導火線に火をつけて
打ち上げ花火
それは一瞬のいのちの証
僕達だって一度きりの人生で
その刹那の花を咲かせて散るんだ
だから願う
たったひとつの幸せを
今、目の前でその残り火が煌めいて
やがて消えた
「よし!できたわ。」
母の手がキュッキュッと帯をきつく締め上げる。そしてトンッとその完成を手のひらで叩いて知らせた。
「ありがとう、母さん。渚君の分も。」
「ふふ。お安い御用よ。」
「碇君、入っていいかい?」
「あら、いいわよ、渚君。」
ガラッと引き戸が勢いよく開いて、カヲルが先程シンジの母のユイに着せてもらった浴衣姿で和室へと入ってきた。藤鼠の福寿草柄が目を引く落ち着いた反物に、清々しい青褐の帯がしっかりと結われている。
「わあ…花顔柳腰は君のための言葉だったんだね。素敵だよ、碇君。」
一方シンジは瑠璃紺の布地の中に小さな金魚が尾ひれをなびかせ泳いでいた。赤や黒の魚柄がまるで金魚すくいを纏っているかのよう。一歳違いのふたりは今、いつもよりも年が離れた兄弟みたいだ。
「ちょっと、ふふ。それは女の子へ宛てる台詞にしなさいな。シンジの腰は細っこいだけよ。タオル当てようかと思ったくらいよ。この浴衣でちょうど良かった。」
「碇君がとても綺麗だったので、つい。あと、突然無理を言ってしまい、どうもすみませんでした。」
「僕が君にも着てほしいって言ったんだから、渚君は謝らないでよ。」
「そうそう。どうせこんなもやしっ子じゃ、それはまだ早かったわ。小学生の頃のがまだ入るんですから。こちらこそ、シンジの父親のお下がりだなんて、ごめんなさいね。」
「そうなんですか。では、碇君のお父さんにも挨拶してきます。」
カヲルはそそくさと廊下を曲がってシンジの父の居るリビングへと向かってしまった。
「母さん、コレ笑われないかな?」
「レイちゃんはきっと笑わないわよ。」
「綾波はいつも笑わないもの。」
「あら。言うわね。」
「金魚柄なんてアスカが見たらからかいそう。」
「アスカちゃんは何を見てもそうするわ。ただシンジをからかいたいのよ。悪気はないの。」
「渚君もさっき女の子みたいって言ってたの?」
「とっても素敵だって褒めてたのよ。もう、自信を持ちなさい。渚君があなたを悪く言うはずないじゃない。あなたにベタ惚れなんだから。それに私の息子がかっこ悪いなんてあり得ないわ。ほら、父さんにも見せてらっしゃい。」
「うん、行ってくる。」
ユイはその背中を見送りながら、去年よりも三センチ伸びた息子の成長を微笑ましく思ったのだった。
「やあ、碇君。ちょうどお父さんとお話していたんだよ。タコかイカかってね。」
「父さんはどうせまたイカ焼きでしょ?」
「そうなのかい?僕の読みは外れたようだ。」
「…お好み焼きだ。」
「あは!」
「父さんそれズルいじゃないか。タコかイカかって質問でしょ!」
「…広島風だ。」
「それってどんなボケなのさ!」
いつも不発のギャグがウケてシンジの父、ゲンドウの口角が上がる。
「まだそれが入るのか。」
「…うん。僕、小さいもの。」
「父さんは中学三年で一気に十五センチ伸びたぞ。」
「凄い!良かったじゃないか、碇君。来年が楽しみだね。」
「でも僕、母さん似だからなあ。小さいままかも。」
「僕は小柄な君も可憐だと思うよ。」
「あら?また渚君がうちの息子を口説いているわ。」
「お母さん。碇君は鈍感だからいくら口説いても落ちてくれませんよ。」
「シンジ、渚君はお得よ。将来安泰、とっても優しくて、しかも、あなたが大好き。」
「もう!アスカが居ないとツッコミが足りないよ!」
「ふふ。ほら、もう行きなさい。混んでくるわよ。」
「はあい。」「わかりました。」
「…シンジ。」
「何?」
「…焼きそばだ。」
「えぇえ?」
「あはは!碇君のお父さんは面白い!」
それから間もなくカヲルとシンジは数枚の千円札と小銭の入った巾着袋を懐に忍ばせて、カツカツと聞き慣れない音の下駄を履き、快活に「いってきます!」と声を重ねて玄関から夕暮れの街へと飛び出したのだった。
「渚君は面白い子ねえ、あなた。」
「ああ。」
「シンジの親友があの子で良かった。誰かさんが厳しく当たってばかりだから、あの子自信が少なくって。」
「…躾だよ。」
「褒めて伸ばすって方法もあります。」
「皆が優しくしていては、甘ったれる。」
「ま、それもそうね。渚君がとっても優しいから、ちょうどいいわ。彼って本当、シンジが大好き。」
ゲンドウは新聞を読むふりをして複雑な表情をしていたのだが、それはまるで難しい記事に読み耽っているようだから妻には気づかれないらしい。ユイは息子の楽しむ姿を思い浮かべて小さく微笑みながら夕食の支度を始めようと歩き出した。碇家のキッチンからは今日も陽気な鼻唄が聞こえてくる。
時刻は夕方六時過ぎ。外はまだ、明るい黄昏。
ーーーーー…
「お待たせ!ふたりとも!」
待ち合わせ場所には既にレイとアスカが浴衣で着飾り待っていた。レイは青藍に卯の花色の牡丹がしだれ咲き、帯は艶やかな茜色。耳元には真朱の牡丹のかんざしが添えられている。一方アスカは対象的に今っぽく元気いっぱい。ルビーレッドにフラミンゴピンクの薔薇がターコイズの葉と共に華やかに咲き乱れて、ピーチブラックの帯に真っ赤なチェリーみたいな飾りが添えられている。彼女のお気に入りのカチューシャに合わせて選んだのだろう。どちらの見立てもアスカの母親のものに違いない。
「バカシンジ!遅い!私達が五分早く来た時くらい、五分早めに来なさいよ!」
「流石にむちゃぶりだよソレは!」
「しかもなんでアンタは小学生のままなのよ!数年分遅刻してる!」
「だ、だって、今年は渚君にも着てほしかったんだよ。」
「碇くん、とても似合っているわ。」
「…金魚が?」
「碇くんは何でも似合うもの。」
「ありがとう。綾波もきれいだよ。」
「ありがとう。」
「ズルいな。僕だって褒めているのに冗談としか君に受け取ってもらえないなんて。」
「だって渚君は褒め過ぎるから嘘っぽいんだもの。」
「傷つくよ。君が世界一綺麗なのがいけないのに。」
「ほら、それ!」
「って、バカシンジばっかり。私は?初下ろしの浴衣よ!」
「…君は、まあ、浴衣が新しいね。」
「どうしてアンタはそう差が激しいのよ!シンジバカ!」
「アスカはかわいいから、似合ってるよ。」
シンジのそのひと言にカヲルの眉がピクリと動いた。
「ふうん。30点ね。私の美しさに対して褒め方が追いついてないわ。」
「碇君、混んで来たから、そろそろ行こうか。」
「うん。綾波も、行こう。」
「ええ。」
それを聞いてカヲルは小さな溜め息を吐く。けれど、シンジの耳には届かなかった。
今日はこの暑い季節の風物詩、夏祭り。数日前から屋台の骨組みが形になってゆくのをシンジはわくわくしながら眺めていた。毎年このお盆の時期は山に灯る大きな送り火と合わせて花火大会が行われる。第三新東京市は昔から有名な温泉地。だから遠方からも観光客がわんさかと訪れるのだ。けれど地元民の四人はちゃんと内緒の穴場を心得ている。賑わいの夏祭りをひと通り楽しんでから、打ち上げ花火はその穴場で観るのが、毎年恒例の幼馴染み四人の行事なのだ。
けれどももう、四人はお年頃。密かに想いを寄せる人くらい居る。偶然にも三人の想いの先はひとりだった。四人の中で一番自信がなくて、けれど、誰よりもやさしい男の子、シンジである。
「…君は僕だけ褒めてくれていないね。」
「そう?」
「うん。寂しいな。」
けれど、そんなシンジだってちゃんとお年頃になっている。シンジは最近思うのだ。カヲルは年々自分との距離の取り方が近くなってきている、と。今年の夏はもうすぐで抱き締められそうだとヒヤヒヤした瞬間が何度もある。それって、やっぱり、ちょっと、変。
「…渚君は何着てても絶対一番かっこいいもの。ほら、みんな振り返ってる。」
「他人なんてどうでもいいよ。君がどう思うかが大事なんだ。」
ほらまた、グッとカヲルの顔が近づいてきた。背中を押されたらキスしてしまいそうな距離。どうしてだろう、やっぱりキュンとして、ドキドキする。
「…渚君、浴衣、すごく似合ってるよ。」
「ありがとう。」
そうしてシンジのひと言で途端に輝くカヲルの嬉しそうな笑顔。その輝きにトクンと心臓が跳ねるのも、きっと去年よりも僕らが大人になったからなのかも。シンジは心の中でそんな不思議な理屈をこねた。
「アンタたち、イチャイチャしてないで早く来なさいよ!私、お腹空いた!」
「はいはい。ほら、碇君、おいで。はぐれないようにしよう。」
提灯が明るく並ぶ大通りは人混みでごった返していた。シンジは慣れない下駄によたよた歩きで遅れ気味。そんなシンジの世話焼きはいつだってカヲルの役目。当たり前のように手をつなぎ、そして、引いてゆく。そのスッと馴染むような手のひらの感触は、カヲルと歩んだ長い歳月がどれほど心地良かったかをシンジにそっと伝えてくれる。
風車が格子一面に掛けられてカラカラと回っている。常夏の花畑のよう、鮮やかな色の氾濫。幻想的なその佇まいは此処がまるで知らずに堕ちた異世界みたい。横目でそれを目に焼き付けていると、すぐ側でカヲルが自分を眺めていた。そしてそれを見上げて確かめると、ふと、カヲルが顔を逸らすのだ。そんなことは今までなかった。かつてシンジが見つめたらたじろぎもせず見つめ返していたカヲルは今、耳をほんのり桜色にして悩ましげな横顔で、ぎゅっとシンジの手を握る。
けれどそれは風車の原っぱを抜けるまでの一時だった。辺り一面に美味しそうな屋台の匂いが立ち込める頃には、いつものカヲルが朗らかに微笑んでいて、わがままなアスカがあちこちの屋台で買いたいと駄々をこねて、大人しいレイがそんなアスカに淡々と付き合っている、そんな日常が揺れていた。
「シンジ、私、かき氷食べたい。」
「アスカが並べばいいだろ。」
「私金魚すくい行ってくるの。その間に買ってきて。」
「碇君もやりたかったらやっておいで。僕が代わりに並ぶよ。」
「ううん。一緒に並ぼう。ありがとう。」
それを聞いてアスカが盛大な溜め息をひとつ。やがてレイと一緒に向こうの屋台へと駆けてった。カヲルはシンジを甘やかすのがお得意だ。一緒に並ぶ間にもさっき買った綿飴を半分こしてシンジの口を砂糖のように甘くする。そして、僕は何でもいいから君の好きな味をふたつ選んでごらん、と決まり文句を囁いて、かき氷はアスカがいつもブルーハワイだから、カヲル、シンジ、綾波がそれ以外の、グレープ、青リンゴ、イチゴにした。
「ほら、可愛いでしょ。私を選んでやってきた賢い子たちなの。」
シンジはアスカの手か水のパンパンに詰まった透明なビニール袋を受け取った。中には真っ赤で小さな金魚が二匹、優雅に尾ひれをなびかせて泳いでいる。
「本当だ。かわいい…」
甘くて儚い宝石みたいなその赤に、一瞬、自分を見つめるカヲルの瞳が脳裏を掠める。
「シンジ、交換。青リンゴ食べたい。」
「もう、全部食べるなよ。アスカは欲張りなんだから。」
「アンタのもんは私のもんでもあるの。」
「あんまり碇君をいじめないでくれよ。」
カヲルがシンジのそれを奪い返そうとしても、するりとアスカは華麗なターンで青リンゴを持ち逃げする。そんな泥棒を尻目に、僕のをあげるよ、というカヲルのセリフと同時に、ふたつの白い手でグレープとイチゴがシンジの目の前に差し出されるのもお馴染みの光景だ。それからみんなで色の変わった舌を見せ合って、じゃんけんの強いレイがあんず飴をみんなの分勝ち取って、それを頬張りだいぶ混雑してきた屋台の広場を縫うようにして歩いてゆく。
「さて、そろそろ君にかっこいい僕のガンマン姿を見てもらおうかな。」
そこは毎年やってくる射的の屋台。オレンジに墨で殴り書きした古い看板の下で豪華なものから陳腐なものまで棚に景品の的が陳列している。そしてカヲルの姿を見つけるや否や、いつもの爺さん屋台主が苦笑いして四人を歓迎してくれた。そして毎年恒例のパンパン弾ける大舞台にぞろぞろと見物客がなんだなんだと寄ってくる。射的の腕がたぶん日本一のカヲルが、シンジがほしいと言った物を次々とコルクの弾丸でなぎ倒し、ついに全部落とした時には大きな群衆の輪から、一際大きな拍手喝采が鳴り響いた。
「やっぱりすごいや!渚君!」
「君が応援してくれたからさ。はい、どうぞ。」
シンジの手にはご当地ものの大きなお菓子の箱が数個に、青い金魚の貯金箱に、とても高そうな戦闘ロボットのフィギュアに、最近テレビで人気のゆるいキャラクターのぬいぐるみが、ポンとやさしく手渡された。
「シンジはお子ちゃまねぇ!ぬいぐるみがほしいなんて。」
「もう!ほっといてよ。」
「碇くん、私もそれ、好きよ。」
「本当?へへ。これいいよね。」
「ええ。動きが抜群。」
「碇君!たこ焼きは彼処が一番美味しそうだよ。買いに行こう。」
カヲルはすぐさまシンジの手を取りレイからシンジを引き離した。最近カヲルはシンジとレイが喋り出すといつもこうする。このふたりが仲睦まじく同じトーンで会話をしているのを見ると、カヲルの胸は密かに悲鳴をあげて、我慢がならないのだ。
「疲れちゃった?荷物、僕が持つよ。」
「…大丈夫だよ。ありがとう。」
瞬きの増えたカヲルを見つけてシンジはシュンと眉を下げる。カヲルのその仕草は彼の不機嫌のサインだと、もう随分前からシンジは知っているのだ。
そうしてややあって、混んでいる列にふたりで肩を寄せ並んでいる時のこと。そうっとふたりの指先が触れ合って、シンジのそのかたちを確かめるようにするすると、白い指が絡まってゆく。いつもと違うその感覚に驚いて、シンジがピクリと肩をずらしてヒュッと指を引っ込めると、カヲルの喉がコクンと鳴った。
「…具合が悪いの?初めての浴衣だし、無理しないでね。」
「うん…大丈夫。」
何処かで傷ついた顔をしたカヲルに気づかないふりをして、そんな親友の態度を常に意味不明としか考えないシンジはそれから、たこ焼きの幾つ買うかなんて他愛ない話を始めてしまった。
カヲルは偶然、聞いてしまったのだ。先月、シンジの家に遊びに行った際、ゲンドウがユイに語っていたそれとない夢の話。ゲンドウはレイをとても気に入っていた。大人しいシンジでもしおらしい彼女の横では男らしく見えるとのこと。このふたりはお似合いだから将来彼女が義理の娘になればいい、とゲンドウは呟いていたのだ。あなたの願望をシンジに押し付けては駄目ですよ、とユイはすかさず一蹴していたのだが、カヲルはその時、本当に哀しい気持ちになったのだった。
それからカヲルは時折それを思い出しては、シンジの隣に居ながらも、胸が苦しくて堪らなくなってしまう。
「渚君、さっきお礼を言ってなかったね。どうもありがとう。」
ハッとして振り返ると、たこ焼きをふた袋持ったシンジがにっこりとカヲルを見上げていた。その潤んだ漆黒の瞳もツヤツヤした淡い唇も、カヲルだけに向けられている。手の中にはさっきの射的の景品が大事そうに抱えられていた。
「僕、これも大切にするね。渚君の獲ってくれた景品をたくさん飾ってる棚があるでしょ?あそこにみんな並べるからね。」
それだけでまた、ほの暗く沈んでいたカヲルは幸せで舞い上がりそうになり、すっかり気分を急上昇させてしまうのだった。
「碇君はたまに天使なんじゃないかって疑ってしまうよ。」
「あはは。何それ!渚君のセンスってすごいや。」
次の瞬間、そんな笑いもシュッと何処かへ消えてしまう。少しずつ、熱っぽいカヲルの瞳がシンジへと、近づいてゆく。
「ねえ!そろそろ花火じゃない?いつもの場所に行きましょうよ。私達もお好み焼きとチョコバナナ買ったから、あっちでラムネ買ってきて。今レイがじゃがバター買ってるの。」
そうしてふたりは何事もなかったかのよう、離れてしまう。
「君、まだ食べる気かい?」
「うっさいわね。ちゃんと四等分するわよ。」
「それでいつも僕に一番小さいのを渡すんだろ。」
「それからアンタはそこのお兄ちゃまに大きい方と取り替えてもらうんでしょーが。」
「僕達はちゃんと半分こしてるよ。渚君はやさしいから。」
「ふーん。そのやさしさはどっから来るんでしょーね?」
「あと二十分で始まるようだ。僕達はラムネを買ってくるよ。」
そう言って慌てたように自分の手を引き駆け出すカヲルの耳が紅潮しているのを、シンジはぼんやりと眺めていた。振り返るとアスカがじっとカヲルを睨みつけている。やさしさの来る場所。その答えを知っているような知らないような、そして知りたくないような不思議な感覚がシンジの胸を染め上げて、それに触れてしまってはこの夏は二度と来ない、そんな郷愁にも似た気持ちが、シンジが一歩大人になることをいつまでも、拒むのだ。
それから四人は集合して、屋台村を出て裏道を通り抜けた。盆踊りの囃子の音が遠くに聞こえている夢現な静かな路地。カランカランと下駄が鳴り、コンクリートの壁に反響して用水路の水音に混じる。そして時折アスカの手から火星みたいな模様をしたゴム風船のヨーヨーが跳ねてパシャパシャと気持ちのいい音を立てている。三日月に照らされて、生温かった風もやや、涼しく感じた。
「バカシンジ、ちゃんとレジャーシート持ってきたでしょーね?」
「うん。去年アスカに怒られたし。」
「ふうん、よろしい。」
「よろしい、じゃないよ。コレ意外と重いんだぞ。」
「ねえ、足が疲れちゃった。私のも持って。」
「碇くんは両手がいっぱいだから私が持つ。」
「綾波は重くない?」
「大丈夫。」
「…ありがとう。」
「碇君、僕に荷物を渡してごらんよ。」
「え?」
「靴擦れを起こしているんだろう?」
シンジは慣れない下駄の紐が指の間に擦れてずっと、痛いのを我慢していたのだ。
「…渚君は何でもわかるんだね。ありがとう。でも、もうすぐだから大丈夫。」
けれどカヲルはそれには答えず無言でシンジの荷物を強引にさらってゆく。レジャーシートと景品をカヲルは肩に掛けて、たこ焼きとラムネを片手に下げてから、そっと、シンジの手を握って歩き出したのだ。その甲斐甲斐しいカヲルの仕草に奇妙な艶かしさを感じて、シンジの顔に熱が集まる。カヲルの背中の逞しさをいつもより意識して早鐘を打つ心臓に、シンジは小さく焦って唇を噛んだのだった。
路地を抜けると大樹の林に挟まれた、神社へと繋がる石畳の階段が現れた。頭上高くに朱色の鳥居が厳かに鎮座している。それを四人はゆっくりと裾を揺らして上ってゆく。カヲルとシンジの前ではアスカとレイが談笑しながら歩いていた。ほとんどはアスカの話にレイが頷くようなもの。でもそんな正反対の性格のふたりは実にうまくいっている。アスカが花火で一番好きな色の話をしているのがシンジの耳にも届いてきた。
「僕、金色でキラキラが垂れるすごく大きなあの花火が好きだなぁ。」
「一尺玉のしだれ柳かな?」
「うん。たぶんそれ。そんな感じ。花火って一瞬で終わっちゃうけど、その花火は消えてゆく時もきれいだから、ずっと見ていたいって思うんだ。」
「消えてゆく時…」
「うん。花火ってどうせ消えちゃうんだけど、その消えちゃうのがきれいだってその花火は言ってる気がして。だって咲いている時よりもきれいなんだもん、散っちゃう時の方が。」
カラン、カラン、一歩ずつ階段を上ってゆく。カヲルは震える瞼を閉じて、そして、ゆっくりとそれを持ち上げた。
「この階段を上り終わったら、」
「ん?」
「僕のことをカヲルって呼んでほしい。」
シンジが驚いて隣のカヲルを見上げると、カヲルは階段の終わった先のずっと遠くの夜空の方を見上げていた。
「昔から僕達は互いを苗字で呼んでいて、それに愛着もあるけれど、僕はそれでも、」
カラン、そうしてまた、一歩ずつ。
「君に名前で呼んでほしいんだ……碇君。」
まるでそれを最後にするかのように愛おしそうに自分の名前を口にするカヲルに、今までにない果てしない切なさが、シンジを襲う。
「…渚君。」
カラン、もうすぐで階段は終わってしまう。
ー渚君…
心の中でまた呟く。どうしてだろう、泣きたくなってしまうのは。
そうして、最後の一歩が…カラン。
「…カヲル、君。」
シンジはカヲル見つめてそっと、カヲルにだけ聞こえるようにそう、囁いた。それを聞いてカヲルは夜空から目を離し、ゆっくりとシンジへと振り返る。
「…シンジ、君。」
そうしてカヲルは泣きそうな顔をして、幸せそうに微笑ったのだった。
その時花火大会の第一声がドオンと轟き、ふたりの身体を圧するような大きさで、辺りに響き渡った。
ーーーーー…
「血が滲んでしまっているよ。おぶろうか。」
「いいよ。もう少しだし。だからもう、帰っていいよ。」
花火大会も終わってカヲルとシンジはレイとアスカと別れてから住宅街の舗道を歩いていた。祭りのあとの帰り道の静謐さは、さっきまでがまるで夢だったかのよう、シンジの頭をふわふわと舞い上がらせていた。シンジの右足の親指と人差し指の間の柔らかい肌は鼻緒が擦れ過ぎてしまい、切れて血が出てしまった。
「足が大きくなったんだね。それならやがて背も伸びるよ。」
「…分かれ道、過ぎちゃったよ。」
それはカヲルとシンジの家への帰路を分かつT字路で、もう五分前にはとうに過ぎてしまっていた。
「…送ってゆくよ。」
「ならやっぱり、着替えて帰りなよ。」
「いや、浴衣は洗って返すよ。着替えは明日取りに、お邪魔するよ。」
「なら、」
「まだもう少し君の側に居たいから、送らせておくれ。ほら、」
カヲルはしゃがんでシンジへと背中を広げた。
「おぶるよ。もうそんな痛々しい姿は見てられない。」
さっきからずっとアスファルトをガラガラと引っ掻くシンジの下駄。シンジは切れた肌がジンジンと浸みるように痛むのを涙目で我慢していたのだ。
カヲルの有無を言わせぬ凛とした声の響きに降参して、シンジはその場で下駄を脱いだ。まだほんのり温かいアスファルトを素足で感じて少し驚く。そうして片手の指に下駄紐をくぐらせて、シンジはおずおずとカヲルの背中に抱きつくのだった。
それをヒョイッと軽々と持ち上げるカヲル。両腕にはレジャーシートと景品をぶら下げて、浴衣姿のシンジを背負う。シンジは少しでもカヲルに負担がかからないようにとしっかりと、その白い首筋に腕を回してしがみついた。ふたりの顔はとても近い。シンジは自分の吐息がカヲルの耳に掛からないように意識した。
「…重い?」
「軽いよ。君が心配になってしまうくらい。」
「…ごめんね。」
「謝ることじゃないよ。こんなになるまでよく弱音を吐かずに頑張ったね。」
シンジはいつだってカヲルのそんな甘ったるい褒め言葉が大好きなのだ。けれど、
「…どうして、」
つい、そんな言葉が喉から出てきて宙に浮かぶ。
「ねえ、どうして、」
キス、したの?
「…花火の余韻にもう少しだけ浸っていたいのさ。だから家まで、君を送りたい。」
シンジの胸がきゅっと苦しくなって、指先がピクリと動いた。まるで何かを炙り出そうとするかのように、熱くて、痛い、その言葉。
ーーーーー…
「わあ!シンジ!見なさいよ!大きい!」
地元の子供達がちらほらと境内に散らばっていた。けれど四人の特等席はもう少し歩いた場所の開けた高台にある、緩やかな丘の上。
「すごいや!でも、始まっちゃったね、急がないと。イタッ!」
シンジがふと足元を見ると、鼻緒の周りが血で薄い橙に染まっていた。
「シンジ君、大丈夫かい?」
まだ聞き慣れないその響きにシンジはじいんと痺れて言葉を失くす。
「碇くん、ゆっくり来て。私達、先に行って待ってるわ…レジャーシート。」
ホイッとカヲルがレイに無造作にそれを投げ渡すと、彼女は器用にそれを肩に掛けて、駆け足で行ってしまったアスカに追いつこうと歩を早めた。
「な、カ、カヲル君も行っていいよ。」
「ふふ。」
「…だってまだ、慣れないんだもの。」
可笑しそうにカヲルは目を細めて微笑っている。けれどそれは嬉しくて照れているんだと、シンジにもわかっていた。
「荷物が多くておぶってあげられずにごめんよ。ゆっくり歩いていこう。肩に掴まってごらん。シンジ君。」
カヲルは何度も胸でその名を描いていたのだろう。その呼称をとても自然に、そして愛おしそうに紡ぐ。その響きはまるで恋人を呼ぶようにやさしくて、シンジの心音は花火の爆音に紛れてどくんどくんと高鳴っていた。
ふたりはそれからしばらくは花火に見惚れながら、肩を並べて歩いていた。シンジはちらっと、花火の明かりで様々な色彩に染まるカヲルの横顔を盗み見ながら、思ったのだ。ふたりの何かがいつもと違う気がする、と。
呼び方を変えただけ。ふたりが近すぎる親友なのは前からそうだった。けれど今、その距離が心地いいだけではなく、息が止まりそうなほど、何かで満たされている。シンジの全身を、まだ彼の知らない名もない感情が、駆け巡ってゆく。
ーねえ、これって、もしかして…
「おっそ〜い!飲み物アンタたちが持ってるから喉がカラカラよ!ラムネ!たこ焼き!」
けれど、カヲルとシンジは異変に気づく。そうは言いながらもアスカは毎年死守していた一番眺めのいい場所を、足の痛いシンジの為に空けていたのだ。
「…ごめん。」
「アンタのたこ焼き一個もらうからね。等価交換!」
レジャーシートを縦に広げた下の方にレイとアスカは座っていた。カヲルとシンジの席の前には四等分よりちょっと大きめのお好み焼きとじゃがバター、一本のチョコバナナが丁寧に置いてあった。それは十三歳のアスカなら決してしなかったこと。
「もうすぐスターマインだからしっかりと食べておきなさいよ。」
「…ありがとう。」
「碇くん、開けてあげるわ。」
浴衣が濡れないようにレイが袖を捲ってシンジの分のラムネをポンッと押して開けると、長く揺られたラムネ瓶からシュワッと泡が滴った。
「はい。」
「ありがとう。」
ラムネを手渡すその顔は、にっこりと朗らかに微笑んでいた。
「…カヲル君も遅れちゃってごめんね。」
「僕はいつだって君の隣にいる方が幸せなのさ。」
「あはは。何それ。」
「名前で呼んでくれて、ありがとう。」
「…こちらこそ、ありがとう。」
こうやって四人は少しずつ成長してゆく。
朝も夜も絶え間なく足音もなく星の巡るようにして、ゆっくりと大人への回廊を登ってゆく。
スターマインが豪華絢爛に夜空に満開の火花を散らし、火薬の匂いが風に乗ってやってきた。一尺玉が五臓六腑の底を打つような轟音で四人に覆いかぶさるように咲き乱れる。シンジはその怖いくらいの大きに自然と隣のカヲルと距離を詰めていった。鼓膜が痺れるような真夏の濃い花火。第三新東京市の片隅ではきっとシンジの両親もその夏の音を聞いている。
「ねえ、シンジ君。」
「なあに、カヲル君。」
一尺玉が深赤、淡紫、黄緑とリレーのように打ち上がる中、カヲルの澄んだやさしい声がシンジの耳にそっと届く。
「綺麗だ、」
そうしてようやく、シンジの大好きな一尺玉の金のしだれ柳がドオンと、打ち上がった。
「本当に綺麗…」
「君が。」
え、と言う間もなく、夜空に明るい星屑が最後の命をキラキラと燃やす最中、カヲルへと振り向いたシンジの唇にカヲルのそれが重なっていた。それは言葉にならなかった名もない、何か。そのトロリととろけるような温度も、世界がどうなってもいいくらいの感触も、自分が全部消えてしまうような甘い痛みも、全部、その、何かなのだ。
刹那の花が散りゆき、チリチリと煌めいていた金の火花の残り火が、すうっと夜の闇に消えてゆく。そうしてふたりの重なる熱も一度きりの打ち上げ花火のように爆ぜて、すうっと離れてしまったのだった。
互いの潤んだ瞳に映る自身の姿を見送りながら、刹那の恋は、終わってしまう。
ーーーーー…
碇家のリビングの照明が小綺麗な庭に明るい影を落としている。その横の玄関前ではカヲルがシンジを大事そうに背中から降ろしていた。その背中はあの時の残り火のように、シンジの心の琴線に触れて繊細な尾を引いてゆく。
「さっきの答えだけれど、」
シンジが裸足のままで玄関先のタイルの上に立ち上がると、目の前でカヲルが見たこともない表情で立ち尽くしていた。とても嬉しい、と、とても哀しい、を綯い交ぜにしたような顔。緊張で端々が強張っている。
「僕は君が好きだ。」
シンジ君、しっかりと心に刻み込むように丁寧に名前を呼ばれて、シンジはぼうっと息を忘れた。時が瞼を閉じるようにゆっくりとゆっくりと、速度を落とす。
これは夢?それとも現実?
いつまでそうしていたのだろう。気がついたら赤い瞳に涙を溜めて微笑むカヲルが、コクンと喉を鳴らしてから掠れた声で囁いていた。
「…じゃあ、また。今日は…ありがとう。」
そうして何かを振り払うように頭を振って、ゆっくりと玄関の門をくぐり、また、シンジを名残惜しそうに見つめてから、一度だけ手を降って、やがて消えてしまったのだ。
シンジは裸足の肌がじんわりと冷たくなってきてから我に返る。自分じゃないみたいな浮いた身体のままで、玄関のドアを重たそうにギイッと開けた。
「あら、遅かったじゃない。おかえり。シンジ。」
「…ただいま。」
「どうしたのその足。靴擦れ?」
「…うん。」
それからのことはシンジもあまり覚えていない。気がつくと浴衣が部屋着に変わっていて、足はきちんと消毒されて絆創膏が貼られていた。ベッドに横になりながら、鳴らない携帯電話を意味もなく何度も気にする。シンジの頭の中では今でも、少し前の夏祭りの情景がまるで夢のように反芻されていて、全身をぼんやりと焦がしている。風車の氾濫に、グレープ味のかき氷に、日本一の射的に、しだれ柳の煌めきに、温かいあの背中に、それに…
「…カヲル君。」
よく味わうようにしてその響きを舌先に転がした。何度も何度も思い出していたキスの味にそれを重ねる。素敵な名前。渚君の下の名前、カヲル君。さっきまで一緒に居たのにもう会いたくて堪らない、カヲル君。
するとふと「僕は君が好きだ。」と聞こえ、シンジは目の前のカヲルが何かを待っていたような気がしたのだ。しかしそれがついに叶わずに、とぼとぼと自分から離れてゆく、哀しい、その、後ろ姿。
僕も君が好き。
「あっ!」
シンジはシーツの上から勢いよく飛び起きた。
「ああ!」
ーやっちゃった…!
シンジはようやくカヲルの濡れた赤い瞳の意味を知る。彼は待っていたのだ。告白に対するシンジの答えを。シンジは驚きのあまり何も言わずにつっ立ったまま、ついにはそのままでカヲルを見送ってしまっていた。
「どうしよう…」
ー僕はきっとカヲル君を傷つけちゃった…!
「どうしよう!」
泣きべそをかきながら自室をくるくると徘徊する。メールをしようか、でも、何て書けばいいんだろう、会いに行こうか、でも、こんな時間に会いに行くのは何故って絶対聞かれちゃう、何故って告白されたのに返事もしなかった、なんて言えないし…
足元を見下ろすと、絆創膏が変なかたちでよれていた。
そこでシンジは閃いたのだ。思い立つとすぐに玄関まで駆け下りてゆく。
「シンジ、靴なんて履いて、何処かへ行くの?」
「カヲル君に忘れ物の服を届けに行くんだ。約束してたのに忘れちゃった!」
「あら!」
「いってきます!」
シンジはそうして夜の街へと駆け出したのだ。もうがむしゃらなまでにまっすぐにカヲルの元へと走ってゆく。本当はまだ好きに好きを返したらどうなるかとかはよくわかってない。けれど、カヲルが溜まった涙を零しているなら、それは誤解なんだってちゃんと今すぐ伝えなければいけないんだ。だって、散り際に星の流れるしだれ柳に、強く、シンジは想ったのだ。
このままずっと消えてしまわないでほしい。
そうしたら、このキスも永遠に終わらないんだ、と。
「シンジはどうした。」
「渚君に用があるから出掛けましたよ。」
「こんな時間に。うちも門限を決めようか。」
「ふふ。」
「何だ?」
ユイは息子のちょっとした変化に気がついていた。帰ってきてからふわふわしていて心ここにあらずの息子から、さっき答えを貰えたのだ。カヲル君、と。いつかそうなることをユイは密かに予感していた。
「あなた、どうして不機嫌なの?」
「…シンジの奴、焼きそばを忘れた。」
「まあ!」
ユイが肩を震わせ笑っているのを横目で見て、今日はよく笑いを取れる、とゲンドウは我ながら感心していた。
「…仕方ないわよ。“カヲル君”と父さんなら、あなたの負け。」
「どうして父親が負けるんだ。」
「ふふ。そんなものよ。」
ユイは秘密のお祝いに、グラスをふたつ用意して、ちょうど冷蔵庫に冷えていた黒ビールのプルタブをパチンと開けた。
ーーーーー…
「シンジ君!?」
第三新東京市の片隅で、とあるマンションの一室のチャイムが鳴った。三度目のピンポンに恨み節のような返事が聞こえて、シンジです、と答えると、その一室からガタガタと嵐のような慌てふためいた音が聞こえてきた。それから玄関から住居者の気配がするも、生まれ出づる前のような間がややあって、おそるおそる玄関のドアが開かれたのだ。
「カヲル君…」
その顔は一層赤くなった瞳や拭いきれていない涙あと、くしゃくしゃになった銀髪から予想するに思いきり泣いていたのだろう。キラキラと濡れた瞳がシンジを、戸惑いと喜びの狭間で揺らめきながら見つめている。彼らしくなく呼吸も早い。
「どうしたんだい?」
一方シンジも、好き、とただ伝えるためだけに全速力で街を駆け抜けてきたのだ。肩で息をしながら、そんな変わり果てた親友の泣き濡れた顔を見つけて、更に、言葉が迷子になる。
「…泣いてたの?」
カヲルはそれを聞くと曖昧に微笑んだ。そして零れそうな涙を隠そうと咄嗟に目尻を指で押さえる。
「君がずっと…好き、だったから…」
そこまで言うとカヲルの唇がわなわなと震え出して、喉から嗚咽を噛み殺す音がした。困り果てたカヲルはせり上がる想いになす術もなく顔をくしゃっと弱々しく歪ませて、それを想い人に見せたくはなかったのだろう、大きな左の手のひらでそれを隠すように口元を覆った。緩んでいた涙腺から溢れてしまう隠しきれない涙がぽろぽろと、やがて地面にまで落ちてゆく。
「…ごめん。」
ああ、違う、そうじゃない、誤解だよ。シンジはそんな、弱々しく震えて潤んだ声を出すカヲルに伝えたい言葉がありすぎて、何もかたちになってくれない。ああ、どうしよう。シンジは自分の気持ちにすら自信がなく、重く垂れ込めた沈黙に逃げ出したくなってしまう。ああ、やっぱり無理だ、僕にはできない。僕は、何も、伝えられない。
ー始まらなければ終わらない。傷つくことだってない。でも…
そうやってシンジが自分自身に負けそうになった時、ふと、思ったのだ。これまでいつだってシンジが辛い時にはカヲルが手を差し伸べてくれた。それなのに、自分はひたすら心を隠して二文字すら満足に彼にくれてやろうとしない。そんなのは、ズルすぎる。
「…あの、」
ー僕だけ安全な場所にいて、カヲル君を傷つけてまで本当の気持ちに知らんぷりをするなんて、間違ってる。でも…
「…えっと、」
ーこわい。何もかも変わっちゃう。全部、僕の勘違いかもしれない。ああ、でも…
「…うんと、」
ーカヲル君だってきっと、同じ。こわかったんだ…
カヲルは怯えたようにして止まらない涙を飲み込みながら、シンジの答えを待っている。どちらかもわからないその答えを。シンジは緊張のあまり冷たくなった指を曲げ、開いて閉じてを始めてしまう。心臓がひっくり返って喉から出てこないよう、ゴクリと唾を飲み込んだ。滲む汗に荒い息。けれど、何年も一緒だったシンジにはわかるのだ。もしも逆の立場なら、どんなにつらいことだろう、と。だって、きっと、ふたりは、
ー…カヲル君が苦しむのは、嫌だ。
同じ気持ちだから。
「……す、き。」
過呼吸気味で小さな小さな掠れ声で呟いた。それはちゃんと、届いているのだろうか。
「好き。」
だからもっと確かなかたちで、想いの輪郭を描き、言葉にする。一度咲いてしまった花はもう蕾には戻れない。だからもう、後戻りは出来ない。心はもう、止められない。
「僕もカヲル君が好き。」
ーだって、そうなんだ。じゃなきゃ君とのキスを、
「だから、泣なかくて、いいんだよ。」
ー…何度も、思い出したりなんて、しない。
シンジがカヲルに一歩踏み出す。固まっているカヲルをあやすようにして抱き締める。少しだけつま先を立ててカヲルの混乱している頭に自分の気持ちがしっかりと沁み込むように手のひらで撫でてやる。自分がしてもらってきたやさしさを、今度は自分から返すように。やさしさが来る場所は、きっと、どちらも、一緒。
「…カヲル君。」
互いの心音しか聞こえないような密な抱擁。同じように互いの気持ちを指先で確かめて、同じようにほうっと期待ばかりの吐息を滲ませて、同じように首を傾け熱い唇を寄せる。
二度目のそれは静かで安らかなものだった。耳を澄まさなければ聞こえないような水音がふたりの鼓膜を震わせてゆく。それはとても初々しい、けれどほんのちょっと背伸びをした、やさしいキス。
「…シンジ君のお父さんに嫌われてしまうかな。」
「なんで?」
「きっと君と僕がこうなることを、君のお父さんは喜ばないだろう。」
「父さんは関係ないよ。僕が決めることじゃないか。僕はカヲル君が好きなんだもの。」
やっぱり母親似だなぁ、とカヲルはしみじみ思ってしまう。嬉しくてつい緩んでしまうカヲルの頬にシンジの指先がふわりと触れる。
「それに、あんな感じだけど結構父さん、カヲル君のこと気に入ってるんだよ。」
ーーーーー…
「シンジはまだか。」
「ふふ。まだ十分も経ってないわ。歩きなんですから渚君のおうちに着いてすらいないですよ。」
「フン。不良になったもんだな。」
「シンジは真面目よ。真面目すぎるくらい。あなたが厳しくするからね。」
「いいことじゃないか。」
「自分のことを棚に上げてよく言うわよ。」
「…渚君はなかなか骨のあるいい男だ。シンジも少しは見習えばいい。」
「シンジにはシンジの良さがあります。あの子のマフィンはきっと世界一美味しいわ。」
「またお菓子作りか。娘を育てた覚えはないんだがな。」
「もう!またそんなこと言って。そんなこと、シンジに言ってごらんなさい。その時はあなたの唯一の趣味がお裁縫だって、今度こそシンジにバラしますからね。」
慌てて机の上に放って置いた既読の新聞を広げるゲンドウ。ややあって、妻のユイがクスクス笑うのを見つけてようやく、逆さまになっている新聞をくるりと回した。今日は彼の意思に関係なく笑いが取れてしまう日らしい。
シンジが浴衣の懐に忍ばせていた小銭入れのあの巾着袋が父親の作品だと知ったのはそれからずっと後のこと。
シンジは確かに父親似でもあったのだ。
街の灯りがちらほらと消えてゆく。しばらくしてから、第三新東京市の片隅で、好き、とただ伝えるためだけに全速力で駆け抜けた少年が、ようやく自分の気持ちを伝え終えて、ほんのちょっと大人になって我が家へと帰ってきた。
そうしてその好きを受け取ったもうひとりの少年は、幸せのあまりその後もベッドの上でのたうち回って、嬉しさに悶絶しながら朝まで眠れないのだった。
会ったばかりなのに、もう君に会いたくなる。
導火線に火のついた恋はまだ、始まったばかり。
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