Chapter:2 3 4


満月がふたつある、
なんて思ってよく見てみたらアドバルーンだった。

シンジはそんなとぼけた勘違いに関してはピカイチの才があった。鰯雲に紛れて白い昼の満月の横、大気に霞んだ大きな風船がプカプカと漂う。アドバルーンなんていつぶりだろう、とビルの屋上でパックの牛乳をちゅうちゅう音を立てて吸う。ストローの色がベビーピンクで、あ、風船とお揃いだ、なんてぼんやり思った。
ここは会社のある高層ビルの屋上。穏やかな秋晴れの昼休み。シンジはここに勤めて一年半くらいになる。その社会人としての駆け出しの時間というのはシンジにとってはとても退屈なものだった。会社というのも望んだ場所というわけではなく、父親の息のかかった大企業の傘下の七合目あたり。シンジはうまくいかなかった就職活動の最後の手段、コネを本人の意志ではなく発動された。けれど、路頭に迷うよりはずっとマシである。それにおもちゃづくりなんて楽しそうだし、とシンジは父の手のひらで踊っていたが、そこはおもちゃとは何の関わりもない職場だった。シンジはネルフグループは夢を売っていると父に聞かされていたけれど、その父親はシニカルの権化。ネルフはもともと国家の安全を守る特殊機関だ。その巨大な産業ではシンジのいう通り確かに末端で広報のおもちゃだってつくっている。しかしシンジの蟻のように働かされているのはその技術開発部直属のエレクトロニクス系の会社。新進気鋭が鎬を削って今日もせっせと出世の為に邁進しているエリート街道。

あーあ、昼が終わったら僕はまた書類に埋れるんだ。そうして埋れて、死ぬまで埋れて…

シンジは理想とはかけ離れた生活に溜め息を吐く。彼は動物で例えるなら草食系の仔鹿だ。それが肉食系のヒョウの群れに独り放たれているのだ。運命ってあるのかな、なんて、最近シンジはそんなことを取り留めなく考えては調整乳をすすっている。

せめて僕の長所を活かせるような仕事に就きたかったな、えっと、僕の長所ってなんだ?

そうしてピンクのストローから唇を離し、そのかたちのままで、ふうっと吹けない口笛を吹いてみた。すると、その広告用風船は当てられたよう東の空へとぴゅうっと流れ、年末によく聞くあのメロディが軽やかに風に乗った。シンジは驚いて振り返る。誰も居ない。

「いい天気だね。」

シンジはぞわっと背中に悪寒が走って背筋をグッと伸ばした。確かに誰かの声がする。キョロキョロ左右を見渡してみると、少し離れた場所のベンチの上で見慣れないリッチな細身のスーツを着た見知らぬ貴公子が寝そべりながらシンジを見上げていた。ふたりの間には真っ白な洗濯済みのシーツの群れがピンと張られた二本の縄に掛けて干されていたのでそこに人がいるなんて気づかなかった。風にそれがたなびく度に美しく陽光を集めた銀髪が眩しく揺れる。

「はじめまして。碇シンジ君。」

シンジの胸からは世界一美しい蝶が大空へと飛び立ってゆく。

運命が僕を見つけた、
なんて思ってよく見てみたらそれは僕のものじゃなかった。



不埒な指輪



「マジかよ。すげーな、おい。え、マジ?」

シンジと同じ部署のオタク、ケンスケの素っ頓狂な声に一瞬、オフィス内の同僚たちの注目が集まる。シンジの頬にすっと朱が差し、また散り散りに日常に戻る。

「ソイツは噂の渚専務だよ。最近うちに来た玉の輿だ!」

ヒソヒソと熱っぽく語るケンスケ。自称情報屋の彼にさっき起きた出来事の一抹を話したらこんな騒ぎになってしまった。

「でも、僕たちくらいの歳だったよ。」

「で、スゲーイケメンだろ?だから皆お近づきになりたいわけ。最近エレベーターが臭くて吐き気がするだろ?」

そういえば今朝デスクで胃薬を飲む前にエレベーターで様々な香水の混ざった悪臭を嗅いだ気がする。

「まあ、俺も遠目でしか確認してねーからな。お目に掛かれたなんてお前、ご利益があるぜ。」

「うーん、僕、上司だって知らなかったから、」

タメ口をきいてしまった、なんて言ったらまたオーバーリアクションだろう。ちょっと失礼な態度だったかも、と濁す。

「お前は色々疎いから仕方ない。出世は諦めたまえ。」

その悪友はお慰みに肩をポンポン叩いてやるが、他人事に含み笑いで実に不謹慎である。

「もう、これ以上やる気を削がないでよ。」

シンジはただ、お昼に突如出現した銀髪の貴公子が夢ではないのか確かめたいだけだった。結果、確かに夢ではなかった。けれど、雲の上のひとだった。そしてそんな事すら思ってはいけない気がして胸はチクリと棘を食む。シンジはまだひと口残っているパックのストローの先をじっと見つめた。そして心はプカプカと数分前のあの場所へ。



Chapter:1   不埒な唇



反射的に喉を詰まらせるシンジ。見知らぬ貴公子はベンチから起き上がった。どうして僕の名前を、とシンジは頭をフル回転させてみる。もしかして、スパイ?そんな妄想にぼんやり想いを馳せていると、

「わっ!」

干したシーツがさらっとめくられ、赤い瞳が鼻の先で微笑んでいる。眼鏡を忘れた近眼のような距離感。そのあまりの近さにシンジが変な声を出して仰け反るとその細腰に真っ白な手を添えられる。躊躇なく前進するその一歩に仰天すると不意にギュッと手を握られる。

「おっと。危ない。」

けれどその指先は牛乳パックのバランスを保っていたのだ。シンジは無意識に自分の唇をキュッと結んで目を逸らす。絶世のイケメンは心臓に悪い。シンジはこんなカッコイイ人類を見たことがなかった。ブラウン管ですらそんな美貌は映さない。ドキドキが止まらない。緊張に汗が滲む。

すると、キラリ。
牛乳とシンジを掴むその彼の左手に陽を反射して光るものがある。
それは、薬指に輝く“指輪”だった。

ツンとシンジの胸が跳ね、呆然としていると、

「どうしたんだい?」

彼は嬉しそうにクスッと笑った。一方、飽和状態のシンジは硬直したまま息も絶え絶え。

「ごめん。君の反応がとても愛くるしくてついからかってしまった。」

白い手が緩みシンジと彼には他人分の距離が空く。

「よろしくね、碇シンジ君。」



よろしく、もう一度心の中で反芻する。夢のような時間だった。物語の始まりのようにキラキラとして光の結晶みたいなひと時。名前を聞こうとする直前にチャイムが鳴りふたりして笑いながら慌てて駆け出した。こんな楽しい気持ちは学生の時以来だ。

けれど、あの指輪。

シンジは彼にひと口あげた調整乳のストローの先を見つめ続け、綯い交ぜになったパンク寸前の感情を抱えきれず、情報通で一番仲の良い同僚ケンスケにそっと話かけたのだ。するとやっぱり期待以上の思わぬデータが舞い込んできた。

渚カヲル。シンジより一つ年上の25歳。最近ネルフが吸収合併された先の世界有数の一流企業ゼーレの会長に見込まれ養子になった内実の後継者。母国ドイツから遥々日本にやってきたのはネルフ傘下の業績不振の企業を巡って再建させるという密命を受けたため。噂によると既に幾つもの会社を上向きに変えた天才である。ドイツには妻がいて、子供も二人いるらしい。

「なのになんで玉の輿なのさ。」

不貞腐れたような自分の声にシンジは内心驚いた。

「ハイエナ女共が略奪婚だと色めき立っているんだよ。お前、聞いてない?あの性悪受付嬢のこと。」

「あ、最近彼女見かけないね。」

「辞めたんだよ。抜け駆けしてさっそく玉の輿に乗ろうとしたらお仲間にもひんしゅく買って…後はわかるだろ?」

シンジはハイエナ達が一匹を集団で火あぶりにして輪になって踊っている情景を想像した。

「うーん、女子の闘いって過酷だね。」

そもそも既婚者に対してどうしてそんなえげつない奪い合いが起こるのか、シンジは呆れの溜め息を吐く。

「女子をひとくくりにすんじゃないわよ。」

ふと上を仰ぎ見るとまるい後頭部のつむじ辺り、明るい青の瞳がキッと睨みつけている。シンジを見下ろしているのは隣の課のエース、同期のアスカだった。彼女はよく、シンジにいちゃもんをつけてはいつも絡んでくる。

「仕事してないのが丸見えね、バーカ。」

「イテッ!」

仕事が出来る割に子供っぽい彼女。勢いよくデコピンがシンジの額に着地。骨のぶつかる鈍い打音にケンスケはそれが跳ね返ったよう顔を歪めた。フンッと鼻を鳴らしてからツカツカとヒールの音が遠ざかり、ケンスケは顔を抑えるシンジにそっと耳打ちした。

「どうしてうちの会社には肉食系女子しかいないんだろうな!これじゃ食欲も湧かないぜ!」

やっぱり女は二次元に限る、とブツブツ呟き眼鏡をクイッと持ち上げてケンスケはパソコンに向かった。画面の先の小窓に忙しなく先程の迷言を打ち込み始める。シンジはというと、やっぱりあの指輪は…と脳裏にちらつくプラチナの輝きをひとり思い悩んでいた。

穢れないシンジの心は柔い棘でチクチクと甘く痛む。誰かに見つめられてあんなにドキドキしたのも、爪先1メートルの距離を寂しいと思ったのも生まれて初めてのことだった。それを、なんで、と自分に返す。同性の彼にそう思ってしまったこと、その彼の薬指を、残念、と思ってしまったこと。すぐにそれには触れてはいけないと半透明のオブラートに包み込む。

それはシンジにとってこれからも長い長い受難の試練を与え続けるのだった。



「あの、碇君。」

カヲルは手の中のサンドイッチと同じように言葉も咀嚼し遠慮がちに問いかけた。

「もしかして、それ……彼女、が作ってくれたのかい?」

「か、彼女?ううん。僕が作ってるんだよ。」

カヲルの不安そうな顔がホッと一気に花開く。昼休みの屋上にて。出会いから数日後、ふたりはランチで顔を合わせる秘密の友達になっていた。高層ビルの屋上は、意外と利用者が少ない。ここら辺は飲食店が乱立してみんなそっちに流れるのだ。シンジは話題が合わない同僚に愛想笑いをするのが苦手だった。だからここはシンジの避難場所でもあった。

「碇君はお料理上手なんだね。これは何だい?」

「卵焼きだよ…いる?」

急に調子が上がり饒舌になったカヲル。そんな彼になんだか物欲しそうな目で見つめられてシンジは小さく最後の二文字を付け足した。するとカヲルは、いいのかい?なんて言いながらもその魅惑的な唇を開いてシンジを待っているのだ。え、僕が口に入れるの、なんて戸惑いながらも丁寧にそれを箸で口に運ぶとカヲルはそれをくわえてもぐもぐ味わう。美味しい!と感嘆の声で告げて、引いてゆく箸をチラッと見やり頬をほんのり薔薇色に染めている。シンジには彼は勢い余って箸までちょこっとくわえていたように見えた。そんなカヲルの仕草に、シンジの胸の奥の方が奇妙にキュッとしなってしまう。まるで相思相愛のカップルみたいに距離の近いカヲルに、なんで、と心が叫ぶ。

「な、渚君は、いつもサンドイッチだよね。君も作ってるの?」

ライ麦パンにオリーブとチーズを挟んだだけのそれを眺めて苦笑するカヲル。

「そうだね、作っているというよりも挟んでいるという感じだけれど。学生時代からの習慣さ。」

「そうなんだ、」

単身赴任大変だね、なんて言ったらケンスケから色々と聞いたことがバレてしまう。歯切れの悪い相槌になる。

「碇君のお弁当はいつもとっても美味しそうだね。」

「…ありがとう。」

言葉を迷っていると宙に浮いたような返事になってしまった。

「君のお弁当は栄養バランスも味も最高だね。僕も一度でいいから、それをお昼ごはんに食べてみたい…」

まるで、君の分も作ってこようか?と言われるのを待つようなセリフだった。だからシンジはそう言おうと喉のところまで出掛かって、グッとそれを飲み込んだ。

「……大袈裟だよ、」

曖昧に微笑んでそっと食べ終わったお弁当箱を片付けるシンジ。奥さんがいるひとにそんなことを言おうとして、僕は何考えてるんだろう。自分の図々しさを嘲るような悲しいシンジの笑みを横目に見つけてシュンと眉を下げるカヲル。彼は自分が何か不味いことを言ってしまったのかもしれないと慌てて次の言葉を探していた。急に指先が冷えてゆく。味を無くしたランチを途中で食べるのをやめたカヲル。

やはり弁当を作ってほしいなんてアピールは迷惑だっただろうか…?



「おはようございます!専務!」

「おはよう。」

数刻前、カヲルは数多の劇的な朝の挨拶をその美しく輝く笑顔で交わしてゆく。その高級愛車のキーを指でクルクル回してご機嫌で口笛まで飛び出す始末。その溢れんばかりの魅力に今日もOL達は女性ホルモンを振り切りにして月モノになってしまう。

カヲルは人生で初めての春の季節を謳歌しているのだ。来日してから数年、仕事にもまあそれなりの手応えを感じていて、それなりのレールの上でそれなりに楽しんでいた。期待以上の仕事をし、期待以上の利益を上げる。けれどカヲルは期待通りの賞賛を受け取って、期待していない好意から逃げるようにして転勤を繰り返した。そうして何度目かの期待通りの仕事始めの朝を迎え、この第三新東京市にて予期していない人生の衝突を迎える。それはまるで事故のようだった。

昼休み、逃亡中の彼は屋上のベンチにて寝そべっていた。秘書が女性だった場合、一方的な想いを向けられてしまうのは日常茶飯事。だから彼はお決まりの自己紹介をしたのだ。

『初めまして。渚カヲルです。妻と子供ふたりがドイツにおります。宜しくお願いします。』

これは彼の養祖父キールが昔使っていた決めゼリフ。そして二十歳の誕生日に彼から譲り受けた目眩まし用の指輪をキラリとちらつかせれば悪い虫は寄って来ない。思う存分仕事に打ち込めるぞ、と頼もしい助言を受けていた。けれど、何事も的中させてしまう彼の助言もこればかりは巧くはいかなかった。キールはちょっとばっかしカヲルの魅力を甘く見ていた。中の上のキールには効果のあったサインも最高のそのまた上のカヲルを前にしては全く通用しない。それは魔除けにもならず、乙女のハートにパチパチと火をつける。秘書が、そんな家庭のうまくいっていない専務を私が慰めてあげます、と歪曲解釈をして職務とは違うものを全うしそうになった為にカヲルは青ざめてここまでやって来た。そして、鳥肌を摩りながらこう思うのだ。

僕はきっと一生恋愛はしないだろう。こんな気味の悪い冗談ばかり、本当に御免だ。

自分の意思とは関係なく全力で誘惑してくる長年の肉食系女子たちにカヲルは既に食欲を失くしていた。
けれどそんな時、神は天使を地上に遣わせたのだ。

ベンチでせり上がる不快感と闘っていたカヲルをふわりとやさしい甘い風が撫でる。カヲルの胸にひとひらの予感が蝶のように羽根を休めて彼をひとところへと振り向かせる。その視線の先には文字通り、天使のようなひとがいた。黒髪の後頭部に白昼の光輪を従えてあどけない横顔はちゅうちゅうとストローを含みながら青い空を見ている。カヲルはその瞬間、唯一のものを見つけたという衝撃に包まれた。期待以上以下なんてくだらない概念は粉々に吹っ飛ばされる。そして天使がぽつり、空って青いなあ、と呟くのを耳にして、その一見バカみたいなセリフに全身を激しく射抜かれるのだ。彼の胸にとまった蝶は無垢な甘い蜜をドクンドクンと吸い始める。

カヲルは数秒前まで自分とは無縁だと思っていたものを全身全霊で感じていた。そう、彼は恋に落ちたのだ。
その恋は誰よりも盲目で、それゆえに自らの薬指に輝くものの存在なんて、もう既に彼は忘れていた。

カヲルはそれから三日間、手の届かないものを見るようにシンジを観察した。鈍感なシンジは物陰に隠れている彼を用務員の人影と同様に特別意識はしなかった。そうしてカヲルは何度目かのチャンスののち意を決してシンジと“出会った”わけなのだが、彼のあくせくとした必死なアピールはその純粋な想いとは裏腹に事態をどんどん複雑にさせてゆく。


ある日、ふたりで会話を弾ませていた時だった。

「碇君、手、どうしたんだい?」

シンジの薬指には絆創膏が巻かれていた。

「さっき紙で切っちゃったんだ。紙って意外と切れ味いいよね。」

するとカヲルは徐にシンジの手を心配そうに両手で包み込む。ずっと触ってみたかったシンジの手。柔らかくてすべすべしていて自分よりも少し小さい。その気持ち良さにときめきながら、大事そうに指先ひとつひとつを熱心に摩って、大丈夫かい?なんて聞いてくる。触れられた部分が火傷のようにヒリヒリと痛くてシンジは緊張した。こんな心配ってあるのだろうか。文化の違い?その艶かしい手つきに心拍数が急上昇。気持ちいい。けれど、

「あ、ありがとう。もう、痛くないから、」

それとなく両手から自身の手を引き離れてゆく。だって、彼の薬指から金属の感触がする。だから、こんな倒錯したやり取りで自分の胸に押し込めた感情にも気づいてはいけないのだ。

僕は思い込みで……なに勘違いしてるんだろう、

ばかばかばか、と自分を無言で罵るシンジ。その日の夜、シンジの瞳から勝手に溢れてきた涙。彼は頑なに走り出しそうな感情を見殺しにする。
一方カヲルはその罪深い輝きなんて意識に無く、やんわりと拒否された手の感触を何度となく思い出しては恋の苦味に喉が引き攣るのを感じた。そっと掌に唇を寄せて、それがシンジの手だったらと想う。そして、それが手から唇になり、鎖骨になり、下腹部になり…カヲルの中心線には甘い痺れが走る。

もっと、碇君に触れたい…

次第に頭を占拠する不埒な妄想の数々。これ以上続けては下着が濡れてしまいそうでどうにかやめる代わりに溢れ出る真夜中の涙は微熱を伴っていた。

こうした接触と反発はふたりを掻き乱してゆく。それはひとつの言葉だったり、視線だったり、触れる箇所を変えるくらいのささやかなものだけれど、反芻してはゆっくりと時間を掛けて波紋のよう広がりゆく。触れ合ったそこから流れてくるものは同じ場所から生まれるのに、そんな可能性にもふたりはまるで気がつかない。
恋はベクトルの先の事柄をドラマティックに彩ってゆくもの。実際にカヲルもシンジも恋の前では泳げないと死んでしまう魚のようだった。


「碇君、雨の日は何処で食べているんだい?」

昨日雨が降った。すると、当たり前なのだが、シンジは土砂降りの屋上には現れなかった。カヲルは雨の中シンジを待ち、彼が事故にでもあったんじゃないのかと本気で心配しはじめて、午後にシンジのいる課まで用事のあるふりをして探しに来てしまった。そして遠くでシンジがケンスケと仲良く話しているのを見つけてカヲルは痛いくらいの嫉妬で打ちひしがれてしまう。そして女性社員がそわそわし出す前にシンジに背を向けた。カヲルはシンジに見つかっては惨めだと思ったのだ。

「自分の机で食べたり、同期と近場に食べに行ったりするよ。あれ、もしかして、昨日渚君は、」

「僕は自分のオフィスで食べたよ。」

「そっか。個室だもんね。」

咄嗟に早口で吐いた嘘がバレてはいないかと瞬きを深めるカヲル。肺に穴が空いているんじゃないかと苦しい胸を摩った。

「同期って…仲がいいのかい?」

「うん。」

「そう…」

仄暗い響きだった。キョトンとしているシンジから目を逸らして取り繕おうと焦り出す。

「いや、僕は…まだここへ来て日が浅くて、美味しいお店も知らないからね。今度は僕を連れていってほしいなと思って、」

「え、」

嬉しさよりも、渚君を連れて行くのは目立つよな、とシンジは思った。今は内緒でここに来ている。この関係が見つかってしまったら。肉食系女子達がここにわんさか押し寄せてくるのだろうか。
しかし、カヲルは予想外にシンジの嫌そうな反応に心臓が止まりかけた。今まで感じていたふたりの絆は自分の勘違いだったのか。そして明らかに項垂れてしまったカヲルに今度はシンジが焦ってしまう。

「えっと、いや、その、渚君は上司上司のそのまた上司だから、僕みたいな平社員と食べに行くなんて、」

「君は役職でひとを見ているのかい?」

鋭くて強い語気。カヲルはまるで責め立てるような自分の言葉にハッとする。

「僕は、その…ごめん、」

こんなに取り乱したことはなかった。カヲルは小さくパニックになる。今まで敬遠していた反理性的で身勝手な恋愛のソレ。それを自らしていて止められないなんて。碇君に嫌われただろうか。消えてしまいたい…そうカヲルは途方に暮れた。
その横でシンジは、何に謝っているんだろう、そう考えてからこんな風に思いつくのだ。渚君は愛する家族から離れて独り日本にいる。だからとても寂しいんだ、と。なら僕は友人として彼の助けになってあげなければ。だって、渚君はいいひとだから、と。シンジはカヲルと親しくする言い訳が見つかって内心嬉しかった。

「僕こそ、ごめん…渚君がよかったら、今度、一緒にいこう。僕あんまりお店知らないけど、紹介するね。」

その刹那、カヲルの胸には数万頭の蝶がふわりと舞い上がった。あまりに嬉しくてついシンジを抱き締めたくなる。けれど、そこは堪えて代わりにただ手を握って小さく、ありがとう、と囁くのだ。心のこもった感謝の言葉を。

けれどシンジの胸はチクリと痛い。自分の指に当たるプラチナの冷たく固い感触に、シンジはドイツの片隅でカヲルに似た絶世の美女が自分を睨みつけている瞳を思い浮かべた。そしてその刺すような視線を避けて胸に手を当てればトクントクンと育まれてゆく新しい感情がある。シンジはその生まれようとするものを自らの手で殺めなければならないのだ。鼓動が苦しくて堪らない。そうして彼は眠れない夜に人知れず儚い涙を流し続けた。

カヲルはというとシンジがそんな勘違いを拗らせているとは露とも知らずに夢見心地でいつかの雨のデートを幾通りも考えてゆく。短い昼時を長く使えるように車に乗っていこうとなって、ふたりきりで秘密の食事をしたことで盛り上がり、アンニュイな雨音の響く車内で大人のキスをする。雰囲気に流されてゆくふたり。手で腿を撫で上げれば漏れる吐息の熱も上がり、そのまま気がつけばカヲルの高級マンションの部屋に不時着。カヲルのお気に入りのシルクのシーツにふたりは転がり、カヲルが腰を沈めると初めて感じる肌の温もりに全身から快楽が溢れ出そうになり震えた。腕の中にシンジがいる。それだけで、もうこんなに、濡れてしまうなんて。カヲルは本能の律動を止められない。頭がじいんと痺れてゆく。今一度シンジに瞳を見つめ、好きだ、と言おうとした。けれどこの場合、愛してる、の方がいいかもしれない。でもまだ、好きだとも伝えていないのに…唾液に塗れた唇を薄く開いた。声が、出ない。

そこでカヲルは溺れていた水面から這い上がるようにして夢から覚めた。そこは午前3時46分、夜明け前の自室だった。下着はツンと張り詰めていて濡れていた。カヲルは生まれて初めて色のある夢を見たのだ。艶かしい肌色に興奮して舌を這わせて甘いと感じた。汗で額に貼りついたシンジの前髪はとても柔らかかった。ずっと雨の匂いもした気がする。

「夢か…」

気の抜けた声で自嘲し、まだ生々しい余韻にしがみつくカヲル。濡れた下着の中に手を滑らせると敏感なそれはまだ雫を溢していた。彼はそのまま自慰に耽ってゆく。夢中で腰まで動かしてシンジの身体を想像して。カヲルはこんなに乱れて我を忘れたことはなかった。絶頂の時、シンジの顔を思い浮かべてシーツに沈む。
それから射精後の気怠い未明、もしもシンジがこの腕の中にいてくれたらと思うと急にベッドが広く感じてしまう。憂鬱が彼を襲う。こんな卑猥な下半身を晒した姿をシンジに見つかってしまったら。自己嫌悪に頭の先まで毛布にくるまる。

シンジにだってそんな夜は訪れていた。彼は膨らんだ自身を弄る自分の指をあの白くて長い指だと想像してイッてしまうこともあった。けれどその後シンジは奈落の底へと突き落とされる。カヲルにそっくりな幼い子供の瞳を夜の闇に見い出して、ごめんなさい、と声もなく泣くのだった。可哀想なシンジ。


それから数日後のこと。カヲルはあれからちっとも降らない雨にやきもきしていた。その焦りは彼の距離感のピントを急激にぼやかしてゆく。拒まれながらも小さなスキンシップを重ねるカヲル。口説くように褒めそやしてやさしく触れれば、たまに魔法に掛かったようにうっとりとしたシンジがいる。そして目の前には艶やかな唇。吸いつきたい。そして気を抜くとその下のシャツの中身まで想像してしまい、すぐに申し訳なさそうに目を逸らした。
その仕草にホッとしながらも切ないシンジ。彼は四六時中カヲルのことを想い、もはやカヲルの為に仕事を頑張っていた。せめて自分の秘めた想いから出来るのはそれだけだ、と。そして相変わらずの勘違いをエスカレートさせてゆき、恋の苦しみと罪悪感を紛らわせようとそれに没頭した。

けれど、やる気と結果は裏腹に。

「バーカ。ポカミスなんてだっさいわね。」

アスカがコツンとゲンコツをシンジの脳天にお見舞いして颯爽と通り過ぎる。シンジは張り切った仕事に限ってうっかりミスをしてしまったのだ。そして前から気の優しいシンジに漬け込み説教垂れてふんぞり返る部長の餌食になってしまう。同僚皆の目の前で大目玉を喰らったのだ。素直なシンジはその暴言を十中八九鵜呑みにした。

「真に受けんなよな。あのワニ面は浮気がバレた腹いせにお前に八つ当たりしてんだよ。」

ケンスケはそう耳打ちして励ましたが、負のスパイラルに入ったシンジにはそれすら因果に思えてしまい、深くどっぷり落ち込んでゆく。

僕がイケナイ相手に浮ついてたせいだ。しかも頑張ったってたかが知れてるのに…

その罪と罰の責め苦は昼休みまで続いた。いつものベンチに腰掛けるふたり。カヲルはシンジが笑おうとする度に泣き顔になるのをずっと心配していた。何も言わないシンジにもう何も聞かず、そっと背中をさすってやる。するとシンジはついにしくしく泣き出してしまう。

「仕事でミスしちゃったんだ。渚君に迷惑かけちゃった。ごめんね…」

意気消沈したシンジは背中を丸めて俯いて潤んだ声でそう呟いた。う、と涙を飲み込む喉の微かな音が聞こえてくる。震える薄いなで肩。カヲルはそんな頼りなく折れてしまいそうな繊細なシンジが愛おしくて堪らなくなる。守ってあげたい、そんな気持ちが溢れてゆく。

カヲルは熱い溜め息を吐いた。背中をさすっていた手を肩に回して隣のシンジを抱き寄せる。その腕の力に驚きシンジが下向きの顔を上げる。カヲルは身体を捻り顔を傾けてそんなシンジに覆い被さる。

よく晴れて冷たい風の吹く日だった。澄んだ青空には薄い飛行機雲がすうっとどこまでも伸びていた。
カヲルはシンジにキスをした。シンジの頭を支えてベンチにやさしく押し倒して。ふたりの唇は一瞬触れ合い、シンジが抵抗しないのがわかるともう一度触れた。粘膜が温度を分け合い、とろけるように深く交わる。しょっぱくてほんのり甘い涙の味。鼻梁が重なり、カヲルの燃えるように熱い手がシンジの濡れた頬を撫でるとふたつの舌が合わさった。その瞬間、ふたりは片想いを両想いだと知ったのだ。それは何事にも代え難い至高の喜びでふたりを満たす。ここが何処であるかなんてことも忘れさせた。熱い手は、もう君を離さないと告げるようにシンジの細い腰を掴んだ。スーツを捲ってシャツ越しに感じる大きな掌。じんわり汗ばんでいるのが伝わる。

昼休みの終了するチャイムが鳴る。名残惜しそうに唇はそれぞれの場所に帰る。ふたりとも無言のまま互いの顔を見られない。もうシンジの頭からはポカミスなんて吹っ飛んで何処かへ飛んでいってしまった。カヲルは自分に好意を寄せている。つまり…
けれどシンジは何よりも、こう思ってしまったのだ。渚君に好きでいてもらえるなら、もう世界中の人から後ろ指差されたってかまわない。それはすぐに醒める刹那的な夢だったけれど、何よりも強い感情だった。

カヲルはというと頭で考えるよりも早くキスをしていた自分に驚きつつも、何よりもカヲルと一見距離を保っていたように見えたシンジが実は自分と同じ気持ちだった事実にもうどうにかなってしまいそうだった。嬉しさのあまり頬が緩んで笑みが深まる。それを超えて泣きたいような気さえした。

その日の午後、シンジはぼーってした頭でどうにか集中しようと画策していた。本音の交感に嬉しさが込み上げる。それを見つからないようにやけた顔を隠す。明日どころか一秒先の未来も考えられない。そうして騒がしいオフィスに両手で耳を塞ごうとした、その時だった。

「碇君、頑張っているね。」

「うん、て…え?」

幻聴かな、とシンジがおそるおそる顔を上げるとカヲルが幸せそうに微笑んでいた。ちょっぴり口元を意識してちろりと唇を舐めている。シンジはそれを見つけ逆上せたように真っ赤になる。

「君は本当に一生懸命だね。社員の鑑だよ。」

「ど、どうしてここにいるのさ…!」

周りからひしひしと感じる注目に、ヒソヒソと内緒話のトーンで話すシンジ。しかしカヲルはこれ見よがしという風で、

「ちょっと用があってね。またね、碇君。」

そう言ってシンジにウインクをして手を振って、先程シンジを虐め倒した男の元へと歩いてゆく。部長はと言うとそんなふたりの様子を見ていて既に顔が青かった。それから部長は身から出た錆とは言え、やっぱり同情の余地のある公開処刑をされたのだった。
そんな情景を目の当たりにして、ケンスケは意味深な溜め息を吐く。その水面下ではすぐさま好奇心と羨望のハイエナたちがシンジに狙いを定めていた。
それから間もなく、あんなにシンジをいじっていたあのアスカが、そんなハイエナの群れを散り散りにして彼を守ったのは誰にも予想外だった。そして何故かそれはカヲルの耳に筒抜けになってしまう。

数日後のエレベーターにて。

「君は営業部のエースらしいね。」

「フン。専務だかホモだか知らないけど、シンジと私の周りをうろちょろしないで頂戴。」

「上司とわかってそんな口をきくなんていい度胸だ。」

「あら?ならパワハラ行使してクビにしたら?アンタの元秘書みたいに。」

「君は何にもわかっていない。」

貼り付けた笑顔を外して苦々しそうに呟くカヲル。

「そんな私にもわかることがあるの。」

そんなカヲルに斜に構えて睨みつけ容赦無くすごむアスカ。指先はくるくるともったいぶってカヲルを差す。

「アンタが纏わりついてから、シンジはどんどんやつれてく。アンタが何勘違いしているか知らないけど、これ以上その権力を使ってアイツを苦しめるなら、私にだって何かしらの打つ手はあるのよ。」

チンという音と共に目前のドアが開く。ヒールが一歩、カツッと鳴って前へと進む。

「これは警告よ、専務。」

振り向きざまの捨て台詞。彼女の赤い髪が風を切ってたなびき消える。カヲルはいつも感じているシンジとの間に立ちはだかる不穏な影は彼女なのかと考えた。髪を掻き上げ胸を染める一抹の不安に顔を顰める。

その掻き上げた手に輝くその鈍色のプラチナが、それとも知らずに。



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