第三章   僕らの恋はフラットを重ねる



「ほら。言った通りだろう?」

「あ!本当だ!しかも結構もう差があるよ。」

十七歳と二十七歳の僕らは長細い大鏡の前に並んで立っていた。並べた肩はカヲル君の方が位置が上にある。ふわっとなびく銀髪も加味したら、随分と背を抜かされていた。

「気づかなかったのかい?シンジ君はちょっと間が抜けてるね。」

「いつの間に。カヲル君をもう子供扱い出来なくなっちゃう。」

「ふふ。今度は僕がシンジ君を見下ろす番だ。」

僕を優しく見下ろす紅い瞳。僕の黒は上目がちにそれを見つめては、すぐに耐えきれずに伏せてしまう。僕はとうに狂ってしまった。その赤に見つめられると心臓が破裂しそうなくらいには僕は彼に恋に堕ちてしまったのだ。

「シンジ君、顔が真っ赤だ。」

「え!?そ、そんなこと、ないよ。」

「もう認めてしまいなよ。僕の事が好きなんだろう?」

「また、その話?そんな事、ないってば。」

「往生際が悪いね。そのままでは辛いだけだよ。」

「…カヲル君こそ、しつこいよ。」

カヲル君の掌が僕の頬を撫で上げる。

「恋人になったら、もっと素敵な事も出来る。」

「もう!カヲル君はいやらしい事ばっか言って!」

白い指先が繊細なタッチで僕の首筋を擽り出したから、僕はそれをピシャリと払った。

「昔は運命の相手で、恋人で、フィアンセだったと云うのに。」

「僕は運命かもしれないって言ったんだ。子供の相手も大変なんだよ。」

「…ならもっと、困らせてあげようかな。僕は子供だからね。」

そう言った次の瞬間、意地悪くニヤリと笑ったカヲル君が僕に覆い被さるように抱き締めて来たから、僕は思わず変な声を出してしまった。

「ち、ちょっと!カヲル君…!」

僕が両手でピタリと重なる腰を押しやっても背中に回された丈夫な腕がぐっと抱き寄せるからピクリとも動かない。カヲル君の熱い吐息が耳に掛かってそこから沁みるようにじんわりと身体中の神経が粟立ってゆく。慌てて僕が身をもぞもぞ動かしてその腕の中から逃れようとすると、その腕はどんどんきつく締まっていってしまう。

「……ん、苦しい、よ…!」

「ねえ、僕の恋人になって、もっとイイ事をしようよ。」

「ダメだって…!」

「君はわからずやだね。」

そう言ってカヲル君の手が揉み上げるようにして僕の尻肉を摩ったから、僕は驚いて思わず小さく喘いでしまった。

「や、やだ…!」

僕が情けない怯えた声で叫ぶと、それを聞くなり飛び退くようにカヲル君は僕から離れて背を向けた。俯き加減の横顔が耳まで桜色だ。壁に手をついて悩ましげに眉を下げている。

「…ごめん。つい…僕の身体はそろそろ限界みたいだ。」

「何言ってるの…」

「毎日毎日君に触れる事ばかり考えているよ。気が変になりそうさ。」

「カヲル君は若いからね。仕方ないよ。」

「君を愛してるからだよ!若さのせいじゃない!」

「別にそんなつもりで言ったんじゃないよ!」

カヲル君は若さを気にしていた。若さは素晴らしくて有り難いものなのに。カヲル君は常に高校生らしくない大人びた服を好んで着ている。制服姿を見られたくないらしくて必ず着替えてからうちに来ていた。だからたまに僕も勘違いして歳の差も忘れて甘えてしまう時がある。そんな時はカヲル君はとても幸せそうに笑うんだ。僕はそんなカヲル君にときめいてしまう。哀しいくらいに。

けれど、僕はそんなふたりきりの時間を、世界から隠れてイケナイ事をしているみたいにも感じていた。大人はモラルや世間体を気にする。雁字搦めの心を消耗する現世で後ろ指を差されないように、晒された日照りの下をとぼとぼと革靴で歩いてゆく。そうしたいわけじゃないけれど、楽に生きる為の処世術なのだ。誰かが勝手に決めた常識の枠の中で息をしていれば面倒な事態にはならずに済む。

それは誰だって映画の中のように、そこから一歩踏み出して大きな幸せを手に入れたい。けれど、小さな幸せですらしっかりしがみつかないと飛んでいってしまいそうなのに、どうしてそんな事が出来るだろう。

僕は脆弱な臆病者だ。小さな幸せを失うくらいなら、大きな幸せには気づかない事にする。

「…ごめん。ただ、成長期とかホルモンの話をしただけなんだ。男は二十五くらいまで頭より身体が先になるとか自制が効かないとか、よく言う話じゃないか。」

「君とはそんな話はしたくない…」

「僕だって通った道だから、人生の先輩としてーー」

「好きな子とヤりたいなんて事、大人だって普通に考えるだろう!」

僕が絶句していると、カヲル君は辛そうに顔を掌で覆った。

「…ごめん。汚い言葉を使ってしまった。君の言う通り、僕は子供だ…」

「そんな事、言ってないよ。」

「僕にはそう云う風に聞こえる。」

それだけ言って、カヲル君は寝室へとドアを閉めて消えてしまった。


ー大人の僕からちゃんとカヲル君を切り離さなくちゃいけないんだ…

カヲル君を好きだと気づいてそう思ってからもう数年が経ってしまった。彼の言う通り僕は往生際が悪い。彼の好意に甘えてずるずると流されてこんなところまで来てしまった。この宙ぶらりんな関係はカヲル君を苦しめている。そんな事わかっているけれど、感情の板挟みで身動きが取れないんだ。カヲル君は僕が偶然道端で拾った宝物。僕は戯曲の主人公達みたいに愛に生きられる程の勇気がないんだ。

ーカヲル君の幸せを考えて身を引くべきなんだ…

ーでもいっその事、知らない街へと無理やり僕を攫ってくれたらいいのに…

両極端にそう考えてしまうくらいには、僕はズルい奴だった。


ーーーーー…

掌を握ってまた開く。その繰り返し。

実直すぎる幼い台詞を吐き捨て、消えてしまいたい衝動のままに毛布に包まる。これは、君のベッド。僕はつくづく呆れる程の大馬鹿だ。

ーせめて、抱きたい、くらいには言えただろう…

ヤりたい、なんて下衆な言葉は子供扱いをし続ける君への当てつけかもしれない。けれど、思い留まるべきだった。

シンジ君は歳を重ねる毎に艶めかしく洗練されていった。だから僕の身体はふとした彼の仕草でつい反応をしてしまう。その性急な反応で自らの未熟な一面を暴露したくないが為に、僕はそれをひた隠しにしていた。けれど僕はもっと先へ行きたいのだ。あの日のキスのその先へ。

だからそのふっくらとした唇が誘うように微笑みかける度に僕はまた、幾度となくあの日を繰り返そうとしたのだ。優しく彼を抱いて唇を寄せる。けれどその度にシンジ君は僕の腕の中からすり抜けてしまうのだった。


僕はシンジ君の部屋に通い詰める日々を重ねていた。その中で、たまに甘い時間がある。シンジ君は気紛れで僕が側に寄り添うのを許してくれる時があるのだ。ある時は、キッチンで。ある時は、脱衣所で。ある時は、シーツの上で。

僕はシンジ君に頼られる存在になりたい。心も身体も委ねようと思われるくらいに。もう僕の身体はシンジ君よりもひと回りは大きくなっていた。背丈も肩幅も筋肉量も、小柄なシンジ君を包み込めるくらいには成長していた。けれど、それでもシンジ君にはまだ駄目らしい。揺れる天秤は最後まで傾かずにふらふらと宙を舞う。僕はその最後の決め手の錘が何かをまだ知らない。それが堪らなく、もどかしい。

ー僕に後、何が足りないんだ…

ーどうすればシンジ君は僕に振り向いてくれるんだろう…


クジラは何を想って唄い始めたのだろうか。物事には始まりがある。初めの旋律はどのようにして生まれたのか。唄うことをどう覚えたのか。何に向かって唄ったのか。それは七つの海のどこまで響き渡ったのか。そしてそれは、誰に届いたのだろう。

そして、遠くから聞こえるクラリネットの軽やかなグリッサンド。


「……カヲル君?」

シンジ君は古臭いものにこだわる趣味がある。彼のお気に入りのウォークマンに似てフォルムが前時代的なラジカセを手にぶら下げて僕の隠れた部屋に入って来た。

「…ガーシュインだね。」

「うん。この前アイ・ガット・リズムを弾いていたでしょ?」

「この曲も好きだよ。奔放な青さが良い。」

ラプソディ・イン・ブルー。ピアノとオーケストラが織り成す新しい時代の朝焼けのようなシンフォニックジャズ。

「…カヲル君、みたいにね。」

「…僕は青臭いって事かい?」

「また捻くれた。青いはブルーノートの事でしょ。」

「ロミオは青臭いって言われたのかと思ってね。」

「じゃあ君はジュリエットのお尻を触ったんだ。痴漢野郎。」

僕はそのヘンテコな台詞に思わず吹き出した。

「…君は僕を慰めるのが上手だね。君にとって僕の青さって、何だい?」

「…自由、かな。」

そう言ってラジカセをベッドに置いてシンジ君はいきなり僕にしなだれ込んだ。上体を起こしたばかりの僕はまた、そのままシーツの上に倒れてしまう。僕に抱き付いて胸の上に顔を埋めたシンジ君の頭を支えながら、僕の心臓は爆発寸前だ。

「…シンジ君?」

「何も言わないで。このままで居て。」

小声で早口でそう呟いて、シンジ君は身を捩って頬を擦り寄せてきたから、僕は思わず喉を鳴らす。

「…どういう事?」

「…何も質問しなかったら、少し、触ってもいいよ。」

僕はそう言われたら口を噤むしかない。意味が分からずにそっとシンジ君を盗み見たら真っ赤な頬と熱っぽい深海の瞳に遭遇したから、僕はいよいよ心臓が飛び出しそうになる。きっとこの暴れまわる心音は君に聞こえてしまっているのだろう。僕は全身から汗が吹き出して上がる息を薄く口を開いて吐き出していた。そして試しにぎゅっと背中を抱き寄せてみる。

ふたりの胸や腰骨がより密着して、君が僅かに身じろぐ。僕らの胸の突起も勃ち上がった。そしてゆっくり背骨に沿って掌を這わすと、伏し目がちの君の睫毛が震えて小さく高い呻きが鼻から漏れ出てしまっていた。僕はその官能的な仕草に面白いくらい素直に下半身を膨らませてしまう。抑えが効かない。

「…カヲル君、勃起してる…」

「当たり前だろう。君が好きなんだから。健全な反応だよ。」

「…僕も、勃ちそう。」

僕はそれを聞くと全細胞が刺激されて、堪らずに腰を浮かして膨らんだそれを君に擦りつけてしまう。

「あ、…」

「だ、駄目だ…少し、なんて我慢できない…!」

僕は君を抱いて僕らの上下を逆転させる。そしてシンジ君に押し入るように深く大人のキスをした。食べるように舌を這わせて唇を動かすと、君はすんなりと僕を受け入れて口を開く。だから僕の舌は無我夢中で君を貪る。初めての快感に玉の汗が噴き出す僕の下で、シンジ君は篭った嬌声を時折僕の口内に響かせる。そして僕はその歓びを全身で体現するのだ。服の上からシンジ君を愛撫する。余す事なく、隅々まで。

僕らはしばらくすると息を乱してキスを手放す。そして互いに頬や唇を擦り寄せて愛しさを伝えるのだ。だから僕は裾をたくし上げて直に彼の素肌に触れた。腰、背中、胸、腹…それに答えてシンジ君は柳腰をくねらせて喘ぎ続ける。その泣きそうな響きは僕をもっと欲しがっていた。

それを見つけて僕が震える手で彼のズボンを膝まで脱がせてその腿裏から双丘までの曲線を指の腹で味わうと、彼の腰はしなりその下着は湿り気を帯びて更に高く突っ張ねてしまっていた。僕も窮屈な状態のままでそれを濡らしていると、今度はシンジ君が僕のズボンを下着ごと脱がした。解放された僕のそれは勢いよくバネのように跳ね上がる。それを知ったシンジ君は生唾を嚥下して、それからそっと僕の熱いそれを手に持ち摩り始めた。

僕は初めての強烈な刺激に目をむく。思わず大きく呻いてしまう。シンジ君の掌は生々しく予測不能に動いていて、自分で慰めるのとは訳が違っていた。上へ下へと愛しむようなそれは緩急や変化を織り交ぜて僕を悦ばせるから、僕の腰はその度にビクついた。そして同様にシンジ君の下着を脱がしてその行為の後を追うと、彼は刺激に耐え兼ねて唇の隙間からちらちらと赤い舌を覗かせてはらはらと熱い涙を溢してしまう。反り返った細い首から小さな喉仏が浮き上がりちろちろと揺らめいていた。

僕らは互いのそうした反応に熱中して、やがてその動線上で共に果てた。重なり崩れたふたつの身体は絶頂の余韻のままに互いの存在を確かめ合う。その最中、僕が掠れた声で彼の名前を呼んだ頃にガーシュインの狂詩曲はフィーネを描くのだった。その声に彼が微かに答える時、ラジカセがカチャッと終焉を鳴らした。その後に残ったのは僕らの未完成なセックスがぐしゃぐしゃに濡らした服とシーツの折り重なりと、不規則なリズムを刻むふたりの乱れた呼吸音だけだった。


深海のラヴソングが繋いだ抗えない愛が今、海の底で小さな産声を上げた。



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