内省感傷


“ 痛みだけが生きていることのリアリティ ”


僕は数年前に失くしものをした。
それがなければ全て意味がないという程だった…のに。僕は追いかける事ができなかった。
失ってから気づいたぽっかりと空いた穴は果てしなくて、哀しむこともままならず、ただ、ゆっくりと死んでゆくような感覚を指先まで感じていた。もうずっと、ずっと。

「ロバート・ジョンソンって知っているかい?」

あの朝は嘘のように澄んだ青空で、僕は嘘であってほしいと願っていた。君に内緒で。

「E.E.カミングスの親戚?」

君が僕の好きな詩人を口にした時、何故だろう、僕は泣きたくなった。

「似ていなくもないな。」

何の根拠もなしに、うそぶく。君が笑う。僕は手にしていたカメラを構える。祖父から拝借したヴィンテージのポラロイドを。

「だから、撮らないでよ。」

写真になることを嫌う君。理由は、自分の証拠を残したくないから、らしい。その繊細な感性が僕は好きだ。

「せっかくだから。」

桜の中の君を残したい、と言ったら、そういうのは女の子にしてあげなよ、なんて言う。いつもよりも諦めたような、小さな声で。

「女の子なんていらないよ。君がいる。」

「むちゃくちゃだよ。」

照れた君の顔をもっと眺めたいのに、淡い花びらの雨が手の届かない彼方へと君を隠してしまう。僕はそれでもシャッターを切った。小さな手で遮って、そっぽを向いてしまう、君。

「カヲル君は刹那主義でしょ。」

「今日だけは主義に反したい。」

「ねえ、結局ロバート・ジョンソンって?」

僕が、アコースティック・ギター一本でブルースを弾き語りし、その巧みなテクニック故に「十字路で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」という伝説のある男の話をしたら、君が瞬きを深めて俯いた。

「…デルタ・ブルース。」

「メンフィス。」

それは僕らだけの知っている暗号。二年前、僕が開かずの教室で授業をさぼって埃まみれのギターを弄っていたら君がやってきた。「何弾いてるの?」と遠慮がちな問いに僕はブルースの話をした。すると君はこのふたつの単語を覚えて、次の放課後からはふたりの合い言葉になった。そしていつしか、僕らは合い言葉もなくいつも一緒に居るようになった。

「懐かしいね。」

「過去みたいに言うんだね。」

「だって僕はもうすぐ行っちゃうから。」

そう、君はこれから知らない街に行ってしまう。本当の父親と暮らすために。だから僕はカメラを構えた。

「ねえ、僕は君を撮りたい。」

「僕を殺すために?」

僕は以前、こう言ったのだ。「写真は普遍的でありながら破壊的だ。シャッターは永遠を切り取るけれど、そこには撮影者が居ない。撮影者と被写体は分断されるんだ。だから僕は嫌いだ。現実の時の中ではシャッターは今を犠牲にする。被写体との今を殺してしまう。」と。君は僕の刹那主義の話を覚えていた。君の中には驚くくらい、僕がいる。それはとても残酷で、苦しい。

「君は殺さないよ。代わりに僕が殺されるんだ。」

そうして僕はシャッターを切った。その音が君の密やかな声を掻き消した。君はじっとレンズの中の僕を見つめている。さようなら、と言うように。散る桜は君の背中を押す。僕はその背中を抱き締めたい。行かないで、と伝えたい。けれど、僕は君が一番望んでいるものがわかる。君の手に入れたい愛が誰からのものなのかが、わかる。だから僕は、必死で地に足をつける。桜の木のように、花びらは、追わない。

「今まで、ありがとう。」

微分する時の中で僕は一歩を着地させようとする。なのに。僕は、その時からこの瞬間に閉じ込められてしまったのだ。止まった永遠の中で僕はいつまでも、君の背中を目に焼きつけて、動けない。


あの頃夢中だったブルースは、今でも平等な地平で鳴り響く。内気な人々へ捧げる祈りのように。美しい詩のように。

》君の心を僕と共に運ぼう
(僕の心のなかで)

僕は擦れたレコードから針を外し、黴臭い部屋を出た。今日、僕は新しいキャンパスを歩く。そんなことどうでもいいのだけれど、どうでもいいながらに僕は生きていかなければならない。

》僕はそれなしではいられない
(何処に僕が君がゆこうとも、愛するひとよ
 僕だけが何かをしても君がした事になるんだ、いとしいひとよ)

見慣れない駅の改札を抜けると、満開の桜が視界に溢れた。あの花びらは君を思い出す。ブルースも君を思い出す。そしてこの手に持つE.E.カミングスも。その好きな頁に挟んだ褪せたあの日の君の写真も。僕は過去に生きている。底なしの虚無は僕から息を奪った。

》僕は運命を畏れない
(君が僕の運命だから)

今の僕には君へのこの想いの名がわかる。それがどんなに大切なものか。かけがえのないものか。けれど僕はそれを知るのが遅すぎた。いや、薄々気づいていながらもそれが恐ろしく、僕は君から目を背けた。

》僕は世界なんていらない
(君が僕の美しい世界だから)

遠くの君に連絡も取れず、ただひたすら何かを待ち、ついには戻れない時に逃げ出し、絶望した。

》そう、君はそれまで月が意味したことすべて
 これから太陽が謳うことすべて、それが君なんだ

僕は身勝手な人間だ。君に何も伝える事なく、想いを枯らす事もできない。ブルースも詩も、僕には何もわかっていない。

》此処に誰も知らない秘密がある
(根の根であり芽の芽であり空の空である 命の樹
 それは魂の願望や曖昧な理性よりも高く成長する)

入学式の静かな雑踏を微かに聞き、桜の木の下、朽ちかけのベンチに腰掛けた。本を開くと君が僕を見つめている。何かを語るように澄んだ瞳。まるであの空のように。僕は何度も君の隠されたその言葉を想像した。そしてその声はついに、聞こえなかった。

》そしてそれは星々が離れ離れでも輝いている奇跡の所以なんだ

「シンジ君…」

写真の君に呼びかける。そうするつもりはなかったのに、君の名を口にする。喉が締まった。こういう時、僕は自分が本当に情けなくて、愚かで無様で、消えてしまいたくなる。だから僕は木漏れ日の中でそっと目を閉じた。この痛みが消えてしまうまで。僕が消えてしまうまで。

》僕は君の心を運ぼう
(僕の心のなかに)


ー好き。


「E.E.カミングス…」

懐かしい声に瞼を開けて見上げると、人影が逆光を浴びて僕に降り注いだ。そのシルエットは言葉を失くす。そして遠慮がちにこう、呟いたのだ。

「…デルタ・ブルース?」

僕の心臓が強く鼓動する。淡い花びらの雨の中、時が息を吹き返す。

「メンフィス…」

僕は、微分する時を越えて、やっと一歩を踏み出した。



cf.) E. E. Cummings「I carry your heart with me」日本語詩は著者拙訳


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