居酒屋に灯ともる頃


まるで春のような陽気。三月の半ば、三寒四温も通り過ぎたのかもしれない。窓からは卒園式の校庭が見えた。うららかだ。隣の小学校の卒業式は風の強い寒い日だったというのに。大学もしばらく休みでシンジは今、やりたいことリストを消化中。アウターをダウンより一段軽くして、颯爽と部屋を飛び出す。春の匂いの午前の空気を肺一杯吸い込んで、アパートの階段をリズミカルに降りていった。そしてふと立ち止まり、また歩き出し、立ち止まる。

「…父さん!」

最初はすごく似た人かと思った。直後、あんなサングラスかけてるのは父さんしかいないじゃないか!と自分にツッコむ。何故かシンジの父・ゲンドウがアパートの前にいるのだ。

「ああ」
「ああじゃないよ!」

シンジは駆け出した。ゲンドウは十字路の真ん中で迷子になっていた。自分の息子がこんなみすぼらしい所に住んでいる筈がない。けれどあっちのマンションは妻・ユイに教えられた名前とは違う…そんなゲンドウの態度が手に取るようにわかってシンジは肩をすくめた。

「よくちゃんと来られたね。母さんなしで」
「ああ」
「ああばっかり言わないでよ」
「……おお」
「おおってなに」

シンジがプッと吹き出し笑ったので、まあ、全部良好だ、とゲンドウは思った。ひとり暮らしになってすっかり実家に寄り付かなくなった息子にやっと会えたのだ。素直に息子の笑顔が嬉しかった。

「まさか父さんがいるなんて思わなかったから驚いたよ」
「お前に会いに来たんだ」

シンジの実家は第3新東京市にある。ここから電車で1時間半ほどの距離なのに、日々の生活に流されると遥か遠くに感じてしまう。よっぽどのきっかけがなければ電話やメールでおしまいだ。ゲンドウも仕事に忙殺されていてそんなに寂しくはなかった。そのうち会いに帰ってくるだろうとかまえていた。かまえていたが、

「僕に?え?どうしたの?」

シンジは帰ってこなかった。

「嫌なのか?」
「そ、そうじゃないけど…」

シンジの表情がちらっと暗く変わったのでゲンドウはムッとした。子供の頃は自分が少しでもかまうとはにかんだ息子ももう、大人の階段をのぼってしまったのだ。切ない。そんなゲンドウに気づいてシンジは「いきなりだったから…」と付け足した。あの幼い頃から変わらないはにかみ顔で。

「せっかくだからさ、街を案内するよ。旧東京の下町って父さんあんまり行ったことないでしょ?」

そしてゲンドウとシンジは道なりに歩き出した。人をおもてなしなんてしたこともないゲンドウには、シンジに会いに来て何をしようなんてプランはなかった。ただ「シンジは元気にしているのか?」とユイに毎日毎日聞きすぎて「そんなに気になるなら直接シンジに聞けばいいじゃない!」と家を追い出されたのだった。

「…元気か?」
「元気だよ」

2秒で本日の目的は終了した。

「……」
「……」
「…どう元気なんだ?」
「どうって…まあまあかな」
「まあまあとはなんだ」
「え。まあまあはまあまあだよ」

いつまでも雲がかった押し問答にゲンドウは当惑した。

「……」
「……」

部下ならあしらい方を心得ているのだが。そういえば、息子とまともに会話をしたことがなかったかもしれない。ゲンドウは気がついた。

「大学はどうだ」
「まあまあかな」
「生活は」
「それもまあまあ」
「…私には何も話したくないようだな」
「え、違うよ」

だっていつもは…

「母さんには何でも話すようだがな」
「だから違うって!」

ユイがふたりの間に入ってくれるので成り立つのだ。ゲンドウは通訳者を置いてきてしまったらしい。ふたりは無言でとりあえず歩くことにした。


駅前にさしかかると人通りも増えてきた。賑やかな街の喧噪はふたりの間にぽっかり開いた隙間をごまかしてくれる。

「街には慣れたか」
「うん、いい街だよ。住みやすいんだ」

ゲンドウにはゴミ箱の中にあるしみったれた風景のように感じた。

「お前は内気だからなかなか慣れないかと思ってたが」

第3新東京市とは比べたくても比べられない場末。どうしてシンジはわざわざこんな街を選んだのだろうか。ここに居続けたら自分まで時代から遅れをとってしまいそうだ。ほら、風の匂いまで前世紀の馬糞臭い。

その時、ゲンドウは立ち止まった。トンカツ屋の無駄に広い駐車場で男と男が抱き締め合っていたのだ。やばい。シンジと同じくらいの学生ゲイカップルが絶賛ルンルン中だ。ソースの匂いのするキスだろう。午前から何してるの君たち!とシンジは心の中で叫んで見て見ぬフリをした。

「新時代の幕開けだな」

シンジほどゲンドウに配慮はなかった。

「今じゃ普通だよ、」
「お前もそうなのか?」
「ととと父さん!旧東京は進んでるってことだよッ!あ、」

そこでシンジは誰かを思い出したらしい。ちょっと電話してくる、そそくさと塀の影まで行ってしまった。ゲンドウは時計を見た。もうすぐ昼時だ。

「もしもしカヲルくん?」
『ふふ、もしかしてお寝坊さんなのかい?』
「ううん。ごめんね連絡が遅れちゃって。実は今日、急用が入っちゃって」
『僕よりも大事な?』
「そ、そんなわけないじゃない!でも行けないんだ。ごめん」
『……』
「怒っちゃった?」
『あやしい』
「え」
『僕に内緒で誰と過ごすつもりかな?』
「もう、何言ってるのさ」

「シンジ、何をしている!」
「もう少し待ってよ!」

苛ついた父の声。人のために少しも待てないんだから、シンジの心は地団駄を踏む。

「ごめん後で全部話すから。もう行かなきゃ」

これ以上怒らすと厄介なのでシンジは会話を強制終了し携帯をポケットに入れた。通話口から悲しみの断末魔が聞こえた気がした。

「今からハイヤーを呼ぶ」
「え!?どこまで行く気?」
「ネルフの近くだ。寿司屋がある」
「やだよ!何時間かかるのさ!」
「なら何がいい。美味いものを食わせてやる。昼だ」
「僕あんまりお腹すいてないし別にいいよ」

と言ってみたのだが、食事以外にどう時間を過ごせばいいのかわからない。

「…あっちにお店あるから行ってみよっか」

そしてふたりはまたとぼとぼと歩き出す。電車でちょっと都心へ出れば飲食店はいくらでもあるのだが、親子で電車は気が引けた。けれど時計の針が真上を差すまで歩いてもいい場所が見つからない。内心シンジは何でもいいのだが、ゲンドウは気に入らないらしく、どの店も素通りしてしまう。実際ファミレスかボロいラーメン屋しかなかった。

「ねえ、お寿司屋さんあったよ」

いつの間にかふたりはうっすら汗をかいて上着を脱ぎ手に持っていた。目の前には横断歩道のない十字路。これ以上先にはもう何もはなさそうだ。歩道橋を渡る気力も薄れてしまう。

「入ろうよ」
「…ああ」

だからようやくここへ入ることにした。平日ワンコイン以下の回転寿司のチェーン店へ。


「何故遠慮する」
「ん?」

シンジは向かい合わせのゲンドウに粉茶を入れ、おしぼりを渡し、二人分の箸と皿を用意して、タッチパネルで注文するやり方まで丁寧に説明した。そしてやっとたまごの皿を取ったところだった。

「別に遠慮したんじゃなくて父さんが慣れてないと思ったから」

するとゲンドウは黙ってタッチパネルで注文を始めた。画面を見ながら、父さんお腹すいてたんだなぁと思ってシンジもほっとして、たまごを食す。そしてシンジが回っているサーモンの皿に手を伸ばした時、ブザーが鳴った。金皿の大トロ列車が3連結して到着した。シンジは父にとってあげた。

「お前のだ」
「え?僕頼んでないよ」
「遠慮するな。ちゃんとしたものを食べろ」
「遠慮って…!僕はたまごが好きなんだよ!父さんは何も知らないんだから!」

赤くなる頬。たいてい家族で外食に行っても父が勝手に“ベストなもの”を注文してしまう碇家。シンジは食べたいたまごを食べさせて貰えなかった苦い過去を思い出した。目尻がピクピクする。

「…魚は嫌なのか」
「好きだよ。でも僕は昔からねぎとろとサーモンが好きなんだよ」

はて。そうだっただろうか。ゲンドウは肘をついて両手を組んで考えた。さっぱり思い出せない。懐かしいそのポーズ。シンジはストレスを緑茶を啜って喉の下へ流し込む。両手を組んで父の真似をした。

「父さんは考える時いつもこうするよね」

ゲンドウとシンジはしばらくそのままでいた。そしてシンジは眩しい金皿を見下ろす。寄せては返すさまざまな記憶。いつも自分の意見なんてないもののような扱いだった。遠く離れて暮らしてみればそんな苦みも昔ほどではない。なんとなくシンジは笑ってみた。どっちのかもわからないお腹の音が続く。それから父の注文した大トロをシンジは美味しそうに食べて、タッチパネルを何度か押した。

「父さんはエンガワが好きだよね。ここ何種類かあるんだよ。オススメはこの軍艦だけど、どれがいい?」

ややあってテーブルに届いたエンガワは、わさびの茎で和えた軍艦仕立て。高級な味ではないが、ゲンドウにもまあまあな気がした。


お腹が膨れると眠くなってくる。食べ終わって店から出たらさっきよりもポカポカと暖かい。天気予報では日中は二十度を超えるとのこと。シンジが携帯を気にしているのがゲンドウは気になった。食事中も何度もそれは震えだして最終的には無反応に設定を変えたらしいが、何かしらの連絡が来ているのだろう。ゲンドウはそういえばトンカツ屋の前でシンジが誰かに電話していたのを思い出した。

「予定があったのか?」
「ううんなんでもない。父さんはこれから行きたいところある?」
「ない」
「そっか…」

シンジは空を見上げた。昼ご飯が終わった。もう寝たい。暇つぶしのカードが切れてしまってなかなか気まずい。この街は近隣の大学の学生でどうにかもっている感じだ。シンジはその廃れてやる気のない風情がなかなか好きなのだが、誰かと暇をつぶすとなると話は別。映画館もショッピングセンターもない。図書館とシャッターの下りた商店街ならあるのだが。今も住宅街方面へ長旅をしたからやっとファミレスエリアに行き当たっただけなのだ。

「いい天気だね」

そもそもシンジはなるべく親に干渉されないようにこの街を選んだのだ。自分の貯金とバイトでやりくりするために。だから別に親孝行するためじゃない。つまらなそうなゲンドウの横顔に、シンジは自分のできる以上の使命が課されていると感じた。来るなら連絡くらいしてほしかった。さっきから携帯も不穏な動きを見せていて非常に気になって息が詰まる。ああ、まったく。

「シンジ」
「はい?」

後ろから声がして振り返った。自分の父が不審者のように店のウインドウに貼り付いていた。

「ど、どうしたの?」
「買ってやる」

え、と呟く暇もない。ゲンドウはシンジの返事も聞かずに店へと入っていった。どうしてこんなところにあるんだろうという老舗の時計屋。時空の裂け目からやってきたように周囲に馴染まず洒落ていた。洒落てはいた。

「僕スマホで時間見てるからいらないよ!」

シンジはちっとも腕時計なんてほしくはなかった。その上ゲンドウはファッションに関して全くというくらいセンスがない。トンチンカンにもほどがある見立てを昔からするのだ。ほら、手に持ってみたそのピカピカ高級時計も。そんなの高層マンションに住んでる起業家が両手にハメてるイメージしかないじゃないか。

「父さん!」

なのに。ゲンドウはさっさとシンジに“ベストなもの”を選んでしまったものだから、ふたりが公園に辿り着くまでシンジはほとんど死んだ顔をしていたのだった。



「気に入らないのか」
「さっきから嬉しいって何度も言ってるでしょ」

フンッと鼻を鳴らして、シンジはなるべく自分の左腕を見ないようにした。目の端が眩しい。どうしてそこだけが意識高い系なんだよ!とツッコミたくなってしまう。シンジはチノパンにシャツにPコートというザ・大学生のコーディネート。しかも繁華街に出れば似たような組み合わせを10人は見かけるような無難な配色。そう、シンジは目立つよりも溶け込むような存在感でありたいのだ。それなのに、この忌まわしい成金時計は俺が俺がと主張している。それでも父に着けろと言われれば身に着けてしまう自分が憎い。シンジは何度目かの溜め息をついた。

「父さんと公園なんて何年ぶりだろうね」
「よく来るのか」
「うん」

ふとよぎる誰かの影。シンジはポケットに触れた。

「よくこれに友達と座って話したりしてるよ」

白馬が二頭仲良く並んでいた。大きなバネが地面の土台から生えて、そのツルツルボディにくっついている。座ると揺れるスプリング遊具だ。

「……」
「父さんも乗ろうよ」

大学生にもなってこんな幼稚なものを…とシンジは父を苛つかせられると思っていた。けれど、ゲンドウが素直に乗りはじめたので逆に驚いてしまう。いい歳したオッサンと青年が何が楽しくて幼児向きの遊具でくつろいでいるのだ。

ま、意外と楽しいんだけれど。

「将来のことは考えているのか?」

ゲンドウがギイッと音を立てながら極めてさりげない口調でシンジに聞いた。まっすぐ前を向いていた。そこで、シンジは今日の訪問の真の目的がわかった気がした。表情が暗くなる。

「…まだ、考え中」

無理な姿勢でもちゃんとステップに足を添えてハンドルを握っているふたり。端から見ればそっくりな親子なのだが、シンジにとって、父と自分は恐ろしいくらい考え方が違う。それはいつだってシンジの心を寂しくした。

「もうそろそろちゃんと決めて準備をしなければ遅れをとるぞ」
「わかってるよ」

ゲンドウのまっすぐ向けた視線の先、植え込みに隠れて女の子が不審の目でふたりを睨む。

「ネルフは嫌なのか?」
「嫌じゃないけど」

シンジは明らかに嫌な顔をしながらギコギコと神経質に前後に揺れた。

「押し付けないでよ。僕は僕の好きにするから」
「では何がしたいんだ」
「それは…」
「いつまでも優柔不断じゃいかん」

はーあ、といかにも不機嫌なシンジの溜め息。たちまち辺りが湿った暗い空気になってしまう。植え込みでは女の子が三人に増えて拾った棒で武装していた。

「僕は父さんみたいにはなれないんだよ…」

ゲンドウはサングラスの端からチラッと息子を見た。不安そうに小刻みに白馬に乗って揺れている。だんだん激しくなって危ない雰囲気を醸している。と、その時、シンジのポケットから携帯が落ちた。その衝撃で携帯の画面が明るくなる。サングラス越しでも見える、不在着信…184件。

「…用があるなら折り返せ」
「う、うん」

どう思われただろう、爆発しそうな携帯を握り締め、シンジはそそくさと公園の出口まで駆け出した。途中、植え込みから女の子のインディアンたちが飛び出してきたので、驚きのあまり倒れそうになるシンジだった。


prr...
『シンジくん!ああ!シンジくん!』
「か、カヲルくん、」
『ああ!シンジくん!!ああ!ああ!』
「落ち着いて。ごめんね折り返せなくって」

シンジは後でおぞましいメールの数々をチェックするハメになる。シンジと連絡のつかなくなったカヲルは、心配→努力型ポジティブ→絶望→現実逃避→…と繰り返し、ちょうど今は絶望期。不穏なメールを送った直後だった。『シンジくんを奪ったヤツをこれからGPSで探しに行こうと思う』と。

『うう…シンジくん…』
「な、泣いてるの?本当にごめんね。実は父さんが突然やってきて」
『嘘だ!』
「え」
『お義父さんがそんなことするはずがない!』
「僕も数時間前までそう思ってたけど」
『やっぱり僕は敵をとりにいくよ…』
「ちょっと何する気?」
『君を惑わしているソイツを二度と悪さができないようn』
「駄目だよ!」
『めちゃくちゃにしてやr』
「僕を信じてくれないの?」
『……』
「父さんは別にちっとも信じなくていいけど、僕は信じてよ」
『……』
「ね?」
『……』
「お願い」

あまーい声。

『………わかったよ』
「ありがとう。今晩、遅くなるかもしれないけどちゃんと説明しにいくからね。待ってて」

「大好き」と囁いて画面越しにキスを送るシンジ。ちょっとずるかったかなぁと思いながらも、あそこまで自分のことで取り乱すカヲルにゾクッと喜んでしまう。ふふ。早く会いたいと胸をキュンとさせながら、ちっとも会いたくない父の元へと急ぐのだ。

「ちゃんと折り返したよ」
「彼女か?」
「ち、違うよ!そんな人いないよ、やだなぁ」

ドキッとした。

「なら何をそんなにしつこく連絡する必要がある」
「えっと…友達が僕に何かあったかもしれないって心配してくれたんだよ。実は今日約束してたんだ。それでさっき連絡したんだけど、なんだか誤解があったみたい」

心の中で(元)友達、と言い直す。ゲンドウはふうんと一応の納得をして、リズミカルに揺れていた。だいぶコツを掴んだらしく円を描いて楽しそうだ。

「あ、そうそう。その友達は卒業したらネルフに行きたいらしいよ」

ゲンドウはピクッと片眉を上げた。

「お前も一緒に来るなら口添えしてやろう」
「いいよ。彼はそんなのいらないもの」
「優秀なのか?」
「すごくね。学校でも一番だよ。僕、あんなにすごい人がいるなんて知らなかったよ」
「できる仲間がいるのはいいことだ」

ゲンドウは思いきり体重を前方に移動させた。テンションがファビュラスマックス。つんのめった姿勢のままでプルプルと維持している。何をしているんだろう。ポカンとするシンジ。まだ維持している。体を張ったギャグなのだろうか。

「もう、何してるのさ」

あはは、とシンジが笑いながら戻してやると、軽く咳払い。ウケた嬉しさを隠している。

「会いに行くか」
「?」
「お前の友達に」
「!?!?嫌だよ…!」
「何故嫌がる」

何を突然。シンジは倒れそうになった。

「だだだだって迷惑じゃないか!」
「仲がいいんだろう?」
「そ、そうだけど用事があるかも」
「お前と約束していたんだからないだろう」
「……じゃあ、まず連絡して」
「駄目だ」
「ええ」
「サプライズだ」
「ええ!?」

数年に一度くらいの父の茶目っ気がこんな時に発揮されるとは。シンジはゲンドウに首根っこを掴まれて連行された。父と息子で電車に乗るのは生まれて初めてだった。



何度目かのチャイムでインターホンは応答した。シンジは父がカメラに映るように試行錯誤したのだが、ゲンドウはサプライズの演出にこだわった。シンジが何か言う前に室内からドタバタと足音が聞こえてきて、シンジはまずいと思ったが時既に遅かった。

「シンジくぅーーーーーーーーーーん♥」

玄関のドアを開けるや否やタオル一枚のカヲルが飛びついてきた。シャワーを浴びていたらしい。銀髪が濡れていて、何よりも、裸だった。

「ンガッ、かをりゅk――」
「サプライズでやってきてくれるなんて嬉しいよ!!ああ!僕の愛しいシンジくん!!」

熱烈な歓迎だ。息ができないほど抱き締められてクルクル回されアハハハハ…腰に巻いているタオルがはだけて美尻が丸見えになっている…!

「かかかカヲルくん!タオル…」

密着している股間がどうにか布切れを繋ぎ止める、が、もうすぐぱらんと落ちてしまいそう。なのにカヲルは今、愛の喜びにうち震えるのに夢中だった。

「一度離してt」
「もう二度と離さない!!」
「ねえ聞いてと」
「嬉しくて死んでしまいそうさ!でもまだ死ねない!これから君にラブをうんと注入s」
「落ち着いて!とう…ちょっ!?」

実演よろしく腰を擦りつけてくるカヲル。全力で止めるシンジ。

「落ち着けないよ!たった今、碇シンジくんが僕の腕の中にいるんだからね…!」
「うんもうわかったよ!実はさ父さ」
「もうビンビンになってきたよ♥見るかい?僕のおちんちn」
「父さんがいるんだよ!!」

開いたドアの隠れた向こう側、カヲルはお義父さんを発見した。

「……」
「…はは。最新鋭のジョークですよ。さあ、お入りください」

よく来てくださいました、とご挨拶の最中、タオルが落ちてもうひとりのカヲルもご対面してしまった。

平常心よ、来い。


ゲンドウはあまり深く考えないことにした。部屋に入った時も泥棒でも先に来ていたのだろうと思うことにした。シンジにはそれがカヲルの苦悩の跡だとわかった。とりあえずシャワーに戻ったカヲルを待ちながら、羽毛が溢れたビリビリの枕をさくさく片付けるシンジ。父に何か質問でもされたら大変だ。

「シンジくーん!着替えを取っておくれ!」
「はーい!」

シンジはゲンドウをチラッと睨む。

「…父さん、絶っっ対に何にも触らないでね!」

ゲンドウはソファに座って、何の迷いもない動線で荷物をまとめてシャワールームに向かう息子をじっと眺めていた。首を傾げる。壁にはシンジの写真やデッサンばかり。首を傾げる。彼は何をやっている人間なのか。少し待って息子が戻って来ないので、おもむろに目の前の引き出しを開けてみた。音を立てずに物色すると落書きの束の下、一冊のノートが出現。牛革の焦げ茶色のカバー。ふむ、どうやら日記らしい。迷わずに開いてみる。

!?

ヤヴァイ…!ゲンドウは声にならない叫び声を上げて慌ててそのページを閉じた。見開きいっぱいに息子の名前が書きなぐられていたなんて。急いで呪いの書を机に戻して立ち上がる。棚を見ると…明らかに息子の物と思われるマグカップを見つけてしまう。ハート模様にSHINJIと書いてある。取っ手までハートのかたち…それだけではない。ペアで揃った生活用品の数々が…


「カヲルくん、早く戻らないと」

まんまと捕まってしまったシンジ。カヲルの演技に騙されて風呂場に入ったらドアの前で立ち塞がれてボイコットされてしまった。

「見て。処理したばかりなのにもうおっきくなってるよ。ウフ♥」
「ウフじゃないよ!そんなことしてる場合じゃないでしょ!」
「いいじゃない。君が他の男から戻ってきてくれたんだから」
「変なこと言わないでよ」

と言いつつも恋人に裸でそんなこと言われるのはまんざらでもない。今日はふたりで一日中イチャイチャする予定だった。むくむくともたげる欲を理性でようやく抑えている。大学生だって溜まっているのだ。

「今日、お義父さんに僕たちのことを報告しようか」
「駄目だよ。父さんはこういうのちゃんとしなきゃ怒るもの」
「今からちゃんとするよ」
「行き当たりバッタリは駄目だって。元々理解なんてなさそうなんだから」
「そうだね…じゃ、今は勃起が止まらない僕を慰めて」

風呂場の壁にシンジを押しつけ唇を塞ぐカヲル。まだ体も拭いていないのに。冗談混じりの口調とは裏腹に、切なさがこぼれてしまう。

「君が浮気なんてできないようにしなくては」

シンジに心を掻き乱されてきっと寿命が縮まった。なのにまだ、淡い抵抗をされてしまう。

「…しないよ。けど今は父さんのことを考えよう?」

顔をそむけてつれないシンジ。父親を警戒してか他人行儀だ。そんなシンジに興奮して体を押しつけてしまうカヲル。手首を掴む。すると感じる、金属の感触。

「これは?」
「ああもう!忘れてたのに!父さんが無理やり買ってくれたんだよ」

袖を伸ばして隠していたのに。時計を気にしていると、

「他の男の贈ったものを身につけてるなんて」
「父さんも他の男なの?」
「ずるい」

やっぱり軽い言葉とは真逆の、情熱の瞳。真っ赤に燃えて、愛を乞う。

「…服濡れちゃったよ」
「ドライヤーしてあげるよ」

毛先から雫が頬にしたたるのを感じながら、シンジはもう一度カヲルの腕に抱かれた。唇を重ね合わせて、舌を絡める。

「…ふ、」

脱線して、濡れた唇が首筋をつたう。父親が待つ背徳感が、ふたりを煽る。

「……ん」

気持ちよさに目を閉じて、深く感じ入ってしまう。シンジは流されやすかった。何度か我に返ろうとするのにカヲルの滑らかな指先になだめられたら、もうそのまま。風呂場の熱気が思考を奪う。

「あ、ちょっと、」

だから、気づいて目を開けた時には、

「それ擦りつけちゃ駄目!だって…!」

遅すぎた。

「あ…!」「あ♥」
「……」
「……」
「あ〜あ!!汚れちゃったじゃないか!」
「…洗い流そう」

どうしようもない。


いつまでも息子が戻ってこないので、ゲンドウは部屋の散策を始めた。シャワールームに聞き耳を立てることもちょっと頭をよぎったが、恐ろしくて対角線の壁に向き合うことにした。一面に写真やスケッチの画用紙が貼り巡らされてある。そのほとんどの被写体はシンジだ。天井に届くほどのボリュームで息子の時間が紡がれている。自分の知らない時間。そこには見たこともない顔をした、たくさんのシンジがいた。

「カヲルくんは芸術家なんだ」

後ろからシンジが自慢げにそう呟いた。静止画のシンジは楽しそうに笑って、素直に怒って、無邪気に喜んでいる。遠くを見つめる横顔、ハッと驚く不意の仕草、そして正面ではにかむ、あのゲンドウも知っている愛らしい笑顔。生き生きと人生を謳歌する息子の姿。不覚にもゲンドウはうるうるしてきた。

「母さんとも撮ったよ」
「!?」

ゲンドウのちょうど目の前の写真に――なんとユイがいた。どこか知らない居酒屋でシンジとあの怪しい男友達(ゲンドウも薄々勘づいてはいるが今はこう思いたいのだ)に挟まれてニッコリダブルピースをしている。聞いてないぞ、と写真の中の満遍の笑みの妻に文句を垂れてみるが、そう言えば「シンジの大事なお友達に会ったのよ〜」と言っていた気もするので、ゲンドウは真顔になってしまった。

「いつだ?」
「うーん、これはこの前のだから先月かな?」
「なんだ。何度も会っているのか」
「うん、そうだよ」

裏切りを知ってしまったような心地。あれもこれもと指差す方角、すべてに妻が目撃された。むしろ何故今まで気づかなかったのか。写真の妻はその大事なお友達をえらく気に入っているらしく、自分といる時よりもなんだか幸せそうである。照るほどの肌ツヤ、これは女性ホルモンのなせる業なのだろうか。

自分だけ蚊帳の外。この疎外感たるは。

「お待たせしてどうもすみませんでした」

爽やかな笑顔。半乾きの髪のまま肩にタオルをひっかけたカヲルが登場した。いかにも慌ててきたという風。ゲンドウは身構えた。自分の知らないところでこいつは…

「先程はお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。改めまして、渚カヲルと申します」

愛想よくほどほどにかしこまった挨拶は会社の面接なら申し分ない。だがしかし、蠱惑的な声といいその態度といい、いかにも胡散臭い。まるで詐欺師のようじゃないか。頭ではつらつらとそう敵意を剥き出しにしても、ゲンドウは微かに頭を縦に振るのみだった。三人分のお茶を淹れたシンジはカヲルに目配せをする。

「そうだ。お義父さんはあんぱんがお好きと聞きました。実は美味しいパン屋が近くにあるんですよ。買いに行ってきます」

カヲルがそう機嫌を取って仕切り直そうとしたら、

「シンジ、お前が行ってこい」
「え!?」

とゲンドウ。シンジはふたりを残すのは非常に不安で仕方なかったが、出て行くほかなさそうだ。カヲルに目だけでエールを送り後ろ髪引かれる思いで外出した。カヲルは心でアーメンと十字を切った。

「私の息子をどう思う」

シンジの姿が見えなくなったのを確認して、ゲンドウは愛想のかけらもなくカヲルにそう尋ねた。カヲルは生唾を飲み込んだ。

「シンジくんほど素晴らしい人はいません。僕は彼を尊敬しています」
「…君には将来の展望があるらしいな。ネルフに入りたいと聞いた」
「はい」
「息子の将来については何か聞いているか?」
「それは…シンジくんは今、無限の可能性の中から選択しようとしているようです」
「ほう。なら君から息子に同じ場所に進もうと働きかけてくれれば助かるんだが」
「どうでしょう。僕のようなつまらない人間とは違い、シンジくんはたくさんの才能に恵まれていますから」

ゲンドウの指先が膝をトントンと叩きはじめた。

「息子も君のことを高く買っていた。優秀で芸術家だと」
「ふふ、趣味で絵や写真をやっているだけですよ」

正確には“シンジを被写体に”そうするのが趣味だった。

「写真には妻もいたが」
「ああ!お義母さんとはよくお会いしています。とても聡明でチャーミングな方ですね。実はシンジくんやお義母さんからお義父さんのことは以前からよく伺っていたんですよ。お噂通りでした」

そしてここでカヲルは本領を発揮する。

「シンジくんが立派なのはお義父さんの背中を見て育ったからなんですね」

が。

「君は口が立つな」

ここでゲンドウも本領を発揮する。

「そういう人間を大勢見てきたよ。揃いも揃って悪知恵が働く」

カヲルのこめかみにつうっと垂れる焦りの色。婚活最終面接はなかなか難儀そうだ。ラスボスにメラメラ燃えるカヲルであった。

と、その時、シンジが早すぎる帰宅。

「今日定休日だって忘れてたよ!あれ?どうしたのふたりとも」
「なんでもないよ、シンジくん」

いつの間にか身を乗り出していたゲンドウとカヲルはおとなしく着席した。

「残念だね…」

カヲルは腕を組んで考えた。ピンと閃く。

「そうだ!ここにいるのも味気ない、あそこへ行こうよ」

途端、シンジの不安げな表情。それを見つけてもカヲルは変わらずに話を続けた。

「いい居酒屋があるんです。お義母さんともよく行きますよ」
「ほう」
「でも父さんは居酒屋って好きじゃないから…」
「行ってやってもいい。支度しろ、シンジ」
「でも営業時間が」
「途中で僕らの大学へご案内しよう。そうしたらちょうどいい時間だよ」
「…うん」

どうしてわかってくれないのカヲルくん、そんな目でカヲルをひと睨みして、シンジは渋々頷いた。



桜にはまだいささか早い、冬と春の間の夕べはあっという間に過ぎてゆく。街を流れる川の水面に茜色は溶けて消え、藍色には街灯の蛍光灯が点々と揺れていた。口数の少ないシンジの肩には時折カヲルの温かい手が触れる。信号を渡った先に懐かしい朱色の提灯の明かり。こちらまでジュージューと肉の焼けるいい匂いが漂ってきていた。オープン時間をやや過ぎたくらいなのにもう外のテーブル席までちらほら楽しい笑顔と賑わいがはみ出している。居酒屋『カジ』の客層は、中年サラリーマンからお洒落なギャルまで幅広い。と、ジョッキの生のタワーを運んで配っていた若い女の子が3人に向かって手を振った。

「碇さーん!とその仲間たちー!」

苦笑してシンジが手を振る。シンジたちに声を掛けたアルバイト・サクラは何食わぬ顔で忙しそうに店内へと戻ってしまった。

のれんを潜ると古風な外装をいい意味で裏切る小綺麗な店内。味わいのある昭和の木造建築とヨーロッパのパブの空気がごった煮にされたかのよう。バーカウンターの奥にずらっと並んだ世界中の酒にぶら下がる個性的なかたちのグラスは色とりどりの宝石のよう、なのにその横の壁には札に筆字で常時メニューが、つぎはぎの用紙に期間限定メニューが殴り書きされている。畳を敷いた座敷席も見えるのに、その側にはデザインインテリアやソファを揃えたテーブルまで。何でもありな空間だ。

「オーナー大喜びですよ!もー来るなら来るって先言うといてくださいよ」

サクラが大量の焼き鳥とフィッシュ&チップスを持って通り過ぎていくその先、厨房から出てきた無精髭の男が手を上げた。

「おーい!早く手伝ってくれ!」
「はーい!」

そしてシンジは店の奥へと消えてしまった。その道なりでいろんな客がシンジに手を振り声を掛けていた。

「さあ、お義父さん、こちらへどうぞ」

勝手知ったる顔をしてカヲルがゲンドウをカウンターの隅の席へと誘導する。ゲンドウは狐に摘まれたようだった。

「渚さん、大学の先生ですかぁ?」
「シンジくんのお父さんだよ」
「え!?ホンマに!?わあ!よく見るとなんとなく似ているような気もしなくもないですぅ。記念に握手してください〜!」

怖いもの知らずの勇者サクラがゲンドウと強引に握手した。ゲンドウの手に焼き鳥のタレが付いた。

「これはこれは、シンジくんのお父上でしたか」

ソムリエエプロンに挟んだナプキンで手を拭きながらさっきの無精髭の男が現れた。空のビールグラスをふたつ用意しタップのレバーを引くと、勢い良く溢れ出してくる鳶色の液体。

「これはうち自慢の黒ビールです。いつも息子さんにお世話になっているのでサービスさせてください。おっと、君はツケだぞ」
「はいはい」

カヲルとも顔馴染みのその男は加持と言った。この店のオーナーらしい。

「すまないが、酒は飲まん」
「いやはや、これは失礼。サクラちゃーん!お茶淹れて」
「は〜い」
「シンジくんは本当によく働いてくれます。頼まなくてもちゃんと隅々まで掃除もやってくれてとても助かってますよ。シンジくんはとても愛されていて、彼がいない日は常連さんから「今すぐ呼んでこい!」なんてムチャな注文をされてしまいましてね」

ゲンドウはこの男が語っているのは自分の息子じゃない気がしてきた。引っ込み思案で消極的な息子とイメージが噛み合ないのだ。

「なかなかこんな子はいませんよ。物覚えもいいが何より料理が絶品だ。生まれ持った才能でしょう。あ、そうだ。シンジくーん!」
「はい!」
「卵2!」
「はーい!」

ゲンドウの横でほくほく幸せそうに黒ビールをすするカヲル。何か魂胆がある、ゲンドウはそう感じた。けれどここは完全にカヲルの領地だ。ゲンドウは無駄口ばかりの加持という男に相槌を打ちながら、企みはなんだろうとそればかり考えていた。

少しして小走りでシンジがカウンターへとやってきた。その姿はサクラと同様、エプロンにシックな和風のバンダナ姿。手には美味しそうな卵焼きが二人前、甘い湯気を立てていた。

「シンジくんの卵焼きは大人気なんですよ。よくご指名されるんです」

カヲルが自慢げに呟いた。頬はほんのり桜色、既にほろ酔い加減らしい。彼の指差すほう、貼り紙には『大人気!シンジくんの特製卵焼き!(シンジくんがいたら注文可)』と書いてある。

「お待たせしました。あれ、父さんに?」
「そうさ。うちの看板ビールがご賞味いただけないとなれば看板メニューに頼る他ないじゃないか」
「もう加持さんは大袈裟だよ」
「シンちゃんの卵焼きはァ〜世界イチじゃないのォ〜」
「ミサトさん、もうその辺にしておいたほうが…」

横の席の飲んべえの女がもう一杯ビールを注文して、オーナーを睨みつけている。

「よかったら、食べてみてよ」

シンジは緊張気味で父の前へ皿を置いた。ふわふわの卵は端だけ程よく焦げ目がついて、サイドには大葉におろしが添えてあった。ゲンドウはサングラス越しに息子のはにかみ顔を見る。そういえば、昔もこんな感じでシンジが手料理を持ってきたことがあった。まだ中学生くらいの頃だ。懐かしさを感じながらゲンドウは少しだけ醤油を垂らす。箸を持ち、ひと口だけ、頬張った。

「うまい」

自然と声が出てしまった。それは昔、シンジに告げた言葉と同じものだった。

「うまい一丁入りましたぁ〜♪」

サクラが駆け寄りおちょくって店の空気も笑い出す。加持も嬉しそうに頷いている。けれどカヲルはほんのり目尻の染まったシンジを見つめて胸が苦しくなった。自分が初めてそう感想を言った時よりも嬉しそうだ。

ま、意外と幸せなんだけれど。

カヲルは両手を合わせて「いただきます!」とさっそく大好物の卵焼きに舌鼓。

「よーし、日頃の感謝を込めて、シンジくん、“おもてなし”コース1!プラスねぎま1!俺のおごりだ」
「僕にはねぎまだけなんですね」

桜色のカヲルが不服そうに呟いた。

それからゲンドウに運ばれてきたものは、懐かしい、けれど極上の、和食だった。
ピリッと新鮮なたこわさびから始まって、薬味とごま油で飾った冷や奴、じゅわっと滲み出るナスとししとうの煮浸し、軽く香ばしい衣の軟骨の唐揚げ、脂ののったお造りの盛り合わせ、刻み海苔いっぱいの大根と海藻のシャキシャキサラダ、最後にはふわっと出汁の香る優しい味の蟹雑炊…たらふく食べても胃は元気だ。どれも一手間も二手間も丁寧に丹精を込めて調理されていた。そう、ゲンドウのために全部シンジがつくったのだ。ラインナップはすべて、ゲンドウの好物だった。

「いいなァお義父さんは愛されていて」

酔っぱらいのカヲルがいじけている。

「シンジくぅん!カヲルスペシャルひとつ♥」
「ないよそんなの!」
「ちぇッ、いいなァお義父さんはァ!」
「カヲルくん!飲み過ぎないでっていつも言ってるでしょ!」

カヲルにピンク色のグレープフルーツジュースがドンッと差し出された。

居酒屋は最高潮の盛り上がりを見せていた。ゲンドウは昼間シンジと交わした言葉よりもずっと、シンジという人間に近づいている気がした。

「シンちゃん働きすぎだからこっちのテーブルで休もうよ〜」

客はシンジと話したくてうずうずとした表情。

「碇さーん!またポットパイ爆発しました!」
「何やってるの?!」

駆け出すシンジ。後輩からも慕われている。

シンジは頬を紅潮させて一生懸命働いていた。活き活きとした表情で客の相手をし、凛とした表情で厨房で仕事をしている。ゲンドウは言葉にならない想いを抱えた。

『そんなに気になるなら直接シンジに聞けばいいじゃない!』

妻の言葉が頭をよぎる。


食事を終えた時だった。加持がシンジを呼び止めてこう言った。

「君の出番だよ」

するとシンジが頷いてカウンターまでやってきた。背筋を伸ばして深呼吸。きびきびとコーヒーの豆を挽き、サイフォンを操作している。

「シンジくんの淹れるコーヒーは絶品なんです。他の子は何度やっても泥水なんですがね」
「言わんといてくださいよぉ!」

シンジは真剣な顔で手を動かす。ロート内をヘラで混ぜ、火を止めた。そしてフラスコを冷たいフキンで冷ますと、鮮やかな濃褐色が濾過されてゆく。最後に温めていたカップに注げば完成だ。ゲンドウの前に美味しそうなコーヒーが現れた。

「最近は彼に豆のブレンドも任せているんですよ」

ゲンドウは香ばしいローストした豆の香りを胸いっぱい吸い込んでから、少しだけ口に含んだ。それはやっぱり、

「うまい」

この三文字を舌の上に乗せるしかない。

「最近はシメでこのコーヒーを頼む人が増えてるんですよ」

なるほど、口の中がさっぱりする。

「俺よりも巧いんだからまったく困ってしまいますよ」
「シンジくん、僕に淹れてくれなかった…」

加持はまるで自分の息子を誇りに思うような口調だった。その横でテーブルに突っ伏してしまうカヲル。

「バイトの子より働いているのにただのお手伝いだなんておかしいと、よく常連さんはチップを渡そうとするんです」
「!?」

アルバイトではないのか…

これがゲンドウには一番の衝撃だった。



「じゃ、父さんを送ってからすぐカヲルくんを迎えに来ますので」
「僕はァシンジきゅんの〜何番目なのかなァ?」
「はい、おとなしく寝ててね」

柄になく酔い潰れてしまったカヲルを軽くあしらって、ゲンドウとシンジは駅に向かって歩き出す。店から一歩外に出ると、あの陽気が信じられないくらい夜風がツンと冷たかった。

「あの店へはよく行くのか」
「うん、暇な時間ができたらね」

まだ居酒屋の空気をまといテキパキとした声の響き。ここの周辺はシンジの最寄り駅よりも発展していて、大通りを中心に営みの喧騒がネオンに照らされ活気を放つ。

「長いのか?」
「んー、手伝ってるのは2年くらい前からかな」

ロータリーではこじんまりとした噴水が雫で弧を描いていた。夜はまだ深くないので、忙しなく電車の通う駅に人々が早足で吸い込まれてゆく。タクシーのランプの点滅がアスファルトを彩っている。その中を父と息子が並んで通り過ぎてゆく。そんな車行と群衆の雑踏にぼんやりとシンジが酔った頃、

「そう言えば面白い話を聞いた」
「ん?」
「お前の将来についてだ」

現実がいきなり殴り掛かってきた。

「店をやりたいと言ったそうじゃないか」

ゲンドウとシンジは同時に立ち止まった。

「あそこで働く気か」

シンジは俯き黙ってしまう。

「どうなんだ?」
「それは…」
「あの店を継ぎたいのか?」
「違うよ、あそこは加持さんの店だもの」
「なら何なんだ?」

シンジは大きな溜め息をついた。

「……あんな店が持てたらいいなって」
「何故私が聞いた時にそう答えない」
「そんなこと言ったら父さんは絶対反対するだろ!」

手をギュッと握り締めて、シンジは続けた。

「色々ノウハウを教えてもらうかわりに手伝ってるんだ」
「ちゃんと就職はしないのか」
「ちゃんとってなんだよ!そりゃ資金が必要だから就職するかもしれないけど…でも、ネルフには行かない」

シンジは語尾を強調して噛み締めるように言った。

「加持さんからも正社員にならないかって誘われてるんだ」
「お前が心配だ。今すぐ帰ってこい。話はそれからだ」
「居酒屋のどこがいけないんだよ!」

シンジは大声を出して地団駄を踏んだ。

「僕は父さんといると息が詰まるんだ!いつも考えを押しつけて、僕のことなんてちっとも見てくれないじゃないか!」
「お前のためを思って」
「ほら!そうやってすぐ押しつける!やってやってる気になって、それが迷惑なんだよ!僕と父さんの幸せが違うだけなのに、僕を間違っているように諭そうとしてさ!たまごが好きでもいいじゃないか!大トロが正解だなんて一体誰が決めたのさ!」
「勝手にしろ」

シンジの目から涙が溢れた。

「…勝手にするよ。僕の人生だもん。僕の幸せは僕が決める」

もう少しで今日は素敵な日だったのに。シンジは父親を置いて踵を返して行ってしまった。一時の別れの言葉も掛けられずに。

ゲンドウは深く溜め息をつき、駅へとゆっくり歩き出す。足取りは重い。疲れた。まだ出発時刻まで時間がある。ひとりで過ごすには、長かった。



朝と同じ型の高速鉄道がプラットホームへやってきた。休憩室は混んでいて空気が悪い。さっさと指定席へ乗りたい。そうすれば到着時刻まで寝ていたってかまわないのだ。

気怠い体を引きずると嫌でも歳を感じてしまう。いつもは会社のハイヤーを乗り回しているご身分なので、こうして息子と一日中歩くのは不思議な感覚だった。ゲンドウの覚えている限りではそんなことは今までなかった。

車内点検が終わった合図がした。車掌がアナウンスをかけている。ゲンドウは一直線で指定のセミコンパートメントシートに着席。どうせ疲れるだろうと思って他の3席を買い占めておいてよかった。これでひとりで個室として使えるわけだ。荷物を隣の席に無造作に置いて、中央のテーブルへと肘をつく。両手を前で組んで顔を支える。このポーズは何よりも落ち着く。ゲンドウは重い瞼を静かに下ろした。

どれだけの時が経ったのだろう。下ろしていた瞼を上げると、目の前に自分とそっくり同じポーズの息子がいた。

「おはよう、父さん」

ゲンドウは驚いて遥か彼方へ飛び上がりそうだったけれど、そうしなかった。

「よく眠れた?」
「寝ていない」
「ふうん」

目元が少し腫れている。泣いた後のようだけれど、シンジの表情はすっきりしていた。

腕には居酒屋では外していたあの時計が巻かれていた。

「…カヲルくんがどうしてもって言うから持ってきたんだ。はい」

テーブルの上に――パンの詰まったパン屋の袋。

「僕が父さんに大学を案内してる時に、実はカヲルくんが買っておいてくれたんだ。隣町まで行って。母さんはここのメロンパンが大好きなんだよ。カヲルくんが母さんによろしくお伝えくださいってさ。あ、いじけないでよ。父さんにもありがとうございましたって。ちゃんとあんぱんも入ってるからね」

窓の外では酔いを覚ましたカヲルがふたりを見ないように遠慮がちに待っていた。夜風に当たって身震いしながら柱へともたれかかっている。泣きながら戻ってきたシンジを見つけて目を覚まし、いろんな機転を利かせてここまで連れてきた彼の姿が目に浮かんだ。ゲンドウは息子が急に頼もしくなったのは彼の助けもあったのかもしれないと、ふと思った。

「あと、はいこれ。本当はうちに帰った時に渡そうと思ってたんだけど」

そっとゲンドウの手元に置かれたのは、乗車用のICカード。大人気で入手困難と話題になっていた旧東京駅開業100周年記念版。マスコットキャラクターのペンペンのアンドロイドバージョンが緻密に描かれているらしい。

ゲンドウは隠れ鉄ちゃんだったのだ。

「……」
「…いらないなら僕が使うけど」
「いる」

光の速さでカードを奪う父の早技に、息子は笑う。そんな息子を見つけて、父も口角を上げた。

「今日は来てくれてありがとう」
「私こそ世話になったな」
「父さんと過ごすの意外と楽しかったかも」
「ああ」
「ああじゃないよ」
「おお」
「おおってなに」

それからはふたりはまた同じポーズでそこにいた。この親子にとって言葉はとことん誤解を生むだけだった。「勝手にしろ」という言葉をユイのかわりにカヲルが翻訳しなければ、シンジはいつまでも今日という日を悲しい記憶にしていただろう。

カヲルはチラッと電車の窓を覗いてみた。ふたりがそっくり同じ姿で佇んでいるのを見て、カヲルはユイから聞いたある言葉を思い出す。

『あのふたりは全然違うようだけれど、そっくりなのよ』

ふたりとも同じ顔して笑っている。

「本当ですね、お義母さん――クシュンッ!」


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