硝子管の中のアステリズム
Vol.2 3




好きだーー

僕にはそう聞こえたんだ。

空耳。
気のせいだってわかってる。

振り返ると誰もいない、桜の下。

でも、たまに思い返す。
その声はとても心地良い響きだった。

僕の耳はそれからずっと少しだけ、寂しい。





Vol.1 星屑と三桁と硝子玉の飛沫



桜が春の風に舞う。新学期の始まりは期待と憂鬱の綯い交ぜだ。何に期待しているかというと、わからない。けれど何に憂鬱なのかはわかる。そのわからない事以外の全部に、だ。

壇上の生徒会長の有難いお言葉を聞きながら思う。あの美声が告げてはくれないだろうか、本日を以って第壱中学は閉校。君達は永遠の春夏秋冬休みに入る、と。

僕は気怠い。たまたま聴いた歌謡曲の中で、死んだ魚の眼をしている、なんて唄われたら、ああそれは僕の事です、なんて胸の内でときめくくらいに思春期を謳歌しつつ死んでいる。

そして、まるでご立派な生徒会長が僕に向かって話しかけているように見えるくらいには、僕は思春期の自意識過剰で頭が可笑しいんだ。

カーマインの瞳に白磁の肌、銀髪の美少年。僕らの学校の自慢の生徒、渚カヲル先輩。この僕だって知っているんだから、有名人だ。ただの美少年じゃない。まるで動く硝子細工みたいに稀少な美貌。神様から愛されて生まれた人って凄い。そして、ズルい。

そんな彼は僕を見ながら微笑んでいる気がした。正面よりも斜め右に向かって話しているから、そう見える。僕がじっと見ていると照れるように優しく瞳を綻ばせるから、隣の女子がざわめき出した。

「ーーですので、全校生徒諸君は僕も含めて、誠心誠意、熱意を持って目標に励んでいきましょう。」

生徒会長の挨拶は実に完璧だった。
斜め右を向く以外では。



僕は中学二年生になった。一年の頃はまるで幽霊みたいにイヤホンの内側に潜んでいたけれど、風向きは変化する。今日も僕は仲の良い友達とくだらない事に夢中になって、窓際の透き通るような読書家の友達が気になって、青い瞳の赤髪の友達には怒られっぱなしだ。それなりに楽しい。悪くない学校の風景。

「なあ、生徒会長の話、聞いたか?」

「何や、色男の話って。」

「今日でヤツが振った女の数は三桁だってさ。凄いだろ。」

「まるで自分の事みたいに言うなよ、ケンスケ。あはは。」

「はあ。女子の目は節穴か。何でアイツがモテてわいがモテんのや。どう見たってわいの方が男前やろ。」

「女子は繊細な王子様が好きなんだよ。けどどうやらあの生徒会長さん、片想い中らしいぜ。」

「そんなよりどりみどりなのに?」

「決まって断る理由が、好きな人がいる、なんだってさ。」

「アホか。そう言うとけば女子が大人しく諦めると思っとるんやろ。」

「いやいや、結論はまだ早い。俺はその意中の相手がこのクラスの中に居るって思ってるんだ。」

「ほう。綾波か?それともあの式波?」

「俺はこう予測してる…それはーー」

「ーー碇!お前だ!」

「え!?ぼ、僕?」

「そうだよ。このクラスの前を通る度にアイツは碇を見てるんだ。」

流石にこれにはトウジは爆笑していた。冗談にも程があるって。でも、僕は決して笑わなかった。いや、笑えなかったのだ。机の下の僕の指先はぐっと強張って、冷たい。


僕は二年になってから、やたら視線を感じている。お昼の時間も体育の時間もトイレに向かう廊下でさえも。ひとつ階が上のはずのカーマインの瞳にやたらかち合うのだ。なんでこんなにすれ違うんだろうって初めて思ったのは二ヶ月前。桜の翠色が目立ち始めた校庭を図書室の窓際で眺めていた時だった。

僕は以前に読んだ宮沢賢治のよだかの星を読み直して、よくわからない痺れた胸を落ち着かせていた。窓の外では新緑が眩しく揺れている。そしてふと、どういう訳か、僕は巻末の図書カードを引き出してみたのだ。僕の後にこの話を読んだ人は誰だろう、と。

ー渚カヲル…

僕はそこで初めて意識を巡らせたのだ。あのプリントを渡した日、斜め右の生徒会長の挨拶…そして、この図書カード。そしてガタッと隣で椅子の音がして、反射的に横目で見ると。

ーあ、渚先輩…

先輩は微笑みながら僕に軽く会釈をして、本を開いた。

ーアルジャーノンに花束を…

それは僕が数日前に返した本だった。僕の視線に気づいたのか、先輩は頬杖をついて首を傾けた。でもそれが却って銀髪と白い指先の合間に見える耳朶の桜色を引き立ててしまっていた。

そう言えば、あの時もこの時も、先輩は僕の側に居た。それからは、どんな些細な視線でも僕の意識はハッとそれを掴まえてしまうようになったのだった。それから気づく。僕が今まで感じていたよりもずっと、先輩は僕を見ていた。


そして今日も、図書室。僕は来週の数学のテストに向けて自習をしていた。参考書の味気ない問いに対して淡々と方程式の解を導く。そして数十分ののち、いくらかを解き終えて新しいノートの頁を捲って伸ばして広げた時だった。

ーーコツン。

図書室の自習用机は敷居を挟んで向かい合わせに続いていた。僕の上履きは固い何かに当たる。机の脚を蹴ったのだろうかと僕がペン先をまっさらな頁にくつけると、また。

ーーコツン。

僕は不審に思って机の下を覗いたら、全く同じ制服の上履きが僕のそれに当たっていた。誰だろうと顔を上げて首を伸ばして敷居の先を覗いてみると。

蠍座の心臓、アンタレスに似た瞳が曖昧に揺れて、真夜中の月影みたいな美しい顔が微笑んでいた。偶然を装って、でもちょっぴり意識を端々に走らせたようなその表情。

怖い。

僕は無意識に湧き上がる恐怖にぎゅっと心臓を掴まれた。ぶわっと悪寒が末端まで僕を凍らせた時、僕は掻き集めた筆記用具を鞄に詰め込んで図書室の外へと飛びたしたのだった。


ーーーーー…

僕は恋をした。一目惚れだった。
中学二年の秋、廊下の窓硝子が一面に鱗雲を敷き詰めていた昼下がりの事だった。

僕はやりたくもない学級長の仕事の書類を脇に抱えて階段をぼんやりと降りていた。すると、下級生の二人組がふざけ半分で階段を駆け上がって来たのだ。すれ違いざまに僕の肩は小さな衝撃を受け、脇からすり抜けて数枚のプリントが宙を舞った。

ちょうど折り返し地点の広い踊り場から一歩踏み出した時だった。それはひらひらと長距離飛行の末に階下の床へと辿り着く。そこで僕は丸い黒髪の後頭部を目撃するのだった。

艶髪の少年は繊細な物腰で一枚一枚丁寧に落ちたA4の用紙を掬い上げて埃を払った。そして僕を淑やかな所作で見上げてひと言。

「落ちましたよ。」

僕はゆっくりと階段を降りてゆく。それはさっきとは何も変わらない速度なのにまるでスローモーションのよう。時計の針は不可侵の抵抗を受けて次の瞬間への足止めを喰らう。僕は時とは相対的な事象なのだな、とその時確信した。

「あの…これ。」

「…ありがとう。」

たったそれだけのやり取りが僕の全細胞を躍動させて新しい遺伝子情報を上書きする。

ーこれが、恋、なのか。

僕はその少年が廊下の曲がり角に消えてしまうまでずっと後ろ姿を見送っていた。その時にはもう、あの艶やかな黒髪や、指先まで行き届いた淑やかな所作や、僕を見上げる真夏の夜空の瞳に僕は夢中になっていた。そしてこの全身を焦がすような不可思議な現象に、あの頃の僕は唯々途方に暮れるしかなかったのだ。


恋。それは一方的に向けられる煩わしさの権化だった。見ず知らずの異性が僕の邪魔ばかりする。それはヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題についての閃きを享受した瞬間だったり、コルモゴロフ複雑性に思いを馳せている午睡の時だったり、宇宙定数とクインテセンスへの考察のプロットを頭で組み立てている時だったり。

「あの、渚先輩…ちょっと、いいですか。」

僕は奥歯を噛み締めながらホメロスのイリアス下巻をパタンと閉じる。そして生温い笑顔でこう言うのだ。

「はい。いいですよ。」

以前それの上巻を読んでいる際に目が離せなくて、いやです、と言ってしまったら教室の真ん中で見知らぬ女子が突然泣き出してしまったのだ。もうそんな失態はしたくない。無自覚な迷惑行為に生きるのすら嫌になる。僕には三桁のお断りにも学習せずに姿形を変えて現れるその煩わしさの権化達の深層心理が全く以って理解不能だった。


けれど、あの真夏の夜空。

幼い頃に一度だけ、天の川を観た。降るような星空はいつもより垂れ込めるように低くて、小さな僕の胸をぎゅっと圧した。その神秘の煌めきは僕に解けない謎への好奇心の花を咲かせたのだった。

そんな君の神秘の瞳。

僕はあの一目惚れの瞬間から、僕に向けられる好意に少しばかり敬意を払うようになった。そして初恋の彼宜しく丁寧な所作で好意の芽を摘む。

「すまない。僕は君の好意を受け取れない。僕には好きな人が居るんだ。」

僕は恋という解けそうもない最大の謎を手に入れた。
その謎にはアルゴリズムなんてものは存在するのだろうか。


ーーーーー…

ーーバタン。

廊下を走り抜けて、あのカーマインから一番遠い場所へと向かう。上がる息を呑み込みながら、見慣れたトイレへと駆け込んだ。全然遠い場所じゃないけれど。

どくんどくんと脈打つ心音に眉を寄せながら、胸の真ん中に手を当てる。

ー渚先輩…どうして僕の目の前に居たんだろう…

僕は毎日視界に入る赤色に参ってしまっていた。僕は平穏無事に学校生活を送りたい。煩わしい事はこれ以上嫌なんだ。生徒会長が僕に何の用があると言うんだろう。完璧な人だって皆言ってる。僕だってそんな気がしてる。あんな綺麗に笑う人、僕は他に知らない。

僕は一度だけ彼と会話したんだ。トウジとケンスケが悪ふざけしながら彼にぶつかってしまった時、たまたま後ろを歩いていた僕は彼のプリントを拾った。

ありがとう、それだけなのに一陣の風が吹くような人。その風に撫でられたら秋だって知ってても春の花が咲きそうな、そんな人。同性の僕だってドキドキしちゃうんだから、異性ならきっと大変だろう。

はあ、と溜息を吐いて正面の水垢だらけの鏡を見上げる。その端に佇む、カーマイン。

「わっ!」

「脅かすつもりはなかったんだ。けれど、これ。忘れてしまっていたから。」

僕の数学の参考書が彼の細く白い指先に掴まれている。先輩はここまでずっと僕を追い駆けてくれていたらしい。

「あ、ありがとうございます。」

「数学の勉強かい?僕は数学が得意なんだ。良かったら、君に教えてあげようか。」

「…え?」

「……あ、いや。何でもないよ。今の言葉は忘れてくれ。それじゃ、また。」

先輩は逃げるようにして急に消えてしまった。僕がトイレの洗面所から廊下を覗く頃にはもう、あの星を集めたような銀髪も一糸の残影も無く居なくなってしまっていたのだった。

僕は、どうして先輩が僕に数学を教えようとしたのかを、考えた。


『決まって断る理由が、好きな人がいる、なんだってさ。』


「…まさか!」

僕はつい声を発して驚愕してしまった。周りに誰も居なくて良かった。

ー同性だし、しかも僕なんかにあの完璧な先輩が、まさか、まさか…

考えれば考える程、取り返しがつかないくらい耳まで火照り出したから、数分後、僕はプツリと考えるのを放棄した。僕は、煩わしい事が嫌なんだった。ならこれ以上考えちゃ、駄目だ。

その日の夜は、あの寂しそうに瞬く別れ際の赤い瞳が頭から離れずに深夜三時になってもなかなか寝付けなかった。そして翌朝、梅雨明けのニュースを見て僕は、不眠はきっとそのせいだったんだと思って仮初めにホッとするのだった。それは本当に一瞬の凪だったのだけれど。


ーーーーー…

ーどうしてあんな事を口走ったんだ!

僕は恋と云う名の罰を受けている。今まで少しの理解も示さずに振ってきた、恋慕に散った数々の亡霊。彼女達の涙の因果応報なのか。

ーシンジ君が気色悪がっていたじゃないか…

そしてこの凍った血が巡るような痛みも、彼女達の呪いなのかもしれない。


僕は友達でもない彼を下の名前で呼ぶ程に気持ちの悪い奴だった。碇シンジ君。一級下の男子生徒。クラスは二年A組。仲の良い友達は相田、鈴原、式波、綾波。その内異性二人からは想われているようだが、まだ本人は気づいていない。毎日手作りのお弁当を持ってきていて、たまに式波の分も作っている。身体の弱い綾波が休んだ次の日には丁寧にまとめたノートをコピーして渡している。帰宅部だけれどたまに人目を盗んで誰も居ない旧音楽室でチェロを弾く。彼は思いやりがあって奥ゆかしい人だ。天文学やSFに興味があるらしく、週に二、三回は図書館でそれに関わりのある本を借りている。図書カードやノートの文字を見る限り、とても几帳面で繊細な性格なのだろう。

僕の頭は彼の事ばかり描く。最初はほんの少し眺めていただけだった。それが引き金になって中毒のように彼を目で追うようになるなんて知らなかったのだ。僕は恵まれた頭脳を駆使して彼の今しかない瞬間を盗撮をする。我慢が効かずにたまに誰も居ない教室で彼の持ち物の匂いを嗅ぐ。彼の机を愛撫して、彼のお気に入りのペンにキスをして、体操服に顔を埋めて下半身を勃たせるくらいには僕は最低なストーカーだった。仕方が無いんだ。止められないんだ。そう頭の中で懺悔しつつ、夜は夜でその日の彼を思い出して欲望のままに下半身のそれを扱いているんだからタチが悪い。しかも僕のベッドには彼が先日失くしたと友人に告げていた一枚の緑と紫のチェックのハンカチがある。彼が更衣室に忘れたそれを僕は考える間もなくくすねた。何度かそれを返そうかとも考えたが、どうして僕のハンカチだってわかったの、名前書いてないのに、なんて言われてしまっては窮地だ。だからそのハンカチは現在、僕の真夜中のお慰みなんて可哀想な役回りになってしまっているのだった。

僕は恋には向かないようだ。その想いを深める度に僕は有害な危険人物になってゆく。こんな事を彼に知られてしまったら、僕は海に身を投げる他ない。けれど、いつだって罪悪感よりも愛おしさが優ってしまう。シンジ君はなんて愛らしいんだろう。


そういう類の理由で、僕は合同の野外プールの授業を必ず見学している。表向きはアルビノの僕の肌が弱い為。けれど教師はもう少し頭で考えた方がいい。僕は二年までは普通にプールに入っていたじゃないか。本当は、シンジ君と半裸で同じプールに入るなんてとても刺激が強すぎる為。ストーカー被害のその先の犯罪の被害者にならないよう彼の身を案じたんだ。今の僕はそれくらい、初恋に心身共に混乱している。

最高気温を更新しそうな猛暑の真昼間。分厚いテントの下でもジリジリと焼けそうな日照り。遠くでシンジ君が高跳び台の位置に付く。紺色の水着はまだ半乾きでお尻の形を浮き彫りにして、短い裾から惜しげもなく滑らかな乳白色の太腿を晒している。僕は目に焼き付けるようにしてそれを眺めていた。制服のままで良かった。下が少しばかり膨らんでも、両手を組んで膝の上に置けば誤魔化せる。

真夏の熱を一身に受けて、辺りを劈く笛の合図と共に水色の水面へと彼は消えた。そのしなやかな動線と煌めく硝子玉の飛沫。クロールの波間に顔を出す乳白の柔肌と漆黒の艶髪。僕は思わず手を口に当てて熱い溜息を吐いた。やがて二十五メートル先で立ち上がり、濡れた身体のまま荒い息で肩を弾ませる様は、扇情的で限りなく透明な美しさを孕んでいた。

ーシンジ君…

今どんなに頬を紅潮させても気温のせいに出来るのを良い事に僕は終始興奮していた。ベンチの隅で、一ミリでも彼の側に寄るようにして、前屈みのまま食い入るように、プールを上がり灼けるプールサイドのコンクリートをとぼとぼと歩く彼を目で追っていた。今日の彼はいつもより疲れて見えてすんと心配で胸を染めた、その時だった。

シンジ君は立ち眩みを起こしてそのまま崩れるようにして横倒れになった。そして縺れた足のままにプールへと落下したのだった。

「危ない…!!」


ーーーーー…

「ーーそれでな、もう本当に映画の中かってくらいの優雅な飛び込みでプールに飛び込んだんだよ。んで、お前に人工呼吸して、それから濡れたまま担いでお前を保健室まで連れて行ったんだぜ。お姫様かってくらい、お前はお前でお姫様抱っこがキマってたけどな。」

「ま、待ってよ!人工呼吸って何さ!」

「いや〜アレはわいも惚れてまう。女子が今までギャーギャー騒いでたんがわこうたわ。あんなんされたら堪らんやろ。」

「ちょ、ちょっと人工呼吸ってーー」

「そのままだよ、お前が呼吸してないから生徒会長兼王子様がお前の口をちゅうちゅう吸って蘇生させたのさ。」

「…う、嘘だ!!」

「……」「……」

「うは!嘘に決まっとるやろ。アイツはセンセが溺れた途端に光の速さで助けたんや。」

「それで生徒会長さんがお前を助けた後に腹を圧したらお前が水吐き出したからそのまま保健室まで担いでいったんだよ。」

「もう!酷いじゃないか!そんな嘘笑えないよ!」

「碇は騙し甲斐があるなぁ。顔がタコみたいに真っ赤だぜ。」

僕は耳まで火照り出して思わず腕で顔を隠したから、悪友二人の思うツボで豪快に爆笑された。不謹慎にも程がある。僕がこんなにもテンパってしまうのには、訳が、あるのだ。

僕はあの生徒会長の渚カヲル先輩と友達になった。



僕は午前の野外プールの授業中、クロールで二十五メートルを泳ぎきった。中学一年の頃は二十メートルが最高記録。だから僕は内心でガッツポーズ。ほくそ笑んでいたのだ。

ー父さんはこんな僕を見たらどう思うかな。

そう思った途端、眩暈がして、気がついたら目の前には無機質な白の天井。そしてーー

「気がついたかい?」

ーー僕の心臓に悪い渚先輩が僕の顔を覗いていたのだった。

「あれ?…ここは、」

「保健室だよ。君は貧血で倒れてプールに落ちたんだ。それで、僕が運んできて、そのまま付き添ったのさ。」

「ご、ごめんなさい、僕、」

「気にすることないよ。あんな炎天下でテントの下じゃ干上がってしまいそうだったからね。室内に避難する口実を作ってくれたんだから感謝したいくらいさ。」

「そう、ですか…」

「ああ、そうだよ。」

先輩はそう言うと愛想良く笑った。彼は確かに少し熱そうな顔をしていた。そんな僕を気遣ってくれる気さくさは、完璧な生徒会長のイメージとは少し違って親近感が湧いてきてしまう。だから僕の中にあった先輩への怖いという感情も雪解けのように溶けて消えてしまったのだった。僕は思わずふふっと笑いを漏らした。

「もう大丈夫そうだね。君がプールに落ちた時は生きた心地がしなかったよ。」

「僕、溺れてたんですか。」

「ああ。でもそれで頭を強く打たなかったんだよ。それは良かった。」

「先輩、ベンチで休んでいたのに、僕を助けてくれたんですか?」

「僕に気づいてくれていたんだね。」

「そんな、先輩の事、気づかない人なんていませんよ!」

先輩の頬にほんのりと桜色が差したから、僕はドキリとしてしまう。

「それで、まあ、そうだね。溺れた君を、僕が助けた…僕じゃ嫌だったかい?」

「そ、そんな!お礼を言ってなかったから…ありがとうございました…身体、大丈夫ですか?」

「ふふ。心配要らないよ。ありがとう。」

「僕、どう感謝したらいいかーー」

「なら、僕と友達になって欲しい。」

先輩の語気が急に強まってテンポも前のめりになったから、僕は肩を竦めてしまう。

「…ごめん。図々しかったかな…」

どうして僕みたいな凡庸な後輩なんかに先輩はこんなに低姿勢なんだろう。伏し目がちに眉を下げているその絶世の美貌に僕は奇妙だけど呆れてしまったのだった。

「まさか、そんな事、ないですよ。ただ、先輩と友達なんて、釣り合わないっていうか…」

「カヲル、だよ。」

「はい?」

「僕達はこれから友達になるなら、カヲルって呼んで欲しい。僕もシンジ君って呼びたい。駄目かい?」

「いい、ですよ。か、カヲル、君。」

僕はそう言いながら蒸発しそうなくらい恥ずかしかった。あの有名な先輩を下の名前で呼ぶなんて。

「それとねシンジ君。僕等は先輩後輩だけれど、もう友達なんだから敬語は止めよう。」

「え!?そ、そんな…」

「溺れた君を助けたのは誰だったかな?」

「せ、先輩、じゃなかった、カヲル君。ズルい…よ。」

僕の慣れないしどろもどろなセリフにカヲル君は吹き出し気味で笑っていた。その屈託ない笑顔は僕の胸をキュッと握り締めてしまったから、僕はそれから茹だるような夏を十割増しに逆上せながら過ごす事となるのだった。


「あの、干してある制服は?」

「僕のだよ。今は予備を借りているのさ。シンジ君のはほら、ここにある。」

カヲル君はにこりと僕の手提げ袋を掲げた。

「あれ、どうしてここに。」

「赤い髪の君の友達が持ってきてくれたんだ。君を心配していたよ。」

「そっか…あれ?それじゃカヲル君は次の授業も休んだの?」

「そう。気分が悪いと言ってね。シンジ君のお陰で二時間も授業をサボれたよ。」

「なんか僕、カヲル君に勝手なイメージを持ってたみたい。もっと生真面目で怖い人かと思ってた。」

「がっかりしたかい?」

「ううん。その逆。カヲル君と一緒に居ると、ずっと前から友達だったみたいで、楽しい。」

そう言うとカヲル君はとても嬉しそうに照れ笑いをしていた。彼は緩んだ頬を恥ずかしそうに弄りながら何度か何か言おうとして、それからぽつりとありがとう、とだけ囁いた。だから僕はまたアレを思い出すのだった。


『決まって断る理由が、好きな人がいる、なんだってさ。』


ーまさか…

僕はその事を考えてはいけないと自分に言い聞かせた。カーマインの瞳が僕を見ている。だけどもう友達なんだから、当たり前だ。


ーーーーー…

僕はストーカーを辞めた。今日から僕は彼の友達なのだから。

僕等は下の名前で呼び合い敬語を捨ててからは、まるで今までの距離が嘘だったかのように会話を弾ませた。僕は保健室だという事も忘れて随分調子に乗って自分らしくないテンションで言葉を紡いでいたら、いつの間にかチャイムと共に養護教論が戻ってきて、二人して保健室を追い出されてしまった。

「身体はもう辛くないのかい?」

「うん。大丈夫みたい。ありがとう。」

「貧血なんて珍しいけれど、何か悩み事でもあるのかな?」

「……そんなことないよ。じゃ、またね。」

シンジ君は急に声の張りを失くしてそう小さく呟くと、彼の教室へと消えてしまったのだった。

ー出しゃばり過ぎただろうか…

僕はそんな彼の些細な仕草でさえ、全身全霊で悩み落ち込む程、シンジ君に頭頂から爪先まで傾倒してしまっていた。


つい二時間程前の保健室での事。僕は養護教論に言われた通りシンジ君の身体を拭いて、水着のまま白いシーツの上に寝かせた。そして野暮用の教論は僕等が横になるのを確認してからそそくさと部屋を後にした。

シンジ君は薄いタオルケットの下で眠っていた。規則的な呼吸と合わせて薄い胸が上下している。タオルケットは吸い付くように彼の身体に纏わり付いてその肢体のフォルムや膝や腰の曲線までをも露に浮き上がらせていた。空調の効いた室内でも、炎天下で火照った身体を肩上まで布で覆い被せてしまっていては暑いかもしれない。僕はそっとその布切れを肩下までずらしてみた。滑らかな丘陵がふたつ。流れるように首筋から腕へと繋がっている。その下流にははっきりとした鎖骨が彼の華奢な儚さを物語っていた。僕は上がる息を細く長く吐いてから、そっと指の腹を流れに沿い這わせてみた。

けれど、彼は微動だにしないのだ。本当に生きているだろうかとその形の良い鼻に耳を近づけてみると、確かに微かな寝息が聞こえる。間近でじっとその中性的で美しい顔立ちを観察してみれば、睫毛は長く生え揃っていて、唇はふっくらと艶やかで、きめ細かな肌は未だひとつの染みもないから僕は奇妙な感動を覚えて感嘆の溜息を漏らすのだった。

そうして不粋なまでに彼が不可抗力なのを良い事に隅々までその艶髪や耳翼や首筋の奥まった処まで収集家宜しく身を乗り出して観察していたら、ふと、タオルケットがよれている事に気づく。ハッとして身を離すと、肩下にあった裾は僕の側だけ胸下まで場所を移動していた。

僕は堪らずに生唾を嚥下する。シンジ君の乳首は想像以上に愛らしく粒立っていて、僕は何度目かの良からぬ妄想をした。邪魔な布切れを払ってその突起に吸い付いてふたつの身体を密着させたなら。君の口を塞いで想いのままに掻き抱いて、互いの素肌を熱く擦り合わせたなら。君の身体も反応するのだろうか。僕のように。

興奮に目が潤んで熱くなる。僕は恐る恐る手を伸ばした。確かにタオルケットは邪魔だ。僕はシンジ君を隅々まで観察しなくてはならない。

そして僕の指先が布切れの裾を掴んだその時。

「ん……」

シンジ君は目を覚ましたのだった。


ーあの布の下はどうなっていたのだろう。

僕はそればかり考えていた。君をじっくり観察したかった。けれど、もう友達なのだから、そんな事を考えてはいけない。


その夜、僕は夢を見た。淫らな夢だった。僕とシンジ君は真昼間の野外プールに二人だけで居た。僕は、泳ぎきって息も絶え絶えなシンジ君を背後から抱きしめていた。胸の突起を指先で弄ぶとそれはすぐさま勃ち上がってくぐもった君の喘ぎが僕の鼓膜を震わせた。そのまま滑らかな首筋に舌を這わせると白い肩がピクリと跳ねて、ゆらゆら揺れる水面が彼の身体を隠しているのが邪魔だった。だから僕は抵抗もないシンジ君をそのまま抱えて、灼けるようなプールサイドへと運んでいき、人工呼吸だと自分に言い聞かせて貪るようなキスをする。そしてぼんやりとしている彼の身体を目を這わせるように観察してから、邪魔だな、と心の中で呟いて、その紺色の水着の裾に脱がそうと指を掛けた。

そして夢から目覚めた明け方、僕は溢れそうな程に張り詰めた下半身に眉を寄せて、酷く切なくなってしまうのだ。

ー友達じゃ、嫌だな…

僕は自分の下着に手を掛けながら、こう思ってしまうのだった。
もしも今僕の横であの真夏の夜空が煌めいて、僕を慰めてくれたのなら。照れながら苦笑して、僕の夢を見たの、なんて僕に呆れてくれたのなら。僕はそんな君に思いきり甘えたい。君のせいなんだから責任取っておくれよ、なんて言いながら君に擦り寄りたいんだ。

こんな都会じゃ天の川は観えない。だから君に居て欲しい。
それは卑怯者の僕の、小さな言い訳。



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