Chapter:4 不埒な社内恋愛
出向、窓際、解雇…相田ケンスケのネガティブツイートは止まらない。片道切符、ニート行き、止まりません!
「締切、残念だったね、」
しかも、脱稿出来ずに、新刊ナシ…けれど、
「まあ、俺のことは気にすんなよ。ありがとな。」
持つべきものは友である。有事にも保つ友情こそが、本物の友情。
はっきり言ってあの夜の翌日の顔合わせは目も合わせられない散々なものだった。しかし一週間もすればこの通り、元通りだ。しかも自分よりも不幸な友への同情は、明日への生きる糧となる。自分は大したことないな、と不謹慎にも未知の力が漲ってくる。
「あ、行くね。」
「おう。」
そしてケンスケは今、微妙な立場に立たされていた。
「相田君、シンジ君は?」
「えーっと、あれ?おかしいな。さっきまでいたのに。」
「ふうん。君、何か隠していないかい?」
「そ、そんな、まさか、」
「後で話し合おうか、相田君。」
ギロリと赤い瞳に睨みつけられて、頭の中には友情のために殉死するアーミー・ケンスケの後ろ姿。
つい先日、心の友、シンジの秘密の告白を受け止めた。それは仰天する、しかし予想の範囲内のものだった。
シンジは上司のカヲルに恋をした。妻子持ちだった。けれど、カヲルもシンジに積極的だったから、つい流されてしまった。不倫とわかっていても好きな気持ちは抑えられない。シンジも本気だったのだ。けれどやっぱり、あの夜はもう少しで危なかったけれど、カヲルの本当の幸せのために身を引くことにした。今も好きだけど、仕方がない。好きなカヲルに家族を裏切らせたくはない。理性が吹っ飛ぶほどにシンジに夢中なカヲル。頭を冷やしてもらうにはシンジが接触しないのが一番だ。頭が冷えたらきっと、自分のことなんて忘れるだろう。だからケンスケに協力してもらい全力でカヲルから逃亡するシンジ。あれから一週間もカヲルときっぱり避けているのだ。
「専務ってまた秘書をクビにしたらしいわね。」
「ブチギレたらしいじゃん。」
「まあ、あのビッチ秘書なら自業自得でしょ?カヲル様にまとわりついてさ。」
シンジの不在はカヲルに相当なダメージを与えた。普段笑顔を崩さないカヲルの表情からも余裕が消える。逆セクハラまがいのハイエナはあっという間に首が飛ぶ。温和な美貌もふとした瞬間、鬼の形相と化すのだ。美しすぎる鬼は女子達には免罪符のようだが。
シンジは何度もカヲルからの逃避においてニアミスをした。ある時はエレベーターで廊下を駆け出すカヲルを無視してボタン連打で扉を閉め、ある時はビルのエントランスで待ち伏せするカヲルを見つけて用務員に裏口から通してもらった。自分のデスクに訪問するカヲルを発見するとほふく前進宜しくトイレへと逃げ込む。そんな時にカヲルがトイレまで探しに来ると携帯にて救難信号を発信。伏兵ケンスケに助けてもらった。
「もう秘書は要らないって社長にも当たったとか。」
「天下の渚次期会長は無敵ねぇ。私も早く会長夫人になりたいわぁ。」
だが時が経ち、カヲルの不穏な噂を耳にする度にシンジは首を締め上げられるような罪悪感に襲われる。あんなに純粋に自分を愛してほしいと泣いていたカヲル。それだけ見ると、まるで気紛れなシンジがカヲルを振ったような奇妙な感覚がして胃が痛い。
だって…仕方がないんだもの。カヲル君もいつかは僕のしたことをわかってくれるはず…
携帯がバイブレーションする。事態の収束の合図だ。シンジはゆっくり非常階段の重いドアを開けた。心のドアは閉ざしたまま。
「それで、君はどっちの味方なんだい?」
一方ケンスケは友のために捕虜となった。カヲルのオフィスに連行されてしまったのだ。
「いや、えっと、」
「エヴァンゲリオンを造る夢があるんだろう?」
「…だからってダチは裏切れませんよ。」
「それが本音か。」
カヲルは革張りの椅子に深々と腰掛けて、大きな机にすらりと長い脚を投げ出した。自暴自棄な行儀の悪さだ。
「君は見たんだろう?僕らの情事を。」
「見てません。」
「いや、見たね。」
往生際の悪いケンスケも猫背になって諦めがつく。どんよりとした溜め息をひとつ。
「…専務は碇のことが好きなんスよね?」
「ああ。」
遠くを切なそうに眺めてほんのり頬を薔薇色に染めるカヲル。ケンスケはそんなカヲルを初めて見た。
「なら、碇の気持ちも汲んでやってくださいよ。あいつ真面目なんです。」
「どういう意味だい?」
カヲルはまるで自分の愛が不真面目だと言われている気がして不快感を露わにした。実際ケンスケも行間にてそれを指摘したつもりだ。
「…専務には家族がいるでしょう?」
「まあ、一応はいるよ。」
養祖父の現会長のキールのことを思い出した。先日クリスマスくらいドイツに帰れと言われて断ったばかりだ。その日はシンジと過ごしたかった。シンジのクリスマスケーキが食べたかった。シンジを想うと涙が溢れそうになる。
「だから碇は身を引いたんスよ。あいつだって苦しんでの決断なんです。」
「意味がわからない!」
養祖父の存在がなんだと言うんだ。カヲルは一層混乱した。
「まあ、日本の文化は奥ゆかしいんスよ。これもひとつの愛のかたちです。」
「どうしてそうなるんだ?!」
カヲルは椅子から飛び上がり、室内をぐるぐる回った。爆発しそうな頭を抱えて。
「碇は専務に本気だったんスよ。遊びとは割り切れなかった。あいつにとって専務は初恋の相手なんです。美しい存在なんです。」
ケンスケは初恋の相手を思い出して目頭を熱くした。次元が違うだけで触れることも許されなかった相手だった。その傍らでカヲルの頭は爆発寸前。本気?初恋?
「僕だって本気だ。愛してるんだ。遊びじゃない!」
「ああ!もう!異文化ってのはややこしいぜ!」
クソ、同じ次元にいるくせにどうしてこうも分かり合えないんだ!ケンスケは苛立った。
「専務の状況は不倫って言うんですよ!この日本では不倫は罪深いんスよ!」
「独身の僕がどうして不倫になるんだ!しかも僕はまだ誰とも契りを交わしてない!身も心も潔白だ!」
「ハア!?」
ケンスケは仰天した。その江戸時代みたいな発言は、現実か?
「専務、童貞なんスか!?」
「…そんな珍しいものでもないだろう、」
カヲルが恥ずかしそうに俯く。その紅い耳を見てケンスケは確信した。確かに、童貞だ。童貞で独身…なら妻子は?
ここでケンスケの頭はフル回転する。妻子持ちというカヲルの情報を取得したのは?クソ、専務の一番初めのエロ秘書からだ!
そこでケンスケは更に考えた。シンジがカヲルの妻子持ち情報を取得したのは?クソ、自分からだ!
そして目の前で煌めく指輪。ケンスケは行きつけの印刷所の加持という男が昔、女が寄って来ないように虫除けとしてイミテーションの指輪を薬指に嵌めていたというイケメン伝説を聞いたことがある。そうかそういうことか。カヲルならやっていて当然だ。いや、もっと早くに気づくべきだった。イケメンに産まなかった両親のせいにしておこう。
「あの…提案なんスけど、」
「なんだい?」
「碇と、もう一度腹を割って話してみるんですよ。ここなら邪魔も来ないじゃないスか。た、たぶん碇は何か…誤解かなんかがあって、素直になれていないんですよ。ふたりはお似合いなのにね、ハハ…」
やんわりと責任回避を始めるケンスケ。自分がトリックスターになっていたと知られたら、それこそ、命はない。
「今一度、話すことで分かり合えるだろうか、」
「現に専務は碇に納得していないんでしょ?本当に好きなら納得しないままに諦めては駄目ッスよ。ひとがいつも後悔するのはしなかった方のことですよ。」
カヲルはふっと顔を上げた。目の醒めたような赤い瞳。
「確かに君の言う通りだ。」
ケンスケはこのチャンスを逃さない。
「業務命令でここに来るよう碇に呼び出しをかけるんです。そしたらあいつも逆らえない。秘書がいないことを理由にすれば順次すんなりと上手くいきますよ。」
悪そうな顔をして口角を上げて。策士ケンスケ、我ながら名案だ。
「そうだ、その通りだ、そうしよう…」
シンジ君、そう愛おしそうに名を呼ぶカヲル。シンジに会えない時間を積み上げカヲルは確信したことがある。
もうシンジなしでは生きられない。
その頃十数階下のオフィスでは。
「碇に呼び出しだぞ!今すぐ56階の専務のオフィスに行け!」
部長が怒号混じりにそうシンジに呼び掛けた。シンジはサッと血の気が引く。その手があったか。
「碇!聞いてんのか!」
「は、はい、今行きます!」
シンジは慌てて立ち上がる。少し指先が震えている。カチコチとした足取りでどうにかエレベーターに辿り着くとアスカとすれ違った。
「ね、ねえ、アスカ!ケンスケ知らない?」
「ヲタク?さあ、見てないけど、どうかした?」
「いや…」
この緊急事態をアスカに伝えるにはそれまでのあらすじも必要だ。そんなことはこの場では口が裂けても言えなかった。
シンジがとぼとぼとエレベーターに乗るのを不審に見送ると、すれ違いざまにケンスケが隣のエレベーターから降りてきた。
「おーい、ヲタク!バカが呼んでたわよ!今上に行った!」
「それでいいのさ…」
「は?」
「全て上手くいくよ。刀が鞘に納まるだけだ。」
うまいこと言ったな、と含みのある笑みを浮かべるケンスケ。
「意味わかんない!」
「俺もだよ…」
胸に十字を切って猫背で俯き通り過ぎる彼に、アスカはやや気味悪がって肩を竦めた。そうしてまたヒールを鳴らして歩き出す。その頭上ではこれから決戦が繰り広げられるのだ。
ピカピカに磨き上げられた木目のドアを軽くノックする。すると、はい、と聞き慣れた声の返事が聞こえ、心拍数は急上昇。あの夜が頭をよぎるのを振り払いゆっくりとドアノブを回した。
緊張で掌は汗をかいている。初めてのカヲルのオフィス。その個室は無駄なもの一つない、殺風景なものだった。幹が編み込みのようなシンジの背丈くらいの観葉植物だけが黒光りする大きな机の横で命の色を放っている。
「…なんでしょうか?」
その緑葉の先に完璧な輪郭の横顔があった。少し紅潮した頬に一に結ばれた唇は彼の、緊張の証。
「資料を、取っておくれ。」
肩透かしのセリフだった。シンジはキョトンとしてカヲルを見つめる。カヲルはシンジを見なかった。
「どうして僕が?」
「秘書が…昨日辞めてしまったから。君は僕の部下だ。」
「ああ。」
噂だとカヲルが解雇したと聞いていたのだが。けれどシンジは噂なんて信憑性の無いものだと思い直し、カヲルが片手で持ち上げている資料をさっと受け取った。受け取る時に指同士が触れ合うと、カヲルの眉がピクリと動いた。近くで見る久々のカヲルに胸がときめいてしまうシンジ。仕事をしている彼は俄然格好良かった。
「それの次のナンバーを取ってくれ。」
「どこから?」
「横の資料室から。」
向かいの壁に確かにドアがついていた。
「…わかりました。」
正直、もっと修羅場になるかとシンジは思っていた。けれど、まあ、他の社員より信用している自分を指名する動機も一理ある。だからシンジは何も疑わずドアの中へと入っていった。
資料ってどこにあるんだろう…
シンジは二畳ほどの辺りを見渡した。電球の薄明かりの中、そこには何も見当たらない。備え付きの棚にも何も置かれていない。
すると後ろからガチャリ、音がして振り返る。そこにはカヲルがいた。その後ろのドアはピッタリと閉められている。
「話し合おう。」
シンジは驚いて声も出ない。手元から書類が落ちる。
「し、資料は…?」
「ここにはないよ。ここは前任者がクローゼットに使っていた。」
「騙したの?」
「ごめん。君と納得いくまで話がしたくて。きっとオフィスでそうしようと提案しても君は逃げてしまうだろう?」
確かに。この一週間ずっとカヲルから逃げていたシンジの胸はチクッと痛む。
「…話し合いで何か解決するの?」
「きっとね。君は何か誤解しているようだから。」
シンジはきゅっと眉を寄せた。
「…もし解決しても、不幸になるひとがいる。」
すると、やはりと思い立ち、カヲルはずっと考えていたことを口にした。
「君がもし同性愛で社のパブリックイメージが傷つくと思っているなら、それは違うよ。うちはもっと進歩的な社風だ。」
「何の話?」
シンジは一生懸命、言われた言葉の意味を考えた。考えるほど頭が真っ白になって理解出来ない。
「…君が僕の家族のことを気にしているのかと思ってね。」
激しい目眩に襲われて身体が震えるシンジ。面と向かって家族のことなんてカヲルの口から聞きたくはなかった。
「もう、いいよ…僕が身を引けばいい話だから、」
シンジがこの場から逃げ出そうと前進するとカヲルは慌てて立ちはだかり肩を掴み押し返す。
「どうしてそうなるんだい?僕は君のことが好きだ。君も僕が好きなんだろう?」
その手を振り払おうともがくと両手首の取られ自由を奪われてしまう。体格ではかなわない。
「じゃあ家族はどうなるのさ!」
つい大声になる。その振動でシンジの瞳からはポロリと一筋の涙が落ちる。カヲルの革靴が書類をグシャリと踏んでいた。
「キールは僕の見初めた君を気に入るよ。だから、大丈夫。」
キールって誰だよ、そう言いたいのに一度溢れた涙が怒りも哀しみも一緒くにしてシンジを泣かせる。カヲルが泣き止まないシンジを抱こうとするとジタバタと抵抗された。
「他に好きなひとがいるのかい?」
カヲルの脳裏を赤毛が過る。言葉にするのも恐ろしいというような掠れ声だった。けれど首を横に振るシンジ。それを見てカヲルが一歩前に進む。そうすればふたりはもう鼻先が触れ合うほどに近い。
「ならふたりを阻むものは何もない。」
安堵の表情のカヲル。近くで見つめ合うとシンジはとろんとした顔になる。互いの瞳には互いしかもう映らない。カヲルは涙を指でやさしく拭ってやり、シンジをそっと抱き寄せた。それだけでふたりの全身に痺れが走る。灼熱が身体の芯に点火する。
「初めて見た時にわかったんだ。君が運命のひとだと。」
次第に抱き締める力が強くなるカヲル。耳元で喉の鳴る音が聞こえる。
「あまりにもはっきりしていて迷うこともなかった。」
カヲルの唇が首筋を愛おしそうに這ってゆく。シンジは感じ入って全身を強張らせた。
やめて、
「誰にも君を渡したくない。」
僕の心を暴かないで、
「好きだよ、シンジ君。」
カヲルはそう言いながらシンジと自分の唇を掠めるくらいに触れ合わせた。まるで吸い寄せられるのを抗えないようだった。シンジはもう降参してしまいそう。好きなカヲルに口説かれて、抱き締められて、唇を寄せられて、その腕の中でもう、息絶えたいような気さえした。今ここであの夜の続きをして愛されてから召されたい。そう思った。けれど、
「初めてなんだ、ひとを好きになったのはーー」
虚しさはシンジから愛の夢をも奪ってしまう。
「嘘つき!!」
シンジはカヲルを思いきり突き飛ばした。完全に油断したカヲルはそのまま床に倒れてしまう。
「結婚してて子供もいるくせに!!」
そう絶叫するとシンジは泣きながらこの小部屋からもカヲルのオフィスからも出て行ってしまったのだった。
ドアのバタンと勢いよく閉まる音が鼓膜の奥でこだまする。カヲルは放心して床に寝転がったままシンジのそのセリフを噛み砕こうとした。ショックが酷くてまるで焦点が合わない。
ふいに銀髪を掻き上げる。そして視界で煌めく、左手の薬指のプラチナの、指輪。
「あ、」
「ああ…!!」
まさか、そんな…!
なんということだ。自分の左手の薬指には誰がどう見ても結婚指輪らしいものが存在している。
そこでやっとカヲルは事態を把握して、その馬鹿馬鹿しさに肢体をもう一度大きく投げ出すのだった。
家族って、そういうことか…
長年効果のなかった嘘がこんな所で最大の威力を発揮してしまうなんて。指に馴染みすぎて虚勢を張る時以外では意識すらしなかった。
「シンジ君、そんな悩みを抱えていたんだね…」
ひとつの謎が解けてしまうと簡単なパズルだった。カヲルは今までの不可思議を解決してすうっと爽快な深呼吸をする。
けれど、シンジはまだ苦しんでいるはずだ。
そう思うと次の瞬間、カヲルは起き上がり駆け出した。今こそ、そのあまりにも哀しい思い違いを、解かなければ。
シンジはよろけながら自分の席へと着地した。もう、ボロボロだった。
「碇、どうだった?」
ケンスケはドキドキしながらもいい返事を聞けると確信していた。しかし、
「最悪…」
それを聞いて瞬く間に青ざめる。同僚の泣き腫らした目。よれたスーツ。赤い手首。これは、荷造りを始めた方がいいかもしれない。シンジが机に倒れ込むのと同時にケンスケもキーボードの上にダイブした。サヨナラ、俺のエヴァンゲリオン…
すると、オフィス内がざわめき立つ。ケンスケは異変に気づきゆっくりと顔を上げた。
「最後にひとつだけ聞いてほしい。」
シンジは驚いて飛び上がる。見上げると今は一番会いたくないカヲルがいる。まさか追いかけてくるとは思わなかった。
「もう、やめようよ…」
困惑してまた涙を溜めるシンジ。明るい場所で見ると何とも弱々しくて捕食される前に命乞いする仔鹿のよう。しかし、
「確かに僕は嘘を吐いていた。」
ここでやめてはいけないのだ。カヲルは左手の甲をシンジに見せるよう高く掲げた。
「この指輪はイミテーションなんだ。」
そうして薬指からそのプラチナを外して捨てるようポケットに突っ込んだ。
「僕は妻子なんていない、独身だ。それで構わなかった。独りでも良かった。君と出会うまでは。」
あまりの衝撃に口をあんぐり開けるシンジ。椅子に座ったまま身動きひとつとれない。カヲルはそんなシンジの前で跪く。
「君と僕とは好き合っている。なら答えはひとつだろう?」
カヲルはシンジの手をやさしく握った。もうその手からはあの冷たく固い感触は感じられない。好きなひとの温もりのみなのだ。
大空に一面の蝶が舞うような感覚にシンジは襲われる。その温もりに心から安心して肩を震わせて泣き出した。声を殺して泣くその姿が愛おしくて、カヲルはシンジをギュッと抱き締める。
ここはオフィスのど真ん中。同僚が、肉食系女子たちが、絶句している。熱々のふたりを残して室内は氷河期を迎えていた。けれど、
「お、おめでとう!」
ケンスケは立ち上がって拍手する。もうこれこそ命懸けだ。そんな捨て身の彼に続き、部長が、エリート街道のランナーが、隠れ腐女子が、拍手する。すると長いものに巻かれる者も、ノリのいいヤツも、草食系も、拍手すれば、ついに肉食系だって愛と権力に降伏して拍手喝采で、ふたりの愛の成就を祝福するのだった。
しかしほとんどがこう思っている。大人は口に出さないけれど、一斉にこう思っている。
うちは社内恋愛禁止だろう!
自由すぎる専務はそんなこと、真実の愛の前では微塵も気にしていなかったのだ。シンジは何も知らなかった。
UFOが飛んでいる。
なんて思ってよく見てみたら、高く舞い上がった桜の花びらだった。
大都会の街路樹も駅ビルのロータリーもカラフルに色めき立つ新しい季節。華やいだ春の草花は何気ない陰日向に生きることの喜びを伝えている。そうしてあるカップルは幾度となくそうしたものを噛み締めては止まらない愛を育み続けていた。
あれからカヲルとシンジは社内恋愛OKになったこの会社で相変わらずイチャイチャと仕事に励んでいた。別に恋愛は仕事の妨げにはならない。仕事をするひと次第だということを特にカヲルは証明していた。うなぎ登りの業務実績。右肩上がりの純利益。景気はあっぱれ最高だ。そして次々と実りゆく愛の果実。殺伐としていた会社も今はもうノリノリで肉食系も草食系もオアシスで伸びをしている。
あーあ、僕またやっちゃった。この仕事、向いてないのかなあ…
けれど、今日のシンジはちょっと違う。昼休みの屋上にて。パックに入った乳酸菌飲料を幸せの黄色のストローで溜め息混じりにちゅうちゅうと吸っている。こうしてカヲルとシンジで並んで欄干に肘をついて飲み物を分け合うのがふたりの日課になっていた。
「いい天気だね。」
春風がふたりの頬をくすぐってゆく。遠くの公園ではもう桜が咲き始めている。今日はいつもより元気の少ないシンジ。その訳はとうに友人のケンスケから連絡を受けている。そっとシンジの手にカヲルのが重なった。そこには真新しいプラチナシルバー。婚約指輪だ。カヲルはすうっと深呼吸した。もうずっと言おうと思っていた言葉をついに告げるために。
「寿退社してみるかい?」
シンジは驚いてカヲルへと振り返った。そこでは緊張と幸せで薔薇色に頬を染めたフィアンセが微笑んでいる。
あまりにもはっきりとしている物事はもう、迷うことなんて出来ない。
運命が僕たちを見つけた、
これは勘違いなんかじゃない。
FIN.
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