Vol.2 メビウスの天の川でいたちごっこをするふたり



「シンジ君、お昼だよ!」

「か、カヲル君!早いよ!ちょっと待って!」

僕とカヲル君は友達になった。そうしたら次の日にはもう、お昼は二人きりで一緒に食べる暗黙のルールが出来上がってしまっていたのだった。

「…これはいよいよ俺の仮説が立証されてきたな。」

「わいは堅気だからのう。未だに信じられへんのや。」

「もうすぐだよ。碇のケツは射程距離内に配置されている。」

「もう二人共黙ってよ!」

ケンスケとトウジは面白がってこうやっていつも僕らを冷やかすから、僕はその度に胸の奥が冷や冷やする。

僕はカヲル君と友達になって、少しだけ明るくなった。僕をあんなに大事にしてくれる人が世界に居るんだなと最初は驚いていたけど、それは段々抜けられないとびきり甘い蟻地獄のように僕をずぶずぶに毒蜜入りのシロップで浸した。これが依存ってやつなのだろうか。僕はカヲル君に甘やかされると酷く安心する。僕は初めて自分の性癖を知ってしまったみたいに自分自身に他人のような感覚を抱いていた。

それに僕はズルい奴だった。半分くらいはケンスケの仮説を真に受けている。そして時折彼を試すのだ。彼の僕への気持ちが本物かどうかを。それは僕が突然拗ねてみたり、怒ってみたり、気紛れで予想外の事をしでかしたり。するとカヲル君は僕が驚くくらいに従順にその隠された情熱と理知的な科白で僕を包み込んでくれるから、僕は過ごす時間を増す毎に心底彼を信頼した。そして夢中になっていった。僕はそんな意地悪をした後は必ず心の中で彼に謝ってから何かしらのご褒美を彼に用意したのだ。それは僕との間接キスだったり、偶然の接触だったり、思わせぶりな発言だったり。彼もそれを受け取るとこっちが恥ずかしくなるくらいに喜んでいた。

でもそんな自分を冷静に自己分析してみると、いつも暗い影がよぎる。


僕の父さん。碇ゲンドウ。もう彼とは一年近く会っていない。人生を加味すると、一緒に過ごした時間の方が断然少ない。

僕は母さんが僕の三歳の頃に他界してから、ずっと先生の所でお世話になっていた。けれど中学は第二新東京市じゃなくてどうしても第三新東京市の学校に行きたいと無理を言って父さんのマンションへと転がり込んだのだった。そして中学に上がってからいざ一緒に生活をしてみると、段々と父さんは家に帰らなくなって、半年後には全く姿を見せなくなった。一度だけ父さんの職場に問い合わせてみたら、ちゃんと出勤はしているらしい。暫くして僕は気づく。父さんの荷物は少しずつ少なくなっていた。父さんは僕の居ない間に荷物を纏めているらしい。

僕は最初の方はやっぱりショックで、やり直しのきかない関係に眠れない夜に枕を涙で濡らしていたけれど、やがて理解する。何を期待していたんだ、三歳の僕を捨てた時点で彼はそういう人間だったじゃないか、と。だから僕はその頃から急激に何かを悟ったかのように無味無臭の世界を見据えて、息をする事すらどうでもよくなっていたんだ。

それなのに、カヲル君は僕の色の無い世界に、色を呼ぶ。ふたつのカーマインから始まって、多彩なインクを塗り付けて僕の世界を万華鏡に変えてしまう。だから僕はいつに間にか色鮮やかな初夏の中、紺碧の空の下、萌葱の木々の葉が熱い風に揺れる音を遠くに聞いて、白磁の肌にウィステリアミストの髪に深緋の瞳を見つめながら、カナリヤ色の卵焼きを口に運ぶのだった。

「シンジ君の卵焼きは美味しそうだね。」

「…いる?」

「うん。」

桜色の唇が黄色いそれをパクリと咥える。

「美味しい。シンジ君の料理は世界一だね。」

「大袈裟だよ。こんな卵焼きくらいで。」

「そんな事ないさ。僕はシンジ君の手料理が食べられるなら、他のどんな食べ物だって要らないよ。」

「カヲル君は言う事が壮大すぎるよ。それにいつもそんな学食のパンばかりじゃ身体に悪いよ。」

「これは君と一緒にお昼を過ごす為のただの小道具さ。それまで僕は昼に食事はしなかったんだよ。」

「え、そうだったの!?お昼食べないなんてお腹空かない?」

「別に、気にならないよ。その時間は読書に当てていたんだ。まあそれも今思えば暇だったからだろうけれど。」

「…どうして読書をやめて僕と一緒にご飯を食べる事にしたの?」

僕は内心わかりきった事を聞いて、今日もカヲル君を試している。彼はちょっと困ったように微笑んでから空を見上げた。果てしない蒼穹と向かい合って、日陰でも白い肌が眩しい。

「…君の事が好きだからって言ったら、君はどう思うかな?」

「……え?」

「冗談だよ。君のお弁当が食べたいから言ってみたのさ。味見だけじゃ足りないからね。それにこのパンにも飽きてきたんだ。」

「…そんな冗談言うんだから、作ってあげないよ。」

彼の初めての反撃。僕はそう思った。カヲル君があんな核心めいた挑発をするなんて、僕は不意をつかれて変に意地悪な仕打ちをしてしまった。心臓が早鐘を打って、掌の汗を隠すように手を握り締める。ちらっと横目でカヲル君を盗み見ると、酷く哀しそうに眉を下げて僕のお弁当を覗いていたから、僕は全身が冷たく灼かれるみたいにヒリヒリ痛んだのだった。

カヲル君のせいなんだ。僕は別に作ってあげても構わなかったのに。


ーーーーー…

潮時なのかもしれない。友達の距離は案外とても難しいものだった。

僕はそれまでの彼への執拗な観察や物理的な執着と云う変質者的行為のボロが出ないように細心の注意を払って過ごしていた。二年A組に近寄るのを三分の二に減らして、校内で遠くにシンジ君を見つけても極力気づかないフリをして、誰も居なくてもシンジ君の持ち物に手を出さない事にしていた。シンジ君の借りてから返却した図書室の本も、一番に手に取りはするが図書カードに名を書かないように速読してその場で本棚に戻すようにしている。自慰だってなるべくしないように努力しているんだ。次の日シンジ君に会って変に勘付かれたくない。

可憐なシンジ君は僕が酷いストーカーだと気づいていない。無防備に僕に微笑んで僕の身体に触れている。それに時折無邪気に僕を振り回して、それが僕を骨の髄まで君に溺れさせる手助けをしている事にも気づいていない。僕は何度も妙な気を起こしては勃起を我慢して、取り繕うように優雅な科白を並べ立てるのだった。僕は汗かきではない。けれどシンジ君の前では汗をかく。それを彼はずっと猛暑のせいだと思い込んでいる。

「…カヲル君、元気ないね。」

「そんな事ないさ。暑いだけだよ。君もそうだろう?」

「うん。今日も暑いね。」

帰り道で確かに僕は浮かない顔をしていた。それは昼休みにシンジ君にお弁当を作ってもらう約束をし損ねたからだった。

ーあの式波って赤毛には、たまに作っているというのに。

ーどうして僕は駄目なんだい?シンジ君。

何度も喉の先まで出かかった不満を呑み込んで、君から顔を逸らす。視線の先には木陰に紫陽花が涼しい色を咲かせていた。

「もうすぐ夏休みだね。」

「シンジ君は予定あるかい?」

「ううん。トウジ達と海に行く約束だけ。カヲル君は?」

「…特に、ないよ。」

僕以外の奴なんかと遠出をするなんて、僕は許さないよ。そう言いそうになって口を噤む。僕はもどかしくて苛々していた。

いっその事、告白をしてしまおう。僕はシンジ君に一目惚れをして、それからずっと隠れて君をストーキングをしてから、君の友達になっても我慢出来ずに君をオカズにしてたまに自慰に耽るんだ。それくらい君が大好きだから、友達じゃなくて恋人になって欲しい。そんな事を言ったらきっと君は僕に口も聞いてくれなくなるのだろう。僕の顔はいつの間にか俯いてしまっていた。

「…ねえ、ならさ、たまに会おうよ。僕、数学が苦手なんだ。カヲル君が教えてくれたら、代わりにご飯をご馳走するよ。」

「…君の手作り?」

「うん。夏だから冷たいデザートも付けるよ。」

「なら毎日君に数学を教えてあげるよ!」

「ま、毎日数学なんて全然夏休みじゃないよ!」

僕は急に厚い雲が開けて光りのヴェールが舞い踊る程に心が晴れ上がって、歓びを隠しきれなかった。そんな僕を見てシンジ君は困ったように笑っていた。今ならどんな景色の中でも讃美歌が聞こえる。僕はシンジ君の掌で転がされていた。恋は惚れた方の負けという格言がある。僕はまさにそれを体現していた。

「…カヲル君、喜び過ぎだよ。」

きっとどんな難解な方程式の解を見つけてもこんな歓びは得られない。
それが例え宇宙の神秘の秘密を暴いても、その美しさまでは表せないのと同じように。



夏休みまで指折り数える七月の中旬。僕等は下校途中に夕立に煽られて駆け足で近くの僕の家まで逃げ込んだ。シンジ君が此処に来るのは初めてだった。

「凄い降りだね。まるでスコールだ。」

「……うん。」

今日のシンジ君は口数が少ない。放課後に会ってからは何か思い悩んだような顔をして伏し目がちなのだ。

「具合が悪いのかい?」

僕はバスタオルを選んでシンジ君の丸い頭に被せながら優しく水滴を吸わせていた。

「……今日も、告白されたって、聞いたよ。」

「ああ。断ったよ。」

「そうじゃなくて…」

僕は要点が掴めずに今度は彼の肩にタオルを掛けるとその裾を握りながらシンジ君は小さな声で呟いた。

「…どうして誰とも付き合わないの?皆不思議がってるよ。」

「別に告白されても付き合う義理はないだろう?」

「でも、今日の女子は三年生一綺麗でカヲル君にお似合いだってーー」

「興味が無かった。それだけさ。」

「でも、やっぱりおかしいよ。僕といつも一緒に居て、女の子に興味ないなんてーー」

「なら僕が女子と付き合えば君は満足なのかい!?」

「そ、そんな事言ってないだろ!」

何故君はそんな事を言うのだろう。お陰で僕の心臓は潰れそうだ。二人のずぶ濡れのカッターシャツは全く乾かなくて、インナーが透けていた。それすらびしょ濡れで、纏わり付いて気持ちが悪い。僕は二着ずつのTシャツとスウェットを用意した。

「…ほら、着替えないと風邪を引くよ。」

「いいよ。風邪なんて引かないよ。」

「君はさっきから何を怒っているんだい?」

「怒ってなんかいないよ。カヲル君こそ、誤魔化してるんだ。」

「僕が何を誤魔化してるってーー」

「いつも好きな人が居るって言って断ってるんだろ!知ってるよ僕だって!なら僕とばっかり居ないでその子に時間を使いなよ!」

「……君は僕に何を言わせたいんだい?」

僕の声は堪らずに震えていた。遠くで雷音が轟いている。


この想いを君に伝えたら、君はなんて言うのだろう。煩わしい、気持ち悪い、そう否定するのだろうか。

僕自身がそうだった。自分に向けられる想いの全てを理解もせずに否定してきた。だから僕は君が僕に対して同じ事をしても傷付く権利すらないのかもしれない。数えきれないくらいの異性を泣かせて、そのひとつひとつの涙の粒の色さえも僕は少しも覚えていない。それはおろか、その先にある彼女達の顔すら記憶していないのだ。だから僕はたまに思う。これは彼女達の復讐なのではないかと。

僕は同性に恋をした。朝露に咲く無垢な花のような少年に。勝算のない恋に、僕はいつだって立ち竦む。好きだ、とすら面と向かって言えないで、ただ側に居る。そしていつか自らの理性の糸がプツリと切れて彼を手中に収めようを襲い掛かるのではないかと自分で自分に怯えている。シンジ君を知れば知る程、僕は取り返しのつかないまでに彼に堕ちて、告白をする勇気なんてとうの昔に失くしていた。ただ焦燥だけが、積もるんだ。息が出来ない程に、焦げ付いた想いがチリチリと肺を満たす。

「……カヲル君がいいなら、僕は別にいいんだ。」

「…何がいいんだい?」

「君が教えてくれないなら、僕だって教えないよ!」

「シンジ君!」

シンジ君は突然玄関から飛び出して、雷雨の街へと消えてしまった。それなのに僕は追いかける事すら出来ない。追い駆けても、その理由すら僕は君に伝えられないのだから。

「…シンジ、君…」

僕はフローリングの床につくばって濡れたバスタオルを掴んだ。それはさっきまでシンジ君の身体を拭いていたもの。欲望に抗えずに僕は震える腕でそれに顔を埋めてしまう。鼻腔を擽る微かなシンジ君の甘い匂い。思わず抱き締めると僕の脳裏に濡れたシンジ君を抱き寄せる卑猥な妄想が鮮烈に押し寄せてきて、僕の呼吸は熱く早くなる。

ー僕の身体を拭いたバスタオルをシンジ君が使ったんだ…

そう考えるとたちまち僕の下は膨らんで勃ち上がる。そしてぐちゃぐちゃに氾濫した感情のままに一心不乱にそれを扱いては、白濁した熱でバスタオルを汚して、刹那的な支配欲に恍惚とするのだった。僕に犯されたシンジ君が目の前に居る。

「シンジ君、好きだ…」

君の去った部屋で想像の君を汚してから、僕は掠れた声でそう囁いた。
こんな情けない僕を知っても、見ず知らずの女子達はこの僕に想いを寄せたりするのだろうか。


ーーーーー…

「…んん……はあ…う、く…は、……ん、あ!」

ーあ、ついに、しちゃった…

僕はどろどろに濡れた掌をティッシュで拭う。指の隙間も全部、欲望に濁った精液だらけ。

僕はさっきまで思いきり泣いていた。何も食べずに真夜中まで。もう頭はめちゃくちゃにこんがらがっていて、もう解けそうにないからいっそ、プツリとハサミで切りたいくらいだ。でも、何も見えない闇夜でも、やがてふたつのアンタレスが僕には見える。輝く一等星。僕だけの赤い焔。

ーカヲル、君…


父さんがさっき僕に告げた。

『このマンションをお前にやる。だから私は出て行く。お前の好きに使って良い。』

僕は全身が凍ったみたいになって、何も言えなかった。けれど父さんは返事を求めている訳じゃなく、そのまま何の抵抗もなく出て行った。僕の目にはその時に見た大きな背中が焼き付いている。

僕は震えが止まらなくって寂しくって泣き叫びたいのに声も涙も出なくって、吐き気と眩暈でその場で膝を抱えた。玄関。さっきまでの事が夢で父さんが何事も無かったように帰ってきてはくれないだろうか。さっきの玄関。カヲル君が僕をまるで大切な宝物みたいにタオルで包み込んでくれた。そっか、カヲル君。そう思って携帯を探してから、止める。さっき叫んで飛び出したのは僕の方だった。

誰も居ない。それがどういう事かを神経の隅々までわからされて、僕は途方に暮れていた。遠くの窓から夕立の後の燃えるような茜色がこの寂しい家に差している。僕はこの瞬間を忘れられないだろうと思った。

けれど、赤色、カーマイン。それは僕のなんだ。僕は動けるようになるまでずっと、カヲル君が背中から僕を抱き締めて、心配要らないよ、僕がずっと側に居るからねって囁きながら、頭を優しく撫でてくれる事を想像した。その掌の温もりまで、想像した。そこでやっと、僕は泣けた。


僕はカヲル君が好きなんだ。大好きなんだ。それに気づいたのはいつだったっけ。

カヲル君の綺麗な横顔に心臓が跳ねた時?
白い指先が僕の項に触れて、背筋がぞくりと痺れた時?
カヲル君の顔が近くて、もういっそ無理やりキスしてくれたらいいのに、なんて考えてしまった時?

そして今も。深夜二時に僕はありもしないふたりの生活に耽る。僕はカヲル君がこの寂しい家に一緒に住んでくれたらどんなに幸せだろうって想像して、朝目覚めてからの僕らの一日を想い描いていた。僕の作った朝食を美味しいって言ってくれる君。掃除をしたらぴかぴかだって褒めてくれる君。僕の話し相手になってくれて、お昼も一緒にだらだらと過ごしてくれる君。夕飯の買い出しは一緒に並んで歩いて、夕飯も美味しかったって君なら言ってくれる。お風呂を入れたらありがとうって言うだろうし、それから寝る時だって…一緒に寝ようって言うかもしれないんだ。

一緒に寝るって、やっぱり、カヲル君は僕を抱き締めてキスをしたりするのだろうか。
もっと先の事まで欲しいって強請ってくれるのだろうか。

そこまで考えて僕は、ついに今、そうしてほしいと願ってしまった。

ずっと前からそう思っていても認めるのが怖かった。でも今日、夕立に濡れた僕を一生懸命優しく拭いてくれるカヲル君を見上げて僕は、そのまま抱き締めてほしいって思ったんだ。カヲル君なら、僕をびしょびしょに濡れた勢いのままにめちゃくちゃにしちゃっても良かったのに。カヲル君はゆっくり僕との距離を取った。僕を遠くで見つめていた。

カヲル君が僕に覆い被さって、僕が必要だって言ってくれたなら。
僕をずっと見ていたって言ってくれたなら。
ずっと一緒に居たいって言ってくれたなら。

途端に僕の身体は熱で浮かされて、眠れない真夜中に僕は溜まった熱を持て余してオナニーをしてしまった。もしカヲル君も僕を想って同じ事をしてくれてたらって考えたら我慢が出来なくて、シーツを汚してしまったんだ。朝、シーツのこの染みを見て、僕はきっと落ち込む。

でも、僕は気怠い身体を冷ましながら、こうも考えるんだ。


ー僕はカヲル君を都合が良いから好きなのかな?


誰も居ない家。僕を要らないって捨てた父さん。だから僕は父さんの代わりが欲しくてカヲル君の好意を利用しているのだろうか。僕のカヲル君への気持ち、それは僕が家族の存在を求めているから、たまたまそうしてくれそうなカヲル君に依存しているのだろうか。カヲル君じゃなくても同じように都合が良かったら誰でも良かったのだろうか。

なら、僕は、最低だ。カヲル君を傷付けてしまう。そんな風に彼を傷付けるのは、絶対、嫌だ。

カヲル君は僕がこの世界にちゃんと居るって教えてくれた人。
そしてここに居てもいいんだって教えてくれた人。
闇があるから光は美しいって僕に教えてくれた人。

だから僕は、誠実でありたい。これからはもう、君を試したくは、ないんだ。


僕は君が優しく包み込んでくれた繭の中で眠る。
その眠りの中で、君を優しく包み込める僕を、探すんだ。


ーーーーー…

持て余した真夏の熱は僕から天の川を隠してしまった。
都会で見られる唯一のそれ、世界でひとつだけの僕の天の川を。

「シンジ君は?」

「はあ?バカシンジなんて知らないわよ。トイレじゃないの?」

あの夕立から休日が明けて、待ちきれずに一限目の終わりに二年A組に顔を出したら既に彼は居なかった。

「君、シンジ君は何処かな?」

「…知らないわ。」

僕が教室に着く頃には黒髪が一糸も残らずに消えている。

「…なら、僕が探していたと彼に伝えてほしい。」

僕は焦っていた。嫌な予感しかしない。シンジ君は僕が嫌になって避けているのではないかと思うと胸が抉られた。苦しい。

「シンジ君は、何処へ行ったんだい?」

「早退したッスよ。」

「え!?どうかしたのかい?」

「まあ、具合が悪かったんじゃないスか。碇、眠れないとか言ってたし。あ。」

まるで口を滑らせたかのように母音を宙に浮かせて、彼はそそくさとクラスの中へと消えてしまった。

ー眠れない…?

僕は自分の事でシンジ君が悩んでいるのかもしれないと思うと奇妙に興奮したが、同じくらい酷く心配をした。そして放課後にシンジ君の自宅を遠巻きに眺めては、ついに呼び鈴を鳴らす勇気を持てずに踵を返したのだった。


けれど、次の日には僕の理性の糸はプツリと切れる事になる。哀しいくらいに。


「…シンジ君が倒れた!?」

「ハイ。体育の授業中に。んで今はトウジの奴が保健室でサボってるんス、よ……って最後まで聞かずに行っちまったよ生徒会長さん。」

僕は青天の霹靂に気が動転していた。けれどよく考えれば予測がつく事だったんだ。昨日シンジ君は体調不良で早退した。それに今日は相変わらずの猛暑でよりによって二年生の体育はグラウンドでの授業だった。

「シンジ君!!」

「うお!なんやいきなり。生徒会長さんかい。」

四方をカーテンで囲まれたベッドの横のもうひとつのベッドで寝そべっていたシンジ君の友人は、読んでいた際疾い雑誌を徐にベッドの下に隠した。

「シンジ君は?」

「寝てますよ。わいがたまたま横に居たんで頭とか打ってないです。」

「君がシンジ君を運んだのかい?」

「まあ受け止めたついでに担ぎましたわ。ただの貧血だって保健のセンセもゆうてました。」

「…そっか。ありがとう。君はもう行っていいよ。」

「いやぁわいもここで涼んでサボってるんすよ。だから別にーー」

「君はもう行っていい。後は僕が看るから…ありがとう。」

僕の有無を言わせない科白に萎縮して、頭を掻きながらとぼとぼとシンジ君の友人はドアの外へと出て行った。


カーテンを潜ってベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろして覗き込むと、シンジ君は眠っていた。目を閉じてすやすやと小さく寝息を立てている彼は、余計に幼さを増していて僕の庇護欲を酷く掻き立てた。

ー君を救うのは僕の役目だよ、シンジ君…

僕は感情の嵐の中で頭を抱えた。くしゃくしゃに銀髪を掻き乱してから、蹲る。

ー君は僕以外にそんな事させてはいけなかったんだ…

空調が効いていない気がした。僕の顎から一粒の汗が垂れて床を打つ。僕は凄まじい嫉妬に肺を潰されて、吸っても吸っても足りない酸素に脳髄まで痺れさせていたのだった。


独占欲。それは恋の病の末期症状。
知らぬ間に進行している、激しい欲望の渦流。


ーーーーー…

「気がついたかい?」

「あれ…?」

僕はまた白い天井と再開する。そして二つの赤い煌めきも。

「また僕、貧血?それでまた、カヲル君が?」

「……僕は自分の教室に居たよ。君を助けたのはクラスメイトさ。」

「あ、そっか。そうだよね。合同授業じゃなかったもんね。」

カヲル君は酷く寂しそうに微笑んでいた。そっか、僕らは…

「あの、ごめん。僕、頭がこんがらがってて、少し距離を置きたかったんだ…」

アンタレスの赤がゆらゆらと瞬く。神秘的なまでに。

「…どうして、頭がこんがらがってたんだい?」

「…べ、別に大した事じゃないよ。」

「聞かせておくれよ。」

「だから大した事じゃないってーー」

「お願いだよ、シンジ君。」

そう言ってカヲル君はベッド脇の四方のカーテンを隙間なく閉めた。

「…何してるの?…あ。」

それからカヲル君はゆっくりと僕の身体の上に覆い被さってきたのだった。

「…や、やめてよ…」

「君が訳を聞かせてくれるまで、ここを退かないよ。」

「勘違いされちゃうよ。」

「構わないよ。君と噂になるなんて光栄さ。」

「…何を怒ってるの?」

「はぐらかさないで、シンジ君。僕は君が眠れなかった訳を知りたい。」

「…なんでそんな事まで知ってるのさ。」

「君が思っている以上に僕は君に執着しているんだよ、シンジ君。」

カヲル君はそう言うと僕の首筋に頭を埋め出したから、僕はついに降参した。

「と、父さんの事なんだ…!」

「……え?」

今度は赤い瞳がぐらっと揺れて、予想外だと言うように瞬いた。

「ぼ、僕は父子家庭で、父さんと仲良くなかったんだ。と言うより一方的に嫌がられてて。夕立の日、帰ったら偶然に父さんと鉢合わせして、父さんに言われちゃったんだ。マンションをやるって。だから出て行くって。べ、別に期待はしてなかったんだけど、いざ面と向かって言われちゃうとなんだか虚しくって、カヲル君との事も難しくってもう僕は訳わかんなくって、だから君と距離を置いたんだ…ごめん。」

僕は勢いのままにそう告げた。するとカヲル君の顔は何故だか青ざめてしまった。

「……僕の事じゃなくて?」

「え?」

「……君のお父さんの事だったの、か…」

「…え?まあ、きっかけは、うん。僕眠れない次の日の朝はいつも遅刻しそうになるから朝ご飯を抜くんだ。それが続くと貧血になりやすいみたい。」

「そうか…そう、か…」

「カヲル君?」

「ねえ、シンジ君…」

「ん?」

「僕だけなんてズルいじゃないか。」

「何の話?」

「君だって…僕だけを、見ておくれよ…」

そう言うとカヲル君は僕の額を撫でた。酷く愛おさを伝えるような温もりで、想像以上の心地良さだった。
そして僕がうっとりとしていると、そのまま滑らかな動作で君は僕の唇に愛を乞うのだった。


ーーーーー…

初めてだった。それは夢を詰め合わせたような瞬間に訪れるものだとばかり思っていた。
実際は痛いくらいに生々しくて、泡影のように一瞬の出来事だった。

僕の身体は全細胞を震わせて、それは神経を犯して素肌を粟立たせた。シンジ君は小さな抵抗を掌で表して、僕はそれを両の手で掬って指を絡ませた。きゅっと指の間を締めるとピクリと肩を反応させて、けれど僕の舌には素直に応じる。舌先で口内を撫で回すと吐息混じりに君は喘いだ。聞こえないくらいの小さな本音。僕はそう思いたい。


僕の事だけを考えて欲しい。


僕は酷い勘違いをしていたようだ。自意識過剰にも程がある。シンジ君は僕の事で思い悩んでいるのかとばかり思っていた。僕の心配事と言えばそのベクトルだけ。良い方にか、悪い方にか。けれど、どうやら違ったようだ。シンジ君は話によると自分に関心を示さない父親の事で頭を一杯にしていたらしい。それは理不尽だなと、思う。君の事しか考えていない僕を置いてけぼりにして、君の事を考えない奴なんかに心を折るなんて、そんなのは、酷い。酷すぎる。

僕は馬鹿にされた気にさえなった。けれど、それでキスをした訳じゃない。

息苦しさに唇を離すと、まるで泳ぎきった水面の上のようには必死に酸素を求める君。僕の汗が君の頬を濡らして、僕は勃ち上がる欲ももう隠さない。それどころかその欲の塊を君の下腹部に擦り付けて、己の存在を知らしめた。

「…もう、これで君は僕の事で頭が一杯になるね。そしてそんなつまらない奴の事なんて忘れてしまう。」

「…僕の、父さん、だよ。」

「だから何だって言うんだい?君を愛してるのは、僕だ。彼じゃない。」

「…ちょっと、酷いよ。」

「酷いのは君の方だよ、シンジ君。僕は君を愛してるって言っているんだ。それ以上に大事なものなんて、あるかい?」

「そんな簡単じゃないよ。だってーー」

「じゃあ、君が辛い時に、どっちを選ぶ?君だけを想う僕と、君を気に掛けないお父さんと。」

「……そんな事、言わないでよ。なんか、哀しいよ。」

「…何が哀しいんだい?」

「だって、それじゃあ、僕は父さんに愛想尽かされたから、カヲル君を選ぶみたいじゃないか。君は、そんな…僕にとってカヲル君はそんな消去法で選ぶような人じゃないよ。」

「君が僕を側に置いてくれるならそれでも構わないよ。」

「僕は嫌だよ。カヲル君はわかってないんだ。」

「何がわかってないんだい?」

「僕が君に会わなかった訳を、だよ。」

「それは頭がこんがらがったって君が言ったじゃないか!」

「だから、それはーー」

ガラッとドアが開く音がして、僕は起き上がった。そしてそのままカーテンの外に飛び出したのだ。
君の言葉の続きも聞かずに。


僕は激しく混乱していた。どうして恋はこうまでも不平等なのだろう。
僕は二人の想いの差に愕然としていたんだ。だから君に息の根を止められる前に僕は逃げ出したのだった。



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