ポロン、
こぼれ落ちてゆく
旋律

ポロン、ポロン、
さざめくオクターヴ

僕の声
泣けない僕の

悲しみの音列に
僕は君を見つける
ポロン、ポロン、

ポロン、

君の声が聞こえる



フィーネを描く君の指先



放課後に迷子になってしまう。
カヲルは今日初めて歩いた校舎を早足で過ぎてゆく。春の後れ毛のような陽射し。傾いた西日の寂しい教室。橙の窓のデジャヴをくぐり抜け、彼は探していた。あの音のする方へ。
あの音。それをずっと待っていた。透き通るような、懐かしい、噎せ返るほどの心。
ピアノの音色。

旋律は光を帯びた糸。カヲルを誘い、手を引いてゆく。階段を駆け上がるとそこは三階の隅。音楽室。
開け放たれた窓の向こうには少年がいた。同じ制服。顔は見えない。
漏れる音楽は途切れ、空白を落とす。片言なお喋りみたいに未完成。不自然な低く悲しげな伴奏。頼りなくまた、ポロン。まるで泣いているような響きだった。
だからカヲルはドアを開けたのだ。

音楽の止んだ音楽室にカヲルは朗らかに語りかけた。
「いいよ、続けて」
静寂に包まれると室内は一層に暗くなる。少年は立ち上がった。
「邪魔してごめん。続けてよ。もっと聞きたいんだ」
見たことのある顔だった。カヲルのクラスに彼はいなかった気がした。ああ、そうだ。
「君は……廊下でぶつかった子だね」
カヲルは今朝、廊下の踊り場でひとりの少年とぶつかったのだ。そのまま転びそうになった彼をカヲルは抱き留めた。一瞬の出来事だった。大丈夫かい、とカヲルが聞く前にその少年は階段を駆け上がって消えてしまった。顔は見えなかったが、その艶やかな黒髪は覚えていた。
「覚えていないかな?」
カヲルは微笑んだ。少年は怯えた瞳を見開いた。
「僕はカヲル。渚カヲル。君は?」
闇の広がる音楽室に少年の瞳だけが輝いていた。真夏の夕陽に似た光を宿してこぼれ落ちてゆく――涙。
そして少年は何も言わずにカヲルを押しのけ、薄明の放課後へと消えたのだった。
「誰だろう?」
カヲルはひとり、取り残された。

その少年を見つけたのは次の日の放課後だった。休み時間に学校中をくまなく探したけれど見つけられず、放課後にカヲルは窓の外を眺めていた。葉桜も散りかけたまだ明るい青空の校庭。部活動の雑多な喧噪が風に乗る。入学式よりも少し遅れて登場した転校生は好奇の目で遠巻きに品定めされていた。けれどカヲルにはそれは慣れきったこと。彼の頭の中にはずっと昨日の少年がいた。黄昏の少年。誰だろう。自分は幽霊でも見たのだろうか。落ち着きのない感情の波に机をトントンと叩く、白い指先。
そしてまた、あの旋律。

カヲルは駆け出した。脇目も振らずにあの音楽室へ。すると、そこにはやはりあの少年がピアノを奏でていたのだった。祈りのように目を閉じて、何かを待っていた。それは自分なのかもしれない、ふと、カヲルは思ったのだ。音楽は止んだ。
「昨日の君だね。探したよ」
ピンと弦の張り詰めた緊張。少年の唇はふるえた。
「……して」
「ん?」
「どうして」
少年へと近づく足が立ち止まる。どうして、言われてカヲルは初めて気がついた。どうして、こんなにこの少年を探していたのか。
わからない。
「君の音楽に惹かれたのかもしれない。僕もヴァイオリンをやっているんだ」
「ピアノはやらないの?」
「やったことないな」
何故か少年はうつむいた。項垂れて唇を噛み締めて。カヲルは泣いているのかと思った。
けれどもう一度顔を上げた時には、少年は何でもない顔をしていた。
「昨日は変なことしちゃってごめんね。僕は、碇シンジ」
「碇シンジ君……」
驚くほど舌触りの好い響きに、カヲルはしびれる心地がした。
「よろしくね」
そして目の前の笑顔を見てカヲルはもう何も考えられなかった。嬉しそうでいて、悲しげ。そんなはにかんだ表情に、カヲルは息をするのも忘れた。数分前の問いの答えを見つけた気がした。

どうして――君が好きだから。

カヲルは恋なんて自分とは無縁のものだと思っていた。けれど彼の素直な感性は、やっと見つけた、そう彼の心にその想いを知らせたのだった。
カヲルはやっとシンジを見つけたのだ。


「碇君」
そう呼ばれる度に、シンジの心臓は握り潰された。
「渚君」
そう呼ぶ度に、シンジの喉は千切れる痛みに苦しんだ。

校舎を繋ぐ渡り廊下でふたりは遭遇した。カヲルは申し訳なさそうに眉を下げている。
「今日は日直だから少し遅れてしまいそうだよ」
「そっか。じゃ先に練習してるね」
あれからふたりは友達になった。そして密かな語らいがはじまったのだ。
ピアノとヴァイオリンの二重奏。放課後に生徒たちはグラウンドで足を止めて耳を澄ます。うっとりとして、刹那、また駆け出すのだ。第壱中では人知れずそんな現象が重なってゆく。
「君とショパンを奏でられるなんて夢みたいだよ」
「大袈裟だよ」
「そんなことない。またね」
別れ際、軽く触れられた肩でさえ焼き焦がれてしまいそう。シンジは何でもない顔をする。
歩き出す。
「なんや、あれが新しく来たって噂の先輩か」
「なんで碇と仲良いんだよ」
「たまたまだよ。趣味が一緒だったんだ」
放課後の音楽室、ふたりきりで音楽を奏でる。それは言葉で語らうよりも多くのことを、シンジに訴えかけるのだった。

ある日のこと。
「君が眩しく見えるんだ」
「眩しい?」
ふたりは演奏を止めて、ピアノの前に並んで座った。
「目の色が変わるって言うだろう?それはね、好きなひとを目にすると狩猟本能が働いて瞳孔が開くからなんだ。そうすると瞳の色が変わって見えるから、目の色が変わる」
シンジは何の話だろうと思って聞いていた。
「それで好きなひとを見ている目は瞳孔が開いているだろう?だから眩しいんだ。それで、好きなひとが眩しい」
遠回りした着地。シンジは瞬きをした。火照る頬。それ以上は何も言わず、聞こえない。
こうしてカヲルはシンジの反応を探った。シンジの横顔を見つめて、声を飲み込んで、かわりに指先が音楽を奏でる。想いが透けて聞こえるような甘い音色。シンジの耳許であの二文字を囁いているかのよう。
それはとても人間らしい。

人間。
「君と僕の音の重なると嬉しいんだ」
カヲルは人間。
「何故だろうね」
答えを待たずに笑顔でさらりと流れてゆく会話。答えを知っているのに知らないふり。視線を上げると赤い瞳がちらっと逸れた。シンジは口の中で呟く。
カヲル君は人間だ。
それは笑えるほど当たり前のことなのに。シンジは戸惑う。何故なら、シンジの知るカヲルはそうではなかったのだ。
シンジには前世の記憶があった。シンジはカヲルに出会う前からカヲルのことを知っていた。
ポロン、ポロン、
時計の針は数のない時を巡る。はじまりは彼方、あの真夏の夕暮れの湖畔へ。
あの遠い日、シンジは迷子になった。世界は終末を迎えていて、大切なものはみんな、彼の手のひらから砂のようにさらさらとこぼれ落ちてしまった。シンジはひとりぼっちだった。
そんな時だった、ふたりが出会ったのは。カヲルはシンジに手を差し伸べる。からっぽのシンジの手のひらにカヲルのぬくもりが触れた。それはひと粒の希望。シンジはそのぬくもりに小さな安らぎを感じていた。
けれど事態は暗転する。彼こそがまさに人類の敵だった。カヲルは人間ではなかったのだ。
ふたりの上に残酷な運命が降り注ぐ。シンジはカヲルを殺めることしか許されない。
そしてシンジは――
ただひとり、世界にとり残されてしまった。
けれどシンジはカヲルの残したひと粒の希望を握り締めて離さなかった。シンジの手の中で粒は光を解き放つ。そうして世界はやり直された。何度も何度も。気の遠くなる永遠の闇。闇の中で光は紡がれ糸になる。光を帯びた糸に手繰り寄せられて、ついに、シンジは平和な世界へと降り立った。
シンジはそこでカヲルとまた巡り合えると信じていた。

誰が聞いても中学生のこじれた妄想。多感な時期に夢を見たんだよと言われれば否定しなかった。
けれど、カヲルは現れたのだ。
シンジはどうすればいいかわからず混乱した。ずっと彼を待っていたのに。シンジは慌てることしかできなかった。
ポロン、
そうして心を決めて奏でたあの旋律。彼がいなければ完成しないあのふたりの曲を弾いて、シンジは待ち続けた。吹けば消えてしまいそうな勇気を振り絞りながら。やがて、カヲルは現れた。カヲルは言った。
――君は?
シンジしか、彼を覚えていなかった。

それなのに、カヲルは無邪気に語りかける。
「音が楽しい」
シンジが戸惑うほどに。
「ふたりってすごいね」
じりじりと少しずつシンジへ近づいてゆくカヲル。何も言わないシンジ。悪戯に鍵盤を叩く白い指先。君はどうなの、とねだるように。二足歩行の指がやがてシンジの甲に辿り着く。君の気持ちを聞きたいな、と駄々をこねて絡まってゆく。人間じゃなかった彼はそんな仕草はできなかった。

かつてのカヲルをシンジは思い描く。整いながらも何処か違和感を感じる言動。不思議な距離感、推し量れない言葉でシンジを振り回すカヲル。けれど気がつくとシンジはそれが心地好かった。彼だけが頑になった心の壁をすり抜けられた。透明みたいに。そう、カヲルは透明だったのだ。魂のずっと深い部分でカヲルとシンジは共振した。ふたりはその振動を音にして、寄り添い合った。

「碇君の肌って柔らかそうだ」
けれど今、カヲルは透明ではない。シンジはそのまどろっこしさにヒリヒリと火傷する。想いを見え隠れさせてシンジとの距離を縮めてゆきたいカヲル。カヲルの気持ちがたまにシンジにも伝わった。伝わるから怖くなる。仲良くなりたいと願う純粋な気持ちに、それを言葉にしないもどかしさ。そうして頬に触れようとする白い手をかわすと、まるで聞こえる気がするのだ。嫌われてしまったかな、と。動揺を隠しきれずにカヲルは早口で語りはじめる。
「そう言えば、昨日ショパンを聴いたんだけどね――」
突拍子もなく、終わりの見当たらない話題を一生懸命広げるカヲル。時折、困り果てた伏し目がちの横顔に胸が苦しくなる。シンジはそんなカヲルの新たな一面に弱かった。見てはいけないような気がした。
「ねえ、次はショパンを弾こうよ」
だからシンジは迷子のカヲルの手を取るのだ。楽しそうに頬を緩ませるとカヲルの瞳は輝いた。
「ふたりでショパンを?」
あの頃とまったく同じ、赤い瞳。
「嬉しい」
けれど、とても人間らしい瞳。カヲルは微笑む。
「楽しみだね。何を弾こうか話し合おうよ」
ああ、シンジは思った。
彼は、僕の知ってるカヲル君なんだろうか。
シンジは更に思った。
それとも、全然違う、渚カヲル?

ある眠れない真夜中に、シンジは闇に焦点を合わせようとした。
死んで生まれるとどうなるんだろう。
目を凝らす。何処までも続く闇。
記憶を受け継いだ僕は前の僕と同じなのだろうか。それとももうひとりの僕?でも前の僕が僕と違うなんて思えない。だって、今の僕の感じるカヲル君への気持ちは本物だから。僕はずっとカヲル君が好きだった。
ベッドにうずくまるシンジ。
何度も出会ったカヲル君だってそうだ。同じだった。同じ意識を持っていた。だから僕は何の疑いもなく彼を渚カヲルだと思ったんだ。
体を曲げて自分自身を抱き締める。
でも今の彼は?記憶を持たない彼は?彼らしさの薄れた人間のカヲル君は僕の知ってるカヲル君?まったく一緒の顔なんだ。同じ声で同じ風に笑うんだ。でも……
シンジは瞼をぎゅっと閉じた。
もしも僕と同じ身体で僕と違う意識の誰かがいたら、僕はそれを僕とは思えない。ならあの渚カヲルだって、同じ身体だけど中身が違う他人かもしれないじゃないか。
ふるえる睫毛。
どうしよう。もしかしたら、あの僕の好きなカヲル君は僕が殺したまま永遠に消えちゃって、違う誰かが人間の渚カヲルになっちゃったのかも。そしたら僕は、もう二度と、カヲル君に会えないんだ。
シンジの目からはポロン、ポロン、とりとめもなく涙がこぼれ落ちてゆく。
なら僕は、どんなに彼に惹かれても好きになっちゃいけないんだ。だって僕が好きなのは、僕を守ろうとしてくれた、あのカヲル君なんだから。違う誰かを、偽物のカヲル君を好きになったなんてわかったら、カヲル君が悲しむに決まってる。僕はどんなことがあってもあのカヲル君が好きなんだ。そうじゃなきゃ駄目なんだ。
暗闇に浮かび上がるカヲルの姿を抱き締める。
けれどシンジは心の何処かでこう思うのだ。もしもあの彼がシンジの好きなカヲル君だったなら、と。
泣きじゃくりながら、シンジは思う。
カヲル君は何度も僕に出会ってどうして僕を僕だとわかったんだろう。
僕にはわからないよ。
闇に光を帯びた糸がたなびいた。聞こえてくる、あの旋律。
彼の奏でる音は、渚カヲルの音楽だった。

今、シンジはピアノの前に座っていた。鍵盤に指を滑らせる。音階を駆け上がり、また下る。カヲルは日直で遅くなるらしい。さて、ショパンの練習をしようか。ノクターン第2番。変ホ長調。シンジはカヲルの音色を想像した。夜想曲……彼はとても甘く華やかな主旋律を奏でるだろう。やさしい夢のように。まさに白昼夢。そう、これは僕の白昼夢なのかもしれない。シンジは音楽室の天井を見上げた。

これは残酷な世界に疲れた僕の描く長い長い夢なのかも。僕はふたりの運命を呪って彼が人間だったならと願わずにはいられなかった。平和な世界だったら、カヲル君が人間だったら、僕たちはずっと一緒にいられるんだ。
でも、それは僕のひどく身勝手な願望だった。何故なら、僕は人間になった彼が本当の彼なのかさえわからない。僕はわからないものを願ってしまった。そしてそれを目の当たりにして、罪悪感で押し潰されそうになる。なんてひどいんだろう。

不安げなカヲルの表情が浮かんだ。シンジがそんなことを頭によぎらすと、決まってカヲルは瞳を揺らしてシンジを窺うのだ。そして声にならない言葉のかわりにヴァイオリンに乗せて、シンジに囁く。
僕ともっと仲良くなろうよ。
シンジは心で囁き返す。
君はカヲル君なの?

そうしてシンジが奏でたのはショパンではなかった。あのふたりの白昼夢が主旋律なくあふれ出す。片割れの調べはシンジの耳許にそっと流れて重なり合う。


放課後にまた迷子になった。
カヲルは日直を終えてすぐ鞄を肩にかけ駆け出した。手にはヴァイオリンケースを、脇に楽譜を抱えて。高鳴る鼓動。もうすぐシンジとショパンを奏でられる。それだけで羽根が生えて舞い上がりそうだ。
カヲルは自分が誰かを好きになるなんて思いもしなかった。これが他人の言う恋なのかもわからない。ただ、カヲルは感じるのだ。これ以上の気持ちはきっと何処にもない。側にいるだけで自分が自分ではなくなってゆく、そして、本当の自分になれる。純粋な魂に。それは音楽に似ていた。
もしも碇君が僕と同じ気持ちなら、どんなに幸せだろう。
ふとした時に見せるシンジの痙攣する瞳。こぼれ落ちる悲しみの音色。
知りたい。けれど、知りたくない。
いてもたってもいられなくなる。自分のすべてがシンジに吸い込まれてゆく気がした。
迷子になる、心。
カヲルは立ち止まった。
「この曲」
聞こえてくるあの旋律。透き通るような、懐かしい、噎せ返るほどの……
光を帯びた糸、カヲルを誘い、手を引いてゆく。
音楽室で降り注ぐ黄昏を浴びてシンジは奏でていた。寂しそうに泣きながら誰かを呼ぶような……

僕を呼んでいる。

「僕は君に会うために生まれてきたんだね」
カヲルは心を声に乗せた。音楽は止む。シンジは立ち上がった。
「え」
信じられないという表情。カヲルは照れてしまう。
「大袈裟だったかな。でも本当に感じるんだ」
ゆっくりと足を運ぶ。そっとピアノの肌に手を添えた。
「君のその未完成な曲を聞いていると、僕らの運命を感じるんだ」
恋という名の熱病の瞳。カヲルはシンジを見つめていた。
それは最高に抒情にむせぶワンシーン。
けれど、
「……じゃない」
シンジは俯いた。
「僕の、じゃない」
シンジはふるえていた。
「僕だけの曲じゃない!」
眉をきつく歪め、手を握り締めて。
「どうして君は思い出せないの!?」
カヲルの横をすり抜けてシンジは音楽室を飛び出した。カヲルはシンジを呼んだ。わけもわからず追いかけた。逃げるような背中を、待って、碇君、と手を伸ばす。駆け足で階段を下ってゆく。そしてやっと、つかまえる。そこはふたりが初めて会ったあの階段の踊り場だった。
「どうしたんだい」
窓に切り取られた黄金。煌めく埃は遠い日の蜉蝣。ちらちらとふたりの距離を遠くに感じさせた。そんなに長くは走っていないのに。シンジは苦しそうに肩で息をしていた。溺れそうだった。カヲルはそっとシンジの肩から手を離した。
「思い出せないって、何」
そう投げかけても、シンジはカヲルに背を向けたままだった。
「もしかして……こういうこと、君はずっと嫌だったのかな」
カヲルは微かに瞳を潤ます。
「ごめん、わからなかったよ」
カヲルはシンジがわからない時、嫌われているのかもしれないと幾度となくそう思った。それは死んでしまいそうなくらい残酷な悪夢。起こっても夢だと感じてしまうほどの。シンジの瞳が自分を見ながら自分ではないものを見ているように感じるのは何故だろう。そんな時、カヲルは沸き立つようないたたまれなさを抱くのだ。わけもなく。
「違うんだ」
途方もない胸の痛みに耐えていると、シンジは振り向かないで、小さく、そう、カヲルに告げた。
「前に同じ言葉を聞いたことがあって、思い出しちゃったみたい」
「同じ言葉?」
「僕、好きなひとがいるんだ」
痛い胸は更に抉られる。ひどい目眩がカヲルを襲う。ふわりと身体が軽くなって世界の何もかもが膜に覆われてゆく気がした。カヲルじゃない何かが口を動かした。
「両想いなんだね」
「ううん、」
ふたりを遮る、遠い世界。
「……片想い?」
「うん、」
手を伸ばせば届くほど近いのに、決して届かない。相容れることはない。
「そっか……僕もだよ」
かすれた声だった。カヲルは後ろから振り返らないシンジの手をぎゅっと握った。抑えきれずにあふれてしまう感情を殺そうと、うっ、と嗚咽を喉に押し込める。曖昧な告白を重ねて失恋をした、その煮え切らない苦しみをカヲルは伝える。
僕は?僕では駄目なのかい?
問いかける白い指先。爪が食い込むほど強く、シンジにすがりつく。
この気持ちはどうすればいいの?
後ろから聞こえる静かな嗚咽。う、う、と耐えられずに切なさが漏れ出している。感情は劈くように。人間らしいその反応。それにすらシンジは静かに混乱するのだ。

カヲル君にはもう会えないんだと、シンジは思った。
それと同じくらい、渚君にはこの想いを知られたくなかったと、シンジは思ったのだった。


誰もいない放課後の音楽室。通り過ぎる人影の群れ。シンジはあの日のことを考えていた。
シンジは認めたのだ。本当はカヲルに惹かれていた。心の奥底では、かつてのカヲルらしくないところも含めて、シンジは彼が好きだった。けれど好きな気持ちが浮かび上がれば同じくらい、彼を突き放さなければと感じるのだ。シンジにとって今のカヲルを想うことはかつてのカヲルへの裏切りだった。本当のカヲルへの揺るぎない想いが穢されてゆく。濁って腐って、見たかもしれないただの夢に成り果ててしまう。
でも、本当のカヲル君って何?
シンジは階段を一歩一歩下ってゆく。
カヲル君だって平和な世界なら少し違っていたかもしれない。今の僕がそうあるように。
立ち止まり、燃え上がる夕陽を見つめる。雲の隙間からは光の架け橋が降りていた。
カヲル君だって人間として生まれていたら今の彼だったのかもしれない。それでも僕はカヲル君を好きになったはず、いや……わからない。
イデアの天秤は揺れてゆく。
僕はあの時、僕を救ってくれた彼が好きなんだから。
「碇君」
シンジは振り返った。
「渚君」
そこには寂しそうな笑顔の、カヲル。
「一緒に帰ろう」
教室の前でずっとシンジを待っていたのだった。

数日ぶりに見たカヲルは少しやつれている気がした。それはシンジの願望かもしれなかった。
シンジにはカヲルに嫌われてしまったのか、ただ避けられているのか、わからなかった。それはひどい寂しさだった。何でもない顔をして過ごしながら、シンジの影はカヲルを探し彷徨っていた。あの銀髪が目の端になびくのを期待した。
僕を想うのをやめないでほしい。
矛盾したシンジの心は囁いた。
僕を諦めないでほしい。
自分よがりの心の声に耳を塞いだ。
シンジは夢を見ていた。自分を想って夜に彷徨うカヲルの姿を。頭を抱えて涙を流す横顔。指先がくしゃっと銀髪に埋まる、透けるような白い頬に、熱い涙。好きなのに、どうして、幻想のシンジに語りかけるカヲル。好きだ、好きだ、その叫び声が漏れてしまわないよう、見つからないよう、遠くからシンジの後ろ姿を見送っている。そんな夢のカヲルの輪郭をシンジはずっとなぞっていた。そうだったらいいのに、と。
「しばらく行かなくてごめん」
「ううん」
ひび割れたアスファルトにふたりの影が長く横切る。振り返るともう沈みそうな茜。染まる黄昏。こうしていると世界にふたりきりじゃないかという錯覚が沸き起こる。ふたりに沿って流れゆく水辺のせせらぎ。ほとんど静止していて、けれど目を凝らすと水面にころがる光の雫がふるえている。蜉蝣が遠い日を連れている。それは、蒸し暑くヒグラシの喚いたあの夏のこと。
「ずっと考えていたんだ」
シンジは深く瞬きをした。確か、ここは平和な世界の断片、のはず。
「何を」
「君のこと」
一歩前の歩幅を歩いてゆくカヲル。その背中の距離に胸が苦しくなるシンジ。
「僕のこと、考えてたんだ」
「そう。いつも君のことしか考えていないから」
あの夏と何も変わらない言葉。
「おいで」
あの夏と何も変わらない。
カヲルは道を折れて雑木林へと入ってゆく。幹の連なりの隙間からは夕凪の明るい水の輝き。湿った土を踏み、何も言わず、ふたりは歩いた。さっきのカヲルの響きがシンジの全身に脈打つ。たまらなく恋しい響きだった。
そして視界が開けた時、シンジは腰を抜かしそうになったのだ。
「ここは……」
「僕の秘密の場所だよ」
それは――あの時、ふたりが出会った夕暮れの湖畔、そのままだった。
「そして今日から僕たちの場所」
シンジは力の入らない足で立っているのがやっとだった。
カヲルはシンジに向き直る。嬉しそうに微笑んで、でもちょっぴりつらそうに、すねたような顔までして、シンジだけを見つめていた。
「君が誰を好きでも構わない。僕は君を見ているだけでも幸せだから」
カヲルの赤い瞳が、夕焼けよりも赤く燃えた。
「僕は君が好きだ。ずっと君が好きだった。これからも」
世界の何よりも赤く、きらきらと燃えていた。
「たとえ君の心に僕がいなくても、僕は君を想い続けたい」
その瞳に吸い込まれて、自分がここにいるのか、瞳の中にいるのかさえ、わからない。
「君を想うことを許してほしいんだ」
夢なのか、それとも――
「ありがとう」
燃え盛る赤い瞳の中、あの夏のふたりが微笑んでいる。
シンジは火炙りにされた。



イデアの天秤は不安定に揺れ動く。上がったり、下がったり。
「いいね、いいよ、君との音」
快活なフォルテ。シンジは生唾を飲み込んだ。
「いい響きだ!さあ、もう一度」
そう、とてもいい響き。心地好さにシンジは目を閉じた。
以前は頻繁にかち合っていた赤い瞳とはもう合わない。一抹の寂しさ。けれど目配せのない演奏はより音に繊細になる。
シンジは音楽に身をゆだねる。それは海に漂うよう。
あたたかい海に抱かれて、導かれる。水面から光を帯びた糸が差す。透き通る旋律の先。さざめくオクターヴ。
この匂い。旋律を奏でる彼の、渚カヲルの匂い。
シンジは心が安らいでゆく。遠い水面には木漏れ日が揺れる。そう、あの揺れる木立。世界の終わりに咲く一輪の花に似た、廃墟の置かれた一台のピアノ。ふたりの少年が奏でる、希望――
悲しみのリフレイン。
「どうしたんだい?」
シンジは目を開けた。
ヴァイオリンを置いて、白い指先は濡れた頬を拭っていた。
「ごめん。曲にのめり込んじゃった」
「片想いの相手?」
感情を抑えた声がした。シンジの瞳が痙攣する。
「ううん。渚君のヴァイオリンに感動したんだ。すごく素敵だった」
時が止まる。ゆっくりと、カヲルは笑った。
「……嬉しいよ。ありがとう」

過去と今とが交錯する。シンジの心はこんがらがる。
過去のカヲルを想っているのか今のカヲルを想っているのか、シンジはたまにわからなくなってしまう。密やかに混乱してふるえる音色。あふれてしまう想いにシンジは涙を流していた。カヲルの目の前で。
僕は最低だ。渚君を傷つけてる。
一方通行の想いを告げても尚、変わらずに想われる喜び。惜しみなく注がれる愛情に浮かれていた。何も考えられなかった。そして上昇するシンジを掴んで奈落へ落とし込む、亡霊。
もうカヲル君に会えないからって渚君を利用しているだなんて、知ったら彼は悲しむだろうね。

現実と夢とが交錯する。カヲルの心はこんがらがる。
ふとした時、カヲルは夢見た。ふたりの音が重なって、完璧に調和して、これ以上ないほどの恍惚を覚える時、カヲルはシンジと同じ気持ちだと感じるのだ。そしてもう、ふたりを遮るものは、何もない。
僕たちの出会いは運命なのかもしれない。
すると、完璧な調和はあっけなく崩れてゆく。シンジが見つめる自分の先に誰かの気配を感じる。後ろを振り返っても、その影は実体もなく、ただカヲルに忍び寄り、耳許でそっと囁く。
その完璧な調和は僕と同じだね。君は影。夢のようで実体もない、ただの錯覚さ。

「違う。確かに僕は感じたんだ」
校舎の屋上でカヲルは自分に語りかけていた。目を見開き、焦って、強張った表情で。
碇君が奏でていたあの曲には主旋律がない。
きっとその相手と弾いていたんだろう。
誰――そう聞こうとして何度もそれを飲み込んだ。誰かさえわかれば自分の何が至らないのかわかるかもしれない。努力すれば、その相手以上の何かになれれば、シンジは振り向いてくれるかもしれない。それが女の子だとしても、カヲルはその子と競いたかった。
あの伴奏に寄り添う旋律。ピアノの音色。カヲルは空を見上げた。僕だったら、どう奏でるだろう。
カヲルは何かに挑むかのような鋭い視線を宙に投げかけた。ヴァイオリンを構え、そして、思い出す。
シンジの音色――シンジの声。

ポロン、ポロン、
屋上へ繋がる非常階段では、ささやかな涙声がこぼれ落ちる。
「……君は誰、なのさ」
シンジは空耳を聞いたのだ。いつも耳の中で流れているあの旋律を。
カヲルの音色――カヲルの声。
けれどそれは確かに現実の空気を振動させていた。高らかに空へと抜けるビブラート。降り注ぐしなやかな音列を耳を澄ませ、シンジは駆け出す。光を帯びた糸を追いかけ、階段を上ってゆく。そして辿り着いた屋上には……今のカヲルがいた。
シンジは扉を細く開けて、その後ろ姿を眺めた。荒い息遣い、したたる冷たい汗、痙攣する瞳。演奏はフィーネを描いた。
「僕ならこう奏でるけれど」
カヲルはシンジに気づかず、ひとり空に向かって呟く。
「誰かさんはどう弾いていたんだろう」
シンジは扉を閉じた。音もなく。
わからない……
シンジは頭を抱える。
君は誰?
記憶を失くしてしまっても、同じ魂なら、心は覚えているものなのだろうか。
それとも同じ心を持っているから……?
わからない。シンジは唇を噛む。
君が僕の知っているカヲル君だったらいいのに。
そしたら僕も苦しくないのに。
こぼれ落ちる涙。シンジは叫びたかった。
君は誰?

約束の時間はとうに過ぎていた。カヲルは音楽室から外に飛び出す。待ち過ぎたのかもしれない。もう日は暮れかけていた。
「碇君」
闇の広がる廊下へと呼びかける。返事はない。
道なりに進んだ。そして階段に続く廊下の角を折れた時だった。
「碇君」
シンジが暗がりの隅で立ち尽くしていた。もう一歩も動けないというように。
「どうしたんだい?」
顎をやさしく持ち上げて、俯いた顔を覗き込むカヲル。そこには生々しい涙のあと。カヲルにそれを隠そうとシンジは首を傾けた。
「……何かあったの?」
押し黙るほど、泣き腫らした瞼も潤んだ喉の奥も、悲しみを浮き上がらせる。
「言いたくないなら言わなくていいよ」
カヲルはシンジの涙を拭った。ひんやりとやさしい指の感触。
「つらかったんだね」
頭を撫でてくれる心地好さ。そのまま溶けてしまいそうだとシンジは思った。カヲルのぬくもりに抱かれれば、きっともう何も考えなくてもいい。
身をゆだねたのはシンジからだった。
シャツをつまんで、小さく身体の体重を預ける。控えめに、でも、お願いと言うように、シンジはカヲルに擦り寄った。カヲルは最初、放心した。瞬きを深めて、手を添えようか迷いあぐね、指先を握り締めた。でも、自分の腕の中に納まろうとするシンジを確かに感じたら、覆っていた膜が弾けて、世界がカヲルを呼び覚ます。たまらなくなってカヲルはシンジを抱き締めた。そして痛いくらい理解したのだ。あいつのせいで碇君は泣いている、と。
「妬けるな」
脈々と感情が流れ込む。腕の力が強くなる。怒りと慈しみを綯い交ぜにして。
「君にそんな想いをさせる奴がいるなんて」
カヲルは知らない誰かにシンジの幸せを託そうとした自分を恨んだ。
「つらい恋は君には似合わない」
骨が軋むくらい抱き締められてしまうシンジ。首筋にカヲルの熱い息がかかる。
「僕なら君を幸せにできるよ」
耳許には、世界の誰にも聞こえないふたりきりの、秘密。
「僕は君を悲しませない。ずっとずっと、一緒だよ」
それは誘惑か、懇願か。
「ふたりで幸せになろうよ」
カヲルのとろけるほど甘い告白。
「ね、碇君」
咽ぶくらい甘い囁き。
カヲルは待った。けれど、いくら待ってもシンジの答えは聞こえなかった。
カヲルの腕はシンジを放した。
「……ごめん」
必死で微笑もうとしてぎこちない、カヲル。
「いいことばかり言って、君に自分の願いを押し付けてしまった。こんなことじゃ君を幸せにはできないね」
「違うよ、」
「いいんだ」
傷ついて途方に暮れるカヲル。その声色はシンジを突き放そうとする。
「違う!僕が悪いんだ、僕が……」
カヲルが離れてゆく。
「僕が……」

今だけ、今だけだから。カヲル君、僕を見逃してください。

シンジは力いっぱいカヲルの背中に腕を回した。
初めてシンジの心が露になったのだ。それは幾千の言葉で言いつのるよりも確かな想いをカヲルに伝えた。
シンジはいつもカヲルを求めていた。
カヲルは夢見心地だった。表面張力を超えた涙は重力によって落下する。このまま死んでしまってもいい。ふたりの心音が重なってゆく。ありえないくらい早く高鳴る鼓動。同じ温度で抱き締め合ったらもうどちらの音色かもわからない。カヲルは心の片隅でこう囁いた。
僕の勘違いなんかじゃない。
僕は君に会うために生まれてきたんだ。

きっと、君も。



時計の針は加速する。ふたりきりの放課後の邂逅。音階の会話。さざめくオクターヴ。くるくる巡って、続いてゆく。
美しい夕凪の調べはあの遠い夏へと近づいてゆく。新緑の眩しいサン=サーンス、柔らかな雨のシューベルト、そして――もうすぐあの蒸し暑い季節。
「なあ碇、先輩とどんな関係なんだよ」
「別に、友達だよ」
「放課後に音楽室でふたりきりなんて怪し過ぎるだろ」
「そうや、健全な男子の遊びちゃうで」
「健全な男子って……ピアノは音楽室にしかないんだから仕方ないだろ」
「おっと噂をすれば」
廊下にはカヲルの姿。校舎が離れているからこんな風に教室の前で顔を合わせることは今までなかったのだけれど。
「あ、渚君」
「碇君、そこにいたんだね」
カヲルは嬉しそうに駆け寄って来た。
「どうしたの?こんなところで」
「今日は早帰りだろう?」
「うん」
「それでね……先生に掛け合ってみたんだ。ほら」
カヲルはポケットから手を出してシンジの前にかざした。つまんでいるのは、何の変哲もない銀色の鍵。
「気の済むまで音楽室は使っていいらしい」
「すごい!よく説得できたね」
「ふふ。これからやってくかい?」
「うん!今すぐ用意するね」
カヲルはにっこりと笑う。
「よかった。じゃ、僕も鞄を取ってくるよ。またね」
「またね」
ふたりは互いに手を振った。
「これは……なぁ」
「おう」
後ろには何かに合点している友人たち。
「しゃあないやろ」
「相手が悪かったな」
「もう、言いたいことがあるならはっきり言えよ」
面倒臭そうにシンジは振り返った。
すると、ずっとシンジ自身も気になっていたことが確信に変わるのだ。
「あんな先輩に熱烈に迫られたら俺だって落ちるぜ、なあ」
「なあ」
ジリジリと含み笑いでせめられる。けれどシンジは冗談を切り返すのも忘れて、やっぱり、と胸が焦がれるのにまかせてしまう。
カヲルの態度はシンジの思い過ごしではなかったのだ。

混ざり合ったふたつの音色の余韻が満ちては引いてゆく。まだ陽は高い。生徒のざわめきを忘れた校舎。余韻を最後の一滴まで味わって、ひと際静寂に包まれている音楽室は……
「まるで僕たち以外誰もいないようだね」
ひっそりと息をしていて、
「みんな帰ったからね」
「穏やかだ。まるで――」
時計の針すら動かない、
「――やっと世界で僕たちふたりきりになれた。そんな気分だよ」
それはまるで夜にだけ匂い立つ花園。秘密めいた気配なのだ。そこに咲く花は怖いほど美しく、艶やかな花弁には官能の蜜がしたたり、狙った獲物を惑わしてゆく。
「ねえ、碇君。本当にそうなったら僕たちはどうなるんだろう」
甘い香りに誘われた虫はその魅力に抗えない。ひらひらと舞い降りれば、足をすくわれ、官能の蜜に溺れる。
「こうしてずっと音楽を奏でていられるかな。それとも……」
虫は、もう逃げられない、と、死期を悟る。
「ううん、きっとそうだ。僕たちは永遠にこうしているはずだよ」
「どうしてわかるの?」
「それが僕たちの願いだから」
虚をついて。燃えるようなザクロにシンジは射抜かれた。潤んだ赤い瞳は鍵盤に滑り降りる。
「この小節を弾いてみて」
五線譜を白い指先がノックする。シンジはおそるおそるその箇所の鍵盤に手を置くと、
「弾けないよ」
白い手が重なって、羽根のように軽くシンジを包み込む。
「一緒に弾こう」
それから奏でられるのは、やさしい波――さざめくオクターヴ。
たどたどしい響きはいけないことをしているみたい。シンジは内側から熱くなる。
「気持ちいい。もっと」
繰り返される甘哀しい楽句。肌理に張りつく過剰な意識。産毛が逆立つ。
「もっと、碇君」
耳許に湿り気のある声が響く。思わせぶりな声に身体は敏感になる。その柔らかさは誘惑を孕んでいるようで……
「もっと」
シンジの深い部分がしびれて、破裂する。我慢できない痙攣。背骨は密やかな音列を響かせる。昂っていた潮は、ゆっくり、引いてゆく。
悲しみの先へ。
「気持ちいい」
吹き出す汗に、僕はとらわれの身なんだ、と言い訳をして、シンジは目を閉じた。カヲルに心も身体も身をゆだねて、音の中で、ひとつになる。
もうどうなったっていい。
僕はずっとそうしたかったんだ。
「そうそれだ!もう一度最初から!」
弾けたようにカヲルは立ち上がった。ヴァイオリンを構え直す。ああそうか、シンジは思った。この感じなんだ。ふたりは瞳を交わしただけで音楽の野原を駆け出した。先程まではふたり同じ場所を並んで走るだけだった。シンジが岩肌につまずいてカヲルが手を差し伸べても、シンジはその手を取るふりをして転ぶことを選んでいた。けれど今はふたり手を繋いで草原を駆けてゆく。終わらない草原でふたりはひとつになり、草原はやがて飽和する。さようなら、重力。ふたりは宙に舞い上がる。それは死のように自由で、甘美で、それでいてとても、悲しい。いや、違う。シンジは思った。僕は嬉しいんだ。だから――
まだ、終わりたくないな。
ふたりこのまま身を寄せ合えたなら。崩壊する世界でひとつになって、何処までも。
もっとこうしていたいのに。
何処までも。
ふたりの指先はフィーネを描く。
草原は泡となり、世界の崩壊する余韻を和音は引き継いで、やがてそれすらも夢となって、消えてゆく。
ふたりは深い充足感に満たされて、もう身動きもとれなかった。平行する現実では、カヲルは情熱的に弦を張り詰めふるわせていた。シンジはその響きをひとつひとつを受け入れて音の粒をあふれさせていた。ふたつの楽器は境がわからなくなるまで音を混じり合わせてゆく。それはとても神秘的な体験だった。
音楽室には、ふたりの秘めやかな呼吸音だけがこだましていた。

妙に艶かしい夕陽の赤。ザクロに齧りついたかのよう、水辺にまがまがしい汁を散らして焔を灯す。ふたりは淡い背徳感を引きづりながら、まだ帰りたくない気持ちでこの初夏の湖畔へとやってきた。少し早めに夕凪は真夏の煮詰まった匂いに移ろいだ。
カヲルとシンジは遠くを見つめ、静かに途方に暮れていた。カヲルは淡い期待に時折泣きそうな顔をした。シンジは手の感触が火傷みたいに痛かった。ふたりは手を繋いでいた。ザクロの色に染まっていた。
少年たちの気怠そうな後ろ姿は不思議な色気に満ちていた。少し傾いたうなじも、もつれそうな足の運びも、大人に羽化するために背伸びをしているようだった。その中で真っ白い制服のシャツだけが純潔の旗のごとく、一陣の疾風に膨らみながらひるがえる。風の流れが変わった。陸から水面へ冷えた空気がなだれ込む。
「勝負させてよ」
カヲルがふと呟いた。
「同じ地平に立てれば僕が勝ってみせるよ」
シンジはカヲルの手を離した。カヲルはその手を握り締めた。
「僕たちはきっと同じ気持ちなんだ」
きつくきつく指を絡める。
「もうお互い誤摩化すことなんてできない。そうだろう?」
シンジは手を離そうと抵抗した。抵抗したけれど、
「君は僕のことが好きなんだ」
真実を前に、なす術を失くした。
「……時間を、ちょうだい」
シンジにはそれしか言えなかった。胸が張り裂けそう。ばらばらになってしまう。なのに……シンジの身体は崩れなかった。シンジは必死で耐えていた。無表情で罪の色をした水面を見つめた。それはあの夏の湖畔と何ひとつ違わなかった。

シンジは追い詰められてしまう。眠れない夜に手を伸ばす。
「僕は君と同じ気持ち……」
闇ではさまざまな渚カヲルが万華鏡の輝きになる。
「君は彼と同じ気持ち……」
その欠片たちは寄り集まって、やがてひとつに。シンジの透明な手がそれに触れた。
「僕は君のことが好き」
シンジはカヲルの幻影に触れた。
「君は、渚カヲル君……」
彼がどんな顔をしているのか、シンジは目を凝らした。
けれどシンジには、わからなかった。


時計の針は一秒の歩みを遅らす。
ふたり横たわって眺めたあの夜空の星々の速度で。
カヲルとシンジは今は忘れているだろう。あの虚無と無慈悲な深淵の世界を。
そこではいくら悩み尽くしても到達できない真実がある。
混沌においてはひと粒の輝きがすべてを支配することだってあり得るのだ。
それは心においても等しい。
際限なく続く闇、理論を超えて、光を帯びた糸は紡がれる。

譲れないものへ、がむしゃらに手を伸ばす。
そうしたら、ほら、
大切なものだけが手のひらに残る。


それからふたりはすぐに衝突した。
「時間をちょうだいって言ったのに!」
夏休みも目前のある日の放課後にて。長い授業がやっと終わり、浮き足立った他の生徒はコップからあふれる水の勢いで下校した。
「嘘つき!」
なのに音楽室だけは騒々しかった。
「渚君は嘘つきだ!」
さっき、シンジは聞いたのだ。カヲルは誰かと付き合っている、と。シンジの隣のクラスの女子が、カヲルに告白してそう言われたと言いふらし、学校中の噂になった。
シンジは自分が理不尽だとわかっていた。わかっていてもどうしようもない。カヲルにせまり、揺さぶって、罵声を浴びせる。ずっとおかしくなりそうだったと、シンジは思った。学校の秩序に埋もれて遠巻きからカヲルを眺める時、シンジは苦しくてたまらなかった。音楽室で独り占めしていたカヲルは実は幻影で、自分だけが見ている夢のように感じられたのだ。
「君は僕よりも噂を信じているようだけど」
カヲルは引っ張られるシャツをそのままに、すがり掴んだシンジの手を、そっと包む。
「君とのことが曖昧だからそう言うしかなかったんだ」
やさしく強張った指をほぐす。怖いくらい、繊細に。
「けれど君の指摘の一部は正しいね」
穏やかなのに激しい、倒錯した響き。嵐の前の不気味さでカヲルの顔が翳ってゆく。冷たい笑い声が喉から漏れているカヲルに、シンジの腕の力が抜けた。
「そうだよ、僕は嘘つきだ」
ずっとおかしくなりそうだった、それはカヲルも変わらなかった。
「僕は待っても仕方のないものを待ちながら、付き合っている、だなんて虚勢を張った」
カヲルはずっとシンジの答えを待っていた。けれどあの日はなかったかのように日常の中に溶けていった。もしかしたらあれはすべて夢だったのかもしれないと思うほど。カヲルはもがき苦しんだ。途方もない時間にひれ伏しながら。
「僕はいつまで待てばいい?」
虚しい期待。シンジの側にいるだけで首を締めつける心地がした。目が合えば、今かもしれない、と心臓を掴まれた。そして、次の瞬間に、自分だけがとり残される。いっそこのまま握り潰してほしいとカヲルは思った。殺してほしかった――
「いつまで……ああ!」
カヲルの白い腕があらゆるものを薙ぎ払う。楽譜が勢いよく散乱した。ひるがえり舞い遠くまで飛んでゆく。抜け落ちる羽根を連想した。開け放たれた窓からは白昼の名残の風が吹く。
「僕だって苦しいんだ!」
カヲルは頭を抱えて獣のような声で叫んだ。
「どうして僕ばかり、こんな気持ちに!」
剥き出しのカヲルはこんなにも猛々しかった。
「こんなのは、不公平だ!」
周りの机や椅子を蹴飛ばして、ヴァイオリンを床に叩き付けた。砕け散る木片。悲痛に歪む不協和音。
「ひどいよ、碇君」
散らかった真ん中で、降り注ぐ五線譜に囲まれてカヲルはつくばった。
「ひどい……」
床に押しつけた手に力がこもる。くしゃっと音符を描いた紙がひしゃげる。
カヲルは泣いていた。
その姿をシンジは黙って見下ろしていた。

僕は何をしているんだろう。

足許でカヲルがもがいて宙を掻く。まっさらな楽譜を憎らしげに破り捨てた。
シンジはまるで遠くを眺めるように、見下ろしていた。

僕は願っていたんだ。
男同士でもいい。他人なんて関係ない。ふたりだけの静かな時間に心を通わせられたなら。ただ、好きなひとの側にいられたなら。それはずっと願っていた夢だった。

シンジはしゃがんで膝をついた。嗚咽をあげて溺れているカヲルに手を伸ばす。その背中をそっと擦る。
「やさしくしないでくれ……勘違いしてしまう」
「勘違いじゃないよ」
泣きじゃくり小刻みに揺れるカヲルの頭をシンジがやさしく撫でてゆく。
「勘違いなんかじゃない」
銀髪は夕陽を宿してとても綺麗に輝いていた。懐かしい真夏の目眩。
「……カヲル君」
カヲルの中で何かが爆発した。切なさ、悲しみ、苦み、絶望――その類のアジタート。
カヲルは突然起き上がり、シンジに抱きついた。
「二番目でも構わない」
息もできないくらい掻き抱いて、すがりつく。
「そんな奴、忘れさせてあげるよ」
音もなく忍び寄る唇に、シンジは無意識に抵抗した。そのまま床に倒れてしまう、ふたり。
「好きなんだ」
シンジが拒絶するのを恐れるように、ふたつの手は縫い止められる。
「どうしようもないんだ」
涙をこぼしながら、カヲルはシンジにしなだれ込む。長い銀色の前髪に赤い瞳を隠して、淡く色づいた唇を近づけてゆく。薄く開いたシンジの唇へと落ちてゆく。

「負けたよ……」
けれど、数秒後にはカヲルはそう囁いていた。動かす唇が触れそうで触れないほどの距離で、カヲルは止まった。
シンジはカヲルの予想を裏切りまったくカヲルを拒もうとしなかった。
そのかわり、とても悲しそうな顔をしていた。目尻の端から透明な涙がこぼれてしまう。
ポロン、ポロン、
なのにシンジは自分が泣いているのにも気づかないのだ。悲しさをとぼけるようにきょとんとして、カヲルを見つめているだけだった。
心を何処かに置き忘れてしまったみたいだった。
そんなシンジにカヲルは何ができただろう。
「疲れた……」
カヲルは全身の力を失くした。プツンと糸が切れたかのよう。だらしなくシンジの上にのしかかる。光を帯びた糸はたなびく。シンジはそんなカヲルの背中に手を添えた。薄く微笑み、涙を絶え間なく垂らしながら、彼の名を呼ぶのだった。

カヲル君……



次の日、夕暮れの音楽室はとても静かだった。修了式を終えて、校舎にはひとつの人影すら見当たらない。
けれど、数刻前はそうではなかったのだ。
時計の針はくるくるとさかのぼる。

_ポロン、
_こぼれ落ちてゆく
_旋律

鍵盤があの未完成な音列を紡いでゆく。明るい白昼に不釣り合いに悲しくて、一瞬の風に乗って聞こえて来たなら悪戯だと思ってしまうだろう。
けれど、招待状を貰った者にはそれは違った。早朝の下駄箱で、それはひっそり待ち侘びていた。

_ポロン、ポロン、
_さざめくオクターヴ

秘密の手紙――シンジは何もかもをカヲルに打ち明けることにしたのだ。彼は想いを綴りながらこう感じていた。
僕がこうして存在しているのなら、あのカヲル君だって何処かに存在しているんだ。きっと、今のカヲル君の中に。
泣き疲れたカヲルを腕の中に抱きながら、シンジはカヲルを初めて感じた気がした。カヲルの身体は重かった。制服越しの体温は見かけよりも熱かった。暴れて発熱したのかもしれない。熱い涙が首筋を濡らして冷たくなる。湿った息。不規則な吐息。鼻を啜る音。
生きている。生きている温もり。
結局、僕は自分のために悩んでいただけなんだ。
シンジは力尽きたカヲルの身体に耳を澄ます。確かに心音を感じた。
ポロン、ポロン、
喜びも痛みもぜんぶ、ここにちゃんと宿っている。
これ以上のことがあるだろうか。
彼は生きているのだ。
渚カヲルは、今を、生きている。

僕は渚カヲル君が好きだ。

胸にあふれてしまう、願い――

僕は今を生きたい。
渚カヲル君と、生きたい。

碇シンジがようやく目を覚ました。


放課後に迷子になってしまう。
カヲルは歩き慣れた校舎を早足で過ぎてゆく。澄み渡った真夏の陽射し。喧噪を遠くに映す教室。群青の窓のデジャヴをくぐり抜け、彼は探していた。あの音のする方へ。
あの音。それをずっと待っていた。透き通るような、懐かしい、噎せ返るほどの心。
ピアノの音色。

旋律は光を帯びた糸。カヲルを誘い、手を引いてゆく。階段を駆け上がるとそこは三階の隅。音楽室。
開け放たれた窓の向こうには少年がいた。同じ制服。顔は見えない。
漏れる音楽は途切れ、空白を落とす。片言なお喋りみたいに未完成。不自然な低く悲しげな伴奏。頼りなくまた、ポロン。まるで泣いているような響きだった。
だからカヲルはドアを開けたのだ。

音楽の止んだ音楽室にカヲルは朗らかに語りかけた。
「いいよ、続けて」
緊張して俯いたシンジの横顔。途方に暮れた指先に、白い指先が触れた。
「反復練習さ」
シンジの右側にカヲルが座った。ピアノの前で椅子を半分こして肩を寄せ合うふたり。
――僕と一緒に連弾をしてみませんか。
カヲルは秘密の手紙を読んだのだ。けれど、驚かなかった。
「いくよ」
「でも、」
「いいから、さあ!」
鍵盤の上を駆け出す白い指先。

前夜のこと、カヲルは不思議な夢を見た。
幾千年も続くような長い長い夢だった。そこでカヲルは思い知ったのだ。
僕はシンジ君を幸せにできない……
絶望を繰り返し、カヲルは自らの意思で記憶のすべてを白紙にした。
それなのに、

_僕の声
_泣けない僕の

どうしてもカヲルは辿り着いてしまう。
“ 僕は君に会うために生まれてきたんだね ”
シンジへと。

_悲しみの音列に
_僕は君を見つける
_ポロン、ポロン、

シンジが泣いているのならカヲルは手を伸ばすしかない。
たとえ届かないとしても。自ら手放したものだとしても。
それが本当の願いだとしても。
何度だって。

_ポロン、

その指先はフィーネを描く。

「上手になったね、シンジ君」

_君の声が聞こえる



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