耳殻拾い
潮騒に耳を澄ませば、いつかの想い出が浜辺へと打ち上がる。乳白の砂を敷き詰めた波打ち際に浅い縞模様の忘れ物。貝殻は主を失くして波に呑まれてまた打ち上がり、そしていつからそこにあるかもわからずにただ佇む。誰かの手がそれを拾わない限りずっと、立ち止まり時を待つのだ。
「あ、ここにもあるよ。」
カヲルとシンジは中学の頃に出逢ってから連れ合うように生きてきた。ふたりは大人になっても相変わらずの親密さでこうして遠出の時はいつも並んで歩いている。けれど、それ以上にはならなかった。
「そんなに拾って持って帰れるのかい?」
「ひとつだけ持って帰るから大丈夫だよ、渚君。」
その慎ましい呼称が伝えるように、たとえ好き合っていても互いに秘めた想いは言い出せずにいた。
「なら何故そんなに拾ってるんだい?」
「拾いたいからだよ、なんとなく。」
「碇君はなんとなくが多いね。」
カヲルがシンジの両の手いっぱいの貝殻をひとつ摘み上げる。それは白磁のつるりとした表面に珊瑚朱色の筋を滑らせた大きな巻貝。手のひらほどの大きさでゆったりと螺旋状に渦巻いて稜線を描いている。
「へへ。どうしてこんなことしてるんだろうね。」
ふたりしてふわりと笑ってふとカヲルが振り返る。それをシンジが追うと、ふたりの道のりに沿って海と砂浜の境界がなだらかに揺らぎながら遠くまで続いていた。
「…どうしたの?」
「ほら、消えてしまう。」
そして数刻前のふたり分の足跡は寄せては返す波の襞に覆われて、もういちど、もういちど、大波小波が打ち上がり、さらりと跡が消えてゆく。
「消えてしまうのは嫌なの?」
カヲルの横顔がそこはかとなく寂しそうでシンジは眉を下げて微笑った。困り顔で見上げれば目線の先には儚く凛々しく曇り顔が声の先へと向き直る。
「嫌だよ。この寂しさは未だに慣れない。」
「渚君も不思議なこと言ってる。」
曖昧な笑顔が陽を照り返し揺らめけば、それは彼の手の内に煌めく小さな塊と似て、声も無くシンジを呼ぶのだ。
「なら、こうしよっか。」
砂浜に残された足のかたちの窪みにひとつ、シンジの指先から離れたもの。その虚空を慰めるようにして形も色も違う貝殻が点々と置かれてゆく。両手いっぱいあったそれらはあっという間に愛らしい行列となって波間に揉まれてもそこにしかと、ふたりの隣り合わせの道を刻んでゆくのだ。
残ったのは、カヲルの掌に握られたままの巻貝が、たったひとつ。
ふたりは暫く足許の貝の道を眺めていた。
「ねえ、貸して。」
シンジは最後の巻貝を手に取りそっと、耳に当てた。ゆっくりと瞼を閉じる。
「貝に耳を当てると、海の音が聞こえるんだ。それはね、貝が海にいた頃の記憶を持っているからなんだって。」
「君がそう云うなら、そうなんだろうね。」
「…それは、何か知ってる顔だね。」
きらりとシンジの紺碧が真紅を見据える。
「何を?」
「とぼけないでよ。」
カヲルは決まりの悪そうに幾度か瞬きをして、ぽりぽりと頭を掻いた。
「…それは、君の耳の音だよ。貝に跳ね返って体液の流れる音が海のように聞こえるんだ。」
「へえ。」
シンジはつまらなそうにまた前を見て歩き出した。いつもそう。カヲルに何かを教えると、その倍返しで返ってくる。早足でてくてくと進むシンジのほんのり桃色の耳朶を見つけて、カヲルはそそくさと駆け寄ってゆく。
「ごめんよ。でも、僕は君の意見の方が好きなんだ。美しいじゃないか。」
「渚君と一緒に居ると、僕はただの馬鹿なんじゃないかって気がしてくるよ。」
「そんなことないさ!」
慌てて目の前の肩を掴んだカヲルはふと、立ち止まる。目眩の中で時が止まる。燦めく水面の反射が揺れて、潮風が漆黒の髪の先を攫ってゆくその刹那、姿を現した陽に焼かれずに白んだシンジの項と首筋の境目辺り、ふたつの小さな楕円形の淡い桜色の痕を見つけたのだ。
「…それは、どうしたんだい?」
「それ?」
つっとカヲルの指先が撫でる箇所をシンジは首を傾げて弄った。
「ここ?何かついてる?」
「痕があるんだ。」
「でも、痒くないから…何だろう?痛くもないし……どうしたの?」
カヲルはシンジを見つめていた。その表情は感極まったように隅々を小さく震わせて、瞳を熱く揺らしていたのだった。カヲルの唇は力を失くして微かな隙間をつくっている。
「渚君?」
「…君は、もし僕らは生まれるずっと前から出会っていた、なんて僕が云ったら、どう思うかな?」
シンジは灼熱の太陽を前に眩しそうに目を細めながら、しかしカヲルの逆光を浴びて陰になった奇妙に綯い交ぜな表情へと、しっかりと微笑みかけるのだった。
「君がそう云うなら、そうなんだろうね。」
「僕は真面目に聞いているんだよ。」
「真面目だよ。ほら、」
シンジは巻貝をカヲルの耳に優しく当てた。
「海が聞こえる。」
ーーーーー…
ふたりは赤い海を見ていた。腰を下ろして肩を並べて、指先の触れ合う距離で。その上では満点の星空がまるで降り注ぐかのように低く世界を覆っていた。幾分かのさざ波ばかりの沈黙の末、シンジは徐に口を開く。掠れて震えた声だった。
「もうすぐかな?」
「そうだろうね。」
もうすぐ宇宙の砂時計がひっくり返される。それを知覚して、ふたりは最初で最後の逢瀬をした。ただ、何も無い世界でふたりは肩を寄せ合いひたすら歩いて、そしてこの海辺は終着地点。シンジもカヲルもそれだけでとても幸せだった。永久に続けばいいとさえ思った。ふたりは互いの気持ちを知り合っててそれを伝えないようにしていた。もしその秘めた想いを口に出してしまったら、この別れはふたりにとって、とても辛いものになってしまうだろうから。
「ねえ、新しい世界はきっと、楽しくなるよね。」
「そうだね。」
「僕たちまた、きっと、会えるよね。」
「会えるさ。僕らなら、きっと。」
「…あ!見て!」
夜空が突然立ち止まり、廻る方角を変えた。尾を引くようにして滲み出す。星色の線を重ねて、宇宙は逆回転をする。それは地球が産声を上げるために瞳を濡らしているかのよう。霞んでいく天上は少しずつ足を早めて、時の賽は投げられた、とふたりに告げた。
「始まってしまったようだ…」
「ありがとう、カヲル君。」
天上を見上げていた真紅がふと、紺碧を覗いた。さっきまで乾いていた紺碧は、ぽろぽろと幾つもの流星を零す。
「僕、君が居てくれたからもう一度やり直すことが出来たんだ。」
「シンジ君…」
とても幸せそうに、けれどとても辛そうにシンジは微笑んだ。臆することなく止まらない涙をそのままに、そっと、白の指先に自らを重ねる。
ーそう、もうすぐ世界が一度、終わるから
そしてふたりの想いはきつくきつく絡まるのだ。離れ離れにならないように祈りを込めて不条理な世界の趨勢に、細やかな抵抗をする。
ー最後くらい、我儘になりたいんだ…
「カヲル君?」
世界が光の氾濫を起こそうと、ふたりに刹那の目眩を与える。そして悠久の微睡の扉を音も無く開くのだ。その揺さぶりの最中にカヲルはシンジを思いきり掻き抱いた。
「…どんなに離れてても、」
もうすぐ全てが終わる、そんな目醒めの嵐の中で、カヲルはこれ以上無い程にシンジを抱き締め、耳許に言葉を落とす。
「君は僕の中にいるよ。だから君も、」
ふわっと重力の方式も解けてふたりを襲う。終わりまで、あと一歩。
「どうか、僕を、君の中に残してほしい。」
そしてカヲルは願いを唇へと寄せて、キスをしたのだ。
ふたりが消える直前に、ちょうど項と首筋の間に。
その温度に、シンジは吐息を彼の白い耳許へと残したのだった。
ーーーーー…
「…聞こえたかい?」
「渚君の耳に当ててるんだよ。」
「自分の音を聞いて海だと感じるなら、それは自分の中の海の記憶さ。ほら、」
カヲルはシンジの両耳を掌で塞いだ。
「…聞こえたかい?」
紺碧はそっと閉じられる。そしてある海の音を聞いた。それはいつかの海のような気がしたのだ。遠い昔のさざ波を耳許に寄せるような、揺蕩う調べーー
聞こえる、そう言おうと紺碧がすうっと瞼をもたげた時、銀髪が光を透いてなびきながら、鼻先に影を映す。はっと息も忘れてまた紺碧が瞼の裏に隠れた時、ふたりは唇を重ねて初めてのキスをした。その温度は大人になるまで何を戸惑っていたのだろうと不思議に思うくらいに、幾度となくふたりを煽って、もう一度、もう一度、とふたつの唇は優しく重ね合わされたのだった。
ー初めてのキスは、潮の香りがした。
「ねえ、もし僕らが遠い昔に知り合いだったのなら、どんな知り合いだったのかな?」
「友達だった。とても仲の良い。」
「キスしちゃうくらいに?」
「キスは一度だけだよ。一方的だった。」
「さっきみたいに口にしたの?」
「ふふ。気になるのかい?」
「…だって、いきなりそんな話をして、キスするから。僕たちまだ友達なのに。」
「じゃあ、これからは恋人になろう。碇君。」
シンジはぽんっと顔を薔薇色にして瞳をパチクリとさせた。その顔は恥ずかしそうで、呆気にも取られている。
「渚君って!また不思議なこと言ってる!」
ー好きだなんて一度も言わなかったのに。
「…嫌かい?」
ー君が忘れているだけかもしれないよ。
「んー…じゃあ、僕を捕まえられたらね!」
そう云うと悪戯に紺碧を輝かせて、シンジはいきなり果てしない砂浜を駆け出した。
「何故!?碇君…!」
「なんとなくだよ、渚君!」
遅れをとってカヲルも一直線に駆け出した。けれど砂場は足を取られてなかなか早く走れない。
「碇君、待って!」
あと少し、あと少し、指先が何度目かの宙を掻いて、シンジの肩を掠めた。
「碇君!」
シンジは可笑しそうに右へ左へと逃げ惑い、カヲルをかわしながらまた、遠くへと走り出すのだ。
「碇君!」
「シンジ君!」
聞き慣れないけれど懐かしい気がするその呼称。それに気を取られてシンジがふと振り向くと、歩を緩めずに突進して来たカヲルと正面衝突をした。勢い余ってふたりして、間抜けな声を上げながら、ばたりと地面へ崩れ落ちる。
「…大丈夫?」
瞬時にカヲルはシンジを抱きかかえて下敷きになっていた。腕の間からシンジはカヲルの顔を覗き込む。無傷の彼と違ってふたり分の体重を受け背中の打たれた衝撃で、カヲルはぎゅっと瞳を閉じて辛そうに眉を寄せていた。
「ごめん、僕がはしゃいだから。」
そうしてひと呼吸の後、ゆっくりと開かれる真紅の美しい瞳。そこには蒼穹の蒼さの中で唯一の紺碧が映り込んでいた。その輝きはサファイアの燃えるよう。あの日と同じ、大粒の涙を零して拙い愛の言葉を告げた、あの蒼さなのに。けれど今は、この世界の蒼しか知らないと云うように、燦々と明るい輝きを放つ。死の香り立つ赤い海も星空の砂時計も知らないと、底無しの明るさで軽やかに揺れている。
だからカヲルは手を伸ばした。白い肌に乳白の砂が貼りついてぱらぱらとひとつひとつの粒になって自らへと落下する。そしてその砂の雨を許しながら、シンジの秘められた首筋の一処に、そっと触れた。
「ここに、僕はキスをしたんだ。」
うっとりと儚く呟かれたそれを聞いて、紺碧が綻んだ。
「なら、僕が君といた頃の記憶を覚えていて、痕を残したんだね。」
ー貝が海にいた頃の記憶を覚えているように。
「そうしたら、君の中から僕が聞こえるのかい?」
「ふふ。渚君が聞こえるかも。聞いてみる?」
カヲルはふたりの姿勢を反転させて蒼穹を背負い、柔順としたシンジの瞳を見下ろした。砂の粒が紺碧の周りに降り注ぐ中、それをそっと払ってやる。そうしている間にも、真紅がまた濡れて慈愛の光を湛え出す。それから桜色の唇は、あの桃色の耳許へ。
「好きだよ、碇君。」
そうしてまたあの痕へと唇を寄せたのだった。
重なる温度。重なる願い。
ーどうか、僕を、君の中に残してほしい。
ー好きだよ、シンジ君。
“僕も好きだよ、カヲル君。”
吐息に乗せた、あの日の想い。
「カヲル君…?」
紺碧が真紅の中に彼方の赤い海を見つけた。
その瞳に映るのは果てしない青の蒼さといつまでも変わらない唯一の真紅だけだった。
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