにカヲルはその赤を愛おしそうに眺めている。光栄だよ、とその熟れた耳もとで囁けば、くすぐったそうに縮こまる小さな背中。

「僕と他の人との違いはなんだい?」

「…皆、カヲル君みたいにやさしくはないよ。」

「例えば?」

そう切り返されるとは思わなくてシンジがぎょっとして隣を見れば、カヲルは本当にわからないという風だ。だから仕方なしにシンジは、慎重に言葉を選んで説明するハメになった。

「例えばって…例えば、僕に関心がなくって、サングラスまでしてるから何考えてるのかもわからなくって、困るひととか…僕のこと、いつもひどく言って僕のお弁当のおかずまで勝手に、食べちゃうひととか…エレベーターで一緒になるといつも貧乏ゆすりをして、チッて舌打ちして、僕をギロッと睨むひととか…僕はどうしたらいいかわからなくなるんだ。」

悪口になっていないか不安で匿名性を保ちながらも最大限の心遣いでごもごもと口にしてみる。けれど、

「それは、シンジくんのお父さんと、セカンドチルドレンと、ネルフ本部中央作戦指令室付二尉の青葉さんだね。」

すぐに鋭い洞察力で言い当てられてしまった。最後のはどうしてわかったんだろう。なんだかちょっと胸のあたりがヒヤッとする。

「他には?」

え、とシンジはたじろぐ。

「ま、まだ?」

「だって君は皆と言ったのにまだ三人しかいないだろう?」

それはそうだ。シンジはドキドキしながら続ける。なるべく特定されないように。

「僕よりもずっと年上なのに家事もしないし寝相も悪いし当番を決めたのに仕事のせいにしてゴミも捨てないし…たまに作るカレーがゴムみたいな味だし…」

「葛城三佐だね。」

「いつも会う度に将棋しようって誘われるけど、僕将棋知らないっていつも断ってるのに…やっぱり忘れやすいのかな…」

「冬月副司令だ。」

「からかっていきなり僕にキスしようと迫っ」

「加持リョウジ。」

「すごいや!カヲルくんはなんだってわかっちゃうんだ!」

シンジは変なところで感心した。自分を見守ってくれている気がして胸がぽかぽかした。

「彼らと僕の違いはなんだろうね?」

「皆、何考えてるかわからないもの。」

「僕の考えはわかるのかい?」

シンジはちょっと考えた。目の前の眩しいくらいやさしい笑顔。なるほど、全くわからない。

「わからないけど、カヲルくんは…」

僕を裏切らないから、と言おうとしてやめた。勇気がなかった。

「…僕のこと、嫌いじゃない…でしょ?」

神経質に指が強張ってゆくのを隠しながらふいっと目を逸らしてそう言うと、肩にカヲルのそれがコツンと触れた。

「君が好きだよ。」

期待した通りの言葉。そっと囁かれたそれがシンジは嬉しくてたまらない。心と心で通じているみたいだ。ずっと近づいた距離にドキドキして間が持たなくて、小さく、うん、と頷いた。

すると、

「よし、ならこうしよう。」

そう言って立ち上がるカヲル。ふたりはシンジの部屋にいた。

「僕が今、君をふかふかの大きなベッドに連れていってあげよう。そこで皆で初恋の話をするんだ。」

シンジは全く意味が分からなくてぽかんと口を開けたままカヲルを見上げた。けれどもカヲルの言うことはいつだってシンジのためになるものだから、シンジはよくわからないままにカヲルの横に立ってみる。するとシンジはカヲルに腰を抱かれてくるんとお姫様だっこをされてしまい、そのままゆっくり自室のベッドに寝かされた。宝物を扱うように、ふんわりと。シンジは頭が真っ白になってよからぬことを察知して何かを言おうとする。そしてぱくぱく動く唇を白い人差し指がすっと封じて、やさしい笑顔のカヲルがパチンと指を鳴らした。すると何か肌触りのいいあたたかいものに包まれてゆりかごに抱かれている心地になって、シンジはそのまま瞼を閉じたのだった。意識がすうっと霞んでゆく。



目を覚ますとシンジはとてもふかふかした場所にいた。上には果てしない虹色の空に綿菓子みたいな魚が泳いでいる。そして下には、シンジの指が埋もれるくらいのふんわりと滑らかなシーツがどこまでも広がっていて、まるで大きな動物のようにあたたかくて柔らかかった。

「おはよう。」

顔を横に向けると目と鼻の先にカヲルがいる。キスしそうな近さに仰天して飛び起きると、そこにはふたりだけじゃなかった。

「ちょっと私がしゃべってんのに話の腰を折らないでよね。」

カヲルの向こうにアスカがいる。その隣にはミサト、加持。そして、

「何をしている。」

「わあ!」

シンジの真横には彼の父、ゲンドウがいた。隣には冬月と青葉が仲良く並んで横になっている。シンジは生まれてはじめて父親と添い寝をしていて、思わず何故だかカヲルの方へとにじり寄った。どさくさにシンジを抱き締めるカヲル。

「異性不純交遊だぞ。」

「同性です、お父さん。」

言い間違えて顔をしかめるゲンドウをシンジは間近で見た。自分でも可笑しかったのか口の端でヒクヒクと笑っているのが見えた。ちょっと親しみが湧いた。

「では、話に戻りましょう。惣流さん、どうぞ。」

アスカはほんのり頬を赤らめていた。

「だ、だから、えっと、私は自分に見合う相手じゃなきゃ絶対にイヤなの。だからまだ下調べ中っていうか。」

「気になる人はいるんだね?」

アスカはちらっとシンジを見てから大袈裟に反対に首を振った。

「ま、まあ、このアスカ様のためにいつも側で何でもやってくれる下僕のようなヤツは拾ってやってもいいかもしれない、とは情けで思ってやってるかも、しれないわね。」

「つまり君の近くにいて、君の世話をしてくれて、やさしくしてくれる相手がいて、気になっているんだね。」

カヲルがそう言うとアスカは真っ赤になってシーツに埋もれた。シンジは正直、そんなひと僕しかいないんじゃ、とドキッとした。同時になんだか彼女が可愛くも見えた。

「では次は青葉さん。あなたの初恋を聞かせてください。」

青葉は無愛想な顔をくいっと歪めた。何かに想いを馳せているようだ。

「俺がヤツに出会ったのは小学生の頃だったよ。艶かしいボディと激しい声が俺を虜にした。だから俺はある日、彼女の眠っている倉庫に忍び込んだんだ。とにかく彼女に触れたかった。するといつの間にか鍵が掛けられて、俺はそこに閉じ込められて…う、」

「叔父さんの倉庫にエレキベースと共に閉じ込められてしまったんですね。」

シンジは妖しい話だと思って息を詰めて聞いていたのでひっくり返った。

「そう。俺はその冷たく暗い倉庫にまる一日閉じ込められた。以来俺は閉所恐怖症で…う、」

そこでシンジは、青葉はエレベーターを怖がっていたんだとわかったのだ。不謹慎だけれどちょっと面白くてほっとした。

「青葉君は閉所恐怖症か。俺が唯一怖いのはミサトの手料理だ。あれは生物化学兵器に匹敵する。」

「加持君がそんなこと言うから私は料理が嫌になったのよ!気にしてるんだからね!」

遠くでミサトと加持がじゃれ合っている。でもシンジは内心、ミサトはそう言われたことが本当に辛かったのかもしれないと思った。ミサトがそれで辛いなら自分が料理をしてあげればいいとも思った。

「では、冬月副司令。」

「そうそうあれは……む?ちょっと思い出す時間をくれ。」

あれはいつで誰だったか…と指折り数える冬月を見つけて、シンジはちょっと切なくなった。やっぱり忘れやすいんだなと確信して、将棋のルールを調べてみようと頭の隅にメモをした。

「では、碇指令。あなたの初恋は?」

いつの間にか、順番は隣まできていた。自分の父親へのそんな質問に、シンジは自分以上に嫌な緊張をする。指がカチコチになる。

「…ユイと出会ったのは、」

「え!?母さんが初恋なの!?」

シンジは思わず目の前の父に尋ねた。

「そうだ。文句があるのか。」

眉間がピクピクしている。シンジはゲンドウが照れているのだとわかった。

「…お前の母さんは綺麗だった。それに魅力的だった。」

「ああ、そうだな。」

何故か冬月がしきりに頷いている。

「ユイは人の心の壁をいつの間にか壊す才能があった。誰もが彼女の前では安心した。」

シンジは父が手を神経質に擦り合わせているのに気づいた。緊張している時の自分にそっくりだった。

「…お前は少し、母さん似だな。シンジ。」

耳を疑ってゲンドウを見つめるシンジ。そのサングラスの向こうでは、父はやさしい目をしていた。シンジは本当の父親を、見つけた気がした。

「さあ、時間だ。そろそろ起きよう。」

突然、隣にいたはずのカヲルが自分に覆い被さっているのを見つけて、シンジが驚いて口をぱくぱくしていると、白い人差し指がそれに止まり、それからそっとパチンと鳴る。するとあたり一面に光を帯びた風が吹き、それはカーテンを揺らすような軽さでシンジの瞼をふうっとノックしたのだった。



「おはよう。」

気がつくとシンジは自室のベッドにいた。目の前には、そう。自分をお姫様だっこしてそこに寝かせたカヲルがいる。

「皆は怖かったかい?」

シンジはふっと笑った。

「ううん、全然。皆、僕と同じかもって思った。」

「同じ?」

「僕も言葉にするのが苦手で、不器用で、怖がりで、それは僕だけじゃないって。」

カヲルを見上げてシンジは嬉しそうにそう言う。

「それに、僕と一緒でちゃんと幼い時があって、大人になっても傷つくことがあって…恋もするんだ。」

カヲルはやさしくシンジの額を撫でた。くすぐったくて睫毛を震わすシンジ。

「ねえ、まだカヲル君の話を聞いてないよ。」

カヲルの瞳に自分を見つけて、シンジはその答えを、そして自分はそれを既に知っていると、わかった。

「知りたいかい?」

だから次の瞬間にキスをしても、そっと瞳を閉じられたのだ。シンジはカヲルに出会えたことを神様に感謝した。


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