ワンダーランド駅へようこそ
焼き増しの朝を迎え
気がつけば疲れ果てた夜に眠る
隣り合わせの孤独に慣れる度
僕は何かを忘れてゆく
癒しがほしい
安息の昼を過ごしたい
手のひらにあるささやかな希望を信じたい
それは現代で生き抜く者すべての願い
明日のために生贄となりすり減ってゆく心
けれどもしもこの先に
新しい明日が待っているのなら…
「本日は小春日和の爽やかな陽気です。明日は雨の予報ですので綺麗な桜が見られるのは今日が最後となりそうです。ぜひ今一度足を止めて桜を眺めてみてはどうでしょうか。皆様の今日という一日が素晴らしいものでありますよう、心より願っております。」
耳触りのよい声に目が覚めた。立て続けの残業に、朝の出勤ラッシュが和らぎ着席できる下車駅手前は、ふと眠気が襲ってくる。けれど彼は聞き覚えのある声を耳にし、ある予感にすくっと背筋を伸ばしたのだ。彼は二重の眠りから目覚めたようにさっと身なりを整える。よれた襟元を伸ばして前髪を斜めに梳いて。
ーやっぱり彼だ…
やや大きめの制帽を被りネイビーブルーの制服をキュキュッと着こなしている若い車掌。彼の名前入りのプレートが胸元で朝陽に輝いている。
ー碇、君…
この寝起きのサラリーマンが見惚れたようその車掌の姿を目で追うと、通り過ぎざまにふたりの目がチラリと合った。それは一瞬のこと。車掌ははにかみコクリと会釈して、業務のために歩を早める。後ろ姿の耳元はほんのりと赤かった。
このサラリーマンの名はカヲル。彼が自分の世界の中でうっとりとしていると、隣に座っていた男の子も同じようにして見えなくなるまでそのネイビーブルーを見送っていた。駅のホームに降りたら男の子は母の手に引かれながら車掌のいる所まで駆け出して、車両点検中の彼に大きく手を振っている。カヲルも気になり自動販売機を探すふりをして覗き見ると、あの車掌も微笑みながら小さく手を振り返しているのだった。
胸の高鳴りを覚えながら改札を越えてふと、足を止める。そこには散るには惜しい爛漫の枝垂れ桜が遠くの風に吹かれて揺れていた。花びらが彼の足元まで春の色に染め上げる。カヲルはこんなに美しいものがすぐ側にあることを初めて知った。深呼吸をすると空気とは違うものまで身体中を満たしてゆく。そして次の瞬間、革靴を踏み出す一歩が軽くなっていることに、彼は嬉しくなってしまう。
カヲルがその車掌に出会ったのは数日前のことだった。毎度毎度の残業の末、最終電車で帰宅する彼は偶然座れた隅の席に温々としていた矢先、深い眠りに落ちてしまった。もうずっとオーバーワークが続いている。彼は疲労困憊で倒れそうだった。
「お疲れのところすみません。起きてください。」
カヲルはすうっと意識を取り戻す。彼は人前では隙を見せないタチだった。だから人から起こされた試しもない。誰かの温かい手にビクッと肩を揺らし、目を開けるとそこには…
「終点ですよ。気をつけてお帰りくださいね。」
癒しの女神のような微笑みがあった。制帽の下に艶やかな黒の前髪、滑らかな肌、整った顔立ちには澄んだ夜明け色の瞳。しゃがみながら彼を見上げるその女神は同性だった。しかしカヲルはその姿を本当に美しいと思ったのだ。微分された時の中で永遠にその姿を眺めていたい。
そうしてカヲルが打ちのめされてずっと目の前の彼ばかり見つめていると、その車掌はスッと立ち上がり、隣の車両で眠っている中年の男を起こしに行ってしまう。呼び止めるいとまもない。
それからカヲルは終点ひとつ手前の最寄駅付近の自宅へと、とぼとぼ歩いて帰ったのだが、その日はそれからなかなかしばらく寝付けなかった。さっきまでのあの人は夢だったのだろうか、とベッドの上で反芻する。しかし思い返せばそうする程に、それは夢になってしまうような気がした。
人生では狐につままれたような出来事なんてままある。そう自分に言い聞かせてもつい電車の中ではそわそわとしてしまう。それでも待ってはくれない現実に流されて、そんな見知らぬ駅の夢に半ば諦めを感じていた時だった。
彼はやっと、あの日目にした癒しの女神を見つけたのだ。
「只今の外気温は32℃。蒸し暑い日となっております。こまめに水分補給をして、素敵な週末をお過ごしくださいませ。」
シンジはアナウンスを終えて電車の到着に備えてゆく。そしてそっと横目で後ろの窓から客席を見渡した。
ーあ、また彼がいる…
そしてトクンと心音がメーターを振り切るのを感じた。
たまに駅で見かけるレチという言葉は電報略号で列車長、つまり車掌のこと。車掌とは車両を管掌することに名が由来する。つまり、その電車の責任を持って潤滑に運用、旅客の安全を確保するのが主な役目だ。シンジは車掌になってもうすぐ三年が経つ。駅長と車掌を二年ずつ勤めれば、電車の運転士の資格が持てる。彼は幼い頃からパイロットや運転士の類に憧れた。それはきっと父親の影響だ。
しかし車掌という仕事は案外シンジにはぴったりとハマっていた。昔から人の世話をしたり心を配ることは誰よりも上手だった彼は、今の仕事では実に見事な働きを見せていたのだ。だからまだ、シンジは車掌の道を選んでいる。
そして最近、そんなシンジには仕事中の密やかなお楽しみがあった。
雪解けの初春のある日、タイトなスーツを着こなして薄いノートパソコンと睨めっこしている銀髪のサラリーマンが電車に揺られて座っていた。最初の出会いは遠目でその姿を確認したのみだった。けれどその銀髪は陽光に透けてハッと息を呑む程に綺麗だったから、とても印象に残ったのだ。
そしてまた幾日か経て同じダイヤに乗り合わせた時、シンジはまた彼を見つけた。ぽかぽか陽気の隅の座席でパソコンを閉じながらすやすやと眠っている。電車がガタンと揺れても彼もコクリと揺れるだけ。熟睡だ。
ー彼、前は次の駅で降りたはずだ…
社会人は遅刻厳禁。次の第二東京駅で降りなければ彼はもしかしたら旧東京まで行ってしまう。そうしたら…シンジは急に心配になってきた。業務をこなしながらも彼が起きるのを今か今かと覗いてしまう。
ーもうすぐ着いちゃうよ…
あと数分程でプラットフォームとご対面。シンジには手隙の時間はもうなかった。徐に車掌室から出て彼の足につまずくふりをして起こして上げようと歩み出た、その時だった。
月光のような銀髪から現れたその顔はまるで天使のような寝顔。羽根のような長い睫毛、ピンクオパールの唇、そして雪の儚さを秘めた白い肌。そのあどけない表情にシンジは一瞬、我を忘れた。時の狭間に迷い込んだようなスローモーションで彼に見とれる。
けれど、その瞼から現れる暁の色の瞳。
シンジがつまずく演技をして声を掛けようとする直前にカヲルは目を覚ましたのだ。内心驚きのあまり冷や汗をかきながら何事もないふりをして通り過ぎる。この時カヲルはそんな心優しい車掌の存在には気づかなかった。
それからシンジはそのサラリーマンを確認するのをとても楽しみにしているのだ。何故それが楽しいのかはわからない。決して誰にも言わない自分だけの秘密。仕事の性質上、シンジは銀髪の彼がどの曜日のどの時刻にどの路線に乗るということはわかっていた。だからそのタイミングに鉢合わせると、なんだかそわそわが止まらないのだ。
そして今日も彼がいる。シンジがじっとその姿を眺めていると、不意に銀髪が振り仰いだ。慌てて目を逸らし前を向くシンジ。そんな風に車掌が見つめているのを知らずに、今度はカヲルがその車掌の後ろ姿を見つめているのだった。
「もうすぐ第二東京、第二東京です。駅の階段が滑りやすくなっております。生憎の雨ですが、この先も足元には十分お気をつけくださいね。お帰りの際のご利用も心よりお待ちしております。」
細かい気配りに、なんだか幸せな気分になる。女子高生数人が本日の車掌のアナウンスにキャッキャと嬉しそうにはしゃいでいた。そしてその車掌が車両に赴くとひそひそと寄り集まって羨望の眼差しを向けている。シンジが通り過ぎざまに視線を感じて会釈するとまた小さな歓声が上がった。声のイメージ通りかわいい、癒し系、爽やかイケメン、なんて囁かれている。輪の中の一人は携帯電話に興奮気味に何かを打ち込んでいた。カヲルがそれに概ね同意しつつ自然に笑顔になってゆくと、
ーあ、…
その車掌と刹那、目が合ったような気がした。そそくさと通り過ぎるネイビーブルー。制帽の端には熟れた耳たぶ。
ーシャイなんだね、碇君は。
きっと女子高生のせいだろう、とカヲルは思いながらゆっくりと伸びをした。もうすぐ駅に到着する。そうしたらもう、戦闘が待っているのだ。今日も仕事が忙しい。
シンジの愛らしい声での優しいアナウンスは一部にファンを根付かせていた。その声を耳にして微笑む乗客。それはまるで孤独な夜のラジオパーソナリティさながらに彼らの心の拠り処になってゆく。カヲルもその声を聞けた日には仕事中に何度もそれを脳内で再生させて、ささやかなリフレッシュのひと時に大きく深呼吸をした。
目まぐるしい時の流れ。カヲルとシンジはこんな視線を互いに忍ばせながら、その先に花鳥風月を感じていたのだ。季節はやがて秋へと移ろいでゆく。
シンジを見かける度に勇気が湧いてくるカヲル。くじけそうになった時にその働く姿を思い出すと、もうひと踏ん張り頑張ろうと思えるのだ。そしてシンジも今日も頑張って仕事へと向かうカヲルの背中を眺めながら、無事目的地に辿り着くのを祈りつつ、またすぐに電車と共に走り出すのだった。
「現在、外気温がいつもより低くなっております。くれぐれも風邪を引かぬよう、車内で温かく身支度をしてからお降りくださいませ。本日もお仕事おつかれさまでした。」
秋も深まる頃合いだった。駅のホームには枯れ葉の匂いの冷たい微風が時折に馳せる。そしてカヲルは鼓動を早めて深く腰を下ろし俯く。微動だにしない。
「お休みのところすみません、起きてください。終点ですよ。」
何度か肩を揺らされてすうっと瞼を開いてみる。そして目の前の女神を見つめる。
「やあ、おはよう。」
「お…はようございます。気をつけてお帰りくださいね。」
カヲルの挨拶に驚いて一瞬キョトンとしたシンジ。けれどもややあって、ふたりして奇妙な目配せをして微笑み合う。これで言葉を交わしたのは二度目だ。二度目なのに雪解けのように心地好い。
女神を見つけてから半年、カヲルはついにシンジの後ろ姿を眺める日々から一歩踏み出そうとした。
ずっと仕事を優先してそればかりになってしまった色褪せた生活。やりがいはある、けれど無感覚になってゆく。そうした中でシンジの存在は唯一鮮やかな色を運んでくれたのだ。
働いているシンジを見つけたあの日からカヲルは最終電車で終着駅まで行くのが日課になっていた。するとたまにシンジに出くわす。そんな時は胸をときめかせながら車掌室をひっそりと観察した。決して見つからないように、慎重に。そして電車が駅に到着すると彼は後ろ髪を引かれる想いでとぼとぼと帰路につく。時にはそんなストーカーじみた自分に落ち込んだ。けれど、やめられない。そんなことを繰り返し、しばらくは小さな憧れを胸に秘めているだけでよかった。よかったはずなのに、いつの間にかそうじゃなくなった。
自分を見つめ返してほしい、あの澄んだ夜明けの瞳で。そう願う程にもう、遠くで見つめるだけでは満たされなくなってしまったのだった。だからカヲルは今日、狸寝入りを決め込んだ。きっかけをつくるために。
けれど、カヲルはこの時はまだ知らなかったのだ。
カヲルが到着したこの駅の正体を。
「え〜、シンちゃん遅いよお。俺だって寝てんのに、起こしてよう!」
「青葉さんは寝ながらおしゃべりするんですか?」
寝言だよう、なんて呟きながら長い座席に肢体をまっすぐ伸ばす男。革ジャンに穴の開いたジーンズ、横にはステッカーまみれのエレキベースが傾けてある。お行儀が悪いですよ、なんてたしなめられても不貞腐れて全力で首を振っている。
「ちゃんと起こしてくれなきゃ起きないよ〜。」
「もう、子供じゃないんだからしっかりしてくださいよ!」
カヲルが呆気にとられていると、シンジは慣れた手つきでその男の上体を起こして肩を貸している。
「いつもは俺が一番じゃん。常連を大切にしてよう。」
「たまたまですよ!それにここは電車です。起きているなら早く下車してくださいね!」
起き上がった男がジロリとカヲルを虚勢して、とぼとぼとホームに降りた。そしてシンジは隣の車両へ。カヲルは黙ってその後を追った。
「加持さん、朝ですよ。起きて。」
「……ん、朝!?」
「嘘です。終点です。早く降りてくださいね。」
高級イタリアスーツをハズして着こなすその男は無精髭をポリポリ掻いてぼんやりと目の焦点を合わせてゆく。
「なあんだ。ついにシンジ君と濃密な夜を過ごしたのかと、」
「そんなわけないでしょう!もういいかげんにそんな冗談はやめてください!」
そんなやりとりにドキリとしたカヲルだったが、碇シンジ君、と初めて知った下の名前を口の中で呟いてみる。その響きにドキドキとする。ふと振り向くとカヲルが後ろにいることに気づいたシンジは、根も葉もない冗談です、なんて説明するようにこめかみを、まったく、と言う感じで掻いてみせた。
そしていくつか無人の車両を抜けてゆくと、
「綾波、どうしたの?」
「アイツ。」
色白の無愛想な制服姿の少女。彼女の指差す先には、
「あ!コラ!」
抜き足差し足でこれ見よがしにOLのバッグに手を突っ込んでいた赤い眼鏡にフードを被ったツインテールの女の子。ニャッ!という奇声を発して慌てて逃げ出してゆく。
「もう、いくら注意しても聞かないんだから…」
するともう一度同じ車両に戻ってきて自分のスカートを捲ってから毛糸のパンツをペンペンと叩いて挑発してくるのだ。
「コラ!はしたないことはやめなさい!」
女の子はアッカンベーと変顔をキメてケラケラと笑いながらホームへと駆け出した。
「もう、スリはいけないって言ってるのに…」
その頃にはカヲルもシンジの横に並んでいた。
「スリ…って警察に言わなくても大丈夫なのかい?」
「あの子、いつも未遂なんです。」
カヲルはふうんと相槌を打ちながらも心の中では映画を眺めているような心地だった。
一駅違うだけで別世界のよう。シンジはここ、最終電車の終着地点、真夜中の第三新東京駅ではまるでマドンナなのである。
「ワンダーランド駅へようこそ。」
いつの間にかシンジの横を陣取った綾波と呼ばれた少女がカヲルを見上げてそう呟いた。
そう、この駅は常連客にはワンダーランド駅と呼ばれていた。現代社会の孤独と闇に疲れた者達がその鼻を利かせてこの駅まで辿り着く。
「シンちゃんのお布団まで連れてってよ〜。」
「もう、青葉さん!ちゃんと帰宅してください!」
ホームに降りるとさっき降りたはずの迷惑な客たちがまだたむろしていた。
「ええ!?やだよう。寒いよう。休憩所で添い寝してよう。」
終着駅で降りた車掌は付近の休憩所で仮眠をして始発の業務を行う手筈なのだ。
「ほら、青葉さんには添い寝してくれるエレキベースがあるでしょう?僕がいなくても大丈夫ですよ。」
今までふたりにはどんな会話があったのだろう。青葉という男はそれを聞いて、落窪んだ瞳をうるっと潤ませながらうんうんと頷いている。
「あー、俺は!もうダメだ!動けない!」
「加持さん、しっかりしてくださいよ。」
泥酔したその男は電車の座席の数メートル先までまるで異重力の中を歩くようにのそのそと歩き、やがてベンチに腰掛けて寝始めた。甲斐甲斐しくその重くなった身体に支えて起こしてやろうとすると、不意に制帽を奪われる。男は光沢のあるかたちのいいそれを自分の頭に引っ掛けて、
「君はまるで若妻みたいだなあ。」
なんて帽子のつばの下、目尻をくしゃりと垂らしてにやけているもんだから、
「もう勝手にしてください。」
とドスンとベンチに置き去りにされてしまう。それでも、つれないね、なんて言いながら意味ありげにシンジの身のこなしを眺めていると、
「呑んだくれて冗談ばっか言っていないで、大事なことはちゃんと伝えないと、彼女、遠くへ行ってしまいますよ。」
そうピシャリと言われてしまい、その言葉が沁みたのか、うーん、痛いところをつかれたぞ、なんておどけながらも制帽を深く被ってどうやら何かを真剣に考え始めてしまったようだ。
時計の針はもう頂点を回ってしまった。真夜中のワンダーランド駅でこの心優しい車掌は悩める者たちをそっと寄り添い癒してゆく。
「あれ?」
すると見慣れない横顔がある。階段横のコンクリートの敷居に座って夜空を眺めている女子高生。
「どうしたんですか?」
「……もう生きるのやんなっちゃった、」
よく見ると頬には一筋の涙の跡。このオレンジのコートを着た赤髪の女子高生、彼女は数時間前に裏切りを目撃した。恋に恋して背伸びをした彼女は早熟な友達に自分の秘密を打ち明けたのだ。すると次の日、その友達が自分の気になる異性と腕を組んでいる姿を向いのホームに見送った。
「人って残酷。こんな世界、どうかしてるわ。」
もう涙も涸れたように薄笑いを浮かべてひたすら星を見上げている。
「僕も、そう思う時いっぱいあるよ。」
「オトナも?」
「うん。そんなに違わないよ。大人になってみるとね、昔立派に見えた年齢もこんなもんかって感じるものだよ。」
「確かにあんた、うちのクラスにいても違和感ないわ。」
流石にそれは、と苦笑するシンジ。けれど、すっと穏やかな笑顔になる。
「生きていると残酷なこともあるけれど、ふとした瞬間、とても美しいものなんだ。君はこれからそんな体験をいっぱいする。だから、もう少し長生きしてみるのも悪くないんじゃない?」
「でも、その分また嫌なことも起こるんでしょ?」
「うん。でもね、」
シンジは彼女の座る冷たい敷居の横に寄りかかった。
「それでも生まれてきてよかったって思う時がきっと来る。だから、まだ諦めないで。僕も諦めないから。」
明るいブルーの瞳が夜空から隣の車掌へと顧みる。その横顔は自分よりも少し大人びていて、それでいてとても頼もしかった。
「…あんた、いくつ?」
「27だよ。」
「ふーん。」
女子高生が冷たい敷居から飛び降りる。華麗なジャンプにオレンジがひらめき、赤い髪がさらりとなびく。
「ま、今思えばあんなくだらない友情やらクズ男になに感傷に浸ってたのかしらね。バッカみたい。」
両手を腰について堂々と振る舞う彼女にほっと胸を撫で下ろすシンジ。笑みがこぼれる。
「さあ、未成年がこんな時間に外にいると補導されるよ。お迎えは来ているの?」
「ママに寝過ごしたってメールしたからそろそろ着くわ。愛されてるから片道一時間かけて来てくれるの。」
「そっか。綾波も早くおうちに帰るんだよ。」
シンジの背後を陣取っている綾波は不満げな顔をしている。
「ご両親がお仕事でも、早く寝なくちゃ。もうこんな時間でしょう?」
「だって、碇車掌に会いたかったから。」
「あんた何なのよ?」
「碇車掌の未来のお嫁さん。」
「はあ!?」
「ワンダーランド駅へようこそ。」
一歩下がったところでカヲルはぼんやりとこの奇妙に活気のある駅の常連たちを眺めていた。そんな彼らにひっぱりだこの目の前の車掌。まるで夜のサーカスに迷い込んでしまったような感覚。まだこの輪の中に入り込める自信はなかった。
「じゃ、まったね〜!」
赤髪の女子高生が手を振ってロータリーを駆けてゆく。革ジャンがイタリアスーツに肩を貸しながら歩き出す。不思議な少女は小さく指先でさよならを告げてからイヤフォンを耳に捩じ込んで歩道橋の角へと消えた。彼女の家はすぐ側なのだ。スリ未遂常習犯の赤い眼鏡はいつもいつの間にかいなくなってしまう。
「さて、と。やっと終わった。おつかれ!」
遠くで眼鏡をかけた運転士が、先に行ってるな、と言いながら窓口の奥へと入ってゆく。ネームプレートには相田と彫られていた。
「…いつもこんな調子なのかい?」
「こんな調子?」
加持から取り返した帽子をキュッと被るシンジ。
「常連客がたくさんいるようだ。」
「あ、はい。もっといらっしゃるんですけど、今日はこの顔ぶれでした。」
もっといる、という言葉にカヲルは小さな焦りを感じた。もやもやが広がってゆく。
「君は、これから帰宅なのかい?」
「いえ、これからここで仮眠をとって、始発の仕事に出るんです。」
一緒に帰ろうという当ても外れてしまう。
「そっか。」
そして一歩踏み出すと革靴に違和感を覚えた。足元には薄汚れた丸い布地。
「あれ、落とし物かな。」
シンジがカヲルの下からそれを拾い上げると、それは卵くらいの大きさで鳥のようなシルエット。所々ツギハギがあり真ん中に「合格」と太いペン字で書かれていた。
「ボロボロだね。必要なものかい?」
「あ、でも、」
シンジはステッチの部分を指の腹でなぞった。
「新しい縫い目がしっかりしてる。すごく丁寧に手直ししてある。大事なものかも。」
よく見てみるとそれは多少不器用ではあっても接着剤や布を使って補修されていて、ほつれた部分にも幾重にもしっかりと糸が綴り合わされていた。
「一応、落とし物として保管しておきますね。」
シンジは細かいことにもよく気がつく。そんなシンジを見つめるカヲル。胸の中には誤摩化しきれない高鳴りが生まれてゆく。
「それでは、また。おつかれさま。」
「おつかれさまです。お気をつけて。」
そうしてふたりはこの時はその挨拶のみで別れたのだ。カヲルは今日までふたりには運命的な何かがある、なんて思っていたのだが、蓋を開けてみると自分もその他大勢のひとりなのだろう、と切なく真夜中の街を歩いた。角を曲がる手前で一度駅の方へと振り返る。すると車掌は月を見上げていた。くっきりと闇夜を照らす明るい三日月。少しだけ、自分を見てくれているかも、なんて予感していたそれも外れて、カヲルの胸はきゅっと締めつけられたのだった。けれど、シンジはふと月を見上げてからまた遠くのサラリーマンの背中を見送ったのだった。振り返ってほしい、なんて思いながらずっと眺めていたその背中を。
あるひとりの車掌が降り立つ終着地点にだけ現れるワンダーランド駅。その駅を知った夜からカヲルの生活も劇的に変化した。
カヲルは自分が完全に出遅れたと感じていた。もっと早くに気づいていれば。お疲れの車掌には申し訳ないのだが、あんなワンダーランド駅を素直に後にして帰っていたこの半年が悔やまれた。現代社会でボロボロになった孤独な歯車の潤滑油、碇車掌。彼の周りに集うそこの住人は、時にマドンナに甘える場末の放蕩者のように、時に女神を慕う迷える子羊のように、シンジに癒しを求めていた。
それから幾らも経たないある朝のこと。通勤ラッシュの最中に突然スピードを落とした電車がやがて停車する。ガタン、プシューッ、機械音。
「お急ぎのところ誠に申し訳ございません。車両点検のため、少々停車いたします。」
つり革に掴まっていたカヲルのまわりの鮨詰めの乗客からは一斉に落胆の溜め息が立ち込めた。どうしたのだろう、と車掌室を覗こうとしても人混みでよく見えない。
「すいません。失礼します。」
車掌室のドアが開き、その雑踏を掻き分けてシンジが進んでゆく。カヲルは同じようにしてその後を追ってみた。すると、二三進んだ車両からがやがやと揉めている声が聞こえた。
「どうなさいましたか?」
「あの人、痴漢しました!捕まえてください!」
おさげにそばかすの中学生くらいの女の子が、泣いている友達らしい女の子を抱き締めながら、寝暗そうなベース帽の三十代くらいの男を指差し睨みつけている。
「この子達がわけわからん言いがかりをつけてくるんスよ。車掌さん、これは名誉毀損です。どうにかしてください。」
その男はこれ見よがしに自分のリュックを肩にぶら下げた。まるでそれが当たっていたとでも言うように。シンジが状況を判断するには情報が足りなかった。少しの間、沈黙する。
「もういいよ、ヒカリ。勘違いかも。」
「よくない!私、見たもの!ちゃんと捕まえないとこいつまたやるよ!」
「ほら〜。ボクも訴えますよ?」
「とりあえず、目撃者がおりますので次の駅で下車してください。あとは警察にお願いします。」
「ハイ!?マジで言ってんの?」
その男は真っ赤になって小刻みに震えながらシンジへと歩み出た。仲間意識で近づいているようにもすごんでいるようにも見える。
「あんな中坊のこと信じるなんて頭オカシイんスか?」
「大事なお客様です。」
「君、後悔するよ?」
珍妙な脅しを聞き流し、シンジは運転士へと無線連絡をするために身体の向きを変えた。すると無視されてカッとなったその男がネイビーブルーに包まれたその桃のようなお尻をグイッと卑猥に指を食い込ませて揉んだのだ。
「わ、あ、」
シンジが驚いて身をしならせたと同時に、それは起こった。いつの間にか側にいたカヲルの鋭い顔がシンジの瞳の端に流れて、その一瞬の風の後を追うと、カヲルがその男の腕を捻り上げ思いきり地面に押し倒して、そのピカピカの革靴で瞬時に押さえつけたのだ。ぐりぐりと靴の先端を頭に擦り込ませて、冷たい赤の瞳で見下している。激怒している心情がシンジにも伝わってきた。
すると乗客達から拍手喝采が巻き起こる。被害者の女の子も泣き笑いで喜んで、周りからは、イケメンすぎる、かっけえ、白馬の王子様が電車にいる、なんてカヲルへの賞賛の嵐で溢れ返ったのだった。
「大丈夫かい?」
あの冷徹な表情とは打って変わってカヲルがシンジを優しい笑顔で見上げていた。
「はい。ありがとう…ございました。」
そしてシンジもカヲルを見つめる。自分でもわかるくらいにさあっと頭のてっぺんまで熱が上がってゆく。頬も耳たぶも燃えるよう。ドクンドクンと脈打つ心音ばかりが鼓膜の内側に反響する。
けれどお客様の貴重な朝に遅延など許されない。それからその逆上せた車掌は慌てて無線連絡をして、電車は無事に発車する。次の駅で男の身柄は警察に引き渡されて、一連の勇気ある行動を目の当たりにした、巻き込まれたくなかった通勤客の数名も目撃者としてそこで名乗りを上げたのだった。
そうしてカヲルもいつも通り仕事へと向かっていった。カヲルが階段を下りる前、カヲルとシンジ、ふたりの目は合い、同時に微笑み手を振った。シンジはずっと、ドキドキが止まらなかった。
「えー、私もソイツのキンタマ蹴り上げたかったー。」
ストレートな言葉にギョッとするシンジ。ここはワンダーランド駅。
「私なら生かしておかないわ。殺る。」
「だからあんたは何者なのよ!」
あの夜に失恋で泣いていた赤い髪の女子高生はもう次の恋を見つけていた。そのお礼にと、はるばるプレゼントを持参してシンジへと会いに来たのだ。それは、冬のシーズンに出回るご利益のありそうな名前のチョコレート菓子だった。
「でもね、ふたりとも、親御さんが心配するよ。」
「ここは私の庭だもの。」「ママはちゃんと許可してくれたわ。」
困ったな、とシンジは頭をポリポリと掻く。チラリと辺りを見回すとカヲルがシンジを気にしながら柱に寄りかかっているのが見えた。トクンとまた、胸が鳴る。
本日の最終電車が第三新東京に到着後、寝ている客を起こしてホームで常連の相手をしていると、おしゃべりな同僚の相田運転士がつい口を滑らせたのだ。
「あなたが今日の痴漢騒動の?今ネットでむっちゃ話題っすよ。うちの車掌を助けていただきどうもありがとうございました。え、もしかして、ふたりはお知り合い?碇ぃ、何も言わないなんてつれないぜ。いや〜、それにしてもこんなイケメンがこの世にいるんすね。神々しい。鼻高っ!あれ?俺、お邪魔だった?ハハ、そんな顔すんなよ、碇。え?もしかして、既にふたりはそういう…?おっと、ごめん、俺が野暮だった。先に上がってるからおふたりともごゆっくり〜。碇、お・も・て・な・し、してやれよ!じゃ、おつかれっすぅ!」
そうひとりで捲し立てて颯爽と休憩所へと潜った同僚。それをワンダーランド駅の住人が聞き逃すはずもなかった。それで仕方なく事の次第を皆に一通り話し終えると輪になって盛り上がった常連達は酒も手伝ってヒューヒューと囃し立てて、一様にカヲルへの敬意を示した。それは拍手だったりハイタッチだったりハグだったり。それはカヲルがここの住人に認められた瞬間でもあった。シンジはその光景を嬉しさやら恥ずかしさやらで真っ赤になって眺めていた。
「俺もシンちゃんの側にいたら守ってやれたのによう。」
「青葉サン、護身術でもやってるんですか?」
青葉の後輩らしいセールスマン風の日向という男が質問する。
「ベースでぶった斬るぜ!」
肩にひっかけたそれを掲げてポーズする青葉。
「ありがたいですけど、車内で大きな物は振り回さないでくださいね。」
シンジがそう言うと照れ笑いの青葉を皆がどっと笑う。
「で、あなたのお名前は?」
日向がカヲルに向かって尋ねる。
「渚カヲルです。皆さんよろしく。」
シンジはその名前を繰り返し胸に描いた。一瞬カヲルと目が合って心臓が跳ねる。
「ワンダーランド駅の住人ナンバー13ね。ちなみに私はナンバー0よ。」
綾波がカヲルと握手をした。カヲルはまだ住人はいるのかと驚いて、そして気が気じゃない。どの世界も先輩の方が優位である。現にカヲルは今夜はまだ一言もシンジと言葉を交わしてなかった。
それからそれぞれが思い思いに帰路につくと駅には静寂が訪れる。ほんの短いひと時のその空間のためだけにそれぞれが遠回りに家に帰るのだと思うと、カヲルの胸には熱いものがこみ上げてきた。皆が自分と同じような気持ちを隣の彼に抱いているのだろうか。カヲルはまだ何となく帰る一歩を踏み出せずにいた。
「あ、あの、」
けれど、ふたりの沈黙を破ったのはシンジからだった。
「今朝は、本当にどうもありがとうございました。」
シンジの顔は熱っぽく、その夜明け色の瞳も潤んでいた。それを見つけてカヲルの頬も紅潮する。
「君の役に立てたならよかった。」
「あの、渚さんってお呼びしてもいいですか?」
「カヲルでいいよ。」
「え!そ、そんな、」
湯気が立ちそうな程に真っ赤になるシンジ。
「じ、じゃあ…えっと、やっぱり、渚さんで。」
「じゃあ僕は、碇君で。」
ふたりして笑ってから、手持ち無沙汰の身体で意味のない仕草をする。ふたりとも、まだそれぞれの場所へ帰りたくないと言う気持ちが滲んでいた。だから沈黙が続かないよう、シンジも必死になって言葉を探す。
「いつも…お仕事おつかれさまです。」
「ありがとう。僕のこと、気づいてくれていたのかい?」
まだ慣れない会話。言葉の意味がわからずにちょっと間をあけてから、
「お客様のことは仕事柄よく見ているんです。渚さんが第二東京で下車するのは見てました。」
「そうなのか。僕も君が前に起こしてくれてから…たまに姿を見かけていたよ。」
いつも目で探していてもたまにしか会えないからと、その“いつも”の部分は省略した。
「家はここら辺なんですか?」
「いや、一駅手前が最寄りだよ。」
「え、」
シンジはカヲルがもうずっと長い間、終点で降りるのを知っていた。だから疑問が喉の奥までつっかかり、じんじんと胸が痛い。そんなこととは露知らず、カヲルは同じトーンで会話を紡いでゆく。
「皆、碇君に会いたくてこの駅まで来るんだろう?僕も今日は君に会いたかったんだ。」
シンジは今までに感じた事のない感情の洪水に、自分が自分じゃなくなるような目眩を覚えた。
「…僕も、渚さんと、あ、いや、何でもないです…」
カヲルが一歩シンジに寄ると、シンジはもう倒れそう。カチコチに固まって俯いていると不意に指先に触れられて、えっと、なんて小さく喘ぐ。触れ合う箇所から全身に痺れが走る。
「こんなに指が冷たい。明日早いのに長々と引き止めてしまったね。そろそろ僕は帰るよ。」
ごめん、カヲルが申し訳なさそうに囁いて、そっとシンジから離れてゆく。そして一歩を踏み出す時、
「あの!」
カヲルが振り返るとシンジは思わず出た大声に指先を握り締めていた。
「…次は金曜日です!」
「ん?」
「えっと、次のワンダーランド駅は、金曜日、です…」
その知りつぼみのシンジの言葉にカヲルは嬉しそうに笑った。そして、楽しみにしているよ、と笑顔でその不思議な名の駅を後にしたのだった。その時、シンジはしっかり足を踏み締めていないとよろけてしまいそうだった。
ー渚さんはどうして半年も前から終点で降りていたんだろう…?
「ご案内いたします。右側後方にとても大きな虹が見えます。車窓から是非ともお楽しみくださいませ。皆様のご協力により、定刻通りに到着いたします。どうもありがとうございました。」
カヲルは翌朝、始発に乗った。うまく寝付けなかったけれどそこまで眠くはなかった。金曜は三日後だ。今までいつ会えるかもわからなかった関係から急展開。けれど三日なんて待てないくらいに気持ちは加速している。例えスピーカー越しでも、その声の温もりを感じていたかった。背中の窓を見やれば、電車は大きな河をまたいで鉄橋の上を走行している。そして俄雨の名残の中、鈍色の街の上空には鮮やかな二重の虹が掛かっていた。ほんのりとした副虹はずっと先の煌めく水面の上へと垂れ下がり、雲間から現れた天への梯子のような光と交差していてとても神秘的なのだ。言葉にならない感動が全身の細胞を震わせる。その光景に、新しい朝が来た、とカヲルは確信したのだった。そしてそれを教えてくれたシンジをとても愛おしいと思っていた。
けれど、その声も届かない人だっているのだ。
人生は唐突にその線路から見える景色を根こそぎ変えてしまう。
その事件は木曜の朝に起こった。シンジがたまたま車掌を勤めていた電車で飛び降り自殺が起こったのだ。カヲルはそれを車内のアナウンスで知った。人身事故、と聞いてまずシンジの事を心配する。しばらくして電車が徐行運転を再開し、胸騒ぎがして窓の外をじっと見ていると、停車駅前で乗客達がざわざわと騒ぎ始めた。そしてそれは小さな悲鳴を帯びてゆく。まだ隣の線路には電車が止まっていた。そして乗客が見ている先には真っ白なスニーカーが落ちていたのだ。そしてその断末魔のようなスニーカーを見下ろしているのは…シンジだった。
ー碇君…!
顔面蒼白のシンジが呆然としたまま肩を落として線路脇に立ち尽くしていた。そして警察に呼ばれたのかふらふらとした足取りでホームへと向かってゆく。
カヲルはそんなシンジの後ろ姿を窓越しに見つめることしか出来なかった。電車が発車し、スピードを速める。もうカヲルにはシンジが見えない。
カヲルは声すら届かない場所で、ただシンジの心が壊れてしまわないようにひたすら祈るしかなかった。そして自分の無力さに途方に暮れてゆくのだった。
「おい、センセやないかい。大変やったな。昨日は昼までやったんやろ。今からでも“お清め”行くか?」
電車が停止するとすぐに、第三新東京駅の駅員、鈴原がシンジに声をかけていた。“お清め”とは人身事故に遭遇した乗務員を労るための飲み会の名なのだ。
「ありがとう。でも、朝もあるから、」
「まあ、せやな…マグロは初めてかいな?」
マグロとは鉄道職員の間で、触車事故による轢死体を指す俗語である。
「……うん。トウジは?」
「わいは三年前に一度だけな。ま、しばらくはどうしても残る。せやかてだんだん忘れてくるもんや。呑みたい時はゆえばいつでもつきおうたる。」
シンジはまた小さい声で感謝を伝えた。鈴原はそれ以上はもう何も言わずにまた持ち場へと戻って行った。
そしてシンジが本日最後の車掌の勤めを果たそうと車内点検に戻ったら、見慣れた顔がひとつもない。やや不安になってホームを見やると、そこには普段は甘えてなかなか席を立たない常連が一同に会していた。
「碇君、皆ちゃんと下車しているよ。」
最終点検の終わったシンジへとカヲルが迎えに来た。シンジはカヲルの顔を見ると何故だか泣きそうになったが、グッとそれを堪える。目の表面が少し熱い。そんなシンジに気づかぬふりをしてカヲルはワンダーランド駅の住人の元へと彼を連れてゆく。
「ほいっ、おつかれ!ワンコ車掌へ、迷子のコネコちゃんより!」
赤い眼鏡のツインテールの女の子が自動販売機で只今売り出し中の“あったかおしるこ”をシンジへと手渡した。
「ありがとう。」
熱々の缶が冷たい指先を温めてゆく。
「なーに!いつも私のカワイイ犯罪につき合ってくれてるからさ!」
「もう、スリは立派な犯罪だよ。やめてくださいね。」
「にゃー。わかってニャイ!ワンコ車掌が止めるからいつも未遂なんだよ。犯罪率はにゃーんと0パーセント!」
「やりがいのある仕事だね。碇君。」
カヲルの真面目なセリフにホーム内がどっと沸く。その寂しがりやなスリ未遂常習犯は自慢の巨乳を寄せてサービスポーズをキメてウインク。一応、感謝の念があるらしい。
「あら、大丈夫そうじゃない。心配して来てみたら、コレじゃまるで忘年会ね。」
カウンセラーの赤城博士がその輪の隅で掲示板にもたれていた。禁煙のホームに配慮してそのタートルネックの中にはニコチンパッチが三倍量貼られている。
「わかってないねえ。リッちゃんと違ってシンジ君は繊細な感受性の持ち主なんだよ。現代の日本女性の忘れてしまった奥ゆかしさや母性を兼ね備えているのさ。」
「マヤ、そんなもの存在したかしら?」
「いいえ。」
ショートカットの助手がきっぱりと全面的に博士に同意すると、不服そうに腕を組んで加持はベンチにどかっと座った。男のロマンについてぶつくさと口の中で言っている。
「ですがこれ、差し入れです。よかったら、夜にでも。」
紙袋がその助手からシンジへと手渡された。受け取って中身をちらっと覗くと安眠用のハーブティがいくつか箱で入っていた。赤いルージュでキスマークの付いた名刺にはカウンセリングのオフィスの連絡先が載っている。
「ありがとうございます。」
「水臭いわね。またいつか積もり積もった愚痴でも聞いてくれればいいのよ。」
赤城博士はかつてどん底の心を抱えてこの駅を彷徨っていた過去がある。そしてそんな彼女を介抱したのはシンジなのだ。それはふたりだけの秘密。
「シンちゃん。俺一曲歌うよ。ベースだから音痴だけど。」
青葉がわざわざ持って来たフォークギターのケースを開けようとすると、
「近所迷惑だからやめて。」
一番の古株の綾波にピシャリと止められてしまう。シュンと眉を下げる青葉。
「あとね、姫がワンコ車掌に彼女がいるか知りたいって!」
「ハアア!?何言ってんの!?あんたバカァ!?」
また物わかりの良すぎる母親に許可を貰ったオレンジのコートの女子高生が頬をピンク色にして赤眼鏡に飛びかかる。ふたりはいつの間にか友達になっていた。シンジがキョトンとしていると、
「碇君は皆に愛されているね。」
なんてカヲルに耳打ちされてしまう。そのくすぐったさにシンジが火照ってもじもじとしていると、すぐさま常連達の白んだ視線が注がれた。
「じゃれ合って睦言を交わしてるー!不潔にゃー!」
「ち、違うよ!」
「シンジ君…」「シンちゃん…」
「そんな目で見ないでくださいよ!」
けれども大騒ぎの割には間もなくして、ワンダーランド駅の住人達はそれぞれの帰路へとついていったのだった。皆、いつの間にか情報を聞きつけて待ち合わせもなく集合し、活気ある態度とは裏腹に内心はシンジをとても心配していた。だから疲れているシンジに迷惑はかけまいと暗黙の了解であっという間に解散したのだ。カヲルもそのつもりだった。
「それじゃ、」
「あの、」
別れの挨拶をしようとしたカヲルを遮るシンジ。
「明日…仕事ですか?」
「明日は休みだよ。」
「なら、あの、もう少し…お話しませんか?」
まるで捨てられた仔犬のように上目遣いで見つめられて。その潤んだ瞳にはカヲルしか映っていない。カヲルは驚きを隠せなかったが、期待や緊張のそれとは違って心は穏やかだった。哀しみを押し殺したようなシンジの前では、妙に冷静になってしまう。シンジを気遣いながら改札口横の軒下へと移動した。ここには24時間営業のコンビニの光も間接的にしか届かない。暗がりに移動すると秘めた逢瀬のようでシンジはカヲルと目も合わせられなかった。
「…と言っても、楽しい話題もないんですけど、」
かすれ気味の声で小さくおどけるシンジ。苦笑が苦笑にもなりきれない。さっきまで強がって笑っていた彼とは別人のように表情も引き攣っていた。長引く沈黙。けれど、カヲルはシンジが何かを話したいんだとわかり、彼の言葉を待ち続けた。
「……渚さんは、どうして今の仕事に就いたんですか?」
「仕事かい?そうだね、昔からの夢だったんだ。」
「夢って、どんな?」
「より良い世界にしたい、誰かを守りたい、そんな事に昔から取り憑かれていてね。“誰”の部分も“世界”の部分も曖昧なまま今の仕事を選んだんだ。そして幸運にも、それが自分に合っている仕事だった。」
「すごいや。渚さんの夢は壮大だ。」
「そんな立派なものでもないさ。けれど…もうすぐ大事な会議があってね。それ次第では僕の今まで努力が報われて、もう少しその夢も立派になるかもしれない。」
シンジはそれを聞くとまだ見知らぬその夢に想いを馳せた。
「うまくいくといいですね。」
そして努力の報われて晴れやかな笑顔になるカヲルを心に描くのだ。
「ありがとう。碇君はどうして車掌になったんだい?」
「…僕は父の影響です。交通事故で僕が幼い頃に母を亡くして、父は乗り物が嫌いでした。そして僕はそんな父に立ち直ってほしくてパイロットとか運転士に憧れて。僕が完璧に安全を守れば父も安心して乗れるかなって。そんな単純な発想からこの道を選びました。でも僕は、変わってしまった父の心に近づくことすら許されなかった。今も、父は一度だって僕の電車には乗らない…でも僕も、だんだん運転士より車掌の方が合ってるかなって思い始めているんです。僕もちょっとブレブレなんです。」
「君には車掌がとても似合っているよ。天職なんじゃないかな。」
「渚さんはお世辞が上手いや。」
「これは本心だよ。それに今日いた人達だってきっと僕と同じ事を言うさ。」
シンジの顔に影が差す。ゆっくりと俯いてゆく。
「でも、僕は今日、安全を守れなかった。だからもう、父にも顔見せ出来ません。」
「君には防ぎようのない事故だった。」
「でも、きっとこの路線の利用者です。僕の電車に乗って、僕ともすれ違っていたかもしれない。それでも僕は彼を止められなかった…僕はいらない人間だ…」
「碇君…」
下を向いたシンジの頬が欠けた丸さの月に照らされてつうっと儚く煌めいた。シンジは嗚咽を呑み込んで、肩を震わせている。
「君にも僕にも、守れないものだってある。僕達は全能の神ではない。ちっぽけな人間に出来る事は限られているんだ。」
その小さな肩をカヲルは優しく抱く。
「けれど、君はとても一生懸命だね。君は今日もたくさんの人の安全を守って、たくさんの人の癒しになっている。それは君にしか出来ない素晴らしい仕事さ。君が気づいていないだけで、たくさんの人が君を必要としているんだよ。君は本当によく頑張っている。偉いよ、碇君。」
するとシンジは溢れ出す涙を止められずに、ひたすら泣いた。それは半分は悔しそうで、半分は安心しているようだった。漏れてしまう声を噛み殺して号泣するか弱い背中をカヲルがそっと抱き寄せると、シンジは優しい香りのする胸に埋もれて甘えるようにして泣きじゃくった。カヲルはそんなシンジの制帽を取って自分の頭に乗っけてから、シンジの艶やかな髪をよしよしと撫でてゆく。いつまでも撫でてゆく。ワイシャツが涙に濡れて時折の夜風にひんやりと冷たいと、カヲルは余計にシンジの吐息の熱さを感じてしまうのだ。その時、濡れた胸は腕の中の彼への変わらない想いに打ち震える。
カヲルはその日、誰を守りたいのか、どんな世界を守りたいのか、その答えをやっと見つけた。ふたりの頭上には冬の星座が音もなく、遥か彼方の光を連れて輝いていた。
「次は第三新東京、第三新東京、終点です。お忘れ物のないよう、お気をつけくださいませ。尚、本日は進行方向左手に綺麗な満月が見えております。ご到着の際、夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。」
シンジは今日も真心のこもったアナウンスで殺伐とした社会を生き抜く現代人の心を癒す。あれからも彼は何度もくじけそうになりながらもしっかりと仕事を続けていた。車掌室の窓からそっと隣の車両を覗き見ると、ずっとこちらを見ていたのか、カヲルと視線が絡まった。そして、微笑み合う。それはまるで密やかな睦言のようだった。
幼い時代に母に先立たれ、無関心な上に厳格な父に育てられたシンジは、あの哀しい夜、生まれて初めて他人の前で思いきり泣けた。そしてあんな風に誰かに甘えられたのは初めてだった。それを思い出すとまるで夢のようで、忙しない現実に生きる彼の内なるものを圧倒してゆく。言葉にならない願いの種子が芽吹こうと、殻を破るための痛みを、その胸に宿してゆく。
「今日もどうもありがとう、車掌さん。」
乗客がはけてから、カヲルはシンジに話しかけた。ふたりの頬にほんのりと朱が差している。
「おいおい、おふたりさん、もうやっちまったのかよう。」
何人分の座席を陣取って横になり、不審の目を向けてくる革ジャンの男。
「呑み過ぎですよ。」
カヲルはそうたしなめながらも、真に受けて耳まで真っ赤になる。
「いやはや、綺麗な顔に騙されてつい油断した。仲間を出し抜くとは、策士だな。」
待ちきれずに隣の車両からやってきたイタリアスーツの男。つり革にだらしなく掴まって品定めするみたいにして片眉を上げて千里眼に力を込める。
「変な冗談はやめてくださいよ、もう!」
シンジは何かを見透かされているような気がして堪らなかった。それだけで、隣り合わせのふたりはギクシャクとしてしまう。
けれど、そんなワンダーランド駅へと奇妙な来客が訪れた。
「あの、すみません!」
駅の改札辺りで女性の大きな声がする。シンジは慌ててその方向へと駆け出した。
「どうなさいましたか?」
「あの、駅もう閉めちゃいました?声がしてたからまだやってるのかなって。」
肩まで髪を下ろしたタイトなスーツ姿のキャリアウーマン。人懐っこい笑顔で申し訳なさそうに小さく舌を出している。
「電車は終わってしまいましたが、駅のことでしたらまだ大丈夫ですよ。」
「いや〜ん、よかった!こんな時間にごめんなさいね。ちょっち落とし物を見せていただきたくってぇ。」
シンジはそれを聞いて彼女を駅の中へと通した。
「どんな物でしょうか?」
「説明が難しいのよん。薄汚れていて、ボロボロで、ほとんどゴミみたいなのね。」
普通なら、それはゴミです、となるところだが、それを聞いてシンジは前に拾ったある物をぼんやりと思い出した。
「もしかして、鳥みたいなぬいぐるみで、おなかに“合格”って書いてありますか?」
それを聞くと彼女の笑顔はふと消えた。唇がわなわなと震えている。
「…あるの?」
はい、とシンジは返事をして保管庫からその落とし物を持って戻って来た。
「これでしょうか?」
「ああ!!」
するとそのキャリアウーマンは震える両手でそれを持ち上げてその胸に抱いたのだ。
「ああ、よかった…!ここにいたのね、ペンペン、」
シンジはそれを聞いてペンギンだったのか、と理解したが、すぐにすっと胸が跳ねた。目の前の彼女は感動を通り越して腰が抜けたみたいにへなへなと地べたにしゃがんで、ぽろぽろと泣いていた。
「コレね…父の形見なの…もう誰かに捨てられちゃったのかと思ってた…ずっと探してたのよ…」
彼女は涙を隠さずにシンジを見上げて、ありがとう、と囁いた。そんなふたりをカヲルは階段の端で見守っていたのだ。そしてホッと胸を撫で下ろして微笑むシンジをカヲルはとても誇らしく思う。誰もがゴミと思ってしまうようなものでも、その奥に宿った想いを見つけてしまうシンジの心。皆が夜の闇の中、その光を求めて集まる。
そしてワンダーランド駅のその響き通り、今宵は思わぬ運命を引き寄せる。
「おーい、大丈夫かい?おふたりさーー」
なかなかホームに戻らないシンジとカヲルを心配して降りて来た加持は、階段の中腹で立ち止まり絶句した。
「あ、加持くん…」
「葛城……」
「え、」
かつて泥酔した加持がシンジの膝枕で懺悔していた相手は、確か葛城という名の元フィアンセだった。
それからただならぬ事態を察した勘のいいワンダーランド駅の住人達は、そのつかの間の集いをお開きにしたのだった。
夜の街へと消えてゆく元フィアンセ同士の背中を見送り、ほうっと息を吐く車掌。
「加持さん、僕に言ってたこと、ちゃんと伝えられるかな。」
「今日は彼にしては酒臭くなかったね。」
「うん。ならきっと大丈夫かな。ふたりとも、幸せになってほしいですね。」
顔を見合わせ微笑み合うと、ふたりの間に白いものがふわりと過ぎる。
「あ、雪!」
しんと冬らしく張り詰めた静寂の星空、ふたりの足元を照らす鏡のような月。それなのにちらほらと粉雪が舞い降りてアスファルトに溶けてゆく。
「風花だ。珍しい。」
「カザハナ?」
「晴れの日に遠くから風に乗ってきて降る雪のことさ。」
そう言うとカヲルは自分の首にあった臙脂色のマフラーを解いてシンジの首に巻き付けた。
「え、あ、いいですよ、そんな、」
「僕がそうしたいんだ。」
「でも、渚さんが…」
「君の前で少しばかり格好つけるのを許しておくれ。」
そんなことを甘い声で囁かれたら、もうシンジは言いなりになるしかなかった。
「…ありがとうございます。」
雪肌の大きな手が大事そうにシンジに巻かれたマフラーを整えている。自然と縮まった距離にシンジは口から心臓が飛び出そう。そして彼は小さく覚悟を決めたのだ。
「あ、あの、」
シンジは制服の内ポケットからある物を取り出して手のひらにそれを乗せた。
「こ、こ、これ、よかったら、受け取ってください。」
凍えたようにガチガチと震える口許。大した物じゃないんですけど、と遠慮がちに差出されたそれは、綺麗な薄紫の手作りのお守りだった。星屑を散りばめた模様のサテン地に拙い刺繍で“お守り”とあつらえてあり、しっかりと白い紐が二重叶結びで添えられている。
「ヘタクソですみません。でも、気持ちはある…っていうか。えっと、前にお仕事で大事なことがあるっておっしゃっていたので、その成功を祈ってのお守りです。嫌だったら捨ててください…」
シンジはもう緊張で泣きべそをかき始めていた。こんな風に誰かにかたちにして想いを伝えたことなど一度もなかった。それはほとんど「あなたを大事に想っています」と言っているのと変わらない。手作りのお守りなんて、大切な人にしか贈らない。
カヲルは淡々とそれを受け取り、自分の手の中にあるものをゆっくりと理解してゆく。その光沢のある布に綴られた文字、一生懸命に曲線を描いてよれたそのかたち。それを指でなぞると身体の奥から何かが芽吹くような熱を感じた。シンジに触れているみたいだった。
「すごく…すごく、嬉しいよ…!」
カヲルの声は喜びにかすれていた。怯えていたシンジがちらっとカヲルを見ると、カヲルは熱っぽく暁の瞳を潤ませている。すごく幸せそうだ。シンジはそんなカヲルを見つけて天にも昇る気持ちになる。自分の背中に翼が生えたような気がした。
「ありがとう。大切にするよ。これがあれば何でも出来そうだ。空も飛べそうだよ。」
シンジはその言葉にカヲルは自分と同じ気持ちなのかなと、喜びで頬が緩んだ。一度綻んだ笑顔が止まらなくて思わず顔を手で覆う。心の中で嬉しさに地団駄を踏む。
そんないじらしいシンジを見つけてカヲルも気持ちが止まらない。寒さのせいにはしきれない勢いでシンジをギュッと抱き締める。心の準備が出来ていなかったシンジはその強さに、あ、と小さく喘いでから、塞がった両手のままにカヲルの胸へと埋もれた。
「明日がその大事な日なんだ。」
「…はい。」
力強い腕が細腰を手繰り寄せる。シンジはゆっくりとカヲルに体重を預けた。鼻孔をくすぐるその腕の中の甘い匂いに、刹那、果てしなく安堵する。
「もしもうまくいったら、」
けれども、次の言葉にシンジは仰天するのだった。
「君とデートしたい。」
夜明けを告げる鳥のさえずり。まだ暗い早朝のプラットフォームには今日もたくさんの人を安全に運ぶために隅々まで心を配る車掌の姿があった。彼の吐く息は結晶を吹くように白い。駅前の花壇には霜が降りていた。至る処の機械の肌は触れると氷のように痛かった。けれど、もうすぐ朝が黄金色を連れてくる。希望の光のようなそれが、辺り一面を満たしてゆくのだ。
「やあ、おはよう。」
かじかんだ指先に息を当てて擦り合せていた車掌が、声の方へと振り返る。
「お、おはようございます。あれ、どうして、」
「始発に乗ろうと思ってね。」
「でも渚さんの最寄り駅は隣でしょう?」
「ふふ、君の顔が見たくて寒い中、歩いて来たんだ。」
シンジはそれを聞くと嬉しそうにはにかんだ。そのはにかみを更に深めてみようとカヲルが左胸の内ポケットからチラリとお守りと覗かせると、今度はそれが照れた微笑みになる。
「あんまり緊張しない方なんだけれどね、今日は流石に緊張しているよ。君とのデートがかかっているからね。」
カヲルがそうおどけてみせてもシンジにはよくわかっていた。ずっと追い掛けてきた夢を叶えようとする時に、すくんでしまうその心許なさを。だからシンジは姿勢を正してカヲルへと向き直る。
「渚さんならきっと大丈夫です。」
「…そうかな。」
「はい。渚さんの一生懸命な姿を僕はずっと見てきました。」
シンジにそう言われるとカヲルはホッと緊張が解けてゆく。未知の力が湧いてくる。
「だから…どうか無事に帰ってきてください。僕はここであなたの帰りをお待ちしています。」
時に、誰かのひとつの言葉が、全ての複雑な難関をとても単純明快にしてしまうことがある。
カヲルはかつて見たあの満開の桜の下をシンジと並んで歩いてゆく未来を想像した。咲き乱れた春色の風花の中でシンジが微笑みながら自分の名を呼んでいる。だから、その声に答えなくては。ちゃんと答えなくては。
その指先はひとつの希望をひたすらに求めてゆく。
刻一刻とそれぞれの轍は新しい軌跡を描く。
その轍はどこへと繋がってゆくのだろう。そこには何が待っているのだろう。
けれど、そこに描かれたもの。
人はそれを、経験と呼び、道と呼び、人生と呼ぶ。
ある無口な女子中学生が新しい朝にイヤフォンを外して隣の子へと声をかける。ある売れないミュージシャンが新しい朝にようやく不朽の名曲を書き上げる。ある不登校の赤い眼鏡の女の子が新しい朝に懐かしい制服に袖を通してみる。ある不機嫌な女子高生が新しい朝にかつての友達と仲直りをする。ある酒浸りのしがない男が新しい朝にもう一度薬指にプラチナを嵌める。そして、あるサラリーマンとある車掌は新しい朝に触れるくらいのキスをした。
それぞれの想いを乗せて今日も電車は彼らを確かな未来へと運んでゆく。
「本日は雲ひとつない清々しい朝を迎える事が出来ました。これからお仕事に、学校に、それぞれの目的地へと行かれる皆様へ。今日も一日、頑張りましょう。そして、最高の一日になりますように。いってらっしゃいませ。」
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