淡いステンドグラスの翅をばたつかせ、シンジは飛び立った。その華奢な容姿は触れれば粉々に砕け散ってしまいそうだ。けれどその散ったガラスの鱗片ですら見てみたい欲求にかられてしまう。きっとその鱗片はとても眩しい光を放つだろう。黄金の満月を背に抱く彼の姿はまさに儚さそのもので、強さそのものだった。それほどの美しさをこの瞬間まで、カヲルは知らなかった。
グラス・ウィング・テイル
シンジは小さなさなぎだった。きっと普通の人間なら見過ごしてしまうに違いない。けれどカヲルは誰よりも澄んだ瞳の持ち主だった。夜中にひっそりと屋敷を抜け出し、永遠に続く生け垣の迷路を抜けると秘密の花園へと辿り着く。芳醇な土の匂いと草いきれ。けれど天上は星月の瞬きに覆われて、それを囲む高い塀が崩れて瓦礫と化していた。石畳の廃墟にはもう何世紀もヒトの姿はなく、茨や蔦は好き放題に絡まり腕を伸ばしていた。そこに数えきれない種類の花々が咲き乱れている。カトレア、木蓮、沈丁花、シンビジウム、郁子、アマリリス…季節や処に関わりなく常花であり水中花。自然を超えた秩序で野性の魅力を存分に発揮していた。
ついに足を踏み入れると、そこでは月夜だけに現れる夢の住人たちが漂っていた。宙で踊るクリオネみたいだ、カヲルはよく目を凝らす。すると深海に潜む半透明のホオズキに見えた。脈打つ月の雫のよう、その奥に光るまるい鼓動。ヒトのかたちをした妖精が膝を抱えて眠っている。辺り一面、ほわほわと揺れていて数え切れない。きっと両手で抱えたら世界のすべての色を手に入れられるだろう。けれどすべてなんていらなかった。彼はそのうちのひとつだけを見つめていた。月明かりの下、彼は探していたのだ。彼だけの知っている彼だけの宝物を。迷わずに歩み出す。彼はその美しい瞬間を夢の中で幾度となく眺めていた。
「君だね?」
だから一目でわかったのだ。他の誰より頼りなくても、控えめに弱々しくても、カヲルの胸に触れ、ふるり、彼の頬を色づかせた。嬉しくてほうっと溜め息をつくくらいに。
「…誰、ですか?」
けれどもうひとりの彼にはわかるはずもない。恥ずかしそうに灯りの点滅を早めてそのぼんぼりは呟いた。
「僕はカヲル。君はシンジ君だね。」
「どうして…?」
「君をずっと探していたんだ。」
逃げも隠れもできなくて、シンジは震えた。
「怖がらないで。何もしないよ。」
シンジは自分が自分だと意識したころにはもうさなぎになっていた。だから外の世界は見たこともないし触れたこともない。彼には聞こえるものがすべてだった。だからカヲルがやさしく微笑んでいても声だけでしかわからない。同い年くらいかな、とは思った。その声はとても透明で柔らかくて、シンジはきっと綺麗なひとなんだろうな、と思った。綺麗とは、シンジの中での最高の言葉だった。
「だって…僕はヒトに見つかってはいけなかったんだ。」
ヒトの目には見えない、そう風の運ぶ声が教えてくれたのに。シンジの耳に届くさまざまな囁き声で彼は、この世のしきたりや自分の運命について学んだ。なのにどうしてわかったんだろう、シンジには不思議で仕方がなかった。
「なら僕はもうヒトではないのかもしれないね。」
「どういうこと?」
けれどそれには答えずに、カヲルはシンジにやさしく息を吹きかけた。軽やかなシャボンのように、シンジはゆっくり一回転した。風よりもくすぐったかった。
「や、やめてよ!」
「恥ずかしがり屋さんだね。」
「あっ!」
カヲルの指がシンジをつつく。その感触が驚くほど冷たくて、シンジは身震いをした。はじめて誰かに触れられたのだ。新しい感覚に戸惑って、弾けるように光りながら、僕はここにいるんだ、と、そうドキドキした。
「何もしないって言ったのに…」
「君は今日、羽化するんだ。」
「ウカ?」
「そのさなぎから脱皮して、蝶々みたいに羽ばたくんだ。」
「えっ!」
すごく嫌そうな声が宙に浮いた。
そうなのだ。シンジたち夢の住人は子どもでもなく大人でもない年頃に殻の中から抜け出さなくてはならない。大人になるため、少年少女は変身しなければならない。
「嫌なのかい?」
「嫌だよ!僕はそんなことしたくない!」
「どうして?」
「だってまだ心の準備ができてないよ!」
曖昧な自我から――
「ずっとこのままでいたいのかい?」
「このままでいたいわけじゃないよ!それよりはましってだけ!」
――唯一の自分自身へ。
「僕は君が羽ばたくのを早く見たい。」
「知らないよ!」
よく見るとシンジはカヲルから離れようとしているみたいだった。彼なりに必死で動いても星が夜空を巡る速度くらいにしかなっていない。カヲルは、可愛いなあ、と気づかれないようくすりと笑った。
「怒らないで。別に僕が君をそうさせるわけじゃないんだよ。」
「…そうなの?」
「そうさ。僕はただのヒトだからそんなことできるはずない。」
「あ、やっぱりヒトだったんじゃないか。」
「君がどうして羽化したくないのか、本当のことを教えてくれないかい?」
だって、と言ったきり口ごもるシンジ。声だけでシンジの表情がころころ変わっていることがカヲルにはわかった。じっと待っているとやがて、おずおずと声が聞こえた。
「飛べるようになったら海を渡らなきゃいけないんだ。海、知ってる?」
カヲルは小さく喉を鳴らした。
「本では読んだことあるよ。広くて大きくて、しょっぱいらしい。」
「それに…果てしないんでしょう?」
「うん。」
「僕、死んじゃうよ。」
「何故?」
「そんなにずっと飛べないよ。飛んでどこにいくのかも何をするのかもわからないもの。」
「でも見晴らしがよさそうだよ。水平線に朝陽が顔を出すとキラキラと水面が揺れるんだ。それにさざ波の音、潮風の匂い、きっとどれも素晴らしい。」
「そりゃ渡らなくっていいヒトにはそうかもしれないけどさ、」
「怖いのかい?」
「決まってるよ!」
「自信がないんだね?」
「…僕にはここでこうして漂ってるのがお似合いなんだ。」
暗くすねた声がだんだん深く沈んでゆく。カヲルはシンジを慰めようとふたつの手のひらで包み込んだ。シンジはあたたかかった。とくんとくんと早い鼓動を微かに感じた。シンジの膜はより薄くなり、うっすらと彼の姿が浮かび上がる。
「勝手に触らないでよ。」
「シンジ君、僕はね、君が羽ばたくのをこの目で見たんだ。」
「それって人違いだよ。」
「確かに君だったさ。夢で見たんだ。君はとても立派だった。」
「…本当?」
「うん。」
シンジの肌が色づいてゆく。
「僕、飛べた?」
「もちろん。」
「へえ!」
天真爛漫な声になる。
「飛び方、変だった?」
「とても美しかった…」
瞼の裏に描く光景に思わずうっとりしているとそれがシンジにも伝わったのか、横顔が照れながら、けれど得意げに微笑んでいた。声の調子も乗ってくる。
「僕、何色だった?」
「何色?」
「翅の色。噂だと、心の色を表すんだって。緋色だと情熱的で、浅葱色だと凛としている、とかいろいろ。僕は?」
カヲルは言うべきかとても悩んだ。首を傾げる。
「焦らさないで教えてよ。」
「でも、先に知ってしまったらちょっとがっかりしないかい?」
「あ、そっか…やっぱりいいや。」
こうしている間にもシンジの体はどんどんと成熟してゆく。彼の気持ちを無視して境界線ははっきりとしてくる。彼は知らず識らずのうちに寝返りをうっていた。はじめて体を動かしていても自分がそうしているなんて、シンジは気がつかない。
「みんなはどんな感じなの?」
気がつくと、秘密の花園ではちらほらと羽化が始まっていた。ぼんぼりが小さな花火になるお祭りのよう。揺らめいていたクリオネよりも少しずつ、けれど着々と、閃く蝶々の割合が増えてゆく。近くで翅の瞬きが光の鱗粉を撒き散らし、空高く舞い上がった。
「そうだね、色とりどりだよ。」
「片寄りない?ひとりだけ違う子いる?」
「何を気にしているんだい?」
「僕だけ違ってたらやだなって。」
「よく目を凝らして見てみると、みんなそれぞれ違う色をしているんだ。」
「そうなんだ?そっか。みんな違うんだ。」
怖じ気づいていたシンジは気を良くしたのか、
「僕も見てみたいな。」
なんて呟いていた。けれどすぐに、
「でもやっぱ明日にする。」
なんて弱気な声が聞こえてくる。
「明日は駄目だよ。」
「どうして?」
「僕が見られない。」
「…どこか行っちゃうの?」
シンジはついさっき出会ったばかりなのにカヲルに対して昔からの友達のような気持ちを抱いていた。だから、これからもずっと一緒だって言ったじゃないか、そう怒ろうとして、怒れなかった。
「カヲル君は行っちゃうんだ…」
シンジは哀しいと心から感じた。そこで急に身悶えてしまった。体が熱い。眩暈がする。脈動が激しくなって息苦しくなる。あ!肌が裂けたと思ったら、そうではなくて、纏っていた薄い膜だった。全身を浸して肺を満たしていた液がさらさらと外にこぼれ落ちてゆく音がすぐ側で聞こえた。そこから夜の冷たい空気がじりじりシンジを乾かして、ちょっと痛くて身震いすると背中に変な感覚が駆け抜けてゆく。じんと痺れて――解放、そして、気持ちいい――目覚め。シンジは力を入れてみた。鈴を転がす音が聞こえた。もう一度そうしてみると、強い鈴の風が吹いた。もっとだ、頑張ってごらん、カヲルの掛け声にシンジが力いっぱいそうしてみると―――彼の目の前に世界が現れた。
淡いステンドグラスの翅をばたつかせ、シンジは飛び立った。その華奢な容姿は触れれば粉々に砕け散ってしまいそうだ。けれどその散ったガラスの鱗片ですら見てみたい欲求にかられてしまう。きっとその鱗片はとても眩しい光を放つだろう。黄金の満月を背に抱く彼の姿はまさに儚さそのもので、強さそのものだった。それほどの美しさをこの瞬間まで、カヲルは知らなかった。
―カヲルは思わず手を伸ばした。
シンジが自分で一回転すると、翅の模様が極光の色を帯びて様々に移ろいだ。その透き通った翅から満月が覗いてカヲルに降り注いでいた。
―その光を掴もうとした。
彼の銀髪は月影を含んで音もなく揺れていた。それがシンジの見たはじめての世界だった。ぼやけた視界がゆっくりと焦点を合わしてゆく。
―けれど何も掴めずに指の間をすり抜けてゆく。
すると滲んだ煌めきは巨人の虹彩に変わりシンジを見つめ返してきたのだ。迫ってくる確かな五感。生きている、そう感じた。
―あまりにも遠い、そう感じた。
「ほらね、こんな翅だから僕は海を渡る途中で粉々になっちゃうんだ。」
照れながら、心とは反対のことを言う。
「ツイてないや、」
「君は本当に美しいよ。」
カヲルは心からそう囁いた。シンジにぴったりの、恥ずかしがり屋で、ガラスのように繊細で、誰よりも澄み渡った――色のない色。
「それにうらやましい…」
「カヲル君?」
世界が強く輝いてゆくほどにカヲルの影は薄くなった。シンジの見つめる先、まるで手を振るように、寂しそうに微笑むカヲル。
「僕はもうすぐ君とはいられなくなるんだ。」
この秘密の花園に続く生け垣の迷路の先、ある屋敷のベッドの上で、孤独な少年がたったひとり、今にも息絶えようとしていた。夢ばかりを見てしまう病に冒され、ついに救いの手は現れず、彼はある夢に恋するようになったのだった。自分だけの、大切な、譲れない夢だった。けれどその夢ももうおしまい。どこにも行けない少年は夢が羽化した先の世界へはついて行けない。見送ることも引き止めることもできずに、この刹那、朧げな命の炎を自らの息で吹き消そうとしていた。
「君が海を渡る姿を見てみたかった…」
重力を失くした体がそっとシンジにを抱き寄せる。夢を追う風のようなカヲル。その温もりはあまりにも軽すぎて、シンジにはもう、何も感じられなかった。
『君と一緒に僕も空を飛んでみたかった…』
この残酷で不条理な世界のなか、どうして僕が、なんで私が、そうやって少年少女は大人になる。心はすり減り、いつの間にか、不思議な夢も見なくなる。いつまでも子どものままではいけないよ、そんなかつての少年少女は夢見る君の背中を無理やりに押すだろう。君は怖くてたまらない。知らない場所に連れて行かれる。後戻りできない。もう夢を見られなくなるかもしれない。
でも一方で、全く違う夢を見る子どももいる。早く大人になりたい。自由になりたい。そうして辿り着いた場所でこの世界を見てみたい。その願いも届かずに瞼の帳を永遠に下ろす少年少女は一体どんな夢を見るんだろう。そこには何が待っているんだろう。
そこで君は思うはず。その場所が素晴らしかったらいいなって。だって君はこの残酷で不条理な世界のなかでも夢見る心を持っているんだから。かつての少年少女だって、きっと、密かにそう夢見ている。
その夢を運ぶため、色とりどりの翅は大海原を渡ってゆく。
カヲルは何も知らなかったけれど、シンジは特別な翅を持っていた。
「君とならどこへだって飛べそうだよ!」
夜明け前、星が霞み、大空が少しずつ白んでゆくと、大海原との境界がくっきりと現れた。
「今だ!ほら!」
そしてその境界に色が燃えはじめたら一瞬で、いっせいに水平線に光が走る。広がってゆく。すぐさま朝陽がキラキラと顔を出し、水平線を溶かし滲んでゆく。なんて眩しいんだろう。波間に煌めきが転がってゆく。今日という一日のはじまりをこぼしてゆく。
「カヲル君の言った通りだ!」
こんな言い伝えがあるらしい。ガラスの翅は割れやすいけれど奇跡を起こす。もともと彼らのような夢うつつの存在は神様の抱える両腕の中に存在しているのだ。シンジは突然現れ消えたカヲルを探している途中、神様の声を聞いた。たったひとつだけ願い事をしてごらん、と。
「綺麗…」
生まれたばかりのシンジはちょうどたったひとつだけ願い事を持っていた。はじめて持った自分の意思。神様は驚いた。生まれたばかりの色のない翅の子の願い事なんてたったひとつだ。僕に色をください。でもシンジはもう一対、ガラスの翅を欲しがった。
「ふたりで海を渡れるなんて、夢なのかな、シンジ君。」
その翅のとても似合う、誰よりも澄んだ瞳の持ち主にあげるために。そんな願い事が叶う世界は、果たして夢なのだろうか。
「僕は夢でも現実でもどっちだっていいよ。ふたり一緒なら。」
「そうだね。」
そう、不思議は不思議のままでいい。世界がこんなにも美しくて、ふたりで分かち合えるなら。
君もいつかその時が来たら自分の翅で大海原を渡るんだ。
儚い一生をかけて、君は、飛んでゆく。
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