Chapter:2   不埒なエレベーター



「いつも迅速な対応に感謝しているよ。見返りは何でも言ってくれ。」

午前8時45分のとある階のエレベーター前。ここにて秘密の会合が開かれる。

「い、いつかネルフ本部の開発部にて人造人間エヴァンゲリオンを建造する計画にお力添えいただけたらこの相田ケンスケ、無常の歓びであります!」

「ああ、あの2000年以来頓挫しているE計画だね。わかった。然るべき時が来たらキールにも話を通しておくよ。」

「か、会長に…!?ひい!ありがとうございます!」

「代わりと言ってはなんだけれど、これからも宜しく頼むよ。情報屋の相田君。」

ふうん。それなら彼女の一方的な好意だろう。確かに彼女は碇シンジ君には不相応だ。

そんなことを心の中でつらつらと並べてゴキゲンなカヲル。ポンポンと肩を叩かれケンスケはこくこくと頷きまくる。不気味に眼鏡が輝いている。

「い、碇…君は休日はよく映画を見ているらしいです。特にハートフルなSFやラブコメが好きらしいです。」

「映画か…いいね!ありがとう、相田君!」

チン、とエレベーターが鳴り、ケンスケとカヲルは束の間の会合を終えた。

お、俺は決して友情を裏切っていない。これは碇の為でもある。

いや、社長ですら未来の会長が約束されたあいつにビビって媚びまくっているというのにどうしていち平社員の俺が逆らえようか…

ケンスケはそう言い訳しつつ何も知らないシンジに小さく懺悔した。ことの発端はひと月前に遡る。

雨上がりの帰路の途中、会社を出て間も無くケンスケは噂の専務に呼び止められた。まるで刺客のような登場っぷりに、彼は社会人としての死に直面したと思った。しかし話を聞いてみるとそれは耳を疑う内容。全く成り行きはわからないが同僚のシンジに骨抜きにされた専務が自分にあらぬ疑いをかけていたのだ。ケンスケは取り敢えずそのおぞましい誤解を解き、そして彼らしくその状況を利用することにした。この姑息な情報屋はその恋に協力すると言ってカヲルに取り入ったのだ。シンジが部長に虐められたこと、アスカがシンジを気にかけていること、全てはこのパイプからカヲルにまで届けられていた。


「シンジ君、今週の週末は空いているかい?」

キスの次の日からふたりは名前で呼び合っている。カヲルがそうしたいと言ったのだ。彼の近視の距離感は盲目のそれへと進化と遂げていた。誘いの言葉をキスしそうな具合で囁いては、シンジの指間にカヲルのそれを絡ませてゆく。

「実は映画の招待券が2枚あってね、よかったら一緒にどうだい?」

最新作で今話題のSF映画の券をちらつかせるカヲル。カヲルはふたりが両想いだと確信していた。そうでなければあんなキス、出来るわけない。返事を待つ緊張に鼓動のドラムロールが鳴り響く。しかし、

「ごめん、今週は予定があって、」

あれ以来、カヲルは振られ続けていたのだ。

「そっか、残念だな…じゃあ、次の週はどうだろう?」

「再来週も予定があって…ごめんなさい。」

「いや、謝ることではないよ。」

けれど落胆の表情は隠せない。カヲルは盛り上がる気持ちを抑えきれず、シンジをきつく抱き締めてキスを迫る。そしていつもと同様、シンジは唇の合わさる寸前にカヲルを突き放す。それから何故か申し訳なさそうに謝るのだ。もう何度目だろう。その顔は嫌悪の微塵も感じられないやせ我慢したようなもの。だからカヲルはシンジは慎重になっているのだと思っていた。ふたりでいる時間、シンジは本当に嬉しそうなのだ。ふとした瞬間に瞳だけでカヲルに好きだと語りかけている気さえした。そんな一瞬を拾っては距離をゼロにしようとすると、また指先からすり抜けるようにして離れてゆく。
カヲルは少しずつ焦りを滲ませ始めていた。

「僕はシンジ君とこうして一緒にいられるだけで幸せだよ。ただ、僕は君ともっとたくさんの時間を過ごしたい。君がすーー」

「あ、あの!」

シンジはいきなりバネみたいに立ち上がった。そのせいでベンチから空の弁当箱が転がり落ちる。カヲルは驚いて目を見開く。

「…なんだい?」

シンジは目を泳がせて言葉を探す。

「えっと、あの、この前はどうもありがとう。あれから僕だけ部長に当たられることがなくなったんだ。」

シンジはベンチに座ったままのカヲルに向かって微笑みかけた。そして精一杯の感謝を込めてカヲルを見つめた。

「だから、カヲル君も僕の助けが必要な時はいつでも言ってね。僕はたぶん君に出来ることは少ないけれど、僕に出来ることがあったら何だってするから。」

「なら今、助けてほしい。」

「今?」

「君のキスがほしい。」

カヲルの冷たい手がシンジの手をギュッと掴む。ぴくりと揺れるシンジの指先。カヲルの目は至って真剣。シンジはそれから逃れられない。けれど…シンジに触れる氷の感触。ふたりの関係を不埒だと罵るようなあの指輪。

「シンジ君…」

愛を乞うような声。目の前には大好きな、自分を想ってくれるひと。

だからシンジはもう一度カヲルの横に腰を並べ、震える唇を彼に寄せた。カヲルは期待に昂ぶりながらすっと瞳を閉じる。高鳴る全身の脈動。

しかし、その願ってやまなかったそれはカヲルの唇の端に遠慮がちに落下したのだ。何も触れない唇の痛み。予期せぬひとところの灼熱。嬉しさやら切なさやらが胸を騒がせ瞳を開けばシンジはもう、何も言わずに昇降口へと姿を消していたのだった。

これは…どういう意味だ?

カヲルはますます混乱した。シンジの波のように振れる仕草の意図がわからない。彼は頭を抱えながら忘れていた息を吸った。

その頃シンジは溢れる涙を拭いながら誰にも見つからないようにトイレの個室へと避難していた。

奥さんがいるのに僕にキスしてって……カヲル君がそんなこと言うひとだなんて!

言葉で表すその破壊力。シンジは何が辛くて泣いているのかもわからずに、ただもう何も信じられない気持ちで全てに絶望した。それでもキスをしてしまう自分の恋心にさえも。

先日、アスカがカヲルの悪口を言っていたのだ。

「アイツって如何にも腹黒そうじゃない。うちの課のアホ女が言ってたけど、アイツの秘書これで三人目らしいわよ。ひとりは頭がおかしくなったとか。パワハラかしらね。」

「カヲ…渚専務はいいひとだよ。ただの噂だろ。」

「あんたバカァ?火のない所に煙は立たないのよ。しかも私達の歳で妻子持ちよ?子供いくつよ。それなのに日本に長期滞在するのに家族を連れてこないなんて、訳ありなのよ。」

アスカは何かと人をネガティブキャンペーン宜しくこき下ろすのだが、今回は的を得ている気がした。現に妻子がありながら男の自分を誘惑している。しかも悪びれていない。それは大切なひとを裏切っても気にも留めない人間だという確固たる証拠でもある。

カヲル君が好きなら僕はそんな彼を止めなきゃいけないんだ。なのに僕は……カヲル君を僕のものにしたくなる。デートだって本当はしたい。最低だ…

シンジの心は砕けそうなくらいヒビ割れて、カヲルへの想いを拗らせてゆく。拒めば拒むほど想いは重くのしかかる。

 
それから何度目かの昼休み、また二枚のチケットがカヲルから差し出された。

「シンジ君、月末に第三新フィルのコンサートに行かないかい?ベートーヴェンの五番だよ。」

それは憧れの公演だった。あの重厚な会場にカヲルと並んで大好きなベートーヴェンが聴けるなんて夢のよう。喉から手が出るほど行きたい。しかし、

「……ごめん。行けないや。」

シンジはそっと目を逸らす。

「何故?」

カヲルは前のめりになり食い下がった。すがるような瞳でシンジを見つめる。

「…実家に帰る予定なんだ。」

「そう…残念だ。」


そしてその日の帰り、どうしても気持ちを抑えきれなかったカヲルはシンジを待ち伏せしていた。

「一緒に帰ろう。シンジ君。」

夜の凍った外気を思い、羽織ったコートの襟を立てて自動ドアを潜ろうとした時だった。女性社員たちがうらやましそうにシンジを眺めて通り過ぎる。

「あれ?カヲル君、車じゃなかった?」

「そう。車で送ってゆくよ。」

「わ、悪いよ!そんな!」

今のカヲルはそのまま家に押しかけそうな勢いだった。シンジは思わず耳まで火照って赤くなる。

「僕が君と一緒に帰りたいから言ってるんだから、悪いなんてことはないさ。寒いだろう?」

「遠いからいいよ、気持ちだけで。」

「遠い方が君と一緒にいられる時間が長くなる。」

潤んだ瞳で照れ混じりの甘い声で。それはまるで告白のよう。シンジの胸は悲鳴を上げる。

「…気持ちだけ貰ったよ。ありがとう。」

「あ、シンジ君!」

不意打ちに駆け出したシンジの背中にあと一歩で手が届かない。追いかけようとしてやめるカヲル。そんなことをしてもしも嫌われてしまったら。きっと今は自分の下心にシンジが怯んでしまっただけだ、とカヲルは自身に言い聞かせた。

けれど、近づく距離よりも離れる距離の方が遠くに感じられるもの。カヲルは気丈に振る舞いながらも夜な夜なシンジを想っては気が狂いそうだった。次の週になると、


「やっぱりどうしても今夜、君と行きたい…」

少し前の昼休みに欄干に添えていた手を握られて「今日の夜、一緒にディナーなんてどうだい?」と口説かれたばかりだった。いつかアスカも行ってみたいと話していたイチ推しの三ツ星レストラン。第三新東京市の自称百万ドルの夜景を一望しながら呪文のようなお洒落なカタカナ語のフレンチを味わえる。前にケンスケと食べた油そばとは次元が違う。
偶然に鉢合わせたエレベーターで背中から抱き締められるよう耳元に囁かれて、シンジは恥ずかしそうに俯いて身を縮めた。カヲル君は何を考えているんだろう、と。まだ乗客がひとり残っていたのだ。その客が降りるや否やシンジはカヲルに手を突き出して弾き返す。

「もう!何考えてるのさ!」

「それは僕も君に聞きたい。」

エレベーターはボタン仕掛けの密室である。その角に追いやられて何時の間にかシンジはカヲルの壁についた両腕に挟まれていた。息の掛かるほどに近い。

「こ、断ったじゃない…」

「けれど君は嬉しそうだった。」

弱々しいシンジに吐息混じりで笑いながら、カヲルは目の前の美味しそうな唇を指の腹でするするとなぞってゆく。

「嬉しそうなのに君は行かないと言う。イケナイ口だ。」

顎を持ち上げて、そのイケナイ口にお仕置きをしようと顔を近づけるカヲル。すると、チン。無情にもエレベーターの扉は開く。

「時間切れだ。またね。」

後ろ髪を引かれるようにゆっくりと離れてゆく唇を見送る。ひどく惜しい気持ちがつい表情に出てしまうシンジ。カヲルはそんなシンジを見つけて喜びに打ち震えた。エレベーターが閉まる直前に振り返る。一瞬に、熟れた頬をした悩ましげなその顔を胸に刻む。
好きという気持ちには誰も逆らえない。突き放せば放すほど、シンジはカヲルにひどく惹かれた。それをカヲルも理解したのだ。


「シンジ君はなかなかの頑固者と見たよ。」

「それはカヲル君だって同じだよ。」

もう幾度となく誘いを断られてカヲルはランチタイムだけでは気が済まなくなっていた。不思議なくらいエレベーターで遭遇するカヲルにシンジは、カヲル君って超能力とかあるのかも、なんて思えてくる。実際はシンジの移動時間をすぐ側で雇われ情報屋の同僚が逐一メールで報告しているというのに。その同僚は最近シンジにとても優しく、不気味なくらい猫撫で声で自分のことを聞いてくるのだ。その度にガムだの飴だの新作コンビニ菓子をくれる。

「明日の天気予報を見たかい?」

「ううん。なんで?」

「どうやら雨らしいんだ。」

含みのあるカヲルの声にシンジの胸はトクンと脈打つ。

「そ、そうなんだ、」

「楽しみにしているよ。」

人混みのエレベーター。耳元でそう睦言の音色で囁かれて、早まる鼓動を諌めるように息を飲み込む。隅に潜んだふたりの肩は触れ合っている。そして、あ、と音もなく喉を詰まらせるシンジ。カヲルの指先がシンジの手の甲をするすると這うよう上下している。その感触に眉を寄せる。くすぐったいというよりも変に感じてしまい、破廉恥なことをしている気分。そのすれすれに触れてゆく心地が気持ち良くてシンジはもう、逃げようとも思えなかった。目を閉じて身を委ねる。その反応にカヲルもいやらしい高まりを覚えずにはいられないのだった。


「カヲル君は庶民的なのは口に合わないと思ってたよ。」

次の日、降水確率90%の予報は当たった。先程までふたりは近場の老舗の洋食屋でランチを楽しんでいたのだ。向かい合わせでAセットのカニクリームコロッケ定食とBセットのハンバーグ定食を頬張る姿はまるで恋人同士。車だから傘を持ってないカヲルにシンジは相合傘をしてやって、こうして会話を弾ませながら並んでいる姿はもうほとんど恋人のデート。俄然ふたりのテンションも上がってゆく。

「僕は元々いつもお昼がサンドイッチなくらい庶民派だろう?」

「でもたまに、住む世界が違うなって思うこともあるから、」

「いい意味でかい?」

「うん。」

「ならシンジ君の前で格好つけてる甲斐があったよ。」

「ふふ。格好つけてるの?」

「もちろん。君には僕に夢中になって貰いたいからね。」

またあのエレベーターの隅に追いやられて、カヲルの顔が近づいてくる。触れそうな唇にシンジはもうなす術もない。だって、好きだから。僕はカヲル君が好き。一緒にいると楽しくて、生きることを幸せだって思えるんだ。

けれど、ズキン。胸が痛い。今は見たくない輝きが、視界に入る。

「あ、だめ、」

唇が触れ合う直前に顔を逸らすシンジ。その声はまるで行為の最中のような響きで密室にこだました。するとカヲルはいつもよりも乱暴にシンジを壁へと押し付けてその不埒な唇を奪ったのだ。強引に舌を挿入してシンジの腰を力尽くで引き寄せる。鼻から熱く湿った息が溢れてゆく。シンジはなけなしの理性でそれを振り払おうとするけれど身体に力が入らない。膝がガクガク震えている。キスの角度が変わるとちゅくっといやらしい水音が漏れた。触れ合った舌も下腹部も泣きたいくらいに感じてしまう。

だからシンジは神様に願ったのだ。今だけです、今だけ僕らを世界から隠してください、と。

そう願って腕をカヲルの背中に回した途端、チン。無情なエレベーターが終わりを知らせる。カヲルがシンジから離れる時、唾液がつうっとふたりの間に糸を張った。

カヲルは興奮も冷めずに早い呼吸のまま紅潮した笑顔でシンジを見つめていた。そしてエレベーターにシンジを残して雑踏のオフィスへと戻ってゆく。歩きながらシンジへと手を振って、幸せだと告げるように。

シンジはそんなカヲルを見送ってエレベーターでひとり、立ち尽くした。唇からはみ出た唾液を手の甲で拭う。足元を見つめると、ポタリ。涙が零れた。

神様は僕のことが嫌いみたいだ…

シンジは夢から覚めたような気分だった。そして、もうこんなことは続けられない、と思ったのだ。
どんなにカヲルのことが好きでも、この先はいけない。だってもう既に神様に見逃してと頼むまでに自分はなってしまっている。シンジは自分の身勝手さにゾッとした。
カヲルが好きなら、本当に好きなら、そのカヲルの子供を不幸になんて出来はしない、シンジはそう結論していた。もし自分に父親がいなかったらきっと寂しかったはず。だから、自分が身を引いて諦めるべきだとも、もう随分前からわかっていた。
だから、今が引き時なのだ。

その頃カヲルはというと、ショックを隠し切れずに口を手で覆っていた。立ち止まると膝が幽かに震えてしまう。
幸せの絶頂だった。もうふたり、恋人になれると喜びに目眩を覚えた数分前。シンジはキスにちゃんと答えていた。能動的に愛を与え合うようにして舌を返して身を捩った。ふたりの隙間をなくすように。あの繊細な指先も自分を求めてしっかりと添えられていた。
しかし、どうしたと言うのだろう。キスの後のあの顔は。苦しそうに微笑んでいた。絶望を浮かべているあの表情…どうして、疑問が溢れ返り考える余白もない。愕然として気づかないふりをした。
そして思い出すかつての赤髪の彼女の警告。自分の立場とシンジの立場の違いがふと頭をよぎる。

君は本当に僕のことが嫌なのかい?我慢しているのかい?

もしも自分とのキスをシンジが嫌がっていたら、そう思うとカヲルは恐ろしさに崩れ落ちそうだった。まるで麻痺して泳げない魚が海の底へと螺旋を描き沈んでゆくよう。

彼はその日、仕事も手に付かないような孤独に苛まれていた。哀しいくらい、シンジも同じ動線を辿って深海へと落下していったのだった。



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