最終章   もしもロミオとジュリエットがハッピーエンドだったのなら



「…それは浮気ね。ご愁傷さま。だから私にしろって言ったのに。」

「まだわからないだろ!アスカは人のこと何だと思ってるんだよ!」

「踏み台かしら?おかげさまで私は強くなって今じゃ最年少編集長よ。結婚なんて自立した女には足枷にしかならないんだから。」

「ハイハイ。おめでとう、良かったね。」

「あんたこそ人のこと何だと思ってんのよ。」

夕方にカヲル君が帰ってくる。僕は期待と不安で潰れそうで、思わずアスカに電話してしまった。そして僕の声を聞くなりアスカはわざわざここまで出向いてくれたのだ。昼時のオフィス街での僅かな交流。カフェのオープンテラスに座る、スーツ姿の男と女。

「…ごめん。アスカならあり得る話だから。それに、ありがとう。わざわざーー」

「踏み台が謝ったって嬉かないわよ。それよりも、ガキのことよ。」

「…うん。僕、もうよくわかんないや。カヲル君は世界を知っちゃって僕に興味が無くなったのかな。はは。」

「私の嫌がらせがこうも効いて留学なんて見直してたけど、まだ未知数ね。」

「…あれ、嫌がらせだったの?」

「あいつにはね。あんたにフられたなんてアスカさま最高の黒歴史なんだから。あんたへは、心配からよ。」

「…ありがとう、アスカ。その後も友達でいてくれて。」

「あんた気持ち悪いこと言うわねぇ。相当弱ってると見たわ。ま、もしもあいつが裏切ったなら、私があの綺麗な顔をボコボコにしてやるから、安心なさいよ。その後、あんたを貰ってやるわ。」

「はは。何それ。男女逆転。」

「前時代的発想ね。あんたより私の方が男らしいじゃない。だからもう、メソメソすんな。」

「…うん。」

「仕事だって楽しいんでしょう?趣味だってあんたにゃあるし、こんな輝かしいキャリアで美人の素敵な親友が居るじゃない。」

「…毒舌だけどね。」

「ふふ。その意気よ。バカシンジ。」

アスカは怒るどころか朗らかに笑っていたから、僕はちょっとどぎまぎした。

「…あら?今私にときめいちゃった?シンちゃん。」

「あはは。何言ってるのさ。アスカは僕には勿体無いよ。良い女すぎる。」

「…じゃ、ぎりぎりだからもう行くわ。コーヒーご馳走さま。あいつが好きなら信じてやんなさい。」

アスカはそう捨て台詞をキメて、背を向けて手を降りながら颯爽とビルの谷間に消えて行った。赤い髪の隙間からほんのりピンクの耳を見つけて、僕はまだアスカに想われているんじゃないかとドキリとする。

「……アスカ、ごめん。」

ふと視線をテーブルに下げるとマンダリンオレンジの鮮やかなスカーフが手持ち無沙汰に佇んでいた。

「あれ、アスカの忘れ物だ。」



僕は結局夢に生きた。三十になっても年下の男の子を想う日々。ずっとカヲル君の帰りを待ち続けている。

「…今日はハンバーグにしようかな。」

僕は取り敢えず前向きに考えて、定時に会社を出て君の好きな和風ハンバーグの材料を買おうと心に決めた。大根おろしたっぷりに刻んだシソを乗っけたのが、君の好み。

そして僕が今口ずさんでいるのは、ス・ワンダフル。あのラプソディを作ったガーシュインの描く恥ずかしいくらいハートが飛び交うようなジャズ・スタンダード・ナンバー。


ーーーーー…

僕は久々に日本の蒸し暑く湿気に咽ぶ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

シックなスーツに落ち着いた色の革靴。こんな僕は何処からどう見たって社会人だ。

三年間。今思えば一瞬の出来事のようだ。シンジ君の居ない季節に想い出は、ない。携帯に入っている永久保存のシンジ君の写真が百枚ほどと三年分のメールやテレビ電話の履歴。これが僕の三年間の想い出の全て。僕は面白いくらいにシンジ君以外に興味が無かった。それを自分に証明しただけでも、有意義な時間ではあった。

「…はい。日本に着きました。後一時間程でそちらに到着します。」

そう。僕は本当に社会人なのだ。

アメリカは面白い国だった。交渉で飛び級が出来る国。僕は年上のシンジ君に追いつく為に既に大学でやるひと通りの範囲の勉強を終えてから渡米したから、上手い具合に飛び級が出来たのだ。ドイツ語と英語と日本語を話せた僕は、在学中にフランス語や中国語もマスターして、十九手前で卒業してからはスイスイと一流の大手企業に入社した。僕は成人になるまでに会社での余り有る実績を積んでから、計画通り、東京支部への移動を願い出て、申し分ないポストを勝ち取る。外資系が実力主義社会で本当に良かった。そして、運命のように奇跡的なこの日取り。まさに、完璧だ。

「…シンジ君……」

ー僕は頑張ったんだ。ご褒美には、君が欲しい。

僕は数時間後に再会する彼を想って、頬を火照らせてしまう。

「…早く、君に会いたい。」

僕のスーツのポケットには、出会った日に君のくれた真っ白なハンカチがひっそりと入っていた。



その日の夕方の空は赤と青とが手を取り合うように多彩に混ざり合っていた。そして僕は忘れるはずもない住所へと向かい、慎ましやかなマンションの前に立つ。懐かしさがこの空のように様々な想い出を連れて僕の胸を染め上げる。僕がまだ幼かった頃、この建物はもう少し大きく見えた。片手には赤い薔薇の花束に、もう片手には鞄と合鍵。中学生の僕が彼の帰りを待ちながら冬の雨に濡れて風邪を引いたその翌日に君が渡してくれた、銀色に、プルシアンブルーのリボンが付いたその、愛らしい鍵。


僕はサプライズで二度目のプロポーズを用意していた。七歳の頃、小遣いを貯めて買ったあの花束よりもずっと大きくて立派なこの熱愛の象徴。彼の背後にひっそりと忍び寄って、驚いたところで視野一面を情熱の赤で覆い尽くそうと云う計画。

だから僕は音を立てないようにゆっくりと鍵を回して、シンジ君の部屋に侵入した。


この悪戯が、僕らに悲劇を運んでくるなんて、この時の僕は知るはずもなかった。



「……おっちょこちょいだなあ、もう…あはは。」

僕はその愛おしい声に心臓をぎゅっと締め上げられる。誰か居るのか?

「……あ、そうそう、うん。ありがとう……ええ?」

シンジ君は電話をしているようだった。楽しげな会話の声にずきっと胸が痛む。

「…うん。その時はね。アスカが僕を貰ってくれるんでしょ?あはは。」

聞いた名前に心臓が冷水に浸かる。何の話をしているんだ?

「…はいはい。わかったよ。うん……好きだよ。当たり前だろ。」

僕はその言葉に頭が真っ白になって思わず花束を落としてしまった。その音に振り返る、君。

シンジ君はキッチンに居た。料理の最中に携帯電話で、あの親友と話をしていたらしい。

「……カヲル君…!!…アスカ、来たよ。またね。」

シンジ君はとびきりの笑顔で携帯を放り投げて僕の方に駆け寄ってきた。携帯の落ちた先にはマンダリンオレンジの女物のスカーフが、ある。

「カヲル君、おかえり!」

「…た、だいま。」

僕の頭は混乱して、上手く笑顔が作れない。どういう事だ?

「……どうしたの?」

シンジ君は僕に抱きつく手前でピタリと静止した。笑顔が一瞬にして神経質な瞬きをした緊張の表情へと変わる。それは更に僕を焦燥させるのだった。

「…今の電話は?」

「…え?…アスカ。」

「…あの、スカーフは、誰の?」

「……アスカの。」

僕は驚きの余りに息が止まった。

「………浮気、したの?」

「はあ!?何言ってるの!?そんなわけないだろ!」

エプロン姿のシンジ君は色っぽくて写真で見るよりずっと素敵だった。それは僕の心臓を更に深くナイフで抉った。すぐにでも触れて確かめたい。けれど、僕の身体は凍って足が動かない。予想もしなかった疑念がどろどろとどす黒く頭の中を渦巻いている。

「…でも、そうなんだろう?電話口で愛を囁くなんて、迂闊だったね…恋人の不在中に近場の異性と、なんて、大人の世界ではよくある話か。」

「…君こそ!連絡をしなくなって!…他に好きな人が出来たんじゃないの!?」

僕は心外なその台詞に頭が鈍く痛み出す。僕は一途だったんだ。君と違って、遠く離れていても心の中には君しか居なかった。

「……認めたね。浮気したって。」

「認めてないよ!君こそちゃんと答えてよ!」

僕は両手をポケットに入れる。僕の足元では赤い薔薇が哀しいくらいに花弁を散らして横たわっていた。

「……ほら、カヲル君だって。誕生日にそんな花束をくれるような恋人が出来たんだ。」

「…浮気を隠して僕に疑いを吹っかけて別れようなんて、君はズルい大人の見本だ。」

「カヲル君!答えてよ!ちゃんと答えて!!」

「おめでとう、シンジ君。」

シンジ君は目を見開いて固まった。その表情は僕を見て絶望しているようだった。それを見て僕の指先まで痺れるように冷たくなる。そんな表情…演技なんだろうか?

「……そっか。それが、君の、気持ちか…はは。」

「僕もそう言えるくらいには大人になったんだよ。もう立派な成人さ。君は子供の方が好きだったのかな?」

僕の口は心とは裏腹な言葉ばかりを言い放つ。愛を確かめたいのに君を怒り任せに貶したり、泣いて愛を請いたいのに君に不気味に微笑みかける。このちぐはぐで複雑な現象。これが大人になると云う事なのだろうか。

「……はは。アスカの言った通りだ。君はーー」

シンジ君は言葉の途中で口を噤んだ。みるみる深海の瞳からは涙が垂れて、唇を歪めている。恥ずかしそうにその顔を腕で隠した。

「ほら、これで涙を拭いてごらんよ。」

僕の掌には真っ白なハンカチ。僕は震える指先に気づかれないように君の手にそれをぐっと押し付ける。

「君に返すよ。僕にはもう要らないから。」

この言葉はプロポーズの為の言葉だった。僕はそのハンカチを君に返してそう言って、次にこう告げるはずだったのだ。

『僕は自立出来たんだ。今度はこのハンカチで君が僕の涙を拭ってくれたように、君の側で、君を支えていきたい。約束の時が来た。今度こそ、僕と結婚しよう。碇シンジ君。』

今ではまるで真逆の意味のように、その台詞は小さな部屋に浮かんでは、儚く消えた。

運命の歯車が狂ってゆく。僕達は真っ暗闇の深海で互いに哀しい迷い子になってしまった。光も閉ざされた深海では、ラヴソングが響かないと、君を、探せない。


ーーーーー…

懐かしい真っ白なハンカチ。それは僕が七歳の君の涙を拭ったもの。

カヲル君はずっとそれを持っていてくれたんだ。綺麗な状態でピンと端を揃えた純白の布切れ。

それを今、君は僕に返した。もう要らないからって。

僕は古いおもちゃになった気分だった。新しいものの方が魅力的で良かったんだ。恋愛はタイミングだって云う。僕らはそのタイミングを逃してしまったんだ。いや、違う。カヲル君は新しい世界でたくさんの物に触れてちゃんと実感したんだ。僕なんかよりも若くて綺麗で素敵な人はたくさん居るって。その中でカヲル君は彼にお似合いの人を見つけたんだ。見つけてしまったんだ。

カヲル君はとても見違えた。僕の知る誰よりも立派で格好良かった。惚れ直すくらいに、凄く素敵になっていたんだ。僕と違って上品なスーツを完璧に着こなして、ネクタイだって完璧なチョイスで、こんな人とすれ違ったら誰だって振り返って見惚れてしまう。紅い瞳は生き生きと輝いて、銀髪はより洗練されて整えられて、骨格は彫刻みたいに美しいフォルムで、肩幅は頼もしくて、すらっと伸びた足も長くてしなやかで、醸し出す雰囲気は堂々と超然としていて、それでいて繊細な夢みたいで…僕は仮初めでも愛されていた事を幸せだったと思うべきなんだ。

「…ありが、とう。」

「大人になった僕を見て、後悔しただろう?僕だってモテなかったわけじゃないんだ。」

「…うん。凄く格好良い。」

「……」

「僕には勿体無いね、カヲル君は。こんなに立派で素敵なんだから。」

僕が目にハンカチを当てて俯きながらそう言うと、急に視界が暗くなった。見上げるとカヲル君は目の前に居るから、僕は驚いて一歩後ろに下がると腰骨にダイニングテーブルが当たった。

「…惚れ直したかい?」

「…うん。」

「…なら……僕に三年分のご褒美をおくれ。頑張った、僕に。」

「何をーー」

僕が言葉を紡ぐ前にカヲル君は僕に覆い被さって来た。僕が慌てて身を捩っても、もう随分と引き離された体格の差で簡単に抱きすくめられてしまう。カヲル君は僕の両手首を痛いくらいに握り締めて僕の頭の上に持ち上げる。そのまま片手で僕の両手の自由を奪ってもう片手で腰を抱いて、僕の身体をダイニングテーブルの上に組み敷いた。

「あ!か、カヲル君、何してるの?」

「ご褒美が欲しい。」

「待って、意味がわからないーーんんっ!」

カヲル君はいきなり力任せに強引なキスをしたから、僕の頭は真っ白になる。僕はカヲル君の支離滅裂な言動に大いに混乱してしまっていた。

「…んっ!」

彼は次の瞬間に僕の口を舌で犯しながら、片手で僕のズボンのファスナーを一気に下ろした。だから僕は驚いて口を閉じたら思いきり彼の舌を噛んでしまったのだ。口内に血の味が広がる。カヲル君は僕から唇を離した。

「…痛いじゃないか。」

「カヲル君が変な事をするからだよ!」

「ご褒美もくれないのかい!?」

「ご褒美ってなんだよ!セックス!?」

「口実だよ!!あいつから君を奪う為の!」

「……え?」

カヲル君は僕を組み敷いたままそう叫ぶから、僕はもう何もかもわからなくなった。痛烈な叫び声にキンと耳が痛み出す。

「僕はそんなに大人にはなれない!君の幸せを祝福して身を引くなんて出来る筈ないじゃないか!」

「ちょっと待って、何言ってるの?」

「君を誰かに攫われるくらいなら奪ってやる!」

「落ち着いて。一旦深呼吸しようよ。さっきから何の話をしーー」

「五月蝿い!僕を子供扱いしないでくれ!僕はもう大人だ!!」

カヲル君は僕の話もわからないくらいに激昂して、そのまままた僕に襲いかかった。僕はこんなカヲル君を初めて見た。血走った紅い瞳とは違って僕へのキスは愛おしさに愛を請うような繊細さで、僕はとろけそうで思わず鼻から喘ぎの溜め息を漏らす。するとカヲル君は汗ばんだ手で僕を脱がし始めるのだ。その手は焦って震えていて、擦り寄せた下半身は固く張り詰めていて、こめかみからは玉の汗が噴き出していた。だから僕にはこれだけはわかったのだ。

ーカヲル君が僕に興奮してる!僕の事がまだ、好きなのかもしれない!

「ん、カヲル君…待って…」

「……待たない。」

「お願い、待って、あ!」

「…嫌だ。三年も待った。」

「ん、ちょっと、話、んっ!…聞いて…」

「……どうしてなんだい?」

「はあ…何、が?」

「…どうして…僕は一途にずっと君を愛しているのに、どうして…」

僕はそれを聞いて、確信する。これはまさにロミオとジュリエットなんだ。僕らはお互いに相当な勘違いをしてしまっている。毒薬じゃない分、僕らは息をしているけれど。

「…ねえ…はあ、ん…まず聞いて…あ!ん…お願い。」

「はあ、…知らない。君は僕を、裏切ったんだ…」

僕は下半身の身包みを全て剥がされて、ついに膝裏に手を添えられたから、思わず渾身の力で絶叫した。

「僕らはロミオとジュリエットなんだ!!」

「…そうだね、そうだったのに…」

「ふたりは死ぬ前どうだった!?」

「…哀しい勘違いをした。」

「君は浮気した!?」

「まさか。するはずないだろう。」

「僕も!浮気してない!!」

「……え!?」


ーーーーー…

「……ごめん。僕は、酷い勘違いをして…」

「ロミオがレイプ犯だなんてジュリエットはがっかりしたよ。」

「そう言わないで、一途だったんだ…情熱が空回りした…」

「あはは。怒ってないよ。気にしないで、カヲル君。」

あれから僕はシンジ君に説明してもらった。昼に彼女に会ったらスカーフを忘れられてしまった事、電話での会話中に好きだと言ったのは僕に宛てての言葉だった事。

けれど僕は組み敷いたシンジ君から大まかな説明を受けても彼を手放せなかった。僕の最近の多忙さでの禁欲が祟り、既に張り詰めて反り上がったものを鎮める事が出来ない。三年も想いを寄せるのに触れられなかった相手が目の前で生身で下半身を露わにしているんだ。そんなのは餓死寸前で一番のご馳走がゆらゆらと目の前に登場したようなものだ。我慢なんて出来るだろうか。しかも僕の最愛のシンジ君はエプロンをしたまま下だけ僕に脱がされたんだ。そんなそそる情景、一途な僕には刺激が強すぎた。

けれどフリーズした僕の前で天使が優しく微笑むのだ。慈愛に満ちた深海の神秘の瞳。

『……いいよ。』

『シンジ君…』

『またハンバーグが後でになっちゃうけどね。』

『…後で一緒に作ろうか。』

『その前にもうひとつの方も、ちゃんとしてよ。』

『もうひとつの方?』

『花束。誰にも貰ってないんでしょ?』

『……サプライズだったのに。』

『あはは。もうサプライズは充分だよ。』

『君にはいつまで経っても敵わないよ。』

『誕生日おめでとう、カヲル君。プレゼント、欲しいんでしょ?』

そしてシンジ君は我慢が効かない僕の首に腕を回してくれたから、僕は湯気が出るくらいに耳まで顔を火照らせてしまったのだ。そしていただく。人生で最高の誕生日プレゼントを。


「…僕の方こそ悪かったんだ。ごめんね。」

「君が謝るのはおかしいだろう?僕はもう大人だ。君が何でも責任を取る必要は無いんだよ。」

「そうじゃないよ。君を信じきれなかったからだよ。」

「…仕方ないよ。僕らは物理的にも時間的にも遠く離れていたんだから。」

「でも、君に怖くて何も聞けなかった。大人になると傷ついてばかりで、心が弱くなっちゃうのかな。」

「僕だって小さい頃に君に駄々を捏ねていただろう?君と一緒に居たいって。」

「状況が違うよ。僕はもう随分大人なんだから。察するべきだったんだ。カヲル君は忙しいって。」

「ふふ。僕達は再会してから喧嘩して謝り合って、散々じゃないか。」

「ほんとだよ。絶妙に最悪なタイミングで帰ってくるんだから。もう一度やり直したい。」

「よし、再会をやり直そう。」

僕は良い事を思いついて飛び起きると濡れた身体をそのままにスーツを着始めたから、シンジ君はびっくりして上体を起こした。

「カヲル君!スーツ汚れちゃうよ!」

「構わないよ。僕は五分後にチャイムを鳴らすから、支度をしていて。」

そう言うと僕は玄関から外へと飛び出した。右手には情熱の赤い薔薇の花束が揺れている。


ーーーーー…

カヲル君は事後の気怠さも抜け切ったみたいに軽やかに部屋の外へと消えてしまった。だから僕は言われた通りに服を着て出迎える支度をするのだけれど、久々なのにカヲル君が思いきり突くもんだから、腰が鈍く、痛い。

ーもう。人の気も知らないで。やんちゃなんだから。

僕がベルトまで締め終わった頃に、チャイムが鳴る。

「はい!今、行きます!」

芝居じみた自分の台詞に思わず笑いが漏れてしまう。

カチャリと玄関を開けると、そこにはやっぱり絶世のハンサムが仰々しい大きな赤い薔薇の花束を持って立っていた。やっぱり、なんて思う人は、この世に僕だけだろう。

「カヲル君。おかえり。」

「…君、こんな大きな花束を見ても、驚かないのかい?」

「…わあ!凄い!カヲル君!どうしたの!?」

「…演技が酷いね。」

「うるさいよ。」

「まあ、いっか……シンジ君。」

「はい。」

「僕は七歳の頃、一冊の哀しい戯曲を落としたね。」

「うん。ロミオとジュリエットだった。」

「それはやっぱり運命だったんだ。」

「どうして?」

「僕が落とした本がニーチェのツァラトゥストラはかく語りきだったのなら、君は興味を示さなかった筈だ。」

「失礼だなあ。」

「そうだろう?」

「うん。よく知らないもの。何それ。」

「僕が落とした本がシェイクスピアのオセロだったのなら、僕はさっき、君に捨てられていたかもしれない。」

「…カヲル君は刑務所行きかも。」

「……まあ、そうかもね。」

「ふふ。冗談だよ。」

「だからね、シンジ君。僕らは偶然が重なり過ぎている。だからこれは、運命なんだ。君は僕の運命の人だ。」

「うん。君も僕の運命の人だよ。」

「だから……」

カヲル君は片膝を付いて跪いて、僕を見上げた。必死で微笑んでいるけれど、目尻や口角が緊張で強張って、汗が顎に垂れていて、紅い瞳は薄っすら涙を溜めている。おかげで僕も心音が駆け出すみたいに緊張してきた。

「……僕らでロミオとジュリエットのハッピーエンドを描こう。約束の時が来たんだ。結婚しよう。碇シンジ君。」

「…はい。渚カヲル君。」

大きな花束を受け取ると、僕の視界は赤い薔薇でいっぱいになる。その中で一番綺麗な赤色、君の瞳が僕を見つめる。

「ありがとう。君が大人になるまで長かったよ。」

「待たせてしまってごめん。」

「僕の父さん、手強いよ?」

「覚悟しているよ。」


けれどそれから数日後に僕は嘘のようなサプライズに見舞われる。僕の結婚の意志を聞いて、感極まって泣く父さんと、その父さんのお気に入りになるカヲル君なんて、誰が想像しただろう。父さんは純愛ラヴロマンスに弱いなんて、母さんですら知らなかったのだ。



「ねえ、シンジ君。」

「なあに?カヲル君。」

「君はクジラがラヴソングを唄うのを知っているかい?」

「へえ、知らなかった。クジラってロマンチストなんだね。」

「そう。だから君の目をみると、クジラを思い出すんだよ。」

「なんだか突飛だなあ。」

「君の瞳は深海のように深くて神秘的で、慈愛に満ちているからね。」

「それならさ……」

僕はカヲル君を見つめてこう告げたのだ。

「……僕達がいつかクジラに生まれ変わったら、ラプソディを唄ってよ。そしたらどんなに暗い深海でだって、カヲル君を見つけてあげるから。」

僕がそう言い終えると、カヲル君はとても綺麗に笑ったんだ。眩しいくらいに。


だから僕は想像した。

地球の何処か遠くの海で、クジラが水面から顔を出す。
その時クジラの瞳と太陽がかち合って、眩暈がするくらいに眩しいんだ。
だからクジラはまた海の深くへと潜る。
そして微かに愛のメロディを聞いた気がしてその瞳を閉じるんだ。

それがラプソディだったなら。

僕達はまた運命の再会をする。
そしたら深海魚の潜む暗闇で、ふたりで内緒のキスをしよう。


「そしたらやっぱりキスだって、しょっぱいのかな。」

「…どうしたんだい?」

「なんでもない。行こう。」

僕達は手を繋いで夕暮れの街を歩く。そのふたりの薬指には、細いプラチナがキラリと夕陽を反射して煌めくのだった。

「…今日はお祝いだから、和風ハンバーグだね。」

「結婚一周年だからね。」

「大好きだよ。シンジ君。愛してる。」

「僕も大好きだよ。カヲル君。愛してる。けど、これ毎日言ってて飽きない?」

「全く飽きないよ。君は?」

「ちっとも飽きない。えへへ。」


茜色の夕陽をバックに重なるふたりのシルエット。
現代のロミオとジュリエットがハッピーエンドだとしてもいいじゃないか。

本気の恋をしたのだから。



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