第四章   新世界のクジラたちは空を跳ぶ



玄関の呼び出し音を聞いて、僕は何も考えずにドアを開けた。

「……あんた、誰?」

「…訪問先を間違えてませんか?」

「…アスカ!!」

赤毛の不躾な女の後ろでシンジ君はそう叫ぶと買い物袋をぱさりと地面に落としてしまった。


シンジ君と僕はあれから本当の恋人になったようだった。シンジ君はその事について何も言わない。だから僕も敢えて聞こうとはしなかった。言葉にしたらこの関係が壊れてしまうような気がして僕は怖かった。ただ僕は、ふたりの精液の飛沫と涙で濡れた真っ赤な頬を腕で拭いながら、その下でとても幸せそうにはにかんだ君の笑顔を信じたのだ。とろんと熱に煌めいた深海の瞳は確かに僕を愛していると告げていた。それだけで、僕には充分だった。僕はシンジ君以外に何も要らない。

それから僕らは何かが決壊したかのように幾度となく情事を重ねた。泊まる日の晩は勿論の事、陽の高い時間の束の間でさえ暇を惜しんで僕らは互いに触れ合った。シンジ君はカモフラージュのつもりだろうか、必ずラジカセでジャズを流していた。チェット・ベイカーやキース・ジャレットなんかの物哀しくて繊細なタッチの曲を好んでいた。

先週の土曜の夜だった。僕はシンジ君の細い腿を隙間無く抱き寄せて、その間に自分の熱を挟んでピストン運動をしていた。僕のそれとシンジ君のそれは互いに擦り合わされて先端から蜜を垂らし、やがて僕らはふたりで手を重ねてふたつの濡れて張り詰めたそれらを握り扱き、達したのだった。その激しく卑猥な水音はビル・エヴァンスのデビイに捧げたワルツでは隠しきれていなかった。

「…ねえ、シンジ君、今度はーー」

真夜中の事後によれたシーツの上。僕はふたりきりの部屋でこっそりと君の耳殻に手を添えて囁いてみる。そうしたら君は期待と不安の入り混じった瞳で僕を見つめながら小さく頷くのだった。その深海では潮流が激しくぶつかり合っている。さっきまで感じるままに入り乱れていたと言うのに、君は急に照れて忙しない瞬きを連れて悩ましげに目を逸らすのだった。

ーー君に入れて、ひとつに、なりたい。

今まで僕らはそうした交わりはして来なかった。僕はずっと前からそうしたくて堪らなかったけれど、慎重に事を運んだのだ。その日のシンジ君は何処か解放されていた。だから僕は思いきって君と次の段階へ進みたいと誘う事を選んだのだ。君はそれに了承をした。君の指先は僕のそれに絡まってきゅっと力を込める。だから僕は君の唇にちゅっと感謝のキスを落とした。

そして、今日は次の土曜日。僕が泊まれる愛しい休日。君はさっき、夕飯の為の早めの買い出しに行った。一緒について行こうとしたら、内緒で買いたいものがあるらしくやんわりと断られた。それはつまり、特別な何か。今日は記念日ではない。その意味を考えるとーー。僕は歓びと興奮で頬が緩みっぱなしだった。

この女が現れるまでは。


「…はあん。これが噂の美少年ね。あんたが囲ってるって評判の。」

「…何の話?」

「ヒカリがよく見かけるって言うのよ。あんたが白い天使みたいな美少年と歩いてるって。てっきり犯罪でもしてんじゃないかって寄ってみたら、デカいガキじゃない。」

「…シンジ君、こいつは誰?」

「はあ?こいつって何よ!ガキが生意気言うな。」

「君の方が失礼だろう?いきなり何様だよ。」

「か、カヲル君。こっちは高校の頃の親友の、アスカ。」

「まるで過去のように言ってくれるじゃない。こいつは?」

「…カヲル君。と、友達、の。」

僕は友達。そして、彼女は親友。その表現じゃ僕が格下みたいじゃないか。シンジ君は友達とセックスするのかな、なんて意地悪を言いたくなったけれどどうにか苛立つ心を諌める。

「へえ。シンちゃんはお友達に手料理振る舞っちゃうんだぁ。知らなかったぁ。」

「気持ち悪い言い方するなよ。シンちゃんって何だよ。」

「あんた、私の有難いお誘いを断っといてイイ根性してるわね。上がって、もナシなの?」

「…ドウゾ。アガッテクダサイ。」

「嫌そうに言うんじゃないわよ!私、アイスティ、ストレートだから。」

その謙遜の欠片もないアスカと云う女はそのままずかずかと僕らの部屋に上がり込んだ。


「…で、このガキとはどういうお関係?」

僕らはダイニングテーブルで三角の点を作るように向かい合って座った。僕とシンジ君は作り置きのアイスコーヒーを決まったグラスに注いでいた。

「だから友達だって!」

「へえ。お揃いのペアグラスなんかに注いじゃって。」

いつも通りそれに注いでしまった事に今更気がついたのか、シンジ君は真っ赤になってグラスを両手で隠すように握り締めた。

「あんたが高校の時くらいに出会ったんじゃない?」

その図星の洞察に僕の眉はピクリと上がる。

「…やっぱりね。あんたが付き合い悪くなった時期と完全に一致だわ。こいつを選んだわけ。」

赤毛のその女は明るくて厭に鋭い青い瞳で、僕の頭から足先までまじまじと値踏みするように眺めた。

「…あんた、ゲイなの?」

「もう!そんな事ばっかり言うなら帰ってよ!迷惑だよ!」

「ムキになってる所を見ると…はあ。あたしゃ色々ついてないわ。」

その女は何故か傷付いたみたいに顔を横に向けて足を組み、テーブルの上で気怠そうに頬杖をついた。アイスティのストローを回しながらカラカラと氷のぶつかる音を鳴らしている。

「…あんた、大学生?」

「君には関係ない。」

「高坊?」

「……」

「こいつ高校生じゃない!いたいけなガキに何やってんのよ!合意じゃなかったら淫行条例違反だってあり得るのよ!?」

「合意だよ、五月蝿いな。君には関係ないだろう?」

「カヲル君…!!」

シンジ君は絶望だとでも言いたげにそう叫んで、震えながら涙を溜めた。

「…呆れた。変態バカシンジ。」

彼女はこれ見よがしに大きな溜め息を吐いたから、シンジ君は肩を萎縮して唇を噛んでしまう。

「あんたね、やめなさいよ。私達もう子供じゃないのよ。しっかりなさいよ。人生取り返しつかなくなるわよ。」

「君はさっきから何を言っているんだい?恋愛は自由だろう?」

「ガキは黙りなさいよ!何もわかってない!」

僕は物凄い気迫で睨みつけられた。一方彼女がシンジ君を見る瞳は同情深い。僕は何となく彼女のシンジ君への気持ちを理解した。

「…あんたねぇ、おばさまから聞いたわよ。良い条件の転勤も断って出世も諦め気味なんだって?結婚もしない気なんじゃないかっておばさまから連絡来たから見に来てみたら、このザマよ。またおじさまと喧嘩したんでしょ。これじゃおじさまだって一理あるわよ。」

「アスカはその場に居なかっただろう!わからないのに知った口聞かないでよ!」

「あんたこれからどうするつもり?愛だけじゃ生きられないのよ。もう子供じゃないならわかるでしょ?鈴原も相田も結婚したでしょうが。やりたい事でもあんの?」

「もうアスカは…僕を責めないでよ…」

シンジ君は頭を抱えて俯いた。髪の合間から強張った指が覗く。

「…責めてないわよ。ただ、あんたが皆に何も言わないから周りが心配してるって言ってるの。」

彼女は神経質に目尻を痙攣させていた。泣きたいみたいだった。

「…こいつとの事が本気なら、おじさまやおばさまにもそう伝えなさいよ。仕事が全てじゃないって私だって知ってる。ちゃんと筋道立てれば、おばさまならきっと納得してくれるわ。おじさまは時間掛かるだろうけど。」

シンジ君は泣きながら小さく頷いていた。その小さな背中を摩ってあげたいのに、手が届かない。

「あんたもね…」

彼女は初めて僕を真剣な眼差しで射抜くように見据えた。

「未成年もやがて成人になるの。成人には責任が伴うわ。シンジと幸せになりたいなら、ちゃんと互いでふたり分の人生の責任が取れるような方法を見つけなさい。」

彼女は有無を言わせぬ真摯な台詞を響かせて、アイスティを一気に飲み干すと立ち上がった。そのまま玄関へと向かって、帰り際に一言、ごちそうさま、とだけ呟いた。

僕はドアが閉まる音を聞いてから、ハッとする。彼女に何も言えなかった。僕は彼女の云う通り、今に夢中でこれからの事を考えていなかった。シンジ君が居ればいいとだけ考えて、シンジ君の幸せについては考えていなかった。

シンジ君は机に伏してずっと泣いていた。シンジ君が僕との生活を守る為に両親や会社と複雑なやり取りをしていた事を僕は知らなかった。僕の存在を秘密にする代わりに君は様々な誤解を受けたのだろうか。君は苦しんでいたのだろうか。

僕は自分の愚かさが悔しくて、口が聞けなかった。側に寄り添って無言のまま、シンジ君の手を握る。僕らの間の買い物袋には、卵、牛乳、玉ねぎ、大根、大葉、合挽き肉、…僕がいつかとても美味しいと言った君の和風のハンバーグの材料が無造作に倒れていた。僕の胸はそれを見つけて息が出来ない程締め上げられてしまうのだった。


ーーーーー…

「…ごめん…僕、出来ない……」

僕はベッドの上で身体を丸めて、カヲル君に背を向ける。午後十一時の闇の中。鈍く月明かりに光るラジカセは電池切れだった。

その日は、カヲル君はずっと落ち込む僕の側に居てくれた。何も言わずにただ、僕の肩を抱いたり、腕を摩ってくれた。僕はその間じくじく痛む頭で未来を考えて、呆然としてしまうのだった。

時間は残酷だ。僕はあと数年で三十になる。僕にはそんな心の準備なんて出来ていないのに、時は容赦なく僕の背中を押してゆく。もしも願いが叶うなら、あの日、道端の本を拾う僕は七歳でありたい。せめてカヲル君と同い年だったら、僕はこんなに苦しまなくて済んだんだ。カヲル君の好意にただ喜びだけを感じていられたんだ。

僕はカヲル君の全てを受け入れるつもりでいた。僕らは心も身体も繋がり合うんだって。だから僕は浮き足立った気持ちで用意しようとしていたんだ。君が好きだと言ってくれた手作りの和風ハンバーグを。けれど今、その幸福が仮初めだったんじゃないかと思ってしまっている。僕らは幸せだと、つい数時間前までは思っていたのに。

「…無理する事ないよ。次があるさ。」

「どうだろう…」

「どういう意味だい?」

「わからない…」

覇気の無い応答しか出来ない僕は、そう。カヲル君との未来を想像出来ない。カヲル君が大学に行くとして、彼が社会人になる頃には僕は三十三だ。それまでずっと僕は学生と付き合っている社会人。しかも同性と。もうそれは、しょうがない。マイノリティだって今は少しずつ社会に認知されてきている。けれど、僕はそんなにこの関係を続けられるだろうか。

僕は彼を待てるだろうか。彼の事を両親にちゃんと紹介出来るようになるまで。父さんや母さんはそんな僕をどう思うのかな。社会人同士になったら、成人同士になったら、何か変わるのだろうか。世間の目は、僕達を温かい目で受け入れてくれるのだろうか。そんな希望的観測は、難しい。

けれど、近しい人達には認めてほしい。それすら叶わなかったら、僕はどうなってしまうのだろう。カヲル君とふたりきりで、家族を、友人を、僕は捨てられるのだろうか。それは僕にとっての幸せなのだろうか。

「わからないじゃ、僕もわからないよ。」

「……カヲル君は、どうしてカヲル君なの?」

「それはジュリエットの台詞だね。」

「なら僕らには悲しい結末が待ってるんだ。」

僕の目は物憂げに優しくない世界を睨む。そこはかとない、絶望。虚無と深淵の狭間で、僕の首を刈ろうとする死神の気配。

ー僕はただ、人を好きになっただけだ。悪いかよ。

僕の人生。逃避行の恋、しがない仕事、生温い趣味。それだけ。僕は志を持って職を選んだわけじゃない。ただ、生きる為の選択だった。僕は就職活動中もカヲル君に夢中だった。その前もその後も。いつだって夢中だったから、自分の人生を適当にしていた。

いつの間にか、僕の人生はカヲル君を中心にしていたんだ。恋は盲目で、僕はその事に気づけなかった。

「ロミオとジュリエットの物語は悲しい結末かもしれない。けれど不幸だと、言えるかい?愛に生きたふたりを。」

「僕は幸せになりたいんだよ!」

僕はガバッと上体を起こしてカヲル君を見下ろした。そして理不尽な怒りをぶつける。

「やっぱりカヲル君は子供だな!何もわかってないんだ!情熱だけじゃ大人は生きられないんだよ!」

「別に情熱だけで生きようとはしていないよ。」

「じゃあ僕らには何があるんだよ!愛とか情熱とかそんなもの以外に何があるって言うのさ!」

「君は混乱しているよ、シンジ君。僕らには愛しかないかもしれない。けれど彼女が問題にしたのは、君自身の人生さ。君自身がどうしたいかと云う事だよ。それは僕にも言える事だけれどね。」

「もうわけわかんないよ!」

「…君はどうしたいんだい?」

「知らないよ!そんなこと!」

「君はどう生きたいんだい?」

「僕は!カヲル君と!ずっと一緒に暮らしたいだけだよ!悪いかよ!!」

僕はそう絶叫してから、まるで糸がプツリと切れたみたいに涙腺が崩壊して子供のように声を上げて、泣いた。まるで迷い子のように。途方に暮れた子供の背中みたいに小さく震えて天を仰いで、積年の想いを溢れさせていた。

僕はやっと、自分の気持ちがわかった。うだうだと僕が目を背けていた本当の、気持ち。


いいじゃないか。
同性だって。年下だって。十も離れていたって。
本気の恋に人生を捧げたって、いいじゃないか。
僕の人生、例えそれしか無くったって、僕は幸せなんだ。
僕らの幸せは、仮初めなんかじゃない。
仮初めなんかじゃない。


僕はそんな事をわんわん泣いて舌足らずのままに口走っていた。そしたら君は僕を思いきり横から抱き締めたのだった。

「シンジ君!ありがとう。嬉しいよ。」

君が手に手を重ねて涙で濡れた頬を優しくキスで拭うから僕は堪らずに泣きながら心を紡ぐ。

「…だって、好きなんだ……一緒に居たいんだ…」

「うん。」

「でも、皆に、認めてほしい……父さんにも…」

「そうだね。」

「……どうすればいいの?」

「大丈夫だよ。何も心配する事ない。きっと答えはあるはずさ。それを見つけるまで、一緒に考えよう。」

そして僕は返事をする代わりに君にキスを強請ったんだ。酷く甘えた仕草だった。それに答えてくれる君の唇。僕はその感触に心から安堵した。僕はやっと答えを出せたのだ。カヲル君といつまでも一緒に居たい。それはシンプルだけど、僕の大切な願い。僕の変わらない、願い。

そして僕らは深く深く唇を重ねながらシーツの波間へと潜り込む。水を掻くような僕の指先、息苦しそうな君の背中。酸欠した僕らの意識。

「…シンジ、君……」

「…うん、わかってる…」

「…でも、君は、さっき…」

「…ハンバーグは、明日にしたって、言っただけ…」

カヲル君は吐息混じりに笑った。耳まで真っ赤な、君。紅い瞳は燃え上がる焔のように、熱っぽい。そしてその焔の中からひと滴。僕の唇にポタリと着地する。舌でペロリと舐めてみると、しょっぱかった。海の水みたいな、君の味。

「…海の味が、する。」

「…君だって、海の色を、している。」

僕の瞼に君のキスが舞い降りて、僕は瞳を閉じた。そっか。僕達は深海にいたのか。水面に揺らめく月明かりも見えない闇の中だけど、ふたりで泳ぐのって、心地良い。


僕達はそれから結局自然と身体を繋げたのだった。僕は出来ないとか言っておきながら、身体を弄り合いながら何度も何度もカヲル君にキスを求めた。そして最後には僕は全てを理解したみたいに心が解き放たれて、嬉しくて止め処なくしょっぱい涙を零していたのだ。僕は、確かに、幸せだった。


僕は暫くして気づく。ラジカセは電池切れだった。つまり、僕はジャズでふたりの情事を誤魔化さなかった。僕らのセックスにはもうマイルス・デイヴィスもチック・コリアも要らない。それは僕にとっては革命だった。自由への夜明け。それは朝焼けの青だった。


ーーーーー…

僕に鮮烈な愛を告げ、振り返って唇を寄せる君のその仕草は、涙に濡れた頬や睫毛が月影に艶めかしく煌めいていて、とても儚く美しかった。

だからその時、僕はある決断をしたのだ。


「…留学?」

「そう。アメリカには飛び級制度があるから年齢に縛られずに学べるんだ。」

僕は前々から打診していたある計画を君に伝えた。僕は成人する時、世間が人を大人と認める時の価値基準を全て備えてしまっていたい。精神的自立と、経済的自立。その為には僕は早く就職するべきだ。ふたり分の人生を背負えるような報酬をもぎ取る処へと。聞くにシンジ君にとってお父さんに認められると云う事は自分の価値を高める重要な要素みたいだ。だから僕は僕に出来得る全ての力で挑戦する必要がある。若造に息子は渡せない、なんて言わせない為のありとあらゆる好条件を、勝ち取るんだ。

「…どれくらいなの?」

「三年くらいだよ。あっという間さ。」

三年…僕はそう自分にも言い聞かせながらその果てしなさに心臓が捩れる。けれどーー

「…僕、三十になっちゃうよ。」

「けれど、その時はいつも僕が隣に居るんだ。」

ーーもうシンジ君を不安にさせたくなかった。何年も何年も待たせて、彼の心を削ぐような真似はもう、したくない。

「…うん。」

「このまま日本に居たら、高校を出て社会人になっても、大学を出て社会人になっても、責任を取れるようになるまでに最低でも五年以上は掛かってしまう。それは嫌だろう?」

「そしたら僕、おじさんだ。はは。」

「そんな童顔でおじさんなんて、堪らないじゃないか。」

僕は汗で貼りついた君の前髪を優しく掻き上げる。丸い額は幼子のようで、それがさっきまで僕の腕の中で繋がる身体の快感に身を震わせていた君だと思うと、僕は変な感動を覚えてしまう。僕の頬は火照り出す。中の熱い感触は、いつまでも僕の身体を余韻で浸していた。

「何それ?褒めてるの?」

「口説いてるんだよ。」

「わかりづらいなあ、もう。」

「では、分かりやすくしようか。」

僕は君の手を強く握って、そのまま身体を捻って君に顔を寄せる。深海の瞳が揺れる。

「…三年だけ、僕を待っていてほしい。その間、他の誰のものにもならないでくれ。僕も君だけを想って、僕らの十年の距離を三年でゼロにする。そしたら僕らは、堂々とふたりで暮らそう。君は僕の七歳の時のプロポーズ、覚えているかい?」

「……君が、大人になったら、ね。」

「そう。僕は本気だよ。シンジ君。」

「ごめん、カヲル君。僕、そんな事言われたの、初めてだったから…」

僕らはふたりして吹き出した。けれど、これだけは君は笑わなかったのだ。

「君が好きだよ、碇シンジ君。愛している。」

「…僕も、好き。愛してる。渚カヲル君。君は僕の運命の人だ。」

シンジ君は頬を桃色にして彼らしい慎ましい微笑みを讃えてそう告げたのだった。


深海を上昇して、水面に跳ねるクジラの尾ひれ。無数の水飛沫が夜明け前を星屑に似たプリズムできらきらと照らす。水平線にじわりと滲む太陽に、夜明けの詩が聴こえた気がした。


ーーーーー…

「…忘れ物はない?」

「君以外は、全部持ったよ。想い出もね。」

別れって、その日がじわじわやって来るまで、死刑宣告を受けたみたいにひたすら心臓が凍って指先まで冷えて苦しいのに、目の前にいざ立たれてしまうと実感が無くてふわふわ浮いてしまうんだな。

そんな事を思ってしまう、空港のロビーの片隅。国際線のアナウンスが響き渡り、色とりどりの人々が忙しなく通路を行き交う。その別離や再会に華やぐ涙顔や笑顔が、大荷物を従えて僕らの前を横断する。巨大な窓ガラスからの容赦無い陽射しが僕の爪先を掠めている。

「…想い出なんて言葉、哀しいから言わないでよ。」

「君が居ないんだから、想い出を持っていかないと。またマスターベーションの生活に逆戻りだからね。」

「もう!こんな時に何言ってるのさ!」

「君がちょっとエッチな自撮り写真でもメールで送ってくれたら助かるんだけどね。」

「…バカ。」

僕の予想よりも早い旅立ち。手続きとか色々あって、もっと長引くのかと思っていた。あっちは九月から新年度だから、仕方ないか。

でも、僕らはあれからすぐにカヲル君が夏休みに入ったから、束の間の恋人としての同棲生活を満喫したのだ。僕が仕事の時間にカヲル君は自分の用事を済まして、僕の家事まで手伝ってくれて、ふたりで居られる間はずっと恋人としての甘い時間を過ごしたんだ。僕らは何度も身体を重ねて、未来の夢を語り合った。

『…カヲル君、子供ほしい?』

『養子か。素敵だね。君は?』

『僕、子供は意外と、好きなんだ。でも、日本じゃ珍しいからな。』

『なら海外に移住するかい?ドイツは結構多いんだよ。好奇の目では見られない。』

『ドイツ?もしかしてカヲル君の親戚が居るの?』

『ああ。遠い親戚は居るよ。交流が無いけれど。行ってみたいかい?』

『うん。ドイツでもアメリカでも何処でも行ってみたい。僕、海外に行った事ないから。』

『ならいつか生活が落ち着いたら、お金を貯めて旅行へ行こう。』

『楽しみだな…僕、三年間でたくさん貯めるよ。』

『また僕らの夢がひとつ増えたね。』

『うん。カヲル君と過ごしてるとどんどんやりたい事が増えてく。』


ーカヲル君と過ごしてるとどんどんやりたい事が増えてく…

僕は心の中で復唱して、胸を切なさで染め上げた。

「ねえ、浮気しないでよ。」

「…十年前から君にプロポーズしているのに、まだ信じてくれないのかい?」

「だってカヲル君、格好良いから。ブロンド美女なんて連れて帰って来ないでよ。」

「馬鹿は君の方だよ、シンジ君。」

カヲル君が隠れながら僕の指先にキスをする。僕は時計の針が残酷に残り時間を告げているから、恥ずかしがるのも忘れてしまう。残り時間、あと十五分。

「…ねえ、最後に君とキスしたい。」

「最後なんて言う奴とは、キスしてやんない。」

「拗ねないでおくれよ。時間が無いんだ。」

「……トイレ行く?」

僕らはトイレの個室で貪るようなキスをして、別れを惜しんだ。ふたり共、互いの感触をいつまでも憶えていられるようにと、必死のキス。これが最後、これが最後、なんて思いながら離れられなくて、残り時間、あと五分。同時にゆっくりとふたつの唇を離すと、透明な糸が引かれて、僕の涙と唾液でめちゃくちゃな顔を見て、カヲル君は切なそうに微笑むのだった。

「僕らが離れ離れの時の約束、覚えているかい?」

「…さあね。忘れちゃった。」

搭乗口付近でも、僕は寂しさから変に素直になれなかった。

「…昨日の君はあんなに何度もおねだりして自分からお尻をーー」

「毎日メールでしょ!覚えてるよ!」

僕が顔を真っ赤にしてそう言い放つとカヲル君は可笑しそうに声を出して笑った。

「テレビ電話もだよ。あ、もう時間だ。」

アナウンスが搭乗を催促している。もう、残り時間、ゼロ。

「…ねえ、カヲル君。」

僕は人目をはばからずに堪らずカヲル君を抱き締めて、耳元で囁いた。

「……エッチな写真、楽しみにしてて。」

僕は勢い余って何を言ってしまったのだろう。身体を離してカヲル君を見つめると、それはそれは湯気が出そうに紅潮して驚きに口をぱくぱくさせているから、今度は僕が笑う番だった。

カヲル君は暫く愛おしそうに頬を撫でて僕を見つめてから、もう二度と振り返らなかった。眉を下げて後ろ髪を引かれるようにゆっくりと前を向く君。そんな君を僕は見えなくなるまでいつまでも見送っていたのだった。



それから僕は一週間は生きるのだけで精一杯ってくらいに落ち込んでいた。けれど君へのメールにはそれは書かなかった。その代わりに、僕は自撮りもした事ないしまさかエッチな写真なんて撮った事ないから、カヲル君にリクエストを聞いて、それを実行してみたのだ。恥ずかしくて上手く笑えないヘンテコな写真。それを添付して送った後の、次の君の返信メールは物凄くエキサイトしていた。

僕はそれからじわじわとそんな生活に慣れていき、どうにか遠距離恋愛も悪くないな、なんて思えるようになっていた。そう納得する為に何度も離れ離れの恋人達がハッピーエンドになる映画や本を発掘して、努力したのだ。カヲル君のメールを夜な夜な読み返しては、ふたりの熱い想い出に浸る。そんな夜が続いて今度はメールにこう書いてみた。

『そんなに僕の写真が欲しいなら、まずは君のをちょうだいよ。』

そしたら次の日には卒倒するようなカヲル君のいやらしい自撮り写真が送られてきたから僕は変な叫び声を上げてパソコンを閉じたのだった。それから僕のパソコンには永久保存版のカヲル君フォルダがすぐに誕生して、ふと気づく。ヤバい、きっと僕のも永久保存されている…!

僕は昼間は真面目に働いた。カヲル君との夢を叶える為だと思うと頑張れた。頑張ったら成績が上がって、仕事も楽しくなってきた。それから僕は、ふと思い出す。随分前に僕とカヲル君が話していた事を。

『君のチェロと僕のピアノでいつかジャムセッションがしたいね。』

そして僕は月に何度かジャズ喫茶に通って、暫く経って顔見知りが増えてきたら、今度は勇気を出して知らない人とジャムってみた。そしたら凄く楽しくてハマったのだ。僕は情熱を注げる趣味を持てた。夢中になる程、段々とそういう関係の友達も増えていった。

その事をカヲル君にテレビ電話の最中に話すと、僕を褒めてくれたけれど酷く妬いてもいた。知らない誰かを羨んで、ちょっぴり意地悪な事も言ってきた。

『僕は君との未来の為に頑張ってるのに、君は僕の知らない奴と楽しく過ごしているなんてね。』

僕は真夜中にそれを回想して、ゆっくりと自分の肌を撫で上げる。

『なら、早く一人前になってよ。君が居なくて僕がどんなに寂しい気持ちか、知ってるの?』

カヲル君が僕を愛撫する姿を想像する。そしてこっそり携帯電話に忍ばせたお気に入りの彼の写真を眺める。ゴクリと喉を鳴らしてズボンの中に手を入れてみる。

ーカヲル君…まだ、なの…?

あと、二年五ヶ月…わかっている、けれど。

「…はあ、はあ……ん、くっ…!」

ー早く僕を抱いてよ、カヲル君…

「はああ…ん、…あ、ああ!」

僕は溜まった熱をびゅうびゅうと重ねたティッシュに吐き出して、それでも手に負えないでシーツを濡らした。シーツの濡れた跡に君の不在を思い知る。

ー急に寂しくされたから、まだ慣れないよ、カヲル君…

僕がそうして泣く夜もあるなんて、カヲル君は知っているのだろうか。けれど…

ーカヲル君もそうなのかも。きっとカヲル君の方が辛いんだ。誰も知り合いも居ない、行った事もない国で、ひとり寂しく勉強をしているんだから…

僕は次の日に勇気を出して特別にエッチな写真を添えて、メールで君に謝った。そうしたら君は不謹慎にも、得した、なんて言ってきた。



そうして季節はあっという間に過ぎてゆく。僕の三年間はこんな事の延長線だ。ただ、僕とカヲル君は少しずつすれ違っていった。忙しくなるふたりの生活を時差が邪魔して、僕らは二ヶ月に一度くらいしかテレビ電話が出来なくなっていた。メールも週に一度、簡素に近況報告をする、だけ。

ーねえ、カヲル君……

ー君は、他に、好きな人でも出来ちゃったの…?

僕は何度もその疑惑を口に出そうとした。けれど、恐怖とプライドがそれを邪魔して、僕は瞳を閉じる事しか出来なかった。


ひとりで泳ぐ、深海は、真っ暗闇だ。


両親に頭を下げて、三十まで何も言わないでくれと頼んだ。三十になったら、その日が来たら、全て説明する、と。

カレンダーを見ると、明日は九月十三日。カヲル君の二十歳の誕生日だった。

その時突然、パソコンが真夜中に鳴る。僕の心臓は飛び跳ねて、画面に食い入る。メールだ。

『ごめん。余りの忙しさに連絡が遅れた。これからアメリカを発つ。先に日本でやる事があるから、その後君の家に寄る。夕方になりそうだ。君も仕事だろうから、迎えはいいよ。』

僕は拍子抜けして、そのままベッドに転がった。

ー他に言う事ないの?

ー昔はあんなに情熱的だったのに…

ーもしかして、君はもう、僕のこと…

僕は薄い毛布に包まって早鐘を打つ心臓をどうにか諌めようとした。胸が痛い。頭の中がどろどろだ。何も考えたくない。苦しい。とても、苦しい。

期待と不安で、僕はおかしくなりそうだった。三十になっても、僕は昔と変わらずに、僕のままだった。

手を伸ばしてラジカセのボタンを押せば、いつかのラプソディ・イン・ブルー。滑稽なフレーズも情緒を醸すハーモニーも、別世界の物語みたいに感じた。


天井がゆらゆら揺れる水面に見える。僕は海の中で溺れてしまったのだろうか。



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